いただいた。今月も日本から小包が届いたのだが、その包装の
仕方や繊細なデザインは実に見事であった。薄く削った竹で
出来た丸い箱を覆うピンクのグレーデーションのかかった和紙に
「栗ころがし」と味のある達筆でかかれてあり、金の細い紐が
かかっている。それを解くと、中にはその製品のゆえんなどを
書いた紙があり、その中にまた、きちんとセロファンの袋に
お行儀よく栗ころがしが並んでいる。
一口羊羹の箱にしても老舗の包装紙できっちりと包んである中から
しっかりした厚地の黒い箱が出てきて、更に中から何とも品のよい
色合いの小さな箱が出てくる。その上、種類によって「夜の梅」とか
「おもかげ」とかロマンチックな名前まであるから恐れ入る。お茶の
先生の友達から送ってきた、茶道用の『二人静』という落雁もしかり・・
ムシャブリつく分けにはいかず、綺麗な器に盛って、漆ぬりのしゃれた
竹のフォークなどを沿え、かしこまって頂きたくなる。着物をきると
いすに座っても足をくまなくなるのに似た、一種の気取りがでて来る。
話変わって、先週日本人でプリントメーカーの友達の家にお昼によばれた。
彼女は長い間日本語学校で日本語を教えていたのだが、日本では芸大を
卒業しているプリント・メーカーである。無論、絵だって描く。ご夫婦とも
横浜出身。何年か前にご主人を亡くしてからグレッグも参加するラグナ・
ビーチのアート・フェスティバルに参加するようになって知り合った人で、
毎年一度は日本でも展示している。
「結婚するまでお料理なんかしたことないのよ」と彼女が言ったが、考えて
みたら私も同じで、何時の間にか、あれこれ出来るようになっていた。
今は亡き母が
「お料理どこで習ったの?上手になってるじゃない」と言ったのを思い出した。
『必要は発明の母』の類に属すのだろう。私の母のように『花嫁修業』をする
人は少ないのではなかろうか。
まず前菜が長方形のお皿にきれいに並んで出てきた。小粒のそらまめを爪楊枝に
串刺しにしたものや、お煮しめも、はすや、切れ目をいれた椎茸、ゴマ付き
たたきごぼうなどが、きれいに盛ってある。そして、おつけもの、お吸い物
栗ご飯、次々に出る物が、いちいち芸術的なのだ。食後に「頂き物だけど」
といって、色んなお菓子を出したのだが、やはりひとつひとつ袋にはいっていた。
そして出すものによって、緑茶から紅茶にかわった。
そこで日本の包装は無駄か?必要かという話題になった。
「アメリカ生活が当たり前になって来た頃、日本はなぜ必要以上の包装を
するのだろう、無駄だと思った時代があるけど、今は考え方がちょっと
変わってきた」と私が言うと、彼女はすかさず、
「絶対必要!」と答えた。
「そうよね、一種の芸術なのよね。ここに日本でなくてはならない美が
あるんだわ。海外でも日本人がほかの東洋系の国の人と違う洗練さがある
と言われるゆえんだわ」と答えると、彼女は興奮して続けた、
「そうそう!こういう繊細さが無くなったら寂しくなるじゃない、やだわ
殺伐とした世の中になるじゃない」と言った。
まさにその通りである。
これこそ、何度かブログでも紹介した、ジョー・グラントの残した言葉
「芸術のない人生は野蛮である」そのものずばりだと思った。
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(余談:ジョーは前夫の遠い親戚で、ジョーの娘と私は友達である。彼女の
話によると、この英語版はコピーライトがあるらしいから、英語の
カリグラフィーで書いてはいけないらしい。「知らずに、もう書いちゃった」
と言ったら、「日本のブログなら許してあげる」とのこと)
話を元にもどすと:
日本の包装は芸術品であり、そこから「心得」「情緒」「礼儀」などの文化が
生まれてくるのか、繊細な心から芸術品が生まれてくるのかは『卵が先か、鶏が
先か』式の討論になるが、これが私が日本の包装は無駄では無いと考えなおした
理由である。
商品ひとつひとつセロファンに入ってる事も、味や新鮮さを保つためであり、
ゆえに美味しいのだ。高いお金を出すのも芸術品だからと思えば腹もたたない。
それゆえに食べるのも惜しくて、いまだに箱に入ったままである。一度、
もったいながって、玉露をだめにしてしまったことがあるので、賞味期限前
には食べると思うが、このエッセイをタイプしながら、その頂き物の芸術品を
横目で眺めながら、紅茶の入ったマグを片手に、大雑把に入ったアメリカの
お菓子を下品に食べている。実に旨い!
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