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河合奈保子さんは1985年8月7日にNAO&NOBU名義で高橋のぶ(伸明)さんとのデュエットのシングル「君は綺麗なままで」をリリースしました。この曲は、リリース前の時期にあたる7月24日のよみうりランドEASTでのライブ(「感電するゾ熱い夏」)に始まる夏のツアーで歌われたほか、私の知る範囲では「夜のヒットスタジオ」でも披露されています。なお、定かな情報ではありませんが、奈保子さんが「ミュージックフェア」で高橋のぶさんとMILKの二人をバッキングボーカルとして「海は恋してる」を歌ったことがありますが、この時、本来は「君は綺麗なままで」が披露される予定だったのが、同時期に起こった日航機墜落事故の影響で急遽変更されたという話をどこかで読んだ記憶があります。さて、奈保子さんと高橋のぶさんとの関わりがいつ頃からなのか、正確なところはわかりませんが、前に『DAYDREAM COAST』の記事に書いたとおり、84年のライブツアーでは、元々デイビッド・フォスターとのデュエット曲だった「LIVE INSIDE YOUR LOVE」を共演しています。これまた定かな情報でないのが恐縮ですが、Youtubeにアップされた録音の中で、何かのラジオ番組(ヤン火ではないとおもわれますが…)で高橋のぶさんをゲストに迎えた際、最初に会ったのがライブのためのリハーサルだったと言っているのを聞いた記憶があるので、それはこの84年のツアーだったのかもしれません。さらに記憶が曖昧ですが、奈保子さんはトランザムの印象からのぶさんのことを「ギンギンな人」とイメージしていたのが、実際に会った時にはTシャツか何かを着たごく普通の人だったので意外だった、というようなことをその番組の中で言っていたように思います(このあたり、記憶のみを頼りに書いているのでご了承ください…)。86年には「NAO&NOBU/N. TAKAHASHI with TRANZAM II」名義のアルバム『SKY NATIVE』がリリースされましたが、このアルバムA面の楽曲は「君は綺麗なままで」を含む、奈保子さんとのぶさんのデュエット曲で構成されています。さらに、「PURE MOMENT」ボックスのブックレットに掲載されている山田聡さん(日本コロムビアの奈保子さん担当ディレクター)の回想には高橋のぶさんが当時、芸映の原盤ディレクターの立場にあったとの記載を見て、あらためて確認してみると、アルバム『JAPAN』ではアシスタント・ディレクター、『Members Only』ではディレクターとしてのぶさんがクレジットされていることに今さらながら初めて気づきました。山田聡さんによると、当時「高橋伸明さんと、あとはNATURALのギタリストで音楽的にも奈保子から信頼されていた永島広さんと、彼女の作りたい音楽をどうやって商品として仕上げていこうかと、よく酒を飲んでは話していた」といいます。ちなみに、アルバム『SKY NATIVE』のディレクターは山田聡さん、B面のアレンジは「永島広 and TRANZAM II」となっていますので、「酒を飲んでは話していた」三人の中から生まれたプロジェクトだったのかもしれません。それはともかく、「君は綺麗なままで」はオリコンチャート24位どまりで、コンスタントにトップ10内に入っていた当時の奈保子さんのシングルとしては、セールス的に成功とは言い難い作品ですが、単にハウス「とんがりコーン」のCM曲で済ませるには惜しい魅力があります。奈保子さんとのぶさんの二人は共に硬軟併せ持つ表現力と音域の広さがあり、デュエットとして理想的な組み合わせだったと感じられます。普通、女性と男性のデュエットの場合、当然ながら女性のほうが上のパートを歌うことが多いわけですが、この二人の場合、奈保子さんはのぶさんより下の音域でも埋もれない低音の強さがある一方、のぶさんは高音での伸びと力強さが魅力でした。こうした二人の特徴がデュエットの展開に活かされています。「Let's harmony いま輝いて(美しく)」という歌詞そのままなハモりの輝かしさと美しさは、幸いにもDVD化されている85年のライブ「感電するゾ熱い夏」に収録された歌唱で余すところなく発揮されており、もちろん映像ゆえの臨場感もありますが、スタジオ録音をはるかに上回るパフォーマンスになっています。奈保子さんとのぶさんは、正確な時期は不明ですがFMスタジオ・ライブでの共演もありました。このライブでは「君は綺麗なままで」はもちろんのこと「ANGELA」「IF YOU WANT ME」など他の曲でものぶさんがコーラスで参加しているのが聴けます。「ジェラス・トレイン」でバックの "Jealous Train" のパートをのぶさんが担当しているのも面白いですが、何といっても圧巻は「君の瞳に恋してる(Can't Take My Eyes Off You)」で、これぞライブ!という活力に満ち溢れた素晴らしいパフォーマンスになっています。2015年に惜しくも逝去された高橋伸明さんですが、奈保子さんの歌手としての道のりの上でも、ソングライターとしての過程においても、重要な役割を果たされた方だったのだと思います。<参考文献>「PURE MOMENT」ブックレット DIRECTOR'S VOICE part2(山田聡)
2024.11.26
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「Deep Mountain Forest」と聞いてピンと来る人は、相当にディープな河合奈保子さんのファンと断言してよいかと思います。この曲は the Gentle wind名義で1989年10月1日にリリースされた全編インストのアルバム、『ティアズ・オブ・ネイチュア(Tears of Nature)』に収録されています。『Tears of Nature』はミッキー吉野さんと河合奈保子さんの共同プロデュースとしてクレジットされており、奈保子さんは全曲の作曲と、数曲でキーボードを担当しているほか、アルバムジャケットの写真も奈保子さんによるものが使われています(ちなみにWikipedia「河合奈保子」の項には本作について「バックボーカル参加」との記載がありますが、このアルバムにはボーカル入りの曲はありません)。アレンジはミッキー吉野さんを含む3名が担当しており、楽器編成はベースやギターなどに加えて、アコーディオンやフルート、オーボエ、フレンチホルンなどが使われています。ちなみに、ウェブ上の情報では作曲などのクレジットが「Naoko Kawai」となっているものがありますが、CDでは「NAHOKO KAWAI」つまり本名で表記されています。『JEWEK BOX2』のブックレットによると、これは89年頃から奈保子さんのプロデュースを担当したミッキー吉野さんの示唆があったようで「僕は、立場的に"彼女が言いたいことを表現させてやろう"としていたので、本人がどういうところに意志があるのかを突き詰めていきました」といいます。本名のクレジットもその一環だったようです。ちなみに、同時期のアルバム『Calling you』と『ブックエンド』も、ジャケットの表記は「Naoko」ですがコンポーザーとしてのクレジットは「Nahoko」になっています。アルバム『Tears of Nature』は、そのタイトルが示すように様々な自然のイメージから作られた曲を収録しています。ミッキー吉野さんによると、当時「彼女の言葉で言う"空間音楽"っていうのにこだわって」いたという奈保子さんですが、本作は明確に環境音楽(アンビエント・ミュージック)として制作されたものと言ってよいでしょう。音楽の中には風の音や波の音、あるいは鳥や虫の鳴き声など、「自然」の中にあるさまざまな音も取り入れられています。「Deep Mountain Forest」はアルバムの最後に収められており、3つの楽章(MOVEMENT)で構成されています。それぞれ5分ほどの曲なので、トータルで15分ほどになります。第一楽章と第三楽章のアレンジはミッキー吉野さん、第二楽章のアレンジャーは「DAISAKU KUME」となっており、作・編曲家およびキーボード奏者として著名な(久保田(久米)早紀さんの夫でもある)久米大作さんのようです。『Tears of Nature』の楽曲は、はっきりしたメロディーを持たずシンプルなモチーフの繰り返しで作られているものが多いのですが、「Deep Mountain Forest」はその中では比較的メロディーが明確に表れるところに特徴があります。また、いずれもAマイナー(イ短調)で書かれた三つの楽章にはそれぞれ関連性が見られます。第一楽章(1ST MOVEMENT)は「ラ-ミ-ミ-レ-ラ-レ-ラ-ミ」というモチーフー音程としては「4度」と「5度」の関係ですーが繰り返される上で、オーボエ、フルートとフレンチホルンが断片的ながら穏やかなメロディーを奏でます。その繰り返しにやがて鳥の声などさまざまな音が重なってゆき、徐々にフェードアウトして第二楽章(2ND MOVEMENT)に繋がります。第二楽章では、先の楽章の「ラ-ミ-ミ-レ-ラ-レ-ラ-ミ」のモチーフが変形されて五拍子の「ラ-ミ-ミ-レ-ラ-レ-ラ-ミ-ミ-レ」になっており、このパターンの繰り返しに断片的なピアノの音が重ねられます。第一楽章で出て来た木管楽器のメロディーがわずかに表れたりしつつ、途中で三拍子になり、ここで少しだけ盛り上がる気配を見せますがすぐに収まって、再び五拍子のパターンに戻ります。これもやがて静まっていき、最後は低音のピチカート音が断ち切るように鳴った後、ラ-ミのシンプルなコードで終わります。続く第三楽章(3RD MOVEMENT)は雷鳴の音で始まりますが、第一楽章の木管楽器による息の長いメロディー(ド-ソ-レ-ミ-シ-レ-ラ)が再現されます。やがてリリシズムを纏ったピアノが加わると、より広がりのあるイメージでこのメロディが繰り返され、最後はAマイナーの終止で締めくくられます。さて、歌が入らないから当然といえば当然ですが、この作品に「歌手・河合奈保子」の姿はまったくありません。「the Gentle wind」として制作されたCDにも奈保子さんの名前はなく、わずかにジャケット裏にプロデュースとして「NAHOKO KAWAI」と表記されているだけです。ですが、芸能界における「河合奈保子(かわいなおこ)」という立ち位置を封印(あるいは解放)して取り組まれたと思われるこのプロジェクトには、奈保子さんの音楽に対する志向が純化された形で表現されていると考えてもよいのではないかと思います。<参考文献>『JEWEL BOX2』ブックレット「今、彼女はもっといい歌がうたえるような気がする」(ミッキー吉野)
2024.11.25
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ショスタコーヴィチへの関心が手伝って、私は他にもソ連の作曲家の音楽をそれなりに聴いてきましたが、中でもガヴリイル・ポポーフは「知る人ぞ知る」たぐいの人物かもしれません。ショスタコーヴィチに比べれば知名度ははるかに低く、その作品が今日演奏される機会はおそらく無いに等しいと思われます。現在CDやサブスクで聴くことのできる録音も極めて少ない状況です。ですが、1935年に初演された彼の交響曲第一番は、個人的にはソ連時代に生み出された交響曲の中で最高の作品の一つに挙げられてしかるべき傑作と思っています。ポポーフは作曲家として、さまざまな面でショスタコーヴィチと近い道を歩んだ人物です。1904年生まれのポポーフは、ショスタコーヴィチ(1906年生まれ)と年齢が近く、ともにロシア革命後のソ連で音楽教育を受けた最初の世代にあたり、相互に親交もありました。二人ともレニングラード音楽院で作曲とピアノを学び、彼らの最初の交響曲はいずれもレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されました。ショスタコーヴィチの場合、卒業制作として作曲された交響曲第一番はソ連の文化政策がまだ比較的緩やかだった1926年に初演され、ブルーノ・ワルターらによって国外でも広く演奏されたことにより、彼の名声を一躍高めることになりました。これに対し、1935年に初演されたポポーフの交響曲第一番は、当局によってその翌日に演奏を禁止されるという憂き目に遭います。ショスタコーヴィチの交響曲第一番が初演された時期、ポポーフはまだ音楽院の学生でしたが、すでにショスタコーヴィチと並ぶ優れた才能の持ち主として頭角をあらわしていたようです。ローレル・フェイによると、ショスタコーヴィチと同様、ポポーフもメイエルホリド(ソ連の著名な演出家・劇場監督で、大粛正により犠牲となった人物)の活動に関わっており、映画音楽も手掛けていました。互いに似た境遇にあった二人の違いの一つは、作曲する「スピード」でした。ショスタコーヴィチの「速書き」は良く知られるところですが、ポポーフの交響曲第一番は完成までに非常に長い年月を要しました。1928年頃から構想されたこの曲は、1932年に開催された革命15周年を記念するコンクールで第二位(一位なし)を受賞しますが、なおもオーケストレーションに手を加え、2年後にようやく完成したと言います。そして1935年3月22日、フリッツ・シュティードリ指揮レニングラード・フィルによってようやく初演されるに至りました。海外ではオットー・クレンペラー、ヘルマン・シェルヒェンやエーリヒ・クライバーといった指揮者たちがこの曲の演奏を検討していたと言われます(クレンペラーはショスタコーヴィチの交響曲第四番の演奏も企図していたことが知られています)。初演の翌日、ポポーフの交響曲第一番は地元レニングラードの検閲機関によって「我々(=プロレタリアート)にとって敵対的な階級のイデオロギー」を表現しているとして禁止されました。ポポーフはこれに対して抗議し、ショスタコーヴィチをはじめとする著名な作曲家たちもこれに協力しました。この抗議は受け入れられ、数週間後に禁止措置は解除されます。ショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク群のマクベス夫人』が国内外で(好かれ悪しかれ)反響を呼んでいたこの時期、スターリンによる大粛清はまだ始まっておらず、それが演奏禁止の撤回という異例の措置を可能にしたと言えそうです。ショスタコーヴィチはポポーフの交響曲第一番に非常な感銘を受け、その影響は同時期に作曲されていた彼の交響曲第四番に顕著に表れていると言われます。しかし、翌年1月には『マクベス夫人』が『プラウダ』紙上の無署名記事「音楽のかわりの荒唐無稽」によって批判され、さらに無数の人々を処刑場や収容所送りにした大粛清が始まります。ショスタコーヴィチは自らの交響曲第四番の初演を「自主的に」撤回せざるを得ず、翌年の交響曲第五番の初演までいわば逼塞状態に追い込まれます。禁止措置が撤回されたポポーフの交響曲第一番もこの状況の中、事実上演奏不可能な状態になったと考えられます。その後、ポポーフはショスタコーヴィチと同様に、よりソ連の「公式路線」に沿った保守的な作風に転換したと言われますが、1948年の「ジダーノフ批判」によってふたたび「形式主義的」としてショスタコーヴィチらと供に糾弾されることになります。その後の二人がたどった道筋はある意味対照的でした。「ジダーノフ批判」を経てもなお、ソ連を代表する作曲家としての地位を保ち続けるとともに(ある意味では体制に利用されながらも)、その没後は「隠れた反体制派(closet dissident)」としてむしろ評価が高まっていったショスタコーヴィチに対して、ポポーフはアルコール中毒に冒されつつも作曲活動は続けましたが、「体制に従順な作曲家」という以上の評価を得ないままその生涯を閉じました。ショスタコーヴィチの交響曲第四番は作曲から四半世紀を経て1961年に初演されましたが、ポポーフの交響曲第一番は結局、彼の生前には一度も再演されることがありませんでした。現在でも聴くことができる録音は数種類しかなく(そのうち一つは飯森範親指揮・東京交響楽団によるものです)、その悲運は未だに続いているかのようです。しかし、ポポーフの交響曲第一番は紛れもなく時代を超えた傑作であり、その凄さはここに私が拙い筆を費やすまでもないものです。フェイはこの作品を「ソヴィエト第一世代の、裏切られた理想と打ち砕かれた夢の壮大な記念碑」と形容しています。彼の抜きんでた才能は、体制に迎合したとされる後の交響曲からでさえ(たとえ演奏や録音が理想的なものでないとしても)窺い知ることができるでしょう。<参考文献>Leon Botstein, London Symphony Orchestra『Popov Symphony No. 1, Op. 7』解説(David Fanning)Gennady Provatorov, Moscow State Symphony Orchestra, USSR Radio & TV Symphony Orchestra『GAVRIIL POPOV SYMPHONIES NOS. 1 & 2』解説(Per Skans)Laurel E. Fay "Music; Found: Shostakovich's Long-Lost Twin Brother" New York Times
2024.11.24
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エニワンズ・ドーター(Anyone's Daughter)というバンドをご存じの方が日本にどれくらいいるのかよくわかりませんが、とりあえず河合奈保子さんのファンより少ないことは間違いないところでしょう(笑)。Wikipediaドイツ語版の記事の量やYoutubeの再生回数などから推測するに、彼らの母国ドイツでも、知名度はそれほど高くなさそうです。ですが、ヘルマン・ヘッセの寓話を題材としたアルバム『ピクトルの変身(Piktors Verwandlungen)』は、彼らの代表作であるばかりでなく、私見ではプログレッシブ・ロックの「古典」の一つと言ってもよい名作です。1981年にリリースされた『ピクトルの変身』は、アルバムタイトルと同名の曲のみを収録した作品で、演奏時間が40分弱という長大な楽曲です。彼らのデビュー作『アドニス(Adonis)』も、タイトル曲は20分を超える組曲でしたが、それを上回る大曲です。演奏時間が20分前後の曲は、イエスやピンク・フロイドなどでも少なくありませんが、アルバム1枚で1曲というのはプログレとしても異例といえます(とはいえジェスロ・タルの『ジェラルドの汚れなき世界』など他にも事例はありますが)。後にCDとして再発された際には、10分ほど短い「デモ版」がボーナストラックとして追加されています。さて「エニワンズ・ドーター」というバンド名にも示される通り、彼らは西ドイツ(当時)出身ではありましたが、デビュー作『アドニス』、2作目の『エニワンズ・ドーター』までは、英語の歌詞を使っていました。3作目となる『ピクトルの変身』は、彼らにとって初めてのドイツ語による作品ということになります。といっても、この曲にはほとんどボーカルパートがなく、副題を持つインストパートの間にヘッセの寓話「ピクトルの変身」のナレーションが挿入されるというスタイルを取っています。ナレーション(Erzählung)は5つの部分に分かれており、インストパートを含めると全体で13のパートに分かれています。デビューアルバムに収録された「アドニス」はトータル演奏時間が約24分とはいえ、実質は異なる曲を組み合わせた「組曲」だったのに対し、「ピクトルの変身」の場合、物語に合わせて曲調を変えつつも切れ目なく演奏され、いわば「交響詩的ロック」とも表現すべき統一感を持った楽曲です。アルバムのライナーノーツによると、本作が世に出るまでには長い前史があったようです。もともとは、あるパーティーの際にメンバーの一人が「ピクトルの変身」を朗読したテープを持参し、そのバックにキング・クリムゾンやプロコル・ハルム(プログレの先駆的バンドとも言われます)の曲を流してみたところ皆が気に入ったので、彼ら自身の曲を作る試みが始まったと言います。ちなみにギタリストのウーヴェ・カルパによると、彼らの音楽的ルーツはクラシック音楽のほか、ディープ・パープル、エマーソン・レイク・アンド・パーマー、フォーカス(オランダのプログレ・バンド)、ジェネシス、マハヴィシュヌ・オーケストラ、リターン・トゥ・フォーエバー(アメリカのフュージョン・バンド)にイエスと、雑多ではありますが総じてプログレッシブ・ロックの影響が強いようです。なお、バンド名「エニワンズ・ドーター」はディープ・パープルのアルバム『ファイアボール』に収録された曲名から取られています。「ピクトルの変身」がいつ頃から演奏されていたのか正確なところは不明ですが、少なくとも1977年頃から頻繁に演奏されていたようです。ただ、CDのボーナストラックと本編で演奏時間が異なるように、同じ曲でもメンバーによって徐々に手を加えながら「ジグソーパズルのように」形作られていったといいます。アルバムリリースにあたって最大の障害となったのは、おそらくヘッセのテキストを使用する権利を獲得する交渉で、著作権を持つ出版社ズーアカンプ(Suhrkamp Verlag)に当初は拒否され、交渉は難航したようです。最終的にヘッセに関わるイベントにバンドが招待され、そこでの演奏を聴いた出版ディレクターがテキストの使用に同意したということです(同時に、多額の費用を支払う必要もあったようですが…)。なお、朗読を担当したベーシストのハラルト・バーレトによると、曲の最後の部分には聴衆へのメッセージとして原作にはない詞が追加されています。アルバム『ピクトルの変身』の特異な点はもう一つあり、何と収録された録音はライブ演奏によるものなのです。ですが、長大な構成だけでなく複雑なリズムや難技巧を要する「ピクトルの変身」ですが、アルバムに収録された録音ではまったく破綻なく演奏されており、予備知識なしに聴けば、これがライブであると気づく人はほとんどいないでしょう。特にキーボード担当のマティアス・ウルマーのテクニックが光り、バーレトによる朗読は抑揚をつけつつも淀みなく流れ、音楽と違和感なく融合しています。曲の最後、Aマイナーの長大なコードの途中から聴衆の歓声が入るとようやくライブであることがわかる、という趣になっています。ドラマーのコノ・コノピクによるとレコーディングはハイデンハイムのコンツェルトハウスでのライブで行われ、その演奏から「何一つ変更されていない」と言います。原作であるヘルマン・ヘッセの「ピクトルの変身」は、作者自身が挿絵を描いており、Wikipedia日本語版には「1925年」と表記されていますが、これはおそらく出版年であり、執筆されたのは1922年、彼の代表作の一つである『シッダールタ』の数か月後に書かれたようです。私の手元にあるズーアカンプ版 "Piktors Verwandlungen" には挿絵と自筆の原文があわせて掲載されています。ドイツ語でわずか7ページほどの短編ですが、主人公であるピクトルの変身を描いた物語は「一体性を成り立たせる二極性(der Zweipoligkeit der Einheit)」という哲学的なテーマを含んでおり『シッダールタ』で表現された主題とも通底する寓話となっています。ヘッセはこれを「愛のおとぎ話(Ein Liebesmärchen)」と名付けたそうです。本作はプログレ好きにはもちろん、ヘッセの文学に関心のある方にも聴いていただきたい一枚です。<参考文献>『ピクトルの変身』ライナーノーツ(Stefan Oswald)『アドニス』ライナーノーツ(Stefan Oswald)Hermann Hesse "Piktors Verwandlungen"
2024.11.23
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河合奈保子さんのシングル曲「MANHATTAN JOKE」は、21枚目のシングルとして1985年6月12日にリリースされました。シングルのA面は「デビュー」ですが、いわゆる「両A面」扱いのため、Wikipediaの項目は「デビュー/MANHATTAN JOKE」となっています。『河合奈保子ゴールデン☆ベスト』では『B面コレクション』のほうに収録されています。この曲はアニメ映画『ルパン三世 バビロンの黄金伝説』のテーマ曲として使われました(といっても私はアニメのほうは見たことがありませんが…)。作曲・編曲は長年にわたり『ルパン三世』シリーズのサントラを手掛けたことで知られる大野雄二さん、作詞は秋元康さんです。ちなみに秋元さんが作詞を担当した奈保子さんの楽曲としては、ほかにアルバム『SKY PARK』に収録されている「アリバイ」や「恋のハレーション」があります。この「MANHATTAN JOKE」ですが、音楽的な面では河合奈保子さんのシングル曲の中でも屈指の魅力を持つ作品だと個人的には思っています。イントロからシンコペーション満載で作られたこの曲は歌詞のとおり「素直じゃな」いシャープなリズムが全曲にわたって連続し、メロディーラインもBメロからサビにかけて動きが激しいだけでなくスタッカートとレガートを織り混ぜたフレージングになっており、そのうえパワーも要求されるため、歌いこなすのはたいへん難しい曲だと思われます(このあたりは、譜例を示すことができればわかりやすいかと思いますが…)。加えて、大石さんのジャジーなサウンドにマッチする歌声も必要になります。逆に言えば、この曲では奈保子さんのリズムセンス、発音の良さや歌声の伸びといった歌唱の魅力が遺憾なく発揮されています。歌詞については、正直なところ映画を見ていないのでシナリオとの関係も含めて私にコメントできる要素は少ないのですが、サビのリズムに「MANHATTAN JOKE」という言葉を当てたのは、音楽の「アーティキュレーション」としての側面から見るとたいへん面白い(歌う側にしてみれば難しい)試みだと思います。「デリカシー」や「黄昏ブルー」のところで書きましたが、奈保子さんの「ま(MA)」の発音に嵌まっている私(笑)としては、この曲に惹かれる要素の一つであると言えましょう。「MANHATTAN JOKE」は曲の作り方としても特徴があり、大きな構成としてはA-B-C-間奏-A-B-C-Cと非常にオーソドックスなのですが、細かく見ると、曲のほとんどの要素が実はAパートの最初の4小節「ネオンのピアスが弾けた Rainy Night」の部分に凝縮されており、曲全体がそのバリエーションのようになっていることがわかります。さらに小さな要素に分解すると、この曲の基本となるリズムは出だしの部分「ネオンの…」に出てくる(八分休符)+八分音符+十六分音符×2 という形とみなすことができます。この<八分音符+十六分音符×2>という「長短短」の形は、用語としては「ダクテュロス」と呼ぶそうですが、「MANHATTAN JOKE」の場合はこれが八分休符一個分ずれてシンコペーションになっているのが特徴です。ダクテュロスのシンコペーションは、普通「短短長」のリズムで「アナパイストス」と言われるようですが、この曲の場合「短短長」の形がそのまま表れることは少ないので、専門的にはどう見るのかわかりませんが、ここでは「ダクテュロスのシンコペ」ということにしておきます…と言葉で書いてもわかりにくいと思いますが、要は一番最初の歌詞「ネオン」のリズムを思い浮かべていただければよいかと思います。ちなみに、ここで「ダクテュロス」とか「アナパイストス」といった用語をわざわざ持ち出したのは、じつはこのリズム形をショスタコーヴィチが多用しており、チェリスト兼研究者であるアレクサンドル・イヴァシュキンが、これをロシアの宗教音楽などとの関わりで論じている文章を今たまたま読んでいるのが原因だったりします…で、「ダクテュロスのシンコペ」がこの曲の基本リズムとなっているは、たとえばCパート(サビ)の「MANHATTAN JOKE」の形が、音型は異なりますがAパートに出てくる「Rainy Night」と同じリズムになっており、かつこの「Rainy Night」は冒頭の「ネオンの」のリズムが十六分音符一個分だけ変化したものであることに表れています。いっぽうBパート「愛はいつでも…」の方はどうかと言うと、これはAパート2小節目「(ピアス)が弾けた」のリズムと、冒頭の「ネオン」のリズムを組み合わせた形になっています。最初の4小節に曲の要素が凝縮されている、と書いたのはこのような理由によります。また、ホーンセクションによるイントロの音型も、「ネオン」のリズムを引き延ばした形と解釈することができそうです。このように見ると、一聴した限りでは変化に富んで聴こえる「MANHATTAN JOKE」が、じつはシンプルな要素を巧みに変化させて組み合わせながら作られた曲であることがわかります。聴く側が(おそらく)これをあまり意識しないのは、奈保子さんが同じリズムでも表現に変化を付けて歌っていることによるところが大きいと思われます。このためにA、B、Cそれぞれのパートが明確に違う色合いを与えられていることで、起伏に富んだ音楽として聴こえます。また、Bパートでの表情の付け方や、サビの最後の部分「支えきれないハート」「抱きしめてよ あなた」でのアクセントやスタッカートの付け方なども、個人的にはツボなところです。ということで、素人アナリーゼめいたことを長々と書いてしまいましたが、思わずそんな無理をしてしまうほど「MANHATTAN JOKE」は魅力的だと言いたい、ということにしていただければ幸いです。この曲はA面扱いだったこともあってか、カップリングの「デビュー」ほど頻繁ではないもののテレビ番組で披露され、コンサートでも歌われました。映像作品として視聴可能なものとしては、NHKの「河合奈保子プレミアムコレクション」に収録された「レッツゴーヤング」での歌唱と、85年のバースデーライブ「感電するゾ熱い夏」の2種類あります。これらを見ると、シングルバージョンと比べてテンポがとてつもなく速いのに驚かされます。テレビの場合は尺の問題などもあったのかもしれませんが、歌唱の勢いやライブ感という面で、スタジオ収録とは異なる魅力があります。<参考文献>Alexander Ivashkin編著 "Contemplating Shostakovich: Life, Music and Film"
2024.11.22
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『ショスタコーヴィチの証言』(以下『証言』)の出版直後、ソ連の雑誌『リテラトゥールナヤ・ガゼータ』に『証言』の著者ヴォルコフを非難する「見え透いた偽物:D.D.ショスタコーヴィチのいわゆる「回想」について」という記事が掲載されました。この記事には、ヴェニアミン・バスネル、モイセイ・ヴァインベルク、カラ・カラーエフ、ユーリ・レヴィティン、ボリス・ティシチェンコ、カレン・ハチャトゥリャーンの6人の作曲家が署名しており、いずれも生前のショスタコーヴィチを良く知る生徒、もしくは弟子筋にあたる人びとでした。アラン・B・ホーとドミトリイ・フェオファノフによる“SHOSTAKOVICH RECONCEDERED”(以下『再考』)は、この「見え透いた偽物」(以下「偽物」と表記)の記事を引用したうえで、これを「偽物」と見なす立場を取っています。ですが、これまで書いてきたとおり、『再考』における文献の「引用法」には注意する必要があります。『再考』のp. 61に掲載された「偽物」の記事は、特にその前半部分でかなりの文章が略されています。ここでは、ショスタコーヴィチが自身の作品に対して「一貫して控え目で慎み深かった」のに対し、『証言』では作曲者が自作の「内容」について解説や解釈を述べている点が批判的に指摘されています。これに加えて、1936年の『プラウダ』紙上の批判や1948年のジダーノフ批判に対して、ショスタコーヴィチが「正しさ」と「偉大さ」をその音楽の中に示したことなどが述べられています。また最後の部分で、ショスタコーヴィチの家族が出版社に対し『証言』の原稿送付を要求したのに対し、アメリカの出版社が応じなかったことなどに言及した箇所が、『再考』の記述では抜けているのですが、ここに省略を示す[…]はありません。これが意図的なものなのか、単なるミスなのかは不明です。『再考』における「偽物」の記事は、元の分量の半分から三分の一程度に省略されているのですが、総じてショスタコーヴィチの人柄を称えるような部分が削られている印象を受けます(同時に、ソ連の「公式路線」を踏まえた文脈も省略されているのは、著者らの姿勢からすればむしろ不思議なところではありますが)。なお、ショスタコーヴィチが自作の具体的な意味や解釈についてほとんど語ろうとしなかった点は、多くの人々が「証言」している点であり、『証言』に述べられた自作の具体的な「意味」を支持する立場を取る『再考』が、この部分を略していることは注目してよいでしょう。『再考』では上記の記事「偽物」と一緒に掲載された社説記事「南京虫」も引用していますが、元の記事から大幅に短縮されており、こちらは記事冒頭部分の省略が明示されていません。この後、『再考』は「偽物」と「南京虫」の記事は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に描かれる「真実庁」のような「嘘と歪曲とほのめかし」に満ちていると言います。たしかに「南京虫」の記事は、ショスタコーヴィチを忠実な共産主義とするソ連の「公式見解」が顕著に表れていますが、「偽物」の記事はそれとはかなり趣を異にする内容であり、これらを単純に同類のものとみなすのは適切ではありません。『再考』は「偽物」に対する批判として、6人の作曲家達がヴォルコフを知らないことを示唆しようとしているが、実際はバスネル、カラーエフ、ティシチェンコの3人は個人的にヴォルコフと知り合いであったと言います。そしてカレン・ハチャトゥリャーンは『ソヴェツカヤ・ムーズィカ』での仕事からヴォルコフを知っており、残る2人もヴォルコフが作曲家連盟に所属していたことと、彼の「良く知られた」著作 ‟Young Composers of Leningrad” から少なくともヴォルコフの名前は知っていただろうと主張しています。ティシチェンコとヴォルコフが知己であったことは確実ですが、バスネルとカラーエフについては根拠が明示されておらず不明です。とはいえ、そもそもこの6人がじっさいにヴォルコフを知っていたかどうかはさして重要な問題ではありません。というより、ティシチェンコの場合に顕著ですが、彼らはむしろヴォルコフのことを知っていたからこそ『証言』の内容に憤慨した可能性が高いとも考えられます。なお、ティシチェンコとヴォルコフの関わりについては、別に改めて書きたいと思います。次に、ショスタコーヴィチがヴォルコフの著作に序文を書いたことなど、『証言』以前の二人の関係が無視されていると言いますが、これも本質的な問題ではありません。仮にショスタコーヴィチが心底ヴォルコフの著作に感銘を受けて序文を書いたとしても、それが直ちに『証言』の信憑性を証するわけではないことはファーイの論文を読めば明らかです。そして最後に、ソ連の音楽家たちの間では、ヴォルコフがショスタコーヴィチの回想に取り組むために彼と会っていたことは広く知られていたが「偽物」の記事はこれを無視していると言い、さらにボリス・チャイコフスキー、シチェドリン、スヴィリードフ、ウストヴォーリスカヤなどが記事への署名を拒否したと述べたうえで、6人の作曲家達は当局による圧力もしくは個人的な事情で署名した、と述べています。まず前半の部分については、ヴォルコフがショスタコーヴィチに関する著作に取り組んでいたことはイリーナ・ショスタコーヴィチやティシチェンコらも認識していたことであり、ヴォルコフ自身公言していたと考えられることから特段異とするに値しません。そして、彼らはヴォルコフによる『証言』に実際に何が書かれているかを事前に知らなかったからこそ、その出版後に抗議したと考えられます。いっぽう、4人の作曲家が署名を拒否としたという点については、ウラジーミル・ザクの記事と「ヴォルコフと著者らの会話」を根拠としています(注釈60)。ザクの記事「ショスタコーヴィチのイディオム」は『再考』の中に収録されていますが、この記事は6人が強制されて署名したという根拠を何も示していません(p. 504)。ヴォルコフを批判するヤクーボフのコメントに対して「何の根拠もない」という著者たちは、このザクの著述については何の疑問も呈していないようです。また、ザクの記事でヴォルコフを非難する署名を拒否したとされるのはボリス・チャイコフスキーとスヴィリードフの二人だけです。したがって、シチェドリンとウストヴォーリスカヤも署名を拒否したという話の出所は「ヴォルコフと著者らの会話」と見なすのが適当でしょう。この当否について判断できる材料は私にはありませんが、シチェドリンはショスタコーヴィチの生徒や弟子筋にあたる人物ではないため、署名した6人とは立場が異なります。いっぽう、ウストヴォーリスカヤはレニングラード音楽院でショスタコーヴィチの生徒でしたが、音楽的にも人間的にも彼について否定的な発言を残しています(ustvolskaya.org ウェブサイト)。加えて、彼女の作品はソ連時代にはほとんど演奏されることがなく、ソ連音楽界の頂点にいたショスタコーヴィチとは対極の境遇にありました。地元のレニングラードを除けば、存在自体をほぼ無視されていたウストヴォーリスカヤにソ連当局が署名を求めることは考えにくいでしょう(陰謀論的に考えればいくらでも「可能性」は考えられますが)。<参考文献>Alan B. Ho and Dmitry Feofanov編著 "SHOSTAKOVICH RECONSIDERED"Malcolm Brown編 "A Shostakovich Casebook"ウェブサイト ustvolskaya.org
2024.11.21
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80年代末から90年代後半にかけて、日本ファルコムは「ファルコム・スペシャル・BOX」と銘打った3枚~4枚組セットのボックスCDを発売していました。Wikipediaの記事によると、1988年末に発売された「スペシャル・BOX '89」が最初で、96年末の「スペシャル・BOX '97」が最後となり、その後2003年末に「スペシャル・BOX 2004」として一度だけ復活しています。この2004年のBOXは『イースVI -ナピシュテムの匣-』のサントラを別とすると音楽CDではないので、ちょっと特殊なものということになります。さて、「スペシャル・BOX」シリーズは、特に初期の作品で意外な人物が関わっているものがそこそこあるのですが、今回取り上げる「スペシャル・BOX '90」ではDISC1で元スペクトラムのメンバーである渡辺直樹さんがヴォーカル(1曲)、奥慶一さんがアレンジ(2曲)で参加、DISC2ではファンが聞いたら驚くでしょうがANTHEMが2曲担当し、DISC4では1曲のみですが羽田健太郎さんによるアレンジ曲があります。また、DISC1で奥慶一さんがアレンジを手掛けた2曲以外の3曲は、河合奈保子さんのアルバム『STARDUST GARDEN』でもアレンジを担当している新川博さんが手がけています。DISC1は「VOCAL」と題して「イース」や「ソーサリアン」シリーズのボーカルアレンジを収録していますが、改めて聴いてみると上述の渡辺さんがヴォーカルを務め、奥慶一さんがアレンジした「STAR TRADER」が印象的です。ブラスとバンドが融合した(今となっては貴重な)スペクトラムとはまったく異なるサウンドですが、渡辺さんのソフトな歌声とテクニカルなギターが加わるこの曲は特に完成度が高いと感じます。なお、DISC1に参加している歌手の南翔子さんは渡辺さんの妹で、「レッツゴーヤング」などへの出演歴もあるようです。ファルコムのボーカルシリーズでは人気が高かったようで、後に『Ys I』と『II』の楽曲をボーカルアレンジした『フィーナ』というアルバムもリリースされています。個人的に「イース」シリーズのボーカルアレンジの中で最も良くできていると感じる曲「Endless History」を歌ってるのも南翔子さんです(『Perfect Collection Ys』に収録)。もう一人ボーカルで参加しているチャリートさんは、フィリピン出身のジャズシンガーです。「HEAVY METAL」と題したDISC2は、やはりANTHEMによる2曲が目立ちます。「PROTECTERS」は『Ys II』のボス曲で、イントロ以外はほぼ原形をとどめないほどアレンジされてしまっていますが、ANTHEMなので良いことにしましょう(笑)。ちなみに「PROTECTERS」という表記はスペルミスで、正しくは「PROTECTORS」とすべきですが、CDの表記に従います。余談ですが『Ys II』には、物語序盤で病に冒されているヒロイン、リリアの家で流れる「APATHETIC STORY」という曲もありますが、これだと「無関心な物語」という意味になってしまうので、おそらく「A PATHETIC STORY(痛ましい物語)」の誤りと思われます…『Ys I』と『II』はこの種のおかしな英語タイトルがいくつかあるのですが、その後のリメイク版でもあえて修正せずにそのままとしているところはかえって潔く、またファンの思い入れを壊さない配慮も感じられるところでもあります(『Ys I & II Chronicles』のサントラでも「PROTECTERS」と表記されています)。ANTHEM以外の2曲は、90年以降J.D.K. BANDとしても活動する岸本友彦さんらによるものです。DISC3は「New Age Music」と題して、「イース」や「ソーサリアン」シリーズの楽曲をピアノとストリングスにより、落ち着いたムード音楽的な雰囲気に仕立てています。良くも悪くも、喫茶店あたりで流れていたら元がゲームミュージックだとは気づかないようなアレンジになっています。DISC4は「イース・アニメ・スペシャル・サントラ」で、当時発売されたOVAのサントラを収録したもので、一部セリフを収録されているためCDドラマ的な趣もあります。11曲目に収録されているのは羽田健太郎さんによる『交響曲イース』からの抜粋ですが、『Ys I』エンディング曲「THE MORNING GROW」をオーケストラアレンジしたものです。というわけで、初期の「スペシャル・ボックス」はアレンジものが目立つ構成だったのですが、後のボックスになると、他では聴けないオリジナルサントラやCDドラマが中心となります。そのあたりはまた機会があれば書きたいと思います。
2024.11.20
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「メビウスの鏡」に続いて、河合奈保子さんのシングルB面曲を紹介したいと思いますが、今回は1985年3月のアルバム『STARDUST GARDEN』と同日発売となったシングル「ジェラス・トレイン」のB面に収録されていた「ファーストネームでもう一度」です。こちらも作曲は筒美京平さん、作詞は売野雅勇さんですが、アレンジは萩田光男さんによります。個人的には萩田光男さんと言うと、「異邦人」をはじめとする久保田早紀さんの楽曲アレンジの印象が強いですが、奈保子さんの曲ではシングル「北駅のソリチュード」、「ラヴェンダー・リップス」や「涙のハリウッド」に加えて、アルバム『STARDUST GARDEN』では「海流の島」「スターダスト・ガーデン」の2曲の編曲を手掛けています。「ファーストネームでもう一度」を改めて聴いてみると、歌い出しのメロディーがどことなく70年代歌謡曲風な雰囲気を感じさせるのに加えて、何かの曲に似ているような気がしていたのですが、考えてみたらビートルズの「Yesterday」だということに気づきました。この曲のAメロで「(彼女とうまくいってないこと)知らん顔しても」という箇所と「Yesterday」の歌い出しの "(Yesterday) all my troubles seemed so far away" の上昇音型がよく似ているのです。もっとも、これは意図的な「引用」ではなく、たぶん偶然似ただけだとは思いますが、もしかしたら「ファーストネームでもう一度」がどことなく懐かしさを感じさせる一因でもあるかもしれないと思ったりしています。もしも仮に、この類似が意図的なものであれば、それは「過ぎ去った日々」の暗喩と捉えることも可能でしょう(このような解釈は、引用に満ちたショスタコーヴィチの音楽を聴きすぎたせいかもしれませんが…)。ちなみに、キーで言うと「ファーストネームでもう一度」はBメジャー(変ロ長調)なのに対して「Yesterday」はFメジャー(ヘ長調)なので、詳細は省きますが「属調」の関係になります。さて、このある種回顧的なメロディーに触発されたのか、売野さんの歌詞も「ファーストネーム」で呼ばれていた過去を振り返りつつ(といことは、今はファーストネームで呼んでくれないことが示唆されるわけですが)、その失われた時を取り戻そうとする儚い希望をうたっているようです。「儚い」と書いたのは、「あの頃のように名前で呼んでよ」という女性の望みは、明るい曲調にも関わらず、なぜか叶えられなさそうに私には感じられるからです。これはたぶん奈保子さんの歌い方にもよるところで、河合奈保子×筒美京平×売野雅勇トリオのひとつの「到達点」を示した傑作と言えるA面のドラマチックな「ジェラス・トレイン」とは対照的に、明るい声色ながら表情は控え目に、何気ない歌い方をされています。曲の構成はA-B-B´-A-B-B´-B-B´というシンプルな形を取っており、アレンジも間奏やアウトロでサックスが印象的に使われている以外は特別に目立ったところはありません。前述のとおりAパートが回顧的な雰囲気なのに対してBパートはよりポップな曲調になるのですが、B-B´の中で「あの頃のように名前で呼んでよ」と繰り返し相手に促す中で、2度目のB´のところでは「あの頃のようにあなたを呼んだら 懐かしくて涙が 止まらない」と想いが吐露されます。また、音域があがるB´の終わりの部分には「ずっと逢いたかった」「ずっと悲しかった」といった切ない歌詞があてられています。同時期のアルバムである『STARDUST GARDEN』で幻想世界まっしぐらの歌詞を書いていた売野さんですが、この曲の歌詞に表れたリリシズムもなかなか魅力的です。80年代に入ってニューミュージック系の楽曲がアイドルポップスのジャンルに取り入れられる中で、河合奈保子さんの初期の楽曲は、むしろ70年代歌謡曲の雰囲気を色濃く残していたことは前に書いた気がします。やはりメロディーラインに歌謡曲的な要素を感じさせる「ファーストネームでもう一度」での奈保子さんの歌い方は、デビュー当初と比べると「何気なさ」の中にさまざまな想いが込められており、それがメジャー調の、どちらかというと目立たない曲ゆえにかえって引き立つように感じられます。このあたりは、やはりデビューから5年間の歌手としての経験が反映されているのではないでしょうか。
2024.11.19
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河合奈保子さんのアルバムについて順番に書き続けて1985年3月にリリースされたアルバム『STARDUST GARDEN -千・年・庭・園-』までたどり着きましたが、前に述べたとおり、この時期のアルバムにはシングル曲が1曲も含まれてません。このため、良作が少なくないシングルについてほとんど触れないまま書き進めてきてしまいました。そこで少し時期を遡って、1984年頃のシングル曲についても紹介したいと思います。といっても、やっぱりあまり知られていない(と思われる)曲から、ということで、シングルB面曲の紹介です。「メビウスの鏡」は、1984年8月28日、アルバム『DAYDREAM COAST』と同日発売となったシングル「唇のプライバシー」のB面に収録された曲です。A面の「唇のプライバシー」と同じく、作曲は筒美京平さん、作詞は売野雅勇さん、編曲は鷺巣詩郎さんによる作品です。前にアルバム『Summer Delicacy』B面収録の「メビウスのためいき」について書いた記事で、売野さんはこの曲に触発されて「メビウスの鏡」の歌詞を作ったのではないか、と述べましたが、もちろんそれは「メビウス」、「鏡」というワードからの憶測に過ぎず、「チャイナタウン・ラプソディ」の出だしではありませんが「手がかり」は残っていません。曲調も、来生たかおさんによる「メビウスのためいき」と筒美京平さんの「メビウスの鏡」ではまったく異なっており共通点はありません。そもそも売野さんはまさに「チャイナタウン・ラプソディ」など他の曲でも「鏡」というワードを好んで使っており、単なる偶然の一致かもしれません、というかその可能性のほうが高いでしょう…それはともかく、この曲は良い意味で「B面にふさわしい曲」と言っても良い面があるように感じられます。A面の「唇のブライバシー」は、危険な香りのする歌詞に加えて起伏に富んだ展開、そしてロングトーンで「吼える」奈保子さんの歌声(+振付の妙)で、否応なしに聴き手を惹きつける魅力があります。これに対してB面の「メビウスの鏡」は、必ずしも地味というわけではないのですが、同じスタッフにより作られた、同じくマイナー調アップテンポの曲でありながらずいぶんと趣を異にしており、「迷い込んだ記憶の森 愛は消える迷路」「誰もいない風の部屋で 自動ピアノ鳴ってる」といった売野さんによる歌詞も、かなり謎めいた世界になっています。曲の構成は(A-B-C-間奏-A-B-C-C)という形のオーソドックスな形になっています。鷺巣詩郎さんによるテクノポップ調のアレンジがスリリングな雰囲気を醸し出すのに対して、メロディー自体は綺麗なのですが最高音はシ(H3)と奈保子さんの曲としては低めで、本来サビにあたるCパートも過剰な盛り上がりを避けており、私が「B面向き」と感じるところです。この曲での奈保子さんの歌い方も、A面の「唇のプライバシー」のような表出力を封印していますが、歌詞と曲調に絶妙にマッチしており、決して声を張り上げず、吐息を感じさせるような柔らかさでありながら、同時にまた糸が張るような緊張感もあり、この歌声が「心象風景」というよりは「心理風景」的な曲の世界を見事に表現しています。加えてそのバックに絡むEVEのコーラスが、音楽のハーモニーに奥行きを与えています。私は先日、この曲をイエスの『90125』の後に聴いたものですから、奈保子さんの歌声の持つ深みがなおさら際立って聴こえたのでした(いや、決して『90125』のジョン・アンダーソンやトレヴァー・ラヴィンを悪く言うつもりはないのですが…なにぶんこのアルバムはストレートに「ポップ」すぎるのです…)。余談ながらイエスのアルバム『90125』は1983年11月リリースですので、奈保子さんの作品で言うと『HALF SHADOW』の直後の時期にあたります。ちなみに「メビウスの鏡」のキーはC#マイナー(嬰ハ短調)ですが(私のいい加減な耳には最初半音違うDマイナーに聴こえたことを告白しておきます…)、クラシックの有名な曲で言うと「月光」として知られるベートーヴェンのピアノソナタ第14番があります。「メビウスの鏡」には「月」という単語は使われていませんし、ジャンルも曲調もまったく異なるものの、暗い響きのイメージに何かしら近いものがあるのは感じられるのではないでしょうか。さらに余談ですが、ベートーヴェンの「月光」は、ショスタコーヴィチの最後の作品となったヴィオラソナタに引用されています。アルバムに収録されていない「メビウスの鏡」は、おそらくCDとしては『河合奈保子ゴールデン☆ベスト B面コレクション』でしか聴けないのではないかと思いますが、前にも書いたとおり奈保子さんのシングルB面曲には良作が少なくない、というか数多くありますので、ぜひ『A面コレクション』と一緒に聴いていただきたいところです。
2024.11.18
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さて、前回の記事では"SHOSTAKOVICH RECONSIDERED"(以下『再考』)のイリーナ・ショスタコーヴィチに関する記述について考察しました。その際に触れたVAAPの文書からの引用に続けて、『再考』は以下のように述べています。<『再考』の記述>「ソ連共産党中央委員会は、ショスタコーヴィチがヴォルコフとともに回想録に取り組んでいたことに疑念を抱いていなかったようである。中央委員会のアーカイブには『証言』の出版以前のいくつかの文書が含まれており、ボグダーノワによると、その中のいくつかは、ショスタコーヴィチが「自身の自伝を雑誌『ソヴェツカヤ・ムーズィカ』の代表であるソ連の音楽学者S.M.ヴォルコフに語った」様子を詳述するものがある」(”SHOSTSKOVICH RECONSIDERED” p. 77より)この記述を読むと、一見『ショスタコーヴィチの証言』(以下『証言』)の「信憑性」を裏付ける史料がソ連のアーカイブにあるかのような印象を受けます。ですが、この記述の注釈(108)に典拠として記載されているのはボグダーノワの著作ですので、ホーとフェオファノフはロシアのアーカイブを直接調査したわけではなく、あくまでボグダーノワの著作に依拠している、と見るのが適切でしょう。このボグダーノワの記事は、やはり“A Shostakovich Casebook” に収録されています。元がロシア語のため、”Shostakovich Reconsidered”と“A Shostakovich Casebook”では若干文章が異なりますが、比較すると興味深いことがわかります。まず、ボグダーノワは記事の冒頭で上記のVAAPの文書と、その後ショスタコーヴィチの家族(イリーナと長女ガリーナ、長男マキシム)が『証言』の出版社に送った手紙について説明し、その後に以下の記述が続きます。<ボグダーノワの記述(”Notes from the Soviet Archives on Volkov’s Testimony”)>これらの二つのドキュメントは、厳密に言って、ヴォルコフの回想の出版に関するセンセーショナルな話に付け加えることはほとんどない。しかし、これらは、ショスタコーヴィチがどのように「『ソヴェツカヤ・ムーズィカ』の代表として名乗り出たソ連の音楽学者ソロモン・モイセーヴィチ・ヴォルコフとの対話の中で、自身の人生について語ったか」について詳述している。(”A Shostakovich Casebook” p. 92)つまり、ボグダーノワが述べる「ドキュメント」とは、具体的には前述のVAAP文書と、ショスタコーヴィチの家族から『証言』の出版社への手紙(ショスタコーヴィチの名前と著作権を保護することに関する責任について認識することを求める簡潔なもの)です。そしてショスタコーヴィチがヴォルコフに語った内容は、繰り返しになりますが、イリーナの認識としては既知の事柄しか含んでいませんでした。ボグダーノワは、VAAPをはじめソ連当局がカウンター・プロパガンダのためにショスタコーヴィチを利用しようとしたことについて同記事の中で述べていますが、既に紹介したVAAP文書の内容を踏まえれば、これらの文書が『証言』の出版にまつわる話に「付け加えることはほとんどない」と述べているのはもっともなところです。ちなみにボグダーノワは、同じ記事の後の方では「ヴォルコフの本は、作曲家[ショスタコーヴィチ]について以前に知られていなかったことは本質的に何も含んでいない」にも関わらず、『証言』の出版はかなりの騒ぎを引き起こし、著者に良い宣伝効果をもたらした後、ようやく収まったとも述べています。ボグダーノワが「ヴォルコフの回想(Volkov’s memoirs)」と記述したり、『証言(Testimony)』のことをカッコつきで「回想”Memoirs”」と述べている点も踏まえれば、ボグダーノワの立場は明らかでしょう。ところが『再考』は、記述の順序を変えて、VAAP文書の抜粋(ボグダーノワの記事からの部分的な切り取り)の後で、元々はVAAP文書とショスタコーヴィチの家族による手紙に関するボグダーノワの説明(の切り取り)を紹介することで、あたかも旧ソ連のアーカイブの中にショスタコーヴィチが自身の回想をヴォルコフに語っていたことを示すドキュメントがあるかのような印象を与えようとしているようです。ちなみに「ソ連共産党中央委員会は、ショスタコーヴィチがヴォルコフとともに回想録に取り組んでいたことに疑念を抱いていなかったようである」という『再考』の記述は、仮に「ソ連共産党中央委員会は、ヴォルコフによる著作がソ連について望ましくない内容を含んでいたことに疑念を抱いていなかったようである」とすれば間違いではないでしょう。そもそもヴォルコフは亡命前からショスタコーヴィチに関する著作を(それが「自伝」であれ「回想」であれ)出版する意図を明らかにしており、イリーナ・ショスタコーヴィチやボリス・ティシチェンコはそのことを知っていました。また、機会があれば詳述しますが、『再考』が批判するアメリカの音楽学者リチャード・タラスキンは、1976年に亡命したヴォルコフがショスタコーヴィチに関する本を出そうとしていることを知っており、当初はそれを支援するために便宜を図ったのでした(この事実は『再考』に都合よく「利用」されています)。『証言』の内容は出版まで極秘とされていたようですが、ソ連当局がその内容について、何らかの具体的な情報を掴んでいた可能性は考慮してもよいでしょう。いずれにしても、ボグダーノワの著作からの切り取りと文脈の改変を意図した操作は、『再考』の編著者のステータスが音楽学者(ホー)と弁護士(フェオファノフ)であることを疑わせるに十分なものと言えます。彼らはフェイやタラスキンらを‘expert’とカッコ付きで括っていますが、カッコ付きが相応しいのはどちらでしょうか。<参考文献>Alan B. Ho and Dmitry Feofanov編著 "SHOSTAKOVICH RECONSIDERED"Malcolm Brown編 "A Shostakovich Casebook"
2024.11.17
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イエスのアルバム『トーマト』に続いて『90125』について書く気になったのは、河合奈保子さんのアルバム『STARDUST GARDEN』を聴いていて「チャイナタウン・ラプソディ」間奏で流れるオーケストラヒットが「ロンリー・ハート」を彷彿とさせるものがあり、にわかに聴いてみる気になったのが原因です。本作は1983年11月にリリースされ、日本では『ロンリー・ハート』のタイトルで発売されましたが、これはアルバム冒頭の曲「Owner Of A Lonely Heart」から取ったものです。紛らわしいので、この記事ではアルバム名を原題の『90125』、「ロンリー・ハート」は曲名として表記します。なお、アルバムタイトルは当初『The New Yes Album』が予定されていたのが、アルバムのカタログ番号をそのままタイトルにした『90125』に変更されたのですが、Wikipedia英語版の記事によると、元の番号は『90124』だったのが、ワールドワイドで番号の一貫性を取るために『90125』になったといいます。さて、イエスの「ロンリー・ハート」は河合奈保子さんにとっての「スマイル・フォー・ミー」のような存在だ、などと言ったら突拍子もない比較に聞こえると思いますが、「ロンリー・ハート」はイエスのシングルとして唯一全米チャート(ビルボード)1位を獲得した曲であり、彼らが2017年にロックの殿堂入りした際にも「ラウンドアバウト」と共に演奏された代表作と言ってよい曲です(チャート一位という意味では、河合奈保子さんの曲では「デビュー」に近いと言ったほうがよいのかもしれませんが)。筋金入りのファンで「スマイル・フォー・ミー」を河合奈保子さんの代表曲と認めることに異論のある人は少ないと思いますが、筋金入りのイエスファンになるほど、「ロンリー・ハート」や『90125』を彼らの代表作と見なすことに抵抗感のある人は少なくないのではないかと思います。これは、カルトなデヴィッド・ボウイのファンほど、彼をインターナショナルなスターに引き上げた『レッツ・ダンス(Let's Dance)』を認めたがらないのと似ているかもしれません。ファンというのはなかなか難しいもので、対象への愛が深ければ深いほど自らの求める理想像を投影してしまうがゆえに、相手が変わっていくことを受け入れられないのかもしれません(いや、これは恋愛の話ではないのですが…)。イエスのファンが『90125』に対してアンビバレントにならざるを得ない理由は明白で、この作品はおよそ「プログレッシブ・ロック」とは言い難いポップな作風になっており、70年代イエスの片鱗すら感じられません。加えて、前作『ドラマ(Drama)』の後イエスを離脱したスティーブ・ハウにかわって加入したトレヴァー・ラビン(G, Vo)のカラーが色濃く表れた(と思われる)サウンドは明らかに(見方によっては洗練された)アメリカンテイストであり、それは全米チャートで1位を獲得したシングル「ロンリー・ハート」が全英チャートでは28位にとどまり、アルバム『90125』も全米5位に対して全英チャートは16位と振るわなかった点にも表れています。なお、南アフリカ出身でリトアニア系移民の家に生まれたラビン自身は特にアメリカにルーツがあるわけではないようですが、後にイエスを離れた後には『アルマゲドン』などハリウッド映画の音楽を数多く手がけています。実際、知らない人が聴いたら、ヴォーカルは同一人物であるにも関わらず「ラウンドアバウト」と「ロンリー・ハート」を演奏しているのが同じバンドだとは思わないのではないかというくらい、「ロンリー・ハート」はイエス「らしくない」曲です。『90125』に収録されたその他の楽曲も、しいて言えば一部の曲に変拍子が見られるくらいしかプログレ的な要素はなく、『こわれもの』や『危機』はもちろんのこと『トーマト』や『ドラマ』と比べてさえ、プログレ色やイエスらしさが後退しています。歌詞も70年代イエスのジョン・アンダーソンによる抽象的すぎる作風は影を潜め、ストレートなロックナンバーに相応しいものになっています。さらに、アルバムジャケットはロジャー・ディーンでもヒプノシスでもなく、当時としては斬新なCGによるものでした。さて、先に私は「アンビバレント」と書きましたが、アルバム『90125』にはもう一つの側面があります。それは、このまったくイエスらしくない作品なしには、おそらくイエスというバンドは80年代を生き延びられなかったということです。60年代末から70年代前半にかけてはプログレの全盛期であり、5大バンドをはじめとするプログレ勢は常にイギリスのチャート上位を占めていましたが、70年代後半あたりから陰りが見え始め、80年代になるとプログレは急速に退潮し、5大バンドも、エマーソン・レイク・アンド・パーマーのように解散したり、ピンク・フロイドのように中心メンバー(ロジャー・ウォーターズ)が脱退するなど、路線変更を余儀なくされました。この時期、やはりイエスを離れていたリック・ウェイクマンは『90125』はイエスにとってもっとも重要なアルバムの一つであり、プログレが「死んだ」80年代半ばにイエスもまた「死に瀕して」おり、『90125』がなければイエスは存続しなかっただろう、と述べています。『90125』が生まれるまでには様々な紆余曲折があり、『トーマト』の後でジョンとリックが脱退した後、イエスはバグルズ(The Buggles)のトレヴァー・ホーン(Vo)とジェフ・ダウンズ(Key)を加えて制作された『ドラマ』をリリースしますが、その後事実上の解散状態となります。そしてスティーブとジェフはエイジア(Asia)に参加する一方、クリス・スクワイヤ(B)とアラン・ホワイト(Dr)は別の道を模索しており、一時は元レッド・ゼッペリン(※)のジミー・ペイジを迎えて「XYZ(eX-Yes-and-Zeppelin」として再出発しかけます。しかしこのプロジェクトは結局頓挫してしまい、その後トレヴァー・ラビンを迎えてバンド名もシネマ(Cinema)と変更、キーボードには元メンバーのトニー・ケイを迎えることになりました。『ドラマ』でヴォーカルを務めたトレヴァー・ホーンはプロデューサーに回りますが、その後もハモンド・オルガンにこだわりシンセサイザーを扱おうとしないトニーが一時離脱する(あるいは追放された?)一幕がある一方、クリスの説得によりジョン・アンダーソンが復帰し、ここに至ってバンド名は「イエス」に戻って、ジョン、トレヴァー、トニー、クリス、アランというメンバーで『90125』がリリースされました。なお、まったく新たなバンド「シネマ」として活動するつもりで加入したラビンとしては、バンドが「イエス」として復活してしまったことは不本意な面もあったようです。※バンド「Led Zeppelin」は日本では「レッド・ツェッペリン」の表記が定着していますが、英国のバンドなので英語の発音にしたがって「ゼッペリン」と表記します(「ツェッペリン」はドイツ語読み)。というわけで、イエスのアルバムゆえにカテゴリは「プログレ」としたものの、『90125』は音楽ジャンルとしては「普通」のロックです。70年代イエスの世界を愛する者にとっては戸惑いを禁じ得ないものであることは確かですが、そうした思い入れをとりあえず脇に置いて聴くと、たいへんポップで活力に溢れた作品であることもまた、疑いのないところです。<参考文献>Martin Popoff "Time And A Word The Yes Story"『90125』ライナー・ノーツ(ブライアン・アイブス)
2024.11.16
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「チャイナタウン・ラプソディ」は、河合奈保子さんのアルバム『STARDUST GARDEN -千・年・庭・園-』の収録曲で、LP盤ではB面の1曲目に配されていました。英語タイトルは「MISSIN' GIRL」となっています。訳すならば「消えた少女」とか「失われた少女」といったかんじでしょうか。作詞作曲はもちろん売野雅勇&筒美京平コンビで、アレンジは新川博さんが担当しています。楽器編成としてはストリングスやサックスも加わり、男性コーラスがサビのところで奈保子さんのバックに「Chinatown Missn' Girl」とリフレインするのが特徴的です。ちなみに、間奏でのオーケストラ・ヒットの使い方はイエスのヒットソング「ロンリー・ハート」を思わせるものがあります(アルバム『ロンリー・ハート』は1983年リリース)。オリエンタルな空気感を醸し出すシンセに続いて、ギターの金属的な響きが印象的なイントロで始まるこの曲の構成は「A-B-C-(間奏)-A-B-C-C」となっており、Cパートがサビとなるオーソドックスな作りです。アップテンポのDマイナー(ニ短調)、最高音はド(C4)ですが、音域的には中音域のパートが多く、艶と透明感を併せ持った奈保子さんの歌声が聴けます。その一方で、曲調に合わせてあまり声を張らず、ヴィヴラートも控え目に歌われており、所によってフレーズの終わりをノンヴィヴラートで収めたりしているのは意識的な表現と思われます。いっぽうで、これは意図的かどうかわかりませんが「チャイナタウン」のところでわずかながら「エッジボイス」を使っているように聴こえます。奈保子さんの歌い方は明確なエッジボイスを使うことは少なく、情感を込めるところで自然にエッジがかかるような発声になるところが魅力でもあります(エッジボイスと言われてピンとこない方は、平井堅さんの歌い方、たとえば「おじいさんのうまれたときに…」をイメージしていただければと思います)。A面の「海流の島」あたりと比べると顕著ですが、奈保子さんは同じアルバムの中でも、曲によって歌い方だけでなく「声色」も大きく変えるのも特徴で、「チャイナタウン・ラプソディ」では全体に陰のあるミステリアスな表情を出しています。これまでも繰り返し書いていますが、曲調に応じていわば「別人」になってしまう歌い分けは、ポップシンガーとしては珍しいタイプと言えるでしょう。さて、アルバム1曲目の「暁のスカイパイロット」も歌詞が特徴的な世界でしたが、この「チャイナタウン・ラプソディ」はさらに不思議な歌詞になっています。これは歌を聴くだけでなく歌詞を見るとより明らかで、曲名の「チャイナタウン」は、実のところ歌詞上はすべて「ルビ」になっています。それも一種類ではなく、Cパート(サビ)の歌詞「傷跡」、「過去」に「チャイナタウン」のルビが振られています。さらにAパートでは同じ「傷跡」に「スクラッチ」のルビが付いています。ただしバッキングボーカルの「Chinatown」はそのままです。「あなたが忘れた 哀しい傷跡(チャイナタウン)」、「鏡に映った 哀しい過去(チャイナタウン)」といった詞からは、この「ルビ」としてしか現れない「チャイナタウン」が、実は存在しない場所であることを暗示しているかのような印象を受けます。加えて謎めいているのが英語タイトルの「MISSIN' GIRL」です。Aパートの歌詞「あなたが微笑(わら)う夏の写真(フォトグラフ)」は、Bパートで「裏に返せば掠れた日付(もじ)は 生まれる前の時代(とき)を示していた」と歌われます。この「あなた」が何者なのかも歌詞の上からは明らかでないのですが、これが仮に「MISSIN' GIRL」のことだとすると、果たしてこの少女もまた実在するのかどうかあやふやになってきます。ちなみにミュージックビデオ版の『スターダスト・ガーデン<千・年・庭・園>』(「PURE MOMENTS」ボックスの表記に従います)ではそのあたりを意識したのか、逃げる少女と追う男(または男装した女性)を奈保子さんが一人二役で演じています。曲の終わり近くで「男」の方が消え、安心した少女が部屋で休んでいるところへ幻のように再び現れる、という筋立てになっていますが、それもまた眠っている奈保子さんの見る夢、という、いわば「夢中夢」のような描写になっています。というわけで、この曲の歌詞について的確に分析することは私の手には余るのですが、つまるところ、この歌詞の世界はまぎれもなく「言葉」の中にしか存在しない、という意味で、この曲も売野さんのアルバム・コンセプトがよく表れた作品だと言ってよいでしょう。
2024.11.15
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さて、前回の記事ではアラン・B・ホーとドミトリイ・フェオファノフによる著作 "SHOSTAKOVICH RECONCEDERED"(以下『再考』と表記)におけるマナシーア・ヤクーボフに対する批判が根拠薄弱であることについて述べました。今回は、『ショスタコーヴィチの証言』(以下『証言』と表記)の出版当初からソロモン・ヴォルコフに対して批判的だったイリーナ・ショスタコーヴィチに対する『再考』の記述について検討します。ホーとフェオファノフは、『再考』p.76以降の記述で、『証言』に関するイリーナ・ショスタコーヴィチの主張に対して反論していますが、イリーナの主張の要旨をまとめると、以下のようになります。・ヴォルコフはショスタコーヴィチに3、4回ほどしか会ったことがない・ヴォルコフは雑誌『ソヴェツカヤ・ムーズィカ』の記者として、ショスタコーヴィチの「伝記」を書くために取材をしていた・1976年にヴォルコフが西側に亡命する際、彼の記事を見たいというイリーナら家族の要望に対してヴォルコフが応じなかったこうしたイリーナの主張に対して、『再考』が拠りどころとするのはまたもや「ヴォルコフの証言」です。いわく、ヴォルコフはショスタコーヴィチの「伝記」を作っていると言うような話を決してしておらず、また『証言』に掲載されたショスタコーヴィチのサイン入り写真を撮影したのはヴォルコフの妻だというイリーナの発言は間違いで、実際は『ソヴェツカヤ・ムーズィカ』で活動していたフリーの写真家であるイリヤ・シャピーロであったといいます(ただし、注釈(105)にそう書かれているだけで、それ以上の証拠は示されていません)。さらに、ショスタコーヴィチがサインしたヴォルコフの原稿(『証言』の各章)を彼に返したのはイリーナ自身であったから、ヴォルコフが「こんな分厚い本」を作ることができたことについてイリーナが驚くのはおかしい、というのですが、外ならぬその原稿が『証言』と同じものであったかどうかについて根本的な疑惑があることは、ローレル・フェイの論文を読んでいれば明白です。したがって、サイン入り原稿をヴォルコフに渡したのがイリーナであったことは『証言』の信憑性に関して何ら担保するものではなく、かつイリーナに対する反論にもなりません。写真を撮ったのが誰だったかはもはや証明のしようがなく、またそれほど重要な意味があるとも思われませんが、仮に『再考』が主張するごとくイリヤ・シャピーロだったとしても、それはむしろヴォルコフの取材が『ソヴェツカヤ・ムーズィカ』の記者としての活動の一環であったことの傍証になるのではないでしょうか。さて、『再考』は上述の記述に加えて、イリーナが『証言』の出版前にその内容を知っていたと主張しています。これは、旧ソ連のアーカイブを調査したボグダーノワ(Alla Bogdanova)が自著で紹介した、1978年11月22日付(『証言』の出版は1979年10月)のソヴィエト全連邦著作権機関(VAAP)の文書を「根拠」とした主張です。この文書(以下「VAAP文書」と記載)によると、VAAPがイリーナ・ショスタコーヴィチに対して、『証言』の「望ましからざる出版」を事前に避けるためにVAAPに連絡しなかったのはなぜか、と問うたのに対して、イリーナは『ソヴェツカヤ・ムーズィカ』を含む関係者は皆その「会話」について知っている、と答えたとされています。『再考』はこの「会話」の部分を"this [Testimony]"と書いており、それゆえにイリーナは『証言』の内容を事前に知っていた、と主張したいようです。ですが”A Shostakovich Casebook”に収録されているボグダーノワの元の記事によると、VAAP文書の内容はこれで終わりではありません。つまり、ここでも(おそらくは)意図的な切り取りが行われています。VAAP文書の続きには、イリーナがヴォルコフによる本の出版に懸念を抱いていない理由が示されています。それによると、彼女はヴォルコフの本に含まれるであろう内容はショスタコーヴィチの「自伝的なコメント」のみであると考えており、それについて反対する理由はなく、ただアメリカの出版社がショスタコーヴィチの見解について何か付け加えないことは確認したい、と述べています。そして文書には「結論として、I. A.ショスタコーヴィチの見解では、D.ショスタコーヴィチの生涯と作品に関する情報は世界中によく知られており、(ヴォルコフによる)新しい本は、基本的には想定外の事柄を何も明らかにすることはないから、VAAPが恐れていることには根拠がない」と記載されています(”A Shostakovich Casebook” p. 93より / カッコ内は私が追記)。つまり、VAAP文書から実際にわかることは、『証言』出版前の1978年11月の時点で、約1年後に出版されることになる『証言』の内容をイリーナは予期しておらず、そこに含まれ得るのはすでに世界中に良く知られているような内容でしかない、と考えていたことです。これは、少なくともイリーナ(おそらくは、ティシチェンコも)の認識としては、ヴォルコフによるショスタコーヴィチへのインタビューで語られた内容が、既知の事柄しか含んでいなかったことも示唆しています。イリーナやその他の人々が出版された『証言』について良く認識していた(well aware of Testimony)という『再考』の記述は、VAAP文書に拠るかぎりまったく根拠がなく、読者をミスリードするものです。イリーナ・ショスタコーヴィチに関する『再考』の記述についてはさらに問題がありますが、続きは次回にしたいと思います。<参考文献>Alan B. Ho and Dmitry Feofanov編著 "SHOSTAKOVICH RECONSIDERED"Malcolm Brown編 "A Shostakovich Casebook"
2024.11.14
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「暁のスカイパイロット」は、筒美京平さんが全作曲、売野雅勇さんが全作詞を手掛けた河合奈保子さんのアルバム『STARDUST GARDEN -千・年・庭・園-』(以下『STARDUST GARDEN』と表記)の冒頭を飾る楽曲です。アレンジは若草恵さんが担当していますが、若草さんのアレンジとしては珍しくアコースティック系の楽器を基本的に使っておらず、ギター、ベース、キーボード、ドラム、パーカッションにシンセという楽器編成になっています。アルバム全体について書いた記事でも触れましたが、『STARDUST GARDEN』はいわゆるラブソングではなく、売野さんの言う「濃密な言葉で組み立てられた世界」を歌っており、抽象的な歌詞が目立ちます。現時点でWikipediaの「売野雅勇」の項目には、河合奈保子さんの作品としてシングル曲しか記載されていませんが、作詞家・売野雅勇のエッセンスが表れているのが『STARDUST GARDEN』といえるのではないでしょうか。"WHERE HAVE ALL THE STARDUST GONE"(星屑は何処へ消えたの)という英語タイトルの付いた「暁のスカイパイロット」も、尋常の「パイロット」を歌ったものではないことは、その曲調に加えて、たとえば「忘れないわ 白く残る月を 横切って 行く星があなたね」「想い出して 最後の時 私 その空でまたいつか逢えるわ」といった歌詞からも窺えます。曲は「A-B-C-(間奏)-A-B-C-B-C」という構成になっていますが、イントロや間奏で表れるシンセによる「ファーミード」のオスティナート(繰り返しのパターン)が印象的です。メロディー的には、低音で抑え気味のAパートの後、明確にFメジャーの旋律になるBパートがサビのように聴こえるのが特徴です。Cパートでは「忘れないわ(想い出して)」のところで半音階の音型で変化を付けた後、「横切って(その空で)…」で最高音のド(C4)に上がってクライマックスを作る形になっています。このBパートからCパートにかけての奈保子さんの歌声の伸びと圧は素晴らしく、『さよなら物語』の世界を彷彿とさせるものがありますが、じつはこのアルバムの中で奈保子さんが声を張り上げて歌うのは、ほぼこの箇所だけと言ってもよいでしょう。アルバム『STARDUST GARDEN』と同日発売だったシングル「ジェラス・トレイン」ではパワー溢れるスリリングな歌唱を存分に披露している奈保子さんですが、この「星」や「空」を見つめたロングトーンが印象的な「暁のスカイパイロット」に続く本アルバムの楽曲群では、パワフルな表出力を封印してさまざまな歌い方をしており(ヴィヴラートも控え目の曲が多いです)、そのあたりが「難しい曲ばかりで…」という奈保子さんのコメントに表れたのではないか、というのは私の勝手な推測ですが…さて、上述の「忘れないわ…」などの歌詞からも、この曲で歌われる「スカイパイロット」が、もはや私たちの生きる世界にいないことは直ちに感じ取れるところですが、これを単純に「あの世」に行ったものと取るのは少々早計で、アルバム全体を見渡して考えると、普通の意味での「彼岸」というよりは、何か幻想の次元にある非日常の世界へと旅立ったものと解釈しておきたいところです。曲のアウトロでは電子音めいた「まひるのほしくずがみたい(みえる)」という不思議な「声」が入っていますが、これはおそらく奈保子さんの声にエフェクトをかけたものではないかと思います。アルバムタイトルからも、「星屑(STARDUST)」は作品全体を貫くキーワードと言えそうですが、「真昼の星屑」という、見えるはずのないものが「見たい(見える)」というところに、このアルバムの幻想性というか、異世界への志向がよく表現されていると言えるでしょう。ちなみにこの曲、Bパートの後半に「Why you leave me done」という、文法的にはおかしな詞が入っています。売野さんは大学で英文科を出ていますので、これはおそらく意図的に(あるいはメロディーに収まるように)、いわば「詩的」な表現としてこのような形にしたのではないかと想像します(おそらく、"Why"と"you"の間には"did"が省略されていますが、それでも変わった英文であることには違いありません)。
2024.11.13
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前に『英雄伝説III 白き魔女』に関する記事の中で書きましたが、私の家にあった古いPC、FM-77は短命な機種だったため『Ys I』より後のファルコム作品が移植されることはなく、リアルタイムで『Ys III』に触れる機会はありませんでした。ずっと後、というかむしろ最近になってから『Ys III』のリメイク版である『イース フェルガナの誓い』を入手しましたが、オリジナルは未体験です(しかも日本語設定ができないSteamバージョンなので、英語版しか知らなかったりして…)。同じ理由で『Ys IV』もゲームとしてはリメイク版の『イース セルセタの樹海』しか知らないため、私にとって『Ys III』と『Ys IV』はゲーム自体は知らないけどサントラは知っている作品、ということになります。1989年に発売された『Ys III』はシリーズ中唯一の横スクロールアクションRPGですが、少々(かなり?)込み入った経緯で開発された作品で、正式なタイトルは『WANDERERS FROM Ys』でした。和訳すれば「イースからの放浪者たち」ですが、これは主人公のアドル=クリスティンとその相棒であるドギが『Ys I & II』の舞台である古代王国「イース」からやってきた冒険者である、ということに由来するとともに、本来「イース」の物語ではなく外伝的な位置づけの作品であることを含意するようです。というのも、本作はもともと『Ys』シリーズの続編として構想されたものではなかったのが、上述の「込み入った経緯」によって、必ずしもスタッフの意向に沿わない形で『Ys』シリーズとして発売されることになったのでした。このあたりは、アドルとドギ以外の登場人物名(エレナ、チェスターなど)が、いわば英米系のものになっているあたりにも窺えます。この路線変更は日本ファルコム(当時)内で深刻な亀裂を生んだらしく、本作の発売を前に『Ys I』と『II』のメインスタッフがまとめてファルコムを離脱するという事態に至りました。作曲スタッフだった古代祐三さんもこれに続いて退社したため、『Ys III』の音楽は現ファルコムの役員である石川三恵子さんが単独で手掛けたと言われています。さて、私の手元にある『Ys III』のCDは『Ys III J.D.K. Special』というタイトルになっています。これは、当時ハイスペック(かつ高価)なPCとして知られたX68000版のオリジナルサントラに加えて、4曲の「J.D.K. BAND Special ARRANGE VERSION」を加えたものです。ファルコム作品のファンには言わずもがなですが、ファルコムの音楽スタッフは「Falcom Sound Team j.d.k.」と名付けられており、現在は小文字の「j.d.k.」ですが、当初は大文字で「Falcom Sound Team J.D.K.」と表記されていました。といってもすべての楽曲を石川三恵子さんが作曲した「Ys III」の場合、「チーム」といってもスタッフとしてクレジットされていたのは石川さんのみのようです。『Ys I & II』のメインスタッフだった古代さんが抜けたため、『Ys III』の音楽は前2作と比べると曲調的にはたしかに変化がありますが、石川さんも元々『Ys I & II』の楽曲制作に関わっていた方で、私が遊んだFM-77版『Ys I』では、たしか廃坑やダームの塔に加え、エンディングも石川さんの作曲だったと記憶しています。このため『Ys III』はいわゆる「古代サウンド」とは異なるものの「イース」シリーズの音楽として大きな違和感はありません。前2作と異なり、曲名がほとんどが日本語になっているのも特徴ですが、オープニングの「予感=ステイクス=」の少し神秘的な雰囲気、「貿易の街レドモンド」の軽やかな抒情性に「翼を持った少年」や「イルバーンズの遺跡」「時の封印」のようなスタイリッシュかつメロディアスな楽曲群は、「イース」シリーズのみならず、90年代のファルコムFM音源作品のベースとなる世界観といってもよいのではないかと思います。ストーリー終盤の「破滅への鼓動」、「これを見よ!!」、「最強の敵」のような緊迫感のある曲も個人的にツボな楽曲ですが、エンディング「Wonderers from Ys」もコード進行が独特でたいへん魅力的な曲です。X68000用の新曲として作られた曲の中にも「Chop!!」などの名曲があります。惜しむらくは、CD1枚ということもありエンディングを除き1ループしか収録されていないのが残念なところではありますが…J.D.K. BAND Special ARRANGE VERSIONは「翼を持った少年」「Be Careful」「厳格なる闘志~イルバーンズの死闘」「旅立ちの朝」の4曲が収録されており、「旅立ちの朝」は岸本友彦さんによるヴォーカル入りとなっています。このJ.D.K. BANDは、神藤由東大さんを中心として2007年に結成されたj.d.k. BANDとは異なるバンドで、岸本友彦さんがリーダーを務め、1990年~1994年頃まで活動していたようです。この時期に発売されたファルコム作品のサントラには、J.D.K. BANDによるアレンジバージョンが数曲収められていることが多く、バンド単体のアルバムもいくつかリリースされています。j.d.k. BANDの洗練された曲と比べると、古臭く感じる向きもあるかもしれませんが、この旧J.D.K. BANDのアレンジは原曲のエッセンスをうまくバンド風にアレンジしているものが多く、私は嫌いではありません。
2024.11.12
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イエスには『トーマト(Tormato)』という不思議なタイトルのアルバムがあります。イエスの9枚目のスタジオアルバムで、1978年にリリースされました。メンバーはジョン・アンダーソン(Vo)、スティーブ・ハウ(G)、リック・ウェイクマン(Key)、クリス・スクワイヤ(B)、アラン・ホワイト(Dr)という陣容で、全英一位を獲得した前作『究極(Going for the One)』と同じ陣容で制作されました。『トーマト』のジャケットは一風変わっていて、スーツを着て謎の棒(占い棒らしい)を持った人物が写っているのですが、首から上ははみ出していて見えません。そして、その上にトマトの破片が種と一緒に飛び散っています。裏面には、全員がサングラスをかけたイエスのメンバー5人の写真があしらわれていますが、やはりこちらもトマトの破片が乗っています。さすがにメンバーの上にトマトの果肉は被さっていませんが、種は全員にかかっています。モノクロがかった写真に対して、トマトだけが鮮烈な赤色で写っているため、インパクトはありますが、とりあえず意味不明なジャケットです。これを手掛けたのは、ピンク・フロイドのアルバムジャケットを数多く手がけたことで知られるデザイン集団のヒプノシス(Hipgnosis)でした。イエスのアルバムは、4作目の『こわれもの』以降、大半の作品がロジャー・ディーンによる幻想的で美しいイラストで飾られているのですが、『究極』と『トーマト』の2作はヒプノシスによるジャケットが採用されました。なお、現時点でイエスの最新アルバムである『Mirror to the Sky』(2023年リリース)のアートワークもロジャー・ディーンによるものです。アルバムに収録された曲を一望すると、いかにもジョン・アンダーソンらしい抽象的な、言い替えるとほとんど理解不能な詞による「輝く明日(A FUTURE TIMES)」、環境問題に切り込んだ「クジラに愛を(DON'T KILL THE WHALE)」、リック・ウェイクマンのハープシコードとリリカルなメロディーが印象的な「マドリガル(MADRIGAL)」、アラン・ホワイトのドラムソロとスティーブ・ハウのギターが目立つアップテンポのロックナンバー「自由の解放(RELEASE, RELEASE)」、当時のUFOブームに影響された「UFOの到来(ARRIVING UFO)」、再びジョンの幻想的な詞による「天国のサーカス(CIRCUS OF HEAVEN)」では彼の息子ダミオンのセリフが入り、クリス・スクワイアによるバラード「オンワード(ONWARD)」に、長大なインストパートを持つ「自由の翼(ON THE SILENT WIHGS OF FREEDOM)」と、良く言えばバラエティーに富み、悪く言えばじつに脈絡がありません(笑)。前作『究極』からイエスの大作主義は控え目になっていましたが、本作ではさらにコンパクトな曲が多くなり、最も長い「自由の翼」でも8分弱と、常識的な範囲に収まっています。この『トーマト』は全英8位、全米10位と、前作に比べてセールス的に振るわず、さらに次作を制作するためのパリでのレコーディング中にジョン・アンダーソンとリック・ウェイクマンが揃って離脱してしまい、イエスは一時活動休止に追い込まれます。こうした経緯もあってか、『トーマト』はメンバー達にとってもあまり良い印象の作品ではないようです。リックによると、問題の一つはプロデューサーとエンジニアの不在であり(本作はイエスのセルフプロデュース)、「5人のプロデューサーと5人のエンジニア、それにわれわれ5人がいた」ために機材のフェーダーを扱う「15組の手があった」と、独特の比喩で述べています。そしていくつか「本当に良い曲」があったにもかかわらず、結果として出来上がったのは、ひたすら(more and more and more and…)「圧縮された」アルバムだったと言います。一方スティーブは、リックが弾くポリモーグ(シンセサイザー)の音色とギターの協調が難しかったと振り返るとともに、一部のメンバーがイギリスでのレコーディングを望んでいない中で制作されたこともネガティブな影響があったと述べています。さて『トーマト』というアルバムタイトルとジャケットの由来ですが、元々はイングランド南西部のダートムーアにある、花崗岩の露頭が独特な景観をなしている地名から『YesTor』という名前が予定されていたのが、急遽『Tormato』に変更されたそうです。実際、ジャケット写真の背景にはYes Torの風景が写っているのですが、これに誰かがトマトを投げつけた結果、上述の異様なジャケットになったというのですが、私の手元にあるポポフの評伝とWikipedia英語版の記事によると、犯人はヒプノシスのオーブリー・パウエルかリックのどちらかのようです(常識的に考えれば前者だと思いますが…)。というわけで、メンバーのネガティブな印象と奇妙なエピソードに彩られたアルバム『トーマト』ですが、私はこの作品が結構好きで、イエスのアルバムの中でも再生頻度がかなり高い部類に入ります。その理由はおそらく、アルバムとしての統一感のなさはともかくとして、一曲一曲はそれぞれに魅力的であるることと、プログレ的な要素は後退しているものの、メロディアスでありながら変拍子を織り交ぜたテクニカルな要素とコーラスワークはまぎれもなくイエス的な音楽世界であり、『危機』や『海洋地形学の物語』ほどには「気合」を入れて聴かなくてもよい一種の気安さがあることにもよるのではないかと思います。<参考文献>Martin Popoff "Time And A Word The Yes Story"
2024.11.11
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河合奈保子さんの11枚目のオリジナルアルバム『STARDUST GARDEN -千・年・庭・園-』は1985年3月5日にリリースされました。ちなみに、同日には20枚目のシングル「ジェラス・トレイン」もリリースされています(ちなみに、書き洩らしていましたが前作『さよなら物語』はシングル「北駅のソリチュード」と、その前の『DAYDREAM COAST』は「唇のプライバシー」とそれぞれ同時発売でした)。『STARDUST GARDEN -千・年・庭・園-』は、デビュー5周年記念の連続アルバムリリースの掉尾となる作品で、前作『さよなら物語』に続いてすべての作曲を筒美京平さんが手がけ、作詞は売野雅勇さんが担当しました。いっぽう、編曲に関しては全曲を矢島賢&マキ夫妻が担当した『さよなら物語』とは異なり、若草恵さん、鷺巣詩郎さん、萩田光雄さんがそれぞれ2曲ずつ、新川博さんが4曲と分担されています。これも書き忘れていた点ですが『さよなら物語』では全面的にバッキングボーカルとしてEVEが参加していますが、本作では「海流の島」を除いてバックが男性コーラスというのも特徴です(「海流の島」のバックはEVEが参加)。また、本作はミュージック・ビデオも制作されており、ニュージーランドで撮影が行われました。アルバムジャケットもニュージーランドで撮影されたものが使われていますが、基本的に奈保子さんのアップが多かった従来の作品とは異なり、どこまでも続く緑の草原に座る白い衣装の奈保子さんを引きで撮影しており、空に広がる白い雲とマッチしています。一見何気ない風景に見えますが、よく見るとちょっと不思議で独特な印象を与えます。ミュージック・ビデオの抜粋(6曲)は『PURE MOMENTS』ボックスのDVDに収録されています。なお、ビデオ版のみに入っていてアルバム未収録だった「スターダスト・イン・ユア・アイズ」は、後にSACD盤のボーナス・トラックとして追加されています。このアルバム、あるいは収録された曲が、ファンの方々の間でどれくらい人気があるものなのか、正直なところ私にはよくわかりません。「チャイナタウン・ラプソディ」は当時のコンサートでも披露されたそうですが、私の知る限り映像は残っていないようです(上述のとおり、MVの映像は視聴可能ですが)。『DAYDREAM COAST』、『さよなら物語』と同様にシングル曲が1曲もない本作の楽曲は、ファン投票によって選曲された『私が好きな河合奈保子』DISC2(シングルB面&アルバム曲)に収録されているものがないだけではなく、ブックレットに情報が記載されているTop35の中にも一曲もありません。とはいえ、ある意味それは首肯できるところでもあり、『STARDUST GARDEN -千・年・庭・園-』は河合奈保子さんの他のアルバムと比べてもかなり趣向の異なる曲が多く、いわば奈保子さん「らしい」楽曲が少ないのが特徴と言えそうです。アルバムのコンセプトについては、やはり『JEWEL BOX2』のブックレットで売野雅勇さんが語っています。本作の詞はいわゆる「ラブソング」的なものとは異なり、一見そのような装いに見えるものであっても、実のところはより抽象的な世界を歌っているものが多いのですが、その意図について、売野さんのコメントを以下に引用させていただきます。『スターダスト・ガーデン』は、アイドルの詞というよりも、むしろ作品としてこういうものを歌える河合奈保子というものが非常に重要だと僕が力説したのかもしれないな。『さよなら物語』で、彼女のメランコリックな魅力や内面的なチャーミングさを全面的に引き出せたので、今度は"表現者"としてこういう耽美的な世界を歌ってもらいたかった。目に映る普通でリアルな世界じゃなくて、濃密な言葉で組み立てられた世界をね。彼女にはその表現力があるので、そこに焦点をあてた作品といえるかもしれません。いっぽう、奈保子さん自身はというと「難しい曲ばかりで唄入れに時間が掛かりました」とのコメントを残しているそうです(『Naoko Premium』ライナーノーツより)。これは筒美京平さんによる楽曲の難しさ、というだけでなく、売野さんの言う「アイドルの詞」とはまったく異なる世界を歌う難しさ、という要素もあったのかもしれません。異世界への飛翔を思わせる「暁のスカイパイロット」に始まる本作は、たしかに非日常の世界へと聴き手を誘うもので、これまでのどのアルバムとも異なる表現が求められる作品であり、それだけに特異な魅力を持っています。<参考文献>『JEWEL BOX2』ブックレット「どんな作品でも表現できる最高のボーカリスト」(売野雅勇)『Naoko Premium』ライナーノーツ(土屋信太郎)
2024.11.10
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前の記事で、『ショスタコーヴィチ再考』(以下『再考』)のヤクーボフのコメント①に対する批判について書きましたが、このコメントの後、改行して以下のコメントが引用されています。<ヤクーボフのコメント②>「[『証言』は]まだロシアでは出版されておらず、おそらく決して出版されないだろう[…]この本は完全には信憑性がないから、ヴォルコフは恐れているのだ。彼は、ショスタコーヴィチに3度しか会ったことがないと私に言ったが、たった3度の面会をもとにこのような大きな本を書くことは不可能だ」("SHOSTAKOVICH RECONCEDERED" p. 73 / []内は原著の記述)まず、この部分はニコルスカヤによる原文では前回の記事で紹介したコメント①の「後」ではなく、「前」に記述されています。つまり前後関係が逆になっています。また、実際の記述順②→①の間には省略があるのですが、ここにそれを示す[…]はありません。また、途中で省略されている[…]の箇所で、ヤクーボフは『証言』の出版社が、ロシア語の原本の出版を拒否したとされていること、その話はヴォルコフがロシアの新聞「ネザヴィシマヤ・ガゼータ (独立新聞)」の中で語っていることなどを述べています。そして②の部分に続いて、フェイやオルロフが『証言』について批判していることについて触れられ、その後で①のコメントに続きます。文章の前後関係を変えたうえ、その間の少なからぬ省略部分が明示されていないことに加え、そうした改変について合理的な説明がされていないのは、学術研究の次元では十分ルール違反と言えるでしょう。また、ヴォルコフがショスタコーヴィチに3度しか会ったことが無い、というヤクーボフのコメントに対して、ホーとフェオファノフは、ヴォルコフはそんな話をヤクーボフにしていない(と彼らはヴォルコフから聞いた)、と主張しています。当然ながら、これでは水掛け論にしかなりません。ヤクーボフが「ヴォルコフから直接聞いた」ということを裏付けるドキュメント類などの証拠は確かにありませんが、それに対してヴォルコフの「口述」による反論を持ち出しても、どちらが正しいか冷静な判定ができないことは言うまでもありません。さらに、このヤクーボフのコメント②に続いて、以下のコメントが「引用」されます。<ヤクーボフのコメント③>「思うに、ヴォルコフはレフ・レベディンスキーのような苛立たしく悪意のある人物から情報提供を受けたのだ」さて、②と③の間には省略を示す[…]の記述がありますが、本来、コメント②はコメント①の前にあったものですので、ややこしいですが正確には①と③の間が省略されています。ここで省略された内容は、前の記事で書いた内容に加えて、ショスタコーヴィチがヴォルコフと並んで撮影された写真(『証言』に掲載)への献辞に関するコメントが含まれています。ここでヤクーボフは「(その後に)起こったこと(『証言』の出版)を考慮すれば、ショスタコーヴィチが、ヴォルコフと話した人々について正確に記載する必要があると考えたのは不思議ではない」と述べています(カッコ内は私が追記)。この点はフェイが1980年の論文で指摘しているのと同じポイントです。さて、上記のコメント③の部分は、ニコルスカヤのインタビューでは以下のようになっています。<ヤクーボフのコメント③´>「(もし『証言』のロシア語版が出版されれば)彼(ヴォルコフ)が本の中で何が真実であり、何がモスクワやレニングラードの情報提供者―正に先に私が言及したレフ・レベディンスキーや、レオ(レフ)・アルンシュタムやその他の情報提供者たち―から聞いた話にもとづいて、彼自身が追加したり書いたりしたものなのかを告白することを意味するだろう」(”A Shostakovich Casebook” p.178 / カッコ内は私が追記)コメント③と③´を比較すれば、ヤクーボフがレベディンスキー以外の情報提供者(の可能性)にも言及しているだけでなく、レベディンスキーのことを「苛立たしく悪意のある人物(an irritating and spiteful person)」などとは述べていないことは明らかです。「先に言及した」と述べているように、ヤクーボフはこのコメントより前の部分でレベディンスキーを批判していますが、そこでもこのような発言はしていません。なお、レベディンスキーは1950年代にショスタコーヴィチと親しかった友人で、『再考』が称揚(?)する「反形式主義的ラヨーク」の台本を書いたとも主張している人物です。彼がショスタコーヴィチを良く知る人物であることは確かですが、その発言についてはいろいろと注意する必要があり、この点については機会があれば詳しく紹介したいと思います。アルンシュタムはレニングラード音楽院でピアノを学び、後にメイエルホリドとの親交がきっかけとなり映画監督に転身した人物です。彼は若い頃からショスタコーヴィチと親しく、映画『女友達』や『ゾーヤ』、『ドレスデンの五日間』などの音楽はショスタコーヴィチが手がけています。さて、『再考』はアルンシュタムらを省略してなかったことにしたうえで、レベディンスキーはヴォルコフに情報提供したというような主張をしていないと述べていますが、『証言』の信憑性をもっとも強力に後押しする人物の一人である彼が、そのような主張を自らするわけがないことは明白でしょう。もちろん、実際に情報提供したかどうかは不明ですが、『証言』に書かれているような内容は、ショスタコーヴィチの親しい仲間内(いわゆる"inner circle")の間では良く知られた事柄であり、「反形式主義的ラヨーク」もそうした身内の中で演奏されていたことには留意する必要があります。つまり『証言』の出版時点で西側には知られていなかったことが書かれていたからと言って、それが直ちにショスタコーヴィチがヴォルコフに実際に語ったことの証明になるとは言い切れないのです。<参考文献>Alan B. Ho and Dmitry Feofanov編著 "SHOSTAKOVICH RECONSIDERED"Malcolm Brown編著 "A Shostakovich Casebook"
2024.11.09
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今回は河合奈保子さんのアルバム『さよなら物語』からもう1曲、「海岸道路N2(BARCELONA SENTIMENTAL)」について紹介したいと思います。作詞・作曲はもちろん売野雅勇さん&筒美京平さんのコンビで、アレンジは矢島賢&マキさんです。この曲はLP盤ではB面2曲目に収録されており、マイナー調(短調)の曲ばかりで構成されたアルバムの中で唯一、明確にメジャー調(長調)の曲です。ちなみにアルバム終曲の「ラスト・シーンズ(SA・YO・NA・RA)」は「人生という名のレヴュー」の記事で述べたのと同じく平行調の関係であるハ短調とも変ホ長調とも取れるメロディーラインですが、基本はハ短調と思われます。「人生という名のレヴュー」は、歌詞からパリを舞台にしていることがわかりますが、この曲はタイトルに示されるとおり、バルセロナを題材とした曲ということになります。私はパリを訪れたことはありませんが(厳密に言うと、トランジットでパリのシャルル・ド・ゴール空港に数時間「滞在」したことはありますが…)、バルセロナは出張で訪れたことがあります。といっても本来の目的地は別のところで、経由地ではあったのですが、たしか帰国の前日にバルセロナに1泊したと記憶しています。夕方の比較的早い時間にバルセロナに到着したので、有名なサグラダ・ファミリアまで歩いて行ってみたのですが、入館可能な時刻はすでに過ぎていたので外から眺めるだけでした。とはいえ、それだけでも出張の疲れを吹き飛ばす偉観でした。私がバルセロナを訪れた時は往復ともに天候が良く、飛行機が空港に近づいて降下していく際、海上から見える街の景色がとても明るく美しかった印象があります(多少、記憶の美化作用があるかもしれませんが…)。ということで、私はこの曲の歌詞のようにバルセロナの海岸道路をクーペで走ったわけではもちろんありませんが、「海岸道路N2」の曲調は、記憶に残る晴れ上がったバルセロナのイメージと重なります。曲のキーは先に紹介した「春雷の彼方から」と同じハ長調(Cメジャー)ですが、「春雷の彼方から」は雨上がりの晴れ間を思わせるのに対し、こちらは文字通り雲一つない青空を感じさせます。ですが、「海岸道路N2」が印象的なのは何といっても、この明るいメロディーラインでアルバムのテーマである「さよなら」を深く歌い上げていることです。「Balcelona 背を向けた青春に似てるね 悲しみ 美しさに隠す Balcelona」という詞は、「(河合奈保子さんの)声ににじんでいるメランコリーは、つまり、悲しみ自体はマイナスの感情なんだけども、そこから引き出されるエモーションは人間の魅力的な面ばかりだ」という売野さんのコンセプトが直截に表現されているようで、個人的に売野さんの詞の中でも最も好きなフレーズの一つです。さて、アルバム全体を通して広い音域を要求される曲が目立つ『さよなら物語』ですが、「海岸道路N2」のメロディーは特に幅が広く、下はソ(G3)から上はレ(D4)まで使われています。『さよなら物語』より前の時期のはずですが「ザ・ベストテン」出演時のインタビューで、通常使う音域は「アー(A)からツェー#(Cis)」と、(たしか)ドイツ音名で答えていた奈保子さんですが、この曲ではそれより下は一音、上は半音高いところまで使っています。ちなみに、奈保子さんの楽曲の中でD4まで使っている曲は、主なところで言うと「ヤング・ボーイ」や「Invitation」、「ANGELA」などがあります。なお、前に書いた気がしますが、ヘッドボイスを使わずに最も高い音を出しているのは私の記憶の限りで言うとEs4まで上がる「美・来」です。いっぽうアレンジ面から見ると、この曲は比較的シンプルな構成で作られており、ドラム系の非常に抜けがよく軽快なリズムと、キーボード系のコードが主体となっていますが、余計な装飾がないことで奈保子さんの歌声がより引き立てられているように感じます。間奏の終わりのところで、おそらくはクーペをイメージした走行音が入るのだけが、ちょっと変わったところでしょうか。このように、広い音域を活かした伸びのある歌声と明るいメロディー、そして爽快なアレンジが施されているにもかかわらず、「海岸道路N2」が表現するのは正に歌詞のとおり「美しさに隠された悲しみ」です。曲を単体で聴くだけでも、これはたしかに伝わってくるのですが、「哀しみのコンチェルト」と、「炎」をまとったかのような「モスクワ・トワイライト」に挟まれているコントラストによって、この曲の美しさはさらに際立ったものになっています。<参考文献>「JEWEL BOX2」ブックレット「どんな作品でも表現できる最高のボーカリスト」(売野雅勇)
2024.11.08
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前の記事では、ホーとフェオファノフによる "SHOSTAKOVICH RECONSIDERED"(以下『再考』)の随所にみられる文献の恣意的な切り取り引用について一例を紹介しました。彼らは、『ショスタコーヴィチの証言』(以下『証言』)に対して批判的な研究者に対して「反論」する際にも、同様の手法を取っています。そして、もう一つ顕著な点は、これも前に触れたことですが、ホーとフェオファノフが全面的に「ヴォルコフの証言」に依拠して『再考』を記述していることです。P.43で、彼らは1993~1997年の間、ヴォルコフとの「対面および電話での会話」を通じて『証言』に関して知り得たこととして、出版から約20年の間、『証言』がどのように作られたかに関するヴォルコフの説明は一貫しており、『証言』に二次資料(secondary sources)は一切使用されておらず、その内容は1971年~74年にかけて行われたショスタコーヴィチとの数十回の面会(dozens of meetings)の結果である、というヴォルコフの主張を紹介しています。これは重要な点で、もしそうであるならば、ファーイが指摘した既出記事からの複製はヴォルコフの意図的な引用ではなく、ショスタコーヴィチが一字一句その通りに語ったか、またはヴォルコフによる編集の結果「偶然に一致した」ということでなければなりません。この点の当否については、『再考』の後の記述と、ファーイの2002年の論文によって自ずから明らかになります。ちなみに、『証言』のために「数十回の面会」をしたというヴォルコフの主張と、本編300ページあまりの『再考』のために「100時間を超える(ヴォルコフとの)対面および電話での会話」を要したという彼らのアピールは、奇妙な符号を示すようで興味深いところではあります。言うまでもなく、『証言』の信憑性を証明するためにヴォルコフの証言をまるごと信用し、それと食い違う相手の証言を否定するのでは「ヴォルコフそう言っているから『証言』は信憑性がある」と言っているだけでまったく学問的な態度ではありません。しかし、本書はそのような無理筋な論法に満ちています。一例として、p.72~75にかけてのマナシーア・ヤクーボフに対する批判について検討してみましょう。が、このわずか数ページに関する検討だけでかなりの字数になってしまったので、2回に分けて記述します。まず、ホーとフェオファノフは、ヴォルコフがショスタコーヴィチと面会した際にボリス・ティシチェンコが仲介したことに関する以下のヤクーボフのコメント①を批判しています。なお、ヤクーボフはショスタコーヴィチの死後、そのアーカイブのキュレーターを務めた研究者であり、ティシチェンコはショスタコーヴィチの元生徒で、晩年のショスタコーヴィチと親しかった作曲家です。<ヤクーボフのコメント①>「ヴォルコフは、ボリス・ティシチェンコに頼んでショスタコーヴィチのところに連れて行ってもらった。その口実として、自分の著書のために、ショスタコーヴィチの生徒を含む若いレニングラードの作曲家についていくらかの情報を知りたいと言った」ホーとフェオファノフは、この箇所について、ショスタコーヴィチが序文を寄稿したヴォルコフの著書 “Young Composers of Leningrad” のための面会と、ティシチェンコが仲介した『証言』のためのショスタコーヴィチとの面会をヤクーボフが混同している、と主張し、「ヴォルコフによると」ティシチェンコが関与した時点でショスタコーヴィチの序文はすでに書かれており、ヴォルコフがその件についてティシチェンコに頼み込んだことは決してない、と述べています。ですが、“A Shostakovich Casebook” に収録されているイリーナ・ニコルスカヤによるヤクーボフへのインタビュー全体を読むと、この①の箇所は例によってかなり恣意的な切り取りであることがわかります。ちょっと長いですが、①の前後を和訳すると、以下のとおりです。<ヤクーボフのコメント①´>「オルロフは長年にわたってショスタコーヴィチと個人的に近しく関わっていたことは良く知られている。それとは対照的に、ソロモン・ヴォルコフはボリス・ティシチェンコに頼み込んでショスタコーヴィチに紹介してもらわなければならなかった。若いレニングラードの作曲家に関するヴォルコフの著書への序文が、口実として役に立った。彼らの中にはショスタコーヴィチの生徒が含まれていたからだ。ドミートリイ・ドミートリエヴィチ(ショスタコーヴィチのこと)は決してこういう依頼を断ることはなく、結局いくらかのコメントを述べることに同意した。その後、ヴォルコフはショスタコーヴィチ自身についてではなく、抑圧された彼の同時代の人々について、彼に話をさせることができた。このすべては、ヴォルコフが個人的に私に話したことだ」(”A Shostakovich Casebook” p.178 / カッコ内の補足と太字強調は私が付けています)『再考』に引用された①に該当する部分の文章の違いは、元のロシア語を英訳したことによる差異の範囲とも取れます(加えて私の拙い和訳の影響も否定できませんが…)が、①´の記述からは、ティシチェンコが仲介したタイミングについて必ずしも明確ではなく、またヤクーボフが“Young Composers of Leningrad” の件と『証言』にまつわる件を区別していることは明確です。また、ティシチェンコが両者を仲介したタイミングはそもそも些末な点で、仮にヤクーボフが勘違いしていたとしても大きな影響はありません。“Young Composers of Leningrad” の出版(1971年)は、ヴォルコフがショスタコーヴィチに取材したと称する時期(1971~74年頃)と重なっています。さらに、①の引用では「彼らの中にはショスタコーヴィチの生徒が…」より後の文章が省略されていることも気になります。『再考』で省略されたヤクーボフのコメントからは、自著への序文に関する面会と、『証言』の元になったショスタコーヴィチへのインタビューが同時に行われた可能性も考えられます。加えて、この部分の話は「ヴォルコフが個人的に」ヤクーボフに話したことだ、と述べられています。これら一切を省略して、①の部分だけが切り取られているのです。このように①の箇所だけに限っても、『再考』による批判はもとのインタビューと比較すれば説得力に欠けることが明らかなのですが、この続きの部分もさらに問題がありまして、それは次の記事に譲ります。<参考文献>Alan B. Ho and Dmitry Feofanov編著 "SHOSTAKOVICH RECONSIDERED"Malcolm Brown編 "A Shostakovich Casebook"
2024.11.07
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河合奈保子さんのアルバム『さよなら物語」から「人生という名のレヴュー(HOTEL RITZ)」を紹介したいと思います。まいどのことながら、アルバムの中からどの曲について書くかは迷うところなのですが、あまり知られていない曲から優先的に、という方針が何となく自分の中でできているので、『私が好きな河合奈保子』DISC2で6番目に収録されている「モスクワ・トワイライト(LAST DANCE IN MOSCOW)」はとりあえず後回しということにさせていただきます…といっても、私はこの曲を初めて聴いた時は少々茫然としてしまうくらいのインパクトがあり、奈保子さんのアルバム曲の中でも屈指の「衝撃力」を持った一曲であることは間違いないところでしょう。さて、これは私の想像にすぎませんが、『さよなら物語』の制作にあたり、作曲の筒美京平さんは、奈保子さんの歌唱力を最大限に活かそうという意図があったのではないかと思います。「モスクワ・トワイライト」だけでなく、「海岸道路N2(BARCELONA SENTIMENTAL)」、「霧雨の埠頭(LA JETEE)」「水の中の蜃気楼(VENEZIA」など、本作に収められた筒美さんの楽曲はいずれも難曲で隙が無く、低音域での艶と、高音域でのパワーや伸びが要求され、これが売野雅勇さんのいう「エモーション」を感じさせる大きな要素になっています。こうした曲が並ぶ中で、LP盤A面の4曲目に収められている「人生という名のレヴュー」は、ぱっと聴いたインパクトという面ではかなり地味な部類の曲といってよいでしょう。この曲はミドルテンポで、最高音がシ(H)となっており、ド#(Cis)やレ(D)まで上がる他の曲に比べれば常識的な音域に収まっています。加えて、この曲は1コーラスが比較的長いのですが明確に「サビ」と言えるようなパートがなく、意図的に盛り上がりを避けて作られています。つまり、ただ譜面通りに歌っただけでは曲のエッセンスを引き出すことができず、単に地味なだけに聴こえてしまうという点で、他の曲とは異なる意味の難しさがあると言えます。どんなジャンルでも同じだと思いますが、シンプルな曲や目立たない曲になるほど、歌い手の個性や特徴がよく表れるものです。この曲の冒頭は、ハイヒールを思わせる足音のSEで始まり、扉が開くとダンスホールのようなざわめきがしばし聴こえてイントロに入ります。今回の記事を書くにあたって改めて曲を聴いてみて、例によってピアノで音を確認したりして、今さらながら気付いたのですが、イントロで入るアコーディオンのような(でもアコーディオンとは違う)サウンドは、キーとしてはニ長調(Dメジャー)なのですが、それに対してボーカルのメロディーはロ短調(Hマイナー)になっています。ちょっとマニアックな話になりますが、ニ長調とロ短調は「平行調」の関係で、譜面上はいずれもド(C)とファ(F)の音にシャープ(#)が付く同じ「調号」になります。曲調はぜんぜん違いますが、「ラブレター」のメロディーでヘ短調(Fマイナー)からサビ(ためらい ライライ…のところ)で変イ長調(Asメジャー)に転調するのも平行調の関係です。平行調は、同じ曲やメロディーの中で自然に転調しやすいのですが、「人生という名のレヴュー」でもニ長調とロ短調が違和感なく交錯する構成となっており、これはダンスホールの艶めいた空気感と「男と女」が織りなす「淋しさ消え残るだけ」の情景を演出する仕掛け、と解釈しておきたいと思います。メロディーは先に述べたとおり、派手な高音が少なく中低音域が中心なのですが、ここでの奈保子さんは適度に力を抜いたソフトな歌い方です。ソフトではあっても低音で弱くならず、ヴィヴラートもしっかりかかっていることによって、物憂げで大人びた表情を出しています。「冬空の花火だわ」以降(しいて言えばサビにあたるパート)では「花火だわ」の節回しや「消え残るだけね」の「ね」にかけるダウンポルタメントなどが特に印象的です。前作『DAYDREAM COAST』は1984年4月ごろにレコーディングされているので、おそらく誕生日より後に制作された『さよなら物語』では一つ年齢を重ねていることになりますが、それ以上に大人っぽくなったように感じられます。たしか「PURE MOMENTS」のブックレットのどこかに、アイドル(あるいはタレント)というのは普通の人が一年過ごす間に、2~3年分の経験を重ねる、というようなことが書かれていたと思うのですが(いま該当する記述を見つけられないのですが…)、それが誇張ではないことが、この曲の歌い方からは感じられます。個人的には、アルバムジャケットに使われた写真の、シックで物悲しい雰囲気に最も似合うのがこの曲ではないかと思います。
2024.11.06
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ソロモン・ヴォルコフによる『ショスタコーヴィチの証言』(以下『証言』)を擁護するアラン・B・ホーとドミトリイ・フェオファノフの著作"SHOSTAKOVICH RECONCIDERED(以下『再考』)"について、ひとまず本編を読み終えることができました。『再考』の後半は"Variation"と題して、"Contributor(寄稿者)"による文献を収録した、いわば資料集となっており、ホーとフェオファノフによる本編は300ページあまりで終わっています。前の記事に書いたとおり、本書の内容にかなり疑問を持っていた私としては、これはある程度「救い」でした…ということで、『再考』の"Variation"の部分は完読していないのですが、本編の内容に即して考察していきたいと思います。といっても、まず結論として、本書はショスタコーヴィチあるいは彼の生きた時代、ソヴィエトの音楽について真剣に知りたい者にとっては、読むに値しない、ということを明確に述べておきたいと思います。私見では『再考』の狙いとするところは、ヴォルコフによる『証言』に全面的に依拠してショスタコーヴィチが「隠れた反体制派(hidden dissident)」であったことを証明することに加え、ローレル・ファーイやリチャード・タルスキンらによって批判されているヴォルコフを、ショスタコーヴィチと同じような「不当な批判(unjust criticism)」の犠牲者として描き出すことにあります。そのためにファーイらによる批判を曲解または拡大解釈し、論点をずらして『証言』の「信憑性」を証明しようとしていますが、その「信憑性」に対する根本的な疑義、つまりショスタコーヴィチ自筆のサインがあるページが既出記事からの引用であることには答えていません。正確に言うと、無理筋で答えようとていていますが失敗しています(これは、2002年のファーイの第二の論文でさらに明確になります)。この点は追って詳述するとして、まず『再考』の全編に見られる「選択的」な引用について述べておきたいと思います。ホーとフェオファノフは、ファーイやタルスキン、あるいは彼らがさんざん引用しているエリザベス・ウィルソン("Shostakovich A Life Remembered"の著者)らの"selective scholarship(選択的な学究)"を繰り返し批判しているのですが、私からすると、当のホーとフェオファノフの方が、非常に恣意的な文献の切り取りを行っているように見えます。たとえば『再考』p.39の記述で、何人かの研究者が『証言』の内容を支持しているとの言及があります。その中でボリス・シュワルツの著書 "Music and Musical Life in Soviet Russia 1917 - 1981(未邦訳)" から、シュワルツが『証言』について ‘the overall impression is very persuasive’ (全体的な印象は非常に説得的だ)と述べている箇所を引用しています。ですが、この文章の全文(p. 576)は”Whether every word attributed to Shostakovich in Testimony was actually said by him cannot be verified, but the overall impression is very persuasive” です。つまり、『証言』の中でショスタコーヴィチが言ったことになっているすべての言葉が実際に彼の発言だったかどうか「検証できない」、すなわちファーイが提起した問題に対してシュワルツは判断を保留したうえで「全体的な印象は非常に説得的」だと述べているのです。ちなみに、ホーとフェオファノフは、この部分をp.246で再び引用していますが、“Whether every word attributed to Shostakovich in Testimony was actually said by him cannot be verified, but” の部分を引用から外して地の文にしており(多少文章も変えています)、“the overall impression is very persuasive” だけが引用の形になっています。これが意図的なものかどうかは不明ですが、仮に意図的でないとしても、読者に対して “very persuasive” の部分だけを強調しようとしている、と取るのは意地悪すぎるでしょうか。なお、シュワルツは、『証言』を巡る論争についても触れ、コンドラシンがその内容を支持している一方でロストロポーヴィチが慎重な態度を取っていること("expressed reservations")も紹介しています。また、シュワルツが人口に膾炙した第五交響曲に関する「強制された歓喜」など『証言』の内容を引用し、それに依拠した記述をしていることは確かですが、これはショスタコーヴィチ自身がこうした話を実際にヴォルコフに語ったのかどうか、という問題とは直接の関係がありません。さらに言えば、後にヘンリー・オルロフ(出版社の委託により『証言』のレビューを行った音楽学者)が指摘しているように、『証言』に書かれている内容は、じつはシュワルツのようにソ連の音楽界の内実を良く知る研究者にとってはそれほど驚くような内容ではなかった、ということも示唆しています(リュドミラ・コフナツカヤによるオルロフへのインタビューによる)。ちなみに、シュワルツはマキシム・ショスタコーヴィチによる「父の「個人崇拝(スターリンのこと)」との関係は秘密ではない」というコメントも紹介しています。シュワルツの言う “the overall impression is very persuasive” は、以上のような文脈を踏まえて理解するのが適切でしょう。その一方で、シュワルツの著作にはマキシム・ショスタコーヴィチへのインタビューも掲載されています。これは以前に「ショスタコーヴィチとムラヴィンスキー」の記事で紹介しましたが、このインタビューで、『証言』に対するマキシムの態度が亡命前と変わっていないことが記されています。なお、マキシムは『証言』に書かれている内容自体を否定しているのではなく、それをショスタコーヴィチ自身が語ったこととされていることに否定的なのであり、『証言』は「父の証言ではなく、ヴォルコフによるショスタコーヴィチに関する本である」と述べています。また、ムラヴィンスキーに対するマキシムのコメントは、以前紹介したとおりです。ホーとフェオファノフはこれらの点について言及していません。そして、マキシムのコメントの中から「もしこの本[『証言』]がひとつ良い事をしたとしたら、それは父が終生まとわなければならなかった忠誠の仮面の悲劇を初めて明らかにしたことだ」という箇所など、都合の良い箇所だけを切り取って紹介しています。ファーイらの ”selective scholarship” を攻撃しているホーとフェオファノフですが、私にはむしろ彼ら自身のほうが”selective” であるように見えてなりません。さて、記事を読んでくださっている方にはあまり気分のよいものではないかもしれませんが、今後しばらく、『ショスタコーヴィチ再考』に対する考察を続けたいと思います。<参考文献>Alan B. Ho and Dmitry Feofanov "SHOSTAKOVICH RECONSIDERED"Boris Shwarz "Music and Musical Life in Soviet Russia 1917 - 1981"Malcolm Brown編 "A Shostakovich Casebook"
2024.11.05
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先にアルバム『さよなら物語』について書いたところでちょっと時系列が戻りますが、「春雷の彼方から」は、1984年3月21日にカセットのみで発売された河合奈保子さんの企画アイテム『愛・奈保子の若草色の旅』の冒頭に収録された曲です。作詞:来生えつこ、作曲:来生たかお、編曲:若草恵という陣容で制作されています。『愛・奈保子の若草色の旅』は、タイトルにも表れていますがもともとシングル曲「ストロー・タッチの恋」のB面に収録されていた「若草色のこころで」に触発された企画だったようで、来生えつこさんが企画・構成を担当しています。Wikipediaの記事では「ベスト・アルバム」としてカテゴライズされている本作ですが、新たに書き下ろされた「春雷の彼方から」と来生たかおさんのカヴァーである「車窓」の2曲は本作のみに収録されており、その他にも曲間に奈保子さんのナレーションが入ったり、「若草色のこころで」のモチーフを使ったインストの音楽が間奏的に用いられたりしています。また、来生姉弟作品の「浅い夢」や「エスカレーション」などには、曲中にもSEが加えられており、何よりNM系の楽曲群とアコースティックな来生姉弟&若草さんの音楽を織り交ぜ、それを「旅」のイメージでまとめたコンセプト性のある本作に、ベスト・アルバムという形容はふさわしくないように思われます。なお、カセット版のみで発売された『愛・奈保子の若草色の旅』は、「Naoko Premium」ボックスの中に全編が収録されているほか、本作のみでしか聴けない「春雷の彼方から」と「車窓」の2曲は「JEWEL BOX2」に収められています。前置きが長くなりましたが、「春雷の彼方から」は曲名のとおり、雨音に雷鳴が混じるSEから始まります。この曲は演奏時間が約5分30分ほどと比較的長いのですが、半分以上がSEとインストという構成になっています。楽器編成は、一部シンセの音が使われている他はほぼクラシックの楽器のみでアレンジされているのも特徴です。雨音が止むと、木の葉から雨水が滴るような音に変わり、低弦の音に導かれるようにオーボエによるゆったりとしたイントロに入ります。これにストリングスのハーモニーが加わって一区切りすると、ピアノソロによる、シンプルながらたいへん抒情的で美しいメロディーが奏でられます。「ソファミ ミレド ドソラレ…」という、ハ長調(Cメジャー)の旋律ですが、この調(キー)が持つ清朗なイメージが非常によく表れている印象を受けます。このピアノパートに続くメロディーは、ホルンのような音色のシンセに引き継がれますが、ここで奈保子さんのモノローグによる「詩」が加わります。静かに抑えた声に、柔らかいストリングスとハープが彩りを添えています。ちなみに奈保子さんの楽曲の中で詩の朗読が入る作品は、これ以外に『さよなら物語』の終曲「ラスト・シーンズ」や自作曲「秘めやかなラヴ・ストーリー」などがあります。さて、こうして1コーラスのメロディーが終わった後、3分半あたりでようやく奈保子さんの歌が入ります。先にピアノが奏でた「ソファミ ミレド ドソラレ…」のメロディーは「夢に似てる風景…」と歌われますが、「ボーカル」とか「ソング」といった横文字ではなく、「歌」と表現したくなる世界です。後半の「開いた窓は…」以降は、この時期としては珍しくヘッドボイスを使っていますが、たいへん美しく伸びのある歌声で、どのように形容するのが相応しいのか、ちょっと悩みます。「母性」というと遠からず、という気はするのですが、かといって当たってもいないように感じます。もっと何か超越した印象を受けるのですが、決して近寄りがたいのではなく、自然と耳から心へと染み入る歌声と言いましょうか。この歌声が、ソチオリンピックのフィギュアスケート女子シングル、ショートプログラムでのカロリーナ・コストナー選手(当時)による「アヴェ・マリア」のスケーティングのようだ、などと言ったらかなり変なたとえ方ですが、つまり、素晴らしいフィギュアスケーターは、難技巧のジャンプを跳ばなくてもスケーティングを見ているだけで惹きこまれるのと似ている、ということです。先に「WHAT COMES AROUND GOES AROUND」の記事で、モルデントなどの装飾表現について少し触れましたが、「春雷の彼方から」はこれとは真逆の世界で、装飾的な技巧とは無縁の歌い方をされています。もちろん、さまざまな装飾表現を使いこなすのも歌手としての実力がなければできないことですが、そうしたテクニカルな要素を排することで、しかも2分弱の短い歌唱で、広大な世界を感じさせてくれるのがこの曲の素晴らしいところです。曲の終わりには線路を走る列車の音が重なり、そのまま「若草色のこころで」につながり、音楽による「旅」の始まりを演出しています。私はもともと「JEWEL BOX2」でこの曲と「車窓」を聴いていたので、『愛・奈保子の若草色の旅』は全編を聴けなくてもまあ良いか、ぐらいに思っていたのですが、「Naoko Premium」ボックスでこの作品全体を初めて聴いて、やっぱりこれは全体を通して聴いてこそのものだと強く納得したのでした。
2024.11.04
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河合奈保子さんのミュージックビデオやライブ映像を集めたボックス「PURE MOMENTS」を最近購入しまして、そのまましばらく未開封で置いてあったのですが、先日ようやく開封してみて驚いたのでした、というか、我ながら間抜けなことに、このボックスには1983年の『NAOKO Beautiful Days in 合歓』が入っていることに初めて気づいたのでした。。私はてっきり本作はVHS以外で映像化されていないと思い込んでいたため、「PURE MOMENTS」に入っているのは『DAYDREAM COAST』などのミュージックビデオと、既に入手済みのEASTライブなどからの抜粋だけだと思っていたのでした。で、ボックスを購入したのは、今さらながらミュージックビデオの映像もネット上で見るのではなくちゃんと購入しておくのが努め(?)だと思ってのことだったのですが、合歓の郷の映像もここできちんと形になって残っていることを知って驚愕するとともに歓喜したのでした、というか商品情報をちゃんと見ておけば気づくことなのですが…というのも、『NAOKO Beautiful Days in 合歓』に収録されている曲には、ここでしか見られない貴重なものがあり、しかもそれがとても素晴らしいのです。私はこれがDVD化されていないものと思っていたので、ネット上でしか見られないものと勝手に諦めていたのでした。『NAOKO Beautiful Days in 合歓』は、河合奈保子さんの20歳の誕生日、1983年7月24日よみうりランドEASTでのライブに先立って行われた、合歓(ねむ)の郷での合宿のリハーサル風景と、当日のライブ映像に加え、合宿中の奈保子さんの様々な姿を交えて編集されています。音源もリハーサルのものと本番の演奏が途中で切り替わるものが一部あります。最初に収録されているシングル曲「ヤング・ボーイ」は、合宿に入る移動中の映像が使われており、「エスカレーション」は屋内でのリハーサル風景に、ボートに乗っている映像を交えて編集されています。続く「YES-NO」と「フォーエバー・マイ・ラブ」については「Naoko Premium」ボックスの特典DVDに本番の映像が収録されています。リハーサル(特に屋内のもの)と本番では音場感が異なるので一概に比べられませんが、合歓のリハーサルバージョンの「YES-NO」は映像の編集がよく、屋外にたたずむ奈保子さんの姿に重なる歌声がとても印象的に聴こえます。このあとインストの「OVERTURE」に続き「恋にメリーゴーランド」となりますが、映像は前半がリハーサル、途中からライブ本番のものに切り替わります。この曲は初期のライブから歌われていたようで、81年のライブアルバム『NAOKO IN CONCERT』でも聴くことができますが、映像として残っているのはこれだけではないかと思います。アラベスクによる原曲「In For A Penny, In For A Round」と比べると、とんでもなく速いテンポで演奏されているのもさることながら、音域が広く決して易しいとは言えないこの曲を、これだけ動き回りながら(しかも例の超巨大ハットをかぶった状態で)歌いこなすのはなかなか驚異的です。続いてフランク・シナトラの「LET ME TRY AGAIN」では野外リハーサルの演奏が使われています。おそらく同曲の映像は他にないと思いますので、ただでさえ貴重なのですが、歌唱も映像も素晴らしく(←画質がよい、という意味ではありません、念のため…)感涙ものです。こちらは機会を改めて別の記事にしたいと思っています。次の「SKY PARK」は、奈保子さんの楽曲タイトルを借りて「言葉はいらない」ということにさせていただきます、というか「言葉にできない」と言ったほうが正確かもしれませんが…少々大げさなもの言いになってしまいますが、これがDVD化されていることは私にとってはちょっとした奇跡、とだけ書いておきます。「UNバランス」は、以前の記事にも書いたとおり、この時点ではシングルリリース前で、イントロのコーラスの音型が異なるバージョンです。振り付けもまだ決まっていなかったようです。曲の始めのほうで丸太のブランコっぽい遊具で「バランス」を取っている奈保子さんの映像を使っているのはスタッフの遊び心でしょうか。こちらも「Naoko Premium」のDVDでライブ本番の演奏(この時が「UNバランス」の初披露)をフルで見ることができます。「愛は二人の腕の中で」はライブのフィナーレとして、リアルタイムでファンだった方々にはおなじみの曲かと思いますが、マイナー調のこの曲に、草原を笑顔で歩いてゆく奈保子さんの映像が重なると「リアルタイム」を知らない自分も何か感傷的な気分になってしまうのが不思議なところです。最後の「EVERYBODY NEEDS SOMEBODY TO LOVE」は、ビデオとしてはエンディングですが、実際のライブではオープニングだったようです。舞台に入る前の、高揚と緊張が入り混じった奈保子さんの表情を窺うことができます。さて、「PURE MOMENTS」にはその他のライブビデオからの抜粋が収録されていますが、すべて個別にDVD化されているので一部のみの収録でも(私としては)問題なく、その分『NAOKO Beautiful Days in 合歓』を45分フルで収録してくれたスタッフにはひたすら感謝しかありません。
2024.11.03
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河合奈保子さんの10枚目のオリジナルアルバム『さよなら物語』は、1984年12月5日にリリースされました。デビュー5周年を記念したアルバム連続リリースの3作目にあたり、本来は『さよなら物語 THE LAST SCENE and AFTER』と表記するのが正しいと思われますが、長いので以下『さよなら物語』と書きます。全曲を筒美京平さんが作曲し、作詞は売野雅勇さんが担当、編曲は矢島賢&マキ夫妻が担当しました。河合奈保子さんのアルバムを前期(『LOVE』~『サマー・ヒロイン』)・中期(『あるばむ』~『NINE HALF』)・後期(『Scarlet』~『engagement』)の三つに区分けする点については「Please Please Please」の記事に書きました。『さよなら物語』は、奈保子さんの中期アルバム作品の中でも私が特に好きな作品のひとつです。収録曲数は9曲と少ない上に、終曲「SA・YO・NA・RA」はエピローグ的な位置づけでボーカルパートも少ないため、実質ボーカル曲としては8曲という構成なのですが、いずれも非常に密度の高い楽曲が並んでおり、通して聴くとかなりの「満腹感」があります。このアルバムについては、「JEWEL BOX2」のブックレットで売野雅勇さんが詳しく語っていますので、その内容の一部を紹介させていただきます。売野さんは『さよなら物語』と次の『スターダスト・ガーデン』の2作で全曲の作詞を担当していますが、その根底には「河合奈保子さんの魅力にアルバムが追いついていないという不満と、アルバム全体を密度の濃いコンセプトでやりたいという欲求」があったといいます。そして「作品づくりをしたいという非常にクリエイティブな欲求が生まれて、こちらから「やらせて下さい」って言ったんじゃなかったかな。筒美京平さんという巨大な才能とがっぷり組んでずっと残る作品を作りたかった。「河合奈保子」「筒美京平」「売野雅勇」、最強だと思ったわけです(笑)」とおっしゃっています。これは単なる自画自賛ではなく、作品の出来を聴けば十分首肯できるところですが、もう一つ「最強」の要素として本作に欠かせなかったのが「矢島賢&マキ」というアレンジャーの存在でしょう。2021年発売(タワーレコード限定)のSACD盤『さよなら物語』のライナーノーツによると、矢島夫妻がアレンジに使用したのは、当時最先端のシンセサイザーだったフェアライトCMIでした。ヨーロッパ各地の街をイメージした『さよなら物語』の楽曲アレンジにあたり、情景に応じてクラシカルな、あるいはポップな彩りを添え、時には「LAST DNCE IN MOSCW(モスクワ・トワイライト)」のイントロのように意表を突いたサウンドも聴かせるフェアライトに、名ギタリストでもある矢島賢さんの「泣きのギター」が加わることで、筒美京平さんの曲の魅力がさらに引き立てられています。本作はジャンル的にはテクノポップの範疇に入ると言えますが、これが売野さんの言う「エモーション」をまとった、いわば「テクノ」とは対極にある奈保子さんの歌声と交錯することで素晴らしいシナジーが生まれたと見ることもできるでしょう。ちょっと余談ですが、奈保子さんと同期デビューで仲の良かった柏原芳恵さんも、同じ1984年に全曲筒美京平さん作曲によるフェアライトを使ったテクノポップ作品『LUSTER』をリリースしていますが、こちらのアレンジャーは船山基紀さんでした。ふたたび売野さんの回想に戻ると、『さよなら物語』の制作にあたり、売野さんは「河合奈保子さんの持っている切ない声や哀愁感というのを集約できるアイデアというか枠を探した」といいます。以下ちょっと長いですが、売野さんの思いがよく表れていますので、そのまま引用させていただきます。「明るく微笑の絶えない奈保子さんだけれど、影があり、繊細で、心の奥行きのある人なので、"さよなら"という恋愛のマイナスのクライマックスを集めるというアイデアが、ものすごく当たりだと思った。哀愁感というのは、彼女の本質的な色合いで、人に対して優しいとか繊細だとかという彼女の美点から成り立っています。それらの反射のわけです、声ににじんでいるメランコリーは、つまり、悲しみ自体はマイナスの感情なんだけども、そこから引き出されるエモーションは人間の魅力的な面ばかりだと、最初からそう考えていたんです。だから、河合奈保子という歌手には恋愛のマイナスサイドのクライマックスは非常にマッチしていて、本質的なものと重なるから上手なんですよ。上手いだけじゃなく、そこにエモーションがあるでしょ。これは間違いなく名盤だと思います」(「JEWEL BOX2」ブックレットより)このようなコメントを読むと、やはり売野雅勇さんは河合奈保子さんという才能に心底惚れ込んでいたのだと感じます。そして、『さよなら物語』の魅力のコアな部分は、奈保子さんの歌声が持つ「エモーション」によって成り立っているという点は、大いに共感できるポイントです。"さよなら" をコンセプトに制作された本作における売野さんの詞も、相変わらず(?)シングル曲とは異なる魅力があり、いずれにしても「間違いなく名盤」である本作を残してくれたことに、大いに感謝したいと思います。<参考文献>「JEWEL BOX2」ブックレット「どんな作品でも表現できる最高のボーカリスト」(売野雅勇)SACD『さよなら物語』ライナーノーツ
2024.11.03
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今回はかなりニッチと思われる話題ですが、ジャスティン・ヘイワード(Justin Hayward)とジョン・ロッジ(John Lodge)のコンビが1975年にリリースしたアルバム『Blue Jays(ブルー・ジェイズ)』についてのお話です。カテゴリを「ムーディー・ブルース」としたのは、二人が元々ムーディー・ブルースのメンバーで、このアルバムは同バンドが活動休止中に制作されたスピンオフ的な作品であることによります。ムーディー・ブルース(Moody Blues)は、1967年にリリースされたアルバム『デイズ・オブ・フューチャー・パスト(Days Of Future Passed)』に始まる一連のアルバムをもって「元祖プログレ」と言われることも多く、オーケストラやメロトロンを使ったサウンドや、コンセプト性の高いアルバム作りの手法はたしかにプログレと言ってよいと思いますが、当事者である彼ら自身には特に自分たちがプログレバンドである、という認識はなかったようです。なので、この記事でも「プログレ」とは別に「ムーディー・ブルース」というカテゴリを立てることにしました。なお、細かい話ですが "Blues" は「ブルーズ」の方が原音に近いと思いますが、「ブルース」の表記が定着しているのでそちらにしたがいます(ちなみに「パスト」とカタカナで表記すると"past(過去)" が想起されてややこしいのですが、実際は"Passed"です)。また、アルバムの邦題は『ブルー・ジェイ』だったようですが、ジャスティンとジョンという「二人のJ」による作品であることを考えれば、複数形で「ジェイズ」と書くほうが適切のように思われます。ジャスティン・ヘイワード(Vo/G)の回想によると、『Blue Jays』の元となる活動は、彼とマイク・ピンダー(ムーディー・ブルースのメロトロン奏者)により、当時アメリカに移住していたマイクのホームスタジオでスタートしたようです。その後、ムーディー・ブルースのプロデューサーだったトニー・クラーク(Tony Clarke)とジョン・ロッジ(Vo/B)が加わりますが、ピンダーが離脱したため、ジャスティンとジョンの二人を中心としたプロジェクトになりました。そして、ムーディー・ブルースが設立したレーベル「Threshold Records」に当時所属していたバンド「プロビデンス(Providence)」のメンバーがバックに加わって制作されました。いくつかの曲は『デイズ・オブ~』などでオーケストレーションを手掛けたピーター・ナイト(Peter Knight)によってオーケストラアレンジが加えられました。また、アルバムジャケットのイラストは、やはりムーディー・ブルースの作品と同様にフィル・トラヴァース(Phil Travers)によるもので、こうした陣容からも『Blue Jays』はムーディー・ブルースのスピンオフ作品と捉えて差し支えないでしょう。『Blue Jays』の楽曲をひとことで言い表すなら、私は「リリカル(抒情的)」という言葉を選びます。ムーディー・ブルースはメンバー全員がソングライターであり、ドラムのグレアム・エッジ以外はボーカルも担当するということで、コンセプト性が高い中にもバラエティ豊かな曲調で構成されているのが特色なのですが、バンドの中でも特にメロディーメーカーとしての才能に秀でたジャスティンとジョンの楽曲のみによる本作は、彼らのソフトな歌声とも相まってたいへんメロディアス、かつ抒情的です。特に、LP盤ではA面の最後に配されていたジャスティン・ヘイワードによる曲「Nights Winters Years」は4分弱の短いバラードですが、曲の終わりで "Tell me, how can love be wrong and feel so right?" の後、オーケストラが壮大なクライマックスを型作るのが非常に印象的な曲です。「I dreamed last night lyrics」もオーケストラをバックにした広がりのある楽曲です。歌詞については、ムーディー・ブルースの場合、寓話的なものや思索的な内容のものが少なくないのですが、ある朝ふと孤独に気づいて途方に暮れる「This Morning」に始まる本作の歌詞は、「Remember Me (My Friend)」「My brother」「Saved By The Music」など、「友」に向かって歌いかけるようなものが目立ちます。こういった歌詞が、当時バンドが活動を休止しており、ジャスティンとジョンを除くメンバーがそれぞれ別々の道を歩んでいたことを反映しているのかどうかは、想像するしかありませんが…ジョン・ロッジによるバラード「Maybe」もオーケストラを伴う曲ですが、"Someone who needs Someone who feels Someone who sees can find you" と歌うこの曲も、私には「愛する人」というよりは「友」に向けて歌われているような気がしてなりません。少なくとも「今は遠く離れてしまった誰か」に向けた曲であることは確かなところかと思います。いずれにしても本作は「プログレ」的な音楽世界とは縁遠いものですが、全編にわたって美しく暖かみのある音楽に溢れており、私はもしかするとムーディー・ブルースのアルバム以上に本作をよく聴いているかもしれません。<参考文献>アルバム『Blue Jays』ライナーノーツ(Mark Powell)
2024.11.02
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さて今回はプログレバンド、イエスのアルバムの話です。前の記事で、私が最初に入手したイエスのアルバムは『リレイヤー(Relayer)』だと書きましたが、この作品は、1974年12月にリリースされました。その前年のアルバム『海洋地形学の物語(Tales from Topographic Oceans)』は全英チャートで一位を獲得しましたが、イエスの中心メンバーであるジョン・アンダーソン(Vo)のスピリチュアル志向全開の抽象的な音楽世界が特徴と言えます。それだけならよかったのですが、あまりに極端な大作主義(4曲のみでLP2枚組、1曲が約20分でトータル約80分…クラシック好きからすればマーラーかよ!と突っ込みたくなります)に不満を募らせたキーボードのリック・ウェイクマンが、アルバム完成後に脱退してしまいました。とはいえ、そんな無茶なアルバムが全英一位を獲得してしまうのが、プログレ全盛の70年代イギリスの音楽シーンなのでしたが…なおリック・ウェイクマンは、イエスと並んでプログレ5大バンドの一つであるエマーソン・レイク・アンド・パーマー(ELP)の故キース・エマーソンと並び、おそらくもっとも有名なキーボード奏者の一人でしょう。さて、そのウェイクマンが脱退してしまったイエスは、新しいメンバーとしてギリシア人のキーボード奏者であるヴァンゲリス(日本人には映画『南極物語』や2002年FIFAワールドカップのテーマ曲などでおなじみでしょうか)を招聘しようとしますが断られ、スイス出身で当時「レフュジー(Refugee)」のメンバーだったパトリック・モラーツを迎えます。Wikipedia英語版の記事によると、モラーツはスイスのローザンヌ音楽院の出身で、ジャズ奏者としてキャリアをスタートさせたとあります。マーティン・ポポフによるイエスの評伝 "Time And A Word The Yes Story" によると、モラーツがイエスのオーディションを受けた際、イエスが演奏していたのが当時制作中だった「サウンド・チェイサー(Sound Chaser)」だったそうです。モラーツはイエスの面々が非常に速いテンポで正確かつ巧みに演奏しているのに圧倒されたと回想しています。後にバンドに正式加入したモラーツは、この曲のイントロパートを手掛けた模様です。さてこの曲、モラーツによるキーボードの速弾きにアラン・ホワイトのドラムとクリス・スクワイヤのベースが絡むイントロは、モラーツの個性か表れたのかジャジーな雰囲気が漂いますが、ここから非常にハイテンポのリフに突入します。これが16分の17拍子(分解すると10/16+7/16)というかなり特殊な変拍子で、「サウンド・チェイサー」のタイトルに相応しく、これだけ音符の多い曲もめったにないというくらい、音を詰め込みまくっています。ジョン・アンダーソンのボーカルが入ると、4拍子に3拍子を織り交ぜたメロディーになりますが、ボーカルを別にすると各パートの細かい動きは変わりがありません。中間部では16分の10拍子(たぶん)のリフから、スティーブ・ハウの即興的なギターソロによるカデンツァ的なパートが入り、ここでいったん音楽が静まり、弱音のままボーカルが入ってきます。ひとしきり歌った後、再びイントロの音型が再現し、そこから16分の17拍子のリフがテンポを変えながら続きます。そしてこのリズムで "Cha Cha Cha・・・" というシャウト(インドネシアのケチャ風?)が入った後、3拍子でキーボードのソリスティックなパートが続き、最後は例のリフが戻ってきて複合拍子のような形でクライマックスを作ります。9分余りの演奏時間は、当時のイエスの「大作主義」を考えると特別に長いとはいえませんが、技巧性の高さと劇的な構成が相まって、音楽的な濃密さが非常に高い楽曲と言えます。当時イエスを脱退していたウェイクマンは「サウンド・チェイサー」を含むアルバム「リレイヤー」について「(「リレイヤー」を)自分が気に入らなかったことにとても満足だ」と、皮肉とも強がりとも取れる回想をしていますが、その理由は本作が "far too jazzy and freedom(あまりにもジャジーで自由すぎ)" だったことによるようです。ちなみにウェイクマンは英国の王立音楽アカデミーでピアノを学んだ人で、クラシックをバックボーンとしています。そのいっぽう、「リレイヤー」が最も好きなアルバムの一つだと言うギタリストのハウは、音楽がジャジーになり過ぎないようモラーツをコントロールする必要があった、と述べています。そのモラーツはイエスの次作『究極(Going for the One)』の前に脱退し、再びウェイクマンが加入することになります(彼はその後も何度か「出戻り」を繰り返します)。さて「プログレ」というジャンルの音楽には明確は定義があるわけでは(たぶん)ないのですが、いくつかの特徴があり、演奏時間が10分~20分と長大な曲が多い、メロトロンやハモンドオルガンを含むキーボードの比重が高い一方でボーカルの比重が必ずしも高くない(ただしイエスの場合はアンダーソンのボーカルが重要な要素を占めていました)、変拍子などを含め技術的な難易度が高い、ジャズやクラシックなどジャンル複合的、などの点が挙げられます。「サウンド・チェイサー」も、極端に長大ではない点を除けばこれらの特徴が表れていると言えるでしょう。<参考文献>Martin Popoff "Time And A Word The Yes Story"
2024.11.02
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河合奈保子さんの楽曲について書き始めてから、最初に書こうと思っていたのと違う曲の記事になってしまうことが多いのですが、前回の「AS LONG AS WE'RE DREAMING」の記事も、はじめは「WHAT COMES AROUND GOES AROUND」について書くつもりだったのでした。それが、『DAYDREAM COAST』も含めてアルバムの最後はバラードが多いな~というところから、先日開封した「PURE MOMENTS」のDVDに収録されている『DAYDREAM COAST』のミュージックビデオでは「AS LONG AS WE'RE DREAMING」が逆にオープニングになっていて…という感じで話がそれていったのでした。ということで改めて「WHAT COMES AROUND GOES AROUND」なのですが、この曲の日本語タイトルは「振られてあげる」となっており、これも売野雅勇さんの訳詞です。"What comes arund goes around" は直訳すると「巡り来るものは巡って行く」みたいなかんじですが、もともと "What goes around comes around" という言い回しあるようで、日本語で言うと「因果は巡る」とか「因果応報」などにあたることわざです。これが「振られてあげる」になってしまうのはやはり売野さんならではでしょうか。といっても、竜真知子さんが担当したA面の曲も、日本語タイトルに原題とのつながりが感じられるのは「手をひいてアンジェラ」くらいですが…いずれにしても、この曲はサビの歌詞 "What comes around always goes around" 以外は日本語で、「AS LONG AS WE'RE DREAMING」と違って英語バージョンもないので、元の詞に「振られてあげる」的な内容が含まれていたかどうかは不明です。売野さんの訳詞の傾向から、含まれていなかった可能性のほうに賭けたいところですが(笑)。楽曲に関して言うと、前に少し触れましたがアレンジ的にはリズムワークの巧みさが印象的です。ベースのリフからはじましり、そこに特徴的な音色のキーボードやギターが加わり、さらに奈保子さんのボーカルが乗ってくるのですが、ネイサン・イースト(日本では「ネイザン」の表記が浸透しているようです)のベースを別にすれば、メロディアスな要素が少なく、すべてのパートがパーカッションかのように扱われています。冒頭の歌詞「振られてね あげるわ うまく私」は奇妙な倒置形が印象的ですが、これも音はミ♭(Es)で変わらないため、発音とリズムが命といってもよい歌い出しですが、この「たった五文字」(←某曲からの引用)には、日本語の発音の良さ、音の切りや抜き方に長けた奈保子さんの歌唱の特徴がよく表れています。通常、一つの音に対してカナ文字一つが対応する日本語の詞でロックを歌うと、どうしても平板でもっさりした印象を与えがちになるのですが、この曲ではむしろ歌詞が日本語であることがプラスに作用しており、「振られてね」で始まるキレのあるAパートから、一気に音程が上がる「わからない人ね」以降のBパートはレガート気味で歌声の伸びが素晴らしく、たいへんメリハリの効いた表現になっています。もう一点、この曲に限らずアルバム全体に関して言えることですが、装飾音の一種であるモルデント(基本の音から一瞬1音下がり、すぐ元に戻す歌い方・奏法)を使っているのも特徴の一つかと思います。この曲ではサビの "around" や、「ひとりになりたいの」の「の」のところで使っています。もともと奈保子さんはグリスアップ(しゃくり)やグリスダウン(フォール)といった音程装飾はデビュー当初から使っていた印象がありますが(フォールに関しては「ハリケーン・キッド」のBメロなどが典型)、モルデントや、その逆のプラルトリラーを多用するようになるのは本作あたりかと思われます。特にモルデントに関しては、後に自作曲を歌うようになってからも「GT天国」などロック調の曲ではよく使われていた印象があります。すこし違う見方から話をすると、英語の上手い日本人歌手がロックを歌うとなんだか「カッコよく」聴こえるのは、別に英語自体が「カッコいい」ということではなく、ロックというジャンル自体がそもそも英語に適応して発展してきたことによる、という面があるのではないかと思います(これは実はクラシックにも似た側面があるような気がしますが)。一音に対して音節が対応する英語の歌詞の場合、自然に歌うだけでメロディーに起伏がつきやすく(音節にしたがって装飾音もつけやすい)、たとえば "to" とか "as" などの前置詞や"and" などの接続詞をアップビートにあてることで、躍動感のあるメロディーにはまりやすいといったアドバンテージ(?)があります。英語でロック、あるいは「洋楽系」の楽曲を巧みに歌う日本人歌手は、90年代あたりから珍しくなくなった印象がありますが(浜田麻里さんのように80年代から活躍されている方もいますが)、河合奈保子さんのようにザ・日本語(←褒めてます)でロックを歌いこなすことができた歌手は必ずしも多くないのではないでしょうか。
2024.11.01
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前の記事で、河合奈保子さんの初期のシングル曲の振付について書いたので、その後の曲の振付について書こうと思います。筒美京平さんと売野雅勇さんのコンビによる「エスカレーション」以降のシングル曲では、それまでの曲に比べると動きの大きな振付が目立つようになる印象があります。といっても以下の記事、言葉で説明してもわかりづらい部分が多々あると思いますので、もし見たことが無い方(この記事を読んでくださっている方にそんな人がいるかわかりませんが…)は、映像を確認していただければと思います。左手でマイクを持つ奈保子さんの場合、右手の振りが中心になることは前も書きましたが、「エスカレーション」ではほぼ全曲を通して右手のアクションが付いた振付になっています。間奏でオケのコードに合わせて繰り返し右手を真っすぐ高く掲げるところが特にポイントでしょうか。ちょっと余談ですが、1990年代の「ザ・ベストテン同窓会」で、奈保子さんはダチョウ倶楽部の3人をバックダンサーとして「エスカレーション」を歌っていますが、ダチョウ倶楽部の振付も奈保子さんのオリジナルの振りをアレンジしたような形になっていました。あと「エスカレーション」の「ダンサー」と言えば、何といっても「ザ・トップテン」のプールに出現したドイツ人が外せないところでしょうか(笑)。「エスカレーション」ではどちらかと言うと「縦」の動きが目立った印象がありますが、続く「UNバランス」では「横」の動きが中心の振付でした。平メロの部分ではあまり大きな動きはないのですが、サビの部分で右手を水平にして横に流れるような動きが特徴的です。おそらく「バランス」というワードから着想を得たのだと思いますが、私はこれを見るとついサッカーのメキシコ代表チームが国歌斉唱時にやる敬礼(?)を連想してしまいます。。曲の終わりでは右手を斜めにクロスさせるような振りを入れて、最後に高く上げてから折りたたむのですが、たしか「夜のヒットスタジオ」でここのタイミングを取り間違えて本来と異なる振りになって苦笑いするシーンがあったと記憶しています。こういう生演奏ならではのハプニングも魅力の一部だと思いますので、頼むから「夜ヒット」のボックスを(以下略)。次の「疑問符」は落ち着いたバラード系の曲ということで振りはほぼ無かったかと思います。振付ではありませんが、85年の「レッツゴーヤング」ではピアノ弾き語りで「疑問符」を歌っており、これはNHKの「河合奈保子プレミアムコレクション」に収録されています。ちなみに、この「疑問符」弾き語りの後、奈保子さんは続けて中森明菜さんの「セカンド・ラブ」のピアノ伴奏をしています。「プレミアムコレクション」の映像では、疑問符の演奏後、「セカンド・ラブ」のために素早く譜めくりをする奈保子さんの姿が映っています。「微風のメロディー」はまた一転して明るくポップな曲調ですが、こちらも振付はおとなしめで、しいて言えばサビのところで膝の動きでリズムを取るあたりが特徴でしょうか。続く「コントロール」はアップテンポのアグレッシブな楽曲ということで、イントロでのステップや、サビに入るところで膝を上げるアクションが入ったりしますが、歌唱中の動きはそれほど大きくありません。想像でしかありませんが、この曲は特にサビの部分でフルパワーでの歌唱が続くため、あまり大きなアクションは入れられなかったのではないかと思います。「夜のヒットスタジオ」など、フルコーラスで歌った後は若干肩で息をするような場面もあったように思います。ポイントとしては「コントロールやめて」のところで右手を前に伸ばして手を回転させる振りでしょうか。イントロの「コントロール」のコーラスでも同じ動きを入れているので、「コントロール」というワードから連想した振りのように感じられます。ちなみに、この曲の最後も「メキシコ代表ポーズ」で締められます。次のシングルは「唇のプライバシー」ですが、奈保子さんの大ファンであるシャンソン歌手のソワレさんが『タモリ倶楽部』に出演した時の放送「 “河合奈保子”振り付け祭りの特訓現場に潜入!!」でのランキングで一位になっているのが「唇のプライバシー」だったことを、とあるウェブサイトで見ました。私もこの順位には完全に同意したいと思います(笑)。ポイントはいろいろあるのですが、何といっても特徴的なのはサビの最後の部分「唇のプライバシー」のところで入れる右手の動きでしょう。歌詞の「唇」の入りのところで手を開いて顔の前にかざし、その後「のプライバシー」に入る前にこれを横向きの「チョキ」の形に変えて横に流していくのですが、ここでの艶のある歌声と相まって、一度見たら忘れない印象的な振りになっています。この「パー」から「チョキ」の動きは、バックのオーケストラヒットに合わせているのですが、生放送で演奏ごとにテンポが違う中でもタイミングを外さないのはリズム感の良さの表れでもあるかと思います。この後アウトロで横を向いてやや複雑なアクションを入れ、最後に再び右手を顔の前にかざして締めくくります。この手の動きは「唇」や「プライバシー」からの着想と思いますが、考えた人は天才です、と言ったら大げさでしょうかね(笑)。さて、テレビでのインタビューなどを見ていると、河合奈保子さんは自他共に認める「運動音痴」であったようです。たしかに、ミュージックビデオなどで走っている映像を見ると運動神経が良さそうには見えませんし、合宿中も施設にあるプールで「泳いだことがない」と言ったりしていることからも、積極的にスポーツをするタイプではなかったようです。ですが、特に「エスカレーション」以降の振付や、その後のライブパフォーマンスなどを見ていると、決して「運動音痴」という印象は受けません。もちろん、激しいダンスを交えながら歌うというようなことはないものの(といってもライブでは派手に飛び跳ねながら歌っていたりしますが)、テレビやライブでのパフォーマンスからはむしろ運動神経が良さそうに見えるのは、基本的にリズム感が良いことと、手や足の動きに「緩み」がなく、メリハリの効いたアクションをされていることによるものと思われます。ということで「北駅のソリチュード」以降の振付については、また記事を改めて書くつもりです。
2024.10.31
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河合奈保子さんのアルバム『DAYDREAM COAST』は、既述のとおりデイヴィッド・フォスターらが参加して初の海外レコーディングとなりました。アルバムはA面が「SURF SIDE 5」、B面は「WIND SIDE 5」という副題が付いています。「SURF SIDE」はいかにも西海岸的な明るいロックナンバーの「IF YOU WANT ME」に始まり、アダルトな雰囲気の「SECOND NATURE」とデイヴィッド・フォスターとのデュエット「LIVE INSIDE YOUR LOVE」を挟んで、ライブでも良く歌われた「I LOVE IT」「ANGELA」という曲順です。「WIND SIDE」のほうはリズムワークが目立つ「WHAT COMES AROUND GOES AROUND」に始まり、ピーター・セテラとのデュエット「LOVE ASSISTANT」、個人的には『NINE HALF』に入っていても不思議はない印象の「WISDOM RIDE」と続き、最後の2曲「HOME AGAIN, ALONE AGAIN」と「AS LONG AS WE'RE DREAMING」の2曲はバラードです。そういえば、奈保子さんのアルバムはバラードで終わる構成のものが多く、「Twilight Dream」「Sky Park」「ハーフムーン・セレナーデ」「FOR THE FRIENDS」など、世間一般にとってはともかく、ファンにとっては忘れがたい曲が多いのが特徴ではないでしょうか。変わったところでは企画アルバム『愛・奈保子の若草色の旅』の終曲「車窓」も隠れた名曲と言ってよいでしょう。アルバムでは最後に収録されていた「AS LONG AS WE'RE DREAMING」ですが、ミュージックビデオとして発売されたVHS版『DAYDREAM COAST』では冒頭に配されており、間奏とアウトロが長いロングバージョンとなっています。いっぽう、アルバムとは異なる英語バージョンの「AS LONG AS WE'RE DREAMING」がビデオの最後に収録される形を取っていました。これらミュージックビデオに使用されたバージョンは、後に発売されたSACD盤のボーナストラックとして収録されています。さて、アルバム『DAYDREAM COAST』の楽曲にはいずれも日本語のタイトルが付いていますが、「AS LONG AS WE'RE DREAMING」の日本語タイトルは「夢が過ぎても」です。原題を直訳すれば「私たちが夢見ている限り」ですので、これを「夢が過ぎても」と訳してしまうのは「意訳」というより「超訳」に近いのですが(少なくとも英語のテストならバツをもらうでしょう)、私はありだと思います。後のアルバム『NINE HALF』で「SAY IT WITH YOUR LOVE」を「何も言わないで」と訳してしまう売野雅勇さんならではの手法でしょう。「エスカレーション」を始めとする奈保子さんのシングル曲では刺激的な内容の歌詞が目立つ売野さんですが、アルバム作品では魅力的な詞を数多く書いており(いや、シングル曲の詞が魅力的でないと言うつもりは無いのですが…)、この曲もサビの「消えてゆく夢の前では 誰もやさしくなるわ」「ふたりであの日見ていた夢を 忘れないでね」といった歌詞が、使っている言葉自体は何の変哲もないのですが、高音から徐々に下降していくメロディーに乗ると、とても印象的に聴こえます。この「消えてゆく夢の前では…」の英語バージョンの詞は、私の貧弱なリスニングゆえかなり心許ないのですが「As long as we're dreaming there're some have their meaning it's all that it's seeming to be」と聴こえます( "its all that" の後はかなり自信ありません…文法的には"it seems to be" のほうが自然ですが、奈保子さんの歌は"seeming" のように聴こえます)。大雑把な意味としては「わたしたちが夢見ている限り そこには何かしら意味があり それがすべてじゃないか」みたいなかんじかと思われます。「ふたりであの日見ていた…」は「As long as we're trying ther's no denying…」という歌詞を反映しているように感じます。英語詞の場合、一つの「音符」に対して「音節」が対応し、場合によっては "we're" のように複数の単語を入れることができますが、日本語の場合、基本的には一つの音に一つのカナ音(専門的には「モーラ(拍)」と呼ぶようです)しか入れられないため、原詞に忠実な日本語の歌詞にするのは元より不可能なので、ここは訳詞者の腕の見せ所ということになります。"As long as we're dreaming…" という詞には、夢(dream)が過ぎてゆくものであるからこそ、そこに意味を感じ取ろう、というようなニュアンスがあり、それが「消えてゆく夢の前では 誰もやさしくなるわ」という形に汲み取られたのではないか、と私は想像しています。歌詞の話がいささか長くなりましたが、奈保子さんのバラードに関して、歌い方がどうのと贅言を要するのは野暮というものかと思います。しいて言えば、この曲はAORらしくメロディー構成がシンプルですが、低音の平メロに対して、サビでいきなり高音のド(C)に飛ぶところと、本作では積極的に使っているヘッドボイスを最後のロングトーンで聴かせるところがポイントでしょうか。こうした歌唱法は、2度目のL.A.レコ―ディングとなった『NINE HALF』でさらに洗練されることになりますが、それはまた後日ということで。
2024.10.30
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先日、出張のため休日に結構長時間の電車移動があったのですが、その移動中に久しぶりに聴いたのが『Ys I & II 完全版』のサントラでした。私が持っているのはMP3版で、基本的にすべての曲が2ループ分入っており、全56曲、トータルで実に3時間12分に及ぶ大ボリュームです。さすがに一気に全曲を聴き通したわけではありませんが、改めてその魅力に浸りながら聴き入ったのでした。もともとPC-88用のゲームとして制作された『Ys(イース)I』と『Ys II』は、その後さまざまなプラットフォームで再販されており、家庭用ゲーム機ではファミコン、PCエンジン(米光亮さんがアレンジを担当)などに移植されたほか、Windows向けのリメイクとして『エターナル』『完全版』、PS2版の『エターナルストーリー』に加えてPSP版の『クロニクルズ』と様々なバージョンがあり、BGMのアレンジもそれぞれ特徴があります。中でも私が特に気に入っているのが『完全版』で、これは『Ys エターナル』と『Ys II エターナル』を一本化したものですが、『Ys I』は「エターナル」のアレンジをベースとしつつ再アレンジが施されています。『Ys II』のBGMに関しては「エターナル」と「完全版」は同じものが使われています。後にPSPで発売された『Ys I & II Chronicles』では、BGMモードをPC-88版、オリジナルモード、クロニクルズモード(新アレンジ)の3種類から選ぶことができましたが、このうち「オリジナルモード」は『Ys I & II 完全版』と同じものです。私が持っているのは、この「オリジナルモード」がMP3で販売されたもので『Music From Ys I & II Chronicles (Original mode)』という、ややこしいタイトルになっています。さて、『Ys I & II 完全版』のアレンジの特徴は、FM音源のサウンドを多用しながら原曲のアレンジをバージョンアップしている点にあります。ファルコム作品のBGMは、1996年の『英雄伝説IV 朱紅い雫』や『ブランディッシュVT』を最後にFM音源からMIDIに移行していましたが、2000年代に入ると再びFM音源のサウンドを取り入れるようになり、『Ys II エターナル』でもFM音源が前面に出たアレンジとなりました。『Ys I & II 完全版』発売にあたり、『Ys I エターナル』のBGMが再アレンジされたのは、MIDIサウンドから『Ys II エターナル』と同じFM音源を取り入れたアレンジに変更して統一感を持たせるためだったと考えられます。私が持っているMP3版は、全曲が2ループ収録されていると最初に書きました。もともと古代祐三さんが作った楽曲は、1ループがそれほど長くないものが多く、中には「TEARS OF SYLPH」のように5小節しかないような短い曲もあるのですが、「完全版」のアレンジでは1ループと2ループでアレンジを変えたり、さらにブリッジまたはコーダ的なパートを追加するなど手を加えているため、曲によっては非常に長く、2ループで5~6分かかるものが少なくありません。元が1ループ5小節、2ループで1分もかからなかった「TEARS OF SYLPH」の場合、大きく引き伸ばして2ループで3分半弱になっています。古代さんによる原曲のエッセンスを損なうことなく、そこに音楽的な「展開」を加えることで、『Ys I』と『Ys II』の楽曲たちが理想的な「発展形」で生まれ変わったと言えます。FM音源だけでなく、要所にはエレキギターなども取り入れており、たとえば『Ys II』のラストバトル「TERMINATION」では主旋律にFM音源を使いつつギターとドラムも使ったヘビーなバンドサウンドになっており、間奏部ではエモーショナルなギターソロが聴けるなど、文句のつけようが無い素晴らしいアレンジになっています。演奏時間が実に7分42分と、ゲームミュージックとしてはけた違いに長いのですが、まったく飽きの来ない仕上がりです。また、曲をただ引き伸ばすだけではなく、激しい曲の中にも「静」の要素を取り入れたりと起伏の付け方も巧みです。「TERMINATION」に限らず、サントラ全体を通じてドラムや打ち込みビート系の音、その他パーカッションが抜けの良いクリアな音作りになっているのもポイントです。『Ys I & II Chronicles』で新アレンジを手掛けた神藤由東大(じんどう ゆきひろ)さんには申し訳ないところですが、私にとっては『Ys I & II 完全版』はサウンドも文字通り「完全版」と言うにふさわしく、これを超えるものは他にないと思っています。今後、新たな『Ys I & II』のリメイクが行われるとしても『完全版』以上のものを作るのは非常に難しい、というか、サウンドに関してはこれ以上リアレンジする必要はないと、個人的には感じています。ちなみに、神藤さんはFalcom Sound Team j.d.k.の社外スタッフとして、ファルコム作品のBGMに多く携わっていますが、もともとクラシック畑の出身であることもあってヴァイオリンを使った楽曲やオーケストラ風のアレンジを得意としています。『クロニクルズ』で一部ボーカルアレンジを導入したことについては、ファンの間で賛否両論あったようです(これが神藤さんの意向によるものかは不明ですが)。私はさほど目くじらを立てることではないとは思いますが、『Ys』シリーズに関して、ボーカル入りの楽曲は作品の世界観にそぐわない、という感覚はたしかにあります。と言いつつ、『パーフェクト・コレクション イース』に収録されている、南翔子さんが歌った「Endless History」(『Ys I』のエンディング曲「THE MORNING GROW」のボーカルアレンジ)は名曲だと思います。ところで『Ys I エターナル』と『Ys II エターナル』のオープニングムービーは、じつはアニメーション監督として有名な新海誠さんが手がけています。Wikipediaの記事によると、彼は学生時代から日本ファルコムでアルバイトをしており、そのまま入社してオープニングムービーの制作などに携わっていたようです。その新海さんによる現時点での最新作『すずめの戸締り』では劇中で河合奈保子さんの「けんかをやめて」が使用されて話題になったそうですが、私がこの話を知ったのはわりと最近だったりします…
2024.10.29
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河合奈保子さんの9枚目のアルバム『DAYDREAM COAST』は1984年8月28日にリリースされました。初のL.A.レコーディングとなった本作は、有名プロデューサーのデイヴィッド・フォスターがアレンジ、キーボード、デュエットで参加、他にもTOTO(トト)のメンバーであるジェフ・ポーカロ(ドラム)とマイク・ポーカロ(ベース)の兄弟、シカゴの元メンバーであるピーター・セテラ(アルバム帯の表記は「セトラ」)、マイケル・ランドウ(ギター)などのミュージシャンが参加しています。作詞・作曲はトニー・ハイネス、アル・マッケイ、ラルフ・ジョンソンなど複数のメンバーがクレジットされていますが、訳詞はA面を竜真知子さん、B面を売野雅勇さんが担当しました。80年代には多くの歌手が海外レコーディングを行っていますが、奈保子さんは本作の後も翌年の『NINE HALF』、89年の『Calling you』と、L.A.レコーディングのアルバム3作をリリースしています。本作から『さよなら物語』『STARDUST GARDEN -千・年・庭・園-』『NINE HALF』までの4つのアルバムには、シングル曲が一曲も含まれていません。これらの作品に並行する時期、奈保子さんは筒美京平&売野雅勇コンビによる「唇のプライバシー」「北駅のソリチュード」「ジェラス・トレイン」や林哲司さん作曲で初のオリコン一位を獲得した「デビュー」(両A面扱いで「MANHATTAN JOKE」とカップリング)やピーター・ベケットの「THROUGH THE WINDOW」など、非常に充実したシングル曲を歌っていたのですが、こうした楽曲群が一切アルバムに含まれていないことは、逆にアルバムの完成度やコンセプト性の高さを物語っているように思われます。ちなみに、85年以降バッキングボーカルMILKとして奈保子さんをサポートした宮島律子さんは、アルバム『DAYDREAM COAST』を聴いて奈保子さんの大ファンになったことをご自身のブログに書かれています。「Naoko Premium」ボックスのライナーノーツによると、『DAYDREAM COAST』のレコーディングは前作『Summer Delicacy』のリリースより早く1984年4月下旬から約3週間にわたって行われたそうです。このため、アルバムリリースより前の7月24日、よみうりランドEASTでのバースデーライブから始まった夏のツアーでは、すでに本作の楽曲が歌われていました。デイビッド・フォスターとのデュエット曲「LIVE INSIDE YOUR LOVE」は、ライブではトランザムの高橋のぶ(伸明)さんとの共演で歌われました。前述のとおりシングルカットはありませんでしたが、「ANGELA」や「IF YOU WANT ME」は「レッツゴーヤング」でも披露され、その映像はNHKの「河合奈保子プレミアム・コレクション」に収録されています。この2曲を始め、本作の楽曲はその後のライブでもよく歌われており、現時点で最後のライブとなっている1995年のツアー「音の流れの中で…」でもメドレーの中で「WHAT COMES AROUND GOES AROUND」が歌われていたことが、ネット上で確認できます。引き続き「Naoko Premium」のブックレットを参照すると、本作は奈保子さんにとって単に初の海外録音というだけでなく、アルバム(音楽)づくりとの関わり方が変わるひとつの転機となったようです。当時、いわゆる「アイドル」と呼ばれる歌手はレコーディングと言っても、バックの音が完成した段階で歌入れのみ参加するのが通例だったようで、多忙なスケジュールを考えれば無理もない話ではありますが、本作の場合、奈保子さんはリズムパートの段階からレコーディングに参加し、現地ミュージシャンとの交流とも相まって音楽づくりの楽しさを体感することができたようです。同年末、「唇のプライバシー」で日本レコード大賞の金賞を受賞した際のインタビューでも、このレコーディングで現地ミュージシャンから大いに刺激を受けた様子が窺え「歌手になってよかった」「これからもっともっと音楽というものを勉強していきたい」とコメントされています。また、同年秋ごろ、みのもんたさんが司会を務めるテレビ番組で「スター追跡クイズ」というコーナーがあり、その中で奈保子さんが空き時間に楽屋で何をしているか?というクイズがありました。この問題の正解VTRの中で、手書き譜を使ってポータブルシンセを弾きながら「秘めやかなラヴ・ストーリー」を歌っている貴重な映像が見られます。おそらく自作曲を歌いたいというモチベーションは元から持っていたのではないかと想像しますが、『DAYDREAM COAST』のレコーディングでの体験から、本格的な作曲活動につながっていったのかもしれません。ちなみにこのクイズ、「作詞」と回答した杉本哲太さんが正解ということになっていましたが「秘めやかなラヴ・ストーリー」は小谷野宣子さんの作詞で、VTRで歌われている歌詞「昔 読んだ詩集の…」は完成版と同じものです。したがって奈保子さんがしていたのが「作詞」だというのが正解になってしまうのは本当はおかしいのですが…笑。なお、「秘めやかなラブ・ストーリー」と同じく最初期の自作曲である「夢かさねて」ではご本人が作詞もされています。<参考文献>「Naoko Premium」ボックス ライナーノーツ(土屋信太郎)
2024.10.28
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前の記事で触れた通り、いまアラン・B・ホーとドミトリイ・フェオファノフによる "SHOSTAKOVICH RECONSIDERED" を読んでいます。英文が比較的平易なので読みづらいことは無いのですが、読み進めるうちに、果たしてこれが真面目な論評に値するものであるかどうか、かなり疑わしくなってきました。気になるところに付箋を付けながら読んでいますが、すでにかなりの量になっています。細かく検討し始めるときりがないので、ある程度はこだわらないほうが身のためかもしれません。この「気になるところ」というのは本書の内容を鵜呑みにするのが危険と考えられる箇所で、こういったところは可能であれば注釈で言及されている文献(特に、エリザベス・ウィルソンによる "SHOSTAKOVICH A Life Remembered" や、他の書籍、あるいは本書が批判するターゲットであるローレル・フェイやリチャード・タラスキンの見解も確認する必要があります。当然これには手間がかかりますし、私のような素人にはそもそもアクセスできない文献も少なくありません。何より、本書の注釈に頻出する典拠は "Conversation between Volkov and the authors" つまり「ヴォルコフと著者らの会話」です。これは第三者に確認のしようが無いばかりでなく、『ショスタコーヴィチの証言』の「信憑性」を証明するのに、当の著者であるヴォルコフとの会話を根拠としているのですから、タラスキンがフェオファノフを「ヴォルコフの弁護人」と断じるのは、単なる罵倒ではなく、フェオファノフの立場をそのまま表しているものと理解してよいでしょう(フェオファノフは法学の学位も持っているようです)。最近は、 "SHOSTAKOVICH RECONSIDERED" に対するタラスキンの批判は具体的な論拠を明確にしていない、という意見もあるようですが("SHOSTAKOVICH, SOVIET CULTURAL POLICIES, AND THE FIFTH AND THIRTEENTH SYMPHONIES: A CONTEXTUAL EVALUATION" Nathanael Tyler-James Batson, 2024)、ここまで本書を読んだ印象を率直に述べると、専門家の態度としては、本書を学問的な批判対象としている暇があったら自身の研究に労力を割いた方がまし、と考えるのは十分首肯できるところがあります。タラスキンの文章はたしかに論争的で、見方によっては挑発的とも言える面がありますが、彼の見解を批判するにあたり、ホーとフェオファノフの示した「証拠」を無批判に受け入れる態度は決して学問的とは言えません(そのタラスキンも先年亡くなってしまいましたが)。タラスキンに比べると、2002年の論文でホーとフェオファノフに対する反証を示したフェイは、ある意味几帳面と言えるかもしれません。私が "SHOSTAKOVICH RECONSIDERED" に対して感じる最大の違和感は、著者らがフェイの提示した根本的な疑義に対する論点を(おそらくは意図的に)ずらしているように見えることです。フェイの1980年の論文を紹介した記事で述べたとおり、彼女は『証言』に書かれている「内容」の真贋を問題としているのではなく、それが本当に「ショスタコーヴィチがヴォルコフに直接語ったものなのか」という点に疑義を表明しています。『証言』の真贋論争は、あくまでこの点が問題であることは、前の記事で強調したとおりです。そのうえで、この点が証明されない以上、どこまでがショスタコーヴィチの言葉でどこからがヴォルコフの見解であるのか判別することは困難だとフェイは述べているのです。『証言』の内容そのものに対してもいくつか疑問点を挙げていますが、それは副次的なものと見なせます。ところが、ホーとフェオファノフは、『証言』を「最初から最後まで嘘」と断じたソ連当局の見解をフェイがそのまま受け入れているかのように解釈しーもちろん、そんなことは無いのですがーその前提で、あたかもフェイやタラスキンが『証言』の内容をすべて否定しているかのような論調で、熱心に「反論」を展開しています。そのための資料収集の熱意は相当なものですが「ヴォルコフとの会話」を除けば新出資料はほとんどなく、既出の文献から自説に都合のよいところを切り取って使っているところが目立ちます。そこまでしていながら、そもそもの論点がずれているのですから、私には彼らが風車に立ち向かうドン・キホーテのように見えてくる、と言ったら失礼でしょうか。また、ホーとフェオファノフは、フェイをはじめとするヴォルコフの批判者が『証言』をまともに読まず「批判ありき」の姿勢で「真実」を歪めていると言うのですが、フェイの論文を通読したうえで本書を読んでいる私としては、はたしてホーとフェオファノフはフェイの論文をまともに読んだのか、読んだのだとしたら意図的に論点をずらしているようにしか見えません。というわけで "SHOSTAKOVICH RECONSIDERED" を読むのはかなり苦痛になってきているのですが、ホーとフェオファノフ流に「読まずに批判している」と言われても困るので、ともかくも通読を試みようと思います…<参考文献>Allan B. Ho and Dmitry Feofanov WITH AN OVERTURE BY VRADIMIR ASHKENAZY"SHOSTAKOVICH RECONDIDERED"Laurel E. Fay “Shostakovich versus Volkov: Who‘s Testimony?”
2024.10.27
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引き続き、河合奈保子さんのアルバム『Summer Delicacy』の曲を紹介したいと思います。既述のとおり、A面の楽曲を八神純子さんが作曲した本作ですが、B面の楽曲は来生えつこ(作詞)・たかお(作曲)姉弟が担当しました。そのB面の冒頭が「メビウスのためいき」です。奈保子さんの楽曲で「メビウス」というワードが使われている曲といえば、筒美京平&売野雅勇コンビによるシングル「唇のプライバシー」のB面に使われた「メビウスの鏡」もありますが、いずれ劣らぬ魅力的な作品です。というか、「メビウスのためいき」には「鏡」というキーワードも使われており、売野さんはに触発されて「メビウスの鏡」の詞を書いたようにも思われますが…さて、八神純子さんの曲は、シングル「コントロール」や前に紹介した「夏の日の恋」のように、高音域でフルパワーの歌唱や容赦ないロングトーンを要求されるタフな曲が目立ちますが、来生たかおさんの場合は、押しの強い派手さとは無縁ながら独特のメロディーラインが特徴で、こちらも違った意味で歌いこなすのが難しい楽曲を作られています。「メビウスのためいき」の場合、特にBパートの「だけどふだんは クールなひと」以降の半音階的にぐるぐる回るメロディーが連続するところがいかにも「メビウス」な雰囲気なのですが、かなり音程が取りづらい難所なのではないかと思われます。サビでは「もつれた心を」や「ためいきばかりで」といった歌詞でのキレのある発音が印象的です。かつて、ある偉大な音楽家は「アーティキュレーション(発音)」によって音楽はまったく表情が変わる、ということを言っていましたが、奈保子さんの歌い方は正にそれを体現しています。マニアックなところでは、サビの終わりの歌詞「あー あなた」「あー 罪な」の「た」や「な」のところでわずかにフォール(ダウンポルタメント)がかかっているのが、意図的か自然にそうなったかはわかりませんが、個人的にはツボなポイントです。どのアルバムについても同じようなことを言っている気がしますが、『Summer Delicacy』もまた、一つ一つの曲に魅力があります、というか、河合奈保子さんの歌唱が曲の魅力を引き立たせていて、繰り返し聴いても飽きることがありません。その中で、B面から特に自分が好きな一曲を選ぶならば「メビウスのためいき」ということになるのですが、この曲のキーもEマイナー(ホ短調)だったりします。前に「風の船」の記事で、奈保子さんのEマイナーの曲に惹かれる、と書きましたが、やはりその法則(?)がここでも自分には当てはまるようです。ちなみにこの曲、確かにEマイナーではあるのですが、ピアノで音程を確認しながら聴くと、通常よりかなり高いピッチでチューニングされていることがわかります。普通、ポップスやクラシックの場合は基準音となるラ(A4)の音が440~442ヘルツあたりの音程(古楽奏法の場合、より低いピッチになります)でチューニングされますが、「メビウスのためいき」の場合、正確にはわかりませんが少なくとも442より高いピッチになっているのではないかと思います。そのうち書くつもりですが、同じB面の4曲目でシングルカットされた「疑問符」は異常に高いピッチになっていることから、「メビウスのためいき」のチューニングも意図的なものではないかと思われます。さて、ここから余談なのですが、チューニングについて調べていたら偶然、ジョン・レノンの「イマジン」は444ヘルツでチューニングされている、という記事に遭遇しました。ラ(A4)が444ヘルツだと、ド(C5)の音は528ヘルツとなり、これがDNAを修復する効果(?)の高い「ソルフェジオ周波数」というもので、ジョン・レノンは世界平和のメッセージを込めた「イマジン」にこの周波数を使った(ために暗殺された)のだとか…あやしいな~と思って、ネット上にある「イマジン」を聴いてみましたが、私のいい加減な耳には普通に440ヘルツのチューニングにしか聴こえませんでした…ということで「イマジン」のピッチに関しては都市伝説が出回っているようですが、「メビウスのためいき」は確かに高めのピッチでレコーディングされています。なお、「イマジン」のドラマーは、別に書いたプログレに関する記事で触れたイエス(←バンド名)に加入するアラン・ホワイトだった、という話は都市伝説ではありません。彼はイエスの代表作のアルバム『危機(Close to the Edge)』が完成した後脱退したドラマーのビル・ブルーフォードの後を受けて加入し、ライブツアーのために演奏時間20分弱の難曲「Close to the Edge」をわずか3日ほどで習得したと言われています。
2024.10.27
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前に「BOSSA-NOVA」についての記事で、河合奈保子さんが20歳のバースデーライブでオフコースの「YES-NO」を歌った話について書いたので、YESつながりでプログレバンド「Yes(イエス)」の話をします…いや、これ以上トピックを広げてどうする、と我ながら思ってはいますが、とにかく今回はプログレの話です。ちなみにバンド「イエス」の英語表記は、 アルバムのロゴだと字体が崩れていてよくわかりませんが、"Yes" とするのが一般的のようです。私がスタジオアルバムをコンプリートしているミュージシャンは河合奈保子さん以外にも何人(組)かいますが、デビッド・ボウイ、X JAPAN(『ART OF LIFE』を入れても4枚しかありませんけど…)、そしてイエスやムーディー・ブルースをはじめとするいくつかのバンド(大半がプログレ系)があります。ほかに、ショスタコーヴィチのCDが無数にあります。何という支離滅裂な組み合わせだと思われる方もいると思いますが、自分にとって魅力的な音楽を聴いてきたらたまたまこうなった、というだけの話です。前に少し書きましたが、私がプログレに関心を持ったのは、『ファイナルファンタジー』シリーズのコンポーザーとして有名な植松伸夫さんがプログレ好きで、たしかサントラCDのライナーノーツの中でイエスやジェネシスに言及していたのがきっかけです。とりあえず「イエス」「ジェネシス」というバンドが存在することを知った自分は、「プログレ」なるものがいかなる音楽なのかわからないまま、たまたまCDショップで目に付いたイエスのアルバム『リレイヤー(Relayer)』を購入しました。一緒にキング・クリムゾン(King Crimson)の『ザ・コンストラクション・オブ・ライト(The ConstruKction of Light)』も買ったと記憶しています。ちなみに、プログレバンドとして最も有名なのはロングセラーのギネス記録を持つアルバム『狂気(The Dark Side of the Moon)』を出したピンク・フロイドだと思いますが、これは小学生の頃、PCゲーム『レリクス』のオープニング曲が「ピンク・フロイドのようだ」と当時のPCゲーム雑誌に書かれていたので、名前だけ知っていました。今にして思うと、『レリクス』の曲のどこがピンク・フロイド風なのかよくわかりませんが…実際の曲は、オープニングクレジットによると、何とクリスタルキング…もしかして「キング」つながりで私の頭の中で「クリスタルキング」がいつの間にか「キング・クリムゾン」に変換された可能性もなくはありません…いずれにしても、私にとってプログレとゲームミュージックは不思議なつながりがあるようです。当時は今のように手軽にインターネットで曲を聴くという訳にはいかず、身の回りにプログレに詳しい人もいなかったので、どんな音楽なのかはまったく知らないまま「植松さんが好きなジャンル」という動機だけで購入したのでした。そして私はイエスの『リレイヤー』、キング・クリムゾンの『ConstruKction of Light』両方とも気に入り、繰り返し聴くようになりました。当時は、曲調がよりハードで、歌詞に社会派っぽいテーマを感じさせるキング・クリムゾンの『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』の方をよく聴いていたような気がします。これらのアルバム、じつはいずれも彼らの代表作というわけではありません。『リレイヤー』は1974年のアルバムですが、70年代イエスの代表作と言えば何といっても『危機(Close to the Edge)』や『こわれもの(Fragile)』が挙げられます。これらのアルバム制作時のメンバーだったビル・ブルーフォード(ドラム)とリック・ウェイクマン(キーボード)は『リレイヤー』の時点では脱退しており、ドラムはアラン・ホワイト、キーボードはパトリック・モラーツに交替していました(ちなみにモラーツは後に一時期ムーディー・ブルースにも参加しています)。キング・クリムゾンのほうは、デビュー作『クリムゾン・キングの宮殿』が、インパクト絶大なアルバムジャケットと共に有名です。これらの作品を入手したのは多分少し後のことですが、『こわれもの』や『危機』を聴くうちに、私はだんだんイエスの世界に嵌まっていったのでしたが、アルバムを本格的に買い集めるようになったのは社会人になってからのことです。『こわれもの』と『危機』はジョン・アンダーソン(Vo)、スティーヴ・ハウ(G)、リック・ウェイクマン(Key)、クリス・スクワイヤ(B)、ビル・ブルーフォード(Dr)というメンバー構成で制作された作品で、私の記憶ではこの5人によるアルバムは、この2作のみです。『こわれもの』収録の「ラウンドアバウト」は、彼らが2017年にロックの殿堂入りした時にも演奏された代表曲のひとつで、ベースのリフがたいへん印象的な曲なのですが、バンド結成時から一貫して在籍していたベーシストのクリス・スクワイヤがすでに故人となっていたため、同じくプログレバンドとして有名なラッシュ(Rush)のゲディー・リーがベースを務めるという、マニアにとっては夢のようなコラボが実現しました。なお、この時あわせて演奏された「ロンリー・ハート」では、同曲リリース時にはイエスから離脱していたギタリストのスティーブ・ハウがベースを弾くという、これまた珍しい場面が見られました。イエスを中心に、プログレに関する記事も余裕があったら書きたいと思っています…
2024.10.26
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前に河合奈保子さんの「夜ヒットBOX」を頼むから出してほしい件について書きましたが、さらにハードルが高い、というか、おそらく不可能だとは思いますが、「ミュージックフェア」での河合奈保子さんの歌唱映像も何とかできないだろうか、と思ったりします。というのはたまたまですが、前の記事を書いていた時に「レモネード・サンバ」で検索したら、どういう訳か「ミュージックフェア」での「シェルブールの雨傘」の映像が上のほうに出て来たのでした。「ミュージックフェア」の歌唱映像は、たいへん貴重かつ素晴らしい演奏が多いのですが、奈保子さん自身の持ち歌の映像も含めて今は見られなくなっているものが多いようで、「シェルブールの雨傘」も削除されたものと思っていたのですが、思いがけず出て来たので見入ってしまった次第です。この「シェルブールの雨傘」は、おそらくテレサ・テンさんと共演した回の映像で、1986年のものと思われます。私は世代的にはもちろん元のミュージカル映画を知らず、DVD化されたものも見たことは無いのでオリジナルについてはまったく知らないのですが、奈保子さんはヘッドボイスで情緒豊かに歌っており、それだけでも十分印象的なのですが、リピートのたびに転調してキーが上がっていくこの曲、最後の転調で奈保子さんはミックスボイス(あるいはヘッドミックス的な歌声)に切り替えて大きく表情を変えています。それまではウェットな雰囲気だったのが、情熱的な歌唱になり劇的な盛り上がりを見せています。曲調に応じた表情の変化は、もともと奈保子さんの得意とするところでしたが、この「シェルブールの雨傘」は特に印象的で、こうしたスケールの大きい表現は「ハーフムーン・セレナーデ」を通して身に着けられたものではないかと私は思っています。テレサ・テンさんとの「ある愛の詩」もたいへん印象的なデュエットでした。「ミュージックフェア」といえば、30年にわたって番組の音楽監督を務めたのが服部克久さんで、「けんかをやめて」のライブ弾き語りバージョンのアレンジャーでもあります。その服部さんとピアノ連弾で共演しつつ「SOMETHING」を歌った映像は、服部さんの追悼番組でも映像が使われたのでご存じのファンの方々も多いでしょう。それと同じ回の放送(1985年3月17日)では、ピアノ三重奏をバックに小柳ルミ子さん、河合奈保子さん、しばたはつみさんの三人による「エリーゼのために」という、とても珍しいコラボレーションがありました。バックのピアノ奏者も豪華で、服部さんがいるのは当然として、『宇宙戦艦ヤマト』などの音楽で知られる宮川泰さんに、ジャズピアニストの前田憲男さんという顔ぶれでした。わずか2分ばかりの演奏なのですが、女声三人のコーラスがたいへん美しく、奈保子さんはこの中で主旋律のパートを担当していました。また、1988年のようですが、服部さんのピアノをバックに「追憶(The Way We Were)」を歌ったこともありました。これも美しさとパッションを併せ持つ素晴らしい歌唱です。もちろん私はリアルタイムで見たわけではありませんが、この演奏を公開収録で聴けた方々がうらやましい限りです。この曲は、出だしと終わりがハミングになっているのですが、(偉そうな言い方になってしまい恐縮ながら)こうした弱音を聴かせられるのが「本物の歌手」だと思う次第です。だいぶ遡って、正確な時期はわからないのですが(髪型から、おそらく「けんかをやめて」か、その少し前あたりの頃だと思うのですが…)、宇崎竜童さんのギターをバックに山口百恵さんの「さよならの向こう側」を歌った回もありました。初期のライブで「秋桜」や「いい日旅立ち」などのカヴァーを披露していた河合奈保子さんですが、この「さよならの向こう側」も、正統派の歌唱で原曲の良さを引き出し、バックのオーケストラ&宇崎さんのギターに負けない芯の強さを見せた演奏です。サビの最後に大きくリテヌート(音を保持するような歌い方)をするところでは、バックの音がなくなって奈保子さんの歌声だけになるのですが、この数拍のリテヌートがたいへん印象的です。同じく山口百恵さんの「秋桜」は、「兄」である西城秀樹さんと共演した回だと思いますが、「ミュージックフェア」でも披露しています。上述の初期のライブでは非常に情熱的な「秋桜」を披露している奈保子さんですが(幸いなことに、この録音は「Naoko Live Premium」またはタワーレコード限定の「NAOKO IN CONCERT」で聴くことができます)、「ミュージックフェア」の演奏ではヘッドボイスで、というか、むしろ敢えて「ファルセット」と言いたくなる抒情的な歌い方をされています。それから、また時期が遡りますが、1984年に作曲者であるさだまさしさんと共演した「秋桜」もありました。たしか、さだまさしさんとは「精霊流し」も共演したのではなかったかと思います。さらに加えて、五輪真弓さんとグランドピアノ2台で共演した「恋人よ」、高橋ノブさんとMILKの二人をバックに歌った「海は恋してる」、加山雄三さん、森山良子さん、本田美奈子さんという超レアな顔ぶれの「君といつまでも」、松田聖子さんとの「振り向かないで」などなど…こうした素晴らしい演奏の数々、形に残せないとしても、サブスクリプションでも何でも良いからきちんとした形で聴けるようにしてもらえたら、と願わずにいられない日々であります。。
2024.10.26
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河合奈保子さんのアルバム『Summer Delicacy』は1984年6月1日にリリースされました。デビュー5周年という節目の年を迎え、本作から3か月ごとに1作というハイペースでのアルバムリリースが続きますが、初のL.A.レコーディングとなった『DAYDREAM COAST』、全曲筒美京平&売野雅勇コンビによるコンセプト性の強い2作『さよなら物語』に『STARDUST GARDEN -千・年・庭・園-』と、いずれも充実した作品が続きます。『Summer Delicacy』は前作『HALF SHADOW』までの手法を踏襲して、A面とB面で作詞作曲陣を変えていますが、A面は全曲を八神純子さん作曲(作詞は八神さん自身が2曲、売野雅勇さんが2曲、三浦徳子さんが1曲)により、B面は『あるばむ』と同じく来生えつこ・たかお姉弟が担当しています。八神純子さんは圧倒的な歌唱力を持つシンガーソングライターですが、他の歌手への楽曲提供が非常に少なく、Wikipediaの情報によると、奈保子さん以外への提供は岩崎良美さん、太田貴子さん、沢田研二さん、宮崎好子さんにそれぞれ1曲ずつあるのみです。アルバム片面を担当し、シングル曲「コントロール」に未発表曲「デリカシー」を加えて7曲(カヴァー含む)を提供しているのは異例、というか河合奈保子さんのみです。「Naoko Premium」の解説によると、スタッフサイドが以前から八神さんの楽曲を奈保子さんに歌わせたかったとのことですが、ご本人も奈保子さんの大ファンであったようです。1981年には雑誌の企画で対談しています(残念ながらネット上で確認できる記事内容では、お二人が音楽に関してどのような話をされたのかが不明ですが…)。奈保子さんは八神さんの妹さんと同じ学年にあたるようで、八神さんから見て親近感もあったようです。1983年の『オールスターものまね王座決定戦』では、本人の予想に反して2回戦に進んだ奈保子さんが、八神さんの代表曲のひとつ「みずいろの雨」を歌って見事に2回戦を突破しました。普通、ものまねでこの曲を選ぶ人はいないと思いますが、このあたりはやはり奈保子さんの思い入れによるものだったのではないかと思われます。ちなみにこの「みずいろの雨」の演奏、歌いだしのところでバックバンドの演奏テンポが遅かったため、奈保子さんは振り返ってバンドにアピールしてテンポを上げてもらうという珍しい場面が見られます。余談になりますが、準決勝では「東京ららばい」を歌って91点と高得点を出しましたが惜しくも敗退しました。さて『Summer Delicacy』A面には、八神さんのカヴァーである「夏の日の恋」も収録されており、これはシングル「コントロール」のB面にも採用されました。上述の「みずいろの雨」では、この時期、自身の持ち歌ではあまり使っていなかったヘッドボイスを使い(「マーマレード・イヴニング」のアウトロでのスキャットなど例外もありますが)、オリジナルの八神さんよりもソフトな歌い方になっていました。それに比べると、「夏の日の恋」ではオリジナの八神さんが非常に高音域のヘッドボイスでソフトに歌っているのに対し、ヘッドボイスを使わず低いキー(Aメジャー→Aマイナー)で歌う奈保子さんバージョンは、サビでのパワーが前面に出た表現になっています。「低いキー」と言っても、サビのリピートではレ(D)まで上がりますので、ヘッドボイスを使わない音域としては十分高く、八神さん提供のシングル曲「コントロール」と同様、歌い通すのはかなりきついのではないかと想像します。八神純子さんと河合奈保子さんは、いずれもフルパワーでの声量が半端ではないという点や、歌声の美しさなど、共通した特徴があると感じます。「夏の日の恋」の終わりは実に4小節に及ぶロングトーンがありますが、お二方ともに素晴らしく伸びのある声で歌われています。そのいっぽうで、全体的にレガート気味に歌う八神さんに比べると、奈保子さんの歌い方はやはりスタッカートとレガートの区別が明確なため、同じ歌詞でもかなり異なる印象を与えます。また、奈保子さんバージョンの方がメジャー→マイナーへの転調による変化がより明確に感じられますが、これは大村雅朗さんによるアレンジ(ギターによる下降音型のリフ)の影響が大きいでしょう。総じて「夏の日の恋」は、いわばお二人の「似ていると同時に異なる」面がよく表れていると言えるのではないでしょうか(「似て非なるもの」ではなく…)。じつはこの記事、元はアルバム冒頭の「太陽の下のストレンジャー」について書くつもりでいたのですが、八神さんと奈保子さんの聴き比べをしているうちに「夏の日の恋」の話になってしまいました。「太陽の下のストレンジャー」もとても魅力的な曲なので、改めて書きたいと思います。
2024.10.25
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『ショスタコーヴィチの証言』をめぐるその後の状況についての記事で書きましたが、今アラン・B・ホーとドミートリイ・フェオファノフによる"Shostakovich Reconsidered"を読んでいます。かなり分厚い本ですが、文体は比較的平易なので思ったよりも楽に読み通せそうです。彼らが批判しているリチャード・タラスキンの文章は、エッセイ的なものであっても内容がかなり専門的な上に語彙が独特なので、私のようにいい加減な英語力かつ音楽の専門教育を受けているわけではない人間にとっては、かなり苦労してやっと読めるレベルなのですが、それに比べれば"Shostakovich Reconsidered"は「易しい」本と言えます。さて、この"Shostakovich Reconsidered"に序文を寄せているのが、指揮者/ピアニストのウラジーミル・アシュケナージです。2004年から2007年までNHK交響楽団の音楽監督を務め、その後桂冠指揮者となったので、日本のクラシックファンにはなじみのある指揮者の一人といってよいでしょう。といっても、私は彼が指揮する実演に接したことはありません。高齢となった現在、彼は音楽活動から引退しているようです。"Overture"と題してアシュケナージが寄稿した序文は、英文で3ページの短いものですが、ここで彼は何を語っているでしょうか。冒頭で紹介されるのは、アシュケナージのピアノ教師がショスタコーヴィチと初めて会った時のエピソードです。それによると、彼女はショスタコーヴィチと同じアパートに住んでいたのですが、ある時ショスタコーヴィチから自宅の水道が止められていると語りつつ、その理由はわかっている、と言ったそうです。それは、いわゆる「ジダーノフ批判」により、ショスタコーヴィチが他の作曲家(アシュケナージは名前を挙げていませんが、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、ミャスコフスキーら)と共に窮地に立たされていた時期のことでした。アシュケナージは、ショスタコーヴィチが置かれていた困難な状況は音楽界においては周知のことだったが、それらは決して公然と語ることはできなかったと述べたうえで、ショスタコーヴィチがソ連のシステムを忌み嫌っていたことはまったく疑いない(without a shadow of doubt)と言います。この後、アシュケナージは自身が聴くことができた、いくつかのショスタコーヴィチ作品のモスクワ初演について語っています。実際にモスクワ初演に接したかどうか明記されていませんが、交響曲で言うと第10番から13番について言及されています。これはアシュケナージの個人的な体験や印象をつづったものですから、他人がとやかく言う筋合いのものではないかもしれませんが、これらの曲について、もっぱら「ソヴィエト体制との関係性」の文脈でしか語られていないのは、音楽家の発言としてはやや気になるところではあります。ショスタコーヴィチの生涯がスターリンおよびソ連の政治体制との関係性を抜きに語れないのは理解できますが、その音楽は、果たしてそうした政治的文脈「だけ」によって意味を持つものなのでしょうか?そして『証言』を読んだアシュケナージは、この本に「ほんとうのショスタコーヴィチ」が書かれていることに疑いを持たなかったと言います。そして、『証言』に対するソ連当局の非難が無ければ、その信憑性が問われることは無かったと「確信」している、とも述べています。いっぽうで、西側の「いわゆる「専門家」」(So-called 'expert')の何人かが「真実を歪める」ことに未だ固執しており、あるいはソヴィエトの現実に対して受け入れがたいほどの知識の欠如を示している、と苦言を呈しています。カッコ付きの「専門家」という言い方は、ホーとフェオファノフが "Shostakovich Reconsidered" で繰り返し使っている用法であり、それに倣ったアシュケナージが意識しているのが、フェイやタラスキン、とりわけ後者であることは明らかです。最後にアシュケナージは、まともな読者がホーとフェオファノフが示した「証拠」を読めば、『証言』の信憑性について疑問を呈することは決して無いだろう、締めくくっています。なお、カッコつきで「証拠」と書いたのは私の意図によるものであることをお断りしておきます(原文の evidence にカッコはありません)。さて、ホーとフェオファノフが真贋論争に終止符を打ったかどうか、結論的なところは "Shostakovich Reconsidered" を読み終えてから判断したいと思いますが、アシュケナージの見解については若干書いておきたいことがあります。それは、フェイが2002年の論文で指摘しており、このアシュケナージの序文自体にも示されていることですが、彼とショスタコーヴィチの間には直接のコンタクトがほとんど無かった、ということです。1963年に西側に亡命したアシュケナージは、生前のショスタコーヴィチに会う機会は限られており、それも基本的にフォーマルなものでした。当然ながら、ヴォルコフが取材していたと主張する1970年代のショスタコーヴィチの姿を、アシュケナージが知る由もありません。ヴォルコフは、少なくとも数回はショスタコーヴィチに取材したことは明らかで、その内容のいくらかは『証言』の内容にも反映されていることが窺われますが、アシュケナージが『証言』の信憑性について確信できるほど、ショスタコーヴィチを知る機会が無かったであろうことは踏まえておく必要があるでしょう。もちろん、直接ショスタコーヴィチを知っていなければ『証言』について語る資格は無い、などと言うつもりはありません(そんなことを言い出したら、私には当然その資格はないことになります)。ここでアシュケナージとショスタコーヴィチの関係について敢えて言及しているのは、『証言』の内容に疑義を表明している人の大部分(そのほとんどが、生前のショスタコーヴィチと近しい関係にありました)が、そこに書かれている内容の真偽を問題としているのではなく、そこに描き出されたショスタコーヴィチの人物像や人間性が、彼らの知るショスタコーヴィチと乖離していることを問題としているからです。アシュケナージは「専門家」が「真実を歪めている」と言っていますが、そうではなく『証言』はショスタコーヴィチの「人間性を歪めている」可能性があることに、彼は無自覚であるように見受けられます。ここでさらに、彼が指揮したショスタコーヴィチの演奏について言及することもできますが、長くなりすぎるので別の機会にしたいと思います。<参考文献>Allan B. Ho and Dmitry Feofanov WITH AN OVERTURE BY VRADIMIR ASHKENAZY"SHOSTAKOVICH RECONDIDERED"
2024.10.24
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河合奈保子さんのアルバム『HALF SHADOW』B面は谷山浩子さんの作詞・作曲で、「エスカレーション」についての記事でも少し触れましたが、季節の移ろいの中での恋の行方を描写したストーリー仕立ての構成になっています。したがって、5曲を続けて聴くのが本来の姿かと思われますが、もしその中から1曲選ぶとすれば、私がダントツに好きなのは3曲目、唯一マイナー調で書かれた「風の船」です。魅力的な曲が詰まっている本アルバムの中でも白眉と言ってよい楽曲だと思っています。まあ、私の場合基本的にマイナー調が好きなせいもありますが。「風の船」のキーはEマイナー(ホ短調)で、ミニアルバム『ビューティフル・デイ』に収録された、同じく谷山浩子さん提供の佳作「こわれたオルゴール」も、私の記憶が正しければEマイナーで書かれています。そして河合奈保子さんの代表作である「ハーフムーン・セレナーデ」も、前に書いたフィギュアスケートの記事のとおりEマイナー、筒美京平&売野雅勇コンビの傑作シングル「唇のプライバシー」もEマイナー、アルバム『JAPAN』収録の「晩夏に人を愛すると」もEマイナーだったかな…ということで、どうも私は奈保子さんの歌うEマイナーの楽曲にどうしようもなく惹かれてしまうようです。さてこの曲は、アルバムの中では「渚のライムソーダ」の次に配されています。超ポップに弾けた「ライムソーダ」の後に、静かなピアノのイントロで始まる3連バラードの「風の船」が流れるのでコントラストがとても大きいのですが、奈保子さんもがらりと歌い方を変えていて、なかなかこれをうまく表現する語彙が自分にないのがもどかしいのですが、とにかく心に染み入る歌唱です。「風の船」は、「渚のライムソーダ」で出逢った彼から「手紙が来ない」まま時が過ぎてゆくのを「風の船」にたとえて歌ったものですが、ほぼピアノのみでアレンジされた1コーラス目では、弱音で愁いを帯びた表情で歌われます。ちょっと細かい話ですが、サビの「秋の日のたそがれ」のソフトな発音が美しいです。どんなに弱音で、かつ情感を込めていてもあくまで「歌」になっているところが奈保子さんの特徴であり魅力と言えるかと思います。どんなジャンルの音楽にも言えると思いますが、弱音の表現にはその歌手や演奏者の力量がよく表れます。たとえば、ちょっと話が飛躍しますが、ムラヴィンスキーが指揮したレニングラード・フィルの演奏が凄まじいのは、強奏時の凝集力だけではなく、弱音での恐ろしく柔軟な表現、あるいは張り詰めた緊張感にあります。2コーラス目になるとベースとドラムにストリングスも加わり、アレンジが厚めになりますが、これに合わせて奈保子さんの歌い方も情感が増してきます。ものすごく単純に言うと声量を上げているだけなのですが、言葉の端々に気を配った細やかな歌い方をされているので、聴き手にとっては声量を上げたというよりも歌の「主人公」の「想い」がよりダイレクトに伝わってきます。サビのリピートではさらに募る想いが溢れるように「風の船 風の船…」と歌われます。80年代はドラマ等の仕事を入れずにひたすら歌手としての道を追求していた奈保子さん、『ヤンヤン歌うスタジオ』のコントなどでは時に拍子抜けするほどの演技を披露して逆に笑いを取っていましたが、歌における表現力と、いわゆる「演技力」とはまったく別次元のものであることがよくわかります。個人的には、これでアルバムが終わっても良いくらい余韻を残す歌なのですが、ここからまた一転してちょっと能天気な「45日」へと続くのが谷山浩子さんらしい、といえばそうなのかもしれません。ところで、恥ずかしながらわりと最近気づいたことなのですが、アルバム『HALF SHADOW』がA面を「Shady Side」、B面を「Sunny Side」と銘打っているのは前に紹介した通りですが、いずれも構成としてはそれぞれの「Side」を象徴するような導入的な曲(A面は「イノセント」、B面は「WHATHER SONG」)を冒頭に置き、続く曲は季節の流れに沿って配されているのが特徴です。B面はストーリー的に「時間軸」が歌われるのでわかりやすいのですが、A面のほうも夏の「エスカレーション」に続いて秋の「UNバランス」、同じく秋の「ママレード・イヴニング」、そして曲名のとおり「12月のオペラグラrス」で終わる形です。そしてA面が「別れの冬」で終わるのに対して、B面が「結ばれる冬」のエンディングで対比しており、構成的によく考えられた作品になっています。繰り返しになりますが、『HALF SHADOW』は他にも魅力的な楽曲がたくさんあるのですが、その辺りはまたの機会にしたいと思います。
2024.10.23
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「Please Please Please」について書いた記事の中で、私が最初に入手したアルバムは『JAPAN』だと書きました。これより前に「ゴールデン☆ベスト~シングルA面コレクション~」を聴いて、アルバムも聴きたくなった私はとりあえず近所のブックオフに出かけたところ、たまたま売っていたのが「JAPAN」だったのでした。すでに「ゴールデン☆ベスト」で「十六夜物語」を知っていたということもあり、『JAPAN as waterscapes』というタイトルからのイメージと違和感なく聴いたように記憶していますが、家族は「十六夜物語」が「演歌みたい」だと言っていました。私は「十六夜物語」の抒情性もさることながら「桜の闇に振り向けば」に痺れました。何度かアルバムを聴くうちに「晩夏に人を愛すると」も、心に染み入ってきました。さて、この「演歌みたい」という感想、当時のファンの方々の中にもあったようです。「夜ヒット」では着物を着て歌った回もありましたし、最優秀歌唱賞を受賞したプラハのコンクールでも着物で歌われていたことが「徹子の部屋」で紹介されていました(もちろん、私はそれらをリアルタイムで見ていたわけではありませんが)。たまたま読んだ音楽関係の方の記事でも「十六夜物語」のコード進行は、ザ・演歌的なものだという指摘がされています。ちなみにちょっと話がそれますが、その記事には「MY SONG」というアルバム『Scarlet』から『Members Only』までに付けられた標題が英語として誤りである、というような記述もありました。記事を書かれた方はアメリカへの留学経験もあるようなので、何らかの根拠があってのことと思われますが、理由が書かれていないので、なぜそのような記述をされたかは不明です。私の英語力はかなりいい加減ですが、「MY SONG」という言葉の使い方は特におかしいとは思われず、何なら私の好きなイギリスのバンド The Moody Blues のアルバム『童夢("Every Good Boy Deserves Favour")』には、まんま "My Song" という曲があります。ちょっと『JAPAN』から話がそれてしまいましたが、ここで ①『JAPAN』の音楽は演歌なのか?ということと、②仮に演歌だったとして、それがアルバムの価値とどう関わるか、という二つの論点を考えてみましょう。これらに対する私の考え方としては、少々身も蓋もないのですが、①については「どっちでもよい」であり、②は「アルバムの価値とは関係ない」です。そもそも私は演歌についてはまったく疎いので、『JAPAN』あるいは「十六夜物語」のコード進行が演歌的である、と言われても「そうなんですね」としか答えようがありません。そして、『JAPAN』の音楽が演歌的なものだったとして、それがアルバムの音楽的な価値とは何の関係も無い、という点は私にとっては自明のことです。音楽の「ジャンル」はアルバムの価値に関わるのではなく、単に聴く側の好み(つまり主観)に影響する、というだけのことだと考えています。私は別のカテゴリでショスタコーヴィチに関する記事も書いていますが、同じ理由で、クラシックの音楽が他のジャンルより価値がある、などとは考えていません。「演歌みたい」という印象がアルバムのセールスに影響した可能性はあるかもしれませんが、それでも本作はオリコン最高7位で、前作『Scarlet』よりは下がっていますが、さほど影響があったわけでもなさそうです。ちなみに、オリコン順位(売上)とアルバムの完成度の関係についての私の考え方は、前に人気や売上と歌手としての実力について書いた記事と同じです。仮に『JAPAN』の音楽が演歌であるとすれば、その「演歌的」な世界をポップシンガーとしての歌唱法で表現した、という点にむしろこのアルバムの価値があると私は思います。「桜の闇に振り向けば」にしても「十六夜物語」にしても、いわゆる「こぶし」を用いない一方、ポップス的な装飾表現(いわゆる「しゃくり」など)を使って歌われており、「十六夜物語」のサビの歌詞で三度出てくる「月」のロングトーンなどは、演歌では使われないタイプの歌唱法ではないかと思います(まあ、上述のとおり私は演歌に疎いのでそんなことはないのかもしれませんが…)。いっぽうで、もともと演歌歌手である坂本冬美さんが持ち歌をポップス的なアレンジで歌ったりすることもあるわけですが、その坂本さんは「また君に恋してる」のカヴァーが大ヒットしたことでも知られています。演歌歌手が別ジャンルの曲をカヴァーするとヒットして、ポップシンガーが演歌(的な曲)を歌うと「演歌みたい」で済まされてしまうのであれば、それは演歌というジャンルに対する偏見を意味するのではないか、などど、演歌にまったく知見のない自分が感じるのは変でしょうか。ちなみに河合奈保子さんは「能登半島」や「帰ってこいよ」の素晴らしいカヴァー(生演奏)がありますが、ここで奈保子さんが「こぶし」をつけていないことに文句をつけるのも、かなり的外れなことのように思われます。そもそも、オリジナルの石川さゆりさん自身の歌い方が、時期によってかなり違うことがネット上の映像から看取されるわけですが、同曲異演の本来の魅力は、ものまね・歌まねではないのです。河合奈保子さんはライブも含めて多くのカヴァー演奏がありますが、そのいずれもオリジナルの模倣ではなく、かといって自分流のキャラクターに変えるというのではなく、オリジナルの持つ魅力をあくまで音楽的に昇華して表現している点に最大の特徴があるように私には感じられます。というわけでつまるところ、演歌だろうと何だろうと、自分にとって好きなものであればそれでよい、という、前に書いたのと同じような結論に落ち着くわけです。
2024.10.22
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「河合奈保子さんとエーデルワイス」というタイトルでピンと来る方は、それなりにコアなファンの方かと思われます。私がこの話についてどこで知ったかよく覚えていないのですが、河合奈保子さんと「エーデルワイス」がなぜつながるかと言うと、1996年、奈保子さんの婚約発表直後に収録されたテレビ番組『関口宏の東京フレンドパークII』出演時のエピソードによります。この番組に、奈保子さんは当時ミュージカル『ヤマトタケル』で共演していた三田村邦彦さんと出演しました。余談ですが『ヤマトタケル』はもともと1994年に上演された作品で、1996年2月~3月にかけて再演されていたようです。残念ながらこのミュージカル『ヤマトタケル』の映像や音楽についてはほとんど情報がないようで(スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』の方は有名のようですが)、私が知る範囲で言うと、奈保子さんの婚約発表を報じた番組の中で、稽古時の映像がわずかに流れたのを見たことがあるのみです。さて『東京フレンドパーク』は、関口宏さんが「支配人」、渡辺正行さんが「副支配人」の「フレンドパーク」で二人ペアの出演者がさまざまなアトラクションに挑戦する、という番組です。アトラクションをクリアすると10万円相当の金貨一枚をゲットし、最後にその金貨一枚につき一回のダーツゲームにトライできる、という形になっていました。この番組の中に「フール・オン・ザ・ヒル」というアトラクションがあり、これは出演者の一人が音楽に合わせて光るパッドを叩いて曲を演奏し、もう一人がその曲を当てるというものでした。最初のデモンストレーションでは、奈保子さんの婚約を祝って「結婚行進曲」が演奏される予定だったようですが、アシスタントの三井ゆりさん(と思われます)が失敗して何の曲だかわからない、という一幕もありました。さてこのアトラクション、最初のトライは奈保子さんが演奏し、三田村さんが回答する形でしたが、ここで堺正章さんの「さらば恋人」の冒頭部分をうまく演奏して、三田村さんが一発で正解して幸先よくスタートします。ですがその後は失敗が続いて、4回目のトライでは1発で正解しないとクリアできない、という状態に追い込まれます(1回間違えるごとに正解時の得点が減っていくルールでした)。ここで三田村さんが演奏し、奈保子さんが回答することになりますが、三田村さんは出だしから失敗してしまい、一音も出せないまま終わってしまいます。一音も出ていない状態ですから、普通なら曲名がわかるはずもありません。会場にいた誰もが、当てずっぽうで曲名を答えて失敗に終わる、という光景を想像したと思われますが、何と奈保子さんは「エーデルワイス」と正解して見事にコインをゲットし、会場からは盛大な拍手が起こりました。一音も聴かずに何の曲かわかったのは、光るパッドのリズムと、3番目に光ったパッドが「高いド」の音であることを、奈保子さんがそれまでのトライで憶えていたためでした。このアトラクションでは、パッドを正しいタイミングで叩かないと音が出せないのですが、それとは別にビート音が入るため、良く聴いていれば曲が3拍子であることがわかります。そして、パッドの光るタイミングから最初の3つの音が「ターン・タ・ターーン」という組み合わせ(3/4拍子だとするとニ分音符・四分音符・符点二分音符)であることと、3つ目の音が「高いド」である、という情報を組み合わせて「エーデルワイス」という回答を導きだしたものと思われます。テレビ放送時には、奈保子さんが指さしているパッドの音が確かに「ド」の音である旨のテロップが表示されました。奈保子さんの音感の良さを示すエピソードで、これには三田村さんも驚愕というより、やや唖然としているのが画面から窺えます。正解として流れた「エーデルワイス」は、変ロ長調で「レーファード…」という音型になっていました。といっても、私の音感はかなりいい加減なので、これはピアノで確認したものです(これまでの記事でも「この曲のキーはEマイナー」とかもっともらしく書いていますが、聴き間違いが多いので記事にする際は事前にピアノで確認していることを白状しておきます…)。さて、河合奈保子さんは別の機会に「エーデルワイス」を歌ったことがありました。1991年に大阪センチュリー交響楽団(当時)と共演した際、ポニージャックスと山口俊彦さん(および客席のお客さんたち)とともに歌われたものですが、この時の演奏も変ロ長調でした。同じ「エーデルワイス」でも、調(キー)が違えば当然音が変わるわけですが、もともとこの曲が使われた『サウンド・オブ・ミュージック』の動画を見ると、映画の中では一音低いキーである変イ長調で歌われていたようです。この場合、3つ目の高い音は「シ♭」になります。Wikipedia「エーデルワイス(1959年の曲)」の項にリンクされている録音は、ずっと低いヘ長調の演奏になっています。大阪センチュリー交響楽団との共演は『東京フレンドパーク』出演時より約5年も前のことですが、この時演奏された変ロ長調の「エーデルワイス」が、もしかしたら奈保子さんの印象に残っていたのかもしれません。
2024.10.21
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さて、「エスカレーション」に引き続いて「UNバランス」についても書いておきたいと思います。河合奈保子さんの14枚目のシングルであり、アルバム『HALF SHADOW』のA面3曲目に配されています。奈保子さんはこの曲で、1983年末の紅白歌合戦に出場しました。で、この曲なんですが、現時点でのWikipediaの記事について若干の私見を述べておきたいと思います。まず「アンバランスという英語は無く、imbalanceである」というもっともらしい記述については、普通に"unbalance(アンバランス)"という英単語があり、辞書にも載っています("imbalance"という単語も存在しますが)。「UNバランス」という曲名が "unbalance" に由来することは明らかでしょう。いっぽう「サウンド・アレンジは同年発表されたドナ・サマーの「情熱物語 (She Works Hard For The Money)」に酷似している」とある点については少々微妙です。イントロの印象的なコーラス「UN UN ア・UNバランス」の音型や、ブラスセクションの使い方などはたしかに「情熱物語」と似ており、アレンジの大村雅朗さんが「情熱物語」を意識したという推測は成り立ちます。ですが全体的に見れば、ストリングスやピアノも使った「UNバランス」に対して、シンセ(キーボート)とエレキギター主体の「情熱物語」のサウンドは、そこまで似ていないという見方もできます。そもそもメロディーラインと曲調がまったく異なるこの2曲を比較することに、それほどの意味は無い気もします。両曲の類似は偶然の一致と見なすか、大村さんが「情熱物語」を模倣したと見るか、あるいは、差し詰めショスタコーヴィチのように「暗号」として埋め込んだと考えるのか、それは聴き手の自由でよいのではないでしょうか。余談になりますが、奈保子さんはライブで「情熱物語」のカバーも披露しています(84年春のコンサートなど)。ところで、問題の(?)イントロのコーラスですが、この部分、当初はシングルリリースされたものとは異なっていまして「UNバランス ア・UNバランス…」という形でした。これは、この曲が初めて披露された83年7月24日のバースデーライブの映像(「Naoko Premium」ボックスの特典DVD)で確認できます。ここからは完全に私の妄想ですが、この曲、じつは元のタイトルは「UNBALANCE」だったのが、ある時点で「UNバランス」と変更されるのに伴って「UN」を強調して「UN UN ア・UNバランス…」という形にコーラスが変更されたのではないか、などと考えたりもします。さて、歌唱以外のことについての話が長くなってしまいましたが、河合奈保子さんの歌について、まずは冒頭の「ルルルルル…」でヘッドボイスを使っているのが印象的です。奈保子さんのヘッドボイスは、通常のミックスボイスでの歌唱と同じ強度で発声できるのが特徴で(もちろん弱音の表現もできましたが)、そのいった意味で八神純子さんあたりと近い面があると言ってよいかと思います。ちなみに、82年秋のシングル「けんかをやめて」のB面「黄昏ブルー」でもバックコーラスによる「ル~ル~ル~…」がありましたが、「ルルル…」と歌われるとなぜか秋の雰囲気が出るのは考えてみれば不思議なところです。とはいえ「UNバランス」のバックコーラスであるEVEが「ルルルルル…」とやっていたら、秋の雰囲気は出なかったかもしれません(笑)。この曲での奈保子さんの歌い方も「エスカレーション」と同様、テレビやライブでの歌唱に比べるとスタジオ収録版の方が細かい表情づけが目立ちます。「UNバランス」のキーはエスカレーションと同じくDマイナー(ニ短調)なのですが、曲調は大きく異なっており、Aメロはかなり低い音域で、かつ半音階の音型が多いために音程が取りにくいメロディーではないかと思います。ライブだとハイテンションなので(85年EASTのライブではテンポも相当速め)、低音でも張りのある歌声が聴けてそれはそれで魅力的なのですが、スタジオ収録の方はより情感豊かに「息づかい」が感じられます。じっさい歌詞の中にも「息」というワードが使われていたりします。また、前にも書きましたが、Bメロ冒頭では1コーラスの「恥ずかしい…」と2コーラスの「向こう見ず」で表情を大きく変えていて、奈保子さんの歌が曲調と詞を踏まえた表現であることがよく窺えるポイントだと思います。ちなみにこの箇所、メロディーとしてはBメロなのですが、詞としてはAメロの終わりの部分につながっているのがちょっと変わっていて面白いところです。サビでの歌詞「愛しさは淋しさの別の名前ね」は、「エスカレーション」とよく似た言葉の使い方ですが2コーラスの「恋しさはどこかしら苦しみめいて」といった詞は、より危うい世界を感じさせる方向に行っています。作詞の売野雅勇さんによると、この曲や翌年の「コントロール」では精神分析的なことをやろうという意図があったようです。途中で入る "ah" のフレーズは、テレビやライブで歌う時は "ha" で歌われることが多い印象があります。いずれにしても、「エスカレーション」で一歩新しい領域に踏み込んだ河合奈保子さんですが、「UNバランス」ではよりその表現を深化させたと言ってよいと思います。
2024.10.20
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1980年に発表されたローレル・フェイの論文は『ショスタコーヴィチの証言』の信憑性に対して重大な疑問を投げかけるものでしたが、ヴォルコフの回答はないまま年月が過ぎ、ファーイの論文自体も音楽学の領域以外では注目されることはなく、そのセンセーショナルな内容だけが広まり、最初の記事で書いたように西側の音楽界やクラシック音楽ファンのショスタコーヴィチに対する見方が大きく変わることとなりました。ある意味で、ヴォルコフによる『証言』は、東西冷戦という状況下で「西側の人々が見たがっていたショスタコーヴィチ」を見せた、と言うことができるでしょう。証言の出版直後、ソ連では生前のショスタコーヴィチと特に親しかったボリス・ティシチェンコやヴァインベルクら6名の作曲家が『証言』を非難する声明を署名入りで発表しました。当然のごとく、『証言』の内容を支持する西側の人々は、これを当局によって強制されたものであるとみなしました。ティシチェンコの見解をはじめとして、この声明に関わる事柄については、マルコム・ブラウン編 ‟A Shostakovich Casebook”(※未邦訳)に収録されています。 1990年になると、イギリスの音楽評論家イアン・マクドナルド(Ian MacDonald)が “The New Shostakovich”(※未邦訳)という著作を出版しました。これは、『証言』が描いて見せたショスタコーヴィチ像に全面的に依拠して、その音楽を「新解釈」したものと言われます。マクドナルドは、アメリカのロシア音楽研究者で、一貫して反ヴォルコフの急先鋒だったリチャード・タラスキン(Richard Taruskin)により手厳しく批判されました。私は "The New Shostakovich” を未読でしたが、2006年に出た改訂版を最近注文したところですので、後日内容を紹介するかもしれません。 その後、ヴォルコフを擁護するアラン・B・ホー(Allan B. Ho)とドミートリイ・フェオファノフ(Dmitri Feofanov)によって“Shostakovich Reconsidered”(『ショスタコーヴィチ再考』※未邦訳)が1998年に出版されました。これは787頁にも及ぶ大著で、ヴォルコフを擁護し、フェイやタラスキンを批判するものでした。旧ソ連出身で、西側に亡命した指揮者/ピアニストのウラジーミル・アシュケナージ(昔NHK交響楽団の常任指揮者をしていた時期がありました)らがその内容を支持したこともあり、この本は『証言』の信憑性を強力に擁護するものとして「ニューヨーク・タイムズ」や「ワシントン・ポスト」、「タイムズ文芸付録(Times Literary Supplement)」など多くの雑誌に好意的な書評が寄せられました。ただ、本書は一般にはあまり知られておらず、現時点では絶版となっているようです。私も遅ればせながら中古で安価なものが販売されているのを見つけて、ようやく入手したところです。何しろ分厚い上に英語ですので、すぐに読み終えるというわけにはいきませんが、本書に序文を寄稿しているアシュケナージについては、近いうちに書いておきたいと思います。 “Shostakovich Reconsidered” で批判されたローレル・フェイは、2002年に新たな論文 “Volkov‘s Testimony Reconsidered” を発表し、1980年の論文では未解明だった『証言』の問題点をさらに明らかにするとともに、ホーとフェオファノフに対して反論しました。この論文は、上述の ‟A Shostakovich Casebook” に収録されています。 さて、『証言』を巡って出版された主な書籍は、私の知る範囲で言うと以上です。他には、タラスキンが自著の中でヴォルコフやマクドナルドらをたびたび批判しているほか、『証言』について多少なりとも言及した著作は少なくないですが、その真贋に関わる問題を主要なテーマにした著作はないのではないかと思います(もっとも、日本語と英語以外の文献まではカバーできていませんが…)。「真贋論争」と言っても、じつはそれほど華々しく議論が戦わされているわけではない、と捉えて差し支えないでしょう。 “Shostakovich Reconsidered” を読み通すにはかなり時間がかかりそうなので、まずはこれが出版される1998年までの状況について ‟A Shostakovich Casebook” からいくつかのトピックを紹介していきたいと思っています。
2024.10.19
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シングルA面曲について取り上げてこなかったこともあり、河合奈保子さんの「振付」について触れる機会がありませんでした。「エスカレーション」について書いたので、この機会に振り付けについても書いてみようと思います。当時のいわゆるアイドル歌手の方々の映像を見ると、基本的には振付を交えて歌われるのが一般的です。田原俊彦さんのように驚異的なダンスをしながら歌うのはちょっと例外としても、「アイドル」という範疇で活躍する歌手にとって、見た目に印象的な振りを入れるのはテレビという媒体では欠かせない要素だったのでしょう。ちなみに「アイドル」ではない「アーティスト」はどうかと言うと、わかりやすい「振付」こそないものの、視覚的な要素はやはり表現として重要な比重を占めているように思われます。さて、デビューシングル「大きな森の小さなお家」以降、河合奈保子さん初期のシングル曲に関しては比較的「おとなしめ」の振付と言ってよいかと思います。歌唱時に左手でマイクを持つ奈保子さんの振付は基本的に右手の動きが中心で、イントロや間奏でのステップも初期のシングル曲ではそれほど大きくない傾向があります。とはいえ何度も見ている「大きな森の小さなお家」のサビの右手の振りを再現しろと言われても、たぶん私はできません…初期のシングル曲の中で振付が印象的なのは、やはり「スマイル・フォー・ミー」ということになるでしょうか。この曲はスタンドマイクを使って歌われたため、イントロでの回転など大きな動きを入れることが可能になりました。歌唱中も両手が使えるため、Aメロでの両手指差しポーズ(?)など一目で覚えられるインパクトがありました。間奏中は両手を高く掲げて手拍子を打っていましたが、「レッツゴーヤング」などの映像を見ると、手拍子の音をマイクが拾っていたりするのも面白いところです。続くシングル「ムーンライト・キッス」でもスタンドマイクでしたが、こちらはサビとBメロでカスタネットを使うという趣向でした。この曲ではコーラスの3人組・マキシムが奈保子さんの後ろに並んで一緒にカスタネットを叩くスタイルが撮られていました。余談ですが、そのマキシムと、当時奈保子さんのバックバンドだったザ・ムスタッシュは1981年10月に「NAOKO SENSATION」というシングルを出しており、この曲は「Naoko Live Premium」ボックスの「貴重音源集」の中に収録されています。この「NAOKO SENSATION」は、負傷により入院していた奈保子さんが退院し、療養のため山梨の温泉地に入った際のテレビ番組で奈保子さんと電話を繋いだ状態で披露されました(といっても、もちろん私はリアルタイムで見てはいません)。なおウェブ上の情報によると、マキシムとザ・ムスタッシュのメンバーが並んで写っているこのシングルのジャケットで、ゴリラの仮面を付けた謎の人物は河合奈保子さん本人のようです。その後、奈保子さんはシングル「ラブレター」で復帰しますが(歌番組への復帰は81年11月30日の「夜のヒットスタジオ」)、この時はコルセットをつけており腰に負担がかかるような動きが出来ないため、ほぼ右手のみの振付になっていました。いきなり高音のサビから始まるこの曲、振付を右手のシンプルな動きに絞ったのはかえって印象的だったかもしれません。初期シングルの掉尾(?)となる「夏のヒロイン」は負傷からの完全復活を印象づける明るい曲ですが、振付のほうも特徴的で、Bメロに入るところでスカートを使った動きをつけ、「甘いですか 酸っぱいですか…」ではマイクを右手と左手で持ち替えながら歌い、サビは小刻みにステップを踏みながら歌う(ソワレさんが「タモリ倶楽部」出演した際「これがけっこう大変」と言っていたような)など、見た目にも動きのある楽しい振付になっていました。「夜のヒットスタジオ」では浴衣に下駄という装束でスクール・メイツとともに歌った回がありましたが、下駄でもちゃんとステップを踏んでおり、歌唱後は司会の芳村真理さんが「よく動けましたネェ~」と感嘆する場面がありました。さらに余談ですが、この回のオープニングは『あるばむ』以降、奈保子さんに楽曲提供することになる来生たかおさんが「スマイル・フォー・ミー」を歌って(これが来生さんにまったく似合ってないわけですが笑)、奈保子さんにバトンタッチするというシーンもありました。次の「けんかをやめて」は、シングル曲としては初のバラードということで、ほぼ振付がありませんでしたが、かわりに「ザ・ベストテン」などで初めて弾き語りでの演奏を披露しました。「Invitation」もおだやかな曲調にあわせて動きは控え目でした。…と書いてきたらだいぶ長くなってしまったので、続きは別の機会にしようと思いますが、「エスカレーション」以降、歌唱のスケールアップに合わせるように振付も動きの大きなものが目立つようになる印象があります。
2024.10.18
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日本ファルコム(当時)の『英雄伝説III 白き魔女』(以下『白き魔女』)は、「英雄伝説」シリーズの第三作目として1994年に発売されたPCゲームです。「詩(うた)うRPG」をキャッチコピーとしてPC98向けに発売され、その抒情的なシナリオが絶賛され、Windowsやプレイステーション、セガサターン、PSPなど様々な媒体でリメイクされました。本作をはじめとして『朱紅(あか)い雫』、『海の檻歌』の3作は「ガガーブ・トリロジー」と呼ばれ、それぞれ異なる地、異なる時代のストーリーでありつつ、同じ世界を舞台とした作品になっています。ちなみに、その次の「英雄伝説」シリーズ『空の軌跡』以降は、「軌跡シリーズ」として今に至るまで多数の作品がリリースされています。さて、小学生の頃アクションRPGの名作『イース』の楽曲に魅了されて自家製サントラまで作った私ですが、自宅にあったFM-77は早々にフェードアウトしたために移植されたゲームも少なく、続編(正確には後編)である『Ys II』もたしか移植はされず、私のファルコム作品との付き合いはしばらく途絶えることになりました。その間、スーパーファミコンの『ファイナルファンタジーVI』に触れて植松伸夫さんの音楽にはまり、後にプログレの世界に引き込まれるきっかけになったりしました。大学に進学して東京に出てきた私は、CDショップに数多くのファルコム作品のサントラがあることに驚きました。地元には私が高校生くらいの頃にHMVが開店しましたが、そこで入手できるゲームミュージックは、当時まだ別会社だったスクウェアやエニックスなどのスーパーファミコン作品が大半だったような気がします。上京当初PCを持っていなかった私は、懐かしさもあってゲームをやったことがないファルコム作品のCDを入手し、サンプリング音とはまったく異なるFM音源の独特なサウンドにふたたび惹きこまれたのでした。白き魔女のサントラを買ったのは、たぶん大学に入って間もなくだったと思いますが、はっきりとは覚えていません。『白き魔女』はPCゲームとしてはかなりのヒット作だったので、もしかすると地元にいるうちに入手していたかもしれません。いずれにしても、美しいオープニング曲には大いに魅了されたものでした。ライナーノーツで絶賛されていた「迷いの森」もたいへん魅力的な曲です。それからしばらくして、たまたま縁あって中古のPC(OSは当時すでに古くなっていたWindows3.1だったと記憶しています)を譲ってもらう幸運に恵まれた私は、Windows版のゲーム『白き魔女』を購入しました。これは後にリメイクされたバージョンとは異なり、オリジナルをそのまま移植したものでした。このゲームを始めてみて、私は『白き魔女』の音楽が持つ本当の力にすっかり惹きこまれてしまいました。音楽単体で聴いても十分良い曲が並んだサントラではありましたが、ゲームの物語の中で聴くと、画面と音楽の相乗効果で双方が素晴らしく引き立てられ、画面やセリフには表れない様々な感情や風景が浮かび上がってくるのです。これは、映画やドラマでも同じようなことが言えますが、ゲーム作品がこれらと決定的に異なるのは、映像が「リアル」な世界ではないことと、自分がプレイヤーとしてゲームの世界に入っていること(文字通り「ロールプレイ」)もありますが、『白き魔女』をはじめとするファルコム作品に関しては、FM音源にしか出せない「音色」によって、たいへん独特の世界が生まれているのです。当時はすでにプレイステーションが発売されており、FM音源より同時発音数がはるかに多いサウンドと3Dで表現されたゲームが続々と発売されていましたが、2DのグラフィックとFM音源で表現された『白き魔女』の世界は、プレイステーション以降のゲームのような「リアル」さとはまったく次元の異なる、この作品の中だけにしかない「美しさ」を、間違いなく持っていました。画面を舞い落ちる雪のアニメーションに始まり、静止画とスクロールするテロップ(この文章がとても印象的なのです…)のバックにテーマ曲「白き魔女ゲルド」が流れるオープニングは、今でも私にとってゲーム作品の最も美しいオープニングとして記憶に残っています。物語が始まるラグピック村で流れる「愛はきらめきの中に」のさりげない情緒、フィールドで流れる「LET'S START OK?」の躍動感、物語の謎が大きく解き明かされる「回想ーレクイエムー」の哀しみ、「INVASION」や「ルード城」の疾走感、そしてエンディングで再び流れる「愛はきらめきの中に」の深い抒情性などなど…本作を彩る音楽はサンプリング音や高性能のシンセサイザー、あるいはオーケストラのような派手さ、壮大さとは無縁ですが、一つひとつがまさに珠玉といってよいものです。『白き魔女』のサントラは、今ではMP3で入手できますが、岩崎美奈子さんのイラストが楽しめるCD版をおススメしたいところです。ちなみに『イース』と同様、『白き魔女』もその後何度もリメイクされていますが、BGMに限って言うと、私見ではオリジナルのFM音源バージョンを超えるものは無いように思います。
2024.10.17
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ショスタコーヴィチの交響曲を演奏した最良の指揮者は誰か、と問われれば、私は迷わずエフゲニー・ムラヴィンスキーの名前を挙げます。私は、ムラヴィンスキーと、彼が指揮するレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(現サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団)の実演に接したわけではもちろんありませんが、録音で聴く限り、彼らが当時間違いなく世界最高峰の演奏を実現していたと思っています(これはショスタコーヴィチに限らず、彼らの演奏全般について言えることですが)。仮に、ヴォルコフによる『ショスタコーヴィチの証言』に書かれているようなムラヴィンスキー評を実際にショスタコーヴィチが言ったとしても、そのことはムラヴィンスキーの演奏の価値をいささかも減じるものではありません。当時のソ連の録音機材は質が悪く、ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルの演奏は音質に難のあるものが多かったのですが、近年はリマスタリングによってかなり良い音で聴けるものが増えているほか、1970年代以降の来日公演での録音(その一部は非公式録音でした)が、幸いなことにかなり良好な音質でCD化されています。来日公演で演奏されたショスタコーヴィチの交響曲は第五番のみですが、これだけでも、真摯な聴き手であれば『証言』に書かれていることの真偽などは本質的な問題ではない、ということに直ちに気付くだろうと思います。さて、『ショスタコーヴィチの証言』の中で、ショスタコーヴィチがムラヴィンスキーに対して否定的な言辞を述べているのは第六章「張りめぐらされた蜘蛛の巣」の中です。少し長いですが、人口に膾炙して拡散した部分も含んでいるので、中公文庫版『証言』より引用します。「あるとき、わたしの音楽の最大の解釈者を自負していた指揮者ムラヴィンスキイがわたしの音楽をまるで理解していないのを知って愕然とした。交響曲第五番と第七番でわたしが歓喜の終楽章を書きたいと望んでいたなどと、およそわたしの思ってもみなかったことを言っているのだ。この男には、わたしが歓喜の終楽章など夢にも考えたことがないのもわからないのだ。いったい、あそこにどんな歓喜があるというのか。第五交響曲で扱われている主題は誰にも明白である、とわたしは思う。あれは《ボリス・ゴドゥノフ》の場面と同様、強制された歓喜なのだ。それは、鞭打たれ、「さあ、喜べ、喜べ、それがおまえたちの仕事だ」と命令されるのと同じだ。そして、鞭打たれた者は立ちあがり、ふらつく足で行進をはじめ、「さあ、喜ぶぞ、喜ぶぞ、それがおれたちの仕事だ」という」(『証言』p. 321~322)さて、ここでムラヴィンスキーがじっさいに「交響曲第五番と第七番でショスタコーヴィチが歓喜の終楽章を書きたいと望んでいた」と言ったかどうかは、確認のしようがありません。また、仮にそのように言ったとしても、前後の文脈によっていくらでも意味が変わります。また、ムラヴィンスキーが自分の音楽を「まるで理解していない」と感じていたのであれば、なぜショスタコーヴィチは自身の交響曲の初演を彼に任せ続けたのでしょうか。戦争によってムラヴィンスキーによる初演が不可能だった第七番を除いて、ショスタコーヴィチは自身の交響曲の初演を常にムラヴィンスキーに依頼しています。第十一番はムラヴィンスキーによるレニングラードでの演奏(1957年11月3日)に先立ってモスクワで初演(10月30日)が行われましたが、わずか数日違いです。また、「歓喜の終楽章」とはほど遠い終わり方をする交響曲第八番はムラヴィンスキーに献呈されています。あまり知られていないかもしれませんが、ムラヴィンスキーはソ連当局にとって必ずしも好ましい人物ではなかったため、もしショスタコーヴィチが望まないのであれば、ムラヴィンスキー以外の指揮者を起用することにはさして障害はなかったと考えられます。交響曲第一三番「バビ・ヤール」の初演をムラヴィンスキーが引き受けなかったことで、二人の間は一時期疎遠になりましたが、ショスタコーヴィチの晩年には交流が再開していました。交響曲第十四番のレニングラード初演(指揮はルドルフ・バルシャイ)の際、ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチやボリス・ティシチェンコらと供にボックス席で演奏を聴いていました。最後の交響曲第十五番の初演は作曲者の希望により息子のマキシム・ショスタコーヴィチが行いましたが、レニングラード初演はムラヴィンスキーが担当しています。そのマキシムは、西側に亡命して間もない頃にボリス・シュワルツのインタビューを受けた際、ショスタコーヴィチは「自分の音楽について語ることを好まず、厄介なインタビュアーを追い払うために時々は(自分の音楽について語ることに)同意した」と述べています。そして、ショスタコーヴィチの音楽の解釈者として、どの指揮者がお気に入りか、との問いに対しては「ムラヴィンスキーです。彼が父の考えに最も近い(※この時点でムラヴィンスキーは存命)」と即答しています。ムラヴィンスキーの演奏に関する「証言」は下に参考文献として記載したグレゴール・タシーの著作をはじめとして無数にありますが、それらを参照するまでもなく、彼の指揮したショスタコーヴィチの交響曲がいかなる演奏であったかは、遺された録音を聴けば贅言を要しません。さらに付け加えるなら、ショスタコーヴィチ自身が語った(かもしれない)ことを頼りにしなければショスタコーヴィチの音楽を聴いたり解釈することができない、などということはまったく無いことは、ショスタコーヴィチに限らずあらゆる音楽家、表現者についてあてはまることと言えます。なお、「バビ・ヤール」の初演に関しては、少々込み入ったいきさつがありますので、機会があれば別に改めて紹介したいと思います。<参考文献>グレゴール・タシー『ムラヴィンスキー 高貴なる指揮者』天羽健三訳Boris Schwarz "Music and Musical Life in Soviet Russia 1917 - 1981"
2024.10.16
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河合奈保子さん7枚目のアルバム『HALF SHADOW』は1983年10月21日にリリースされました。A面とB面でスタッフを変えるという手法はこの作品にも踏襲されていますが、本作ではA面を「Shady Side」、B面を「Sunny Side」としています。A面の作曲陣は後藤次利さん、筒美京平さん、小田裕一郎さんと三名を起用する一方、作詞はすべて売野雅勇さんが手がけています。前作『SKY PARK』ではシングルA面曲をひとつも入れないという構成でしたが、『HALF SHADOW』には筒美京平さんによるシングルA面曲「エスカレーション」と「UNバランス」が収録されています。いっぽうB面は全曲谷山浩子さんの作詞作曲で、季節の移ろいの中での恋愛をつづったストーリー仕立てになっています。さて、ここまでの記事を読んでくださった方の中には、1989年の「悲しみのアニバァサリー」を除いてシングルA面曲を取り上げていないことにお気づきの方もいるかと思います。もちろんこれは意図的にやっていることでして、河合奈保子さんの楽曲の中でもあまり知られていなさそうな曲、注目されない曲を紹介しよう、という意図から選んでいます。なので、アルバム『HALF SHADOW』に関して書くとしたら、たとえば冒頭の「イノセンス」や、B面だったら「MY LOVE」あたりを取り上げるのが本筋(?)かもしれません。ですが、今回は敢えてシングルA面曲、それもセールス的には最大のヒットとなった「エスカレーション」について書いてみようと思います。というのも、アルバム『HALF SHADOW』を聴いていて、自分はもしかしてこの曲について少し誤解していたのではないか、という気がしてきたのです。ファンの方々には言わずもがなではありますが、「エスカレーション」は河合奈保子さんのシングル曲としては初めて筒美京平さんを作曲に迎えており、作詞に売野雅勇さんが起用されたのは、筒美さんが売野さんを誘ったもののようです。売野さんは「エスカレーション」の作詞をしていた時点ではまだ河合奈保子さんとは面識がなく、ご本人いわくレコード会社からの注文も特になかったことから「僕が勝手に刺激的な歌詞にしちゃった」とのことです(『JEWEL BOX2』ブックレットより)。たしかに「大胆すぎるビキニよ 選んだ意味が わかるかしら」「まっすぐに見れないの 案外内気なひとね」といった歌詞はなかなか刺激的であるのに加えて(とはいえ「唇のプライバシー」ほどではありませんが…)、テレビやライブでの歌唱は総じてスタジオ録音の音源よりパンチが効いていることもあって、「挑発路線」というラベリングを、私も何となくそのまま受け入れていたところがあります。ですが、「大胆すぎるビキニよ…」を含むAパートの歌詞、スタジオ録音の奈保子さんはスタッカートを効かせてシャープに発生していますが、声量を抑えてひそやかに歌っています。「挑発」というよりも「ちょっぴりパッショネイト」のような、秘めた情熱と言ったほうが似合う表現と言ったほうがよいように感じられます。「まっすぐに見れないの…」以降のBパートもまだまだ控え目ですが、透き通った声とフレーズごとのアクセントで緊張感を保ち、「今さら退けないわ」で一気に盛り上げてロングトーンからサビにつなげています。ここで「(今)さら」のところで声を抑えて起伏を付けているところが私にはツボだったりします。この後サビに入ると完全に声を張った歌い方になりますが、このパワフルな歌声に耳を奪われがちなものの、ここでの歌詞は「恋した女の子は淋しがり…」「恋して 初めて知った淋しさを…」となっていて、かつ奈保子さんの「淋しがり」「淋しさを」「(ひとりじゃ)もういられない」といったところでの表情づけを聴いていると「口づけていいのよ」というような歌詞はやはり刺激的ではあるものの、Dマイナーのこの曲、じつは情熱と切なさのないまぜになった世界を歌っているように感じられ、「挑発的」で済ますのはもったいないように思えてきます。私は、河合奈保子さんという歌手の本質は「エモーショナル」な部分にあると思っています。それゆえシングル曲の場合、スタジオ収録の(ある意味落ち着いた)歌唱よりもテレビやライブでの生歌のほうがより魅力的であることが多いのですが、こと『エスカレーション」と次のシングル「UNバランス」に関しては、逆にスタジオ収録版にしか無い魅力もあると言ってもよいのではないでしょうか。ちなみに『HALF SHADOW』のA面はこの2曲に加えて、売野さんらしく刺激的な「イノセンス」、売野さんの作詞とは思えない(笑)「マーマレード・イヴニング」「12月のオペラグラス」とバラエティ豊かでありつつ充実した内容で、『あるばむ』『SKY PARK』を過渡期として、この作品以降、歌手として大きくスケールアップした印象を受けます。さて、「エスカレーション」では「勝手に刺激的な歌詞にしちゃった」売野さんですが、奈保子さん本人に「お会いした時は、なんていい人なんだろう、この人は!」と思い、「この世知辛い世の中でこんな人がいてくれたらいいなあ、なんていう救いになる存在なんですよ」「優しくて、悲しみを感じることのできる深い感受性を持っている奈保子さんに、会えば会うほど魅力がわかってくる」とすっかり魅了されてしまったようですが、ヴォーカリストとしての河合奈保子さんの才能を当時おそらく世界一、いや宇宙一(笑)よく理解していたのが売野さんで、「後追い」の目から見ると、歌手としての河合奈保子さんの魅力を引き出したのはやはり売野さんの力によるところが大きいと思います。<参考文献>『JEWEL BOX2』ブックレット「どんな作品でも表現できる最高のボーカリスト」(売野雅勇)
2024.10.16
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河合奈保子さんのアルバム『SKY PARK』に続く作品は『HALF SHADOW』になりますが、その前に20歳を記念して発売されたミニアルバム『ビューティフル・デイ(It's a Beautiful Day)』について紹介したいと思います。この作品は1983年7月21日、誕生日(7月23日)の直前に発売された6曲入りの企画アルバムですが、作詞作曲陣が1曲ごとにすべて異なるのが特徴です。「Birthday Night」は尾崎亜美さん、「こわれたオルゴール」は谷山浩子さん、「あの夏が続く空」はNSPの天野滋さんがそれぞれ作詞作曲を担当、4曲目の「Twenty Candles」は大村雅朗さん作曲・売野雅勇さんが作詞、続く「BOSSA-NOVA」はオフコースの松尾一彦さん、最後の「薔薇窓」は来生えつこ・たかお姉弟という陣容になっています。ちなみにアレンジは鷺巣詩郎さんが2曲(「Birthday Night」と「薔薇窓」)、瀬尾一三さんが2曲(「こわれたオルゴール」と「あの夏が続く空」)、大村さんが自作曲を含む残り2曲を担当しています。尾崎さん、谷山さん、来生姉弟らは他のシングルやアルバムでの楽曲提供がありますし、大村雅朗さんはアレンジで奈保子さんの作品を多く担当していますが、天野さん、松尾さんに関してはおそらくこの作品しか河合奈保子さんへの提供がなく、その意味でも貴重です(大村さんも作曲という意味ではこのアルバムの「Twenty Candles」1曲のみのはずなので貴重ですが)。このアルバム収録曲、いずれも異なる魅力があり、曲調に応じて表現を変える奈保子さんの歌唱の幅を楽しめる充実した内容になっています。作曲メンバーがすべて異なるので当然といえば当然の話なのですが、これまで何度か書いたようにポップシンガーは曲がどうという以前に自分の「個性・スタイル」で勝負する面が強く、その結果、曲よりも自分のキャラクターが前に出てしまうためにどんな曲でも同じように歌われる方が少なくないので、奈保子さんのように1曲ごとに歌唱スタイルを柔軟に変化させる人は、意外と少ないのではないかと思います。さて、松尾一彦さん提供の「BOSSA-NOVA」、曲名のボサノヴァってそもそも何?ということでちょっと調べたところ、「BOSSA NOVA」とは「新しい傾向」というような意味で、サンバの新しいスタイルとして1950年代にブラジルで生まれたジャンル、ということです。前に紹介したのが「レモネード・サンバ」ですから、期せずしてちょうど良いつながりと言えそうです(笑)。様式としては、クラシックギターでサンバのリズム(2拍子+シンコペ)を演奏し、テンポはゆったりめ、複雑なコード(ハーモニー)を使ういっぽうでパーカッションがシンプルで、ヴォーカルも基本的に穏やかなのが特徴ですが、その後ジャズの要素が入って作法が変わって来たとのことです。…というような前提知識がなくても、河合奈保子さんの「BOSSA-NOVA」を聴くことはもちろん可能です。この曲での奈保子さんの歌い方は、比較的息漏れの多そうな(じっさいに多いのか私にはわかりませんが)ソフトな歌声を使っており、その点ボサノヴァ風に歌っている、と解釈することはできるかもしれません。ただ、ここからは私の妄想ですが、奈保子さんはボサノヴァの様式を踏まえてそのように歌った、のではなく、曲調や歌詞を踏まえて自然に歌った結果が、この演奏のようになったのではないかと思います。いずれにしても、同じ「ビューティフル・デイ」での「Twenty Candles」のような緊張感のある表現や「エスカレーション」以降の筒美&売野作品のようなエモーショナルかつパワフルな歌唱の一方で、「愛が痛い 薔薇の棘のように」と寂寥感をもって歌う奈保子さん、「少女から大人へ」というような定型的な言い方はあまりしたくありませんが、硬軟併せ持つ表現力が本格的に開花しつつあるのを確かに感じることができます。「BOSSA-NOVA」はバラエティに富むこのアルバムの中では、一聴するとやや地味な印象を受けるかもしれませんが、ピアノのドラマチックな展開やストリングスの使い方も印象的な大村雅朗さんのアレンジと相まって、飽きのこない魅力があります。ここで「BOSSA-NOVA」という曲名に立ち返ってみると、これは実は曲が「ボサノヴァ調」であることを意味しているのではなく、河合奈保子さんの「新たな一面」を引き出す、という意味で「BOSSA-NOVA」なのではないか、という気がしたのでした。さて、「BOSSA-NOVA」を提供したのはオフコースの松尾一彦さんでしたが、このアルバム発売直後、20歳の誕生日に行われた初のEASTライブでは、そのオフコースのヒット曲「YES-NO」も歌われました。幸いなことに、この「YES-NO」の貴重な歌唱は「Naoko Premium」ボックスの特典DVDで見ることができるほか、合歓の郷での合宿風景(たぶんもとはVHSとして発売されたもの)が、インターネット上で見ることができます。
2024.10.15
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引き続いて、アルバム『SKY PARK』の曲についてのお話です。このアルバム、A面の作曲はその後河合奈保子さんに多くの楽曲を提供することになる筒美京平さんが担当、B面は石川優子さんが全曲のを担当した(作詞も石川さん)のは既述のとおりです。前回はA面冒頭の「ちょっりパッショネイト」について書きましたので、今回はB面の曲について取り上げたいと思います。A面の楽曲は音の跳躍が激しい「アリバイ」など、奈保子さんの歌唱力を試すかのような難度の高い楽曲が目立ち、これは筒美さんによる奈保子さんへの提供曲に共通する一面ですが、石川優子さんによるB面の楽曲はよりナチュラルな曲が多く、奈保子さんもたいへん伸び伸びと歌っている印象があります。曲調的に変化をつけているのはマイナー調で書かれた「初めての疑惑」ですが、テクニカルな面で異色な曲が、「レモネード・サンバ」と言えます。ちなみに、アルバム終わりの曲「Sky Park」は私にとっては(おそらく多くのファンの方々にとっても)永遠の名曲ですが、これについては適切に語る語彙をいま私は持ち合わせていないので、仮に書くとしても相当先のことになるのではないかと思います…「レモネード・サンバ」ですが、この曲、まず何と言っても最後の"Yay!"がよい、ということを私は言いたいです(笑)。以上、で終わるとあんまりなのですが、これだけで良いんでは、と言っても私的には過言ではないくらい気持ちの良い"Yay!"です。「夏のヒロイン」でもテレビでの歌唱時にはたまにサビの後などに"Yay"が入ることがあったようですし、ライブではおなじみと言ってよいと思いますが(「夏のヒロイン」では「イチ、ニ、サン、ハイ!」もおなじみですが)アルバムの歌唱でこれが入るケースはあまりありません。だから何なんだと言われそうですが、奈保子さんの"Yay"は歌唱と同じく発声がよく、実に爽快で心地よいのです。1986年の「夜ヒット」マンスリーゲストで電子ドラムを叩きながら「悲しい伝言(Tell Her About It)」を歌った時も、間奏に入るタイミングで"Yay"が入っていました。余談ですが、河合奈保子さんは「Tell Her About It」を「レッツゴー・ヤング」でも歌われていたことを「星とカワセミ好き」さんのブログで最近知りました。この時はローランドのシンセを弾きながらの演奏でタイトルも「あの娘にアタック」となっており、ピエロの衣装で歌った83年春のコンサートと基本的には同じバージョンと思われます。さて、もちろん「レモネード・サンバ」の魅力はこれだけではありません。曲名どおりサンバ風にアレンジされたこの曲、きちんと歌いこなすにはリズムがかなり難しい曲です。いわゆる「ハネ系」の符点を多用した音型が続くのですが、個人的には符点音型というのは声楽・器楽を問わず力量の差が出やすいものだと思っています。簡単に言えば歌手(奏者)のリズム感が甘いと符点(3:1)ではなく三連(2:1)に近くなり、「ハネ系」のシャープなリズム感が出なくなりやすいのです。また話が飛びますが、私がN響の演奏する「風林火山」オープニングがもったいないと感じるのは、こうした符点の甘さによるところも大きいのです(それ以前にトランペットが全体的に安全運転に過ぎるのですが…)「レモネード・サンバ」に話を戻すと、この曲の構成はA-B-A-間奏-A-B-A(リピート)→"Yay!"→アウトロ、となっているのですが、特にBパート「♪(恋は)軽いサンバのリズムで」以降の展開は符点のリズムが連続する上にテンション高く歌わないと格好がつかないので、非常に難度が高いところです。これを無難にすませるには、すべて音をつなげて歌ってしまうという方法もありますが、それだと躍動感が出ず、「軽いサンバのリズム」にはまったくなりません(「♪かーるいーさんーばのーりずーむでー」というベタっとした歌い方を想像してみてください)。奈保子さんは非常にキレのある発音で拍頭(強拍)の音をきちんと発音しつつ「甘く酸っぱい」のところでは表情を変えるなど、なかなかの離れ技を披露しています。Aパートも決して易しくはなく、いわゆる「アップビート」にあたるところが常に「符点八分休符+16分音符」の形になっているので(たとえば歌いだしの「カラフルビーチ」の「カ」の音)、この16分音符をシャープに歌わないと、やはりもっさりしたかんじになってしまいます。奈保子さんはデビュー前のレッスンの際にリズム感が弱いことを指摘され、これを鍛えるために縄跳びをするように指導されたという話をどこかで見ましたが、ポップシンガーとしてずば抜けたリズム感、だけでなく、そのリズム感を表現する歌唱力を磨くことで、後に「MANHATTAN JOKE」のような難曲も歌いこなすことができたのだと私は思っています。そういえば、「Tell Her About It」もAパートでハネ系のリズムが続くので、歌手のリズムセンスが試される曲と言えます。
2024.10.14
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前回の記事までの内容で、『証言』の中でショスタコーヴィチのサインのあるページの文章が、生前の既出記事からの引用であることをフェイが指摘したことについて紹介しました。仮にショスタコーヴィチが、過去の記事を忠実に再現して、しかもそのすべてを再現するのならまだしも中途半端なところで中断して、いきなり矛盾したことを語り出すというのは、普通は考え難いことです。『証言』を擁護する人々は、ショスタコーヴィチが音楽に関して驚異的な記憶力を持っており(一度聴いた曲を決して忘れず、ピアノで再現できたと言われています)、しばしばゴーゴリやドストエフスキーの文章を正確に引用したことをもって、過去の記事を忠実に再現することも可能であったと主張しているようですが、こうした記事はショスタコーヴィチの名前で出されたものだとしても、そもそも本人が実際に書いたり言ったりしたとは限らないことは、十分考慮されるべきでしょう(ただし、後日紹介しますが実際にショスタコーヴィチ自身が書いた記事があったのも事実です)。また、ショスタコーヴィチがゴーゴリやドストエフスキーなどの文学作品を広く愛読していたことは家族や友人の回想から明らかですが、自分の記事もそれと同じくらい熱心に読んでいたのでしょうか。そして決定的に不自然なのは、この「忠実な再現」はどういうわけか、すべてショスタコーヴィチのサインがあるページに限って表れていることです。なお、フェイは同論文で、出版社に対してオリジナルのロシア語原稿の閲覧を求めたものの拒否された、と述べています。さて、ショスタコーヴィチのサインがあるページの記述に関するフェイの疑義は以上ですが、これに加えていくつか『証言』の内容について不審な点を指摘しています。たとえば、ヴォルコフは『証言』の序文の中で、ショスタコーヴィチの弟子だったフレイシュマン(独ソ戦で戦死)のオペラ《ロスチャイルドのヴァイオリン》を1968年4月に「初演」するプロジェクトに関わったと記述していますが(『証言』p. 9)、フェイは同作品が1960年7月20日にモスクワ作曲家協会で既に初演されており、さらに62年2月にはラジオ放送され、65年にはピアノスコアも出版されていることを指摘しています。同論文で、フェイは『証言』に掲載されたショスタコーヴィチとヴォルコフの写真についても言及しています。この写真は私の手元にある中公文庫版には掲載されていないものですが、フェイによると、写真には妻イリーナ、ショスタコーヴィチ、ヴォルコフと、ボリス・ティシチェンコ(ヴォルコフとショスタコーヴィチを仲介したのはティシチェンコでした)が並んでおり、写真に記されたショスタコーヴィチの献辞と、ヴォルコフをフルネームで記している点から、両者の親密な関係よりもフォーマルな形式が看取されると述べています。ショスタコーヴィチとヴォルコフが「秘密の面会」をするほど親しい間柄であれば、父称を含むフルネームで記すのは不自然、ということでしょう。さらに、ショスタコーヴィチはこの写真に「グラズノフ、ゾーシチェンコ、メイエルホリドについて語った思い出のために」と書いているのですが、わざわざこの3人の名前が記載されているのは、この写真が撮影された時、ショスタコーヴィチが実際に話した話題をそのまま記したと考えるのが自然で、『証言』全体の内容の信憑性を担保するためのものとは考え難いこともフェイは指摘しています。ちなみに、この写真に記されたショスタコーヴィチの献辞によると、日付は「1974年11月13日」です。ヴォルコフはこの献辞について、『証言』の原稿がすべてまとまり西側に運び出した後、『証言』に関する「話し合いの最後に」記されたもの、と述べています(『証言』p. 14)。後述しますが、この写真が撮られた時の取材内容については、その場に同席していたティシチェンコが後に「証言」しており、その内容はヴォルコフの主張を否定するものです。この点については、別途紹介するつもりです。加えて、『証言』が出版された場合に家族に及ぶであろう影響を気にすることなく、ショスタコーヴィチが自分の死後に『証言』を出版することをヴォルコフに依頼したということ(ショスタコーヴィチが極めて家族思いだったことは、息子のマキシムらが回想しています)、ヴォルコフが西側に亡命してから『証言』の翻訳出版までに3年以上を要している点などについてもフェイは疑問を投げかけています。結論として、フェイは『証言』の信憑性については極めて疑わしいと述べ、『証言』の元となった速記メモや、ショスタコーヴィチからヴォルコフへの手紙などの確実な証拠がない限り、『証言』の内容に関してショスタコーヴィチの回想とヴォルコフの創作の境界がどこにあるのかは推測するしかない、と述べています。ただし、この言い方からも明らかなように、フェイの述べる「信憑性(Authenticity)」の問題は、『証言』の内容がショスタコーヴィチ自身によるものであるかどうか、という点に関わるもので、書かれている内容そのものの「真贋」を問題としているわけではないことを、前提としておさえておく必要があります(『証言』の真贋論争に関して、この点が見過ごされていることがあるようです)。フェイはこの論文を学術雑誌「ロシアン・レビュー」に発表した際、ヴォルコフに対して同誌上で応答することを公式に依頼し、ヴォルコフは翌月(1981年1月号)の誌上で回答することを約束したということですが、結局その回答は無いまま現在に至っています。フェイの1980年の論文 “Shostakovich versus Volkov: Who‘s Testimony?” についての紹介は以上です。この後、2002年にもフェイは『証言』に関する論文を発表していますが、こちらはかなり長いので、後日準備が出来てから紹介したいと思います。その間に、ヴォルコフの擁護派・批判派双方からのいくつかの反応を紹介したいと思います。<参考文献>ソロモン・ヴォルコフ『ショスタコーヴィチの証言』水野忠夫訳(中公文庫)Laurel E. Fay “Shostakovich versus Volkov: Who‘s Testimony?”
2024.10.14
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