顕正会脱会のススメ!

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国分ひろし@ Re:悪戯で書き込みする馬鹿どもへ お客様個人をどう傷つけたのでしょうか? …
2010.10.29
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 大聖人は『兄弟抄』に、

と仰せであります。
 末法濁悪の世に在って三障四魔、紛(ふん)然(ぜん)として競い起きるなか、正しい信心を貫きとおしていこうとすると、様々な困難に遭遇します。
 一般世間におきましても「好事、魔多し」と言われるように、好(よ)い事には往々にして邪魔が入り、ときには思いもよらぬ困難が襲ってくることもたびたびあります。しかし、「艱難(かんなん)、汝(なんじ)を玉にす」という言葉がありますように、人は多くの艱難を乗り越えてこそ、立派な人物になるのであります。
 先程の『兄弟抄』のなかには、
「此の法門を申すには必ず魔出(しゅっ)来(たい)すべし。魔競はずは正法と知るべからず。第五の巻に云はく『行(ぎょう)解(げ)既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏(おそ)るべからず。之(これ)に随へば将(まさ)に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ」(同九八六ページ)
と仰せであります。この御文のなかの「此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ」との御教示を、我々はよくよく拝すべきであります。
 特に本年「正義顕揚の年」は、先程申し上げましたように記念大法要、七万五千名大結集総会、記念総登山等、宗門未曽有の記念事業が執り行われます。また「全支部折伏誓願達成」の御命題もあります。こうした時には内外ともに必ず三障四魔をはじめ、あらゆる困難が我々の行く手を阻みます。

 とかく自分より力のある者、あるいは尊敬しなければならない人から信心を反対されると、強盛だったはずの信心が揺るぎがちになることもあります。よって、このような障魔が競い起きたときこそ、大難四カ度、小難数を知れず、あらゆる難を身をもって乗りきられた大聖人の御一代の御化導を拝し、我らもまた、いかなる困難・障(しょう)礙(げ)にも負けず、強盛に信心を貫きとおす覚悟を一人ひとりがしっかりと持つことが肝要であります。
 すなわち、三障四魔をはじめ様々な諸難が襲ってきたときこそ、信心が試されているのであります。障魔に打ち勝って一生成仏へ向かうか、あるいは障魔に負けて悪道に堕ちるかの大事な岐路に立たされているのであります。
 法華経の提婆達多品には、
「未来世の中に、若(も)し善男子、善女人有って、妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信(しん)敬(きょう)して、疑惑を生ぜざらん者は、地獄、餓鬼、畜生に墜ちずして、十方の仏前に生ぜん」(法華経三六一ページ)
とあります。
 私達はいかなる障魔に出遭うとも、ただ大御本尊様への絶対信を持って、疑念なく、浄心に信敬して、強盛なる自行化他の信心に励んでいくならば、御金言の如く、いかなる困難も、立ちはだかる障礙も必ず乗りきっていくことができるのであります。
 どうぞ各位には、本年の命題たる記念大法要、七万五千名大結集総会、記念総登山、さらに全支部折伏誓願達成へ向けて、異体同心・一致団結して、いよいよ御精進くださることを心からお祈り申し上げ、本日の挨拶といたします。

大白法・平成21年3月16日刊(第761号より転載)

 三月度広布唱題会の砌

御法主日顕上人猊下お言葉(平成十七年四月度 広布唱題会の砌)


 昔の歌で、
「心にも 及ばぬものは 何かあると 心に問えば 心なりけり」
という歌があります。我々の心というものは、実に不可思議であります。しかもその不可思議なことは、いつも迷いから迷いへと転じておるような、すなわち、どれが本当の自分か判らないような姿があり、これは世間の謗法の人達のなかには特に多いのであります。
 したがって、その心を正しく見るというところに、我々の仏道修行の真実の目的があります。心を正しく見るならば、おのずとその振る舞い、行業、生活のなかの功徳ははっきりと顕れてまいります。
 我々の心とはいったいなんでしょう。その実体はすなわち「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」と仰せあそばされた南無妙法蓮華経であります。我々は南無妙法蓮華経を仏様の御当体として、法として拝しておりますけれども、それはそのまま我々の心の実体なのです。ですから、我々の心の本質、本体、実体がそのまま南無妙法蓮華経であるということをはっきり知るならば、毎日の修行において、お題目を唱えることは絶対に必要なのであります。そうでなければ、我々の心は次から次へととめどなく狂いだして、不幸な状態を醸し出していくということが存するからであります。






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Last updated  2010.10.29 21:41:02


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