うきよの月 0
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彼女はパレードには参加しないってことだよな?あとナンバー2で外相的な金永南。権力が外部に分散されていないか?そうすると、オリンピックの間彼女達がどれだけ居るかも問題だよな。何で彼女達を外に出したのか、気になる。
2018.02.07
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さてワタクシ、興味関心半分義憤半分のNKウォッチャーでございます。電話する友人と、何故かいつの間にか半島住民の精神構造というものについて話し合ってしまうというクセがついております。で、昨日がめぐみさん拉致から40年、という日だったということで。半島/NK関係の情報をおうちでパソに当たってるシロートでもある程度得る関係の。映像・音楽関係・ニコニコ動画(音楽)タグNK-POP http://www.nicovideo.jp/tag/NK-POP 基本的にはおちょくっているんですが、……大本出しているほうは大マジなんです。・ニコニコ生放送(朝鮮中央放送)http://live2.nicovideo.jp/watch/lv308739862?ref=top&zroute=index&kind=top_onair&row=2 現在常にやってます。カラーバーが出てるときもありますが。・YOUTUBE DPRK Music https://www.youtube.com/channel/UCLSxFv6Nq4xhqs3WmZKkTvQ vok216 https://www.youtube.com/user/vok216/videos・エルファテレビ http://www.elufa-tv.net 総連系の映像発信。総連系ですから。まあ一つ試しにこの歌なぞ。「攻撃戦だ(コンギョ)」(カラオケ字幕つき) https://www.youtube.com/watch?v=bwQLz24v2hsものすごく向こうのポップスがどういう感じなのか分かり易い名曲どす。ラジオ・短波放送(平壌放送) 現在6450、7500~8000のどっか、9700くらいでやってます。 昼間の日本語放送「朝鮮の声」は7500~のとこが一番入ると思います。最近中国系もの凄く増えてる+ノイズが凄くて聞こえないことが多い。場所によるけど。 ストリーミング http://www.vok.rep.kp/CBC/index.php?CHANNEL=5〈= 夜中の6450では、ニ週に一度、0時15分か1時15分に暗号乱数放送があります。「***ページ**」という数字が二度読み上げられる内容。ヒアリングできる人は一度挑戦など。・中波放送 600~700の何処かで見つかります。正直正確な周波数を断言できない。口調で北か南かは判断するといいです。異様に激しかったら北。・北朝鮮向けラジオ放送「ふるさとの風」(「日本の風」) https://www.rachi.go.jp/jp/shisei/radio/index.html情報関係・デイリーNKジャパン http://dailynk.jp 高英起氏による情報サイト。内部に情報提供者がいる様で、こちらでは見られない新聞関係の情報も上げてくれる。氏の評論も興味深い。・北朝鮮報道で書かれないこと http://dprknow.blog.fc2.com 川口智彦・日本大学国際関係学部国際総合政策学科準教授のサイト。時々北にも行ってるらしく、その時々の情報は興味深い。親北っぽい傾向なのでその辺りは了解した上で読む。・38ノース(英文)/http://www.38north.org ツイッター https://twitter.com/38NorthNK で情報が更新すると見ることが。空撮で北の様子を見ている。・NK NEWS(英文)/https://www.nknews.org・ラジオフリーアジア(英文)/http://www.rfa.org/english/news/地元新聞関係→開いたのちそのURLをぐぐるで検索すると、翻訳されたページが出てくる。出てこないこともある。 ただしぐぐる翻訳は「韓国語」なので、「朝鮮語」は奇妙な翻訳になってくることが多い。 理由→南と北では単語が違うか音が違う→ハングルだと同音異義語の判別ができない→奇妙な。 メインページならまず翻訳できますが、できないこともあります。 そういうとこはコピペ→翻訳で文章がある程度読めます。……それでもトンデモですが。 基本毎日更新でバックナンバーが見られないので注意。・労働新聞/http://www.rodong.rep.kp/ ニュースでよく取り上げられてますな。公式見解とか出てます。 以下基本内容は同じですが、扱っている部分が違うところも。・わが民族同士/http://www.uriminzokkiri.com・メアリ(こだま)/http://arirangmeari.com/・私たちの民族講堂/http://www.ournation-school.com・dprktoday/http://www.dprktoday.com・ピョンヤンタイムス(英文)/http://www.naenara.com.kp/en/order/pytimes/?総連関係・朝鮮総連 http://chongryon.com・朝鮮新報 http://chosonsinbo.com/jp/朝鮮学校関係問題とかに関係したサイト・アジアン・レポーターズ http://asian-reporters.com←・全国各種学校総連合会 http://www.zensenkaku.gr.jp/josei/condition_list02.html向こう側の主張の一つの例・反「嫌韓」FAQ(仮) http://seesaawiki.jp/against-hatespeech/・カチカジャ!いばらき https://m.facebook.com/kachikajaibaraki/ ……のツイッターとかを見ると、関係関連の団体等を見つけることができます。 いばらきなのは、一番最近あった朝鮮学校系の運動のことを発信していたことから見つけたので。 対総連で取り組んでる議員の方・長尾たかし http://blog.goo.ne.jp/japan-n在日韓国人関係・在日韓国青年同盟/http://hanchung.org対北の在日系サイト・北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会 http://hrnk.trycomp.net/index.php ここの「声明」では「朝鮮学校無償化手続き再開の撤回を求める要請文」が出てます。なお2011年なんで相手は…… 脱北者系の人々は日本に対する立場は微妙ですが、対北という意味では大きい。・統一日報/http://news.onekoreanews.net 南も北も問題がある、という姿勢。韓国側から出している脱北者情報・(KOR SUB) [日本語 ベナ統一] 4회 - 배나통일 일본어판, 朝鮮学校(조선학교), 在日(재일), 総連(총련), 北朝鮮(북한), 脱北者(탈북자), 帰国者(귀국자)在日韓国人による番組。これは番組の一つだけどチャンネル自体にき興味深いものがあるかも。 https://www.youtube.com/watch?time_continue=384&v=_WZoh00PGV8中国の東北部の新聞・延安日報(ハングル)/http://www.iybrb.com・吉林網(中国語簡体字)/http://www.cnjiwang.com韓国の新聞 日本語版は基本日本人向けなので、韓国内部のニュースを細かく知りたいときには各ページにリンクされてる韓国語ページから翻訳のほうが情報が拾える。先日のトランプさんの訪問の描写とか。 朝鮮日報/http://www.chosunonline.com/index.html 聨合ニュース/http://japanese.yonhapnews.co.kr 中央日報/http://japanese.joins.com 東亜日報/http://japanese.donga.com ハンギョレ新聞/http://japan.hani.co.kr 雑情報・カイカイch 何はともあれ韓国のネットユーザーの声がリアルどす。書籍 とりあへず持っているものから。よく読んでるものもあれば、一度しっかり読んでそのままのものもあります。【送料無料】 北朝鮮人民の生活 脱北者の手記から読み解く実相 / 伊藤亜人 【本】高い。んだが、脱北者の証言を文化人類学的に収集したもの。だからある意味身も蓋も無くていい。おすすめ。だが高い。4500円。【中古】 女が動かす北朝鮮 金王朝三代「大奥」秘録 文春新書1076/五味洋治(著者) 【中古】afbタイトルはアレですが、内容は現在に即していて興味深い。【送料無料】 北朝鮮ポップスの世界 / ?英起 【本】奇妙な音楽の世界。【中古】 北朝鮮の歴史教科書 偉大な首領金日成大元帥様の革命歴史 / 李 東一 / 徳間書店 [単行本(ソフトカバー)]【メール便送料無料】【あす楽対応】15年くらい前の本だけど、いやーこれは凄かった。歴史って何?って気になる。北朝鮮 金王朝の真実 祥伝社新書 / 萩原遼著 【新書】【中古】【古本】北朝鮮に憑かれた人々 政治家、文化人、メディアは何を語ったか/稲垣武/著【教養 PHP研究所】【送料無料】 北の喜怒哀楽 45年間を北朝鮮で暮らして / 木下公勝 【本】これは最近出て買ったものだけど、かなり最近の脱北「帰還者」の自伝。「苦難の行軍」時代の餓死者が転がっていた時代のこととか、帰還事業で北に入った著者が様々に味わった苦労や生活が綴られています。これはよかった。【新品】【本】真実の朝鮮史 1868−2014 宮脇淳子/著 倉山満/著このお二人のコンビだとやはりちゃんと地政学的観点が。朝鮮学校「歴史教科書」を読む 祥伝社新書 / 萩原遼著 【新書】【中古】 朝鮮大学校研究 /産経新聞取材班(著者) 【中古】afbこの本と、実際に朝鮮大学校にまで行った映画監督の話↓を読むとよく話がつながる。ディア・ピョンヤン―家族は離れたらアカンのや 梁 英姫 https://www.amazon.co.jp/dp/486193057X/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_IBtdAb066JB2Y【新品】【本】朝鮮半島対話の限界 危機克服への戦略構想 白善 /著韓国で朝鮮戦争時の軍人だった著者が客観的に現状を考えてます。拉致と朝鮮総連―在日!民団!日本!韓国!よ この悪辣な蛮行をいつまで放置・傍観・黙認するのか!北政権のスパイ工作 鄭 龍男 https://www.amazon.co.jp/dp/4817406887/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_jrtdAb64JQSZAわが朝鮮総連の罪と罰 韓 光煕 https://www.amazon.co.jp/dp/4163583904/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_wotdAbXB277XCこれはぜひ読んで欲しい類。総連の上のほうに居た著者が、活動期、日本の何処に北工作員とのポイントを作ったか、とか様々に。どのように工作員になっていくかも。……と、こんなものですか。感想を入れてるものはおすすめ本です。無論全部をいつも見てるわけじゃありません。ラジオだって聞かない日もあるし。翻訳だって機械に入れて正確なわけでもない。本も忘れるものもあるし。ただまあ、これだけブクマに入れたりしておけば、何か気になる時には当たることができるよな、ということですわ。もしリンクが切れていたり、ラジオが発信されていなかったら、それはそれで一つの情報ですから。ガールズ&パンツァー BD 全12話 300分収録 北米版
2017.11.16
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兄貴に電話で公園まで呼び出された。何処かの店ではなく、公園を選ぶ兄貴に、私は万年金欠野郎、という意味の言葉を投げつけたと思う。 彼はベンチに腰を下ろして、ぼんやりと私の部屋の窓を眺めていた。「どーしたのよ兄貴、突然」と聞くと、彼は目を細めた。目の焦点を合わせるためだろうが、悪い目つきが更に悪くなる。凶悪と言ってもいい程だった。 悪人面をして、彼はこう私に言葉を投げつけた。「お前、めぐみをかくまってるだろ!」 私は一瞬大きく目を見開いた。やっと気付いたのか、と。「やっぱり鈍感だぁね」 彼は息を呑み、私に詰め寄った。「何であいつが、お前の所に居るんだ!」「拾ったのよ」「拾った?」「そう。道で拾ったの。可哀そうに、泣くことも忘れてた」 私は肩をすくめた。兄貴はどういうことだ、と言いたそうに首をふら、と動かす。どうも想像ができないらしい。眉間にしわが寄っていた。「朝っぱらからあんた達みたいな人がふらふらしてるなんて変じゃない。感謝しなさいよ?会社に行く途中で出会っちゃったから、わざわざ有給休暇とったんだからね」「…ああ…なる程」「何か、明け方くらいから、歩いてたみたいよ。何かすごく疲れてたもん。で、とりあえずお腹の空いた猫にはごはんをあげて」 「…ってことは、朝の前にはもうウチを出てたったことか?」「じゃないの?そんな感じだったわよ」 彼はそんな筈はない、とつぶやく。自分がそんな言葉を口にしていることに気付いていないようだった。まあそうだろう。前日が最良の日だった訳だ。どうしてその翌日にこういうことが起こったのか、そして何故そうなったのか、彼には想像できないはずだ。 だから彼は私にこう訊ねた。「何でだ?俺にはさっぱり判らん」 それでもちゃんと聞こうとするあたり、立派なものだが。「詳しいことは知らないわよ。でもあの子が言ってたのはね、自分はもう限界だ、ってことよ」「…そんな筈はない」 またふら、と首を横に振る。「そういうのは、他人が決めることじゃないでしょ?」 私は言った。「そういうところが兄貴は嫌よ。兄貴がどう思おうと、本人はそう思ってたの。それでもう駄目だと思ったようよ」「どうして」「メジャーの話、来たんでしょ?」 ああ、と俺はうなづく。「自分はメジャーに行ってまでやれる自信はないって」「え?」「だって兄貴は、『声』に惚れるじゃない。昔から、いつでも」「…だからそれが?」 だからどうした、と言う顔でこっちを見る。ああ全く。「それが男だろうが女だろうが構わなくてさ。おかげであたしまで影響受けちゃったじゃない…まあそんなことどうだっていいわ。限界を決めつけるってのは兄貴のモットーには反するだろうけどさ、メジャーへ行けば、兄貴はまた視野が広がるじゃない。音楽だけできる状況になれば」「ああ」 彼はうなづく。知っている。それは彼の望んでいることだ。「だけどめぐみちゃんは、それが辛かったみたいよ。兄貴はあの子がどうであろうと、きっと音楽に関しては、どんどん前ばっかり向いて手を広げてく。無論それが悪いなんて言わないわよ。いい傾向だとあたしも思うわよ」 そうでなくては、私は救われない。「どーせならBIGになってよ」 だけど陳腐な台詞だ。「…言うなあ」「言うわよ。あたしは。だけど、あの子はそうじゃない。そうなった時、兄貴の求めるヴォーカルにはどーしても届かないだろう、届けないって」 彼は黙った。何か思うところがあったらしい。「あたしの胸の中で泣いてたもん。ここ最近で、やっと泣けたのよ、あの子」「泣いたのか?」「泣いたわよ。届かないだろうから、きっといつか兄貴は自分を見捨てるから、その前にって」「そんなこと…」「しないって言い切れる?兄貴が」 彼は反論しなかった。できないだろう、と思った。予想がつく。彼にとって一番大切なのは、結局は自分の音楽だ。自分を殺さないための、自分を生かすための、生きてくために必要不可欠な音楽でしかない。それをより良いものにするためのヴォーカルなら彼はこよなく愛するだろう。だけど。 私は言い放った。「兄貴はいつもそうよ。兄貴が捨てられたって思っているけどさ、みんな同じよ。みんな兄貴に捨てられるのが怖くて、その前に逃げるのよ」 さすがにその時、兄貴も次に言うべき言葉を上手く見つけられないようだった。 でもそうだ。ハコザキ君ものよりさんも、その前の歴代の女性ヴォーカルもきっとそうだ。皆同じ理由で彼の元を去っていく。自分は自分なのだ。自分はイコール声ではない、と。 兄貴は以前、声が全てを表していると考えられないか、と私に問いかけたことがある。 だけどそれは答えが出ないものだ。だって価値観が違いすぎる。彼にとってはそうだろう。それは兄貴にとっては正しい。音楽が何より全てである彼だから、それは言えるのだ。だけど例えば私にとってはそうではない。私はのよりさんが好きだった。その声じゃない。彼女がそこに居ることが、抱きしめてくれる腕が、食事を楽しんでくれる笑顔が、柔らかい胸が、そんなものの全てが、その時その時愛しかった。 本人にそれをちゃんと言葉にすれば良かったのだろうか? でもその時にそう気付いていた訳ではないし、私自身「誰でも良かった」のも確かだ。 それでも、私が好きだったのは彼女の声ではない。彼女の存在全てだったのだ。 めぐみ君にしてもそうだ。彼の声も好きだが、疲れて倒れ込んで眠ってしまった私を起こさないようにそっと毛布を掛けてくれる手だったり、自分のことで手一杯だったとしても、それを真面目に一生懸命考えて悩んで、とりあえず動くしかない、とバイトにいそしんでいる彼が好きなのだ。 そんなことが、彼には全て声に集約されていると思うのだろうか? それは違う。違うと思う。 同じ様に、自分自身を全て声で表しているような誰か、でない限り、兄貴にとっては同じだ。同じことを彼は繰り返す。繰り返すしかない。 だけどそんなひと、そう簡単に居る訳ない! 苛立ちに似たものが、黙り込んだ彼を眺める私の中にふつふつと湧いてくる。「…心配せずとも、あの子はしばらくあたしが引き受けるからね。落ち着いたら新メンバーのライヴ観に行かせるから」 新しいメンバー。オズさん情報では、兄貴は本当にすぐに次の候補を見つけたらしい。それがどんなヴォーカリストなのか判らないが、「そういうひと」なのだろうか。 そうでない限り、同じことを繰り返すというのに。
2006.02.13
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帰る頃には、雨が上がっていた。時計を見ると、まだ七時前だった。ふらふら、と頭の芯がふらつくのを覚えつつ、途中スーパーに寄って帰る。今夜は何を作ろう。きっとめぐみ君は店で食べてくるだろうから、食事は自分の分だけ。のよりさんの時よりその点では張り合いが無い。 かさかさと袋の音をさせながら階段を上る。足が重い。鍵を回し、扉を開け、靴を脱いだらもうそれで精一杯だ。上着を掛けて、ふらふら、とベッドの上に座り込んだら、もう駄目だ。少しだけ。少しだけ。そのまま私は倒れ込んでしまう。背中が伸びる。気持ちいい… …目を覚ましたのは、夜中も二時だった。腹が減ったから目を覚ましたらしい。頭のふらつきはまだ続いている。ああやだ、服もそのままだったらしい。上着はともかく、スカートがしわくちゃだ。 でも、寒くは無かった。何故だろう、とベッドを降りようとして気付く。足元で、やっぱり毛布にくるまれためぐみ君の姿があった。ああ、優しい子だ。 そっと彼の横をすり抜けて、シャワーだけでも浴びようと、風呂場に向かった。ぱっ、と灯りをつけた途端、目眩がした。しっかりしろ、自分。 熱いシャワーを浴びたらそれでも何とかふらつきが治まった。頭と体にバスタオルを巻いて、キッチンでミルクを口にする。ああやっぱりずいぶんと腹が減っている。だけど時間が中途半端すぎだ。朝になったら、しっかりした朝食を摂ろう。 髪も朝少し早めに起きて、何とかしよう。とりあえずもう一度眠ろう、と私はベッドに向かおうとした。めぐみ君はまだ眠っていた。まるで目を覚ます気配は無い。彼も疲れているのだろう。 柔らかそうな彼の髪にそっと触れる。目を覚ます気配は無い。 朝が早く来ればいいのに、と私は思った。 * ところがその夜、彼は帰って来なかった。 だいたいめぐみ君が私の所に転がり込んでから、一ヶ月位経ったあたりだろうか。残業で疲れた身体を引きずるようにして帰ってきても、誰の気配も無い。そのまま食事をして、TVを見て、風呂に入って、出ても、扉が開く気配は無い。合い鍵は渡してあった。 今日は帰らないのだ、と私はただそれだけ思った。それだけだ。 毎日毎日、私は彼に朝カフェオレを手渡し、私はその前でミルクティを呑んでいる。それが当たり前のように感じていた。 感じてしまっていたのだ。これはまずい、と夜中になっても戻って来ない彼のことを思いながら、私は背が急に寒くなるのを感じた。 また、忘れていた。 ここは彼にとっては仮の宿りなのだ。それは最初から判っていたし、判った上で、彼にその場所を提供して…私自身も、それを楽しんでいたのだ。 だけど、私自身が、その状態を無くしたくない、と感じだしている。それはまずい。まずいのだ。 のよりさんは以前にこう言った。あなただって、あたしでなくたっていいのよ。それは確かだ。確かに今思えばそうなのだ。私は誰でも良かったのだ。 そして、今もそうだ。必ずしも、めぐみ君でなくてもいいのだ。自分を必要としている誰か、だったら。プライドが無い、とのよりさんだったら言うだろうか。 確かに、無い。一度知ってしまった暖かさは、中毒になる。誰かしらの温もりが無いと、寒くて仕方なくなってしまう。無論それまでも寒かった。だけど、それはまだ、自分が寒かったことを、本当には知らなかったから耐えられたのだ。これが普通なんだ、と考えようとしていた。 だけど違う。のよりさんやめぐみ君が居る部屋と、そうでない部屋は、まるで空気の温度が違う。自分を必要としてくれる人の、体温が、すぐ手を伸ばせば触れられるところにある。それがこんなに、心地よいものだ、とずっと私は知らなかったのだ。 誰かが、強引にでも触れてくれていたなら、もっと早く知ることはできたのだろうか? いや違う。それでも私は私だから、やっぱり、今の今まで気付くことはなかっただろう。 私の指は、知らず、電話の受話器を上げていた。もしもし、と隣の番号を押していた。だがサラダの部屋から流れてきたのは、留守番電話の機械的な声だけだった。何処に行っているのだろう。 判っている。都合のいい時だけ、彼女を頼りにするなんて、そんなのは私のわがままだ。サラダにだって自分の時間がある。今だったらバイトに行ってるかもしれない。もしかしたら、私がめぐみ君にかまけている間に、また男ができたのかもしれない。それは当然の権利だ。いや権利もへったくれもない。 ただ、誰かと話したかった。近くに居る居ないを別にして、誰かと、今、この時間、関わっていたかった。なのに、こんな時に電話する相手一人、私には居ないじゃないか。 勢いよく、受話器を下ろした。何だか急に、胸の奧からぐっ、と湧き上がってくるものがあった。 疲れてるんだよ。誰かの声が聞こえてくるような気がする。 そう実際、疲れているのだ。気持ちが、弱っている。だから余計に。 …眠ってしまおう、と思った。これ以上今日起きていると、下手な考えばかりがぐるぐるぐるぐる頭の中を巡って、とりとめもなく、何にもならない。眠って、忘れて、また、明日、考えることは、朝になって、しっかり考えよう。私は自分に言い聞かせる。 めぐみ君が明日の朝帰ってくる、という保証は無かった。だが私はとりあえず彼がいつ帰ってきてもいいように、コーヒーメーカーのペーパーフィルターをセットしておいた。 目覚ましが六時を告げる。古典的なベルの音だ。重い体をゆっくりと持ち上げると、やっぱり部屋の中には私の匂いしかしない。ああ、帰っていない。 カーテンの隙間から、日射しが入り込んでくる。日に日に早くなってくる夜明けは、私を否応無しに目覚めさせる。ベランダに出て、ふらっと下に目を移す。あの日の様に、彼がさまよっているなんてことはないのだろうか。既にベンチは見えなくなっている。 TVを点けると、NHKのニュースがいつもの口調で喋り始める。内容は頭に入っていかない。通り過ぎていく。ああそれでも朝ごはんは食べなくちゃ。セットしてあるコーヒーメーカーのスイッチを入れる。最近はずっとミルクティだったけれど、奇妙に今朝はコーヒーを呑みたくなっていた。 パンを焼いて、サラダを添えて、目玉焼きを作って。手が勝手に動く。私は苦笑する。それでもこういうことに、手はちゃんと動くのだ。腹も減るのだ。 口にしたチーズトーストはさく、といい音がした。 そう言えば。先日のことを思い出す。
2006.02.12
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「顔色良くないよ、美咲さん」 ある朝、めぐみ君がそう言った。そう? と私は答えた。実際あまり調子が良くない。生理のせいか、とも思ったが、それともいまいち違う。 大丈夫よ、と彼には言ってはおく。何となく、めぐみ君には心配させたくはない、と思った。もっとも彼も、今のところは自分のことで手一杯だろうから、私が平気だ、と言えばそう思ってしまうだろうが。「ホントに大丈夫。ちょっと日とお天気が悪いだけ」「…ならいいけど」「それより、バイトのほうどう?」「うん、こないだキッチンからフロアに変わったんだ。そっちの方が時給がいいし」 へえ、と彼の手にカフェオレを渡しながら私は感心した。めぐみ君はレストランだか飲み屋だか判らないが、とにかく飲食関係にバイトしている。 煩わしいことが嫌で、彼はいくら勧められてもキッチンの方に居たのだ、ということを兄貴から聞いたことがある。可愛い顔をしているから、フロアに出た方がいい、とそこのマスターは思ったのだろう。私だってそう思う。だけど夜、バンドでステージに出るような生活だから、普段は地味に働いていたかったのだと言う。その気持ちも分からなくもない。「どういう心境の変化?」 私は紅茶を入れる。牛乳をたっぷりと入れる。コーヒーもいいが、立ちくらみや目眩が頻繁なことから、刺激物は少し控えていた。「んー…何となく。ちょっと忙しくしていたかったし」 彼は答えをにごした。おそらく彼の言うことも本当なのだろう。考える間が無いほど身体を忙しく動かすというのは、結構有効だ。「それに少し、ちゃんとお金貯めないとね」 今度は私が黙った。おそらくそっちが本音だろう。彼はここから出ていくために、その資金を急いで貯めようとしているのだ。 東京で一つ部屋を借りるには、ある程度の資金が必要だ。どうがんばっても、普通の部屋代の四~五ヶ月分は軽く必要になってくる。安い部屋、と言ったところで、私の故郷とは違う。 彼がなるべく長く店で働く理由には、そこで出る食事のこともあるらしい。忙しい仕事でも倒れない食事が、それでもそこで働いていれば、出る。食費を削ろう、としている彼の意気込みが感じられる。 私のところで食べていることも、住んでいることも、彼は口にはしないが、心苦しく思っているらしいことは、判る。私にしてみれば、彼が毎日居ることは、正直、嬉しいのだが… 私がそう口にしたとしても、きっと彼はそう受け取らないだろう。のよりさん以上に、彼は自分のことで手一杯だ。私の気持ちまで、考えてる余裕は無いだろうし、その必要も無い、と思う。 …正直、あれから彼と何度か寝てたりもする。何でそうするのか、私にも彼にもよく判っていない部分がある。のよりさんの時とは違い、彼は自分から手を伸ばそうとしてはいない。 かと言って、私が積極的に彼を好きだ、という訳でもない。ただずるずると、何となく、寒いから寂しいから、で手を伸ばすと、何となくお互いにその気分が判ってしまうのだ。そしてそのままなし崩しだ。 …睡眠不足? もあるのだろうか。だとしたら、この立ちくらみや目眩は。 とりあえず薬局にでも行って、ピタミン剤でも買っておこう、と思った。そんな安直な方法を取るのはあまり好きではないのだが、普段起こるものではないだけに、少しばかり困っているのだ。「あんまりがんばりすぎて、身体壊さないようにね」「それは美咲さんの方も」 私達は、黙った。点けっぱなしのTVが天気予報に変わった。明日は、雨だ。 雨の降る日の通勤というものは憂鬱だ。傘をさして歩くのは、晴れた日の倍の体力と、数倍の気力が必要ではないか、と思う。最寄りの駅から幾つか。そしてそこからまた少し歩く。足元に気を付けて、前に気を付けて。服を汚さないように、できれば靴だって汚したくはない。そんな気遣いで疲れてしまうのかもしれない。 そしてやっとたどり着いた会社で、朝から何かしら卑屈な調子の電話など聞いてしまった時には、憂鬱が増すというものだ。「おはようございます」 ああおはよう、と電話が終わった相手は私に返した。あの上司だ。あまり朝から顔を見たくは無かった。早く他の人がもっと来て欲しい、と思う。他に人が居ない訳ではないが、どうも全体人口における比率を考えると、どんよりとしてしまう。窓からいつもだったら入り込む日射しが無いのも気分を滅入らせる元になっている。 上司は黙って必要な書類を眺めていたりする。卑屈というか、何かしら奥歯に物の挟まったような調子で、相手に対してあいづちを打ってたりするのだ。おそらく下手に言い返してはいけない相手だったのだろう。それは判るのだが、どうもこのひとのそういう時の態度は、空気を重くさせるのだ。そう考えるのは私だからかもしれないが。 脱出のつもりで、給湯室に向かおうとした。すると上司が私を呼び止めた。何ですか、と問い返すと、何枚もの書類を手渡した。それを表計算のソフトで打ち込んでおいてほしい、というのだ。 ふと見ると、それは住所録に見える。「頼むよ」 まるで当たり前のことの様に、上司は私に言う。何となく、嫌な予感がして、それを私は彼の前でぱらぱら、と繰った。 …ちょっと待て。「…これって、私用、じゃないですか?」 どう見ても、それはPTAの名簿だった。小学生の子供が居る、と聞いたことがある。「まあ頼むよ。時間が無くてね」 は? 途端、私の中でかっ、と燃えるものがあった。頭に血が上る。だがこらえる。そしてこういう一言を絞り出す。「私用、なんですね」 頼むよ、と彼は繰り返した。 私も、忙しいのだ。辞めた彼女の居ない分の打ち込みの仕事が時々回ってくる。普段あまり使わないPC画面をにらんでいる時間が増えていた。…もしかしたら、最近の目眩はそのせいかもしれない。神経を集中しすぎるのだ。 私はそれでも黙ってその書類の顔をした名簿を持って、自分のデスクに置いた。落ち着け、と自分に言い聞かせる。何だか判らないが、怒りが自分の中で沸騰しているのが判る。 普段私がこういう風に怒ることは滅多にない。それを顔に出すのも好きではない。だからそんな感情は、鈍いのだ、と私は思っていた。 だがそうではなさそうだ。唇を噛みしめ、黙々と作業を始めた。こういう作業は、結構に時間を食うのだ。だけどこんな作業たからこそ、「残業」にはしたくない。鬱陶しい。とっととやってしまって突き返してしまいたい。 午前中掛かって、その作業を終わらせた。その間にも私の普段の仕事の電話や来客対応もある。 昼時間が近づいた時に、ようやく作業が終わって、できました、と上司の前にそのプリントアウトしたものと、ファイルを入れたフロッピーディスクを置いた。 …そして彼はそれをざらっと見ると、こう言った。「ついでに宛名シールも作っておいてくれないかなあ。これ利用すれば、早いだろう?」 はあああああ? 何を言ってやがるこの野郎。 口から出かかった。 目眩がする。拳を握りしめた。ただでさえ気持ちが滅入っているところに、追い打ちを掛けるように。私は一度渡したフロッピーをもう一度受け取った。 そしてお昼時間になった時に、廊下の隅へ走り込み、壁を一発、思い切り強く蹴った。 がん、と音がしたが、気分は晴れなかった。
2006.02.10
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ある朝、会社へ行ったら、いきなり仕事がてんやわんやになった。何事か、と思ったら、いつの間にか、社員の行き先ホワイトボードから一人消えていた。あの割と自分の好きなように仕事をしていたひとだ。 何でいきなり、と皆唖然としていた。ただ、上司とボス的OLさんには既に伝えてあったようで、彼等は憮然とした顔をしていたが、驚いた様子は無かった。 だが私達には寝耳に水だった。仕事の直接のしわ寄せは来なかったが、彼女がサポートとしていた仕事の一部が、「手が空いたらやっておいて」と私に少しばかり回ってきた。 一体何で、と私はナンバー2のOLさんに聞いてみた。ボスの彼女に直接聞いても、何かしらはぐらかされそうな気がしたのだ。「詳しい事情は知らないけれど」と言いつつ彼女は結構詳しく教えてくれた。「何でも、うちの仕事の後に、他のことやっていて、そっちのほうでいい感じになってきたから、そっちに集中するんだって」「他のこと?」「いつも定時で帰ってたでしょ? あれって、デザイン会社のほうにあの後行ってたんだって。彼女パソコン使えたじゃない。あれで、そっち関係の仕事探したんだって」「げ」 私は目を丸くした。仕事の後にまた仕事!「よっぽどその仕事、好きなんですねえ」「私とあのひとは入ったのがそう変わらなかったんだけど、さすがに聞いてびっくりしたわ。だって、もう五年も前から二足のわらじだったって言うのよ。まあよく休むなあ、とは思ってたけど、別に有休の範囲だったから、それはそれだろうと思ってたのにね」 はあ。そうなると呆れるより感心してしまう。自分のやっていることを隠しておいて、周囲の目も何のその。それで自分のしたいことのほうにするりと移れるとは。「…まああの性格だからできたんでしょうね」「性格?」「私なんか、何だかんだ言って、周りの口とか気にしてしまうし。別にここで定年まで勤めていられる訳でもないのにねえ」「え、ずっと勤めてるんじゃ」「いくら何でも、私だっていずれは結婚したいわよ」 彼女はにっこりと笑った。別にしたくない訳ではないのだ。「ただ何かいまいちチャンスが無いからしないだけで、もしかしたらいきなりお見合いとかしてしまうかもしれないし。そしたらうちの会社なんて、子供ができたらやめ、だから先なんて見えてるじゃない」「まあそれはそうですが」「だから彼女みたいのも一つの手なのよね。男のひと達と違って、ここじゃ頭打ちなのは目に見えてるんだから…」「でも…さんは」 私はボス的OLさんの名を出す。すると手をひらひらと振られた。「ああ、彼女は別別。あのひとはちゃんと昇級試験受けたい、とか上司に言ってるのよね。それにダンナの同期とかが結構出世コースだし」「…うーん」「でもいいのよね。わたしは別に出世したい訳でもないし。まあ腰掛けだから」 どう答えていいものか、私は困った。 困って結局何も言えなかった。 昼休み、ロッカー室に行ったら、その当の彼女が荷物を引き取りにやってきていた。「あ、突然でごめんねー」 あまり話したことがないから、扉を開けたら唐突に言われた言葉にびっくりした。「い、いえ…」 普段ブラウスにスカート、でやってきていた人が、髪をざっと結んでジーンズで荷物を段ボールにまとめていた。ひょい、と上げた顔は、知っている顔より化粧気が無かった。…このひとこんなにひょうきんな声だったんだろうか?「前々から正スタッフにならないかって言われてたんだけどさー、なかなかふんぎり付かなかったんだよねえ」「そういうものですか?」 私は彼女の隣の隣のロッカーを使っていたので、必然的に彼女に近づいていくことになる。「そうそう。だってまあ、一応少しだけど昇給とかしてたじゃないですか。あっちの仕事のほうが楽しいけど、さすがに小さいとこだから、ちょっと不安だったしねー」「はあ」 私はただうなづくしかない。「だけどさー、面白くないことやって疲れてる程、あたしも若くはないしさー」「え」「だってそうじゃん。毎日毎日打ち込みとかしててもさあ、向こうの仕事してても肩はこるし目は疲れるし。同じ疲れるんだったら、あっちで疲れるほうがあたしは気分いいじゃん。それに向こうの連中のほうが気が合うし…ってあ、ごめん」「いえ…」「ここのひと達が悪いって訳じゃないよ。むしろいい人ばかりなんだけどさ、ただ、どうしても、判らないんだよね」「判らない?」「あたしの知ってるもの、とみんなの知ってるもの、って何か違う世界のもののようでさ。話合わせられる程器用じゃないし。かと言ってあたしの知ってる範囲のことって口にしても、みんな退くじゃん」「ってどういうことですか?」「だから例えば、澁澤達彦がどうとか、寺山修司がどうとか」「え」「…って反応するじゃない。アングラ演劇がどうとか、新宿のライヴハウスは、とか学生運動の時代性は、とか色々あたしの中には話せる人と話したいことがあるんだけど、どう転んだって、そんな話すると退かれるのは判ってるし」 …確かに。「で、逆にあたしはあたしで、バーゲンがどうとか昨日のTV番組はとか判らないんだよね。普段見ていないし、行くような服屋も決まってる訳だし」「TV、見てないんですか?」「だって見なければ見なくて済むし。同じ時間使うだったら、目を取られてるTVよりは、音楽流してたりFM聞いてたりするほうがいいし。あ、加納さん音楽何か好き?」「…兄貴が、バンドやってるんですけど」 私はこの会社の中で、初めてそのことを口にした。「へー? 何だ。もっと早く聞けばよかった」 いやでも、それ以前に聞かれたら、私はまず言っていないだろう。「何処のライヴハウスとかでやってるの?」「えーと」 私は知ってる限りのライヴハウスを口にした。うなづく彼女の目はいっそう大きくなる。「何だ。あたし行ったことあるよ」「ええっ」 よくすれ違わなかったものだ、と私は一瞬血が引くのを覚えた。「ふうん。話してみなくちゃ判らないこともあるんだよねえ」 全くだ。「ま、何か印刷屋が必要になったら一度電話してよ。そのお兄さんにも」「印刷屋?」「デザイン会社ったって、元々は印刷屋だよ」 あはは、と彼女は笑った。「バンドが、印刷屋に何を…」「あれ。だって色々やってるよ、皆。フライヤーだってCDジャケだって、デザインがいいもののほうがいいに決まってる」 そう言えば、めぐみ君はデザイン学校に通ってたはずだ。確か最近のRINGERの配布カセットのデザインは彼がしていたのだ。「…そうですね」「それにしても、ホント、話さなくちゃ判らないよねえ」「でもそちらも、怖かったし」「怖かったあ?」 あはは、と彼女は再び笑った。普段表情が少ない人だと思っていたのに。 それだけ、この空間は居心地が悪かったのだろう。 けど、私にとって果たして居心地がいいのか、と言うと。それも実はもう判らなくなってきていた。
2006.02.09
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「また、よね?」 夕方、サラダは私が居てめぐみ君が居ない時間を見計らったかの様にやってきて、そう言った。「いいけどさあ」「…何を言いたいのよ」 私は含みのあるその言い方に、少しばかり嫌気を覚えた。「別にいいんだけどさあ。だけど同じこと繰り返されるのは嫌だよ?」「同じこと?」「だって、まえにやっぱり元ヴォーカリストのひと、泊めてたことあったじゃない。ミサキさんが好きならそれはそれでいいと思ったけどさ、だけど出てったじゃない」 そしてこういう時のサラダは、絶対に上がろうとしないのだ。タイル張りの床に立って、向こう側を見渡しては、それ以上立ち入ろうとはしないのだ。「…そんなこと…」「判ってる? ミサキさんいつも、おにーさんの後始末しているようなものじゃないの」「違う…」「あたしから見たら、そう見えるんだってば!」 私は黙って首を横に振った。違う。違うのだ。ただ、あんな風に、私を頼ってくれるものがあると、私は、その手をどうしても取りたくなるのだ。 求められていることに、どうしようもなく弱い。弱いのだ。「じゃあ今の…名前忘れたけど、あのひとは、ずっとここに居るの? そうじゃないでしょ?」「それはそうだけど」「それはそーよね。理由なんかあたし知らないけれど、逃げてきたヴォーカル君は、立ち直ったら出てくでしょ。出ていかなくちゃならないわよ。だってミサキさんじゃなくてもいいんでしょ」「でもあたしが兄貴の妹だから」「じゃあミサキさんじゃなくたっていい訳じゃない。おにーさんの妹、なら」 ぐっ、と私は詰まる。瞬間、自分の声が必要であって、自分でなくてもいいんだ、と言う意味のことを言っためぐみ君の言葉が重なる。「そういうのって、何か違うよ。それじゃあ、いつまで経っても、ミサキさんはおにーさんの捨てた子を拾って、それにまた捨てられるんじゃない。それじゃあ、良くないよ」「だけどあたしのことよ」 私は言い返した。「どうしてそれを、サラダがどうこう言う必要があるの?」「好きだもの」 さらり、と彼女は言った。「あたしはミサキさん好きだもの。だからそういう風に、ミサキさんが結局傷つくの見たくないんだもの。それは理由にならない?」「好き?」「一緒にいて、楽しいもの。気持ちいいもん。そういうの、好きって言わない? そういうのが好き、だったらあたしの今の一番の『好き』はミサキさんだよ。だからミサキさんが近い先に、落ち込むの判ってて、続けてるのなんて、見たくないよ。それっておかしい?」 は、と私は頭の中がまっ白になるのを感じた。そういう言葉が、彼女から出てくるとは思わなかったのだ。どう答えたものなのか、上手く頭の中で、言葉が出てこなかった。答えるべきなのかどうかも、判らなかった。 しばらく、二人とも玄関先で黙ったままだった。「…帰るねあたし。別にミサキさんが、それでいいなら、いーんだよ。でも」 でも。サラダは扉を閉めた。 彼女の足音が遠ざかり、隣の部屋の扉を開けるのを確認したら、ずる、と足の力が抜けた。 えーと。 私は言われたことの意味を何度か自分の中で整頓する。でも整頓、という程整頓するものもない。サラダが言っていたのは、一つのことだけなのだ。 私のことが好きだから、私が傷つくのを見たくない。 それは判る。判るのだが。私にどう反応しろ、というのだろう。 くたくた、とそのまま玄関に座り込む。冷静になれ、と自分に命令する。サラダが言っているのは、別にややこしいことではないのだ。友達だから、心配しているのだ。それ以上のことじゃない。ないはずだ。 だけど彼女は私がのよりさんとしばらくそういう仲だったことを知っている。そういう私であることを知っていた上で、あんなことを言うのだろうか。 どうしよう、と思った。 そして、しばらく頭の中がまっ白になった。ぼうっとしたまま、Pタイルのマス目を数えていた。数えているのだが、それが幾つなのか、どうしてもまとまらない。 12を十五回ほど数えた時に、ぴんぽん、とチャイムが鳴った。私ははっとして立ち上がる。のぞき穴から見ると、めぐみ君が立っていた。彼には合い鍵を渡していない。所在なげに立っている彼をそのままにはしておけない。私は鍵を開けた。「ただいま、帰りました」 ほうっ、と私は自分の表情が緩むのを感じる。彼はここからバイトに通っていた。ずいぶんとその仕事ぶりは熱心で、私から見ても感心するくらいだった。 何か目的がある時、皆仕事の内容になど全く関係なく熱心になる。彼にも何か目的があるのだろう。それはサラダが言うように、いつか私のこの部屋を出ていくことであることは、まず間違いはない。いつまでもここに居ることはできない、と彼もきっと言うのだ。 そして私は置いて行かれる。それは判っている。判っているというのに。 疲れて帰ってきたのに、それでも笑顔を見せようとするこの子に、食事を作ってやったり、一緒にお茶を呑んだり、時には抱きしめたり抱きしめられたりすることから、離れられない。向こうがそれを必要としていることが判るから、余計に、私はそれを利用してしまうのだ。自分の中の、ぽっかりと空いた部分を、それで埋めようとしてしまうのだ。 少なくとも、彼が目の前で必要としているのは、私なのだ。私しか、いないのだ。他の誰でもない。私が兄貴と似た部分があろうが無かろうが、とにかく、私なのだ。私が彼に必要とされているのだ。その目で。その手で。 そこに関係は必要無いのかもしれない。たぶん必要は無い。少なくとも私は必要としていない。抱きしめたり抱きしめられたりすることは欲しいが、それ以上である必要は無い。ただ、それ以上で無いと、何となく落ち着かないから、そうしている時もあるが、…それだけだ。 無くて済むなら、SEXなんて要らない。
2006.02.08
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「服…もう乾いたかな…」 食事を終えた彼は、ぼそっとつぶやいた。私はそれには答えずに、こう問い返す。「逃げてきたの?」 彼ははっとして私を見た。「そうなのね?」「逃げてきたって、僕は、あ…」「…ああ、別に、ケンショーが嫌なことしてどうの、って言う気はないわよ。こう言っていいのかな? 『またか』」「美咲さん」 泣きそうな顔。そんな顔していること、彼は知っているのだろうか。「長く続いてほしい、ってあたしも思ったんだけど、やっぱりだめだったんだ」 私はTVのスイッチを切った。「美咲さんは…そうなる、って思ってたの?」 私は黙ってうなづいた。「それでも、のよりちゃんよりは続くと思ってたし、今度は、メジャーに行くまで続くと思ったのよ」「メジャーに行く、って話、出たんだ」 ああ、と私は声を上げた。ややわざとらしい。そんなこと、昨夜のうちから知っていた。なのに出たのは、こんな作り言葉で。「とうとう、やったんだ…あの馬鹿…でも、どうして、なのに?」 私は首をかしげ、少し眉を寄せる。すると彼は、ほんの微かに首を傾げ、やっぱり微かに、笑った。「僕はメジャーで、通用しないから」 そんな顔で、あっさりと。私は首を横に振った。「でもあたしはめぐみちゃんの声も歌も、好きよ? 今までの歴代のヴォーカルの中では、一番よかったと思うわよ?」「それでも」 彼は首を横に振った。「うまく、説明できないんだけど、僕は、駄目なんだ」「駄目って」「駄目なんだ!」 だん、と彼はテーブルの上で、こぶしを握りしめ、叩きつけた。「僕は、ケンショーが思うように、歌えないよ」「それはそうよ。めぐみちゃんは、あいつじゃないもの」「だけど、僕は、僕の言葉なんか、持ってない。ケンショーのように、伝えたいことなんて、ない。歌でなんて、絶対にない。そんなうた、誰が聞きたい? 少なくとも、僕は聞きたくはないよ。僕は僕が聞きたくもないような歌、人に聞かせるなんてやだ。そんなのは、何か違う。何か違うよ!」 彼は一息に吐き出した。そして、自分の剣幕に驚いたのか、慌てて、こう付け足した。「…あ…ごめんなさい」 何でそこで、謝るのだろう。胸が痛くなる。私はふと、こうつぶやいていた。「…何で、あの馬鹿は、こうやって、いい子をどんどんつぶしてくんだろうね」「つぶしてなんか」 反射的に彼は首を横に振っていた。「少なくとも、傷つけてるじゃない」 そうだ。それも、自分が全く意識が無いうちに。なのに、傷ついた本人は、こう言うのだ。「違うんだ。僕が勝手に傷ついてるだけで」「それでも、あいつに会わなかったら、あいつが手を出さなかったら、そんなことはなかったでしょ?」「それは…」 次の言葉を言わせない。私はまくし立てた。「あいつは、いつだってそうよ。自分が好きでやっているのはいいわ。だけどそれで、傷ついてく人がいるっての、絶対知らないのよ」「美咲さん?」 彼は眉を寄せた。一体どうしたの、と言いたそうな目で。「…美咲さんは、ケンショーが、嫌いなの?」 そしてあまり聞かれたくない問いが、来る。「嫌いか好きか、と言われても、困るわね。どんな馬鹿でも、嫌になっても、とにかく、兄貴なんだから」 これは半分嘘だ。そして半分本当だ。 私は、彼がもの凄く嫌いで、そして同じくらい、もの凄く、好きなのだ。そう考える自分が、許せないくらいに。無論それは、男としてどうの、ではない。私はあいにく、そういう壁を自分から壊すような体質ではないし、そもそも彼に関して、そういう目で見たことはない。 ただ。「あたしはね、めぐみちゃん、あいつに関しては、ひどく自分が屈折していると思うわよ」 本当そうだ。屈折している。冗談じゃない程。兄貴の行動が、時々ひどく許せなくなるくせに、同時にひどくうらやましい。どうしてあんな風に、やっていけるのだろう。彼が男だからだろうか? 私もこの女という重たい体でなければ良かったのだろうか? いや違う。 譲れないものを一つ、どうしようもない程に持っている彼が、ねたましい程、うらやましいのだ。 なまじ彼と同じ血を持っているだけに、彼と同じ部分があることを度々見つけてしまう。そのたびに、その部分をどうにもできない自分の下手な常識屋な部分が、計算高い所が嫌になる。彼のように、彼の持つ音楽のように、そんなものが一つあれば、どんなことがあっても、嵐が来ようが、そこで足を踏みしめて、風が行き過ぎるのを待つことができる。時には風に逆らっていくこともできるだろう。なのにそれが無い私は、足元をいつも気にしながら、ふらふらと行き場が無い。 だから、彼のことが、ひどくうらやましい。足をふんばって、前へ前へとだけ進もうとする彼が、まぶしすぎる。だから、いつも彼が選ぶのが、自分である訳がないのに、自分で無いことに、どうして、と感じてしまうのだ。どうして私じゃないの。「でも、ケンショーは、あなたに申し訳ないと思ってるよ」 めぐみ君は言う。「そりゃあ思ってるでしょうよ。でも、思ってるからって、あいつは何をするというの? 思ったから、いわゆるまっとうな生活を、奴がすると思う? 髪を切って、色も黒にして、ううん茶髪だっていいわよ。とにかく、毎日あのくらいの歳の連中がするように、定職について、仕事にはげむ、なんて生活。あいつにできる訳がないじゃない」 首を横に振りながら、私は一気に吐き出した。「それは、僕だって…」「めぐみちゃんは、違うわよ。あなたはもともと、そういう人だったじゃない。ケンショーに会うまでは、ちゃんと毎日学校へ行ってたでしょ? そういうのじゃないのよ。兄貴は、生まれつき、そういう男なのよ。ああいう男は、そんな『まっとうな』生活をさせたら、絶対おかしくなるわ」 それは私が一番良く知っているのだ。「でもバイトは真面目で」「それは、バンドがある上での、仕事でしょ? ねえめぐみちゃん、普通のひと、っていうのは、そういうの は、無いのよ」「あ」「そこまで賭けられるものがある、絶対捨てることができない、身体も心も支配されてる、何を捨てても、犠牲にしても仕方ない、どうしようもないものがあるひとなんて、ほんの少しなのよ?」 ぴぴぴ、と乾燥機が、終わりを告げる音を鳴らした。だけど私たちは、どちらもそれに気付いた素振りを見せなかった。「…だから、あの馬鹿は、時々、そうでないひとまで、自分の同類と間違ってしまうのよ」「僕が?」「めぐみちゃんは、そういうひとじゃない。皆知ってる。知らなかったのは、あの馬鹿くらいなものよ」「…知ってた?」「誰だって気付くわよ。ノリアキ兄は、ああいう奴だから、ひとを好きになったらそれも本気で、見境がなくて、だけど、だから、皆それに巻き込まれるのよ。それが本気だから。冗談じゃなく、本気だから」「のよりさんも?」「会った? 彼女に」 うん、と彼はうなづいた。「そうよ。彼女も。彼女も、とてもあいつのことが好きだと言った。けど、どうしようもない、って言った。繰り返しなのに、あの馬鹿は、それがどうしてなのか、どうしても判らないのよ」「…じゃあ美咲さんは?」 不意を付かれて、私は思わず問い返していた。「え?」「そんなケンショーを、ずっと、見てきたんでしょ? どうして? いくら兄貴だって、いつか、愛想つかしたり、放っておきたく、ならない?」「…めぐみちゃん」「ケンショーは言ってたよ。自分はそれでも長男だから、期待されちゃって、部屋なんかも、頼みもしないのに、妹より大きくて、とか、妹に、結局、自分ができないことを押しつけてしまったみたいだ、って」「あの馬鹿が、そんなこと言った?」「時々」「そうね言うかもしれないわ。だってあいつは、実際そうだったもの。どんなにあたしが真面目にがんばったところで、何のもめごとも起こさないで、いい子で勉強もできて、ちゃんとしたとこに就職できたとこで、うちの連中は、あたしにいつか頼ろう、なんて絶対思わないわ。それがいいか悪いかはおいておいて、あいつに頼るか、そうでなきゃ、自分たちで何とかするか、なのよ。老後の心配とかもね」 どうして、そんなことまで、私は彼に、言ってしまったのだろう? なのに、口は止まらなかった。「あたしは、いつも期待なんかされなかったから。自由にさせてくれたわよ。自活の道を見つけてさっさと独立しろ、ってうちだから」「美咲さん」 心配そうな、声。なのに私の口は止まらない。そして笑いまでも、洩れてしまう。「いい気味、と思ったわよ。その時にはね。だってそうじゃない」「…」 困った顔をして、めぐみ君は私を見ている。…こんな顔をさせるつもりは、なかったのに。ああ困った。泣きそうだ。必死でこらえる。何かこれ以上言ったら、あふれてしまいそうだ。 ふと、彼は椅子から腰を浮かした。手に、暖かいものが触れる。ふっと顔を上げる。触れたものを、掴んで、精一杯、平気な声で、私はこう問いかけた。「どうしたの?」 喉の奧をしっかりと閉めて、私は彼をまっすぐ見た。「…暖かい」「お茶が温かかったからね。寒いの?」 寒いのは、私だ。問いかけた私が、彼の手の温かさに、崩れ落ちそうになっている。 私は彼の手を握ったまま、その前に立った。
2006.02.07
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ふぉの? とその単語を聞いた時、それがあの大手レコード会社の名前とは結びつかなかった。何を言ってるんだ、と黙ってハイテンションの兄貴の言葉をしばらく聞き流していた。 お前ちゃんと聞いてるのかよ。 はいはい聞いてます。だから? と私は問い返した。『だから、メジャーデビューなんだよ』 は。 その時やっと、単語の意味を理解したのだ。そりゃまあ、兄貴が、あの兄貴がこうもハイになる訳である。それがゴールとは言わないが、とにかく彼にとって、「まず」乗り越えなくてはならない一つの壁であったことは確かだろう。 流通とかの面で、今はインディーズとメジャーの差は少なくなってきている、とは言ったところで、やっぱりバックがあると無いでは全然違う。 それはおめでとう、とあらためて私は言った。多少複雑な気持ちではあったが、おめでとうというのは正直な気持ちだ。これだけ私や親やら代々のヴォーカリストやら周囲をかき回しているのだから、それが成果として形になってもらわないと気が済まない。 それじゃまたな、と言って兄貴は電話を切った。ふう、と私は息を一つつきながら肩をすくめた。それがため息なのか、深呼吸なのかは私にもよく判らなかった。 …そんな翌日なのに。何であの子は。 私は仕事に出る服に、サンダル一つ引っかけて、公園へと走った。ストッキングにサンダル、は夏じゃないんだから少し寒い。カッカッ、と音が朝の通りに響く。 公園の入り口に差し掛かった時、彼が立ち上がったのが見えた。急がなくては。 私の姿を認めためぐみ君は、その場に棒立ちになった。「美咲さん…」「やっぱりめぐみちゃん? なのよね? どうしたの? こんな時間に」 白々しい程の言葉が私の口から漏れる。こんな時間に、そんな顔して居る、ってことは。二度あることは三度ある、なんて言葉、ここで使いたくはなかったのだけど。「どうしたの、って…美咲さん、今から会社でしょ? 急がなくていいの?」 ああ全く。この子は一体何を言ってるのだろう。こんな時に私の心配などしなくてもいいのに。 私はふと彼の姿をざっと見渡して、顔を歪めた。これはまずい。 何がまずいと言ったって。服をだらしなく着ていることではない。フローダウン、という奴だ。何でそれに気付かないのか。「こっち、いらっしゃい!」 私は思わず彼の手を強く引っ張っていた。だらんと力の抜けためぐみ君の手は、思った以上に柔らかかった。そのまま私は彼を自分の部屋まで引きずって行った。 自分の階まで、音を立てて上がって行ったら、隣の扉が開いた。サラダと一瞬目が合う。思わず私は逸らした。 何で逸らさなくてはならないのか、判らなかった。だけど、何となく、そうしてしまった。扉が閉まる気配がした。「美咲さん」 部屋に入れたはいいが、立ちつくしているだけの彼に、私は慌ててクローゼットを開けて、バスタオルと大きめのTシャツを渡した。「…どうしたのいったい」「いいから」 全くもう。この子は自分の状態というのを、本当に理解していない。あれであのまま、通勤通学の人達が通りだしたらどうするつもりだったのだろう。よりによって、今彼が履いているのは、ベージュのチノパンなのだ。「いいから。とにかく、シャワー浴びて」 彼は言われるがままに、バスルームへと入って行く。「使い方、判る? …ああ、シャワー出せばいいだけだからね。そうしてあるから、適当に、使って」 それでもまだどうしていいのか戸惑っているような彼に、私は洗濯機横のバスケットを指さし、とどめの一言を投げた。「脱いだらそこに入れておくのよっ!」 ああ全く。突っ張り棒で作ったカーテンを閉めて、私はキッチンの椅子に座り込む。時計を見ると、そろそろいつもだったら通勤する時間だった。…だが。 何でよりによって、月曜日なんだろう。少し迷って、私は会社に電話を入れた。今の時間で誰か居るだろうか、と少し考えるが、会社が大好きなひと、というのは、だいたい誰かしら一人は居るものだ。 案の定、あのボス的OL様が居た。何と理由をつけようかな、と思いながら、疲れた声でおはようございます、ととりあえす言う。すると向こうの方から、あらひどい声風邪でも引いたの? と聞いてきた。その理由を使わせてもらおう。「…ええそうなんです、すみません今日一日休ませて下さい…」 普段病気で休むなんてことは無いから、たまの嘘は有効だ。そうなの最近忙しかったものねお大事に、という向こう側の声を聞いて、受話器を置く。そして一度着た通勤用の服を脱いだ。 どうしたものか、と思いながら、とりあえずキッチンに立つ。あの様子では、まだ朝ご飯は食べてなさそうだ。空腹の時に、人間はロクなことを考えない。ごはんは大切だ。とにかくコーヒーを入れる。オーブントースターに、チーズを乗せたパンを置く。卵を割って、塩コショーを入れてよくかき混ぜておく。ブロッコリを小房に分けておく。 そして彼が出てくるのを、コーヒーを呑みながら、新聞を見ながら待った。…ろくな番組が無い。 彼の服は、洗濯機にまるごと放り込んだ。 やがて出てきた彼は、私が部屋着にもしている長いTシャツが何故かぴったりだった。「乾燥機、もう少しで仕上がるから、もう少しそのままで居てよね」 バスタオルを頭にかけて、ほっこりとした顔で彼はキッチンの私のほうへやって来る。そっち、と私は六畳の方を指した。彼は素直にそちらへ行き、ちょこんと座る。 オーブントースターのタイマーをセットし、スクランブルエッグを手早く作る。ブロッコリもレンジに入れる。そしてその間に、マグカップにミルクを半分入れたコーヒーを入れ、彼の前に置いた。「…仕事は?」 私の恰好を見て、彼は問いかけた。「あたしは今日は、いきなり風邪をひいたのよ」 ああそうだ。こんな一枚だけでは風邪を引かせてしまう。私はベッドから毛布をはぎとると、彼をすっぽりとくるんだ。ふっと自分の匂いがそこには一瞬漂ったが、まあ仕方がない。 大きな毛布にくるまれた彼は、いつも以上に小柄に見える。この身体を、兄貴はいつも抱きしめていたのだろうか。私が知っている誰よりも、めぐみ君は大事にされていたような気がする。ステージの上でも、ステージでない所でも。 そう言えば一度、見たことがある。ライヴハウスの廊下で、今日の出来は良かった、という意味りことを言いながら、ぐい、と彼を引き寄せてた兄貴の姿。その力の入り具合が、何だか妙に、うらやましく思えた。兄貴の腕が、ではなく、誰かの腕が、あんな風にぎゅっ、と捕まえてくれることに、何となく。「ほら食べて。食べるの」 勝手に湧いてくる考えをうち消すように、私は用意した朝食を次々に彼の前に並べた。 何となく首を傾げていた彼は、食欲など無かったのかもしれない。だが、一度手をつけたら、次から次へと彼は手をつけて行った。彼自身、それに驚いているようだった。 私はTVを点けて、音は小さくして、その画面と彼の間に視線を往復させる。朝の番組というのは何でまあ、何処も似たりよったりなんだろう。滅多に見ることがないのに、いつも同じ感想になってしまう。
2006.02.06
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「それにしても、できればめぐみ君で、メジャーまで行ってほしいわね」「メジャーに?」 思わず私は問い返していた。「RINGERは行ける、と思うのよね」「そ、そうなんですか?」「…まあ別にあたしはレコード会社じゃないから、何とも言えないけれど、少なくとも、ウチの連中よりは可能性があるわね」「え? でもBELL-FIRSTのほうがずっと上手い…」「上手い下手じゃないってことは、美咲ちゃんも知ってるでしょ? ベルファは確かに腕はいいんだけど、まあ、若い子にきゃーってウケるタイプじゃあないからね。それに皆それぞれ食う仕事は持ってるから、そうそうあくせくしてないし」「そっちが本業なんですか?」「そーね、うん、どっちかというと、バンドは趣味なのよね。皆。演奏して、楽しむことが一番だから、それで金稼ごう、とか食べていこう、って欲を出したくはないのよね、ベルファは。だけどRINGERはそうじゃないでしょ?」 私はうなづいた。少なくとも兄貴はそうだ。オズさんもそういう意味のことを以前言っていた。「ただちょっとね…」 ナナさんはふらりとステージの方を向いて、軽くため息をついた。「何ですか?」「めぐみ君で行ってほしい、とも思うんだけど、メジャーの世界で大丈夫かな、という部分はあるのよね、あの子」 そう見えるのだろうか。私は黙って首を傾げた。「何かあの子は、それで食べて行こう、って感じがしないのよね。…うたうたいとしては、それでいいんだけど…」 ステージの上のめぐみ君は、と言えば、最初見た頃に比べて、ずいぶんと動き回るようになっていた。決して広いとは言えないステージを、これでもかとばかりに右へ左へと動き回り、兄貴に絡まる。そのたびに女の子の悲鳴が上がる。それは「やめてー」の意味なのか、「もっとやってー」の意味なのか、どちらなのかは判らないが、まあ喜んでいるんではないか、と思う。 声はよく伸びているし、感情も入りまくっている。絶好調なんじゃないか、と思うのだが。 だがナナさんの懸念が当たるのは、それからそう長くはなかった。 * また冬を越えた。相変わらず寒い日はあったし、そのたびに目覚めの早い朝だってあった。だけど前の年よりはましだ、と私は思っていた。 白くペンキで塗られた同じ形の立方体ボックス家具の中には、カラフルだけど鮮やかすぎない背表紙の料理の本が並んでいる。サラダの見る夢が、それでもじわじわと私の中に染み込んでいるのは確かだ。夢は見たい。それが実現するかどうかは判らなくても、夢見ることはいいことだ。少なくとも、その時の私の気持ちは暖かくなる。 無論、実現させるために動かなくては、夢はただの夢想に過ぎない。まだ夢想の段階だ。それが「まだ」という段階で言えるのか、永遠に夢想のままなのか、それすらも判らない。ただ、夢想に終わるにしても、知識や技術を取り込んでおくことは悪くないはずだ。 月曜の朝。昨日はサラダと丸一日、遊んだ。土曜の夜にごはんを食べて、泊まっていって、日曜の朝にコーヒーを呑んで。お昼には買い物に出た。彼女のこの日のお目当ては、家具だった。無論買う訳ではない。物色だ。新しいけれど、シンプルでリーズナブルな価格の家具を売っているチェーン店や、あちこちのリサイクルショップやセンターをはしごした。リサイクルショップでは、小さなものを買い込んだりもしている。例えばダストボックスになりそうなブリキ缶。たとえばセットだっただろうガラスびん。 暖かくなりかけたばかりの街を意味があるんだかないんだか判らない話をとりとめもなくしながら、二人して歩いた。疲れたら目についたカフェで休んで、持っていたポラロイドカメラでのシャッターを押す。適当にとった写真というのは、結構後で見て、味があったりするものだ。 いつの間にかどっさりと増えてしまった荷物を手に、夜はまた一緒に作った。サラダもここのところ、割と自分で料理するようになったらしく、覚えたばかり、というパスタの新作を作ってくれた。「あたしさあ」 かぼちゃクリームのパスタを口にしながら、彼女は切り出した。「やっぱりこういう日が好きだなあ」 しみじみと言うか。「お天気はいいし、何か暖かくなってきたし」「花もそろそろ咲くよね」「今年はお花見に行こうよ。お弁当持ってさあ。花の写真も撮ろうね」「でも公園とかだと花見客がうるさいよ」「そしたらそういうとこじゃなくて、もっと地味なとこでさ。ねえ、美味しい食事と、友達と、だらだらとした時間。それが一番いいよね」「そーだね」「だから食後のコーヒーは入れてね」 はいはい、と私は笑った。 春先と言えば、会社は年度末で忙しい。本当に忙しかった。定時なんて夢のまた夢、遅くなってしまって、スーパーは閉まってる、なんてことが多かったので、いきおい私も、主義を曲げてコンビニ弁当に頼るような日々が多かった。おかげで背中がだるい。 身体の疲労は気持ちも沈ませる。ついつい物事を嫌な方嫌な方へと持っていきやすい。帰ると食事をして風呂に入ったらもう寝るだけの生活。電話の一つもしていなかったのに気付いたのは、サラダから携帯電話にメールが入ってたからだ。 週末ひま? という短いメールだったが、私はすぐに返した。暇は作るから。 仕事は根性で、休みにもつれ込まないようにした。 そんな週末だったのだ。 そしてまた月曜。ブルー・マンデーと昔から言われているが、どうして仕事なんか行かなくちゃならないのかなあ、と起きた時のけだるさの中、私は漫然と考えていた。 それでも朝の短い時間の中、放り込んでおいた洗濯物を干そうとして、ベランダに出た。 と。 うちのベランダからは、公園が見える。季節の花の移りかわりも、そこから気付くくらいだ。 大きな桜の木の下にベンチがある。夏だと葉に隠れて見えないのだが、まだ花をつけるかつけないか、という季節の今は、枝のすきまからよく見える。 そのベンチに、誰かが座っていた。何となく、見覚えのある色の服。ちょん、と座って、両手で缶を持っているように見える。小柄な。 めぐみ君! 何で、と私は思った。だってそうだ。確か、昨日、珍しく酔っぱらった兄貴から、夜中いきなり電話が来たのだ。サラダも帰った後で、退屈半分、心地よい疲れの中、ぼうっとしていた時だったので、何なんだこいつ、と思いながら聞いていたものだ。 そしたらその内容ときたら。おい美咲聞けよ聞いてくれよ、あのPHONOからお誘いが来たんだぜ。
2006.02.05
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そう、よく考えてみると、私には結婚願望はない。別に恋愛に失望しているとか、男が嫌いという訳ではないのだが、何でそういう形を取らなくてはならないのか、理解しにくいのだ。 考えてみれば、小さな頃から、それに夢は持っていなかった。周りの女の子が口にするような、結婚「式」に対する憧れは無かった。結婚とはつまり、身近な手本としては、両親がある訳だが、その「式」のあとは、結局はああいう日常になってしまうのかなあ、と思ってしまうと、夢もへったくれもないのだ。 だからそこまで普通は子供は予測しないものだ、と言われてしまえばそれまでだが、あいにく私はそういう所に妙に見通しがたってしまう子供だったのだ。 ふとそんなことを考えてたことを思い出したので、サラダにもついでに聞いてみる。「けっこんー?」 何でまた、という顔を彼女はする。「まあ、その時にしたかったらねー」「その時?」「だから、たまたまその時付き合ってる男と、その気になったら、というとこかなあ」「ふうん」 彼女にもそういう願望はあるんだ、と私は少し不思議だった。と同時に軽い失望のようなものも心をよぎる。「でもやっぱ、どっちでもいいかなあ。そういう時は来ないかもしれないし、だいたいあたしの付き合う奴って結婚なんて考えてない奴がほとんどだし」「そう?」「うん。だいたい自分の好きなことでみんな生きてるから、家庭持つってこと、考えられないみたいなの。やっぱり何か、家庭持ちになってしまうと、フットワーク重くなるんじゃないかなあ」 それはそうかもしれない。「ミサキさんはどうなの?」「あたし? あたしはまあ…」「まあミサキさんは、あんまり結婚できるひとと出会わないもんね」 私は黙って肩をすくめた。 それでも棚にだんだん本が増えていく。それは料理の本だけではなく、カフェを出したひとの話が載ったものだったり、実際にはどのくらい費用がかかるのだろう、とかのノウハウ本だったり。 実際に店を開いて、雑誌や本で紹介されるようになったところのオーナーの話というのは面白い。音楽雑誌などの二万字インタビューなどでも思うのだが、事実は小説より奇なり、という気持ちになることがよくある。 実際に起こったことだから、実にそのなりゆきがスムーズなのだ。それでいて、時々突拍子もないエピソードが出てきたりする。 ふと私はあのCUTPLATEの店長のことを思い出す。あのひとは確か家具屋に勤めてたと聞く。それがどうしてああなったのだろう。 一度聞いてみたくなった。 しかし何故か私が聞いたのは、店長のイケガキさんではなく、兄貴御用達のライヴハウス「ACID-JAM」の店員のナナさんだった。 別に聞こうと思って聞いた訳ではない。たまたまその日は、フロアの子供達が実に熱心にステージばかりを見ていたので、私はこれ幸いとカウンターに入り浸っていたのである。「めぐみ君はがんばるわよねえ」 ナナさんはカウンターに頬杖をつきながら言う。そうですね、と私は答えた。「でもちょっと無理しているかな。身体壊さなければいいけど」「ナナさんもそう思うんですか?」「んー、ちょっとね。やっぱり身体が資本だし。ちゃんと健康で生きていけさえすれば、あたし達なんて、ふらふら、こうゆうとこでやっていける訳だし」 そう言えば、このライヴハウスの常連だったバンドのベーシストが去年亡くなっていることを思い出す。確かそのひとは、ナナさんとも友達だったはずだ。ナナさんはそのバンドのヴォーカリストの彼女でもある。「いつからここで働いてるんですか?」「うーん…もう五年くらいになるかなあ」 ライヴハウスのスタッフとして、それが長い期間になるのかそうでないのか、私にはよく判らない。ただ、私がこの場所に初めて来た時から彼女は居たし、この先もずっと居るような気がしていた。「ここに勤めるまでは、ショップの店員してたんだけど。あ、その前にはOLもしていたのかな」 え、と私は思わず声を立てる。薄暗い、柔らかな照明の下がよく似合うこの人が、昼間のオフィスでOLをしていたとは、どうにも考えにくい。「そんなに驚くかなあ?」 彼女は腰に両手を当てる。いいえ、ともええ、とも言いにくくて、私は言葉に詰まった。「ま、仕方ないかなあ」「ショップの店員さんってのは判るんですけど」「うんまあね。まああそこに居たおかげで、少しは今恥ずかしくないような恰好しているけどね。でもOLしていた頃はひどかったのよ」「ひどかった?」「センスがね。着られればいいってレベルではなかったけれど、色合わせとか何にも知らなかったし」 はあ、と私はうなづいた。「でも何が転機かなんて判らないわよね。うん、ホントに偶然なんだけど」「どういう偶然なんですか?」「ん? これ」 ふわり、と彼女は自分の髪を両側から持ち上げた。「たまたま、会社の宴会か何かで余興した時、物まねしたついでに恰好も真似たのよね」 彼女は有名な女性デュオの名前を挙げる。確かにその雰囲気はある。「で、その恰好したら、何か驚くことに、似合ってるじゃない。目ウロコだったのよね。結構あたしもコンサバだったから、ここではこういう服を着なくちゃならない、とかいうのがあったんだけど」 まあOLだったし、と彼女は付け足す。「だけど何かね、原色のぴちぴちしたTシャツとか、結構いけるじゃない、なんて自分で思っちゃったりしてね。そしたら、それがスイッチだったみたい」 ふふ、と彼女は笑う。「そしたらつい服作りにはまってしまって、ついにOLやめて、その時に貯めたお金で、服飾の専門に一年コースか何かで入ったのね。だけどそれを仕事にしようとは思わなかったから、それはそれで終わり。で、雑貨ショップにバイトのつもりで入ったら、何か真面目だねえ、って正社員にされちゃって」「それもいいじゃないですか」「だけど実は腰を痛めたのよ」 ひらひら、と彼女は手を振った。こ、腰?「結構ね、あれって重労働なのよ? 雑貨って言ったって、軽いものばかりじゃないし。それで辞めて、今度はも少し軽いものにしようかな、と思ったら、ちょうどここの募集があって。時間が何だったけど、まあそれもいいかな、って入って」 それで五年居着いてる訳なの、と彼女は締めくくった。「まあここだったらね、重いものは男の子が持ってくれるしね」 そう言ってナナさんは笑った。
2006.02.04
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だから、ベランダからぼんやりとベンチに座っている彼の姿が見えた時、私はものすごく、驚いたのである。 * だらだらと日々は過ぎて行く。春が過ぎ夏が過ぎ、秋になった。 私の本棚にはだんだん料理の本が増えて行き、電子レンジとオープントースターは売り払い、オーブンレンジをとうとう購入してしまったのである。 やったね、と手を叩いたのはサラダだった。私はそのオーブンレンジで最初にレーズン入りのスコーンを作り、…作りすぎてしまったので、隣を呼んだ。 予想通り、彼女は大喜びでテーブルをセットし、自分の部屋からいつの間に買ったのか、銀色のどっしりとしたアフタヌーンティーセット用のトレイを持ってきた。「こないだ、安く譲ってもらったの」 どこからだ、とふと疑問になったが、深く追求するのはよした。 焼きたてスコーンと、慌てて買ってきたコンビニデザートのケーキをその銀のトレイの上に置いて、まがいものアフタヌーン・ティー。ポットはまっ白の陶器。ティーコジーはサラダが持ってきた。「何かすごいでしょ」 テーブルの上を一歩下がって見て、自分でセットしたのにサラダはそんなこと言う。 そして一口。さく。「やーんおいしー」 素直な感想。うんやっぱり嬉しいものだ。「ねえホント、いつか店を出そうよ」 彼女は目をきらきらさせながら言う。何でも最近、カード書きの方も順調らしい。「こないだね、業者の方から話があったんだ。幾つか出してくれるって」「へーえ」 私は目を丸くした。会社の名は知らなかったが、よく雑貨屋でカードを見るから、その類の業者なのだろう。「ってことはイラストレーターのサラダさんって訳?」「やーだ、そんなたいそうなものじゃないよお。あくまであたしはカード書きなんだから。それはあくまで副業。あ、でもだからって手は抜かないからねー」」「ふうん? じゃあ本業は何なの?」 テーブルの向こう側の彼女は、ぐい、と身を乗り出す。「だからミサキさん、いつか店出そうよ」「本気?」「本気」 本当だ。目がマジ。「別に東京でなくたっていいんだもん。大阪とか、関西もいいよねー。ミサキさんの田舎のほうでもいいよね。まだあんまりカフェらしいカフェって、こっち程多くないだろーし」「や、それでも時々見るよ。さすがに帰省すると」「でも東京大阪に比べれば、競争は少なくない?」「うちのほうはね、カフェは少ないかもしれないけど、昔から喫茶店戦争ってのはあるんだよ」 そう、喫茶店戦争。私の故郷では、とにかくコーヒー店でもコーヒー以外のものをどれだけつけるか、というのがその店の人気と比例していることが多かった。モーニングセットに赤だし定食がぼん、と出てしまうところである。「だからもしうちの方でやるなら、それこそ趣味本位のものか、じゃなかったらその戦争に参加するしかないよね」「ふーん。それはちょっとねー」「あんたの実家のほうはどうなのよ」 私は何気なく振ってみた。「あー駄目だめ」 ひらひら、と彼女は手を振る。「何で?」「何でも。だいたいもう、行くことはあっても、帰るとこじゃないもん」 それ以上聞く? と彼女の目が訴えていた。なるほどそれでは聞けない。「東京の方が合ってるんだよね、きっと。だってさあ、カフェもだけど、音楽も絵も芝居も何でも、あたしが欲しいものは、手を少し伸ばせばあるじゃない。自然が少ないって言ったってさ、だいたい田舎の連中にしたって、今じゃあ車であちこち行く訳じゃない。こっちのひとの方が、公園とか海とか、とにかく少しでも残ったものをちゃんと残そうと思ってるじゃない」 語調が少しきつい。それに本人が気付いているのかどうなのか。「本一冊買ったり、CD一枚買うにの労力が掛かるなんて、冗談じゃないわよ」「それは同感」 私はうなづく。「だけどミサキさんの地元はそれなりに地方でも都会じゃん」「や、それでも一歩入れば、ど・田舎よ」 だから自動車をみんな持ってしまうことになるのだ。「うちの県なんてね、県庁所在地以外は田舎だもん。まるで違うんだからね」「そういうもの?」「そーゆーものよ。だいたい会社で、うちの県の名前知らない奴もいたのよ」 へーえ、と彼女は肩をすくめた。そして思い出したようにスコーンをつまむ。「どっちがいいかなあ。スコーンは丸と三角と」「あたしは丸の方が好きだな。紅茶にも合うし」「でもコーヒーショップでは三角とか多いじゃない」「うーん。かじるには三角もいいけどねえ」 こうつかんで、こう口を開けて、と彼女は実演する。「三角もそう考えると悪くはないしねえ」 ふむ、と私は紅茶を口にしながら思う。こうやって彼女と話を進めていくことが最近本当に多い。…何処までが夢想で、何処までが実現可能な夢なのか、境目が最近は判らなくなってきている。 …できるのではないか、という気持ちも、実は最近、ふつふつと自分の中で湧きつつあるのだ。 ただ、何が必要なのか、どんな資格が必要なのか、そんなことがまだぼんやりとしている。見ようとしていない。 そんな気持ちの時には、始めてはいけないのだ。自分の経験がそう言っている。そんな状態で始めたら、失敗するのは目に見えている。確かに夢は夢だし、失敗する可能性もあるだが、夢であるだけに、絶対に失敗するような状態で始めてはいけないのだ。 だからまだ、サラダがどんなに熱心に言おうと、私の中ではそれはあくまで夢なのだ。 だがそれは、どんなに楽しい夢だろう? 時々、もしかして自分は結婚したいのではないだろうか、という疑問が湧くことすらある。それは誰か好きなひとと一緒になる、という意味ではない。正確に言えば、「家庭に入る」だ。台所という自分の城で、好きな料理をしたり、部屋の中を自由に作り替えたり、そんなことばかりひねもすやっているような。 確かにそれを望んでいる自分が無くもない。…上司は鬱陶しい訳だし。 ただ、その状態のために、誰か男と結婚することを考えると…それは面倒だ、と思ってしまう自分が居るのだ。 好きな男が居れば、その考えは現実味を帯びてくるが、私にとってはそうではない。別に男が嫌い、という訳ではないが、正直、それならサラダと暮らしている方がずっといいのではないか、と思わざるを得ないのである。
2006.02.03
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数日後、今度はそのめぐみ君の方が、私にのよりさんやハコザキ君のことを聞いてきた。私は彼をミスドに誘った。人前に立つことをやってる割に、彼は上京した頃とあまり変わらず、おしゃれなカフェとかは苦手らしい。 どうやら彼は、のよりさんに直接会うつもりらしい。だからその前に、どういう人か私に聞いてみたかったのだ、という。「どういう人って、一口では言い表せないけれど」 私は言葉を選んだ。無論彼女と私が多少なりとも関係があったなんてことは言わない。それは私のプライヴェイトなことで、彼にわざわざ聞かせることではない。「だけどどうして、のよりさんに会いたいの? 確かに彼女、昔兄貴と付き合ってたこともあるんでしょうけど、もう過去のことよ」「うん、それは判ってるんだけど」 彼は言葉を濁した。「めぐみちゃん、そんなに兄貴のことが、好き?」 少し声をひそめて言う。春先の休日のミスドには、彼のような可愛い男の子に目を付けて聞き耳を立てる女の子というのが必ず居るのだ。「うん」 めぐみ君はうなづいた。「何で?」 そして首をかしげた。何でだろう、と言いたげに。いいわごめん、と私は口にする。「そういうのって、理由らしい理由ってないものだもんね」 言っていて、そらぞらしい、と思う。自分で納得していない台詞というのは、どうしてこんなに言っていて嫌な気分がするんだろう。「…あのさ、美咲さん」 アメリカンコーヒーのお代わりを店員からもらってから、彼は口を開いた。「何かね、引き込まれるんだ」「引き込まれる?」「うん。すごく、強引でしょ、ケンショーは」「そう…よね」「僕はこうゆう性格だから、人に引っ張ってもらえて、ようやく新しい景色が見えるんだよね。だから何って言うんだろ…奴に引っ張ってもらって、見せてもらった世界が、思いの他楽しかったって言うか…」 何って言えばいいんだろう、と彼は言葉を探す。「何か、鮮やかなんだ。奴に引っ張られて、見える世界が」 ふと、のよりさんが部屋に居た時の自分の視界を思い出す。何故なのか判らないままに、部屋の中が、通勤の道ばたが、空が、木々が、ひどく明るく感じられた。「…ごめん、やっぱり上手く言えない」「ううんこっちこそ」 それは私にしたって同じなのだから。「もうじき二十歳になるって言うのに、何かいつまでも子供みたいで、ごめんね」「あら、もうじき誕生日?」 うん、と彼はそう遠くない日を口にした。「花?」 ああ、と兄貴が電話の向こうでうなづく気配があった。『花と、ケーキ。お前どういうのがいいと思う?』「何兄貴、いつから甘いもの食べられるようになったのよ」 そんな単語が彼から出ることあたり、私にはひどく不思議だったのだけど。『や、めぐみの誕生日だし』 ああ、と私は大きくうなづいた。この男がそんなことを几帳面に覚えているとは! 何せ先日聞いた私すら忘れていたというのに。 しかし確かに彼は、その時付き合っていたひとには、それなりのことをしてはいたようだ。記念日好き、という訳ではないが、付き合ってた期間に誕生日だのクリスマスだのバレンタインだの、国民的行事が存在する時には、意外にもそれにならったりしているらしい。まあ確かに、押さえておけば関係がスムーズに行くことではあるが、兄貴の性格を考えると非常に不思議ではある。 だいたい預金通帳をちゃんと保管しているのだ。しかもその中には、ちゃんと定期で預金がされている! それはいずれ出そうと思っているインディーズのCDのタメの資金なのだろうが…その貯め方にしても、ちゃんと毎月毎月こつこつしているあたり、不思議と言えば不思議なのだ。 もしかして、音楽でなく、ビジネスにその才能が向いていたら、とてつもなく女にもてるばりばりのやり手になっているのかもしれない。今でももてることはもてるのだが、それはあくまで「バンド好き」の女の子の範疇に過ぎない。そうではなく、もっと広範囲な。 たまたまそれが音楽という、決して大多数の人間がするものではないことから、世間から外れた存在になっているが、…もしかして…「花は店で適当に選んでもらったら? 女の子にあげるとか何とか言えば、選んでくれるでしょ。ケーキは…」 私はふと、この間のクリスマスにサラダと食べた「CUTPLATE」のケーキのことを思い出した。「…ああそう、兄貴、あまり甘くない奴だったら食べられるよね?」 ああ、と電話の向こうの声は答える。「CUTPLATEってカフェで出してるケーキが、あんまり甘くない…って言うか、甘いことは甘いんだけど、果物のとのバランスがいいから、兄貴でも食えそうな奴だったけど」 教えてくれ、と彼は言った。あそこなら、兄貴達の部屋からも歩いて行けないこともない。夜遅くまで開いてもいるから、彼がバイトから帰ってきた時に取りに行っても大丈夫だろう。「めぐみちゃんは甘いもの好きだった?」『あいつは好きだよ』 だろうね、と私はうなづいた。そういうイメージだ。「女の子」のような。 それは実際の女の子がどうの、というのではなく、幻想の中の「女の子」のイメージと重なる、という意味だ。私がめぐみ君に対して「可愛らしい」と思った部分でもある。 だけどそれは、いつまでも続くものだろうか。兄貴はきっと今までの相手より大事にしているだろう。そうでなくて、こんな長く続くはずがない。 もう一年にもなるのだ。 バンドは順調だった。めぐみ君もどんどんヴォーカルに磨きが掛かっているらしい。最近見に行かないので何だが。何となく、歌っている彼の姿はひどく私の目から見て、痛々しかったのだ。
2006.02.02
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「兄貴これ…」 TVの上に無造作に置かれていたそのカードが何であるのか理解した時、私の指は凍り付いた。「あ? あれまだめぐみ、捨ててなかったのか…」 捨てて?「結婚式の招待状なんて、そうそう捨てるもんじゃないわよ」「だけど俺、行く気ないからな。出した方もそのつもりだろうし」 それはそうだ、と思う。何せ、結婚式の当事者は、のよりさんとハコザキ君なのだ。 もともと付き合っていた彼等だ。それが、何故か一人の男に連続した時間、気持ちと身体を支配されてしまっていた。その呪縛が解けた今、もとのさやに戻った、と言えばいいのかもしれない。 ただ。「…そういえば、めぐみ君、知ってるの?」 背中を向けたまま、私は兄貴に訊ねる。めぐみ君は今日は、バイトに出ていて居ない。私のように土日完全週休二日制、という訳にはいかない彼等は、シフトの関係で、休みが合わないことの方が多いらしい。ただそれでも一緒に住んでいるから、顔を合わさない朝夜は無い訳で… ふと、めぐみ君の白い腕が脳裏をよぎる。長い髪を後ろで無造作に束ねている兄貴は、煙草を吸いながらスポーツ新聞を広げている。店でもらってきたものらしく、ずいぶんとよれている。顔も上げずに(と思われる)彼は問い返した。「何を?」「兄貴が前、のよりさんやハコザキ君と付き合ってたこと」「どうだったかなあ。ああでも俺、声が良ければ本人にも惚れる、ってのは言ったことあるよ」「…言うかなあ、そういうこと、普通」「だって俺はそうだからさ。お前知ってるだろ」「そりゃあそうだけど」 結婚して、のよりさんはのよりさんではなくなる。ずっと気付かなかったけれど、あれは名前ではなく名字なのだ。ハコザキ君と結婚すれば、彼女もハコザキさんになってしまうのだろう。何か妙な気持ちだ。「じゃあ兄貴は、二人ともあたしのとこに来たってのは、知ってた?」「ああ」 私は振り向いた。彼はだが新聞から目を離す気配は無い。「誰かが言った?」「ハコザキがお前によろしく、って言ってたから」 それを伝えてもらったことはないような気がするが。「それだけでしょ?」「ああ」「じゃあこれは知ってた? あたししばらくのよりさんと暮らしてて、彼女とそういう関係にあったわよ」 ふっ、と兄貴は顔を上げた。「お前が?」「そうよ。帰りにくいからって、しばらく居たわ。それであたしが兄貴に何処か似てるって」 曖昧にぼかす。「そういうの、平気なの?」「平気かどうかって、お前、俺に聞くの?」「そうよ」 ぽん、と私は言葉を投げた。「平気だよ」 あっさりと、彼はそう返した。「本当に?」「のよりが俺を見放したんだ。それは俺もよく知ってる。俺がどうこう言ったとこで仕方ないだろ?」「だけどその時点では、のよりさん、兄貴のこと好きだったのよ」「それでも、仕方ないだろ」 ふっと、彼女の残していった言葉が頭をよぎる。可哀相なひと。「俺はこういう俺だし、それが原因で、どれだけの奴が逃げて行こうと見捨てて行こうが、俺は俺であることを辞められはしないから」「そんなの、逃げよ」「じゃあお前は、付き合ってる相手が、…や、お前にこれ聞いても仕方ないよな」「何よ」「…ああそうだ、こう言えば判るかな。『仕事とあたしとどちらが大事なのよ』」「…何、彼女がそんなこと言ったの?」「いや? そういうこと言った訳じゃあない」「じゃあ何よ」「だから、俺にとって、のよりは声だった。あいつには最初からそう言ってる。お前の声が好きだから、お前がいい、って。だけどあいつにはそれでは足りなかった。かと言って俺がそれ以上をあげられる訳じゃない。だから仕方ない」「どうして…」「だからお前にこのたとえは通じない、って言ったんだろ。お前だったら、もし一緒に暮らしてる相手が病気で寝込んでいれば、会社くらい休むだろ。そういうことが普段からできるように、日々過ごしてるだろ。普段きちんきちんとしていて、突然仮病使っても上手くだませるくらいには」「…そ、そうだけど」「だけど俺にはそれはできん。や、そりゃお前のように会社がどうの、じゃなくてな、もし俺がその時作曲モードに入っていたら、もしもその時の相手が同じ部屋で寝込んでいても、俺はきっと作業を続けているんだよ。続けなくては、とりあえず俺がどうかなる」「勝手よ」「そうだよ。だから俺はそれは最初から言ってる。それでも好きなのは向こうの勝手だし、見捨てるのも向こうの勝手だ。俺にそれ以外、どうしようがある?」 私は言葉を探した。上手く見つからない。「…それでも、そう思ってしまうことは、止まらないじゃない。それこそ、兄貴が曲作りに止まらないように。それでも好きだったんだ、ってのは…」 兄貴は間違ってる。と思う。いや、違っている。だって、それじゃあ絶対に、誰とも、ある一線を越えられないと思う。「兄貴は、声以外で、誰か好きになったことはないの?」「無い」「それでいいの?」「そういうのは、いいとか悪いとかいう問題か?」 判っている。そんなことは、問題にすることではないのだ。「…めぐみ君は、もう少し大事にしてやってよ」「大事にしているよ。うちの大事なヴォーカリストだ。めぐみなら、今までよりもっといい場面にうちのバンドを持っていける」「声以外の部分は、どうでもいいの?」「声が全部を表してる、って、お前思ったことはないの?」 声が?
2006.02.01
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夏が過ぎて、秋が来て、冬。 兄貴達の活動は順調のようだった。私は時々ライヴも見に行ったが、差し入れもすることが増えていた。それはお菓子のこともあるが、たいがいは作り置きの料理という奴である。タッパーに総菜やら酒のつまみになるようなものを詰めて、兄貴の部屋に届ける。 兄貴は料理ができない訳ではないが、あまり味にこだわる方ではないので、簡単なもの以上に上達はしないらしい。「一皿の御馳走」という本が確か実家の台所にはあったが、奴の場合は「一皿の料理」だ。 たとえばどんぶりもの。たとえば具だくさんのラーメン。まあそれはそれで悪くはないのだが、いかんせんやっぱり「食ってるだけ」という印象は否めない。 それに加えて、私はめぐみ君のことが気になっていたのだ。 結局彼もまた、兄貴のところへと転がり込んでいた。それもハコザキ君やのよりさんよりある意味タチが悪い。彼は専門学校に通っていたのだが、バンドに身を入れすぎて留年-休学というパターンになってしまったのだ。その上、そのために家から仕送りを止められて、そのために家賃が払えない、ということでやってきたのだ。 もしかして見かけによらず、強引なところがあるのかもしれない、と私は思いだしていた。 兄貴は、と言えば相変わらずのマイペースだった。おそらくめぐみ君の方が、突っ走っている感がある。当初は兄貴の方がずいぶんと時間を掛けて彼をヴォーカルとして口説いたらしいのだが、気が付くとこのざまだ。何かもう、彼の視線でもって、兄貴のことをどう思っているのか、見えてしまうくらいだ。見ていて痛々しくなってくる。 それでも長続きするとは、私は思っていなかったのだ。 冬の間、私は、と言えば、会社では相変わらずだった。日々の仕事は何事もなく過ぎているように見えるが、それでも私の中にはじわじわと変化が起こり始めていた。 あの上司は、と言えば、小さなミスで、私のことをじわりじわりといじめているように感じられる。こんなことが続くと、君が今までちゃんと作り上げてきた信用を落とすよ。もっともな意見だ。それはおそらく合っている。私がいつどんな状況でどんな気持ちでいてその結果ミスをしてしまおうが、そんなことは、会社において、仕事において何の意味もないことなのだ。そんなものだ。 労働の代価として、給料をもらっているのだから、労働になっていない部分は、責められる。そういうものだ。とっても正しい。 ただ正しいことを全て認められる程、私は大人ではない。身体も年齢も、社会的な位置としても、私はもうどうしようもなく、「大人」だ。それはどうあがいても変えようのない事実だ。 だからと言って、無くしたくない部分も、確かにあるのだ。 無くしてしまったほうが、ずっと楽になると判っているのに。だけど。「クリスマスは、どーすんの? ミサキさん」 十二月のある週末の午後、サラダが不意に問いかけた。私の部屋の方が暖かいから、と彼女は前にも増して入り浸っていた。「別に特に予定はないけど」「じゃあ何処かにごはんとかケーキとか食べに行こーよ」「彼氏はいいの?」「ずーっと居ないことくらい、知ってるくせに」 彼女は眉を寄せたが、口元は笑っていた。確かに。ずっとそんな話を聞いていない。「別に作らないって決めた訳じゃあないんだけど」 彼女はそれ以上は口をにごした。ただし、過去の彼氏達との友達づきあいはちゃんと続いているらしい。そのあたりが実に彼女なのだが。「何処がいいかなあ」 彼女が見てた雑誌をちら、と見る。案の定、「カップルで行くクリスマスのデートコース」みたいな特集のついた情報誌だった。私が買った訳ではないから、彼女の帆布バッグの中から取り出されたものだろう。「あそこのカフェはどうなの?」「あそこのカフェ?」「CUTPLATE」 ああ、とサラダは顔を上げた。「うーん、特にそんなクリスマス・メニューが出るとか聞いたことはないけどさあ」「でもあたしまだ夜に出かけたことないけど、あそこはごはんはどうなの?」「うーん。ランチはあたしも食べたことあるけど…一応夜も二時くらいまでやってるし…何かしらあるんだよねえ」「だったら近場だし、場所予約取って、そこでごはんしない? 確かケーキはあったし」「あー、そういえば、ケーキは美味しかった」「でしょ」 うんうん、とサラダはうなづく。そーだねそれがいい、と彼女は繰り返した。「あたしさ、こっちに出てきてからは、絶対にクリスマスはケーキを食べるんだ、って決めてるの」「? って、そうじゃあなかったの?」「全くそういう訳じゃないけど」 うーん、と彼女は首をひねる。「そんなこと、考えてる余裕が無かったし」 え?「クリスマスって、いいもんだねーって思ったのは、こっちに来てからだしさあ」 何かすごく、困ったことを聞いているような感じがしてきた。「そーなんだよね。何かクリスマスってさ、皆で騒いで、ばっかじゃねーの、と思うこともあるんだけど、そんな、宗教でも何でもないのにさ、皆浮かれてもいい日っていいよね。そういう日があるだけで、何か楽しくなるじゃん」 そうだね、と私はあいづちを打つ。「でもま、あたしには、ここに住めることだけで、じゅーぶん感謝したいと思うのよ。カミサマじゃなくても、何か、にさあ」「感謝」「だって、平和じゃない」 どう答えたら、いいのだろう。サラダも自分が振った言葉が意味を持ってしまっていたのに気付いて目を伏せた。「…でもさあ、ミサキさん、カフェでも何でも、小さい、自分の趣味だけで埋め尽くした店っていいよねー」 おやまたこの話題だ。最近気がつくと、私達はそんな話になっていた。「で、あんたとしては、小さくてもいいの? 小さいほうがいいの?」 私の口元からも笑みがこぼれる。話がそれて、安心したのは私の方かもしれない。「うーん、そりゃあある程度の大きさはあった方がいいけど、あんまり大きすぎると、あたしなんかじゃあ、しっちゃかめっちゃかになっちゃうじゃん。そーだね、テーブルはいいとこ、四人掛けが二つと、二人掛けが四つ」「あとは、カウンターで?」「雑貨とかも置いてさ。だったらそうなっちゃうよ」「雑貨置くなら、ちゃんとディスプレイするスペースは必要だよ」「無論そーだよ。だってそれはあたしの仕事だもん」 にっこりと彼女は笑った。どき、と心臓が跳ねる。それがその笑みのせいなのか、「仕事」というその言葉のせいなのかは判らなかった。
2006.01.31
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「へえ、これが今度のヴォーカルの子? 可愛いじゃん」 私の部屋にあった写真を見て、サラダはあっさりそう言った。「可愛いと思う?」「そーゆうメイクはいただけないけどさあ」 そう言ってはい、と写真を戻す。「やっぱ駄目?」「似合うから余計にさあ、何か、変じゃない」「変かなあ」「無理してるように見えるけど」 どき、と私は心臓が飛び上がるのを覚えた。サラダの指摘は結構鋭い。いや、かなり鋭い。しかもそれが無意識なあたりが怖い。 私なんぞ、いちいち理屈をこね回してしまうのだが、彼女の場合は直感だ。直感で出てきたものに、理由を後付けするというタイプらしい。 だから好きなことは、どんどんとにかく実行してしまうのだそうだ。コンビニでいい音楽が流れてきたな、と思ったら、店員に流れていた有線の番号を聞き、何月何日の何時頃に流れていた曲は何ですか、と電話するのだ。「だってそれだけの手間で、聞きたい曲が判るんだよ?」 もっともである。ただ私だったら、とりあえずそこで店員さんに聞くのを躊躇するかもしれない。 絵を描きたいと思ったら絵を描き、ある色ある形の服が欲しいと思って、だけどそれが無かったら、見よう見まねで自分で作ろうとしてしまう。多少針目がおかしかろうが、そのあたりは構ったものではないらしい。「それらしく見えればいいのよ」「…」「だっていちいち皆服に近づいて、縫い目がどーとか本当にまつり縫いだとかチェックする?」 まあそれはそうだが。「だったら見た目さえ何とかなればいいのよ。着るのはあたしなんだもん。誰に迷惑かける訳じゃーなし」 そう言って着ていたのは、オレンジのサーキュラースカートだった。ほらほら広がる広がる、とくるくる回ってみせたものだ。「何かさあ、明るい服着ると、明るい気分になるじゃない」「そう?」「ミサキさんそーいえば、あーんまり明るい色の服無いね。今度作ろうか?」「…そ、それは…」 ちょっとばかり縫い目に不安があった。「だってさ、ミサキさん美人なのに、何かそれを隠そう隠そうとしてるように見えるんだもん」「え?」「確かに落ち着いて見えるけどさあ。近づきにくいって感じもするよ? 少なくとも男とかにはさあ」「別に男にいちいち近づいてもらおうとは思わないわよ」「うん、それはよく判る」「そういうあんたは最近どうなのよ。彼氏のほうは。別れたんだっけ?」「うん。あ、そーいえばそーだった!」 あはは、と彼女は笑った。「いや、だって、あたし楽しくなりたくて、誰かと居るのが好きなんだもの。ここんとこミサキさんと一緒に居るのが楽しかったから、男と知り合うの忘れてた」 冗談、と私は少し苦笑する。「冗談じゃないよぉ。あれはあれ。これはこれ」「そういうもの?」「そういうものだって。…あれ、話飛んだね」 そういえばそうだ。「…だから、服って結構、着たひとの気分を左右させるものだと思うのよ。だから、その新しいヴォーカルの」「めぐみ君」「そう、めぐみ君ってさあ、この服に、見せたい自分を合わせてるってことでしょ?」 そうかもしれない。少なくとも、あの時この部屋にやってきた、何処か所在なげな彼と、このエナメルの彼は別人のように見えた。「それはそれで、悪くはないんだけどさ。パフォーマーとしては。だけど」「だけど?」「自分で本当に、そういう自分を見せたい、と思ってればね」「そうじゃない、と思うの?」「そうじゃない、って思わない? まああたしは写真見てるだけだし、ミサキさんの話からしか聞いてないから判らないけどさあ」 私はうなづいた。「だけどできれば、長続きしてほしい、と思うのよ。だっていつまでもヴォーカルが定着しないって言うのは、結構ネックだと思わない?」「弱点だよねー。だってヴォーカルって、バンドの顔じゃん。それがころころ変わってちゃさあ。あ、ユニットとかならいいんだけどさ。アレグロ・アレグレットなんて、確か今のヴォーカル、三代目だって聞いたし」 その名前は私も聞いたことがある。結構老舗のおしゃれな二人組ユニットだ。ファッションも、音楽も、ある種の人々からは一目おかれている、というような。「あーなってくると、ヴォーカルが変わったら変わったで、お部屋の模様替えのようなものだものね。だけどミサキさんのおにーさんのバンドって、違うじゃん」 大きくうなづく。違う。確かに違う。何だかんだ言っても、彼は「おしゃれー」なものとは無縁だ。むしろ泥臭いと言ってもいい。「その子の声ってどんな感じ?」「前の前のヴォーカルの歌、覚えてる?」「ああ、あのハコザキ君ってひと。一緒に朝ご飯したね」「タイプとしてはあれと同じなのよ。それがもっとウェットになった感じ」「結構痛い声?」「イタイ? って言っちゃ可哀相よ。一生懸命だし」「違う違う、イタイじゃなくて、痛いだってば。切ないとか、そういう感じ」 ああ、と私はうなづいた。そういえば少し前までは私もそういう使い方をしていたような。「…ミサキさんには何だけど、ああいう声じゃない方が、いいんじゃないかなあ、あのバンドの曲って」「そう? いつもの直感?」「うん。おにーさんのギターって、テクニック重視のばりばり、という感じじゃないじゃん。どっちかというと、何か歌いたいものを、声の代わりにうたってる、って感じだよ」 そうでなくてあんなフレーズ弾かないと思う、と結構古い洋楽ロックなんかも聞く彼女は断言する。「どっちかというと、歌えたら歌ってるタイプじゃあない? たまたま歌えないから歌わないだけで。ミサキさんのおにーさんって」 思わず目を見開く。「何でそう思うの?」「だから、音がそう言ってるんだってば。ほら、結構ギタリストって、若い頃聞いた、憧れのギタリストのフレーズを真似ることあるじゃない」 ほらあそこなんかすごいよね、とあの大御所ロック・ユニットの名を彼女は出す。譲れないものを一つ持ってることが自由だ、と言った彼等だ。 その結果馬鹿売れして、コンスタントにその地位を守り、結果、彼等はそんな風に明らかに自分の大好きだったバンドを真似たような音をがつーん、と出して、なおかつそれでも自分達の音として認めさせるような表現方法を手に入れている。 まあそれはいい。そんな風に、露骨に自分の好きだったものの出自が判るようなギタリストが多い、とサラダは言いたいのだ。「だけどおにーさんのギターって、何かそういうの無くって、好き勝手に弾いてる、って感じなのよね」「だってそれは、オリジナルの曲だし」「でも、ねえ」 そう聞こえるよ、と彼女は念を押す様に言う。「主張バリ入りまくりなんだよ。だけど何か、あの声のタイプは、絡みつく感じじゃん。ギターに絡みつくヴォーカル、じゃ弱いと思う」「じゃあサラダはどういう声がいいと思うの?」「横並びでがん、とギターと一緒に突っ込むタイプ」 例えば、と彼女は幾つかの例を出した。へえ、と私は感心する。それは彼がよく出ているライヴハウスに多いタイプではなかった。むしろ、ストリートミュージシャンとか、Tシャツにワークパンツをだらだらさせながら、顔を歪ませて轟音の中で歌う、そんなタイプだった。「そのくらい、がーっと行った方が、いいんじゃないかなあ」 なるほど、と私は思った。「でもまあ、あたし等が言っても仕方ないことだけどさ。選ぶのはおにーさんでしょ」 そうなのだ。何だかんだ言っても、当の兄貴がそういう声に惚れないことには。 …しかしその好みって奴は、そう簡単には変わらないと思うのだが… 絡みつく声に、私は思わず、めぐみ君の白い腕を連想していた。
2006.01.30
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おや可愛い、とその時私は思った。 何か服貸してくれ、と兄貴が私の所に電話してきたのは、夏に差し掛かった頃だった。新しいヴォーカルの子を、も少し派手にしてみたいから、何かいい知恵あったら貸してくれ、という意味のことを電話の向こうの声は言っていた。 と言うことは、ちゃんと活動を始めたということで。七月。実際には六月あたりから、その新しい子を入れてライヴをしていたらしい。ただその具合がいまいちはかばかしくないらしい。それでとりあえず外見を変えてみよう、と思ったらしい。「亜鳥恵です」とその子は言った。なるほどその名前によく似合っている。男の子にしては華奢だ。 そして声。ああ確かに兄貴の好きそうな声だ。ハコザキ君とものよりさんとも何処か似た、微妙な上がり方をする、何処か神経質そうな声。感情がそのまんま出てしまう、そんなタイプの声だった。 さすがに同じタイプが三人続けば判るというものだ。「よろしく。あたしは美咲よ」 「出来のいいケンショーの妹」らしく、私はその子に向かってにっこりと笑った。彼もそれに応えて笑おうとしていたようだけど、何か上手くいかないらしく、顔が引きつっているのが判る。なるほど緊張しやすい質なのだな。何となく同情する。 私は自分のクローゼットの中から、彼に合いそうなサイズのものを少し引き出してみた。私は肩幅が少し広めで、この子は世間一般の男子よりは狭いので、サイズの点ではクリアできる。「一応俺の服も幾つか持ってきたんだけど」 近いというのは、こういう時便利だ。そして私の部屋の方が広いからと言って、私達はここでいきなり彼を着せ替え人形と化しているのだ。 兄貴発音するところの「あとりめぐみ」君は、合わせられるごとに鏡を見ては、首をひねっている。女物のブラウス、似合わなくはない。だけど何か、違うらしい。ただ彼の口から出るのはそのことではなく。「美咲さん、運動でもしていたの?」「あたしは高校でスポーツ少女って奴だったからね」 そう言いながら、彼に少し派手なエスニックな首飾りを掛けてみる。「あ、こうゆうのは似合うかもしれないね」「だけどお前の服はあんまりそういうの無いだろ?」 それはそうだ。サラダの影響でたまたま持っていたが、基本的には私の趣味ではない。「…でもやっぱり何か違うわね。やっぱりちゃんと、めぐみちゃんに合ったものを買った方がいいわよ」「お前もそう思うか?」「そりゃあね」 そしてめぐみ君は鏡の前でやっぱり首をひねっていた。 盆休みの週に、久しぶりに出かけたライヴで、私はめぐみ君のステージを初めて見た。会場は、夏休みの学生達と、盆休み中のOLで結構な数になっていた。 と言うか、この日は数バンドが「盆祭りイヴェント」ということで出ていたのだ。兄貴のRINGERは8バンド中6番目だった。その出演バンドの中ではまずまず、という位置だった。この出番だと、演奏時間がその前のバンドより少し多い。新規の客や、他バンドの客にアピールするには好機会というものだった。 そしてそのステージの上で、めぐみ君はメッシュの長袖と網タイツの上に、黒いエナメルのビスチェと短パンを履いていた。 こう来たか。 はあっ、と私はため息をついた。ひと時代前の黒系、という奴。だがそれがもう嫌になるほど似合っている。 似合っているから、ため息なのだ。「どうしたものか」と言いたくなってくるのだ。 ただその「どうしたものか」という気持ちがどういう意味なのか、私もまたいまいちよく判らなかったりするのだが。 ともあれ、ステージの上のめぐみ君は、確かに兄貴が惹き付けられるだけあった。無論歌の上手さとかはさておき、だ。 彼の声は、確かに、ハコザキ君やのよりさんより、何か周囲をぐいぐいと巻き込んでしまうような力があった。決して強くはない。音だって、不安定で、外すこともまだ多い。 だけど、それでも何か、つい耳が聞いてしまう、何か。あの主張の強いギターの音にかき消されない何か、があったのだ。 そして、彼の動き。存在感。やっぱりこれも、強くは無いのだ。 だけど目が行ってしまう。それは伸ばした腕の白さだったり、軽く後ろに傾けた首だったり、そんな些細なことなのだ。単純に「色気」と言ってしまうと身も蓋もないが、私の頭の中で、一番近い単語はそれだった。 薄い化粧をしているせいだけではない。化粧することによって、私の見たことのある素顔の彼からは判らなかった部分がにじみ出ている、と言ってもいい。それが、育ちきっていない少年めいた身体のせいで、効果倍増、というところか。 まあようするに、そのメイクとか衣装とかは、彼には本当に似合っていたのだ。 これでまたこのバンドの方向性が訳判らなくなってきた。音は大して変わっている訳ではない。歌詞もだ。こうころころ変わると、ヴォーカルが歌詞をつけている暇が無いだろう。先代のも先々代のも、そして自分自身が作ったものも、どんどん交えて歌うしかない。 そうすると、どうしても「前のヴォーカル」と比べるのがたやすくなってしまうのだけど。 兄貴はヴォーカルがどんな恰好をしようが、自分のスタイルを変えない。時代遅れと言われようが、おそらく彼の耳には聞こえてこないだろう。幸せな奴だ。 でもまあ。私は少し効きすぎる冷房に両腕を抱く。願わくばこの子が長続きすることを。 何でそう思ったのか、その時の私にはさっぱり判らなかったのだけど。
2006.01.29
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「あたしさー、この番組嫌い」と不意にサラダは言った。平日だったが、時間が合ったので、彼女はうちに来ていた。正直、その回数が最近増えつつあった。 そんな時には、無意味にTVをつけている。格別見たいといしう番組があるという訳ではないから、BGMのようなものである。「嫌い?」 それは、今まで事業やら店やらに失敗した人々が、TVの力を借りて、立て直そうという企画番組だった。「ああこれ。結構うちの会社のひとも見てるけど」「何かさあ、嫌なかんじ」 それは私も感じていた。無論そんなものだったら、BGMにする必要は無い。チャンネルを変える。「確かに貧乏から脱出しよう、って人が、本気になるために、というのは判るけれど、何かそれだけ? って感じちゃうんだよね。じゃあ、それ以外の、もっと気楽に、貧乏でもいいから、って生きてる人は生きてちゃいけないのか、って気がしちゃうんだもの」 なるほど、と私は彼女にお茶をつぎながら思った。「だけどああいう番組に出るひとの場合は、それでも一応そうしようって決めたひと達なんだからさ」「それはそうだけど。だけどあたしは、自分が楽しいと思えることにしか真剣にはなれないよ。だからそれ以外には、そうそう大きなエネルギー使えないし、そのせいで貧乏しても仕方ないって思うもん」「たぶんさあ、貧乏の度合いが違うんだよ。それこそ毎日のおかずにも困るとかさ、家族を養っていかなくちゃいけないとか」「そりゃあそうだけどさ」 彼女はまだ何か言いたそうだった。そういうことじゃなくて、とぶつぶつとつぶやいている。 だが確かに私もその番組は好きではない。どのあたりが嫌か、と言えば、サラダの言い分に近いのだが、彼女のように、「楽しいこと」が強烈でないとしても、だ。 無論「どうしてもしなくてはならないこと」があったなら、それに立ち向かう方法を、熱意を、根性を必要とするのだろうが、どうしてその時に、誰かが通ってきた方法を取らせようとするのだろう。 確かに時間が無い時には有効な手段かもしれない。教えるひとは、それしか知らないのかもしれないし、それが最良の手段と思っているかもしれない。 だがそれは、そこまでその人がたどってきたやり方というものを、全く否定するということではなかろうか。 その方法で上手くやってきた人は自信を持ってその方法を勧めるのかもしれないし、受ける相手は、藁にもすがる思いなのかもしれないが、それでも、だ。 そのあたりが、納得いかないのだ。 私は自分が自分であることが時々無性に嫌になり、悩んだり嫌になったり、時には全部投げ捨ててしまいたくなることがあるのだが、そういう自分に関しては、実はあんまり嫌いではない。 そんな試行錯誤と、迷ったり悩んだりした時に逃げ場として手を出したものも、全く役に立たない訳ではないからだ。無論それは、私が一応腰掛けだろうが何だろうが、「OL」という位置で不安定な安定を手にしているという前提の上だ。言っておくが、OLというのは決して安定した地位ではない。結婚をほのめかせば、相変わらずそれは「近いうちの退社」につながるのである。ボス的存在の彼女程になってしまえば別だが、私にはその意欲は無い。 意欲が無くても、ある程度は居られる。それがこの不安定さの代わりに手に入れられる地位なのだ。男にはない、女の、奇妙な特権だ。男でこの位置を手に入れようと思えば、間違いなくフリーターだろう。 男も女も、こんな曖昧な位置をキープしようと思うと、必ず周囲から横やりが入るらしい。ふう。「どしたの?」「んー? どうして楽しく暮らしてくだけじゃ駄目なのかな、って」 こうやって、高価でなくても、美味しい食事をして、友達と一緒に、お気に入りの空間で、ゆったりと過ごす。私にとっては、それが一番の時間。サラダは何やら、それ以上に何かを「作る」ことが好きらしいが、私の場合はそれで充分だ。それ以上のことは要らない。それを得るためにに必死になるのも嫌だ。何でそれではいけないんだろう?「ダメじゃないでしょ。やり方次第」「やり方?」「っーか、考え方次第」 もう一杯お茶ちょうだい、とサラダはカップを突き出す。「考え方の根っこが違うんだもの。あのひと達は、そういう根性とか何とやらが好きで、そーゆーので疲れることが好きなんだよ。そうゆうのを快感だって思うんだよね。だから人にもそれをやって欲しいんだよね。その方法で上手く行くと、それで安心するんだよ。まあそれは、あたし等も変わらないんだけどさあ」「ふうん?」「あのひと達はあたし達のような楽しむポイントはわかんないと思うもん。それにああゆー人達が、雑貨ショップに居るのも変じゃん」「それは」 私は吹き出した。TVに出ていたのは結構ごついおじさん達だったのだ。「あたし達はまだ若くて、女の子で、ふわふわしたものが好きなものが似合うって特権があるんだよ。特権はせいぜい利用させてもらわなくちゃ」 なるほど、と私は思う。「なるほど、あの立て直しのおじさんには無い特権があたし達にはあるって訳ね」「そういう社会だからねー」 しゃらっ、と彼女は言う。「レッテルを貼って安心してるんだよ。だからこのひとは自分の知ってるこうゆうタイプ、って貼れないひとが出てくると、追い出したくなるんだよ。まーね、そりゃあ、仕事には好みと適性ってのがあるからさー、それが合って楽しんでできれば一番いいよね。それだったら、それが戦場だって構わないと思うもん。あんたの兄貴も、そうなんじゃない?」「兄貴はね。うん、奴は、バンドが仕事にできたら、きっとそれに全部かけるよ。っーか、今だって全部かけてるけどね」 それは確かだ。そしてうらやましい部分だ。 彼はもしどれだけバイト先でその長い金髪を悪趣味だ時代遅れだ、と思われようが、バンドが忙しくて休みを入れようが、そのせいで何日間か、便所そうじの当番が回ってこようが、何の意にも介さないのである。他のフリーター達にとっては、嫌なことで回避したいことだろうが、兄貴には他の仕事と何の比重も変わらないのだ。 正確に言えば、彼は、ギターと音楽以外のものは、全部同じなのだ。 それをうらやましい、と思う反面、…のよりさんの言ったことが少し思い出された。
2006.01.28
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戻ってから、スパゲティをゆでて、ついでに温サラダも作る。それは彼女がやる、と言ったから、私はその間にパスタのソースを作る。 久しぶりに片付いた室内に、トマトの香りが漂ってくる。ソースが煮えることことという音が心地よい。どうしてこういう時間を忘れていたのだろう? チン、という音がして、かぼちゃとブロッコリとにんじんがまとめて加熱されたことを告げる。そこに市販のドレッシングをかけるだけなのだが、結構これはこれでいける。好みで塩コショーもかける。 六畳の部屋のテーブルを綺麗に拭き直して(これが結構悲惨なことになっていた)、ランチョンマットなども敷いてみる。一枚の布だけで、ずいぶんテーブルの雰囲気は変わる。「あ、でもそれうちの?」「ううん、あたしの。こないだ仕入れたんだよ」 へへ、と彼女は笑う。「あ」 そう言えば、と私はその時ようやく思い出した。「サラダあんた、あのカフェに、ポストカード置いてなかった?」「ポストカード?」 ああ、と大きくうなづいた。「言ったかなあ?」「言ってない言ってない。前に行った時に、あんたの絵じゃないか、と思って」 何処だったか、私は一度片付けた室内をばたばたと捜し回る。「あった」 オレンジのカードと林檎のカードを取り出す。「あんたでしょ」「そぉだよ。なーんだ、ミサキさんだったんだ、買ってってくれたの。イケガキさんが、さっそく売れたよ、と言ってくれたから、誰かなあ、と思ってたの」「イケガキさん?」「あそこの店長」「って、赤いエプロンのひと?」「あそこはみんな赤いエプロンだよ」「低い声のひと」「ああじゃあそれはイケガキさんだ」「でもまだ若いじゃない」「カフェってさー、結構若い人が思いきって出すことあるんだよぉ? 大阪とかさー、知ってる?」 知るわけない。私は黙って首を横に振る。「まあでもイケガキさんは確か三十くらいじゃないかなー。もともとは家具屋で営業やってた、って言ってたけど」「へーえ…営業…」 それはすごい。「もともとデザインとかも好きだったけど、自分で作るのはいまいちだったから、好きだったインテリアのほうへ行ったんだって。で、営業で色々な店とか行ってるうちに、自分でもだんだん店を作りたくなったんだって」「へーえ。でもああいうのって、ずいぶん資金とか掛かるんじゃない?」「どぉだろ。そこまで突っ込んで聞いたことないしー」 けど彼女が喋ったことだけでも充分突っ込んでいると思う。「のんびりした明るい空間で、美味しい料理と気楽な飲み物と、あとは自分が学生の時には回りにはあんまり無かった、ちょっとした作品を簡単に取り扱えるよーなとこにしたかったんだって」「じゃあ地方の人だったんだ」「そーだね。あたし等と同じ」 そう。地方になればなるほど、そういう場は無い。必要とされていないのだ。「いくら描いても、場所が無いから、それがいーのかどーなのかも判らないしさあ。こっちってそういう点いいよね。その代わり、悪けりゃ悪いって露骨だけどさー」 そりゃそうだ、と私は言いながら、アルデンテにゆで上がったスパゲティを、ソースの入った鍋に移す。このほうが、ソースがよく染み込むのだと、朝の番組で見たことがあった。「いただきまーす」 くるくる、と対面の彼女はフォークにパスタを巻き付ける。くるくるくる。ああ、あんまり上手くない。だけどそれが微笑ましい。「うんやっぱりミサキさん料理上手いよ。どっかで習った?」「ううん、自己流。うちじゃあね、あんまり料理させてもらえなかったから、こっちで覚えたよーなものだよ」「嘘だあ」「嘘だあはないでしょ」「だったらやっぱり才能じゃないの? あたしは絶対このカンって奴が無いもん」「でもこれはあんた作ったじゃない」「レンジのタイミングを覚えていただけだもん。頼ってるよー。でもミサキさんだったら、レンジ無しでもちゃんとやるじゃない」「そりゃあねえ、美味しく食べないと食べ物に悪いし」「うん。あたしもそう思いたいけど。でもちょっとした塩加減とかは絶対才能だよ」「そ、そう?」 そうあけすけに誉められると。少し照れる。「ねー、何かさあ、あたしとミサキさんでカフェとかできるんじゃない?」「へ?」 何をいきなり言うのだ。「あたしが接客と、インテリアと雑貨担当でー」「ちょっと待ってよ、あたしだってインテリアは口出したいわよ」「でも料理にも色々工夫は要るんだよお。カフェは日々が戦争だ、ってイケガキさんも言ってたし」 日々が戦争。言われてつい、「恋愛が戦争」と言ってた彼女のことがよぎる。どうしているだろう。元気でやっているだろうか。「そーいえば、最近おにーさんのバンド、順調?」「や、ヴォーカルが抜けたから、何かそれからライヴやっていないんじゃない?」 …そう言えば、彼女もだが、兄貴のバンドの方はどうなったのだろう。「あー駄目駄目駄目」 ひらひらひらひら、とオズさんは手を顔の前で数回振った。「って言うか、現在アタック中なんだよ」「あ、じゃあ、一応次の目星はついてるんだ」 電話で私はオズさんを呼び出した。彼のバイト先に近いコーヒーショップを私は指定した。私は仕事が退けてから、彼はこれからバイトだった。腹ごしらえも兼ねて、と彼はてりやきチキンのホットサンドに食らいついていた。かなり美味しそうだ。「まーね。奴が今バイトしている呑み屋に来た客でさ、デザイン系の専門学校に入ったばかりの子でさ」「男? 女? 今度は」 彼はちら、とサンドごしに私を見た。「男。そーだねえ、ハコザキよりもっと華奢なタイプかなあ。そりゃのよりちゃんと違って男だから何だけど」「ふうん。じゃあまた兄貴の奴、その子にもイカレてるんだ」「美咲ちゃん~」 ふう、と彼はため息をついた。「だってそうでしょ?」「そうなんだよなあ。まあ奴にあれこれ言ったって始まらないんだけど」「それで、そのアタックは成功しそうかしら?」「まあ俺としては、ヴォーカルが早く入ってくれるにこしたことはないし、できればそのヴォーカルに、長居して欲しいなあ、と思っているんだけど」「ま、それはあたし達が何言ってもねえ」 …やっぱり私もてりやきチキンサンドが欲しくなってきた。この人の食べっぶりは何でこうも美味しそうなんだろう。 この店は客席が一つ一つ近くて、私にはいまいち居心地が悪い。先日サラダが変な話をしたから、ついつい、あちこちのカフェだのコーヒーショップの内装だの、客の様子だの、メニューだのを気にするようになってしまった。 私だったら、もう少し席は離したい。いや、ごちゃごちゃしたのが好きな人もいるだろうけど… 隣の話し声や煙草の煙が会話や食事を台無しにするような距離しか開いていないような場所は嫌だ。適度に開いていて欲しい。テーブルも無闇に小さいのは嫌だ。周囲がうるさすぎて、よっぽどぐっと身を乗り出さなくては話が聞こえない、というのも困る。向かい合った相手とは近く、だけど料理はちゃんと乗るような。 だとしたらどんなテーブルがいいんだろう…「美咲ちゃん? 俺もうバイトあるんだけど」「あ、ごめんなさい」 てりやきチキンサンドは、テイクアウトすることにした。「今度兄貴に何か作ってく、って言っておいてくれない?」「判った」 彼はじゃあね、と言ってバイト先へと向かった。私はてりやきチキンサンドと、翌朝食べようとクランベリーとブルーベーリーのスコーンをテイクアウトする。 歩きながら、スコーンも作ろうと思えば作れるのかもしれないとふと考えた。そうしたら、つい足が本屋へと向いた。 綺麗な写真がふんだんに使われている料理の本のコーナーで、私はパン作りの本をつい買ってしまった。他にも色々本はあった。気が付かなかったが、カフェの料理の本も結構あるのだ。まあそれは今度試してみよう、と私は思い、その時はそれだけ買って、部屋へと向かった。
2006.01.27
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一ヶ月くらい、自分が何をやっていたのか、具体的な記憶がない。 無論それと判らないような生活はしている。毎朝きちんと起きて、身なりを整え、会社へ行き、仕事をして帰ってくる。そして帰ってきても、そこに人の気配は無い。 元に戻っただけだ。そう自分に言い聞かせる。 ずっとそうしてきたじゃないか。 キッチンで、のろのろと食事を作る。時には食べてくる。時には出来合いを買ってきてレンジで温めるだけ。それでも食事を抜くことはないし、無理する夜更かしもせずにベッドに入る。もう季節も季節だから、寒いということはないのだけど。 寒いはずはないのだけど。 そんなことをぐだぐだと考えながらも、身体はそれとは無関係に動いている。会社で電話を取れば、普段よりオクターブ声が高くなるし、作り笑顔だってできる。年下のOLちゃんとお弁当を食べる時には、世間話や前日のTVの内容で笑い合うこともできる。 その一方で、それを無言で冷静に見ている私が居た。どうして私は動いているんだろう。ものを食べているんだろう。話しているんだろう。仕事ができるんだろう。―――笑っているんだろう。 一ヶ月くらい、そんな状態が続いた。自分が何を話したのか、何をしていたのか、具体的に思い出せ、と言われても、うまくいかないくらいに。 いや、その時でも、問われれば答えられるのだ。ただ今こうやって自分自身に語って自分にとって、それはまるで、自分ではない誰かのしていることか、遠い何処かの世界のようなことに感じていたのだ。 身体と気持ちが、ずれていた。 それがようやく合ったのは、ゴールデンウイークが終わる頃だった。 実家方面にも今回は行かなかった。サラダが時々遊びに来たが、何かいつも首をひねっていたような気がする。「ねえミサキさん、もう初夏なのよ」 初夏。 サラダに言われてようやく気付いたのだが、部屋の中が荒れていた。初夏、という言葉に、窓の外を見たら、外の木々が思いっきり緑のもしゃもしゃになっていた。あれ、といきなり焦点があったような気がした。「いい加減模様替えしたほうが良くない?」 彼女は夏仕様に現在変更中なのだ、と言う。そして手にしていたコンビニの袋には、新発売らしいゼリーが数種類入っていた。 焦点が合った頭と目で自分の部屋を見渡したら、確かにひどかった。TVにもコンポにもほこりが積もっていた。カーテンは冬仕様の厚手のものだったし、いつまで私は毛布を何枚も出しているんだろう。 ゴミはちゃんと捨ててはいたようだが、キッチンのシンクのすみにはぬるぬるとしたものがついたり、ステンレスが曇ったりしている。 何でこれで平気でいたのか、よく判らない。「…確かにひどいわ」「でしょ? 何度も言ったのに、ミサキさんずっと生返事で」「そ…うだった?」「そーよ」 サラダは大きくうなづいた。「…掃除…しなくちゃ。うん。今からしよう」「うん。じゃあ今日は終わったら、夕ご飯ごちそうしてね」「え?」「一ヶ月もミサキさんのごはん食べてないのよー。あたし」「…ああ…でもあんた、彼氏は?」「だーかーらー、言わなかった? 一番最近のは、先週別れたって」「…忘れてた」「まーったくもぉ。えーと、冷蔵庫もひどいから、買い物行くよね?」 慌てて開けてみると、確かにひどかった。「一緒に行こうよ。あたしリクエストしていい?」 無論そこで断れる訳が無かった。「細いのがいいな」とサラダはパスタ売場で言った。「太いのは嫌い?」「嫌いじゃあないわよ。だけど今日食べたいのはスープスパ系だから…」 そう言いながら、7分ゆでの1.6mmのスパゲティを彼女は手にした。「トマトにするべきか、クリーム系にすべきか」 独り言を言いながら、そのまま彼女は生鮮売場へ行く。ミックスのシーフードを手にすると、ざらざらと振りながら私のバスケットに放り込んだ。「トマトにしよう。ホールトマト缶も買ってね」 私は黙って肩をすくめた。そう言えばエキストラバージンのオリーブ油も切れていた。記憶には無いのだが、使うことはしていたらしい。ただ切れたからと言って、補充はしなかったようだ。オリーブ油が無ければ、サラダ油で代用、なんてことをしてたのかもしれない。「次はこっちー」 言いながら彼女は手を振った。周囲の視線が彼女に向く。公衆の面前だって言うのに。
2006.01.26
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ペンキのはげかけた赤いホーローの椅子の上に、花を無造作に生けたブリキのバケツが置かれていた。 目の前のテーブルもそんな感じで。目の前には黄金色に輝くフレンチトーストとライ麦パンのサンド。結構大きめのテーブルの、真ん中に置いて、二人でどちらもつつく。 窓辺の花に、つい視線が飛ぶ。彼女の視線がそっちに飛んでいるから。「気に入った?」 私は問いかけた。「うん、結構ね。いいね、こういう場所も」 座っている椅子も、はげかけたペンキの。「何か、昔、連れて行ってもらった遊園地のさ、外のテーブルみたいじゃない?」 言われてみれば、そうだ。そうだね、と私はうなづいた。 フォークでフレンチトーストを切って口に入れる。ふんわり、バターのこくと、後でふりかけたようなグラニュー糖のざらりとした感触が心地よい。 まだ昼には時間があるせいだろうか。客も多くは無い。「CUTPLATE」という名のそのカフェでは、壁を飾るカードを総入れ替えしているところだった。飾られるそれらは、一枚幾ら、で売られてもいる。一週間くらいで入れ替えになる様で、それを目当てにやってくる女の子も居るらしい。 私もカードは結構好きだった。壁を飾るには手軽で、それでいて配置によっては効果的な。結果、トイレの扉がかなりの割合で侵略されている。 新しく貼られたカードに私は視線を飛ばす。目がいいので、そう遠くない壁に貼られたカードなら、楽勝だ。「あ」 その中の幾つかに、私は目を留めた。どうしたの、とのよりさんは訊ねた。「ちょっと」 立ち上がる。つられるように私はそのカードの方へと近づいて行った。 一枚のカードの上に、オレンジ色があふれていた。 正確に言えば、オレンジ色と、それに近い色が、微妙に無数にそのカードの上にはあふれていたのだ。私はそれに見覚えがあった。 思わずそのカードを、止めている洗濯ばさみから外した。赤い大きなエプロンの、背の高い男が、お帰りの時にどうぞ、と言った。「これ、書いた人は」「…ああ、ここは持ち込みで色んな人のカードを展示販売してますから」 …ああ。そういうシステムになっているのか。わかりました、と私は手にしたカードと、同じ作者らしいカードをもう一枚壁から外した。白い壁、白いロープ、白木の洗濯ばさみの中で、そのカードはひときわ鮮やかだった。さっきがオレンジなら、今度はりんごだ。「どうしたの? ああ、何か面白いね」「そう思う?」「うん。何か、わーっとしたものを感じる」「わっーとしたもの?」「上手い、という訳ではないんだけど、色使いとか、線とかね、習ったものじゃない、何か外へ外へと広がろうとする感じがあるの」 言われてみれは、そうかもしれない。「あたしは―――何か、暖かそうだと思ったから」「美咲ちゃん、寒がりだものね」 どき。彼女は無造作にそう言うと、ライ麦サンドを口にする。野菜も肉もしっかりはさんだホット・サンドだから、彼女は両手で持って、しっかりとそれにかぶりつく。トマトから汁が滴り落ちる。ぽとん。「そんなこと、あたし言ったっけ」「言ったことはないわ。だけど、判るじゃない」 かぶりつく。ぽとん。「それとも、そんなこと、言われたことが無かった?」「…無かった…」 ああ止めて。こらえていた感情が、一気にあふれる。普段こらえてこらえてこらえているから、暖められて、弱くなった部分は、ちょっとした衝撃で壊れやすい。「だけど、駄目よ」「何で?」 私は思わず問い返していた。「何で、駄目なの?」 どうして、私じゃ駄目なの?「兄貴じゃない、から?」「そういうことじゃないわ」 ごくん、と彼女はサンドの最後の一口を飲み下す。スチームドのミルクをたっぷり入れたコーヒーを、口にする。「それを言うなら、あなただって、あたしでなくたっていいのよ。だからそれは言うものじゃないの。ねえ美咲ちゃん、とりあえずお互い、冬をやり過ごしたのよ」 眉を寄せた。そういうもの、なんだろうか。 そういうもの、なのかもしれない。「あたしはあなたのおかげで助かった。あなたがどうかは判らないけれど」「あたしだって」「うん。それならあたしも嬉しい。だけど」 そこで彼女は言葉を止めた。「感謝してるのよ」「そんな言葉、要らない」「でも本当よ」「でも、要らない」 欲しいのは。「それ以上の言葉は、もっと好きになったひとに、取っておいたほうがいいわよ。錯覚しているの。あなたはまだ」「錯覚?」 だけど恋愛というものは基本的に錯覚ではないだろうか。「それにあたしも、欲張りなの。あたしでなくても誰でも良かったひとと、ずるずる続かせるというのは、…幾らそれが心地よくても、あたしにも、プライドがあったみたい」 プライド、というのだろうか。ではあたしにはプライドが無いのだろうか。 プライドも無くしてしまう程、何かに飢えていたと言うのだろうか。 それは、嫌だ。 そう思った時、こうつぶやいていた。「…そうだね」 顔が自動的に、表情を作る。私は外面という奴がいいのだ。「このままじゃ、お互い前には行けないね。うん」 こういうことを、言いたいのではないのに。 フォークを動かす。フレンチトーストを一口ほおばる。無理矢理飲み込む。放っておけば、出てしまいそうな言葉と共に。 レジに向かうと、さっきの赤いエプロンの男が立っていた。決して広くは無いが、小さくもないカフェなのに、彼以外には、あと一人、髪を上げて、細い眉毛の女の子一人しか見かけない。関節の太い指で、男はお釣りと一緒に、ポイントカードを渡した。「点数貯めると、ポストカードおまけしますよ」 低い声が、そう穏やかに告げた。ありがとう、と私は笑った。笑おうとした。 彼女が出て行った後の部屋は、妙にがらんとしていた。 それまでが楽しかっただけに、この静けさが、たまらなく感じる。思い立って、隣のサラダのチャイムを鳴らすが、出てくる気配はない。天気も良かったから出かけているのか。 肩が、どっさりと重くなったような気がした。
2006.01.25
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「ああ…」 扉を開けたサラダは、Pタイルの上の靴を見てそう言った。「じゃあブランチ食べに行こうって言うのはまた今度ね」 え、と私は目を瞬かせた。「何言ってんの。一緒に行こうよ。あんたすごい久しぶりだったじゃない。一体何処行ってたの」「ちょっと実家によばれてたから…それに、いつものお友達と違うでしょ、ミサキさん」 両肩をひょい、と持ち上げ、くん、と鼻をすするような動作をする。「何、化粧臭いとかいうの?」「そうゆうんじゃなくてさ」 サラダは目を細めた。「ミサキさんあたしが彼氏と居る時とか、誘わないじゃん。そぉゆう感じ」 ぎく。「だからさ、ブランチはそのひとと行ってきなよ。あたしも忙しいしさ」「サラダ?」 またね、と言って彼女は笑って手を振った。 どうしたの、と六畳の方から声が飛んだ。昼に近い朝。時計がもう少しで十一時を指す。今の今まで、私達は夢の中だった。春先は眠い。だから私達も眠い。ぬくぬくと、互いの体温の中でまどろんでいる。「起きたの」「声が聞こえたから」 三月が終わる。のよりさんはまだこの部屋に居た。兄貴のところを飛び出してから、もうどのくらい経ったのだろう? 彼女はずっとそれから私のこの部屋に居着いていた。 ここからバイト先に通い、知り合いの所へ出かけ、時には実家に電話をしていた。「ちょっと帰りにくくなっちゃった」 それはそうだろう、と私は思う。いくら何でも、男のところに転がり込んでいたのだ。私は幾らでも居ていいよ、と言った。リップサーヴィスではない。 彼女は朝強くない。返事はしたけれど、まだベッドの中だ。枕を抱いて丸まってしまっている。「そろそろ起きよう…コーヒーでも呑みに行こうよ」「んー…」 半目開きになる。その頬に指を触れさせる。くすぐったそうにその目が閉じる。「ねえ起きてよ。こないだ、新しいカフェ見つけたんだよ。あたし一人で行けって言うの?」 黙って彼女はゆっくりと身体を起こし始める。乱れた髪が肩に落ちる。スリップの紐が片方落ちている。「かふぇ~」 のよりさんは結構カフェという奴が好きだ。「そうだよ。何かね、一つ一つのテーブルにつけてある椅子が違う種類なの」「へーえ…」 髪をかき上げて、彼女はスリップの紐を直した。ふわり、と持ち上がったふとんの中から、彼女の匂いが立ち上る。その中には私の匂いも混じっているのだろう。持ち主には判らない、その匂い。その時ようやく私は、サラダが何に気付いたのか悟った。女臭い、という奴だ。「そーだね…行こうか」「そうそう。そういえば、桜が昨日あたりはつぼみだったけれど、今日は咲くんじゃないかなあ」「桜かあ」 でもそれは去年は気付かなかったことだ。 去年は、そんなこと気付く余裕が無かった。仕事のことやら、自分一人の暮らしが手一杯だとか、兄貴のバンドのこととか、…あれ、よく考えてみたら、それは今も同じだ。 なのに、今年は花を見るだけの目の余裕がある。何だろう。 考えてみれば、ここしばらく、あの夜明けの寒さを感じていない。ゆっくり眠ることができるから、体調も悪くない。 ベッドの中の兄貴の元恋人は、何故か私を時々抱きしめる。それ以上のこともする。どういうつもりなのか、よく判らない。確か彼女は兄貴に抱かれる側ではなかったのだろうか。 いや、それより何より不思議なのは、自分が、それに対してさほどの違和感も持っていないことだ。 確かに兄貴がハコザキ君とつきあっていた、という時も、一度飲み込んでしまえば、大した問題ではない、と思ってはいたが…自分のこととなってもそうなのか、と、自分自身に驚いていた。 そして、その関係を、何処か喜んでいる自分を。 まさか、今まで付き合った「彼氏」達と、長く続かなかったのは、そのせいだったのだろうか。違う、と答えたいのだが、何処かで否定できない自分が居る。 だって、彼女と過ごしているこの時間は心地よい。ぼんやりと、穏やかな時間が、毎日毎日流れている。 帰った時に彼女が居る、とは限らないが、居る時には夕食が用意されていたし、逆に、彼女が何処かへ行って戻っていない時には、私が用意している。サラダとの週末の食事、が毎日になったかのようだった。誰か食べてくれる人が居る、ということは料理の腕を上達させるらしい。美味しいと言ってもらえば尚更だ。 そしてまた、二人揃ったところで、何をするという訳ではない。だらだらとテレビを見たり、その日にあったことを止めどなく話す。その程度だ。 だけどそれが、ひどく心地よかったのも確かだ。 仮のものだろう、とは思っていたのだけど。 そのカフェは、ご近所、というにはやや遠い所にあった。だが春の道を散歩がてらに行くにはいい距離だった。「もうつくしも伸びすぎてるなあ」 私はつぶやく。「つくし?」「とかたんぽぽとか。結構東京もあるもんなのね」「東京ったって広いしね。うちの方だって、ちょっと駅前とか離れると、いきなり田舎になったりするわよ」「へえ…」 丸々とした葉っぱが可愛い草や、小さな青い花が一気に咲いていたり。これも新鮮な発見だった。気持ちが明るいと、見える景色も違ってくる。光がまぶしいが、そのまぶしさが、心地よい。「春なんだねえ」 そうねえ、と彼女はつぶやいた。ざっ、とその髪を風が揺らした。「そろそろ帰らなくちゃ」 私は足を止めた。「美咲ちゃん?」「帰るの?」「いつまでも、ずっとこのままじゃいけないのよね」 つ、と彼女は空を見上げた。「オズ君から昨日聞いたけれど、今度はなかなかヴォーカルが決まらないみたいなんだって」「…それで、戻るの?」「まさか」 即答だった。彼女は笑った。「もう、歌わない。誰かのためには」「もったいない…」「だって、もともと歌は私にとってそんなに大事なものではなかったんだもの。ケンショーと一緒に居た時間は、それはそれで楽しかったけど…」 でもそれは私じゃあないのよ、と彼女は付け加えた。
2006.01.23
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「の…よりさん」「ごめん美咲ちゃん、ちょっとだけこうさせて」 何って力だろう。まるで動けない。いや違う、私の腕に、力が入らないのだ。「美咲ちゃんは、ケンショーにちょっと似てる」「…似てないわよ」「似てるわよ。その強情なとことか、人見知りするとことか」 ぎく。「もちろんケンショーほどじゃないけどね。でも似てる。あたしはそういうとこも含めて、好きだったのだけど」「好きだった?」 彼女は黙ってうなづいた。「付き合ってると、彼が何処かやっぱりずれてるの、判るのよね。自分しか見えてないとことか、前しか見てないとことか、一度目的が見えてしまうと、馬車馬のように真っ直ぐしか見られないとか、そういうの、全部、だんだん、見えてくるの。…そしたら、見えちゃったのよ」「…何が?」「彼はあたしを見てるんじゃないの」「そういうの、判るの?」 回されている腕から、くっついている胸から、じんわりと熱が伝わってくる。ああ、暖かい。「判るわよ。彼はあたしの声が好きだわ。歌ってる時のあたしが一番綺麗だって、臆面も無く言ったりするわ。だけど、そうでない時のあたしなんて、何も見てない。見えてないのよ」「近眼だから…」 ばさばさ、と首筋で髪が動いた。「そうよ彼は近眼だわ。だけどそれは目だけのことじゃないのよ。気持ちも、近眼なのよ。興味の無いこと以外、彼は自分の中に映そうとはしないの。彼が興味あるあたしは、歌ってる時だけなのよ」 ぴりぴり、とその声が緊張を帯びる。胸が痛くなるような声だ。 ああでも、確かにそれは判る。私にも確かに、何処か共通するところだ。兄貴ほどではなくとも。「…それで、ミスドで切れたの?」 ひょい、と彼女は顔を上げた。「何処で聞いたの?」「ファンの子達が、噂してたわ」 やだやだ、と低い声で彼女はつぶやいた。「でも仕方ないのよね。前に出ようなんて思ってしまったんだから、そんな目は、仕方ないと思ってたの。思ってるわ。でもケンショーは、あたしが苛立ってることすら、気付かないのよ。だから怒って、先に帰ってしまったの」「何に苛立ってたの?」 至近距離の目が、ふっと細められる。「全部」 ぜんぶ、と私は繰り返す。そう全部、と彼女は念を押す様に言った。「一番嫌なのはね、それなのに、あたしがまだ、彼のことが好きだ、ってことなのよ。あたしの声を選んで、これでもかとばかりに誉めて持ち上げて、歌ってる時の姿が綺麗だ綺麗だと誉めて、キスしたり抱いてくれた彼が、腹が立つくらい好きだ、ってことなのよ」「…どうして?」「誰かを好きになったこと、無い? 美咲ちゃん」 私は黙った。好きになったこと。付き合ったひとは居ても、それは好きだったのかどうか、と言えば怪しい。 これだけは言える。少なくとも、彼女の言うような、そんな「好き」は無い。「すごく腹が立つのよ。何でそんな奴を、ずっとずっと好きでいなくちゃならないの、って。だけどどうしようもないんだもの。そういうの、無い?」 ごめんなさい、と私はつぶやいた。判りたくても、そんな気持ちは私には無い。無かったはずだ。 どうしてこうなんだろう、と時々思うのだ。兄貴のような、そんな大事な「何か」を持つ訳でもなく、誰かを強烈に好きになる訳でもなく、私は一体何をしてるんだろう。 それじゃあ兄貴のような「何か」を探せばいいのか、と言えば、それは探してどうにかなるようなものではないような気がする。天から降ってくるようなものだ。私は「それ」はそういうものであって欲しい、と思っている。 けど、それが違っている、ということなんだろうか?「謝らなくてもいいわ。ごめんね美咲ちゃん。泣き言よ、所詮。だってそうよ。恋愛は戦争だわ」「…そんな物騒な」「だってそうよ。より多く惚れてしまった方が、負けなのよ」 そしてあたしは負けたの、と彼女はつぶやいた。 彼女が私の背に回す手に込める力は変わらない。むしろ強くなっているように感じられた。「…ハコザキ君は」「何であいつの名が出てくるの?」「知っていた?」 唐突に、聞きたくなっていた。「兄貴が、ハコザキ君ともそういう仲だったこと」「知ってたわ」 手が、背中をだんだん上がってくる。「気付いて、取り返そうと思って、打ち上げの二次会まで、珍しく行ったのよ。そしたら取り返すも何も、ケンショーはあたしの声の方が好きになってしまった。そういう奴なのよ、美咲ちゃんのおにーさんは」「知ってる」「それで逃げたハコザキを全く追ったりもしないのよ。可哀相な奴」「…可哀相?」「可哀相よ。ハコザキは気付いたから逃げたのよ。ケンショーはそれを聞いたら言ったわ。ああそうまたか、って。そういうことを言ってしまう奴って、すごく可哀相よね」 可哀相…なのだろうか。「誰も、彼をずっとずっと長く好きで居続けられるなんてできないわ。ケンショーは、彼を好きになった誰かの何かを、確実に、奪ってく。そして奪われたものは、二度と戻ってこないのよ」 首筋に、暖かい手が触れた。「のよりさん」「やっぱり似てる。ねえ美咲ちゃん、キスしていい?」
2006.01.22
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「美咲ちゃん来てたなら来てたって言えば良かったのに」 オズさんは汗を拭きながら、通路に引っ張り込んだ私にそう言う。「別に、兄貴に会いに来た訳でもないし。暇だったの」「そう? まあそれもいいか」「兄貴にはあたしが居たって言ったの?」「や、俺がたまたま見つけただけ…じゃなく、ここのナナさんが、美咲ちゃんが居るって言ってくれて」「ナナさん?」 そう言えば、カウンターの女性は、意味ありげな視線で私を見ていた。ナナさんと言うのか。前に紹介されたような気もするが、忘れていたのだろうか? 駄目だ。記憶力の低下。テンションが落ちている。「…ああ」 曖昧にあいづちを打つ。「のよりさんは?」「え?」「ううん、何か声もしないから」「…ああ、一足早く帰ったよ」「へえ」 それはそれは。「兄貴も?」「や、ケンショーはまだ残っているけど…彼女の家も遠いし」「あら、兄貴と一緒じゃあないの?」「美咲ちゃん」 オズさんは眉を寄せた。「何か、フロアの客の子達が噂してたわよ。どうなの? あの二人」 オズさんは黙った。沈黙は雄弁、とはよく言ったものだ。「別にそれでどうって訳じゃないわよ。兄貴のことだし。今更」「今更、ねえ」 彼はくしゃ、と少し伸びかけた髪をかきまわした。「そういう風に、思えてしまうんだ? 妹としても」「思わなくちゃ、やって行けないわよ。妹としては」 そういうものかな、と彼はぼやいた。「実際、どうなの?」「良くないね」 オズさんは短く答えた。このひとはこういう困った顔が、よく似合うのだ。ジャニーズ系の顔、と良くバンド仲間にはからかわれているのだが、女の子からしたら、きさくで整っている顔、というところだろう。紗里さんが「恋人」と見なされているから彼にはあまり悪い虫もつかないらしいが、それが無ければきっととりまきになりたがる女の子は増えるだろう。「何で?」「何でだと、思う?」「兄貴がまた、別の声を見つけたとか?」「や、今度は違うんだ」 今度は、とオズさんは言う。つまりそれは、「いつも」はそうな訳だ。普通の理由ではない、とは思うんだが、彼も私も、それに関して感覚がマヒしているらしい。「じゃあ何?」 私は彼にぐい、と迫る。この人は押しに弱い。「…それが、俺にもよく判らないんだ」「判らない?」「のよりちゃんの方が、何か苛立ってるんだよ」「…のよりさんの方が?」 それはあの子達が噂していたことと通じる。ご近所ミスドで、先に切れたのはのよりさんの方だった。「何で?」「だからそれが俺には判らないんだってば」 なるほど、と私はうなづく。確かに「声」と「音」を間にはさんだとしても、兄貴とのよりさんは一応それ以上の付き合いもある訳だし、そういう関係にある二人のことを部外者の私達があれこれ詮索したところで、結局答えは出ないのだろうけど。 * そんな矢先、だった。 のぞき穴の向こう側には、見覚えのある「若奥さん」が居たのだ。慌てて私は扉を開けた。夏じゃないのだ。いつまでも外に待たせてはいけない。 夜中だった。皆寝静まって、起きるには時間がある明け方より、寝付くかどうか、というこの時間の方が、通路の騒音はよろしくない。「ど…うしたの?」「…えと、ごめんなさい。今日だけでいいの、泊めてくれない?」 そう言って、彼女は笑顔を作ろうとする。だけどとても笑顔には見えなかった。そう口にはしないけれど、それじゃあただ引きつっているだけだ。「…それはいいけど」 ありがとう、と言って彼女は上がり込んだ。「ごめんね唐突に。だけど、川崎まで行くのに、終電が行っちゃって」 川崎は彼女の実家があるところだ、と以前ハコザキ君から聞いたことがある。「実家に帰るの?」「ええ」 さりげなく、実にさりげなくそう言おうと、したのだろう。だけど駄目だよ、声が震えてる。「じゃあ朝の方がいいよね。お金は持ってるの?」「一応」 そうなんだ、と私はうなづく。そのあたりがハコザキ君とは違う。女の方が、とっさにそういう見通しはたつのかもしれない。「…本当は、終電も、間に合わない訳じゃあないの」 私は黙ってうなづく。「だけど、今帰るのは、すごく寒いから」「…ああまだ明け方とか寒いし」「…違うのよ」 彼女は首を横に振る。髪が揺れる。「寒いの」 頬の肉が、ぴく、と動く。顔を上げた彼女は、今までに見たこともない程、大きな目をしていた。「ケンショーには、判らないのよ、それが」「兄貴には?」 問い返した私の言葉に、彼女ははっとして口を閉ざす。余計なことを言ってしまった、という顔だ。 私は黙ってその場を立った。棚からココアの缶を出すと、二つのマグカップに何杯かの粉を入れた。熱湯を少し入れてねりねりねり。そして冷蔵庫から牛乳を出して、やはり二杯分の牛乳を沸かした。 鍋の上に手をかざすと、暖かい。やがてぷう、と牛乳が膨れてきたところで火を止めると、手はすっかり暖まっている。「はいココア」 彼女は六畳のクッションの上に脱力したように座っている。マグカップを渡すと、ありがとう、と小さく言った。渡す時に、私の手が彼女の手に触れた。「…美咲ちゃんの手は温かいのね」「さっき鍋の上にかざしてたから」「そういうことじゃなくて」 そのまま彼女は私の手を握った。 ちょっと待て。手だけじゃない。そのまま、彼女は私に抱きついてきた。
2006.01.21
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だから兄貴のバンドのライヴに久しぶりに行ったのは、そんな日々の憂さ晴らしもあった。ここに来る人々を見ると安心する自分が居る。これは新たな発見だった。 もしかしたら、自分はこっち側に近いのかもしれない。最近の会社の生活の違和感を覚える自分がついそうつぶやく。でも決して兄貴の前ではそんな顔をしない。RINGERの他のメンバーにもだ。私は「ケンショーの出来のいい妹」だそうだ。冗談じゃない。私がどんな気持ちを奴に持っているのか知らないくせに。 出来のいい妹は、兄貴のような譲れないものが一つもなくて、困ってるんだよ。兄貴というなら一度くらい気付いてみろというものだ。 いつものように、フロアより一段高いカウンタテーブルに陣取ってドリンクを口にする。ぼんやりと待っている間、観客の子達の様子をうかがうのはなかなか面白い。 床にべたっと座り込んで待つようになったのはいつからだろうか? まあ確かにそれが一番疲れないんだけどね。結構この「待つ」時間ってのは長いし。 頬づえついて、オレンジソーダをすする。そう言えば、あら、という顔でカウンタの女の人がコップを手渡してくれた。知り合いという訳ではないんだが? それにしても、待っているにしても、色々だ。前の方で座り込んでいるのはだいたい若い子だ。そして始まると、最初に潰されて、後でひーこらしているのも若い子だ。 大人達はも少し賢くなってしまっているので、私のような後ろで出番を待ち、始まって、それからその気になったら突っ込む、という形を取るのが多い。で、私はその人々の背中を見ている訳で。 それで。「…そう言えば、こないだ、ケンショーとのよりが一緒なの見たよお」 そういう会話がつい耳につく。私はこっそり耳をダンボにする。ちら、とその方向に目だけ向けると、白地に赤い文字がでかでかと書かれたチビTシャツをつけた、ややはち切れそうな身体をした高校生くらいの女の子が居た。会話の相手は、オレンジ地に、袖と首だけグリーンのラインの入ったTシャツを着ている。「何なに、何処で?」「ミスド」「えーっ」「何かさー、ツレがバイトしてるんだけどさー、何かバンドやってる男が良く来るって言ってたんで、面白そうだからって行ったらさー」「できすぎじゃん。でもそーだよねー。確かケンショーのウチの近くにミスドあったもんねー」 何でそんなもの知ってるんだ。私は思わず息をつく。 時々こういう「ファン」の子達の情報収集能力には怖いようなものがある。一種のネットワークとでも言うものが、彼女達にはある。…つまり、中には私が関係者だ、ということを知ってる人も居たりして。 だいたい私はいつも不機嫌そうに後ろで呑んでたりするので、近づいてこないのかもしれないけれど、確かにそれらしい視線と指さしはあるのだ。間違いなく。「妹」とまでは掴んでいないかもしれないけれど、「ケンショーと関係ある人物」、ということで。「…あーでもさあ、こないだのはちっと、深刻だったぜえ」 何? ぴくん、と私は耳の後ろに手を当てる。「シンコク?」「だってさー、のよりが何かいきなり怒りだして、先にミスド出ちまったって言うしー」 へ? 何か、想像ができない。 私の中で、彼女の印象は未だに「若奥さん」だった。何度か、彼女がヴォーカルのライヴも見たことあるのに、だ。どうしても最初の印象というのは消すことができない。「で、そん時ケンショーはあ?」「や、ちゃんと注文した中華のセットは食い尽くして出たらしいよ」「けどさー、あの二人一緒に暮らしてるんじゃないのかしら?」 別の一人が口をはさむ。短い髪に、白いパフスリーブのコットンのブラウスはまだこの季節には寒いんではないか、と思ったが、彼女達の足元に積まれたバッグとコートの山を見て、納得した。 一緒に暮らしている。そう、確かにそれは聞いていた。ただし兄貴の口からではなく、オズさんあたりを誘導尋問したのだが。「えーそうだったあ?」「別に見た訳じゃないけど」「あーびっくりしたあ」「でもおかしくないよねー」 なるほど、そういう感じで見られているのか、奴は。思わず私は耳の上をひっかく。実際そうなんだろうな、と私だって思う。ハコザキ君の時にはハコザキ君をしばらくあの狭い部屋に置いていた。と言うか、ハコザキ君が転がり込んでいた。彼から後でそう聞いた。 ハコザキ君はあれから、都内の実家に戻ったと言う。不思議なもので、のよりさんとは別に切れた訳ではないらしい。すごく変だ、と私なんかは思う。 だってそうだ。自分の恋人が自分の恋人だった人にいきなり惚れて、自分を捨ててそっちに走って、ヴォーカルにまで据えてしまったというのに、何でそこで友達をやっていられるんだ? そういう意味のことを本人に聞いたら、彼は少し寂しそうに笑うと、君には判らないと思うよ、と言った。 確かに判らない。そこまでする程、兄貴は彼や彼女にとつて魅力的なのだろうか。それは私には絶対判らない。もし判ったとしても、それをてこでも認めたくない類のことだ。 ただ、彼はこう付け加えた。「でも、長くはないと思うよ」 それはほとんど確信に近いのだ、と。そういう意味のことを、彼は静かに言った。 夏から、冬。確かに早い。 そう考えて、慌てて私はその考えをうち消した。噂話じゃないの。 やがて流れていた80年代のポップ・ロックが消えて、会場が暗転した。のよりさんが入ってから変わったオープニングのSEは、何故かエルガーの「威風堂々」だった。誰の趣味なんだ、と最初に聞いた時には私は脱力したものだ。 いや、「威風堂々」は好きだけど…何でのよりさんでこの曲なんだ… その威風堂々なブラス・バンドの音の中、だらだらとメンバーが出て来る。女の子達の声は、ケンショーかオズさんあたりに集中していた。そして時々彼女を呼ぶ声もする。ただし、前のハコザキ君の時の様に多くはない。彼女もさぞやりにくいだろう。そもそもこういうヴォーカル交代に、どういうメリットがあるというのだろう? 確かに兄貴にしてみれば、自分が惚れた声なのだから、自分の曲を歌って欲しい、というのも判るのだが… だけど、バンド全体を持っていく戦略としては、全くもってまずいのじゃないか、と思うのだ。 客層を見てみればいい。大半が女の子だ。男子も居なくはないけれど、女の子には確実に負ける。負けるのは数だけではない。熱意。彼女達が兄貴やオズさん、前のハコザキ君に向ける声は、かなり「恋愛に似たもの」だ。 それが女の子ヴォーカルになると、やや違ってくる。 無論紅一点ヴォーカルのバンドだって、女の子ファンが居ない訳ではない。ただ、RINGERは何だかんだ言って、そういうスタンスではない。実際、のよりさんに変わったとしても、やっている音楽が大して変わるという訳ではないのだ。 そのあたりの兄貴の意図がよく分からない。確かに「自分の曲を生かしてくれる」声なのかもしれないけれど、その時そのヴォーカリストの気持ちは何処へ行ってしまうのだろう? …のよりさんの歌は、ハコザキ君よりも叫びに近いものがある。彼以上に訓練も何もしていない、カラオケ程度以外に経験の無い彼女がこうやってステージに立っていること自体、結構無茶である。ただ、それだけに、歌には奇妙な程の悲痛さがあるのも確かだ。 あまり動かないのだが、それが彼女にはよく合っていた。もともと飾り気の無いひとだから、少しメイクしただけでもずいぶん印象が変わる。 …何と言うか、聞いているのがだんだん辛くなってくるような。
2006.01.20
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何を言いたいのだろう、と私はこのひとが問いかけるたび、いつも思う。奥歯に物が挟まっている。一人暮らしなんだろう? 今の給料で足りているのか? 足りてますよ、足りているように生活を工夫しているのだから。 だけど彼は言う。もっと大きな部屋に引っ越したいとか、服を買いたいとか海外旅行に行きたいとか、そういう望みがあるだろう? かちん、と来る。決めつけるなよ、と。 確かにそういう望みが無い訳じゃない。今の部屋も決して拾い訳じゃないし、海外どころか国内だってあちこちにそうふらふらと行ける訳じゃあない。だけどそれはあんたに言われることじゃあない、と。 そうしたかったら、もっとちゃんと仕事やってる態度を見せてくれよ。 だから何を言いたいのだろう。私は自分に与えられたことはやっているつもりだった。元々成果が飛び抜けて良くてどうの、ということではない仕事なのだ。それ以上を望まれても困る。 けどまあ君はまだいいよ。あの子なんて見てると甘すぎて、時々怒鳴りたくなってくる。私の一つ上のひとのことだ。こっちが仕事多くてなかなか家に早く帰れないのに、あっさり定時で帰ったりしてしまうだろ。会社を甘く見てるんだよな。そりゃあ確かに自分の仕事はやってるかもしれないけど。 うんざりする。 ああはならないでくれよ。彼女はもう結構長いから、今更言ったって無駄だけど、君はまだそう長くはないから、今のうちに言っておくんだ。そうそうあのひとは凄いね。仕事に前向きで。 ボス的OLの彼女の名を出す。私は微妙に目を細めた。話の間中、私はなるべく表情を変えないか、笑みを作っていた。まあ確かにそうだ。あのひとは、前向きだ。 そりゃあそうだ。彼女は会社というところと、その仕事が好きなのだから。好きでなくてはああも色んなことに、部署に、足を突っ込もうとはしないだろう。子会社とは言え、親会社とのつながりが全く無い訳ではない。彼女のデスクマットの中には、そんな親会社の知り合いの名刺がたくさんはさまっている。社内のオンライン化にも何かと口を出す。非常に立派な姿勢だ。 かと言って、私はああなりたいとは思っていないのだ。ではどうしたいか、と言ったら、答えらしい答えは出ないのが辛いところで。 こういう時、つい兄貴のことを思いだしてしまう自分が、悔しかった。 彼には音楽がある。音楽しかない、と言ってもいいけれど、でも、音楽がある。音楽さえあれば、あとのことはどうでもいい。私のようなこんな堂々巡りの考えとは彼は無縁だ。 彼にとって、未来は今日のつながりなのだ。だから今日をつまらなくないように、と生きてるように思える。私の上司など、見えない将来のために、とりあえず今を犠牲にしろ、というタイプだ。でも私は知ってる。そんなことをして、今日をどれだけつまらないものにしてきたか。そしてやってくる未来において、それは後悔に他ならない。 サラダの部屋で、あんたこんなもの聞いてるの、と驚いた、実にメジャーでメジャーでメジャーなアーティストがこう歌ってた。譲れないものを一つ持つことが本当の自由。 そういう意味では兄貴は自由だ。そして私はずっと不自由なままなのだ。何か一つ、そんなものがあれば。 だけどそれは見つけようとして見つかるものなのだろうか? よく「彼氏が欲しい」という理由で恋の相手を捜す女の子を見るけれど、その問いに似ている。 …そんな堂々巡りの考えを、会社で、上司やボス的OLさんを見るたびに思い起こしてしまい、それだけで疲れてしまう。彼や彼女がそこに居ないとほっとする。 できるだけ、できるだけ仕事はさっさと切り上げて帰りたい、と思う。一人になりたかった。会社という空間が、重いのだ。なのに、そういう時に限って忙しかったり、ミスをして、その修正に時間が掛かる。ああ全く。 帰ると真っ暗な部屋。安心する。誰も私のことを考えていない。そんな一人きりの空間に帰ると、すごくほっとする。誰の声も、私のことを考えていない空間がひたすら嬉しい。ヒーターをつけて、ホットカーペットをつけて、しばらくその上に、着替えもせずにごろごろと転がる。つけたほっぺたがじんわりと暖かくなる頃、重い体をゆっくりと起こして、コーヒーを入れに行く。食事は途中のコンビニで買ってきた弁当。それもレンジに入れて。 温まる間に部屋着に着替えて、コーヒーが入るのを待つ。少し濃いめのコーヒーにはミルクと砂糖をたっぷり入れる。TVからはニュースが流れてくる。不吉なニュースならスイッチは切ってしまう。うるさい。聞きたくない。 食事を終えたら風呂を用意して、ゆっくりとそこで時間を過ごす。なるべく楽しいことを考えよう。少なくとも会社のことなんか考えない。将来のことなんて、もっと考えてはいけない。楽しいこと楽しいこと。ああそうだこんどの休みには何処に行こう。兄貴のバンドのライヴはいつだっけ。のよりちゃんもずいぶんと慣れてきたよな… 眠りに落ちそうになるのを必死でこらえて、温まった体が冷めないうちに、ベッドに入る。疲れている身体と頭は、とっとと眠りに入ろうとする。 だけど、ヒーターを切った部屋は、時間が経つにつれてどんどん冷えていくから、時々不意に私の足やら腕を凍らせる。 どうしてこんなところが冷たいのか判らない。二の腕だったり、足先だったり、いくら身体を折り曲げて他のところで暖めようとしても、駄目なのだ。羽毛ふとんは身体の熱を逃がさないはずなのに、ひどくすかすかとして、寒い。 寒いのだ。 誰か。 思わずつぶやいている。 誰でもいい。私をすっぽりと、抱きしめてほしい。 抱きしめてくれなくてもいい、せめて、私に、触れて。 体温を。何処でもいい。分けてほしい。 寒くて、仕方がないの。 どうしようも、なく。 昔の彼の手を思い出そうとする。だけど、思い出せない。彼は私を抱きしめてくれたことはあっただろうか? 眠りはそのまま浅くだらだらと続き、いつ眠ったのか判らないままに、朝になり、布団の中に入っていても寒いのならばと私は起きてしまう。まだ六時とかそんな時間だ。カーテンの向こうの窓が結露している。外はもっと寒いのだろう。 まだ外は暗い。ヒーターをつけて、朝の支度をし、窓辺の花とグリーンに水をやって、寝不足で重い体を私は少しでも温めようと動き回る。 そして疲労は蓄積するのだ。
2006.01.19
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だからどうして、と私はその時のぞき穴の向こうに立つ彼女を見て、内心つぶやいた。 その年の冬は、ひどく寒かった。暖房が無いとかそういうことではない。ちゃんとこの部屋にはヒーターもホットカーペットもある。実家に居た頃は炬燵を愛用していたけれど、あれはどうしてもそこから出る気を、立ち上がる気を失わせてしまう。それはまずい。一人暮らしなのだから、そんなことをしていたら、どんどん部屋がちらかってしまうだけだ。 サラダは相変わらず週末時々来ては、食事したり泊まっていったりする。口から出る男の名はやっぱり時々変わるし、タイプも色々だった。 でもさすがにその男達に共通するものは見えてくる。馬鹿馬鹿しいほど、自由気ままに生きてる連中らしい。そのせいかどうなのか、「付き合ってる」間柄をやめてからも、友達としてやっていたりするらしい。そのあたりがすごい、と私なんかは思わずには居られない。 親密な関係を一つ作るのも私には一苦労だが、一度壊れたものを修復することはもっとできない。はっきり言って、全くできない。一度壊れたら、それっきりだ。だから関係を作るのに慎重になる。サラダと一緒に居て気楽なのは、彼女自身が突っ込んだ関係を作ろうとしていないからだった。相変わらず私は彼女の故郷の話はほとんど聞いたことがない。 それでも彼女が来た時なんかは、寒いとは感じないものなのだが。 たぶんそれは、私が少し疲れているからだろう。 秋からこのかた、会社が結構忙しかった。私は総合商社の子会社の末端の事務員に過ぎないので、何がどうして今忙しいのか、いまいち把握できない。無論、ちゃんとこうしてこうなって、という道筋をたどって行けば、それなりに納得できるのだろうが、あいにくそこまで関心は無かった。 私の仕事は、事務一般というか、まあ何でも屋である。経理事務ソフトに取り扱っている商品の個数を叩き込んだりもすれば、親会社に提出する書類の清書もするし、古典的なお茶くみコピー電話取りも当たり前だ。 まあ別にその類の作業は嫌いではない。好きでもないが、作業自体は苦ではない。 では何が苦なのか、と言えば。 人間関係…もさほどではない。まあこんな程度だろう、と思っている。いいひとも居れば首を傾げたくなる様なひともいる。女子社員は全部で五人と言ったところで、私は下から二番目、というところだ。ボス的存在の女性は、四十を少し越えているだろうか、結婚して、再就職したくちなのだが、おそろしくばりばりと仕事をこなしている。子供が居るというのに、毎日結構遅くまで「がんばって」いる。よくやるなあ、と思わずには居られない。これがバツイチか何かで、生活費も掛かってるし、ということでばりばりやるのなら納得は行くのだが、彼女にはダンナも居る。どうも親会社で勤めているらしい。彼女自身も親会社で以前は勤めていたらしい。ふうん、と私は思う。 二番手の女性は、ボス的な彼女よりはもう少しあたりも柔らかで、仕事は真面目だが、余分に残業をすることはない。無論忙しい時期には、それこそ夜中まで残ることもあるようだが、それを日常とすることはない。あくまで特別な時期、と考えているようだった。ナンバー2的な位置にはあるが、年齢はまだ三十かそこらで、未婚である。 三番手の女性は、二十代半ば、というところだろうか。仕事のスピードは速いのだが、協調性という奴が無いひとだった。だがそれは、そのひとのやっている作業自体が、周囲の仕事の流れとは別のところにあったので、仕方ないことだし、そういうゲリラ的な仕事が合っているひとなので、皆そんなものか、と思っているようだった。身なりなどあまり気遣わないようなひとなのだが、時々ぎょっとするような服を持ってきて、後で着替えるのよ、なんてことを言っていたことがある。どうも課外活動の方が好きなひとらしい。黒いひらひらした服だったあたり、もしかして、バンド好きのライヴハウス通いか? などと思うこともある。 一番若い子は、私が以前ケーキを食べるために誘ったこともある。短大を卒業したばかりで、正直、この五人の中で一番化粧も上手く、服のセンスも、スタイルもいい。実際、会社の若い男達は、よく彼女に呑みに行こう、と誘っていたりする。だが実家から通っている関係上、その誘いは五回に一回くらいしか成功していないらしい。 まあOL五人集まれば、というところだ。歳の関係もあって、私は一番若い子とよくお弁当を食べたりしている。彼女はいい子だ。格別話題が合うという訳ではないが、他愛ない話を合わせていると、それなりに心地よい。そして時々思う。何かすごく暖かい家庭だったんだなあ。母親は一緒に服を選んでも大丈夫なセンスをしているとか、成人式には親戚のおばさんが晴れ着を選んでくれたとか、お父さんが少し身体壊したことがあったけれど、もう大丈夫で嬉しい、とか。 当たり前のことを、言っているのかもしれない。当たり前なのだろう、彼女にとっては。だが帰りが遅いとお父さんが怒るの、と言いつつ、本気で憎たらしいとは考えていない彼女を見ると、心の端っこが、きり、と痛む。どうしてそんな風に考えられないのだろう? 無論もっと、親から与えられなかったひとはたくさん居るのだ。ボス的存在の女性は、上京するまでは田舎に居て、学費は自分で稼いだなどという話をしている。それに比べれば、短大まではちゃんと出してくれた自分の両親は寛大だ、と言えるのかもしれない。 ただ時々思うのだ。どうして親に素直に感謝できるような気持ちに育ててくれなかったのだろう? 記憶をたどれば、母親の愛情の籠もった場面は浮かんでくる。手作りのお菓子。オーブンが無かった頃には、ドーナツや蒸しケーキを作ってくれた。お誕生会。周囲の子のようにお菓子のパックをまとめ買いなんかしなかったけれど、わざわざ色々の大袋を自分で小分けにしてくれた。 必要なお金はちゃんとくれた。どんな理由であれ、理由があれば。 短大に私が通っていた頃、パートに出ていた。それが学費のためなのか、それ以外のためなのか、一言も口にはしなかったれど。 なのに、それがどうしても、上手く彼女を愛するという感情に結びついてくれない。それがどういう感情なのか、よく判らないと言ってもいい。 予想はつくのだ。彼女は彼女なりに、私を思っているのだが、それが私の期待するものではなかった。それだけなのだと思う。それだけのことなのだけど。 どうしてそれに気付いてくれなかったのだろう、という気持ちが。 …そんな気持ちを、ついこの可愛らしい後輩OLちゃんを見ると、引き出されてしまうのだ。 でもそれは致命傷ではない。 そういうものではないのだ。 忙しさが一段落ついた年明け、上司が私を呼びだした。簡単な面接という奴だ。私はこれが好きではない。鬱陶しい。まあ好きなひとはいないと思うのだが。 この上司というひとは、悪いひとではない。歳の頃は三十代後半の妻子持ち、人当たりは穏やか。私達OLからしてみたら、「ラーメンをおごってと頼めば、少し苦笑しながら連れてってくれる」タイプだ。実際後輩OLちゃんは連れてってもらったことがあるそうだ。 私は、と言えば、彼女より誘われる率が低い上に「ガードが堅い」ので、あまり会社の男達と食べたり呑んだりする機会も無い。まあそれはいい。問題はその上司だ。 穏やかな口調で、言うのだ。君はこの先ここで何をしたいの?
2006.01.18
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ぴんぽんぴんぽん。 チャイムの音で私は我に返る。そうだサラダが来るんだった。「用意できたよー。あれー?」 ひょい、と彼女は玄関から奧をのぞきこんだ。「あれ、お客さん居たの?」「ま…あね。だから一緒に、と思って」「ふうん」 両眉がひょい、と上がる。「あ、見覚えあるひとだー」「ほら、あんたも知ってるでしょ、兄貴のバンドの、ヴォーカルの」「元ヴォーカルだよ」 彼は即座に訂正した。「ふうん。何だか判らないけど、まあいいか。とにかく行くなら行こうよ。あんまりお昼に近くなると、混むよー」 それはそうだ。彼女は正しい。 三人分の場所をキープしてから、私達はカウンターに注文しに行った。コーヒー豆とスコーンを幾つかテイクアウトにして、ブランチ代わりのベーグルサンドを、「今日のコーヒー」と一緒に頼む。ミルクをたくさん、が私の趣味だ。「おまたせー」 サラダはシナモンのスコーンと、ハコザキ君があまりの甘さに参ったラテをトレイに載せていた。その彼、こんな店なのに、リーフティだった。「ちょっと昨夜飲み過ぎたからね」 そう言って笑う。あまりこのひとを昼間に見たことは無かったが、改めて見ると、結構整った顔をしている。顔も小さいし、全体的にこぢんまりとまとまってるんだなあ、と感心する。兄貴のバンドのヴォーカリストとしてしか認識していなかったから何だが、そのバンドの続きで身につけているTシャツと皮パンが、馬鹿馬鹿しい程似合わない。うーむ。「それでサラダ、ペンキ塗りは済んだの?」「うんだいたい。どうせこれで乾かさなくちゃならなかったから、ちょーど良かった」 言いながら、両手に持ったスコーンにさく、とかぶりつく。「あたしはブルーベリーの方が好きだな」「あたしもどっちも好きだよ。チョコチップもいいよね」「あれはちょっと甘過ぎ」「菓子なんだもん。甘すぎるくらいの方がいいよ」 そういうものかな、とハコザキ君は半ば呆れたようにつぶやいた。そーだよ、とサラダはほとんど初対面の彼に、あっさりと答えた。「よく『甘さひかえめ』とか言うじゃない、TVのグルメ番組とか、ローカルなお店情報でさ。『甘味を抑えたヘルシーなデサートです』とかさ」「それが気にくわないの?」「くわない」 どん、と彼女はテープルを叩いた。「だって菓子って別に健康のために食ってるんじゃないもん。美味しいから、楽しいから食ってるんだよ。なのにそこにいちいちそんなリクツ付け加えて何が楽しいんだって言うの?」「甘すぎるのが好きじゃないひとだって居るじゃない」「でも菓子の基本は甘いことなのよっ」 おお、ほとんど拳を握りしめている。「ミサキさんほら、銀座のあのデパートのモンブラン、食べたことある?」「…あんたが言うから、一度行ったけど」「どおだった?」 果たして何処まで本気なのか判らないが、口調は怖いくらいだ。「どぉって…うん、確かに一口二口は美味しいのよね。だけど半分でいい、と思った」 そう。確かに私は半分でリタイヤした。銀座のあるデパートの中にある喫茶店のモンブランが、すごく美味しい、という彼女のすすめで、私も一度、会社の子と連れだった時に食べてみたのだ。 結構その喫茶店は混んでいた。まあ銀座のど真ん中で、なおかつ一階入り口に面した場所、ならば当然なのだが。仕事が退けてからの夜だったからまだましだった、と言えよう。これがこんな休日の昼間だったら、一体どれだけ待つのやら。 皿に乗せられてきたモンブランは、ちょん、と決して大きくなくて、これでこの値段かあ? と地方出身の私など、一瞬眉を寄せたものだった。だが、一口食べた時、うっ、と思わず私はうめきそうになった。 強烈な甘さと、強烈な幸福感が一気に口に広がったのだ。甘さと幸福感を横並びにするのはおかしい、というかもしれない。だけど、その時私が感じたのは確かに幸福感だったのだ。たとえば練乳をスープ・スプーンで一匙だけ口にした時の、あの強烈な甘味と、同時に広がる感覚。それとよく似ていて、いや、それ以上に強烈だった。 だが練乳は一匙だから幸福なのである。モンブランも同様だ。一口、二口、…紅茶がストレートで良かった、とこれほど思ったことはない。辛いカレーを食べる時の、あの白いラッシーのように、一瞬であの味を消してしまうくらいのものでないと、このモンブランを全部食するのは難しい、と思ったものだった。一緒に来た会社の子が甘いもの好きで本当に助かった、と思った。無論「自分のものは自分で」なのだが、普段「甘味あっさり」ものを好んで食べているひとだったら、さすがにこれはきついだろう、と思った。「でも菓子ってのはそういうものであるべきだと思うのよ」 サラダは力説する。「和菓子って結構そうだと思わない? あれって結構純粋に甘味、よね」「でも色々種類はあるよ」 ハコザキ君も彼女の熱意にあてられたのか、会話に加わってくる。「ううん、確かに種類はあるけれどさあ、和菓子って基本的に砂糖の甘味一つで勝負するって思わない?」「砂糖の甘味一つ?」「だって色や形は違っても、だいたい材料は豆じゃない。そりゃあういろうだのすあまだの団子だの、そういうのはあるけとさあ、練りきりとか」「ああ」 私もハコザキ君もうなづく。コーヒーショップでする話題だろうか、と思いつつ、ついつい引き込まれていた。「味がほとんど一緒だから、外見にこだわったんだと思うのよ。春には春の形、秋には秋の形」「くわしいね、君」 ミルクをたっぷり入れたリーフティをすすりながら、ハコザキ君は目を丸くする。でかい目だなあ。「ううん別にこんなの、くわしいうちには入らないよ。でも好きだったら、結構いろいろ、覚えるものじゃない?」「好きなら」 彼は少し首をかしげた。「…そうか、好きなら、か」 そして目を伏せる。あ、まつげ、長い。「そうだよな、好きだったら、いろいろ覚えてしまうものだよな。…あ、美咲ちゃん、俺、オーダー追加していい? サーモンとクリームチーズのサンド」「…いいけど?」 彼はありがと、と言ってにっこりと笑った。
2006.01.17
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「…ハコザキ君、のよりさんに、あんた達のことは…」「言ったことは無いよ。だってあいつは、俺がそうだったように、ごくごくまともな奴なんだ。俺が男に抱かれてるなんて、想像もできないだろうさ。それが普通の女の子の反応って奴じゃない? 美咲ちゃん」「普通の」「そうやって言ってしまうと、美咲ちゃんには失礼かもしれないけどさ。それでも、俺だって、奴に会うまでは、奴にそうされるまでは、そんなこと、考えもしなかったし、訳判らなかったよ? だけどそれでも何か」 彼は口を閉ざした。 私は言う言葉を無くした。 ただ、兄貴が男ともそういう関係になれる、ということを認識して以来、私は別にそれを何とも思わなくなっていたことは確かだ。ああそう言えば、普通の子は、だいたい忌み嫌うか、好奇の目で見るんだよな。思い出した。 だって。半分ほどコーヒーが残ったマグカップを持って、私は六畳の方へと移動する。南向きの部屋には、だんだん夜明けの光が斜めに射し込んでくる。 音を消える寸前まで小さくして、TVを点ける。何処の局だろう。だらだらと空模様などを映しながら音楽が流れている。今日は一日、いい天気になりそうだ。そういえばさっきコーヒーを入れた時、豆がそろそろ無くなりそうだった。買い足しに行かなくては。ベリーの入ったスコーンも欲しい。サラダは今日は何するんだろう。誘ってもいい。そうだ誘おう。男との約束が無ければいいけど。 そんなことを考えながら、ベッドに背をもたれさせてコーヒーをすする。時々ちらちら、とキッチンの方を見ると、背もたれに腕を掛けて、ぐったりともたれていた。ワゴンの上にマグカップは置かれたままだ。 眠ってしまったのかな、と思ったら、私にもまた、眠気が少し襲ってきた。 …再び目覚めた時、時計の針は十時を指していた。あれ、と私は身体のあちこちが痛いのに気付いた。変な姿勢で寝付いてしまったから、下になった部分がややしびれている。既に太陽はかなり上にある。何処に行っても店は開いている時間だ。「あ」 キッチンの椅子の上には、まだ彼が同じ姿勢で眠っていた。大丈夫なのだろうか。おそるおそる近づいてみると、驚いたことに、ぐっすりと眠っていた。 起こすべきか。少し迷う。しかしお出かけもしたい。とりあえず玄関に向かった。サラダに今日暇かどうか訊ねなくては。できるだけそうっと、扉を開けたつもりだった。 ぴんぽんぴんぽん、とチャイムを鳴らす。「あ、おはよー」 あっさりと彼女は出てきた。頭にバンダナを、手には軍手をつけている。そして部屋の中のにおい。「…あんたまた、ペンキ塗りしてるの?」「だって今日いい天気だしー。見て見て、こないだ、いい感じの椅子を拾ったんだー」 驚いてはいけない。「大きなごみ」の日に彼女が何かと抱えてくることはある。それが部屋と趣味に微妙に合わずに、次の時にはまた出しに行くことも。どうやら今回持ってきたものは、彼女の趣味と、この部屋の広さにも釣り合ったらしい。「へえ、結構がっちりしてるじゃない」「うん。でもさすがに座るとこが汚れてたしねー。まあだから皮を張り直して、足と背白くしようと思ってさー」 なるほど。私は塗り直された椅子をまじまじと見る。そう言えば私もその「大きなごみ」の前を通り過ぎた記憶がある。「で、ミサキさんどしたの? 朝ご飯のお誘いにしては遅いし」「ところがそれなんだよね」「朝ご飯は食べちゃったよー」「別に食わなくてもいいって。あそこのコーヒーショップにつきあって欲しいの。豆も切れたし。ついでに」 ああ、と彼女はうなづいた。「そぉいうことならいいよー。あたしも行きたい」「じゃあ着替えてくるわ。あんたも五分で用意してよ」「五分ーっ」「一番近いとこだよ。いちいち顔作ってく?」「じゃなくて、ペンキ」 ああ、とうなづいたのは今度は私だった。「三十分待って。そしたらいいとこまで塗ってしまうから」「三十分ね。じゃあそしたらうちに来てよ」「はーい」 自分の部屋に戻ると、TVの音が聞こえてきた。音量が上がっている。「お帰り」「ただいま…じゃなくて」 六畳の方で、ハコザキ君はぼんやりとTVを眺めていた。土曜の朝の番組は、ローカルな情報番組だったりすることが多い。そんな他愛もないローカルな名所やらショップを、けたたましい女性アナウンサーが紹介している。彼はそれを見ているのか見ていないのか、どちらとも言えない視線で、ぼんやりと眺めていた。「…ねえ、ハコザキ君お腹空かない?」「え?」「もう少しして、隣の子が来るから、そしたらちょっと、朝ご飯食べに行こうよ」「…って俺、お金」「だからあなた、借りに来たんでしょ? ついでよ。駅近くのコーヒーショップだから、ついでにそこから帰ればいいわ」 ありがとう、と彼は言った。「電車代だけ? 足りる?」「うん。うちの最寄りの駅からは歩いてそう掛からないからね」「なら良かった」 本当に。「…で、ハコザキ君、兄貴には今日はもう、会わない気?」「今日、というか」 彼は苦笑する。「俺はクビになったんだよ。ようするに。だったら、そうそう簡単に顔を合わさない方がいいよね」 あっさりと言う。「…でも昨日そういうことがあったばかりじゃない」「彼が俺をバンドに連れ込んだのも唐突だったよ。同じ勢いがあったもの。俺には予想がつく。のよりがどう出るかは判らないけれど…ケンショーの勢いに、あいつが呑まれないなんて保証はないんだ」「勢い、でそうなってしまうの?」「美咲ちゃんは、あいつの勢いが絶対に掛からないひとだからさ、そう言えるんだよ」 私は眉をしかめた。「ケンショーにとってはさ、声なんだ。結局全部。声さえ気に入ったら、外見も性別も何も関係ないだろ。その声が欲しくてこれでもかとばかりに迫るんだ。だけど、手に入れられないのは困るから、無理強いはしない。手に入れることが、何よりも大切だから、それが駄目になってしまうようなことはしないんだ。あれは天性だよね」 …そう…なんだろうか。私はそんな兄貴の姿は知らない。「で、結局、ほだされてしまうのは、こっちなんだ。俺が、そうなってしまったんだぜ? のよりは女だ。男の俺すらそうなってしまう勢いだっていうのにさ、のよりがそれを拒めるとは思わないよ。別にケンショーは嫌いなタイプじゃないんだ。あいつ」「そうなの?」「だから、美咲ちゃんには絶対に掛からないから」 だから判らないんだよ、とハコザキ君は続けた。それは、私が彼の妹だから、ということだろうか。それとも声が対象外、ということだろうか。
2006.01.16
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「はい?」 扉ののぞき穴から見えた姿に私は首を傾げた。タンクトップの上に、半袖シャツを一枚引っかけただけの姿。「ハコザキ君?」 扉を開けた。夏。八月の暑い夜。毎日毎日、天気予報では明日の気温は30何度、と繰り返す。今夜も熱帯夜だった。…夜明け前だというのに、こんなに大気が湿っている。ねまきにしている長いTシャツの背中がじっとりと張り付いている。 そう、夜明け前。時計を見ると、まだ四時台だ。雨だれのように時々聞こえたチャイムの音で目が覚めた。 半ば夢うつつの状態で、非常識な、と怒る理性と、何かあったのかしらと考える気持ちがせめぎ合いながら、それでも扉に向かっていた。何度か無視しようかと思ったのだが、そのたびにぴんぽん、と一滴、チャイムが鳴ったりするのだ。 いたずらだったら本格的に無視するか、警察を呼んでやろう、と思いながら、扉ののぞき穴から通路を見たのだ。そうしたら。「…」 ハコザキ君は、何とも言えない表情で、そこに立っていた。「…どうしたの、こんな時間に…兄貴に何かあったの?」 彼は黙って首を振った。口元が、笑っているように上がる。「え…と、ごめん、美咲ちゃん、ちょっと、お金、貸して欲しくて。もちろん後で返すから」「お金?」「財布、忘れてきちゃって」 忘れてきて、って。こんな時間に。何がどういうことなのか、私にはよく判らない。「何処かに行くの? それとも、何処かに行ってきて、鍵忘れたの?」 ううん、と彼は首を横に振る。どうにもこうにも言いにくそうだ。私はとにかく入って、と手招きをした。こんなところで、こんな早朝話をしているのはご近所迷惑というものだ。一番のご近所のサラダはそう簡単に目を覚まさないことは知っているが。「クーラー、点けないんだ」 入った途端、彼はそう言った。うん、と私はうなづいて、彼をキッチンの椅子に座らせる。起きたばかりのベッドのある部屋には、何となく入れたくなかった。私のにおい、と言うべきものが、六畳の部屋の中に漂っている。網戸にして開け放した窓から抜けてくれるまでは、ハコザキ君をこの中に入れたくはなかった。 ベッドを直して、網戸もすっぱりと開け放してしまう。背中を風が通り抜ける感触があった。 ちら、と振り向くと、椅子の上にちょこんと座る彼は、いつも以上に小柄に見えた。「コーヒーでも入れる?」 私は問いかけた。え、とその時彼は弾かれた様に顔を上げた。「暑い時に熱いコーヒーってのも悪くないわよ。それとも濃く入れて、氷コーヒーにする?」「あ、熱い奴でいい…」「眠いの?」 また問いかける。どうも視線の具合が頼りない。私はそれ以上は問わないで、黙ってコーヒーメーカーに豆をセットした。ゆっくりと、香りが漂ってくる。「あ、それあそこの」 彼は顔を上げた。え、と私は問い返す。「こないだ、行ったんだ。最近流行なのに全然知らないからって」 誰がそんなことを言ったの。判るのに、私はそう問えなかった。「やっぱり流行りものって、活気があるよね。俺結構流行りものって好きなんだけど、ずっと忘れてた。凄いよね、カップがさ、Mサイズ、ううんあそこじゃMじゃなくてトール、だっけ? 360ミリリットルもあるなんて知らなくってさ、何か判らないもの頼んだら、無茶苦茶甘くて、口が曲がりそうだった」 きっとあのコーヒーショップのことを言っているのだろう、と私は思った。雨後の筍のようににょきにょきと現れてきている、エスプレッソの店。私も結構好きで、あちこちの支店を見つければ入って、そこの濃いコーヒーやら、やたらにでかいスコーンやら、サーモンにクリームチーズのベーグルサンドを食べたりしている。無茶苦茶その味が好き、という訳ではなかったが、雰囲気が好きだった。ハコザキ君の言う「流行りもの」的な雰囲気も好きだったのだ。 はい、と私は適当なマグカップにコーヒーを入れて渡す。ミルクと砂糖は、と聞くと、両方、と彼は答えた。私も自分の分を入れる。眠気覚まし半分だ。今日が休日で良かった、と正直、思う。土曜日だ。昨日は確か、彼等はライヴがあったはず。「打ち上げ、ずいぶんかかったの?」「いいや」 彼は首を横に振った。「打ち上げは、そんな長くは掛からなかったんだ。一次会で、いつもの安い飲み屋でごはんがてらに呑んで食べて…いつもの通りだよ」 彼等は世に出る前のバンドマンがそうであるように、貧乏だった。そうなるとおのずと、呑める場所は限られてくる。ハコザキ君はそれでも地元民であるから、兄貴やオズさんのような上京組ほどは貧乏ではないはずだけど。でもバンドのメンバーを全部かき集めて四で割れば、やっぱり貧乏だ。マドノさんだって、確か上京組だ。「一次会、ということは二次会があったの? 珍しい」 うん、と彼はうなづいた。「オズさんの彼女…なのかな? 紗里さんと、それとのよりが一緒だったからさ、じゃあカラオケにたまには行こう、ってことになって。人数居るし」 …バンドマンで普段音楽に浸かってる奴も、カラオケに行きたいものなのか。「まだ歌い足りなかったの?」「俺は足りてたよ」 ところが、と言いたそうな顔をする。だけどその続きを、どうしても言いにくそうだった。「誰かが、言い出したの? 兄貴?」「…や、のよりの奴が」「のよりさんが?」 あまりそういう感じには見えなかったのだが。大人しそうな…若奥さんという感じの。「あいつ、ああ見えても、歌うの好きなんだ。だから俺とも、良く昔は行ってて」 そう言えば、確か兄貴がこの畑違いのひとを連れてきたのは、何処かで歌声を聞いたから、らしい。それがカラオケであった可能性は高い。「…で、ケンショーの前で、歌いまくって」 彼は喉を詰まらせる。「…奴の目が、いきなり真剣になったんだ。俺は正直、怖かった。こんな目、俺、見たことがあったんだ。ずっと前」「ずっと前?」「俺を、見つけた時」 思わず私はマグカップをワゴンの上に置いた。くすんだ色のコーヒーが跳ねた。それって。「どうして、そんなこと」 判るの? そう聞く前に彼は遮った。「判るよ。だって、俺は彼を見てたから。だけどケンショーの目はもう俺を見てなかった。のよりの方を向いてた。俺には判る」 断定する。
2006.01.15
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だって仕方が無い。そう考えないことには、私は私をも疑わなくてはならなくなる。私の中にも彼のような要素が、因子があるのかもしれない、と思うと気が重くなる。私は私だ。誰から生まれようが、誰と血がつながっていようが私だ。 彼と顔を合わせるたび、私は自分自身にそれをいちいち確認しなくてはならない。疲れる。疲れた。 だから兄貴が、卒業してすぐに家を飛び出した時、私はほっとしたものだった。一体どうして、という疑問の前に、まず安堵したのだ。ああこれで静かな日々に戻れる。だが静かな日々など、いったいいつのことだったのか、高校に入ったばかりの私は既に忘れていた。 それから二年間、私は一人っ子状態だった。少なくとも私の中では。その状態を満喫していたと言ってもいい。彼が居なくなった家は広かった。というより広々としていた。彼の消えた六畳の部屋を占領しようとは思わなかったが、残していったものを勝手に使うのはためらわなかった。 それが違うことに気付かされたのは、進路を決める時だった。私は自分が四年制の大学に行くものと、行けるものと思っていたのだ。成績は充分以上だったし、担任も周囲もそれが当然だと思っていた。 ところが、だ。 何を馬鹿なことを、という顔を両親はした。四年制に行かせる程の余裕は無い、という意味の言葉を告げた。 それがどういう意味なのか、私はしばらく理解できなかった。兄貴にそれだけの学校に行かせてあげるだけの余裕、という奴はあったはずだ。彼がこの家を見捨てたなら、それなら今度は私が。 口には出さなかったけれど、たぶんそんな気持ちが私の中にはあった。兄貴は戻ってこない、と思っていた。だったらいつかはこの家は私が。 短大なら行けばいいわ。その方が高卒より就職に有利じゃないの? そうだな別にお前にどうこうしろと言わないから、自由にやってみろ。 ちょっと待て。 私はその時どう答えたろう? ただ判っていたのは、彼等は私に何の期待もしていなかったということだ。どれだけ成績が良かろうが、何の問題も起こさない子でいようが、それは別に彼等にとって大した問題ではなかった、ということだったのだ。 …私の性格を知っていて、その上で、私に自由に、好きに生きてみろと言ったのかもしれない。人に動かされるのは嫌いだ。それは常々言ってきた。言わなかったとしても、態度に出る。外面はいいけど、内心という奴が。 それはいい。それは。だけど。 そして彼等は言った。お兄ちゃんが帰ってきたらねえ。ノリアキの奴、何をやってるんだ全く。 忘れてはいないのだ。いつか帰ってくる、と思っていたのだ。私がとうの昔に見切ってしまったことを、いつまでもいつまでも思っている。いつかはこの故郷に帰ってきて、彼等の思う「真っ当な」生活をすると、できると信じている。 どうしてそんなことを信じられるのか判らなかった。彼はそんなことできやしない。できないことが判っているから、背水の陣、それしかない所に行ったのではないか。どうしてそれが判らないのだろう。彼は私と違う。あなた達と違う。違うんだ。 私はそれをもう口にはしなかった。言っても無駄だ、と思っていた。彼等は親だから、それを願うのだ。きょうだいだから私はそれを見切ってしまっているのだ。 その時、彼等に対して何かが自分の中で切れる音を聞いた。 ああそうだ。 別に格別に努力をしていた訳ではない。優等生でいることも、何の問題も起こさないことも、私の性には合っていたのだから、努力してきた訳ではない。 だけどそれをいいことに、冒険の一つもしなくなっていた自分が居た。できなくなっていた自分が居た。してしまえば。そしてまずいことが起きたら、家に迷惑がかかると。ただでさえ兄貴のことで頭が痛いだろう両親にそれ以上の厄介ごとを抱えさせたくはないと。そんな理由をつけて、自分で自分の手足に枷をつけてきた。 自分の四畳半の部屋で、机に向かって、私は唇を噛んだ。だけど振り下ろした拳は、机の上で寸止めにした。気付かれるな。悔しいなどと、考えているということを。気付かれるな。彼等には気を許すな。私は彼ほどに彼等には思われてはいないのだから。 声を殺して、泣いた。どうしようもなく、涙が机の上でぽたぽたと落ちた。止められなかった。彼等に気を許すな、と自分に命令するその一方で、どうして自分ではないのか、と叫ぶ自分が居た。 何で私じゃないの。何で兄貴なの。いつだって。いつだって。いつだって。 本当は、壁に全身を打ち付けたい程の、悔しさがあった。手も、打ち付けてしまえば、その痛みで、少しは救われると思った。だけどそれをしなかった。できなかった。 まだ私の中で、それはうずいている。痛めつけてくれ、とわめいている。凶暴な衝動。兄貴の言う「化け物」とは違うけれど、私の中にもある、どうしようもない、衝動。 その後の三年、私はこの家で居候の様な気持ちで居た。出て行く日を待った。無論自分で四年制へ行くと言う手もあっただろう。短大に行く程度の余裕はあったのだから、後の二年を自力で稼ぐ、という手も。 ただ私にはその気持ちは無かった。そもそも大学に進学して、勉強したいものというものも無かった。そこは「行くもの」だった。行って、そしてそこで何をしたいのか見つけるところだ、と思っていた。 でも違った。だからもう、行く意味は見つけられなかった。 私は短大に進学した。やっぱりしたいことは見つけられなかった。だが就職活動だけは真面目にやった。そうすれば、この家を出て行く口実がつけられた。口実は必要だった。それが私なのだ。 兄貴には口実も何も無い。彼はそうしたいから、そうしたのだ。彼の意志は、彼の行動そのものだった。 私には「そうしたい」ものは彼の様には無い。「居たくない」から出るだけで、「出たい」訳ではないのだ。 ただそれは口にはしない。口にするとそんな考えは良くない、と友達は言ってきた。教師も言ってきた。お前ってそんな無気力な考え方してたっけ、と当時のつきあっていたひとも言った。 そんなこと言われても、困る。 何でそれではいけないのか、誰もその答えを持っていないくせに、そんな消極的な発想は良くない、という。そんなこと言われても困る。私はそんな風にしか考えられないのだ。もしそれがいけないと言うならば、私にそれほどに思わせる程の何かをくれ、というものだ。見せつけてくれ、というものだ。私の心を、それほどに鷲掴みにして、揺り動かして、離さない程の。 それができないくせに、私に言うんじゃない。 兄貴に関して、一つだけ感心することがあるとすれば、彼が私に何の強制もしないことだろう。考え方とか、態度とか、そんなことについて、何も気にしないことだ。私の考えが前向きであろうが無かろうが、どうでもいいと思っているのだろう。それでいい。それがいい。 誰も、私のそんな部分まで、入り込まないで欲しい。本当にこちらを向かせたくて、強引に、引きずり込むような勢いと覚悟が無い限り、そんなことをしないで欲しい。中途半端な同情やら善意やら好意やら良識やら心配やらは鬱陶しい。そんなものを中途半端にくれるくらいだったら、無視していて欲しい。 私が欲しいのは。 そこでいつも思考停止する。 それを口にするな、と自分の中の何かが叫ぶ。口にしてしまったらおしまいだ、と。
2006.01.14
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さてそれからしばらく、何があったのか私は知らない。私にばれたところで、あの兄貴がどうこうするとは思えない。まあハコザキ君は多少動揺したとは思うが、…兄貴と付き合ってるくらいだ。感化はされているだろう。 気が付くと、兄貴の回りの人間は、兄貴のペースに流されているのだ。良くも悪くも。近くに居ながら流されなかったのは、私くらいではないか、と自負してしまうくらいだ。 うちの親にしたところで、逆の意味で彼には振り回されていた訳だ。ああいう人間には始めからある程度距離を置いた方がいい、ということを、どうして気づけないのかな、と思ったりもしたのだが、彼等は自分と血がつながっている以上、自分の理解できない人間ではないだろう、と思っていたのだろう。いや、思いたかったに違いない。 無論全く理解できない訳ではないだろう。いくら何だって、人間だ。野生の動物ではない。 ただ、それ以上ではないのだ。いくら血がつながっていたところで、結局は他人だ。それを割り切らないと、やっていけない人間というのは確かに居るのだ。家族だからこそ、特にそうなのだ。 私が彼に関して、それを割り切ったのは、もう結構小さい頃だったような気がする。兄貴が中学かそこらの頃だ。 その頃から彼はあまり学校には行かない奴だった。私はその反対で、皆勤賞ものの優等生という奴をやっていたので、彼の行動には首を傾げると同時に、どうしてそんなことができるのか不思議だった。 私にとって、学校とは「行くもの」であって、それ以外の何ものでもなかった。大人が仕事に行くのが義務であるように、子供は学校に行くのが義務だ、と信じていた。いや、信じているとかそういう意識も無かったかもしれない。学校というところが自分にとって面白いとか面白くない、とかいうのは関係なく、「行くもの」だ、と考えていた。仕事だったのだ。 なのに兄貴は、と言えば、何故か私が学校に行く時にまだ寝床に居ることもあったし、帰ってもまだ居ることもあった。 かと言って、今で言う登校拒否生徒、という訳でもなければ、ぐれている訳でもなかった。 さすがに当時の私は苛立った。彼が中三の時には、私ももう小学校六年だったので、ある程度以上の頭は回るようになっていた。小生意気な口もきけた訳だ。 だから彼に聞いてみた。いや、詰問した、と言ってもいい。何で兄貴、学校に行かないのよ!? すると彼は答えた。じゃあ何でお前学校に行くの? そう問い返されるとは思っていなかった。 俺はそれがよく判らないのよ。 彼は真面目な顔でそう言った。 確かに俺を行かせるのは親の義務だけどさ、俺が行くのは義務じゃあないんだぜ。 屁理屈だ、と言ってしまえばそれで終わりだ。 だから親父やお袋が俺に行け行けって言うのは正しいよな。それがあのひと達の義務なんだから。だけどお前が言うのは俺は良く判らないぜ。お前学校別に好きでも何でもないだろ? 何でそれでも行く訳? 友達が多い訳でも会いたい訳でもないだろ。 …こういう所が嫌なのだ。何でそういうことは判ってしまうのか。 それでも私もそれで引き下がるのは非常に嫌だったから。 だったら兄貴はここで何やってるのよ? すると彼はこう答えた。俺は俺を押さえてるんだよ。 意味が判らなかった。 俺の中には、何か得体の知れない化け物の様なものがあってさ。それを何とかしないことには、ああいう俺の理解しにくい俺を理解しにくい場所には出て行けないんだよ。 意味が判らない、と私は言った。判らないでいいよ、と兄貴は言った。奇妙に優しい声で、言った。 思えば、そのあたりで、彼はその「化け物」を何とかする方法が、音楽にある、と掴み掛けていたのかもしれない。 彼がギターを手にしたのが正確にいつなのか、なんてのは私も知らない。彼は学校に行かないだけであって、家の外にはよくふらふら出ていた。何処に行っていたのかは知らない。後で聞くと、隣町の楽器屋とか、音楽好きの先輩のところとか、言われてみれば、という場所だったりするのだが、当時の私にそんなこと判る訳もない。 そして無論「化け物」がどういう意味なのかも、判らなかったのだ。 今だったら、想像はつく。無論それが「どういうもの」なのか、身体で判る訳ではないから、想像に過ぎないのだが。 ただ、ギターを手にしてから、音を、作り出すようになってから、彼の表情が変わっていったのは確かだ。 彼はその「化け物」のことを、出て行く直前、こんな風に言っていた。 時々、そいつは不意に現れて、俺を揺さぶるんだ。頭を、気持ちを、身体を。俺の頭と言わず身体と言わず、全部がそれで埋め尽くされて、俺を食い尽くそうとして、食い尽くして、出て行こうとするんだ。嵐だよ。台風だよ。本当にいきなり、来るんだ。「それ」が来るのを、俺は止められない。来てしまったら、俺は俺の身体を上手くコントロールできない。だから俺は曲を作るんだ。俺の中で巣くうそいつを、形にして、出してやらないと、俺は俺の身体を開放することができない。 それはもう、どちらかというとビョーキの部類ではないか、と中三の私は思った。少なくとも、私にはそういう嵐は無い。想像もできなかった。 その頃彼はもう、自分でずいぶんたくさんの曲を作っていたはずだ。どんな曲だったかは忘れた。まとまったものではない。曲の切れっ端とでも言うようなものだ。そんな切り刻まれたようなものが、六畳の部屋に散らばったカセットやら、書き慣れ無そうな譜面とか、書き散らした歌詞もどきのメモとか、そんなものに形を為していた。 押し寄せるんだ。 彼はそう言った。 一つ鍵になるようなものが浮かぶと、もうそこからずるずるずるずると、その続きになるようなものが見えてくる。いいか美咲「見える」んだ。俺には見えてしまうんだ。聞こえてしまうんだ。そんな形の無いモノが、音の無いモノが。そこに無いモノが。そこに無いモノが、俺に形を作れ、って言ってくる。形にしろ、って命令する。言葉も無しに命令する。身体に、頭に、知識に、全部に命令するんだ。俺はそれに逆らえない。だから音を出す。言葉を引っぱり出す。そこに俺が見えるものを、聞こえるものを、そのまま形にして引っぱり出すんだ。お前はどうやって作ってるんだ、と俺に時々聞いたけれど、俺は別に作ってる訳じゃない。俺はただ聞こえてくるだけなんだ。受け取ってるだけなのかもしれない。本当は俺はただ受け取って、判りやすい記号に変換しているだけなのかもしれない。だけど確かに俺の中には、その音が見えて聞こえて、それは確かに在るんだ。それだけは間違い無いんだ。 三年間で「化け物」は「降りてきた音」に変わったけれど、やっぱり私には理解できなかった。私にとって音は聞こえてくるものでしかない。ましてや、聞こえもしない音が降ってくるなんていう事態は全く想像ができない。 そしてきっと、これからも理解はできないだろう。 ただ、彼が「そういう人間」だということは、理解したのだ。理解しなくては、ならなかったのだ。私が彼とこの先もきょうだいである以上、彼が私には理解できない類の人間である、ということを。 私と彼は、確かに似ている点もある。だけど、この点だけは、絶望的に異なっているのだ。 彼にしてみれば、私は「そういうもの」と言ってくれるだけ、「そんなはずはない」と主張する両親よりはましなのだそうだ。
2006.01.13
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しかしよく考えてみれば、そんな私達より、もっと極端な奴が居た。 私の住むマンションから、小さな公園をはさんだ向こう側に、兄貴の住むアパートがあった。確か家賃が5万足らずとか言っていた。よく見つけたものだ、と私は思ったものだ。 外付けの、二階に向かう階段を上ると、がんがん、と音がする。風向きによっては雨が吹き込む通路を抜けて、彼の部屋の前に立った。 はて一体私は何しに来たんだっけ。 確たる理由というものは無い。別に無くても、妹なんだから、様子を見に来たとか何とか言えばいいのだろうが。ただ実際、私がやってきたのは出歯亀的な興味なのだから。 ともかくチャイムを鳴らした。ぴんぽんぴんぽん。居れば一分足らずで彼は出てくる。出なければ居ない。それでいい。 一分経って、出て来ない。じゃあ居ないのか、と思って私は引き返そうとした。ん? 気配はある。首を傾げて、もう一度チャレンジする。ぴんぽんぴんぽん。「どなたですかー?」 おお、この声は。「美咲です。留守番ですか?」 わざとらしいが、あえて言ってみる。案の定、扉は開いた。小柄な青年が、そこには居た。「ああ美咲ちゃん。ケンショーは…」「まだ寝てる?」 にっこり、と私は笑顔を作る。「…あ、昨日ちょっと皆で呑んでて」「でしょうね。あれ、じゃあ他の人達も?」 白々しい。「…や、別にここで呑んだ訳じゃあないから」 うんうんうん、と私は大きくうなづく。ちょっと失礼、と私は中に入り込んだ。確かにそうだ。散らばっている靴も、兄貴と、ハコザキ君のものしか無かった。「…おい誰か来たのかよ?」 狭い部屋というものは、こういう時に不便だ。ベッドが部屋の奥にある、と言ったところで、丸見えなのだ。「はあい」 ベッドの上には、上半身を起こした兄貴が居た。頼むからそのままの姿勢を崩すなよ、と内心つぶやく。上半身は裸で、その下も何となく予想がついた。まあよくある光景だ。だから驚かない。今更兄貴の裸なんぞ見たところでどうってことは無い。ただ朝っぱらから、そんな露骨なものは見たくないだけだ。女の子のふわふわした胸とかだったらともかく、何がかなしゅーで。「その声…美咲か?」 兄貴は目を細めてこちらを向く。彼の視力では、六畳間の向こうに居る私の判別はできない。「おはよー兄貴。また、なの?」「…またとは何だよまたとは…」 ぶるん、と彼は頭を振る。低血圧なのだ。起き抜けはこれでもか、とばかりに機嫌が悪い。長い金髪が顔の前と言わず後ろと言わず、少し間違えば絡まってしまいそうな程だ。基本的にはさらさらヘアであるのが救いと言えば救いだ。猫っ毛が入ってでもいたら、直すのに一苦労である。「え、ええと、美咲ちゃん、お茶でもどう?」「ありがと」 私は再びにっこりと笑った。ふん、と兄貴は半ば閉じた目のまま、両眉を上げた。 勝手知ったる他人の家。ベッドの脇に置かれている座卓のそばに私は陣取った。いつも思うのだが、この男の部屋は、案外片付いている。何の飾りも無いベッドに、冬になったら活躍する炬燵の座卓。窓際にはTV。カーテンは遮光を兼ねているので、暗色だけど、そう悪い印象ではない。 押入をクロゼット代わりにして、上の段の半分には服をずらりと掛けてある。あと半分にはオーディオ。CDとかデッキとかそんなものが置いてある。下の段には楽器。ギターにギターにギターにアンプ。こんなものまで弾いてるのか「ぞうさん」まである。 他に何があるんだ、というくらい、彼の部屋でぱっと目に入るのはそれだけだ。 まあしかし確かにそれ以外、必要ではないのかもしれない。部屋というものが、食う寝るところに住むところ、というならば、彼の場合、確かに必要なのはそれだけだろう。「食う」ためのものは、部屋の端に作りつけてある台所スペースに集約されているし。 1ドアの冷蔵庫。自炊も全くできない訳ではないらしい。時々私も、総菜をたくさん作った時にはタッパーに入れてお裾分けする時もある。一人分のちゃんとした料理、というのは実に作りにくいのだ。ちゃんとした肉じゃが、とかちゃんとしたうま煮、とか作った時には、どうしても四人分、とかのレシピを見てしまうものである。 持ってくと、助かる、とか言いつつ、その冷蔵庫に入れている。こういうあたりが結構見かけと一致しないところなのだが、この男は、案外マメなのだ。とは言え、収納に血道を上げるタイプではない。無駄なものは買いもしないし置きもしないだけなのだろう。 そんな台所スペースで、ハコザキ君は鍋で湯を沸かしていた。やかんは無い。小鍋とでかい鍋とフライパン。それだけあるだけでも立派である。そんな小鍋で湯は湧かすらしい。「…俺にも一杯くれ…」 ふとんの中でずるずるとスウェットの下を履いたのだろうか、兄貴はベッドからずるずると降りて床にべたん、と腰を下ろした。「何がいい? コーヒー? お茶?」 どうやらその二種類しかないらしい。コーヒー、と兄貴は言った。一緒でいいよ、と私も答えた。シンク下の扉を開けると、ハコザキ君はお中元かお歳暮でもらったギフトのような箱の中から、一人用のコーヒーパックを三つ出した。「珍しいものがあるじゃない」「…ああ、家にあったから持ってきたんだ」 ハコザキ君はさらりと答える。何処の「家」なのだろう。「ハコザキ君、東京育ち?」「こいつはそうだよ…」 面倒くさそうに兄貴は答える。「のよりさんも?」「お前何しに来たんだよ」 兄貴は髪の間からじろ、と視線を飛ばす。相変わらず目つきの悪い男だ。「そりゃあ、またか、と思ってね」
2006.01.12
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「で、ミサキさんは今日はどうすんの?」「あたし?」 さて。どうしようかな、と首をかしげた。特に何をしようという気も無い。「まあちょっと買い出しに出かけようかな」「それだけ?」「兄貴の様子でも見に行こうかな」「様子? でもおにーさんにも彼女とか居るんじゃないの?」 うーむ、と私は腕を組んだ。果たして「彼女」なのか。そのあたりが今は少し気に掛かっているのだ。本当に「そう」なのか。「うん、居るのかもしれないけれど、まあそれはそれとして。居たら冷やかしに」「悪趣味ー」「そうゆうのができるのが、きょうだいの特権なんだよ」「へーえ」 心底不思議そうに彼女は目を丸くした。今までのつきあいの中で、きょうだいに関する話も出てきたことはない。私が兄貴に関して話すと、いちいち驚いてみせるところを見ると、彼女は一人っ子らしい。一人っ子がよく東京で一人暮らしをさせてもらえたなあ、と当初は思ったものだ。 私が東京に出られたのも、ひとえに兄貴が居たからだ。彼は別に両親に対してどうこうしている訳ではない。正直、勘当状態と言ってもいい。だが私が放任されているのは、彼という存在があるからだ。 長男である彼は、とにかく居るだけで、私の自由をくれた。それと同時に、確実に、はじめから、私の何かを奪っていた訳だが。 まあそれはともかく、私が東京に就職を決めた時に、母親に言ったこの言葉は効果的だったはずだ。「兄貴を探すからね」 彼は居場所を全く実家に教えなかった。そのまま七年その調子で居れば、失踪者として死亡届が出せそうなくらいに、見事に姿をくらましていた。 まあそれは親の目から見て、だ。私からしたら、網の張り場所は予想できたのだが。人を雇ってまで探す気はなかったのだから当然だろう。その程度には、「いつか帰ってくる」という気持ちが両親にはあったのだろう。ふうん、と私はその様子を見て思ったものだ。ふうん。「おにーさんはでも、よく彼女を変えてるんじゃない?」「どうして?」「や、そんな感じがしたから」 彼女はオレンジを刺す。「好きもの?」「ってゆーか、切ないギターだし」 へえ、と私は残ったミルクに濃い紅茶を注いだ。「ミサキさんも何か楽器やればいいのに。暇つぶしできるよ」「ざーんねんながら、その才能は無いの」「そぉ?」「そうなの」 そうなのだ。どうやら神様は、私達きょうだいの遺伝子から、音楽の才能という奴をすっぱり分けてしまったらしい。まあそれは他の部分にも言えることだ。私にはたやすくできるデスクワークという奴が彼にはできない。長時間集中することができる、という能力は共通しているのだが、その方向が全く違っているのだ。 両親の遺伝子の、どのあたりを私達はこうやって分割してしまったのだろう? 親父も母親も、若い頃のことは全く知らない。もしかしたら音楽をやっていたことがあったのかもしれない。もしかしたら、結構遊んでいたのかもしれない。だけど彼等は言ったことが無い。聞いたことも無い。「小さい頃、ピアノとかオルガンとか習わされたりするじゃない。ああゆう奴、どうしても駄目でね」「おにーさんは?」「奴は『男の子』だったからね。そういうのは強制されなかったの」「男の子だから、駄目なの?」「ウチの母親は、割と子供をこう育てたい、という型があったみたいでね。あたしは小学校に上がったあたりで、オルガンやらない? ピアノ習いたくない? とか言われたのよね」「習ったの?」「一応ね。一年くらい。だけど駄目だったなあ。ピアノの先生が、いつも困った顔してたし」 何が駄目だったか、と言っても一口では言えない。無論聞く音楽、歌う音楽は好きだったに違いない。今の今まで。ただ、それと実際に楽器を演奏する、というのは別だ。指が全く動かなかった訳ではない。そういう手先の部分は私は結構小器用にこなしていた。では何が、と言えば。「ピアノの先生が言ったのよね。何か困る、って」「困る?」「教えにくかったみたいよ」「どういうこと?」 私は彼女のカップにも紅茶を注いだ。「ああゆうのは、ちゃんとこうやってああやって、って習うにも手順があるみたいなんだって。だけどあたしはどんどん先に先に進んで行こうとしちゃうから」「扱いが困った?」「らしいね」 それは今でもそうだ。ただ今は、それをある程度自覚しているから、何とか済んでいるだけ。 会社の新人研修の時なんかそうだった。困ったことに、渡されたマニュアルは、実に薄かったのだ。いや、無論それだけではないことは判る。ただ、そこに書かれていることはそこに書かれていることであり、それを読んでしまうことは、実にたやすい。ついでに言うなら、私は速読という奴ができる。学生時代はそれがずいぶん役に立った。 だがそれを会社というところで下手に使うと。先輩OLは、自分が予想した時間よりはるかに早く目を通してしまった私に対して、不審の目を向けた。あ、これはやばい、と私は思った。慌ててすいませんここ飛ばしてました、と言って、結局同じ文章を三回くらい繰り返して読んでたことを覚えている。 ああ面倒だ。「だからそれはそれでいいんだけど、そういうタイプの子だから、じっくりと音楽に取り組むのは無理だろう、ということを母親に言ったらしいのね」「そうかなあ。単に人に習うのが上手くないだけじゃないの?」「あたしもそう思うよ。今ならね。だけどガキの頃じゃあそんなこと、判る訳がないじゃない」 どうやら人に習う方が自分で問題も解き方も探して行くことよりも楽だと思う人が多数派だなんて。「でもさー、それだったらあたしはミサキさんの方に近いと思うよ」「ふうん?」 にやり、と私は笑った。「だってさー、中学の時にさ、よくあたしも先生に変な質問して嫌われたもん」「変な質問?」「何で電流が流れるんですか、とか」「それが変?」「電流って電気が流れる、ってことじゃん。流れるものをまたわざわざ流れるって言うのって変じゃん。何でそういうんですか、って聞いたら、怒ってそれはそういうものだ、って言われたよ」「…それはそーだろ」「でもあたしには変だったんだもん。何かむずむずしたのよね。コトバ的に」 でもその気持ちはすごくよく判る。「そこで、その先生が、せめて『それは言葉としては変だが、昔そう決められてしまったものなんだ』とか言ってくれてたらね、納得したと思うんだけど」「そこで怒ったのが嫌だったんだ」 そ、と彼女はうなづき、カップを手にした。その気持ちは良く判る。そこで彼女が問いたかったのは、ただ単に言葉のことだけではないのだ。「そういうものが多いんだよね。結局。何か良く判らないけれど、そう決まってる、ってこと。じゃあどーしてそれがそうなってる、って聞くと、答えられないから怒る訳でさ。判らないなら判らないって言えばいいのに。そーしたら信用できるのにさ」「仕方ないよね。先生って立場からそんなことは言えなかったでしょうに」「でも人間として信用できない人の言葉って、なかなか覚えることができないよね。あたしそれから理科駄目になったもん」 極端な奴だ。
2006.01.11
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「…おはよー…」 かすれた声が耳元でした。おはよ、と私は返す。短い髪をぐちゃぐちゃに乱したサラダの顔が、間近にあった。ああそうだ、昨夜は泊まっていったんだっけ。 ベッド生活で、客用のふとんなんて無いから、彼女が食事したついでに泊まっていく時にはどうしてもそういうことになる。季節が季節だから、まあ悪いものではない。人の体温というものは、心地よいものだ。彼女はふとん生活者だ。起きるとそのふとんを丸めて、カバーを掛けてソファ代わりにしている。そしてやっぱり客用ふとんは無い。逆に私が彼女の所に泊まると、時々私はふとんからはみ出ている。 ベッドの時には高さがあるんだ、という意識があるのだろうか、彼女の寝相は大人しい。ただ問題は一つある。 私は実は少し前から目覚めている。だが身体を起こすことができない。抱きつかれているので、動けないのだ。彼女のくせだった。 ごめんごめん、と当初は言った。だが言ったところで、眠っている時のくせというものを変える訳にはいかない。まあいいか、と妥協したのは私の方だった。実際、抱きつかれているのはそう悪い感触ではない。女の子の身体はほわほわとして柔らかい。重いと言ったところで、男のそれとは違う。 たださすがに、あんたは男にもそんなことをしているのか、と言ったことはある。するとこう答えた。「人によるよー」 私はその時にはさすがに首をかしげた。すると彼女は面倒くさそうに答えた。「しつっこい人は、きらい」 サラダはそれ以上は言わなかった。なるほど、そういう意味では、私はしつこさとは縁が無い。だいたいそういう仲ではないのだ。 んー、とようやく腕を解くと、彼女は大きくのびをする。短いTシャツとショーツの間から、へそがのぞいた。 私もようやくベッドから降りる。既に頭は覚めている。 時計は十時半を指していた。昨夜はあれからずるずるとTVを見たり、他愛も無い話をして、気が付くと日付変更線を過ぎていた。そのうちに彼女がうとうととしだしたので、ベッドにうながした。シャワーを浴びて戻ると、既に彼女は夢の中だった。 チン、とオーブントースターのタイマーが鳴る。問答無用でこんな朝はチーズトーストだった。ケチャップをたくさんつけているので、ピザトーストと言ってもおかしくはないくらいだ。ある時には、ピーマンやオニオンの薄切りや、ハムやベーコンの切れっ端も載せる。「あたしさー、ここのケチャップ好き」 昨日の食卓の続きで、布を掛けたままのテーブルに、大きなトレイを置く。トーストはそこに無造作に置く。三枚のトーストを半分に切った奴を、私達は適当に取って食べた。トーストは焼きたてがいい。さく、というあの感触がたまらないのだ。「何かさあ、ガーリックずいぶん効いてない?」「効いてるよ。うちの母親が作った奴だから」「へー、ケチャップって作れるんだ」「何かねえ、町の婦人会か何かで、そういうのやるのもあるんだって」「婦人会、ねえ」 さくさくさく。口の回りをケチャップだらけにして、彼女は3/2枚目に手を出した。「町内会みたいな奴、よねえ」「ご町内の公民館活動って奴かなー。あたしもよくは知らないんだけど、あのひとはよくそのテの活動に顔出してたから」「ふーん、活動的なんだあ」「暇なのよ」 さく。そしてミルクを一口。「うちのおかーさんはそういうことはしなかったなー」「へーえ?」 珍しい。彼女が自分の母親のことを口にするのは。私はつとめてさりげなく疑問符を投げかける。「手が荒れるよーなことは嫌いだった人なんだよねー」「ふうん? 何か優雅じゃない」「優雅、って言うのかなー、ああゆうの」 肩をすくめる。あ、もうこれ以上話す気はないな。「あ、もう一枚もらっていい?」「あんたよく食うねえ」 4/2枚目に手を出そうとしている。まあいいよ、と私は答えた。こんなものは作るのは別に手間はいらないし、私はそんなに沢山は食べない。「何、今日は彼氏と会う日だっけ」「うん」 だから気合い入れなくちゃ、とごはんを食べるらしい。これから戻って、お風呂に入って、ちゃんとメイクして服も選んで、午後の約束があるのだという。「何、あんた今の彼氏ってどんな奴?」「どんな、って。ミサキさんどうゆう人だと思う?」「…って」 予想がつかない。「前のユウスケ君は、確かバイトの大学生だったよね、割と軽い感じの。で、その前のエグチ君は夜はクラブ通いして昼は結構肉体系のバイトのフリーターで」「どーしてそういうことばかり覚えてるのかなー。ユウスケは細身で目が鋭い奴だった、とかエグチは背が高くて濃い顔してた、とか、そういうことは覚えてくれないのにさー」「だって、あたしとあんたじゃ好みが違うんだもの。仕方ないじゃない。あたしはあーんまり濃い顔とか好きじゃないから、目と頭が覚えようとしなかったのかもしれないよ」「ふうん。でもあたしミサキさんの好みって知らないもん。ミサキさんの好みってどんな奴なの?」「あたしの好み?」 はて。そう言えば。私は天井を見上げる。「そんなものあったかなあ」「って、自分のことでしょ」「自分のことだって、判らないものは判らないのよ」 私は乱切りにしたバナナをフォークでつく。その時となりのオレンジにも傷をつけたらしく、ほんの少し香りが飛んだ。普段はまるごと一つの果物しか摂らないけれど、人が居る時にはフルーツサラダ。「変なの。だってつきあったことのあるひとは居るって言ったじゃない」 そう言えば言った気もする。「別に好みだからつきあった、って訳じゃないわよ」「って変なの。だいたい好みだから、とかそうゆうんじゃないの? ミサキさん結構ガード固いしい」「ガード、固いかなあ?」「固いよお。ってゆーか、面倒だと思ってない?」「あんたねえ」 図星だ。苦笑する。だから時々困るのだ。見てるようで、この女は良く見てるのだ。彼女はぱっと手を広げた。「それじゃあ人生華が無いよお」「華、ですかね」 思わず私は吹き出した。いきなり何か古風な。開いた手を今度は拳にして彼女は力説する。「笑い事じゃあないよぉ。短い人生なんだから、楽しまなくちゃ」「あたしは別にそういうことにあんまり楽しみって感じないもん。それこそ日々をつつがなく暮らすのに精一杯だよ? ほら、欠食児童に餌付けするとか」「あたしは児童か! ふうん? まあミサキさんがそうゆうことなくても楽しいなら、別にあたしの知ったことじゃーないけどさ」 全くだ。
2006.01.10
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割と小柄なハコザキ君は、マイクを手でもてあそぶようにしながら、叫ぶでもなく、気取るでもなく、ただふわふわと歌っていた。 決して上手い、という歌ではなかった。ただ、変に絡みつくような感触があった。 着ているものも、普段着の延長のようなチェックのシャツと、黒の革パン。それ以外何の装飾も無い。髪は短い。と言うか、伸びかけ。染めても色を抜いてもいない。一体何処から連れてきたんだ、という普通の男の子だった。 実際その「普通の男の子」はまだ何処かぎこちなかった。歌っている時だけはのびのびしているけれど、歌が終わってしまうと、どうこの空間を扱っていいのか、戸惑っていた。所在なげに、他のメンバーに目で助けを求めたり、意味も無く笑おうとしていた。私はそれに気付いた時、思わず苦笑した。 素人に毛が生えた程度、と言ってもいい。 ただ、一度だけ、どき、とする瞬間があった。 今日はこれが最後です、とハコザキ君が言って始めた曲は、激しい曲だった。この日彼等が演奏したのは八曲だったが、その中で一番激しい曲だった。兄貴もここぞとばかりにばりばりに手を細かく動かしていた。 オズさんはあちらにこちらに手を忙しく動かしていたし、ベースはベースでリズム隊、というのはやや違った音の動かし方をしていた。 その上でハコザキ君は漂っていた。 そんな激しい曲の中で、身体をゆったりと揺らせていた。首をゆっくりと回した時、汗ばんだうなじが視界に入ってくる。そして少しだけ前に落ちかけた髪を指で煩そうにかき上げた時。 ほんの少しだけ、笑った。 どき、と心臓が飛び跳ねた。 一瞬なのだ。ほんの一瞬。 その瞬間だけ、ハコザキ君は「普通の男の子」ではなかった。確信犯の、正気の目をしていた。 どうしてそう感じたのかは、判らない。ただ、その表情に気付いてしまった時、彼の声と彼の動きと彼の言葉はいきなり私の中でかちりと音を立ててはまった。 気が付くと、前の方に寄っている女の子達は、そんな彼の方を見てじっと立ちすくんでいる。それまではずっと踊っているかのようだったのに。 なるほど、と私は思った。 終演後、私は再び楽屋と通じる扉から手招きするオズさんに呼ばれた。その時もまた視線を感じたので、ちら、と振り向くと、汗びっしょりになった女の子達が、こちらを見ていた。見ながら、ぼそぼそ、と何か友達同士で喋っていた。 ああ、そうか。 羨望の視線、という奴だ。彼女達はどんなに好きでも、オズさんに手招きはされないだろう。私は別にファンでも何でもないのに。後ろで冷静に様子を見ていただけだというのに。 どうしてこっちはこんなに好きなのに。 そんな気持ちが、ちょっとした視線の中に含まれている。努力ではどうにもならないもどかしさ。私は良く知っているのだけど。 でもそんなことにいちいち同情してはいられないので、そのままさっさと楽屋へつながる扉をくぐり抜けた。 楽屋の前まで行くと、小柄な女の子がぺこり、と私に向かって軽く頭を下げた。場違いだなあ、と私は思った。 普段着も普段着、どちらかというとホームウエアという奴に近い恰好で、彼女は立っていた。コットンのTシャツに、チェックのジャンパースカート。素足にサンダル。ナチュラルメイクにセミロングの髪。 何処の若奥さんだ、という恰好が、逆にこの場所では生々しかった。誰の彼女だろう、と私はすぐに考えついた。「あ、のよりちゃん、紹介するよ。こちら美咲ちゃん。ケンショーの妹さん」「ああ!」 そう言えば、と言いたそうに「のより」さんは胸の前で手を叩いた。「美人だからそうじゃないか、って思ってたんです」 私はそれを聞いて思わず顔を歪めた。美人と言われるのは嬉しいが、何でそこで「妹」が浮かぶのだ、と。とりあえず初めまして、とか何とか挨拶をしておくが、どう話を続けていいものか、私は迷った。するとさすがオズさんだ。すぐに助け船を出してくれた。「あ、美咲ちゃん、こっちはのよりちゃん。ウチのヴォーカルのハコザキの彼女」「彼女って、やだあ」「だってそうでしょ」「くされ縁って言うんですよお」 にこやかに彼女は言いながら、オズさんの背中をはたく。私はそんな彼女の声を聞きながら、あれ、と思う。何か何処かで聞いたことがあるような。「ステージ、見てましたよ。ハコザキさん、人気ありますねー」 あたりさわりの無いことを言っておく。「ちょっと私としては困りものですけどねえ」 ふふ、と彼女は笑う。「困りもの?」「だって、やっぱり面白くないじゃないですか、『彼女』としては」「何だよ、さっきはくされ縁って言ってたじゃないか」「言葉の綾ですよお」 再びばん、と彼女はオズさんの背をはたく。「まーさーか、あいつがバンドのヴォーカルなんかするって思ってなかったんですもの」「…そういうものですか?」 そうよ、とのよりさんはうなづいた。「二ヶ月くらい前に、いきなり『俺ヴォーカルやらないかって誘われちゃった』ですもん。私どう言ったものかっと思っちゃったわ」 はあ、と私はうなづいた。そういうものか。だとしたら、彼のあの「普通の男の子」ぶりは実によく判るというものだ。 だがそれと同時に、あの一瞬は。 のよりさんは、それを知っているのだろうか、とその時私は思った。「のよりさんは、ステージを見たことは?」 彼女は首を横に振った。「何か、あのフロアの雰囲気が駄目なのよね。だから終わるまで引っ込んでいるんだけど。来ない時もあるわ」「薄情なんだよなー」 いつの間にか、「普通の男の子」がそこには居た。のよりさんの背後からそっと忍び寄ると、声と同時に彼女を後ろから抱きしめる。彼女はそんな彼の手をぺち、とはたくと、何をやってるんだか、とつぶやいた。「ほら薄情だよなー」 そう言いつつ手を離さないこのひとは、彼女と頭半分と変わらない身長しかなかった。下手すると私より小さいのではないか、とまで思えたくらいだ。 甘えたがりのようで、幾ら彼女につれなくされようが、べたべたとくっついたままだった。彼女もいつものことだ、とつれないままにも、別に振り解こうとはしなかった。 何となく、いいなあ、と思った。 何故そう思ったのか、は判らない。私自身にそういうことは滅多に無かったからかもしれない。付き合っていた彼は、私に向かって甘えるようなことはなかった。私自身もそういうことはなかった。最初の付き合いが「友達」だったせいかもしれない。私が甘い関係を嫌いなのだ、と彼は思っていたのかもしれない。今になってみては判らない。 …望んでいたのだろうか?
2006.01.09
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私がハコザキ君とその彼女ののよりさんに会ったのは、去年の夏だった。それは同時に、私がRINGERというバンドと出会ったことでもある。 正直、兄貴を捜し当ててからも、彼等の音にはさして興味がなかった。彼と私は昔から好きな音楽も違っていた。お互いの部屋から流れてくる音はいつも違っていた。扉は閉ざされていた。 私は兄貴の弾くようなうるさいギターの音は好きではなかった。彼は彼で、中学時代私がよく聞いていたFMで流れていた音楽に、何でこんなのが売れるんだろう、と首をかしげていたものだ。もっとも彼は、それが何で売れるのか、は割合簡単に答を出したものだったが。 だから彼のバンドであるRINGERに関しても、正直、食わず嫌いのようなところがあった。きっとギターの音がばりばりに入って、ドラムがどこどこ言ってる、メロディなんて何処の世界、というな音楽をやっていると思ったのだ。 ところが、だ。 ドラムスのオズさんにある日呼び出された。「ACID-JAM」に来て欲しい、と。私は何だろうな、と思いながら、仕事帰りに地下鉄で幾つかの場所にあるそのライヴハウスに向かった。ライヴハウスは初めてだった。 故郷で私が行くライヴ/コンサートと言えば、たいがいがホール・クラスのものだった。私の故郷はある程度の「地方都市」だったので、それなりのアーティストがやってくる。 私はその中でも、2~3000人クラスのホールや、体育館クラスのアーティストのコンサートにしか行ったことがなかった。そのくらいの価値があるものではないと、見に行っても仕方がない、と思っていた。親から出る小遣いで見に行った訳ではない。バイト代で見に行ったのだ。 友人の中には、「お母さんお願い♪」とコンサート代を捻出させた、と嬉々として言っていた奴も居たが、それは何か違う、と私は思っていた。 いや、その時一番楽しい時間を過ごしたい、だからそのために行動する、というのは正しいと思う。だけど、親からもらう金で、手放しで遊ぶことができるか、というと。私にはできない。意識の問題だ。私にはできなかった。どこかで負い目のようなものを感じてしまう。 小遣いは、子供の頃から多くはなかった。というか、決まった小遣いは無かった。中学時代までそうだった。必要だったらその必要の旨を告げてもらう、という感じだった。決して貧乏、という訳ではない。言ったら言った分だけはくれた。私の母親は、そのあたりはきっちりしていたのだ。 おそらく友達と遊ぶお金が欲しい、と正直に言えば、彼女はそのための資金をくれたろう。「遊ぶこと」それが私にとって必要だ、ということが彼女には理解できただろうから。彼女は理解しようと努めただろうから。 だが私にしてみれば、そうなってしまうと妙に言えなかったのだ。必要以上のお小遣いをもらうことはできなかった。親が稼いだ金なのだ。一応夜遅くまで働く父親の姿は知っているだけに、本を買うから、このCDが欲しいから、そんな自分の快楽のための理由を言うのが嫌だったのだ。 いや、もう一つある。母親にその理由を言って、自分の好みが彼女に暴かれるのが嫌だった、というのもある。私は別に母親を嫌いではなかったが、妙に気を許せない存在だったような気がしている。隙あらば私のことを全て把握しようとしているような、そんな視線を感じていた。今は離れているからまだいいが、一緒に居ると息詰まるような感触を覚えるのは確かだ。 だから高校に入ったら、バイトを始めた。たくさんは要らなかったから、週末だけの短いものだった。 うちの学校はバイトが自由だった。成績のレベルが市内でも高かったせいかもしれない。学校が生徒を信用していた、と好意的に私はとっている。まあシビアに読めば、それで下がるような成績だったら居る資格が無いぞ、ということでもあったが。 だいたい月に2万くらいだったろうか。夏休みにはもう少し集中的にやって、貯めた時もあった。 そうしてようやく、私は自分のためにお金を使う、という行動を覚えた。あれは学習が必要なのだ。ショッピングにしても、服や雑貨を選ぶのも、本やCDを選ぶのも。 兄貴は。彼は私が中学に入る頃には、当時としては立派にはみ出した存在となっていた。ただ彼の偉いところは、音楽に関する資金は、学校には殆ど行かなかったが、ちゃんとバイトで捻出していたということだ。 ギターもアンプも、その他もろもろのバンドに関するものは、自分の身体で稼いだ金で手に入れていた。そういう所が私達は妙に似ている。そして似ていると思ったら、少しばかり嫌な感じがした。 初めて足を踏み入れたライヴハウスは、ひどく狭苦しいところだった。入った瞬間、あちこちで吸われている煙草のにおいが鼻についた。 オズさんは楽屋に通じる扉から手招きすると、後ろの方で見ておいで、と言った。このひとは最初に会った時から親切だった。兄貴と一番付き合いが長いメンバーだというのだから、全くもってよく出来た人だ。感心する。 「後ろの方」に回ろうとして、何となく私は周囲の視線を感じた。だが当初それが何なのか、私にはよく判らなかった。 カウンターでウーロン茶を買って、ちびちびと呑みながらライヴの始まるのを待っていた。退屈だった。知り合いも居ない。かと言ってそこでわざわざ喋る相手を作ろうという性格ではなかったし、流れている音楽は私の趣味ではない。 打ちっ放しのコンクリートの壁は、湿ったにおいがしたし、エアコンも効きすぎで、半分むき出しの腕は少し鳥肌が立っていたくらいだ。 やがてフロアが暗くなり、ステージに人の気配がし始めた。近くに居た女の子達が移動する気配があった。私はそのままぼうっとステージを眺めていた。兄貴と違って私の目はいい。勉強や仕事で酷使してると思うのだが、よほど目の回りの筋肉が強いのか、視力が落ちる気配はない。 暗いステージの上に目を凝らすと、右側に、見覚えのある金髪が居た。相変わらず悪趣味な恰好だ、と思った。 やがて、フロアからの一人の声を皮切りに、メンバーの名が次々に呼ばれ出した。ハコザキーっ。オズさーん。マドノさーん。ケンショーっ。 ケンショー? 私は眉を寄せた。誰だそいつは。ステージには四人。ハコザキ君がヴォーカル、オズさんがドラムスということは知っていた。マドノさん。ああそうか、とこの間オズさんから「円野さん」という人を紹介されたことを思い出した。 と同時に、私は兄貴の名前が憲章、だったことをやっと思い出した。 一致しなかった。私にとって兄貴はノリアキ、なのだ。憲章だから音読みでケンショー、なのは確かなんだが、少なくとも私はそんな名で呼んだことは一度たりとてなかった。オズさんも私には、加納が加納が、と名字で彼のことを呼んでいた。なるほどノリアキ、だと何処かのお笑い芸人の様だ。ケンショーねえ。私は眉を片方だけ上げて、ストラップの調子を確かめている兄貴を眺めていた。 やがてライトが点いて、ドラムスティックが幾つか鳴った。 前方でゆさゆさと女の子達が揺れ出す。おや。 その時の私の表情は、結構鳩豆だったかもしれない。あらあらあら? ポップではないの。 思った以上に、兄貴のギターは大人しかったのだ。 それはもちろん、私がよく聞くようなポップスの「大人しい」とは違う。そういうのと比べれば、格段にうるさい。だが、彼がよく聞いていた音楽に比べれば、ずいぶん静かだった。 と言うか、「歌もの」だった。
2006.01.08
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戻ってくる気はないのか、と友達は訊ねた。私は無理だ、とその友達に言った。そうだろう、と友達は言った。そしてこう付け加えた。奴はあんたのこと、まだ好きなようだ、と。私は仕方ない、という意味のことを言った。友達は低い声で言った。あんたは冷たい女だね。 そう言われても、困る。困るのだ。 確かに私が彼の前で見せていた私の姿は、彼が望むものに近かったかもしれないが、私が実際にそういう人間であるか、というのは別なのだ。見せていた私が悪いと言ってしまえばそれまでだが、普通誰だって、相手によって対応は変わるものではないのか? そこで文句を付けられても困るのだ。 そしてそういうのが恋愛というものに含まれるのが普通、だというのなら、私にとってそれは面倒なものだ。無くて済むのなら、無くてもいい。 だいたい毎日、それどころではなく忙しいのだ。仕事もだが、それ以外にしても。「ハコザキ君の彼女、ってどういうひと?」 食器洗いが一段落したらしく、彼女は水道を止めた。「どういうひとって」「んー。ミサキさんから見てどういうひとかなあ、って」「…や、あたしも大して会ったことがある訳ではないけど」 それに。 正直、その二人が本当にちゃんと続いているのか、…私には断言ができない。 と言うよりも。「うん、可愛いひとだよ」「へえ」「ハコザキ君自体が、そんなに背が高い方じゃないけどさ、少しそれより小さいくらいだから、可愛らしいカップルだなあ、って思ったことがあるけど」「確かに小柄と言えば小柄だよね。でも声とか大きかったよね」「まーね。兄貴の奴は声にはうるさいから」 違う。「声には?」「そ。奴はねー、ろくでなしだけど、音楽だけには厳しいから」 そう言いながら、違う、と私は自分につぶやいた。 声だけじゃないのだ。 サラダを連れていったライヴの日、私は兄貴に少しばかりの用事があったので、終演後、会いに行った。 彼には私が寄って行くということは言っていなかった。ハコザキ君のために、私のクローゼットからブラウスを貸していたので、それを引き取りに行ったのである。 ハコザキ君の彼女の「のより」さんは、彼より小柄なので、ブラウスのサイズは合わない。私は学生時代ずっと運動系の部活をやっていたので、筋肉と肩幅が発達している。女物のブラウスとは言え、男の彼が着ることができるサイズとなっていたのだ。 貸すのは構わなかったけれど、ちゃんとクリーニングして返してくれるのかまで保証はない。だったら自分で引き取って洗濯した方がいい。 廊下で楽器ケースを運んでいた、ドラムスのオズさんに出会って、兄貴の居場所を訊ねたら、まだ着替え中だ、と控え室を指さした。じゃあちょうどいい、と私は控え室に向かった。 ノックをしようとしたら、扉の隙間から薄暗い廊下に光が洩れていた。着替えするのに不用心だよなあ、と思いながら、そっと私は中をのぞき込んだ。 そして数回、瞬きをした。 私のブラウスを着た誰かが、兄貴に抱きしめられていた。 それがどういう意味なのか、すぐには理解できなかった。 抱きしめられているだけではない。ギターを弾く長い指が、そのブラウスの襟元から胸に入り込んでいる。悪趣味な長い金髪が、むき出しになった誰かの、汗ばんだ首筋に張り付いている。 その首筋が、動く。顔がこちらを向く。 約二分、私は硬直していた。私のブラウスを着ているのが誰なのか、その時ようやく思い出したのだ。ちょっと待て。 代々のヴォーカルが、兄貴と付き合いがあったことは、私も知っていた。それはよくあることだ、と思っていた。ただ、それまでの代々のヴォーカルは女であることが多かったのだ。それもどれも何処かよく似た声の。 そう言えば、不思議なことに、兄貴には外見の好みというのが存在していなかった。代々のヴォーカルの女達も、何処に共通点があるんだ、というくらい、顔もスタイルも違っていた。 「呉尾ちゃん」はトランジスタ・グラマーだったし、「入江さん」は言っては何だが、幼児体型だった。「とおこさん」は醤油顔の化粧の上手いひとだったし、「藤江さん」はノーメイクのボーイッシュなひとだった。 なのに皆、声だけは何処か似ていて、そして兄貴と付き合っていた。 男がヴォーカルになった時もあったのだが、私はその時代はよく知らなかった。ハコザキ君が、私の知るRINGERの最初の男性ヴォーカルだったのだ。 …男性、だよね。その時私はその事実を思い出すのに時間がかかった。事実と認めた後が大変だった。扉をそっと閉じて、その事実の意味を何度も何度も頭の中で繰り返した。 私のブラウスを着ている誰かと兄貴はまたそういう関係にある+私のブラウスを着ているのはハコザキ君である=ハコザキ君は兄貴とそういう関係にある つまりはそういうことで。 ということは、兄貴は相手の性別を気にしない人だったということで。 …さすがに私もそれをきちんと把握した時、驚いた。驚いた、というより混乱した。何で、と思った。私のそれまでの世界に、「そういうこと」は存在しなかった。 いや、中学高校短大時代、何処かにあったことはあったのかもしれない。ただ私の視界には入って来なかったのだ。無関係の世界だった。意識すらしなかった。芸能関係でそういう話を聞いても、何処か風変わりなクラスメートがそういう内容のコミックを読んでいたとしても、それはあくまで自分とは関係無い、何処かの世界の出来事だ、と感じていた。 なのに。よりによって、兄貴が。 そしてその一方で、あいつならそれもありだな、という自分が居ることにびっくりしていた。外見を気にしない兄貴のことだから、性別も関係ないのかもしれない。 兄貴は結構な近眼で、小さな頃からそれを平気で通してきた。彼の視界はいつも不鮮明なのだ。見たいと思うもののためにしか、眼鏡を掛けようとはしない。傲慢な奴だ。 だから音や声の方に敏感になったのだ、と彼から聞いたことがある。顔や姿は化粧や服でごまかせるけど、声はごまかしが聞かない、とも聞いたことがある。実際、そうでなければ、「とおこさん」と「藤江さん」をどちらも同じくらいに好きになれる彼の感覚というのは理解できない。「とおこさん」は付けている化粧品のにおいが半径五メートル以内に入ると判るような人だったし、「藤江さん」は普段でもシャンプーリンスは嫌いでせっけん一つで全てを洗ってしまうような人だ、と聞いたことがある。 だから何だろう。彼にとっては、胸のあるなしも、下のあるなしも、大した問題ではないのかもしれない。かなり呆れたが、一晩寝て起きたら、それもありだよな、と考える自分が居た。 ブラウスはまだ返ってきていない。 …だけどそのことを、ハコザキ君の彼女ののよりさんは知っているのだろうか。私の疑問と懸念はそちらへと既に移っていた。
2006.01.07
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ちなみに私は、と言えば。勝率は50パーセントだ。…過去に二人好きになって、一人と付き合ったことがあるのを言うのなら。 ただし今は誰も居ない。故郷を出てくる時に、ケンカ別れして、それっきりだ。忙しい日々の中、思い出すこともなかったのだから、本当に好きだったのかも疑わしい。 正直、何をもって「付き合う」というのか、私にはよく判らないところがある。 短大の時のクラスメートの中には、その定義を「時間とSEXを共有する」とした子も居たが(もっともその子はそんな言葉で表現はしなかったが)、私は首をひねった。何故首をひねったのかは未だに判らない。 ただこれだけは言える。恋愛は苦手だ。クラスメートがよく口にする、別れたのくっついたの、浮気したのコンパで見つけようだの、はっきり言って、面倒くさい。けど口にしたことはない。 そう言ってしまえば、それこそクラスメートの間では、自転車にわざわざ乗ってきた子同様、同情と優越感と、そして一抹の不安を感じさせる視線で見られる。そんなことを私はつい読んでしまうからだ。 そう、優越感というのは確実にある。自転車の子に対しても、だいたい皆まずこう言うのだ、雨風の日には。「こんな日には大変よね」 すると自転車の子は首を傾げた。何故そう言われているのか判らないのだ。すると問う方も期待はずれで困った顔をする。問いかけた方は、心配を全くしていない訳ではないだろうが、そうだね大変だよ、という答えを期待しているのだ。 そう言われて安心するのだ。自分達の行動は正しいんだ、と。だが、彼女達の期待通りの答えはまず返って来ない。 自転車に乗って来る子にとって、雨も風も、下手すると台風も雪も、それは予想されていることだし、そんなこと承知で走っているのだ。確かに大変かもしれないが、言われる程のことではないのだ。本人に聞いたのだから間違いない。彼女はその時にはその時仕様の恰好と時間を用意していたし、台風になど巡り会った日には、追い風で馬鹿みたいに進む、とはしゃいでいたものだ。 ただ私は彼女と違って、そんな視線の意味をつい読んでしまうので、自分がその立場になることはできない。だから一応口は合わせてきた。それでも一応「付き合って」きた男は居たのだから。その誰かの定義の様に。 出会ったのは高校時代だった。ただ学校は違った。受験勉強のために、三年の夏、図書館の閲覧室をよく利用していたのだが、その時の場所取りの列で退屈だったので話をしたのがきっかけだった。 私と彼は話も合った。合ったからこそ、「付き合って」いたのだ。読む本とか、聞く音楽とか、映画とか、そんな話をとりとめなくしていた様な気がする。正直、私はそれだけで良かった。楽しかったのだ。 短大のクラスメートに対して、何処か壁を作っていたように、私は高校のクラスメートとも、何処か一線を置いていた。「友人」はだいたい他のクラスに居た。その方が気楽だった。クラスが違う子達は、だいたい話が合うから続くのである。 彼にはそんな友人達と同じような気楽さがあった。だから私の意識の中では、彼は長いこと、「男友達」だった。その位置を壊したのは彼だった。 その位置が壊れてからも、私達の付き合いは続いていた。ただ、私の中では彼の存在は分裂していた。どうして昼間の楽しい「友達」が、夜、面倒くさい「恋人」というものにならなくてはならないのか、いまいち理解できなかった。いや、理解したくなかった。 「友達」を無くすのが嫌だったから、「恋人」ともずるずると付き合っていた。だけどそれはいつか終わるだろう、と予感のある付き合いだった。 そしてその読みは当たっていた。いや、読みというよりは、私自身が終わらせた、と言った方が正しいのだろう。 私は地元の大学に進んだ彼が、そのまま地元の企業に就職したいタイプであることを知っていた。わざわざ口にしたことは無かったが、彼がそういうタイプであることは知っていた。兄貴とは逆だった。 大学でも単位を一つも落としてなかった。追試も受けなかった。もしその授業を一度も受けたことが無かったなら、ノートを借りまくり、コピーを取りまくり、絶対落とさないタイプだった。 兄貴だったら、本当に好きな科目だったら、自分の力だけでやって、たぶん落ちる。…いや、別に兄貴がどうということではないのだが、彼はそういうタイプだった、ということだ。 それはそれで、要領がいいということなのだろう。実際にはちゃんと授業には出ていた。ただ、そういうこともできただろう、と私は思うのだ。 何だろう。だから、実際には「どの部分」が嫌だ、ということではないのだ。ただぼんやりと、「何か違う」ということが、自分の胸の中にたまってきた。ただ私も私だったので、それを口にはしていなかった。言っても判らないだろう、と何となく感じていた。何だろう。言葉が通じない、という気持ちが私の中には確実にあったのだ。それはあきらめに近い。 それが一番決定的だったのが、別れた時だった。 短大の二年の夏、就職先が決まった、ということを彼に言ったら、彼は露骨に嫌な顔をした。何でそんな顔をするの、と私は訊ねた。リクルートスーツの私は、カフェで向かい側に座る彼に、首を傾げた。私にとってはめでたいことだった。めでたいに決まっている。いくら外面のいい私としても、それなりに努力というものをしたのだ。資料を集め、きちんとした恰好で、勉強も重ね、何社も何社も訪ねた。確たる目的もない「就職」というか「就社」は、不況のこの時代、短大卒はハンデだ。そう、私は就職に何の目的も持っていなかった。職が無いと食っていけない。だから職につく。それだけだった。この歳になって親に食わせてもらおうとは思っていなかった。それに、食わせてもらいたくもなかった。家を出たかった。だったら、いっそのこと。 だからそれでも彼におめでとうの一つも言ってもらいたかったのかもしれない。少しは期待していたのだろう。 だが彼の表情は期待通りにはならなかった。 問いただすと、彼の表情の理由は二つあった。一つは、彼に就職活動のことを言わなかったこと。もう一つは、その場所が東京だったこと。 東京だったら、反対していた、と彼は言った。私は何故、と訊ねた。お前俺ともう会わない気か、と彼は言った。私は答えに詰まった。どうしてそういう問いが来るのか、さっぱり判らなかったのだ。どう答えていいのか判らなかったので、黙っていた。彼が次に言う言葉で、対応を決めようと思った。そうしたら彼はこう言った。「もういいよ」 私はもっと困ってしまった。何を彼が言いたいのか、ますます判らなくなってしまったのだ。 だから仕方なく、それがどういう意味なのか、彼に訊ねた。別に会わない気はない。だけど会える時間が少なくなるのは確かだろう、と付け加えて。事実だった。 彼は悲しそうに首を横に振った。そして言った。「無理して俺に付き合わなくてもいいよ」 無理は。していた。それは知っていた。自分のことだ。だけど彼が私のことを好きなのも知っていたから、その手を振り解くことをしなかった。振り解く理由もなかった。 私はそうなの、と答えて、席を立った。そうする以外、私には浮かばなかった。 それで終わりだった。あっけない程、簡単に。 後になって、電話が来た彼の友達から話を聞いた。彼はどうやらずっと私に地元に残って欲しかったらしい。
2006.01.06
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「あー美味しかった」 両手を後ろについて、「ドルチェ」まで食べ尽くした彼女は満足そうに感想を述べた。「それはどうも。片付けは手伝ってよね」「もっちろん。それはあたしの得意だもんね」 料理自体はそう得意ではないのだ、と言う。いつもはバイト先で何かと食べてくるのだと。例えばコンビニの弁当、例えばファミレスのまかない飯。 確かに彼女の部屋のキッチンには、そう使われた跡は無い。コンロにしたところで、二口コンロが入るスペースがあるくせに、一口のものを入れているだけだ。 お茶やコーヒーはそれでもよく淹れるらしく、小さなボックスの中には、缶やらシュガーポットなどが行儀良く並べられていた。 ただ本人に言わせると、そう言った雑貨は、格別に店に行って高いものを買ってくる訳ではない。砂糖とクリーミーパウダーと茶の葉っぱが同じ金属の蓋つきの小瓶に入っているのだが、それなどリサイクルショップで、100円だった同じものがちょうど三つあったのだという。確かに少し外側のふたはさびているが、中の蓋は綺麗なものだし、逆にそのさびがいい感じを出していたりする。 確かゴミ箱もそういう経緯で買ったのだ、と聞いてもいる。普通の雑貨屋だったら千円くらいしそうなブリキの缶が、300円だった、と言っていた。 彼女の部屋を見渡すと、そんなものばかりだ。安く買ったものや、時には粗大ゴミの日に拾った棚などもある。だが散漫な印象は覚えない。よく見ると、「そんなもの」としても、彼女の確固たる趣味というものがあるらしい。拾った棚はペンキ塗りなどしてあったりもする。…そういう日には、西側の彼女の部屋からペンキの臭いが漂ってくるので困ったものだが。それでも白くなった棚は、上手く使い込んだように塗られていた。こういうのもテクニックというのだろうか。今度聞いてみよう。 そう、正直、私がキッチンのワゴンや玄関にタイルを貼ったりするのは、彼女の影響と言ってもいい。 入ったばかりの頃、殺風景だったこの部屋を、どうしたものかと思ったものだ。 実家の自分の部屋は、決して広くなかった。だから、その三倍近い広さの部屋が手に入った時、何処から手をつけていいものか判らなかったのだ。 ところが、だ。 サラダの部屋に通うようになって、私はそのたびに首を傾げた。来るたびに部屋はその表情を変えていた。 本当にまだ出会ったばかりの頃は、カーテンも無かった様な気がするのに、その翌週には、薄手だが、柔らかな色のカーテンが入っていたし、その翌週には、壁全面に生成の布が張り巡らされていた。こうすれば壁に色々飾れるじゃない、と彼女はその時言っていた。 賃貸マンションの悲しいところは、壁に穴など開けられないところだった。私はそれを知った時、壁が飾れないのか、と少しばかりがっかりしたのだが、彼女の部屋の壁を見たとき、なるほどと思ったものだ。で、私は布は貼らなかったが、代わりに大きなビンナップ・ボードを作ることにした。 一度「無ければ作ればいいじゃない」という発想に目覚めると人間は怖い。ああこれができるあれができる、と部屋のあちこちに目が行ってしまう。 そして引っ越してから一年近く経った今、私の部屋も彼女の部屋も、それぞれに思い思いの形を作っていた。 鼻歌混じりでシンクの前に立つ彼女は、ワゴンの上に洗った食器を一時的に置いている。タイル張りの利点は、水にも熱にも強い、ということだ。 しかしその鼻歌が。「…あんたいつその曲覚えたのよ」「こないだー」 あっさりと彼女は答える。「だってさー、覚えやすいサビだったしー、ボーカルの声が結構あたし好みだったしー」「あんたがそんな好みしてたなんて、あたしは知らなかったけどね」「えーっ? そぉ? また連れてってね、おにーさんのバンド」 背中を向けながら、そんなことを彼女は言う。「何って言ったっけ? えーと、リーガー?」「RINGER。鐘鳴らし」 へえ、と彼女は答える。こちらを向く気配はない。 昨日ではなく、その前の土曜日、ライヴハウスに彼女を連れて行った。私は滅多に行かないのだが、兄貴からチケットを押しつけられていたのだから仕方がない。 兄貴はRINGERというバンドでギターを弾いている。いや、自分がギターを弾くためのバンドを彼は作った、という方が正しいかもしれない。 中学高校と音楽にはまってはいたが、ここまで行くとはさすがに私は思っていなかった。何せ高校卒業と同時に、家を飛び出したのだ。 それから約四年、行方が知れなかった。当初は怒って焦った両親も、私が短大を卒業したあたりには、既に何も言わなくなっていた。 仕方ない、と思ったのかもしれない。 しかし私には仕方なくなんてなかった。だから東京に出たらすぐに彼を捜した。 音楽を、バンドをするために家を飛び出した訳だから、探す方向は限られてくる。彼が聞いていた音楽から、方向性は何となく判っていた。そこからだんだんと捜索の輪を縮めていったのだ。伊達に高校時代、学年で毎度ベスト5の成績を取っていた訳ではない。短大に行くと言ったら担任は嘆いたものだ。 そしてある春の日、ライヴハウスで突き止めた彼の部屋を訪ねた。驚いたことに、私の今のこの部屋とそう遠くなかった。 私がこの部屋を選んだのは、駅からそう遠くない距離と、家賃と広さの関係、それに日当たりだった。彼の部屋は、私より、サラダの部屋より小さい。1Kは1Kなのだが、マンションではなく、アパートの1Kなのだ。鉄筋ではなく鉄骨なのだ。隣の部屋の音が露骨に響いてくるような、気を付けないと、扉の木の端で棘をさしてしまうとか、開けたら部屋が丸見え、とか、六畳にそのままキッチンがくっついているような、そんな部屋だった。 さすがに彼は驚いた。もっとも私も驚いた。 私の記憶の中の彼も髪は長かったが、少なくとも腰まであるような男ではなかったはずだ。しかも金髪だ。悪趣味だ。 もう少し何とかしようがないのか、と思ったが、子供の頃から彼が私のいうことに本当の意味で耳を貸したことなんて無いので、言わなかった。代わりに言ったのは、こんな言葉だった。「何とかまだ生きてるじゃない」 私の本音だった。 死んでいて欲しい、と思ったことがある訳ではないが、ロクでもない生活をしているだろう、とは思っていた。たぶんそうしていて欲しい、と思っていた。「今のヴォーカルは確か、ハコザキ君って言ったかな」「ハコダテ君?」「ハコザキ君。どういう耳をしてるんだあんた」「彼女居るのかなあ?」「何よそれ」 その時ようやく彼女はくるりとこちらを向いた。皿とふきんがそれぞれ手にある。その皿とふきんを胸の前で抱えて、目線は天井を向く。「だって結構恰好よかったしー。声いい男って、あたし好きだよ」「残念でした。ハコザキ君には彼女が居ます」 私はへへへ、と笑って彼女に答える。本当に残念でした。この女は惚れっぽい。そしてそのたびにちゃんとアタックして、…勝率は30パーセントだという。
2006.01.05
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私がサラダと食事を時々するようになったのは、そう前のことではない。まだ一年も経っていない。 去年の春先に、私はこの街に越してきた。就職したためだ。 それまで住んでいたのは、地方都市、という名がぴったりのところだった。 私鉄は申し訳程度にしか通らない。同じ市内でも必要としない人が大半だ。公共交通機関と言えば、バスの方が強い。列車や駅と言えばJRのことを指す。 だから移動には自家用車を使い、大きな買い物、と言えば郊外のショッピングセンターに行き、高校の卒業間際には皆揃って免許を取りに自動車学校に通うような所なのだ。 私もこの例に漏れず、車の普通免許は持っていない訳ではない。結構要領がいい方だったので、仮免も本免もストレードでパスした。 だけど今は乗っていない。ここでは乗る必要が無いからだ。 ここは駅と言えば本当に最寄りの駅を、JRも私鉄も地下鉄も構わずに言い、車は駐車場スペースの高さで持つことができず、持っていたとしても決して有効に利用できるとは思えない所だ。 つまりここは「地方」都市ではない。 私の住むマンションも、歩いて7分程度で最寄りの駅に着くことができる。住みだした頃は、ぱっと見ただけでは判らない、いやじっくり見てもなかなか判らない、この色とりどりの列車のネットワークに頭がぐらぐらしたものだ。 まあ部屋の最寄りの線一本ならいい。だがこれが一度都心に出てしまうともうぐらぐらしてくる。 地上を歩いた方が速いのではないか、という距離に一体幾つの駅があるんだろう、と、迷った挙げ句、後で地図で確認して怒ったことも何度かある。 けど慣れてしまえば、この公共交通機関と徒歩、時には自転車を交えれば何処へでも行けるような環境が私は好きになっていた。 地方都市だと、少し遠くへ行こうと思ったら、確実に車が必要になる。遊びに行こうと言えば、それは車に乗って行くことと同義語だ。それが嫌だと言っても、多数派には叶わない。 大学の頃、時々そんな風潮に反抗するかの様に、少し遠くからでも、雨が降ろうが風が吹こうが自転車で通っていた強者が居た。 だが感心する顔の裏で、何やってるんだ馬鹿だなあ、という視線を確実に私は彼女の周囲に感じていた。私も思わなかった訳ではないのだ。 免許を持っていなかった訳ではないし、実家に乗ることができる車が無かった訳でもない。本人に言わせると、ただ好きだから、だそうで、別に車に乗る必然性を感じないからだ、ということだったが。実際雨の日も風の日も、それはそんなものだ、と教室に来る前にトイレで髪を直していたものだ。 そして乗っていたのも、別にマウンテンバイクだのスポーツ用だの、如何にもこれは特別な自転車です! と言いたげなものではなかった。家にあったのはこれだけだし~と、いつも黒いシティサイクルに乗っていた。シティサイクルと言えば聞こえはいいが、要は「ママチャリ」である。長距離を走るのにも、速く走るのにも決して適していない。 だけどいつもへらへら、とそれに乗って通していたような気がする。そんな彼女の様子に、私達はいつも居心地の悪いものを感じていたものだ。 おそらく彼女の言動の中には正しいものもあった。それが私達を苛立たせたのだと思う。正しいことはイコール楽なことではない。私達はつい楽なことを選びたがる。それが悪いとは言わないが。 話が逸れた。そんな地方都市に私は育った。そして出てきた。ようやく。 そして彼女―――サラダもまた、何処かの地方都市から出てきている。 本当は菜野、という名前だ。ひっくり返すと野菜。そこから転じてサラダ、らしい。誰がつけたのだかもう忘れた、と彼女は言う。そのくらい小さな頃から馴染んでいる名前なのだ、と。職業はフリーターで、私より二つ下だ。 私は地元の短大を出て就職したクチであるから、誕生日が来るまでは二十歳だ。彼女は既に十九になっている。成人式はどうするの、と聞いたが、帰るという言葉を聞いたことはない。 何のバイトをしているのかも知らない。仕事に出る時間も、朝早いこともあったり、夜遅くまでかかることもあった。 コンビニの店員をやってはいるらしいが、もう一つ二つ掛け持ちでやっているようなことも言っていた。けど何なのか、やっぱり判らない。部屋の中を見ても、予想がつかない。聞く必要も無いだろうので、それ以上追求したこともない。 ただ、土曜日の夜と日曜日を空けていることは確かだった。一番の稼ぎ時だとは思うのだが、そのあたりはポリシーなのだろうか。おかげでこうやって、一緒に食事をすることも多くなった。 最初に出会ったのは、まだ私がこの東南の角部屋に越してきて、一ヶ月くらい経った頃だった。ゴールデンウイークで少しだけ地元に行き、戻ってきたら、人が増えていた。 このマンションは、築二十年の決して新しくはない建物ではあるが、壁の塗り直しなど、見える所の改修は定期的にやっているらしい。外から見れば生クリームケーキのごとく、なかなか小綺麗だ。それでいて、最近建てられる物件とかに比べると、少しばかり間取りがゆったりしているのがいい所だ。無論多少古いから、シャワーがついていないとか、細々とした問題はあるが、実家にもついていた訳ではないので、私は格別問題にしていなかった。 それでも地方出身の私からしたら、何でこの家賃なの、と時々思う。二十三区内の1DKで7万だったらいい方だ、とは聞いている。でも地元でその値段だったら、3DKが楽々借りられる。早々と結婚した友人など、一軒家をそれ以下の値段で借りていたと思う。 ちなみにその1DKと、彼女の住む1Kでは、家賃が1万違う。彼女の部屋は、キッチンが3畳だ。 戻ってきてしばらくは、ああ人が増えたな、という印象だけだった。壁はそう薄くはないのだが、それでも人の居る気配、というものは判る。洩れ聞こえてくる音楽、テレビの音、窓を開ける音、風呂の水を流す音、そんなものが日常になる。 その日常が一ヶ月くらい続いた、ある風の強い朝、何か窓の外でばさばさと音がした。 何だろうと思ってベランダを見ると、シーツが落ちていた。まっ白なシーツだったが、真ん中あたりに、少しだけ落としきれない染みがあった。 隣から飛んできたのか、と思ってのぞき込んだ時、ショートカットの彼女と目が合った。彼女は私の手に握られているシーツを見て、大声を上げた。驚いた。 数分後、部屋のチャイムが威勢良く鳴った。彼女の手には、何故か赤いチェックのクッキーの缶があった。すいませんすいません、と呆然とする私の手からシーツを取ると、クッキーの缶を渡してすぐに扉を閉めた。 よく見ると、そのクッキーの缶は開封済みで、既に半分近く無くなっていた。私は思わず耳の後ろをひっかいた。 どうしようかな、とその時私は思った。どうしろと言うのだ、という気持ちがあったことも確かだ。缶は大きかった。クッキーを一人でぼりぼりと食いまくるという趣味は無い。 私は少し考えると、今度は彼女の部屋のチャイムを鳴らした。そして言った。「せっかくだからあなたのくれたクッキーでお茶でもどう?」 何でそんなこと言ってしまったのか、は未だに判らない。私は本来人見知りなのだ。外面がいいので、あまりそれがばれたことは無いのだが。 それ以来、彼女は時々私の部屋でお茶をしたり食事をとったりしていく。土曜の夜か、日曜の昼に。 今日は土曜の夜だった。
2006.01.04
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ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽん。 忙しなくチャイムが鳴る。 生成と淡いイエローのストライプのカーテンの隙間から少しだけ窓を開けて見ると、通路の蛍光灯の光の下に、短い髪が飛び跳ねていた。「遅ーい」 扉を開けると、あははは、と目を細めて彼女は私を見る。遅くはないわよ、と私はこの年下に抗議する。「あんたが速すぎるの、サラダ。さっきそっちに電話したばかりじゃない」「隣だもん。すぐじゃん。すぐ来たいじゃん。ミサキさんのごはん美味しいんだもん。好きだもん」 言いながら、彼女はもうサンダルを脱いでる。白とクリーム色の市松模様のタイルの上に、無造作なオレンジの花が咲く。 カラフルなオレンジだが、かかとは高くない。ぺたんこという奴だ。土台と同じ色の花が真ん中にどん、とついている。一つ間違えると悪趣味なのだけど、彼女に履かれている限り、そういう気はしない。 私はしゃがみこむと、そのサンダルを揃えた。何処で見つけてきたのだろう、といつも思う。春先に履くものではないけど、確かバイトに行くという彼女の足にも花は咲いていた。「ん~濃い香り~今日はイタリアンだよね?」「まーね。ああ、クロス広げておいて」 あいよっ、と威勢良く彼女は居間にしている六畳の方へと、勝手知ったる他人の家、という調子で入り込む。うちは1DKという奴だ。少し古いので、都心でも結構安く借りることができている。 ちなみに隣の彼女の部屋はワンルームという奴で、うちより少し小さい分だけ、少し家賃が安いらしい。フリーターの彼女はそれ以上は出せないらしい。一人暮らしの場合、家賃は給料の1/3というのが理想らしいが、本当に1/3なのか彼女に関しては判らない。 私は一応会社員という奴をやっているので、たとえそれがまだ入社一年目のペーペーだとしても、ボーナスはあるし、安定した経済状態と言えよう。もっとも、入社一年目ということは、一人暮らしも一年目だ、ということなのだが、安定した家計という訳ではないのだが。 入ってすぐの扉を開けるとキッチンがある。6畳分あるのだから、結構恵まれていると思う。古い分だけ、設備にはやや難があったけれど、そこは地道に改良を重ねていた。 何せ、やっと持てた「自分のキッチン」なのだ。そうせずに居られるだろうか。いや居られない(反語)。 実家のキッチンの設備が悪いという訳ではないが、あそこは母親の使いやすいように出来ているものであって、私のためのものではない。 普段の食事はキッチンの作業台を兼ねている白のタイル張りの小さなワゴンの上でしている。白木の小さな椅子は、最初の給料で買ったものだ。 東南の角部屋で、ちょうど台所には朝の日射しが入る。朝の日射しの中での朝食、というのは結構私のささやかな夢ではあった。だったらそれに似合ったテーブルを。でも余分な資金は無いから、とりあえず持ってきていたワゴンの上にベニヤ板を張って、その上にタイルを貼った。大人しい色が、朝の光の中では一番綺麗に見える。 だけど、人が来た時には別だ。 小さな座卓を広げて、その上に布を敷く。何だっていい。 彼女はやはり勝手にクロスを入れてある引き出しを開けると、その中から、赤白のチェックの一枚を取り出した。 ぱさっと広げると、黒い安物の座卓が、いきなり鮮やかになる。実家を出る時に持ってきた座卓は、安いだけが取り柄のものだった。重いものを乗せると足がきしむ。「赤に赤ってのも何かなあ」「いいじゃん、暖かそうで」 そう言いながら、私は大皿を一つ彼女に渡す。 アンティパストはにんじんの蒸し煮。簡単な割には、栄養もありそうだし。 だいたいイタリアンと言っても、難しく考えてはいけない。オリーブ油とにんにくを常備しておけば、「それらしい」ものは作ることができるのだ。ちなみに中華をするにはごま油としょうがだ。オイスターソースもあればなお上等だ。 これだって、要は薄い輪切りにしたにんじんを、半割にんにくやローリエと一緒に、オリーブ油で炒めただけだ。料理の本ではバターも入れろ、とあったけれど、ちょっとくどいかな、という感じもあったので、オリーブ油だけ。そのかわり少し塩をきかせた。 柔らかくなるまで蒸し煮にしたにんじんは、特有の青臭さも消えて、甘味と塩味がいいバランスになってくれている。私はあんまりにんじんは好きではなかったのだが、一人で暮らし初めてから、それなりに自分の好きな味を見つけることができたらしい。「鍋行くよ」「はいよ」 大きな鍋を真ん中に置いて、まだ蓋を開けないでね、と彼女に付け加える。まだなのお、と彼女はすねる。「もう一品あるんだから」「やー、本格的い」「やる時にはやるのよ」と言っても、実はそう難しいものを作っている訳ではない。 鍋の中にはリゾットが入っている。かぼちゃのリゾットだ。ころころの角切りにしたかぼちゃを、炒めたハムや玉ねぎと一緒にスープで煮て、冷やご飯を入れた。本当は米から炊くのかもしれないが…そのあたりはちと省略。 パスタにしようか、とも思ったのだけど、今朝炊きすぎたごはんがあったので、それを使わない手はないのだ。一人暮らしは、どうしても無駄が出やすい。でも無駄は出したくない。上手い活用法があるならしない手は無い。 実はかぼちゃにしたところで、煮物にするにはいまいち美味しくないものだったりする。かぼちゃというものは、買って切ってみるまで判らない、というところがある。今回は、切った瞬間のさく、という感触で「失敗した!」と思った。案の定、少しだけ炒め物に使った時、歯ごたえといい、味といい、その素っ気なさに肩をすくめたものだ。 でも色は綺麗だ。味を足せばそのあたりはカバーできる。という訳でリゾットなのだ。甘味が薄いだけで、全く無い訳ではないし、リゾットは無闇に甘くても仕方がない。「あ、綺麗じゃん」 最後の皿を置くと彼女はすぐに反応した。アンティパストが真っ赤だから、という訳ではないが、皿の上にはマグロと玉ねぎのソテー。マッシュルームも一緒に炒めて、最後にゆで卵と青しそを散らした。卵の黄色としその青がよく映えて綺麗。 かぼちゃリゾットも黄色なので、青みが足りないかな、という感じもするけど、まあいい。らしければいいのだ。思いこめばイタリアン。「ここまできたら、ドルチェもあり?」「ジェラートとティラミスだったらどっちがいい?」 ティラミス、と彼女は答えた。OKティラミスね、と私は答えた。ジェラートは冷凍庫に、ティラミスは冷蔵庫に入っていた。と言っても、どっちもコンビニで買ったものだ。つい買い込んでしまったが、まだ春先、という季節がら、なかなか手をつけずにいた。無論ヒーターが効いているから、冬でもアイスクリームは美味しいと言えば美味しいのだが、「冬に」「一人で」アイスというのは何となく悲しい。 それがたとえ、真夏の好物であるジェラートとしても、イタめし屋で必ず頼むティラミスだったとしても、だ。 いただきます、と私達は座り込んで手を合わせた。
2006.01.03
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夏に差し掛かった頃、僕は客として、ACID-JAMに居た。一人じゃない。アハネとノゾエさんと一緒だった。 彼女はまだあの学校の生徒をしていた。何やら、弟子になりたい「先生」をあの様々な旅行の間で見つけてしまったようで、現在アタック中なのだという。首尾良く弟子入りできそうだったら、卒業する、と彼女は断言していた。 僕はアハネの部屋にだいたい二ヶ月程居着いていた。その間のバイトで、ようやく自分の部屋へ引っ越すだけの資金を貯めることができた。今度は学校に通っているから、バイトの時間は夜に限定されるけど、相変わらず僕は給料の良さからフロアに出ている。そしてその隙間を縫って、今度は課題に精を入れている。 …正直言って、色んなことに、迷わない日が無い訳じゃあない。確かにデザインの作業も、考えることも、それに関連した資料とか見るのも、好きだ。だけどやればやる程、自分のあらが見えてくるのも事実だ。そして僕は、そのたびにこの性格だから、落ち込むこともある。課題提出のテンポに遅れて、講師からぶつぶつ言われることもある。 だけどそれでも、そんな時に、ぶつぶつ言われつつも、押しつけるくらいの少しばかりの厚顔さは身につけていた。受け取ってもらった方が勝ちだ。そうすべきことなら、しなくては、前には進めない。 その考え方が、誰のものだったのか、今の僕にはよく判らない。僕が元々もっていたものなのか、アハネやケンショーの影響なのか、判らない。何はともあれ、今の僕は、そう思うのだから。見えない何かが、僕の背中を押すから。 そんな忙しい日々の中で、新しい、小さい部屋のポストの中に、一通の手紙が入っていたのだ。 今度の部屋には、ものすごく安く買ってはいるけれど、前よりは設備がある。 冷蔵庫は一万で買ったし、洗濯機は八千円で買った。TVもそのくらいだ。見えればいいんだ。掃除機は、三千円だ。それでもちゃんとパワーはある。使うには十分だ。 ぜいたく、ではない。それが必要だと思ったんだ。今の僕は。安く手に入れようと本当に思えば、何とか道はある。ただそれを、今までは、まだまだと、押さえ込んでいただけなのだから。 ポストの中の封筒を開くと、ひらり、と数枚のチケットが入っていた。ACID-JAM特有の、ごわごわした、地味な色の紙のチケットだった。そこにはRINGERの名。差出人は、美咲さんだった。 来れるなら来てください、と短い言葉だけ書かれたカードがつけられていた。今の友達が居れば、と思ったのだろう。その枚数は。お言葉に甘えて、僕は行くことにした。ナカヤマさんにも連絡を取ってみたけど、彼の携帯番号は、もう使われていなかった。 僕はアハネとノゾエさんを誘って、ライヴハウスに出向いた。あの時以上に、僕はもう見分けがつかなくなっているだろう。髪がずいぶんと短くなっているし、格好も…最近は、年下のクラスメートに混じって、紙の上にデザインする要領で、僕は自分の服を合わせることも覚えた。 客電が消えて、ステージが明るくなる。 現れたのは、マイクをむんずと掴んだ、あの時のガキ。そしてその横には、奴が。 オズさんのスティックがカウントして、音が一気に前に飛び出してきた。知らない曲だ。僕の、全く知らない音がそこにはあった。 何よりベースが違った。ナカヤマさんの、上手いけどやや大人しいかな、上品かな、という印象の音とは違って、その高校生の片割れの奏でるベースは、見かけによらず、爆裂していた。どこからあんな力が出るのだろう、と思うくらいの音を、これでもかとばかりに、地を這うように、広げていく。 そして奴のギターは。ケンショーの音は、変わらない。単品で聞けば、きっとあの頃と変わらないだろう。自己主張ばりばりの、俺の音を聞け、とばかりの音が、飛び出してくる。ああよく考えたら、僕は奴の音を、客として聞いたことはなかったんだ。 そしてふらりとシャツに包まれた腕が伸びて、カナイがマイクに口を近づける。 息詰まる様な、声が、そこにはあった。ケンショーのあの音と、ぶつかりあって、張り合って、そして、何か一つの曲を形作っていく、そんな強烈な、声。 こいつは、ついて行きたいのではない、隣に居たいんだ、と言った。つまりはこういうことなんだろう。 僕にはできなかった。僕にはする気がなかった。だから僕は今あの場にはいないのだ。 それは非常に、当然なことなのだ。 でもひとつ、判ったことがある。 僕は、奴の音が、好きだった。たとえ関係なくなっても、奴がどんな奴であろうとも、奴の音は、ケンショーが奏でる、そのギターの音は、どうしようもなく、好きだったのだ。 それで、十分だ。 …ライヴが終わって、アンコールを叫ぶ女の子の声を背中にしながら、僕はドリンクチケットを手に、カウンタへ向かった。にせもののオレンジジュースを手渡しながら、ナナさんは目を大きく開けた。「…Kちゃん?」 彼女には、判ってしまうのだろう。だけど僕は、それを受け取りながら、言った。「人違いですよ」 おいアトリ、どうしたの、と向こうで僕を呼ぶ声が聞こえた。 今行くよ、と僕は彼らに答える。「K」ちゃんはもうどこにもいないのだ。「何話していたの? 前から思ってたけど、綺麗なひとだよな」「あ、駄目だよ、あのひとはベルファのヴォーカルの彼女」「あ、ざんねん」 あはは、とアハネは笑う。僕はつられて笑いながら、にせもののオレンジジュースを飲み干した。 それは確かに、楽しい日々だったから。
2006.01.02
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「お帰りなさい」 美咲さんは扉を開けるなり、言った。「ただいま帰りました。ごめんなさい。連絡しなくて。心配した?」「まあね」 彼女は苦笑する。そりゃあそうだろう。僕の荷物と言えばバッグ一つしかなくて、それを持ったままバイトに出かけていた訳だから、いつそのままふっと姿を消してもおかしくない、と彼女は思ったのだろう。「休んだの?」「まさか。でも定時で切り上げたのはホントよ」「ごめんなさい」「…まあいいわ。それより、せっかくあたしも早いのだから、ごはん、つきあってちょうだいよ」「美咲さん」「ごはん食べてきた? じゃあ、お茶だけでもいいのよ。コーヒー入れるから」「美咲さん!」 彼女はゆっくりと振り向いた。「いーい? とにかく、食事なのよ」 彼女はそういうと、既に用意してあったのだろう、キッチンに入って、何度かレンジのチン、という音を鳴らした。そしてそこからつながっているテーブルに幾つかの皿を置く。同時にコーヒーメーカーからのいい香りが漂ってくる。僕はテーブルの脇に立って、彼女の様子を眺める。彼女は料理が上手い。どこで覚えたのか、と思えるほど、手際もいいし、味付けもいい。それに、味付けが、やはり近い故郷だけある。 彼女は自分の側に、ご飯とおかずと、何品か並べて、そして僕の前にカフェオレを置いた。 僕はそれをすすりながら、とりあえずは食事、という彼女の様子をしばらくじっと見ていた。彼女がひじきの煮物やら、魚の西京焼きとか食べている音と、僕が時々カフェオレをすする音だけが、部屋の中に響く。静かだった。そんな音しかしないと、余計に静かに感じられる。「…出てくって言うんでしょ?」 不意に彼女は言った。その手には相変わらず箸が握られたままだったし、手には茶碗もあった。だけど僕はうん、と即座に返していた。「そんな気はしていたけど」「そう?」「そう。帰ってきた時、そう思った」「何で?」「何でだろ? 声が」「声が?」「声が、弾んでいたからかな」 そうだったろうか。思い返す。そんな意識は僕には無かった。「めぐみちゃんは、すごく声に出るから」「出る?」「あなたを拾った時、何かもう、何をしゃべっていても、どうなってもいい、って感じだったわよ」「…そう…だったの?」「そう」 彼女はきっぱりと言う。そして食事も終わったようで、さっと茶碗や皿をまとめると、キッチンに入って行った。少しして戻ってきた彼女の手には、ミルクを入れない紅茶のカップがあった。「でも、もういいんでしょ? 何がどうあったのか、知らないけれど」 そして彼女は目を伏せた。「あなたのこと、好きだったよ」「ありがと」「本当。そして感謝してる。あなたが居たから、僕は休むことができたよ。何も考えずに、とにかく、動くことができた。…暖かくて、気持ちよかった」「…気持ちよかったなら、ずっと居れば、いいのに」「でもそれは駄目なんだ」 僕はカフェオレのカップを置いた。「それじゃあ、駄目なんだ」 僕は繰り返す。ぬくぬくとした、暖かい寝床で夢を見ているのは気持ちがいいけれど、それでは。「学校に、ちゃんと行き直すよ。…思い出したんだ」 デザインが。ああいうことが好きだった自分を。人とどうこう比べてテンポがどうとか、ではなく、自分が熱中できるものとしての、「そういうこと」が。「…これ、あなたが持ってて欲しいんだ」 そして僕は、あのできあがったジャケットを取り出す。テーブルの上に乗せ、彼女の前に押し出す。 あれから、何とか出来上がりをみて、結局三部刷った。一部はアハネとの約束通り彼に渡した。 後の二部、僕はCD屋へ行って、取り替え用のケースを二つ買ってきた。そしてその両方に、そのジャケットを入れてみた。「前に僕が作るつもりだったもの。もう用は無いだろうけど、僕は」 言葉を探す。どういったらいいんだろう?「ケンショーのように、ああいう風に、自分の中から、わき出てくる様なものは、僕には無いし、それは歌じゃなかったし…でも、僕は、そこにこうやって『はじめからそこにあるもの』を、並び替えて、別の形に置き換えることはできる…かもしれないから」「めぐみちゃんが、作ったの?」「うん。これが僕の、今の精一杯」 全くの納得はできてない。だけどそんな僕にアハネはこう言った。「納得をつけるための技術をつけるのが学校だろう?」 もっともだ。「学校にとらわれるんじゃなくて、学校を利用する気でさ」 僕はその時、アハネらしい、と思って苦笑した。「…別にCDジャケの専門になる訳じゃあないけれど…どんなものをするつもりだか、判らないけど、こういうのが、好きだってことは思い出したんだ。誰に言われるでもなく、好きだったってこと。だから」「もういいわ」 ひらひら、と彼女は手を振った。「だったら、そうよね。あなたもうここに居ることはないわ」「美咲さん」「あたしは、守ってやれる子が好きなのよ。あなたもう、そうじゃあないわ」 そう言って、にっ、と口元を上げた。そしてCDケースを手に取ると、訊ねる。「兄貴に、渡してもいいの?」「どちらでも。美咲さんの思うように」「考えておくわ。いつ出てくの? 行き先は?」「とりあえずは、友人のアハネって奴のとこに転がり込んで…でも長くはいない。すぐに部屋見つけますよ。学費稼がなくちゃ。どこの単位の分からか忘れたけど、まずその欠けてる部分を探して…」 実に現実的な問題が、僕の頭にさーっと渦巻く。ま、いいか、と僕は息をついた。今考える問題じゃない。明日。そう明日、学校へ出向いて、あの事務室で今度はちゃんと負けないように。 とん、と考えにはまっていた僕の前に、今度はグラスが置かれた。その中には半分くらいの、綺麗な深い赤の液体。「ワイン?」「このくらいなら大丈夫でしょ? 呑みやすいイタリアワインだし」 そうだね、と僕は笑った。もっとも彼女はそんなものでは絶対に酔わない。ケンショーと同じ血を引いてると思う。だけど少し酔ったようなフリをして、彼女は言った。「せっかくだから、おねーさんにキスの一つでもちょうだいな」「そうですね」 僕はふっと笑った。「僕は、美咲さん、好きだったよ」「そういう言葉は、安売りしちゃだめよ」 それ以上は言わなかった。言えなかった。 だけど、このひとには、どれだけ言っても足りないような気がしていた。きっと、ケンショーより、そしてケンショーの元を去ったひとびとより、誰より、一番寂しいだろうこのひとには。 このひとに、少しでも多くの、しあわせが来ますように。
2006.01.01
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僕はこんな顔をしていたのだろうか。メイクをして、何処か挑発的な。だけどその姿は、妙に他人のように見えて仕方がない。 ある写真ある写真、どんどん僕はスキャナにかけていく。似た傾向の写真を分類してから、これは使えるこれは使えない、と冷静に判断して、黒いデスクの上に分けていく。 黒い背景の中に、奴の姿が浮かび上がる。僕はそれを一度拾い上げて、じっと見た。そして一度目をつぶる。 この時の僕は、この男がとても好きだったんだ。 スキャンした写真が画面に大きく現れる。ああどう加工しよう。CDのジャケットの大きさは? 歌詞カードには何枚の完成画像が必要だ? 構成は? ややこしい作りのものはできない。今の状況では。アハネもそういうものを望んでいるのではないのだろう。今僕のできる条件で、できるだけの良いものを。 あの時出そうと思ったのは、三曲入りのものだった。だとしたら、マキシ・シングルという形態だろう。裏側に表裏の画像二枚。扉とその裏。歌詞カードの入る倍の幅の一枚。 全部で五枚。それをどう配置するか。関連づけるか。歌詞は。 歌詞は…覚えている。まだ僕は覚えていた。 それをどう配置するか。言葉をどう空間に配置するか。とりあえず北はテキストエディタを立ち上げて、ぱたぱたとその歌詞を打ち込んで行った。その中の一曲は、のよりさんの頃からの代表曲とも言えるものだったけど、後の二曲は、僕が作った歌詞だった。僕はどう歌っていたろう。どう歌詞カードには配置するのが似合ってるのだろう。 内容を思い返しながら、僕はそれがスキャンした画像とどう絡むかを考えていた。自然と、そういうことを頭が真剣に考えだしていた。 やがて僕はその作業に熱中して行った。 不思議なもので、そうしていると、スキャンした写真の数々が、自分たち、という意識が無くなってきて、一つの素材として見えてくる。この素材をどう生かせばいいのか。僕の頭の中は、そういうことで占められる。 色は。バランスは。配置は。 この色のままでいいんだろうか。色変化をさせたほうがいいんじゃないか? コントラストを上げて、色数を落として、少し非現実的にしたほうがいいんじゃないか? 歌詞に合わせよう。この歌詞はどういうことを言いたかったんだっけ? 真剣になればなるだけ、その時の感情は、他人事のように感じられる。 途中、何度か配置がどうにも気にくわなかったり、切り取りと張り付けに失敗して、全部クリアしてしまったこともあった。いいと思った色の感じが、表と裏でバランスを見てみると、それはそれで違う。 何度も何度も、僕は繰り返した。 時間がどんどん過ぎて行っているのが判る。周囲が静まりかえっている。その中で、僕がかちかちとキーボードやマウスを動かす音、PCの立てる音だけが、ただ教室の中に響いている。 何でこんなに集中できているのか、僕には判らなかった。ずっとやらずに居たというのに。 それでも、身体は、そういう行動を覚えている。何かの素材を切り取って、自分にとっての「良い感じ」に並べ替え、化粧をさせ、一つの別の世界を作り出すという作業。 …楽しい。 奇妙に高揚してくる気分の中で、僕はそんな気持ちが自分の中に戻ってくるのを感じていた。「ひゃーっ!!」 ぴた、と冷たいものが頬に当てられたので、僕は飛び起きた。起きた…? 眠ってしまっていたのか? 僕はそこがまずどこだったか、すぐには思い出せなかったので、きょろきょろと辺りを見渡し… 目の前でパックのミルクを手にしている友人の姿を見て、昨日のことを思い出した。 窓からは、朝の、まだ弱い、赤い日差しが斜めに入り込んできていた。「おはよー」「…おはよ」 ほい、とアハネはその頬に当てたミルクではなく、湯気の立つ、紙コップに入ったカフェオレを手渡した。ありがと、と僕は受け取る。「ほら、朝メシ。腹減ってねえ?」「あ、うん」 言われてみれば、そうだった。空いている僕の隣の席の椅子に彼はコンビニの袋を放り出す。そして自分の分のサンドイッチをまず取り出し、何食う? と袋の中身を広げてみせた。 中には、結構な量のパンやらおにぎりやらが入っていた。僕はその中から、ツナマヨネーズのおにぎりとチーズクリーム入りの丸いフランスパンを選んだ。「気を付けろよ? せっかくのできあがったデータおしゃかにしちゃいかんからなー」「あ」 そういえば、と僕は慌てて省電力モードになっている画面を広げ直した。そこには、一応おおかたの完成した画像が何枚かできている。「お、結構できてるじゃん」「うん、確か、これでサイズ決めて、印刷すればおしまい、と思ったあたりで…寝ちゃったんだ」「じゃ、さっさとやっちまおーぜ? 今の連中が来てからじゃ面倒だし」「うん」 僕はおにぎりを口にしながらうなづいた。「あ、でもCDのケースがなかったから、というのもあったんだった」「そのあたり、俺にはぬかりはないぜっ」 じゃん、とアハネは自分のバッグの中から、CDのケースを取り出す。「と言うか、昨日あれから、俺ちょっと買いたい新譜があったからさ、買いに行ってたんだよ」「なあんだ」 そう言って僕はあはは、と笑った。そして貸して、とそのケースを手に取る。立ち上がり、別の教室から物差しを取ってきて、中のカードのサイズを確かめる。「…っと。これでいいかな」 解像度とサイズを確かめる。「紙は?」 アハネはプリンタのところへ行って、手差しモードの用意をしていた。「ぺらぺらした奴がいい」「ぺらぺら…ふうん。じゃこれかな」 数枚の「ぺらぺらした紙」を取り出し、アハネはプリンタにセットした。機械が僕に聞いてくる。印刷しても良いですか? OK。 やや多めのデータが、一気にプリンタに走った。がこんがこん、とプリンタが回り出す。 やがて、その中から一枚二枚、と印刷された紙が出てくる。「おー、出てきた出てきた」 ぱん、とアハネは手を叩く。「見せて」「いい感じじゃん」 短い言葉で、彼は批評した。「ホントだ」 僕もまた、短く感想を述べた。 出てきた印刷物を、カッターで正確にCDケースの中に入る大きさに切り、ちょっとばかり今買ってきたばかりのアーティスト様にはどいてもらって、裏表のバランスを見るべく、差し込んでみる。「あ」 僕は小さく叫んだ。「どうしたんだよ」「…この色合いはいまいちだよ」「そぉか? 俺はいいと思うけど」「僕の思った感じとは違うんだ」「ふうん? お前、どういう感じにしたかったの?」 どういう感じ。僕は必死で言葉を探す。「外側には『朝の場面』、内側に『夜の場面』って感じでコントラストをおきたかったんだよ」「うんうん、それで?」「…だから、これをこうやってみたんだけど…これだとここをこう…」 ぱたん、と僕は歌詞カードを折り曲げる。「こうした時に、まるでこれじゃあ、全部が昼みたいだよ。こーやってCDに隠されてもしまうんだし」「納得いかない?」「いかない」「OK」「作り直していい?」「お好きに」 アハネはにっこり笑って、二杯目のカフェオレを買ってくる、と教室の外に出て行った。
2005.12.31
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「お前、バンドやりたくて休学してたんだろ? でもバンドは辞めたんだろ? だったら戻ってくればいいじゃないか。俺がついててやればそれはそれでいいけど、あいにく俺も、もうあの学校の生徒じゃないからなあ」「…って、アハネ、今何してんの?」「あーん?」 そういえば、そういう時間が過ぎていたのだ。専門学校はそう長い時間のカリキュラムの場ではない。僕がバンドをやっているうちに、あの頃一緒に入学した連中は卒業していたという訳だ。 彼はスタジオの名前を出す。聞いたことはない。「写真?」「そう」「ちゃんと、目指す方向へ行ってるんだ」「そりゃそうだろ、好きなんだから。したいんだから」「僕とは違うから」「お前ねえ」 そう言うと、彼は手をやや上に伸ばして、僕の両肩を掴んだ。「あのなあ、お前まだ、ああいう作業とか、どういうものが好きなのか、掴む前に振り回されたんだよ?」「…判ってる」「判ってるんだろ? そしてやってみて、振り回されていたってことに気付いたんだろ?」「アハネは知っていたんだ。気付いてたんだね、あの時から」「見れば判る。判らなかったのは、お前だけだよ」 だろうな、と僕は思う。今になっては、そう思う。「別にあの時、俺は、お前が男とどうとか、ってのはどうでも良かったよ。だいたいこのテのザデインやら写真の世界じゃ、ある程度そういうのがある、ってのは常識だろ。だいたい今の俺のセンセイなんぞ、明らかに両刀だよ。だけどそんなの、彼女のプライヴェートに過ぎないし、それが作品にいい影響与えるならいいことだ」「…」「俺が気になってたのは、歌うのが好きなのが、お前の意志なのかどうなのか、ってことだった。だけどお前はさあ」 ふう、とアハネはため息をついた。「言っても仕方ない、と思ったから、ライヴ見に行ったけど、それ以上はできなかった。俺も俺で、気弱だからさあ」 彼はそう言うと、にやりと笑った。「アハネ…」 僕は何と言っていいものか、迷った。遠くでからん、と三時の鐘が鳴っていた。三十分だ、と彼は時計を見た。「俺も仕事行かなくちゃ。途中に抜け出したから」「…あ…」「でも作業する気があるなら、今日仕事終わったら、学校に来いよ。俺待ってる」「お前卒業したんじゃ」「卒業生ならいいんだよ。どうせ今の時期、皆課題でてんてこまいだ。一人二人増えたって何が変わるかよ。それにノゾエさんに聞いたけど、お前自分の道具、置いてあるんだろ?」「…ああ」「いいか? 八時半。一時間待つ。それで来なかったら、もうお前とはすっぱり、会わない」「アハネそれは脅迫ってものじゃ」 じゃあな、と僕の返事も聞かずに、彼はフードつきの上着を揺らせて背中を向けた。 僕は僕で、三十分が過ぎていることに気付き、慌てて店内に戻った。 行こうか行くまいか、少し考えたが、夕食を摂った僕の足は、学校へと向かっていた。時計は約束より十五分過ぎていた。アハネは入り口の段差に座って、ポケットに手を突っ込んでいた。「来たな」「来たよ」 じゃ行こうや、と彼はすっと立ち上がると、中へと入って行った。久しぶりの校内だった。ここに居た日々より、居なかった日々のほうがずっと多い。 それでも確かに、居た記憶は僕の身体に染みついていて、何処に何があるのかは、忘れていなかったようだった。 彼は灯りの消えたPCの部屋に僕を連れて行った。「…ずいぶんこの部屋、機材が増えたね」「まあな。お前がいなかった一年半のうちに、ずいぶんと新製品も出たしな」 そういうものなのか。確かにPCの変化は無茶苦茶早いと聞くけれど。「でも基本は大して変わらない。と思う。俺はあまり詳しくはないけど、それでも何とかこの科目もパスできたからさ」「…」 僕は適当にPCの机の間をうろうろしていたが、その中の一台のスイッチを入れた。「スキャナはそっち。電源入れたか?」 僕は慌ててそちらの電源も入れる。「で、向こうにカラープリンタがある。紙は…」「たぶんそれは、判るよ」「ああ。まあ一枚二枚いろーんな種類やったそこで、ばれやしねーとは思うけど、無駄づかいはするなよ」 とんだ卒業生だ。僕は肩をすくめた。「で、期限はいつまで?」「別に決めてないけどさ」 アハネはそこで一度言葉を切った。「ただ俺としては、ずっと待ってたのよ」 彼はそう言って、苦笑する。「俺としては、お前の、こうゆう構成とかって好きだったから、実際に使うもので、お前が本気出したら、どういうものができるかな、ってのは結構楽しみだったんだぜ?」「僕の?」「そ。お前の作品」「…」 何か、そういうこと言われたのはすごく久しぶりの様な気がする。「だから、できるだけ早く見られたら、うれしいな、ってとこかな」「…そう…」 後で何か食い物と飲み物を調達してくるから、と言ってアハネはPC室から出て行った。僕は写真加工のソフトを画面に出す。そしてバッグの中から、ずっと見なかった写真を取り出した。 ばらばら、とスキャナのあるデスクの上にそれを並べる。ああ、あの時の格好だ。 夜の場面と朝の場面を撮り分けた、あの写真だった。
2005.12.30
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午後二時半は、ランチの客が終わり、お茶の時間にはやや間がある、というエアポケットのような時間帯だ。その時には客が少ない分、店員も少ない。フロアには僕とマネージャーともう一人、女の子しかいなかった。「客?」「友達じゃないの? 二人連れだけど」 三十分くらいだったらいいよ、とマネージャーはあっさりと許してくれたのだが、僕には心当たりがない。実際のところ、ケンショーが来る、という可能性だってあった訳だ。だけど二人連れ、という時点でその考えは消えていた。あの男は来るだったら一人で来るだろう。 そしてその考えは当たった。店員の通用口に回ってみると、そこには意外な顔が居た。「ナカヤマさん…それにアハネ?」 僕はもう少しで驚きの声を上げてしまうところだった。「久しぶり、アトリ」 そう言ってアハネは手を挙げた。「どうしてここが…いや、どうして今?」「んー? 俺、お前が学校来なくなってから、それでも時々ライヴ見に行ってたんよ? 知らなかっただろ」 知らなかった。来てるなら来てると言ってくれれば…だけどそれはできなかったのだろう。僕とあんな形で疎遠になったのだから。「だけどいきなりお前出なくなった、と思ったらさ、何かメンバーチェンジがどうとか、ライヴハウスで噂になってるし。気にはなったからさあ、前に携帯の番号聞いてたこのひとに連絡してみたの」 そう言って彼は、ナカヤマさんの肩をぽん、と叩いた。「でもさ、このひともバンド辞めたとか言ってるし」「ええっ!」 僕は今度こそ、声を上げてしまった。「ナカヤマさん、RINGER辞めたの…?」「まあね」 さらりと彼は答えた。何か僕が知らない間に、色々なことが向こうではあったらしい。「じゃ、バンド、今はケンショーとオズさんだけなの?」「や、メンバーチェンジ、って言っただろ? チェンジだよ。後任が入って、メジャーデビューに向けて、割と着々と進めてるらしいよ。俺も詳しいことは知らないけど」「メジャーデビューに向けて…じゃあ話、まとまったんだ」「まあね。でも俺はメジャーに行ってまで音楽する気はなかったから、辞めさせてもらった」「…どうして」 自分だったら聞かれたくない質問なのに、その時の僕は彼に聞いていた。だがいつも冷静だったこの人は、この時も冷静だった。「あのね、めぐみちゃん。俺は音楽が好きなの。ベースが好きなんだよ。だから仕事ににしたくはない。それだけ」「それだけ?」「それで十分じゃないのかい?」 彼は苦笑した。バンドに居た頃には、僕には見せたことの無い表情だ。「大切であればあるだけ、人にどうしてもいじられたくないものってあるだろ? それが正しい方向であったとしても」 ああ、と僕はうなづいた。そういう人だったんだな、と改めて僕は思う。本当に、もっと話しておけばよかった。「…じゃあ、今のヴォーカルとベースは」「何でも、SSってバンドの子達を引き抜いたってことだけど」 SS。「…って確か、カナイって子…」「知ってるのか?」「ちょっと…」 一瞬、胸が締め付けられた。そうか、あの時のガキは、自分の欲しいものをちゃんと自分で手に入れたんだ。ケンショーの隣、という位置を。 考えないようにしていたことが、急に自分の中になだれ落ちてくる様な気がした。「…奴は、元気?」「らしいよ」 ナカヤマさんは短く言った。僕はうなづいた。そしてこう付け足した。「そうだろうね」 そして僕のその答えを聞くと、肩をすくめて、タッチ交代、とばかりにアハネを軽く押し出した。「ありがとうございました。本当」「いやいやいいの。俺も気がかりだったのは確かだから…じゃあ、後は二人で話して」 ナカヤマさんはそう言うと、ひらひらと手を振った。残された僕らは、とりあえず何から話したものか、少し迷った。沈黙を破ったのは、やっぱりアハネの方だった。「…えーと…お前さあ、あの時の写真、まだ持ってる?」「え?」「あの時の、写真。お前持って帰ったろ」「あ? うん。一応」 今でもあの写真は、バッグの底に入っている。「出そうと思えば、今でも出せるけど…返してってこと?」「ばーか、違うよ。そうじゃなくて、お前はお前のすべきことをしたか、ってんの」「僕の?」「お前、俺にあんだけ写真撮らせといて、それを使った作品を結局見せないままじゃないの」 ざり、と音を立てて、アスファルトの上の小石を奴は蹴った。ぽん、と鈍い音を立てて、それは近くに駐車してあった車のタイヤに当たった。「作品」「あれは、CDジャケット用だったんだろ?」「ああ…うん、でもあの時は、結局、別のデザインでカセットに」「見せろよ」 僕が最後まで答えないうちに、彼は言った。え? と僕は問い返す。「俺にはそれを見たいという権利があるぜ?」「…そ…うかもしれないけど、…でも結局その時は作らなかった訳だから、新しく作らなくちゃならない訳だし、機材とか何も今は」「学校のがあるだろ」「僕は休学中で」「だったら休学なんてやめればいい」 どき、と心臓が跳ねた。
2005.12.29
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「あ」「そこまで賭けられるものがある、絶対捨てることができない、身体も心も支配されてる、何を捨てても、犠牲にしても仕方ない、どうしようもないものがあるひとなんて、ほんの少しなのよ?」 ぴぴぴ、と乾燥機が、終わりを告げる音を鳴らす。だけど僕たちは、どちらもそれに気付いた素振りを見せなかった。「…だから、あの馬鹿は、時々、そうでないひとまで、自分の同類と間違ってしまうのよ」「僕が」「めぐみちゃんは、そういうひとじゃない。皆知ってる。知らなかったのは、あの馬鹿くらいなものよ」「…知ってた?」「誰だって気付くわよ。ノリアキ兄は、ああいう奴だから、ひとを好きになったらそれも本気で、見境がなくて、だけど、だから、皆それに巻き込まれるのよ。それが本気だから。冗談じゃなく、本気だから」「のよりさんも?」「会った? 彼女に」 うん、と僕はうなづいた。「そうよ。彼女も。彼女も、とてもあいつのことが好きだと言った。けど、どうしようもない、って言った。繰り返しなのに、あの馬鹿は、それがどうしてなのか、どうしても判らないのよ」「…じゃあ美咲さんは?」 どうして僕は、そう聞いてしまったんだろう?「え?」「そんなケンショーを、ずっと、見てきたんでしょ? どうして? いくら兄貴だって、いつか、愛想つかしたり、放っておきたく、ならない?」「…めぐみちゃん」「ケンショーは言ってたよ。自分はそれでも長男だから、期待されちゃって、部屋なんかも、頼みもしないのに、妹より大きくて、とか、妹に、結局、自分ができないことを押しつけてしまったみたいだ、って」「あの馬鹿が、そんなこと言った?」「時々」「そうね言うかもしれないわ。だってあいつは、実際そうだったもの。どんなにあたしが真面目にがんばったところで、何のもめごとも起こさないで、いい子で勉強もできて、ちゃんとしたとこに就職できたとこで、うちの連中は、あたしにいつか頼ろう、なんて絶対思わないわ。それがいいか悪いかはおいておいて、あいつに頼るか、そうでなきゃ、自分たちで何とかするか、なのよ。老後の心配とかもね」 吐き出すように、彼女は言った。「あたしは、いつも期待なんかされなかったから。自由にさせてくれたわよ。自活の道を見つけてさっさと独立しろ、ってうちだから」「美咲さん」 くくく、と彼女は顔を隠して笑う。「いい気味、と思ったわよ。その時にはね。だってそうじゃない」「…」 僕は困った。困ってしまった。だって、今まで見てきた、彼女の中に、こんな嵐があるとは、思わなかった。 僕は椅子から腰を浮かすと、テーブルの向こう側の彼女の手に触れた。 彼女はふっと顔を上げた。泣いてるか、と思ったんだけど、そうではなかった。そんな跡は、どこにもない。「どうしたの?」 彼女は僕の手を掴んで、僕をまっすぐ見た。何を言ったらいいのだろう。「…暖かい」「お茶が温かかったからね。寒いの?」 どう答えたらいいのだろう、と考える間もなく、僕はうなづいていた。寒いのは、どっちなんだろう。僕だろうか。彼女だろうか。 彼女は手を握ったまま、そのまま僕の前に立った。そして目を閉じると、軽く上体を曲げた。握っていない方の手が、僕の頬をくるむ。温もりに、僕は目を伏せる。 奴とは違う。だけど、確かにそれも。 * それからしばらくの間、僕は彼女の部屋で過ごした。 僕はそこからバイトに通っていた。そして僕はバイトの量を少し増やしていた。 それまで出る気はなかったフロアに出て、時給が100円上がった。そして時間を伸ばした。それまでは定期的に休んでいた分をカットした。 どうしたの、とマネージャーは言ったけれど、僕は今、何も考えたくなかった。 こういう仕事はいい。何も考えずに、とにかく、仕事と割り切ってやっていられる。朝から晩まで。身体を動かして。愛想笑いをして。 作りでも何でも、笑顔を作っていられるうちは大丈夫だ、と僕は思った。思おうとした。 そうでもしないと、すぐに、今までのこととか、自分の才能とかやりたいこととか、とにかく今考えるには許容量オーバー、と言いたい程の考えが押し寄せてきて、僕はそのあふれかえる思考の中でおぼれてしまうと思ったのだ。 朝出向いて、フロアに出て、昼食をとって、またフロアに出て、人が少ない時間になったら、細々とした作業をして、また混んできたら、他のフロア仲間と調子を合わせながら、なるべきてきぱきと動き回る。同僚の一人は、ずいぶん変わったね、と驚く。変わった訳じゃあないんだけど。 そして夜、疲れ果てて、食事をしてから彼女の部屋へ戻る。 彼女は居たいだけ居てもいい、と言った。だけどそれはまずい、と思う。 彼女がいいと言っても、僕自身が許せない。いつかは出ていかなくてはならない。近いうちに。 だからそのためにも、僕はてっとり早く収入は欲しかった。だけどそれほど器用ではないのは判っているから、とにかく今居るところで、少しでも仕事を増やしている。そういう意味もあったし、職種のえり好みなどしている余裕は無かった。 僕は僕に言い聞かせる。あんなことまでステージの上ではできたんだから、フロアで愛想笑いくらい飛ばすのは簡単だろ? 美咲さんがケンショーに、僕が居ることを言ったのかどうかは判らない。どっちだっていい。言ったところで、逃げ出した僕を奴は追わないだろう。それは確信だった。逃げ出した時点で、僕は奴の声でいることは辞めているのだ。そのくらいは判るだろう。判ってほしいものだ。 そんなこんなで、一ヶ月があっと言う間に過ぎた。朝のTV番組にある日何気なく耳を傾けた時のことだ。美咲さんは毎朝ミルクティを呑み、僕はカフェオレを彼女の手からもらっていた。優しい手だ。 だけど一ヶ月も一緒に暮らしていると、そこに身体の関係があるなしでなくとも、判ってくることがあるものだ。彼女は彼女で、僕が居ることで楽しんでいる。 それはそれで悪くはない。少なくとも、居候している罪悪感からは、逃れられるというものだ。彼女はどうも、自分が守ってやれる存在というものが好きらしい。のよりさんも、最初は彼女に泣きついたらしい。彼女はそのあたりは兄と似ているのだろうか、男も女も関係ないのだ、という意味のことを言っていた。 僕はその時には黙って聞いていた。だけど。 * そんなある日、僕に客だ、とマネージャーが言った。
2005.12.28
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「…乾燥機、もう少しで仕上がるから、もう少し、そのままで居てよね」 風呂から出ると、美咲さんはいつの間にか、通勤用の服から、部屋着に着替えていた。「…仕事は?」「あたしは今日は、いきなり風邪を引いたのよ」 そう言いながら、彼女は長いTシャツ一枚の僕をタオルや毛布でくるむと、テーブルの前につかせ、次々に見事な朝食を用意した。ミルクを半分入れたコーヒーが湯気を立てている。チーズを乗せたトーストをオーブントースターから出し、フライパンからは、半熟のスクランブルエッグ。電子レンジがチン、と音を立てると、ブロッコリが湯気を立てる。そこにマヨネーズをくるり、と彼女は乗せた。「ほら食べて。食べるの」 食欲は。風呂から上がったばかりだし、あまりない、と思っていた。 だけど、ふわふわと金色に輝くスクランブルエッグを口に入れた時、僕は自分がひどくお腹が空いていたことを思い出した。それから、チーズトーストを二枚と、コーヒーのお代わりをし、デザートのフルーツヨーグルトをたいらげてしまうまで、僕はものも言わずに、ただひたすら食べていた。ひどくそれが美味しかった。身体の隅々まで行き渡るように、美味しかった。「もうコーヒーはいい?」 何も言わずに、時々音を小さくしたTVの画面を眺めながら、ミルクティを口にしていた彼女は訊ねた。僕はもういい、と答えた。「そう。ならよかった」「…ごちそうさま、でした」 ぺこん、と僕は頭を下げる。「服…もう乾いたかな…」「逃げてきたの?」 不意に彼女は問いかけた。はっとして僕は彼女を見た。「そうなのね?」「逃げてきたって、僕は、あ…」「…ああ、別に、ケンショーが嫌なことしてどうの、って言う気はないわよ。こう言っていいのかな? 『またか』」「美咲さん」「長く続いてほしい、ってあたしも思ったんだけど、やっぱりだめだったんだ」 彼女はTVのスイッチを切る。途端に、部屋の中がしいん、と静まり返った。部屋の空気の中に漂っていた、毒にも薬にもならない声が音が、すっ、とその時かき消えた。「美咲さんは…そうなる、って思ってたの?」 彼女は黙ってうなづいた。「それでも、のよりちゃんよりは続くと思ってたし、今度は、メジャーに行くまで続くと思ったのよ」「メジャーに行く、って話、出たんだ」 ああ、と美咲さんは声を上げた。「とうとう、やったんだ…あの馬鹿…でも、どうして、なのに?」 彼女は首をかしげ、少し眉を寄せた。「僕はメジャーで、通用しないから」 不思議に、言葉がすらすらと出た。「でもあたしはめぐみちゃんの声も歌も、好きよ? 今までの歴代のヴォーカルの中では、一番よかったと思うわよ?」「それでも」 僕は首を横に振る。「うまく、説明できないんだけど、僕は、駄目なんだ」「駄目って」「駄目なんだ!」 だん、と僕はテーブルの上で、こぶしを握りしめ、叩きつけた。「僕は、ケンショーが思うように、歌えないよ」「それはそうよ。めぐみちゃんは、あいつじゃないもの」「だけど、僕は、僕の言葉なんか、持ってない。ケンショーのように、伝えたいことなんて、ない。歌でなんて、絶対にない。そんなうた、誰が聞きたい? 少なくとも、僕は聞きたくはないよ。僕は僕が聞きたくもないような歌、人に聞かせるなんてやだ。そんなのは、何か違う。何か違うよ!」 一息に、僕は吐き出した。「…あ…ごめんなさい」 いきなり感情をぶつけてしまった。だが彼女は驚くこともなく、僕をじっと見ていた。「…何で」 彼女の唇が開く。「何で、あの馬鹿は、こうやって、いい子をどんどんつぶしてくんだろうね」「つぶしてなんか」「少なくとも、傷つけてるじゃない」「違うんだ。僕が勝手に傷ついてるだけで」「それでも、あいつに会わなかったら、あいつが手を出さなかったら、そんなことはなかったでしょ?」「それは…」 それはそうだけど。「あいつは、いつだってそうよ。自分が好きでやっているのはいいわ。だけどそれで、傷ついてく人がいるっての、絶対知らないのよ」「美咲さん?」 そう言えば。ケンショーが時々思い出したようにつぶやく、彼女への負い目を僕は思い出す。「…美咲さんは、ケンショーが、嫌いなの?」「嫌いか好きか、と言われても、困るわね。どんな馬鹿でも、嫌になっても、とにかく、兄貴なんだから」 そういうものなんだろうか。「あたしはね、めぐみちゃん、あいつに関しては、ひどく自分が屈折していると思うわよ」 そんな困った顔をしないでほしい。綺麗な人が辛そうな顔をすると、僕は困ってしまう。「でも、ケンショーは、あなたに申し訳ないと思ってるよ」「そりゃあ思ってるでしょうよ。でも、思ってるからって、あいつは何をするというの? 思ったから、いわゆるまっとうな生活を、奴がすると思う? 髪を切って、色も黒にして、ううん茶髪だっていいわよ。とにかく、毎日あのくらいの歳の連中がするように、定職について、仕事にはげむ、なんて生活。あいつにできる訳がないじゃない」 彼女は首を横に振る。ふと僕の中で、故郷の兄貴の姿がよぎった。「それは、僕だって…」「めぐみちゃんは、違うわよ。あなたはもともと、そういう人だったじゃない。ケンショーに会うまでは、ちゃんと毎日学校へ行ってたでしょ? そういうのじゃないのよ。兄貴は、生まれつき、そういう男なのよ。ああいう男は、そんな『まっとうな』生活をさせたら、絶対おかしくなるわ」「でもバイトは真面目で」「それは、バンドがある上での、仕事でしょ? ねえめぐみちゃん、普通のひと、っていうのは、そういうのは、無いのよ」「あ」
2005.12.27
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ゆっくりと、毛布の中から、這い出す。掛けられている腕をそっと外す。目を覚まさせてはいけない。 明け方の弱い光が、窓から射し込んでいる。この部屋は、南東だから、日が昇ると一気に光が差し込んでくるだろう。そうすると、奴も目を覚ますかもしれない。ほら何だかんだ言って、こいつの何処かが真面目だから。 でも、それまでは、起こしてはいけない。 ぽろん、と頭の中で、ピアノの音が鳴っている。どうしてなのか、判らない。カナイのことを思い出してたせいだろうか。あの時のピアノの音が、耳について離れない。あの時のベーシストは、亡くなったというひととどういう関係だったのかは判らない。だけど、その音は、確かに、そのひとを思っているというのが判って。 カナイの歌には、ケンショーのギターには、きっとコンノさんの声もそうなんだろう。 そして僕の中には、何も無いから。 僕は、ケンショーが、メジャーに行くというなら、もう、このバンドで歌うことは、できない。 だって、ケンショーが必要なのは、声だから。 きっと彼は、僕がその場所に合わないと思ったら、容赦なく、次の声を探すだろうから。 彼は、そういうひとだから。 のよりさんの声が頭に響く。仕方がないくらいに、彼は、そういう人だから。 弱い光を頼りに、僕は流しで濡らしたタオルで軽く身体を拭くと、それを洗濯のかごに畳んで入れた。服を身につけると、カバンを取り出した。財布はある。スケッチブックはどうしよう。カードとか、通帳とか、そんな細々したものは、全部この中にいつも放り込んでいた。 何か他に、大切なものなんてあっただろうか。 大げさな荷物なんて、作れない。 そして僕は、スケッチブックの一枚をそっと引き裂くと、その上に4Bの鉛筆で、書いた。「さよなら」 そう書いて、その上に付け足した。「今まで・ありがとう」 その紙の上に封の切ってない煙草を置く。僕は髪をかきあげる。よく眠っている奴の姿を眺める。 楽しかったんだよ。僕は。確かに。 あの毛布の中に戻れば、まだ暖かいのは確かなんだけど。今外に出れば、明け方は、とても寒いのは確かなんだけど。 それでも。 少しでも、あんたに、僕が相談できれば良かったのかもね。でも僕は、知っていたんだよ、ケンショー。あんたには相談したって、どうしても判らないことが、あるんだって。 あんたには、どうしても理解できないことがあるんだって。 だから。 音を立てないように、ゆっくりと僕はカバンだけを持って、扉を開けた。そしてカギを、新聞受けから中に入れた。 扉の向こうで、かちん、と小さな音が聞こえた。 本当に、肌寒かった。風が冷たかった。どうしよう、と思った。もう一枚上着を持ってくれば、良かったかもしれない。 でも、一度出たのに、戻るのは、嫌だった。ここで戻ったら、僕は出ることができなくなる。そして次に出るのは、きっと、彼に捨てられる時なんだ。 それだけは、嫌なんだ。 でも、本当に寒い。こんな時間じゃ、何処の店も開いてないだろう。コンビニは…でも近所のコンビニに行っても仕方ない。 …って、一体、僕はどこに行こうというんだろう。 出たはいい。だけどどこへ行こう。行くあては無かった。 肩にかけたバッグをぐっと掴むと、僕はとにかく歩き出した。歩いていれば、そのうち身体が暖まるだろう、と思った。思わない訳にはいかなかった。考えるな。今考えたら、凍える。今が春であっても、今何かを考えたら、僕は凍えてしまうだろう、と思った。 やがて上った朝日が、次第に熱を持ち始める。そしてまぶしい。 どのくらい歩いたろう? そこにあった公園にふらふらと僕は入って行った。座れるところというのが、都会ではどうしてこうも少ないのだろう。だから皆、地べたにそのまま座り込むんだ。きっと。 自販機の濃いミルクティを買って、両手で持ちながら、それを僕はゆっくりとすすった。考えるな、と自分に命じた頭は、何となくぼうっとしている。順序だった考え方ができない。 今は何時だろう。公園の外の道を、学校へ行く子供達の集団の声が聞こえてくる。僕はそれでも身動きもできずにずっとそこに座り込んでいた。お腹も空いてるのかもしれない。昨日は確かに一生懸命食べたけれど。それでも朝が来れば目は覚めるしお腹は空くんだ。僕は妙におかしくなる。 凍り付いていたような目のあたりが、ゆっくりと解けだしてくるような気がした。苦笑いをする。せずにはいられない。 さあどうしよう。とりあえずは、何か食べなくちゃ。 そう思って僕は立ち上がり、公園を出ようとした。 と。 出ようとした僕の足は、その場に釘付けになった。「美咲さん…」「やっぱりめぐみちゃん? なのよね? どうしたの? こんな時間に」 通勤用の服に、サンダルをひっかけている。ずいぶんと急いでいるような、姿。今の今まで、会社に行くしたくをしていたのだろう。「どうしたの、って…美咲さん、今から会社でしょ。急がなくていいの?」「ちょっと…何、言ってるの?」 どうしたというのだろう。どうして、そんな風に、兄貴と何処か似た綺麗な顔を、歪ませてるんだろう。「こっち、いらっしゃい!」 彼女は僕の手を思い切り引っ張った。何って力だ。それとも、今の僕には、女性の、そんな力に抵抗する程にも、力は無いというのだろうか? ぐいぐい、と引っ張られるようにして、僕は彼女のマンションにと連れて行かれた。兄貴のものとは違い、割と新しく、小ぎれいな、白いクリームの様な壁の。 扉を開けたら、女の人の部屋のにおいがした。化粧品や、シャンプーや、それに彼女自身の、何か。「美咲さん」「ほらこれ持って!」 彼女はクローゼットからバスタオルと大きめのTシャツを取り出すと、僕に押しつけた。「…どうしたのいったい」「いいから。とにかく、シャワー浴びて」 何だろう。とにかく、僕は言われるままに、手渡されたそれを持って、バスルームへ入っていった。「使い方、判る? …ああ、シャワー出せばいいだけだからね。そうしてあるから、適当に、使って」 適当に、って。「脱いだらそこに入れておくのよっ」 有無を言わせぬ口調で、彼女は僕に命じる。とにかく今逆らったところで、僕には何も反論ができないのは確かだ。だったら、仕方がない。ごそごそ、とケンショーのところよりはずっと広い風呂場の脱衣場で、僕は服を脱ぎだし…彼女が何を言いたかったか、理解した。思わず手で口を塞ぐ。そんなことも、気付かないほど、僕は呆けてたのか。
2005.12.26
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