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一寸先は闇ということばがぴったりの事件がありました。昨日はグレッグが描き終えた二枚の絵をFramer(額にいれる)に持っていき、その帰りにメキシカンのテイクアウトの美味しい店があるから、と連れてってくれたのはいいのですけどね、ものすごい人の列。「人気があるのね」というと、いつもこんな具合だとのこと。待つこと20分、やっとドア近くまで進んだ時に、バッシーン!と物凄い大きな音とともに、角の柱にSUVが突っ込み、太い柱を曲げてしまったのですよ。私たちは本の一メートルくらいしか離れていなかったので、ちょっとハンドルを右に回していたら、即死したでしょう。若い男の子でしたけど、おそらくバックにギアーをするの忘れてアクセル踏んで、間違ったのに気づいて慌ててブレーキをふんだつもりが、アクセルを床まで踏んだのではないかとおもいます。あまりにも、一瞬の事だったし、コンクリートのバリアがある駐車場だから、まさかそれを乗り越えてくるなどとは誰も想像しませんよね。でも、二人とも、というか待ってた人全員あっけにとられて誰も怖がってはいませんでした。でも、『死』というのは、このようにいつも「生」と隣り合っているのですね。こういうのは、きおつけようもない事故ですね。柱の前にいるのは、この店の経営者のようです。二人とも、自分達のことより、この若いメキシカンの男の子、どうなるだろう?この柱は、屋根をささえているものですから、ものすごい修理代でしょうからね。追伸:つい先週、葬儀屋をよんで私の埋葬の準備をしていたばかりだったのですよ。82歳ですから、準備だけしておきたいので。。。でも、まだ生きろという意味なんでしょうね。
2024.06.05
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今朝、私の住んでいる地域用のチャットルームに「皆さん、家の外側やブロック毎に防犯カメラをつけましょう」という書き込みがあり、彼女の防犯カメラに数個のポリ袋を抱えてうろついている男が写っていた。家宅侵入を防ぐため、こういう人をみたらすぐに警察に通報してほしいという内容だった。近頃増えているホームレスではないかと想像し、せつなくなると同時に戦後の日本を思い出した。昭和20年頃の日本はホームレスや物乞いが大勢いたがそれは戦争があったからで、疎開しても家を借りられる人はラッキーであった。ある日、二歳と四歳くらいの幼児が庭にやって来て突然タップダンスのように踊り出したのをはっきり覚えている。私自身その子達位の歳であったから一体何事が起っているのだろうと驚いて、台所にいた母を呼ぶとエプロンで手を拭きながら母が縁側にやって来て「あら、お母さんは?」と聞いた。その子達が振り向いたほうを見ると母親らしい女性がぱっと門の横に隠れた。「おなかが空いてるのね。ちょっとまってね・・・」といって母は台所に戻り、外米と押し麦を混ぜたおにぎりを三個作って縁側に戻り「お母さんにもあげなさい」と言って手渡した母の目が濡れていた。「ありがとうございます。ありがとうございます!」とその子達の母親は何度もお辞儀をして、子供たちにもお辞儀をさせて去っていった。白米は軍隊に行ってしまったので国民たちは配給のまずい外米と押し麦などが主で白米は特別な時だけしか食べられなかったが、住所もないため配給券さえもらえなかった人々は、この親子のように物乞いをするしかなかった。そういう人達も、田畑や漁業のある地方を放浪してたから生き延びたのだろうが都会だったら栄養失調で餓死したであろう。そんな時代でも我が家にはいつも食べ物があったし、不思議な事にお手伝いさんがいたので、中学生になった頃「戦後の事ちょっと聞いていい?私をかわいがってくれたトシさんとか、キミさんとか覚えてるけど、あのお金がなかった時代に、どうして我が家には食べ物があって、お手伝いさんがいたの?」と聞いたことがあるが、母や祖母は着物や指輪、ネックレス、帯留めなどを食べ物と交換したといった。「口減らしと言って食べるのにも困っていた家族は食事つきで寝る場所があるだけでも喜んで娘を奉公に出したの、とくに家ではお嫁入り先を紹介してあげたしね」と言った。戦争が故の経済破壊が作り出した悲劇の一つであった。我が借家は駿河湾の真ん前にあったので浜辺がよくみえた。戦後は時々どこからか流れて来た男達が流木でキャンプファイヤーをし、その周りで野宿をしていたが汽車やバスに乗るお金もなかったのだろう。昼間は分厚い本を読んで口論をしていたから教授とか学生達だったのかもしれない。特にお盆のころは、漁村ではトマトやキュウリ、ナスなどに足をつけたものをお供えものとして浜辺にずらりと並べたから、そういうものを食べていたし、お茶などを与える近所の人もいた。鍵をかける家などなかったし夜中は大人の有志が、夕食後は私も属する子供会が順番に拍子木を鳴らし「ひのよ~じん。火の用心!」とユニソンで叫びながら近所をまわったものである。つまり市民全体で防犯、防火運動をしホームレスに対しても親切であった。田舎は貧富の差も少なく皆が貧乏であったから助け合い精神もみなぎっていたし犯罪も少なかったのだと思う。東京に戻った頃から都会にはスリ、押し売り、ゆすり、万引きなどの犯罪が多いことを知り家に鍵をかけるのは当たり前になった。人を疑わない田舎の人たちが都会で簡単に騙されるいやな時代にはいり、私自身何度も被害者になったことが私をずる賢くしてくれ、そういう時代が無駄を出さずresourcefulでサバイバルに強い人間に育ててくれたから『貧乏は買ってでもしろ』という意味もよくわかる。結婚して先ず住んだ1960年代のホノルルでも、ワイキキのように犯罪の多い場所と安全な場所があって、我々が住んでいたマノアの辺りは治安もよかったし、現在住んでるオレンジカウンティーでも30年前は治安がよく、車や家の鍵をかけ忘れても無事だった。更に70年代くらいまでは、低所得者でもクレジットが良ければ安い家が買えたし、最低賃金でも夫婦共稼ぎならアパートを借りて最低限の生活ができた。因みに、ホノルルでは私の時給が90セントで前夫は$1.10だったが生活できた。ところが現在は、働けど働けど家など買えない大学卒が大勢いる。これはハイテクのオートメ化や企業の経営者側の欲と政治のせいであろうが、その政治を操る大統領や議員を選ぶのは国民であるから我々にも責任がある。筆頭の話に戻るが、ホームレスが増えている事は急に起きた分けではなく何年かの政治の積み重ねで物価と収入の比例が狂ってきている証拠であろう。例えば60年代のガソリンは1ガロン11セント、家賃は$30前後、今はガソリン40倍~家賃100倍になってるのに連邦の最低賃金は$7.25で8倍だから低所得者が暮らせるわけがない。ホームレスが増えるのも当然である。そんな事を考えながら用足しにでかけたら、郵便局前に「助けて下さい」という表示と赤ん坊を抱えた女性がバラの花を売っていたので「はやく仕事が見つかるといいわね」と言って一本買ってきた。貧困者の増加を感ずる最近である。
2024.06.02
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昨日は、トランプ裁判判決の二日目で、「今日は判決があるだろう」と思ってテレビをつけっぱなしにしていたんですよね。こういうときリタイアーしてる自分は自由があっていいなあ、と思うんですけどね、年取ってるでしょう?だから、昼寝もよくするのですよ。たまたま、前の晩二時に目覚めて、それきり二度寝ができなかったから、テレビを消してうとうとしてたら、その内に寝ちゃったんです。携帯のLINEの音で目覚めてテキストを見ると「アメリカは有罪判決でも大統領候補者続けられるんだって?」と日本にいる弟からじゃないですか!「え?何?有罪?」とテレビをつけて見ると、もう蜂の巣をつついたような騒ぎ、折角その瞬間をみたくてつけっぱなしにしていたのに、見逃しました。こんなドジが増えてきてます。そうなんです、アメリカは連邦(全国)と、州の法律があって大統領の選挙くらい連邦で同じ法律だとおもうでしょう?それが、違うんです。去年コロラド州だったかで、「あまりにも沢山違法なことをしてるトランプなんか、投票用紙に載せない事にしよう」みたいな事になって、大問題になったのですよ。勿論、結局は載せることになったんですけど、今度はオハイオ州で、その敵討ちのように「バイデンの名前を載せないと州会議で決めた」というニュースが流れて又、すごいことになって、それも結局は載せる事になったんですけどね、なにかおかしいと思いません?今回は大統領だった人が裁判で有罪になってもし投獄になったとしても大統領候補者として選挙運動4を続けられるのか、又は当選したら大統領になれるのかという質問ですけどね、両方とも、Yesなんです。これもおかしいと思いません?ところが、もしトランプが投獄され、それでも大統領に当選したとしたらどうなるか?というと、連邦の違法で逮捕された場合は大統領として自分を免罪釈放できるのですが、州の違法で逮捕され州の監獄にいる場合は自分を免罪釈放できないのです。その場合は州知事が権利をもってるんですよ。変だと思いません?更に、投獄されたら勿論投票権利はなくしますけど、ニューヨークでは有罪でも牢屋にいなかったら投票できるのですよ。それも変だとおもいません?とにかく、こんなのはほんの一部、もっともっとデモクラシーの理屈にあわないことが沢山ありますよ。
2024.06.01
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我が家は四方に庭があります。裏庭、前庭、横庭、中庭、去年はいままでにない大雨続きだったせいか、一斉に花がさきだして、この家を買ってから30年目に花だらけになってます。応接間と一緒のダイニングテーブルの横にあるパティオのモンステラの枝にハチドリが巣をつくり二羽のひながかえって、もうじき飛び立つのでしょう、かなりアクティブになってます。面白いことに、この巣はもう5,6回も親鳥が卵をうんで、ひなを育ててます。50円玉より小さい巣で育つ小鳥でも、毎日みてると情がわいてきて、カラスやカケス系の鳥にやられるとかなり落ち込むのですよ。でも、この巣は他の鳥にみつかりにくい場所なので今のところ大丈夫です。世の繋がりで、大雨続きは植物が繁殖して鳥も増えますからね、なんか、あちこちにハチドリが飛び交ってますよ。ただ、草花が増えると、アレルギーも増えますね。
2024.05.30
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皆さまもご存じのように、アメリカの50州は選挙権のある市民の多数決で青州(民主系)か赤州(保守系)とか名づけられてしまうんですよ。勿論これはその時の人口で変わります。例えば、カリフォルニアやニューヨークは長いこと青州。テキサスやカロライナは赤とか・・・そしてこれまた、面倒なことは法律も連邦(全米)と州律がちがってね、全米の選挙でも州で勝手に投票用紙とか投票規則をかえることもできるのですよ。それって、おかしいですよねぇ。去年だったか、トランプのセクハラ裁判があった頃、どこかの州で、「投票用紙からトランプの名前をはずそう!」とかいう運動が起こって、蜂の巣をひっくりかえしたような騒動が起こってね、最終的にはとりけしで、有罪になってもトランプの名前も投票用紙にいれることになったのはよいのですけど・・・今度はオハイオ州 (赤)で、バイデンの名前を投票用紙に載せないと州議会で決めたのだそうで、今州知事が、「そりゃ~ないだろう。締め切りが近づいてるから即、バイデンの名を投票用紙に含むのを緊急会議で決める!」と、憤慨してるニュースがでてたけど、デモクラシーをほこっているアメリカでこんなことがあるってのが、第一なっとくいかないですよね。今のアメリカの政治は程度の低い高校生の会議のようで、腹がたつよりあきれてます。「なんだ、その偽金髪は!」とか個人攻撃したり、酔っぱらって映画館でエロ行為したのなんの、もう最低!こんな人を選ぶ市民にも頭をかしげますね。それからね、私、この20何年、ブログで繰り返してますけどね、あのジェリーマンダリンぐってのは、どうしてでもなくすべきだと思ってます。ジェリーマンダイングというのは日本にはないから、おそらくアメリカだけかもだけど、多数派(私の知る限り保守)が、地図の上で保守の少ない場所、多い場所に勝手に線をひいて保守に都合のよい選挙地区をつくってしまうことです。これは、アメリカ特有のエレクトロカレッジというシステムで一般投票数で当選者がきまるわけではないのですよ。ほら、ヒラリー・クリントンのほうが一般投票数はトランプより多かったのに、エレクトロカレッジでトランプが勝ったでしょ?納得いかね~んだよ。ってグレッグと憤慨してますよ。ちょっと、朝からふんがいしてるので、一筆かきたかったのですよ。すんません!
2024.05.29
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Thank you, Veterans! On Veterans' Day, I would like to share two TANKA poems from the book I published in 2015. 2015年に出版した英語版の短歌本から抜擢してみました。今日はアメリカでは国のために戦った人たちにお礼を言う日です。私は日本からきましたが、どの国とか関係なく、戦争というのは馬鹿らしいものだという経験談を短歌にしたものです。What is war? I'd ask.Demolish our creations,murder and maim men,even destroys human soul.War is not Cool at all, Fools! (from page 141)人殺し 環境破壊 精神も むしばむ戦争 何がクールだ!I question myself.Who will become the victims?Who will benefit?Who is the perpetrator?Who still wants to join a war? (from page 143)戦争は 誰が犠牲者?加害者は?誰の利益か 良く考えろ
2024.05.28
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大正生まれの母はスポーツが得意で娘時代はバレーボール、スキー、テニス、スケート等も上手だったらしく走るのもクラスで一番速かったと言っていた。母が14,5歳の頃、蔵王で父親(私の祖父)とスキーをしている大きな写真があった。スキーウェアなどという洒落た服など無い時代、今の言葉でいえば二人共ダサイ恰好で竹のスキーで滑っていた。戦後は生きるのに精いっぱいであったからスキーとかテニスどころではなかった。幸い水泳は体一つで出来るので、母は疎開先の海で夏の間、暇さえあれば泳いでいた。じつに美しいフォームでクロールをする母の真っ白い肌が海の色に映えて娘の私が言うのもへんだが、ビデオ・カメラがあったら保存しておきたかったと今でも思う。その母から私は泳ぎをおそわった。 母の教え方はスパルタ式で、足が届かないところでポーンと私を投げ込み、後ずさりをし私が死にもの狂いで手足をバタバタさせて、手が届きそうになると50センチ位後ずさりするのを続け、泣き叫んでも救い出してくれなかったが、やっと足が底に届いたときは抱きしめてキスをしてくれた。少し泳げるようになった頃、母は「肩につかまりなさい」と言って私を背中に乗せ100メートルも200メートルも泳ぎ、その内に私は母につかまらないでも一緒に泳げるようになった。 海の真ん前の家だったから、暖かい季節になると朝凪を楽しみ、お昼は家の二階のドアをあけて、「ごはんよ~」と母が叫ぶのですっ飛んで帰り、縁側で食べてまた海辺に戻り、夕暮れまで遊ぶという繰り返しだった為、肌はこげ茶色になった。海軍士官だった父からは海流や潮の満ち引き、離岸流、暖流寒流、荒波から抜け出すコツなどを教えてもらったので波をみる目もあった。 東京に戻って中学校に通いだした時、隣に古橋雷太という生徒が座り、真面目でニコリともせず近づきがたかったが質問した時に静岡訛りだったので、「静岡県出身?」と聞くと頷いた。「私も興津で育ったから静岡弁できるよ」と言ったとたんにニコリとして仲良くなった。東京で地方の子はのけ者になる時代だったので彼も嬉しそうだった。「古橋ってさぁ、オリンピックで金メダルとった水泳の選手と同じ苗字じゃん。古橋廣之進つう人」というと、「兄貴だよ」と答えたので驚いた。「へぇ!私もオリンピックの水泳選手になりたかったけど、東京に戻ったから泳げなくなった」というと、「プールに行きゃ~いいじゃん」「そんなお金ないよ」とかいう会話を覚えている。 東京オリンピック近くに日本もやっと活気がでてきて、私も数回ホテルや神宮外苑のプールに行った事があるが、貧乏だったので払った分だけ泳がにゃ損だ、というさもしさで一旦泳ぎだしたら一時間でも休まずに泳いだから水から出るといつも大勢の人が「どんなやつだ?」と見ていた。女の子は殆ど泳がなかった時代である。その中に先日お亡くなりになった小澤征爾氏がいて手を叩いて下さった。荒海で鍛えられていたからプールで何往復しても平気であった。高校でも水泳部にはいったが、飛び込み専門だったのでやめた。 そういう私がアメリカ人と結婚してハワイに住むことになり一年中泳げた事は夢のようであった。時間さえあれば泳いでいたから、肌黒さが体に染みついてしまった。前夫はカリフォルニア出身でライフガードをやっていたので泳ぎは速かったが、遠泳では私に勝てなかった。どこでも泳ぎたくなる私はいつも水着をもって旅をするが、タヒチ、キューバ、メキシコ、ドーバー海峡、黒海(ウクライナ側)、アドリア海、マルタ、スペインでも泳ぐチャンスがあった。 再婚した夫は年下の絵描きであった。ニューポートビーチで育ちサーフィングは少ししたらしい。一緒になって日が浅かった頃メキシコのプエルト・バイヤルタに行き、昔『イグアナの夜』という映画のロケをしたミスマロヤ・ビーチで泳ぐ事になった。透き通るような海水で100メートルくらい先に浮きがあって、彼が「あそこまで競泳しよう」と言い「用意ドン!」で泳ぎ出した。私は一目散に泳ぎゴールについて振り向くと彼は30メートルあたりでギブアップしていたので「どうしたの?」と聞いたら、「僕は泳ぐより潜る方がうまいんだ」と言った。まさか日本人の年上女に負けるとは思わなかったらしい。 突然海パンを脱ぎ5メートル先に投げた彼、潜ってはいて出て来て「ね?上手いだろう?」と言い又投げては浮かんできた。「あのねえ、海流があるから探せなくなったら困るよ」と私が注意すると「こんなに動きの無い所は大丈夫だ」と言ってもっと遠くに投げた。暫くすると、きまり悪そうな顔で浮かんできて「海パンみつからない。悪いけど岸からタオル持ってきてくれ」と言うではないか。吹き出しそうになるのを必死にこらえて浜辺まで行き、ちょっと悪戯っけをだした私はタヒチで買ったピンクのパレオを彼に渡した。「タオルって言ったじゃないか」「大きなタオルは水を吸って重くなるから駄目」という私を睨みながら、彼は体にピタッと吸い付いて透き通るようなパレオを腰に巻き超スピードで浜辺のタオルに座り二度と競泳しようと言わなくなった。(笑)
2024.05.02
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こんなタイトルを見たらなんだと思っちゃうでしょうね。実は今さっきSUNRUN ソーラーパネル会社からメールがありました。それには、あなたのソーラーパネルは、この一年で6423キロワット生産しました。これを続けることによって、505ガロンの石油を使用しない計算になる、うんぬん・・・あなたのために木を一本うえました。きれいな空気を未来に残す協力をありがとうございます。みたいな文章でした。2年前のガス代がべろぼうに上がって、冬の3か月は平均$700だった事件ここにも書きましたが、覚えてますか?その時、私は署名運動を起こして近所を歩き回り、ガス会社、知事、コミッショナーに抗議書を送りました。その返事などきませんでしたけどね、ネットや新聞に大々的に取り上げられてましたから、他からもたくさんの講義がきたのでしょう。腹が立って、「電気代も上がる一方だけどガスは最小減にして、電気暖房に切り替えよう」と去年の今頃13のパネルをとりつけたのです。「さて、電気代はどうなるだろう?」とこわごわと最初の請求書をみると$98、「え?うっそ~!これじゃちっとも倹約にならないじゃないの!」と思っても一度みると、小さなマイナスのサインがあったのですよ。つまり。ー$98だったのです。それからというもの、温かい季節(7,8カ月)は毎月ーがついているので、経験者のお隣さんに「これどういう意味?」と聞いたら、「毎年4月くらいに、電気会社から$1,000近い小切手がくるよ」というのです。つまり、使い残りを電気会社が買ってくれてるのですね。それと、もう一つうれしいのは、周りが停電だったとき我が家は電気があったことです。普通の半分の電力になるので必要な場所だけ使えるように設置してもらたわけでパソコン、冷蔵庫も、魚の水槽も、テレビも消えません。つまり、電気が戻るまでのスペアの蓄電池があるのですよ。これは便利ですね。一軒につき一本の木を植えてくれるそうなので、この会社では100万本の木を植えたようです。未来のために協力してるようでうれしいです。
2024.04.23
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アメリカに来て60年になるんですが、国の大統領が刑事訴訟で裁判になるのは、アメリカの歴史始まって以来はじめてなんでびっくりしてるんです。しかも日本だったら政治家と芸者との不倫とかあっても「しょうがないなあ、またかよ」で消えてしまうんでしょうけど、トランプ氏のやることには、違法がからまってくるんですね。しかも自分の強欲からなんです。皆さんもう知ってると思いますが、トランプ氏の不倫二件ね、ポルノスターのストーミー・ダニエルさんと、プレイボーイクラブのキャレン・マックドゥーグルさんとセックスした話ね。しかも、奥さんのメラニアさんが妊娠、出産、子育て中に起きたことで夫婦間に亀裂がはいってますけど、事件そのものは別に違法ではなかったんですよ。ところが、大統領候補になったでしょ?そういうことがバレちゃうと選挙に響くとおもったんでしょう、慌てて口止めにかかったんですよ。で、だまって現金で払っておけばわからなかったかもしれないんですけど、彼は自分のお金をつかいたくないもんで、選挙資金で払ったらしいんですね。それもばれないように、自分の弁護士に彼の小切手で払わせて、弁護士に払い戻した分は、経営費として落としてるのですね。所得税からひけるように。。。。それが、法律違反なんです。でその裁判が15日からはじまったんですけどね、彼はもう有名すぎて事件を知らない人なんて人、まずみつからないですよね。世界中に知れ渡ってるんですから。それで、陪審員を選ぶのにも大変なんです。で、トランプ氏はマフィアのボスのような人ですから、彼に不都合な人(反対意見者、裁判官、証人とか)は子分たちや、彼を応援する超右派の人たちをつかって恐喝をせるらしいのです。電話や、メッセ、メールで、「殺すぞ」みたいな脅しをするのです。もう、何百件ではきかないでしょう、脅された人たち。しかも、本人だけでなくその家族、兄弟、親戚にもわたって脅すのだそうです。そういうわけで、こわがって誰も陪審員になりたがらないのですよ。そりゃそうですよね。それで、すったもんだ時間がかかってます。すると、すぐそれを理由に「公平な裁判はできないはずだから、この裁判をやめろ」というわけです。国会は混乱するし、議題はすすまないしで、今のアメリカ嵐の真っ最中で、11月の大統領選挙のことも、「俺が負けたら、壮絶な戦いが起きるだろう」みたいなことをいってますからね、皆戦々恐々としてますよ。元の保守党員はどんどんやめて、バイデン大統領を応援するといってる人もいるし、トランプ派は、またバイデンになったらこの国は亡びるだろうなんて言いふらしたりね。もう、24時間 トランプのニュースに明け暮れてます。だから、無料宣伝になってるから選挙運動しなくても大丈夫だとか、言ってますけどね。どうなるんでしょうね。アメリカがこんな国になるとは思ってませんでした。
2024.04.19
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何年まえだったか、東京の文京学院大学で「プラス思考の導き」というタイトルで、英文科の新入生達に講義をしたことがあります。2003年くらいから、このブログを書いてるので、覚えていらっしゃるかたも大勢いるでしょうが、この世の中の繋がりを中心にして話しました。最近、グレッグがどういうわけか、観音像に凝ってしまい、立て続けに3個も注文、最初の一個は私の誕生祝だといってくれたという話、ここでも書きましたが、自分のも欲しいといって、また注文したらそれが届かず、売り主と2月からやりとりしてます。それが待ちきれずに、また次のを注文。それが、下の写真です。 彼は、私がいつも観音教を唱えてるのをしらなかったから摩訶不思議なのですが、彼がこの陶器のを買ったときに「この世は全部原因と結果でできていて、良いも悪いも全てがつながってるから、愛、慈悲と真をもって人と付き合うようにということをおしえてるのよ」「例えば、今たべてる、この朝食も世界中とつながってるのよ」と説明したら、「パンケーキがか?馬鹿らしい、そんなことどうしてわかる?」と言いました。「そういうと思った。あなたにもパンケーキしかみえないんでしょう?だから、生徒たちにも、タコスの写真を見せて、あなたが見えるもの全てを言ってごらんなさいと生徒にもきいたのよ。そうしたら、案の定、タコスが二個、といった生徒が過半数、タコスと、それをのせた皿といった生徒が数人、テーブルも見えるといった生徒もさらに少数だった。でもね、これ、世界中がつながってるのよ。と言ったら、皆、え~?と言ったんだよね。あなたみたいに。」 で、私説明したんだね。人間はね、目に見えることだけで判断する人が多いわけ。でも、このタコスのなかには、ひき肉、トマト、レタス、チーズなどなどが入ってるんですよ。で、そのタコスの皮だけをとって考えてみましょう。これは、トウモロコシの粉でできてるのね。トウモロコシは畑に種まいてそだてるよね。肥料も水も必要ね。その肥料はどこからくるだろう。大きな袋にはいってるなら、その袋を作る会社もあり、その袋に印刷する会社があり、その印刷のインクをつくる会社、機械をつくる会社、それを運送する車もあるでしょう。車はだれが作るのだろう?車は何で走る? 石油?石油はどこから、どうやってその町に来る?と他のものと一緒に考えてごらんなさい。タコスの皮だけでもそうですからね、チーズは?レタスは?お皿は?と考えたら世界中つながってるのがわかるのよ。「と、生徒たちに説明したんだな。わかった?」とグレッグに言ったら、「なるほど」と納得してくれました。(下に続く)きっと、皆さんもやっていらっしゃるでしょうが、数日前にバナナ・ナッツ・ブレッドを二斤焼きました。それを、半分近所の未亡人にあげたら、彼女の木から50個くらいのレモンをとって、持ってきました。おとなりの、イラン人のカップルにもブレッドとレモンをわけたら、5人分くらいものイラン料理を持ってきました。そして、昨日はラナにも1ダースのレモンをわけました。こうやって、どんどんつながっていくのですよね。ですから、ちいさなことでもいいから、毎日よい種をまくことですよね。
2024.04.14
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(これ、二月ころの写真)スピードウォークをするラナとは、2000年からですから、24年になりますが、毎週金曜の朝8時に一緒に歩いてます。今朝は、「私たちが長続きする理由はなんだろうって、考えてるのよ。」と言って、二人で考えたんです。お互いに話題が豊富で、話が尽きないことが第一かな。それと、相手の話をよく聞くこと。質問がたくさんあって、互いに学べることもあるなあ。彼女はブッククラブに属してるくらいですから、ものすごい量の本を読むんですよ、私と交換したりすると、また本の内容の話になったりね。。。又、二人とも旅がすきだから、旅の話ね。彼女は絵描き、私の夫も絵描きだから絵の話題も多いしね。それと数ある友達の中でも、お互いなんでもかんでもはなせる相手なんです。それから、二人とも、あっさりしてるなあ。スピードウォークの他は、互いに独り占めせず、別々の友達とパーティーしたり、食事したり、その話をシェアしたりで、嫉妬もないですね。。。それでいて、困った時はいつでも知らせてね。。。という感じで、我々が旅行中は花に水まいてくれたり、彼女の鉢植えのレモンの木が何年たっても実をつけないというので、「じゃ、私が育ててあげる」と我が家の土に植えて、レモンがなった時にあげたり。去年など、私が呼吸困難で入院したときも、退院したら食事を持ってきてくれたりね。こういう友達、いいですねこれは、今朝のスピードウォークの途中です。
2024.04.13
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孫がスカウトされたアメリカン・アイドル、結果的には彼のステージは放映すらされませんでしたので、しめくくり話をさせてください。そうです、ライアンは応募したのではなくスカウトされたそうです。歌うために生まれたような子で小さいころから人前でうたうのが大好きで小学生から自作自演をしており、大学(USC Thornton School of Music)でperformance科に属しSpotifyでも既に3万人以上のステディーの視聴者がいますから去年の9月ごろアイドルから「番組にでてみないか」という連絡が入った時は『たなぼた』と本人も喜んでいたのです。「誰にも詳細を公開しないこと」という契約書に署名させられただけでなく、ハリウッド版が終わるまで新曲を公開してもいけなかったみたいだし、家族に口外した時点で外されるのことでした。Santa Barbaraで行われた最初のテストでは三人からYesが出て「君には輝かしい将来がまっている」みたいなことを言われたそうですがいくつかのシリーズにパスすると、自作の曲は全てアイドルの持ち物となるのを知ってハリウッド版でやめる計画だったみたいですからそれほど落胆はしていませんでした。最後ですが応援してくださった皆様に、心からお礼を申し上げます。ちなみに彼が歌った曲のリンクを入れておきますので、興味のおありの方はどうぞ。自作自演です。Ryan Mitchell - "Ruin My Life" (Official Music Video) (youtube.com)
2024.04.04
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水 私は今ベランダに雨が降るのを見ながらこのエッセイを書いている。年中乾燥している南カリフォルニアにとっては恵みの雨。人間の体の大半はH2Oで出来ており、故に水が無くなると生きてはいられない事を本能的に感ずるからだろうか、雨をみると妙な安心感が湧く。 水と聞くと小学二年生の時の教科書『みずのたび』を思い出す。水さん達が空から水滴(雨)として地球のあちこちに降りてきて、草木を育てたり人間や動物の生きる元となり、やがて地下水、池、川、海などに紛れていつかは水蒸気となってまた空にもどって行くのだよ、というサイクルをイラストしたものであった。今の地球はそのサイクルに狂いがきていて、近年はあちこちで恐ろしい大洪水がおきている。被害者の方々のスピーディーな復活を祈らせていただく。 現代では水は日本でもアメリカでも当たり前に水道からでていて、トイレやシャワーで流し、庭に撒き、洗濯機を使い恐らく誰も感謝などしていないだろうが、戦争を経験した私には実に有り難く思える。敗戦後何十年かの日本の都会は節水、節電、節ガスで大変だった。何故なら敵の爆撃で水道管、ガス管、変電所も破壊されたからで、「なおせば、いいじゃん」と現代人は思うだろうが、敗けると国家全体が貧乏になるわけで材料費、工事費を工面するだけでも簡単な事ではなかった。 疎開先の借家には台所に井戸があって水は使い放題であったが、1952年頃の東京は瓦礫から半分も立ち上がっていなくて水の出る短い時間がきまっており、やかん、なべ、空き缶、ばけつ、たらい等に汲み取っておき、家族全員がそれで顔を洗い、歯を磨き、料理をし、食器を洗い、洗った水も埃だらけの道に撒いたりした。お風呂がある家庭でも自宅で沸かせた人が少なかったのは、配給制になっていて燃料など一般家庭では手にはいらなかったからだ。 私が中学の頃、疎開先から東京に戻って来て間借りをしていた事は前に書いたが、真冬などそこの大家さんが毎朝やかんにお湯をいれたものを洗面所に持ってきて「ヒロコちゃん、タライに水を入れたら手が凍らない程度に熱湯をいれてあげるから」と親切に歯磨き分のコップとタライに熱湯をそそいでくれ、「顔を洗った残りで、ハンカチなり下着など洗いなさい。洗濯は翌朝、風呂水を使いなさい」と教えてくれたものである。 その家には大きな風呂場があり七家族がお金を払って順番にはいったのだが、三畳を借りていた貧乏大学生とか、四畳半に住んでいた母娘三人などは、そういうお金さえ惜しんで週に一度くらいしかお風呂にはいっていなかった。それでも屋根と畳のあるちゃんとした家の一部屋に住める人はラッキーであった。そういう事さへ出来ないホームレスは、地下道とか、電車のガードレールの下、駅の構内などにむしろとか、新聞紙を敷いて寝泊りするしかなく虱がはびこったので学校では強制的に男生徒は坊主刈りにされ、女生徒はDDTという殺虫剤を髪に吹き付けられスカーフを被った。 水の話から虱の話に移ってしまったが、この世は全部繋がっているから一つが狂うとこのような連鎖反応も起きるのである。因みに何十年もたってから、そのDDTが原因で癌になったらしいと疑われた人が続出したニュースが流れた事もあるが幸い私は大丈夫であった。ただ、あのDDTの臭いは今だに忘れられない。 冬の間どうやって暖をとったかというと、厚着の他に石油ストーブや火鉢が主で、炬燵も使用していたが小さな部屋を借りていた人はそんな場所さえなかったから、湯たんぽか大抵は必需品の火鉢であった。人々はその火鉢の上に鍋をおいて料理したり、網をおいて魚や餅をやいたり、湯を沸かしたりすることで部屋を暖めていた。ところが狭い部屋で炭火をつかった為に二酸化炭素中毒で死者が続出したり火事も少なくなかった。練炭コンロもあったが高熱で危険のため室内では使用しなかった。 終戦直後は東京の代々木にあった元帝国陸軍の練兵場を没収され米軍士官家族専用に塀をめぐらせた小さな町を作りワシントン・ハイツと呼んだ。そこは洋式トイレやキッチン暖房もある家、スーパー、教会、学校、プール、テニスコート等もあるミニ・アメリカであった。 1964年に最初の東京オリンピックが行われたのだが、海外からやってくる選手のために突貫工事でそのワシントン・ハイツを選手村に変身させた。同時に水道、電気、ガス等の配管やら電話線やら下水管が都内に出来上がり、やっとその頃から殆どの家で水道が普通につかえるようになったが、まだ冷水だけでトイレも汲み取り式で下が見える不潔なものであった。終戦から二十年も経っていたのにである。 その年に日本を脱出して来た私は、ホノルルで蛇口からでる水の美味しさに感激し、ふんだんに湯水を出して浴びるシャワーがとてつもなく贅沢に思えた。人々は長い事水道水を飲んでいたのに、いつの間にか飲料水を買うようになり今ではそれが当前の時代になっている。その習慣は世界中の国々に広がり食べるのにも事欠いてる人までペットボトルの水を飲むようになっているのが不思議でならない。その為に世の中が汚染されだした。水は命の元だがペットボトル廃止の時が来たような感じがする。
2024.04.02
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雨の日が好きなんて書くと、雨ばかりの地方の方からは叱られそうですが、私は南カリフォルニアに、1969年から住んでいて年に数日しか雨がふらない砂漠地方なのでね、とくにこの数十年干ばつ続きで水不足だったので、雨がふるととっても安心できるのです。カリフォルニアのあちこちの湖の水域が半分、またはそれ以下とか、まったく枯れてしまったところもあるので、豪雨続きで、洪水参事もありますが、生物の生きる糧である水がふんだんにあることは、ありがたいものです。4月号に書いた、その「水」のエッセイを明日載せますね。雨模様の日は、二階の私のデスクの横のガラス戸のShadeを広げられるから、自然に深呼吸まで出ちゃいます。晴れの日は、まぶしすぎてフルに開けられないのです。
2024.04.01
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たいていの人は、いつかは自分の家を持ちたいと思いますよね。でも、私の人生を通じて、家を買うだけのお金がある人でも自分の家を持ちたくない。。。と言った人が意外に多くいたのには驚きました・・・が近年、我が家のあちこちが傷みだし雪崩のようにドドドド!と出費が続きます。まずは、水漏れね。50年前の建築はスラブメソドといって水道管の上に砂と土をのせコンクリートの床をいれたので、その水道管に穴が開くと床からじわじわと水が漏れてくるので、家具を全部どけ、カーペットをはがしてコンクリートの床に溝を掘るので、家にいて外にいる感じになります。それが、二度続いたとき、三度目はもう水道管を全部新しくいれなおしました。次は、キッチンね。オーブンも、レンジも、食器洗い機も、全部ぼろぼろでよく今まで、こんなのでベーキングしていたものだ、と思うくらいひどいものになってました。じゃ、ついでに、カウンターも替えちゃえということで、これまた数週間大変なさわぎ。次は、ガス代のとんでもない値上がりに、「ソーラーパネルにしちゃえ!」というわけで、その工事でまたまたひと騒ぎ。家についてきた、ガスのセントラル・ヒーティングはもう古くて二酸化炭素中毒で危険なので、必要に応じて使う電気ヒータに切り替えた、と家の保険会社に報告したら、それではダメだといわれて、今度はガス暖房の親分みたいなのを全部新しくしなければならず、またまた、4,5人の職人がどたどた家じゅうを歩き回るしまつ。「もうお金ないよ。霞を食うか、餓死するか」と冗談を言ったとたんに、前代未聞の雨続きでしょう?4か所に雨漏りのあとが・・・!ぎょ!屋根屋にコンタクトしたら、今忙しくてスケジュール組めませんとのこと。その時、筆頭に書いた友達のことを思い出して、「なるほどなあ。自分の家を持ちたくないわけが分かった」と思いましたよ。人も、家も古くなるとあちこち修理が必要になるんですよね。だから、家を持つということは、それ以上の蓄えがないと危険なんですよね。でも古い家ですから、庭の草花が大きく育っていることが慰めにはなってます。あ、まだあった。壁のあちこちに亀裂ができてます!開かないガラス戸があります!ゲートが傾いてます!でもね、住めば都なんですよね。
2024.03.31
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(先週と同じ写真を一枚いれましたけど、あとの二枚は今朝写したものです。本日は晴天なり)親友のラナはプロの絵描きで私より年上で、カナダ生まれです。彼女とは2000年にグレッグのアートショーでめぐりあったのですが、その時は何百人も見に来たゲストの一人だっただけで、忘れていたぐらいです。ところが、友達になるのが前世から決まっていたような感じで、ある日隣町の図書館でであって、「どこかで、あった感じね」「あ!ラグナビーチのアートフェスティバルじゃない?」「そうね、じゃ、また」という何でもない挨拶でわかれたのですよ。ところが、翌日また銀行で顔あわせて、お互いに笑って別れたら、その翌日はマーケットでまたぱったり顔を合わせたのですよ。三日も続けて・・さすがに二人とも「これは、誰かさんが(と人差し指を天を指して)友達になれって言ってることね」「ならないわけにはいかない」と言ったのが始まりなんです。そのラナと毎週金曜日の朝8時からスピードウオークを初めて、今年は2024年ですから24年にもなるのです。今日はその金曜日。考えてみたら58歳から二人で歩いてるのですね。ひょっと考えたら82歳になってました。楽天の皆様とも20年以上のお付き合いですね。アメリカも変わりましたよ。女の子のサーファーがどんどん増えてます。
2024.03.30
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2月にアメリカン・アイドルの記事を載せさせていただいたので、アップデートする義務ありと思い、また報告させていただきます。孫のライアン、アメリカン・アイドルの最初のステージを突破しましたが、本当に、最後の最後まで知らせてはいけないという契約にサインしたので、昨夜まで知らせてくれませんでした。つまり、サスペンスを保持するためなんでしょうね。家族にも知らせてはいけないそうです。知らせた時点で、外されるのだそうです。商業秘密なんでしょう。更に、ライアンだけでなく多くのコンテスタントのヴィデオも放映されなかったようです。つまり、編集の時点でカットされてるのですね。私は、この番組はじめてみてるのですが、どうやら「お涙頂戴物語」がある人を多く選んでるように思いました。ライアンのように比較的幸せな生活をしてる人の話は視聴者にとっても面白くないからでしょうね。昨夜で、最初のテストは終わったようで、次はハリウッド版らしいです。さて、ここでも何人がスクリーンに出るかわかりませんし、ライアンがパスするかどうかもわかりませんが、「毎週みなくては」という風に洗脳されてます。それがショーの目的なのでしょうけどね。でも、ここだけのはなし、正直言って孫がでてなければ絶対にみない番組です。
2024.03.26
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2000年より、週一で親友で絵描きのラナとスピードウォークをやってますから今年で24年ですね。長続きをする理由は、二人とも健康であることがまず第一でしょうね。そして、無理をしないこと。理由がなんであれ、「今日は行きたくない」といえば、お互いに「オッケイ、じゃまた来週」という感じ。そして、夫婦間の話、嫁との問題、孫の話、政治、本の感想、旅のはなし、料理、とにかく話題が広くて会話に飽きがこない。彼女のほうが年上なんですが、歩くのも速く頭の回転も速い。ときどき海辺のスナックで、コーヒーのんだり・・・・鳥のこともよく知ってる人。で、20年は、公園をあるいたので4年前から海辺のコースに切り替えて潮風を吸い込みながら歩きます。ただ、いつもコンクリートのコース。それで、今日は浜辺まで下りてみました。すると、今日はサーフィングの期末試験のようで、試験管が一人一人の成績表に何かかきいれたり、前もって合図を決めてあるのでしょうサイレンをならしたりしてました。私の子供たちが高校の頃から、この辺のビーチタウンの学校では、体育のチョイスとして、テニス、水泳、フットボールなどのほかに、サーフィンもあるのですよ。追伸:新しいパソコン、携帯で写した写真全部が直接pcにも入っているので、楽天ブログも簡単になりました。いままで、Facebookに書いて、写真をいったんDLして、貼り付けるのが面倒だったのも、ここで簡単に貼り付けられるので、これからは、ちょくちょく書きますね。ときどき、LIKEボタンを押してくださると、もっとかきたくなるでしょう。では。。。。
2024.03.23
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どうも、パソコンの様子がおかしくて、所得税用の領収書をオーガナイズしたり、計算したりしてる途中でハックされ、パソコンをオフにさえできず。パワーオフにしても、またオンにするとまだ同じものが「あなたのパソコンは非常に危険にさらされてます。すぐにコールセンターに電話をしてください」というのが、でてきました。マイクロソフトと、私のプロバイダーのIconできたので、電話をしたとたんに、何かへん、第六感が、「すぐ、受話器をおけ」といってるので、電話を切ると、まったく、違う電話番号から、立て続けに電話がきたので、すぐにブロックして、翌日専門家にもっていって、なおしてもらいましたが、考えてみたら、そのパソコンもう15年くらい使ってるので、新しいのに買い替え、明日、専門家にもっていって、データのトランスファーをしてもらおうとしたのです。ところが、15年の間に、テクノロジーがすごくすすんでいて、電源をいれ、名前、WiFiのパスワードをいれただけで、勝手に、前のpcから、新しいのにトランスファーしてるじゃないですか!すごいですね。私みたいなばあさんでも、できるので、おどろきました。さて、楽天に何かかこうとしたら、日本語がない。。。。。それも、セットのところで、日本語とタイプしただけで、1.。。これこれ。。。。2これこれすれば、入ります。。。。とでてきて、これも自分でやりました。というわけで、明日のテクニシャンとのアポイントメントもキャンセル。みらいは、AIにはなしかけるだけで、全部やってくれるようになるでしょうね。未来といえば、今日、買い物のかえりに、グレッグと未来の話になり、数年前にみた私の夢の話をして、近い将来には、DNAで、肌や目のクロモゾンをかえることもできるようになると思う、そうなれば、人種差別もなくなるだろうね。。。。とか、300年後には、みな似たような顔になるだろうとか、それでも、まだ、欲とか、性格の違いはあるだろうから、また別の差別がでてくるだろうね、とか、結構たのしい想像をしました。300年先をそうぞうできますか?私は、2月のおわりに82歳になり、先が短くなってきてるので、やりたいことを、遠慮せず、どんどんやろうとおもってます。 今、新しいパソコンで、このブログをためしてみました。ではまた。
2024.03.21
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一昨日載せた・蕎麦のエッセイに書いたように、私の住むカリフォルニアの南の方にも、(ロス空港から100キロ南)沢山の和食堂ができ、ここは手打ちそばの店です。こしがしっかりして歯ごたえも良く、カリカリの天ブラを出す店で、お昼になると混むので、開店直ぐに一番乗りします。もう、日本にいるみたいに何でも和食が食べられるのですよ。長生きしてるってこういうことなんだなあ。。。。と思います。今日は、ピアニストのしょうこちゃんが、雑誌のエッセイを読んで、お蕎麦を食べたくなったから私の誕生祝にと、お蕎麦を御馳走してくださいました。ラッキー!!ありがとうね、昌子ちゃん。
2024.03.05
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光陰矢のごとしですね。このブログを始めてもう、20年以上たってしまいました。2月28日で、まさかの82歳になってしまいましたよ。昔は毎日のように書いてましたが、やはり、人間の事です何も反応がないと、壁にものをいってるようで、つまらないので、自然に足が(いや、パソコンだから指が)遠のいてしまいます。フェイスブックには、世界中の友達がくるので毎日、毎日写真をのせ、日記もかいてます。本名Hiroko Falkenstein でやってますので、どうぞいらしてください。リタイア後は時間ができるとおもいましたが、かえって忙しくなってます。これは、私自身のスピードが遅くなってきていることも理由の一つですが、友達が増えてることもあります。この歳になると、社会と疎遠になりがちですが、その反対なのです。また、家が古くなってきたので、あちこち改善しなければならなく、ソーラーパネルを入れたり、水道管を全部とりかえたり、台所をちょっと改善したり、先週は全館の暖房装置を取り換える作業、そうしたら、今度は雨漏りね。。。。そして、上に書いたようにお友達が増えてるので、お食事にでる回数がふえたり、呼んだり、犬が死んだり、また飼おうかとはなしたり…という感じで、楽天はだんだん書かなくなってますことお詫びします。写真日記の説明としては、未だに、ちょくちょく、友達をよんで昼食会をしてますし、50年以上付き合って引っ越してって友達が遊びにきたり、娘が誕生カードを描いてくれたり、夫のグレッグから、紫檀の木彫り観音像をプレゼントされたり、次の本を書いていたりね。で、2000年から始めたスピードウォークも続けてますよ。ストレッチも毎朝やってますから、未だにを地面にピタリとつけることができます。80歳から、毎年誕生日に写真を撮って載せて、「継続が大事なのよ」という事をお見せしたいわけです。では、今から、火災警報器を6個とりつけたり、納税の用意です。(こういうことは、夫が出来ないのですよ。ですから、この歳になっても、梯子にのぼって、ハンディーマンをやってます。)
2024.03.04
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六十年 離れた祖国忘れじと豆雛飾る三月三日
2024.03.03
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蕎麦「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぅ、お客さん、今なんどきで?」「いつつで」「ろく、なな、はち」と屋台の蕎麦屋がおつりを誤魔化す落語があるが、蕎麦というと思いだす話がいくつかある。 私はバツイチ女。バツになるとは勿論考えもしなかった新婚旅行の時の話だから昭和38年の事で、日本はまだ終戦の傷あとがあちこちに残っていた時代で新婚旅行など行けない人達が大勢いた。いとこ達は北海道への新婚旅行を全て払ってくれるという雑誌のコンテストに応募して奇跡的に当選したので、結婚一年後ハネムーンに行った。交通費、宿泊代をだすから取材と写真を雑誌に掲載させてくれというものだったと記憶してる。 我々の場合は、前夫がアメリカ人で、翌年の5月からハワイで暮らす事になっていたから貯金の倹約の為に長野と佐渡へ行くことにした。『小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ』という島崎藤村の詩に惚れていた私はその古城を見たかったり『安寿と厨子王』という小学生時代に読んだ悲しい物語に出てくる佐渡ケ島も一度は訪れたくて私が決めた場所であった。 今でも日本は『どこそこの、なになにが美味しい』とか『どこそこに、こういう変人がいる』みたいな情報がぱっと広がると直ぐ人が集まる国だが、当時もラジオとか週刊誌とかでそういう番組があって、佐渡にとても変わった人がいて美味しい手打ち蕎麦を食べさせる店があるというのを聞いていたので是非とも行ってみたかった。 携帯などなかった当時の事、佐渡に着くなり数人の土地の人に場所を聞いたが、皆一様に白人と一緒の私をジロリとみて「知ってるけどさぁ、変人だよ。くわしてくれるかなぁ」と頭をかしげながら言った。お昼をちょっと過ぎた頃だったか、その店をみつけて入っていくと、ぶすっとした顔のおばあさんが暖簾を押して出て来るなり、「売り切れ!もうないよ!」と言ったので、それは残念だと言って店を出ようとすると、「ちょっと待ちな。これあんたの旦那さんかい?」と夫を指すので、そうだと答えると、「なかなか良い人相だ。自分が食う分だけ残してあるから食べさせてやる」と言った。 夫に通訳すると、二人分ないなら出ようといったが、「おもしろそうじゃないの」と私につつかれ、きまり悪そうに「ありがとう」と言い促された場所に座ると、「奥さんの分はないから、お茶だけ!」といって、お茶と一人分のお蕎麦をだし、彼女も一緒に座って蕎麦の作り方を説明し始めた。 お婆さんは、種を撒いて蕎麦を育てる所から粉にして店に出すまでの過程を全部一人でやるのだ、と言った。そして、「そこまで心を込めて作った蕎麦を、人相のわるいヤツには食わせたくない」と言ったのだ。夫は、ニタリとして、二人が見つめるなかで一人で食べ、緊張で味もわからなかったのでは?と思ったが以外に「こんなに美味しい蕎麦は始めてだ」と言って財布を出し、払おうとすると「金なんか、いらないよ!」と、どうしても受け取らなかった。筆頭に述べた『とき蕎麦』と反対であった。 戦争中は、祖母がそば粉を熱湯で練っておだんごみたいにした『そばがき』というものをつくってくれ、おやつとしてよく食べたし手作りそばを私にも切らせてくれて可なり太目の蕎麦を食べていた。戦後東京に戻った頃の盛蕎麦は15円位だったと思う。 アメリカで暮らすようになって、やがて息子が大学生になった頃、二人で日本に行ったとき、弟が「面白い所につれてってやる」といって、山奥にある『蕎麦工房』という店にあんないしてくれ、蕎麦の打ち方を教えてもらった経験があるが、時間がかかり可なりの重労働であった。弟はすぐハマるタイプなので、色々な道具を買って、暫くはちょくちょく家で手打ちそばをつくったらしい。 その年だったか、別の時だったか忘れたが母も健在だったころ弟一家, 妹夫婦とわれわれの大人数で盛岡の『わんこそば』を食べに行った思い出が忘れられない。レストランの壁には、有名人達の写真がずらりとかざってあり、その中に平成天皇ご訪問写真もあった。また、誰それさんが、何杯食べたとかいう記録があって、「300杯?うそだろう~。」「そりゃ~人間じゃないよ!」とか、それぞれに言いながら待っていると、お盆に20個位のお椀を掲げた女給さんがやってきて度胆をぬいたが、実はお椀には本の一口分しか入っておらず、私でも70杯以上たべた。ただしストップするのが難しく、凄いスピードとスキルで次を投げ込まれるから、パッと蓋をしないと手の上に蕎麦がのってしまったりで皆大変な思いをしたが面白い事を考え出した人もいるものである。 後にアメリカから白人の日本語の生徒をつれて日本に行ったときも盛岡の『わんこそば』を体験させた。きゃ~きゃ~笑いながら積み重なるお椀を数えながら、生徒達にも忘れられない思い出となった。その時の一人が難病になり買い物に行けないというのを知り、何か送るから何が良いかとたずねたら、「蕎麦」と言ったので、そばつゆと一緒に数回送った事があるが、いまでは自分で買って茹で、つゆも作ってちょくちょく蕎麦をたべているとメッセしてきた。今の南カリフォルニアには、アメリカ系のスーパーでさえ蕎麦やインスタント・ラーメンを沢山おいてあるので嬉しい。更に手打ちそばを出す店もちらほら出て来たので、とても幸せな老後をすごしている。 *
2024.03.02
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孫のライアン・ミッチェルがアメリカ時間2月18日(日曜日)にABC局のアメリカン・アイドルに、コンテスタントの一人として参加します。日本で、アメリカ局が見られない場合は、翌日からHULU のアプリで見られるそうです。興味がおありのかた、どうぞ観てやってください。これには、物凄い人数が応募するみたいですね、色んなふるいにかけられて、やっと舞台に出してもらえる人は、数人なのだそうです。さて、どうなるか。私は、見た事がないので、初めての経験になります。我々もウキウキしています。
2024.02.13
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もうとうに亡くなった筈の母をみて二度振り返る鏡の自分1月24日2024⁂歳とともに、だんだん母に似て来る私。I swore, I saw my mother who no longer with us. I had to double take. I saw only me, in the mirror
2024.02.02
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私が子供のころ、(昭和の始め)『越中富山の薬売り』という薬の行商があった。木の箱を背中にしょって家々を回り、お茶などを飲みながら「だれそれさんが御婚約なされまして・・・」とか世間話をしたり「どこそこでは、〇〇の病気が流行り出しまして・・・」とかニュースを知らせたりしながら、分厚い帳簿に訪問している家庭の家族構成なども書き入れて、どんな薬が必要になるかもしれない、というような予測までたてて、鎮痛剤、塗り薬、目薬、胃の薬とかを置いて行き、忘れた頃また戻って来て使っただけの薬代を払うと又次の薬を置いて行くというシステムの商売だった。つまり後払いという信用で成り立っていた。 木の箱はたしか、ミニアチュアの箪笥みたいなもので、沢山の引き出しに様々な薬を分けて入れてあった。祖母が常備していた薬に『熊の胃』という平たく真っ黒な苦いのがあって、私がお腹を壊したりすると必ずそれを飲まされたものである。私が苦いと文句言うと、「良薬は口に苦しよ」と言ったのを今思い出している。ウィキペディアによると、富山の薬売りは17世紀の徳川時代からあったと書いてあったが、それが本当ならば三百年も続いていたわけだから大したものである。 お転婆だった私が膝などをすりむいた所にばい菌がはいって膿んだりすると祖母は、「つわぶきを一枚とっていらっしゃい」と私にとりに行かせ、それを火鉢であぶったものを直接傷に張り付けてから包帯をまいて、毎日取り換えていると自然に治ってきたのも覚えている。又、風邪をひいたときに、友達のお母さんが「ちょっと待ってなさい、これを飲むと直ぐ治るから」といって、温めたお酒に蜂蜜と生卵をいれたものをくれた事がある。アルコールが体中を温めてくれ、頭もほわ~んとなるので風邪が治ったような錯覚になるが、今のアメリカだったら未成年に酒を勧めた友達のおばさんは逮捕されるだろう。(笑) 冗談はさておき、アメリカの嫁ぎ先でも私の鼻がつまったりすると義母は庭からミントの葉を一握り持ってきて煎じたものを作ってくれたり、喉の痛い時は熱湯にレモンをたっぷり絞り蜂蜜を入れたものをくれたり、ローズマリーの葉を沢山切ってきて、鍋で煮立たせたものをテーブルに置き、私の頭から鍋までかぶさる大きなバスタオルをかけて「ここに座って、この湯気を暫く吸っていなさい」と言った。つまり吸入の原理である。 私は、このローズマリーの香りが好きなので、風邪をひいてなくても庭から切って来て、熱湯にいれ家中が香るのを時々楽しむ。家中が魚臭くなった時など便利である。又、アメリカン・ネイティブはワイルド・セージを燃やしてネガティブ・エネジーを清めるのに使うので、散歩がてらに野原に果てしなくはえてるセージをとってきて乾燥したものを暖炉でもやしたり、熱湯にいれたりして香を楽しむが、心なしか家中が清められたような感じになるから不思議である。又、日本では風邪をひかないように、と冬至に柚子風呂などにはいるが、古い教えは大切にしたい。 このように、昔は人間の自己治癒力と自然のものを利用して大抵の問題は解決していた。薬の販売は薬屋か筆頭に書いた『富山の薬売り』であり少しくらいの頭痛や風邪など横になってるだけで治してしまったものである。ところが、いつの間にか人間は薬の奴隷になってしまったようで、亡き母もそうだったが、夫もやれ腰がいたい、喉が痛い、頭痛がすると言って直ぐ薬に頼る。アメリカなどスーパーでも通路の両側にぎっしり薬が並んでいて、どれを選んだらよいのか迷う位の種類ができてしまった。又、処方された薬の副作用という厄介なものがある時は、その症状を治す薬なども処方されるので数多くの薬をのんでいることに気付く。 例をあげると、還暦までは健康だった私に喘息が出て来た時処方されたインヘーラーなるものは、確かに一時的に呼吸が楽になるが、それまで低いくらいだった血圧が急上昇した為に医者は降圧薬を処方した。すると、カリウムが低くなったと言って更にカリウム迄処方されたという具合で、今では6,7種の薬をのまされている。『遠慮なく言わせて頂く』と、何故喘息になったのかを調べてその元を無くす事が自然ではないかと考えるのだが間違いだろうか。 たまたま、NETFLIXで『鎮痛薬』(PAINKILLER)というドキュドラマ・シリーズを観てしまってからは、処方薬に対する疑惑がうかび、医者が高額の薬を処方するたびに『金儲けの爲ではないか』と疑ってしまうようになった。そのドラマの筋書きは、強欲の製薬会社の持ち主がセールスマン達の欲望を煽り立て、医者にワイロをばらまき患者達を麻薬入り鎮痛剤の虜にしてしまう営業策略で、現在多くのアメリカ国民、特に若者達を死に至らしめ、経済破壊、家庭分裂を作り出す大問題の最中である。日本でも私が小学生の頃、ヒロポンという覚醒剤が若者の間ではびこったが、国の解決策として売買両者を逮捕したので数年で消えた。戦争で親兄弟を亡くし、家を破壊され仕事にあぶれた当時の日本の若者達、怒りや落ち込みから一瞬でも逃げ出したかった気持ちが判らなくはない。今の若者達もハイテクの発展し過ぎで『本当』の会話や人間味が薄れ機械的になりつつある世の中に人間愛を求めて苦しんでいるのかもしれない。薬も大事だが体と精神の深い関係を重要視し、原因を取り去ることが大事であろうと考えている。 *今月号は、毎月書いてる、ライター4人の対談特集もあります。興味おありでしたら、ocjaa.org のOrange Networkをクリックで、読んでください。 のOrange Networkをクリックして読んでください。
2024.02.01
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New Year’s Resolution(新年の抱負)毎日をこれぞ最後と心して、今を楽しむ息絶えるまでenjoy each moment as if it is my last daythat’s my convictionfocusing on the present until final breath on earth2024新年
2024.01.09
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かぞえうた アメリカで暮らすようになって60年たつが、元旦におせち料理もつくらず、バスローブを着たままで、パサディナのローズパレードをテレビで見るだけでも別に惨めだとも不謹慎だとも感じなくなった自分がいる。つまり、だんだん私の中から日本が遠ざかっているのだろう。両親もいないし、疎開先で育ったオーシャンフロントの家も、国道1号線になってしまったし、東京に戻ってやがて住みだした掘立小屋もモダンな二階建てになって従兄の二代目の家族が住んでいるし、渋谷から乗ったグリーンの路線電車の辺も高速道路になっているしで、さしずめ浦島太郎の心境なので記憶のある内にせめて文章の上だけででも残しておきたい。それでも寂しいという感情すらなくなっているのは一重にネットのお陰だと思っている。 私がこうなった一番の理由は、1960年代の南カリフォルニア、特に白人社会のラグナビーチは陸の孤島のような感じで、和食材などはロスアンゼルスの小東京でしか買えないものだと思っていたからで、そうなるとまだフリーウェイ5もナッツベリー・ファームより南は無かったから、遠くて年に数回しか出かけなかったし、夫の収入も少なかったから行ったとしても本当に少ししか買えなかった等の理由で和食からどんどん遠ざかっていったのだと思う。 我が家では、感謝祭とクリスマスを大々的にやるので、元旦はたいていクリスマスディナーの残りとか、捨てたいほど沢山あるクリスマスギフトの甘い物を、いやという程食べる事になる。ありがたい事に現在では一年中、切り餅だけでなく和食材は殆どなんでも、いつでも手に入るのでおせち料理を食べたくなると好きな時につくっているから全く不満もかんじなくなったのだろう。 戦前、祖父母は青山通りに30軒近くの貸店舗をもつ大家主であった。自宅も日本館と西洋館の二軒あり、西洋館の方はドイツに留学していた叔母が帰国するまでという条件で作曲家の山田耕筰さん一家に貸していたから、後に有名になった音楽家の仲間が出入りしていたらしい。カリフォルニアで『パイプのけむり』という團伊玖磨氏のエッセイ集を読んでいたら、その中に「青山の耕筰先生のお宅におじゃましたとき・・・」というような一節が出て来たが、それはきっと祖父母たちの家のことだろうと思った。父は軍艦で南太平洋の辺で戦っていて日本にいなかったから、私も疎開するまで祖父母と一緒にその日本館にすんでいた。 パーティー好きだった祖母は、毎年のお正月には自宅を開放してテナント家族全員招待し、餅つき大会をやったり、お酒やおせち料理を振る舞い、子供達には賞品付きゲームなどを用意し、お年玉もあげていたそうだが、東京大空襲で自宅はもとより『魚屋』『豆腐屋』『金物屋』『自転車屋』『下駄屋』『時計屋』などなどの貸店舗などという前に、港区全体が灰になってしまったために役所の記録も消え去ったわけで、我々がのんびり疎開先で暮らしていた間にテナント達は焼けあとにすぐ掘立小屋を建てて住み始め、祖母が戻った頃は自宅のあったところにまで隙間がないほど掘立小屋が建っていて、法的にも全部居住者のものになってしまった。戦後は早い者勝ちの世の中だったので、知らずに疎開先で暮らしていた人々はホームレスになってしまったのである。 更に、なまじっか祖母のように元華族などは焼け跡に手あたり次第の材料で掘立小屋を建てる、というような発想すらうかばなかったのだろう。その上、大空襲後すぐに焼け跡を見に行くような大人の男性もいなかった。ちなみに、西洋館の方は戦争が始まって山田一家が引っ越した時「お国のために兵隊達の宿舎として無料で提供するように」という軍の司令本部からの命令であけ渡したが、それも灰になった。 そういう理由で、疎開先の貸家でのお正月も質素であったから、いまだに豪華絢爛のおせち料理がなくても悲しくもない。私は幼児だったわけで、それが当たり前だと思って育ったからで、かえって昔贅沢をしていた母や祖母の事を今考えると、どんなにか無念であったろうかと、かわいそうになる。 私は祖母が母の着物をほどいて作ってくれた着物をきてお正月の挨拶をし、簡単なおせち料理であったが、大正天皇の御生誕祝いに明治天皇からいただいた菊の御紋のついた朱塗りの盃でおとそをのみ、祖母が鼓を打ちながら観世流の鶴亀などを謡ったり、皆で百人一首をしたりで、内容は濃かったと思う。 まだ、弟も妹もいなかったから一人っ子のように祖母に可愛がられ、「ひとつとや~、ひと夜明くれば賑やかで~賑やかで~、お飾り立てたり松かざり~松かざり~」とかいう、数え歌などを教えてくれたので、元旦になると、その歌を思い出す。それが、私の新年の祝いの一つになっている。(この盃は私の手元にある)
2023.12.31
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愛犬と毎日あるいた同じ道やっとひとりで散歩してみた、*我々のペットのトニー、この夏虹の橋をわたったのです。まだ台所で何かしてる時、つい後ろを向いてしまったり、夫婦で出かけるときに、犬のドア閉めたかな?とおもったりね。グレッグなどは、二日間くらい泣いてました。息子みたいにしてたから。でも、20歳近まで生きたから、往生ですね。最後の頃は、白内障が両目にでて、後ろ足がガクガク落ちて座りこんでしまうくらいなのに、尻尾ふって散歩にいくときは仔犬のように飛び跳ねてましたよ。最後まで食欲も旺盛でしたから、毛皮も健康な若い犬のようでした。ただ、かなりぼけてきて、今食べたのに、何度もお皿を見に行ったり、夜中でも、数分ごとに飛び起きては歩き回って奇声をあげ、またベットに戻って数分で飛び起きてをくりかえすようになってました。ありがたいことに、病気にもならず、最後まで一度もそそうをしたことがなかったです。
2023.12.06
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戦争が終わり、進駐軍がやってきた年の冬、我々は亡くなった祖父の弟一家の住む青森県弘前に暫くいた。その理由ははっきり覚えていないが、着いてすぐ祖父の弟嫁のお葬式があったので、恐らくその為だったのかもしれない。私は三歳になっていて、酒樽のような中に母の叔母にあたる人の遺体が丸まって入っていてびっくりしたのを覚えている。 もう一つの理由として考えられるのは、復員といって父が戦地から戻って来た時の連絡先に大叔父の住所を使っていた可能性がある。なぜなら両親の実家は両方とも全焼し帰る家などなく、軍艦でシンガポールの辺を航海中の父は我々が疎開した興津の事はまだ知らなかった筈である。ところが、父の帰国の日が延び延びになり、祖母だけ興津にもどって、我々は父が戻るまで何か月も弘前にとどまる事になった。今のように携帯や、パソコンなどもなく、大都市の電話局も戦争でダメージを受けていただろうから、とくに長距離のコンタクトはすべて電報であった。 いずれにせよ、終戦当時日本中の都市は失業者であふれていて、ホームレスや物乞いが多く、汽車や電車の駅には、むしろを敷いた上に垢だらけの人が寝て居たり、どこにでも小水を放つ人が大勢いたので、どの駅でも街中でもアンモニア臭くて不潔であった。又は、傷病兵とか普通の市民でも空襲で体の一部を無くした人などが、アコーディオンを弾いたり、ハーモニカを吹いたりしてお金を乞うていた。生きるのに必死な人が多かった為に、ひったくり、押し売り、詐欺師やスリなども横行し、娼婦もあちこちに立っていた世の中で、平和な現在の日本人には想像のできない地獄絵みたいな毎日が長い事続いたのである。 更に大都市では、家を焼かれた人が過半数だったから、間借りは当たり前になっていて、我々も東京に戻ってきた頃は、祖母の知人の家の十畳間を借り三人ですんでいた。百坪位の家に七家族もすんでいたのである。 そういう訳で、人々はどんな仕事でも手に入ればありがたい時代であった。幸いな事に、叔母のように英語が流暢な人は直ぐ仕事がみつかった。米軍に没収された元宝塚劇場がアーニーパイル劇場というオフィサーズ・クラブになった時、叔母はそこでアッシャーとして雇われたのだった。叔母の話では、きちんとした英語の出来た女性は少なかったので、結構元華族や公家の娘達が多く働いていたそうである。 やがて通訳の仕事に切り替え、ひんぱんに出張で日本中を移動していた叔母が、青森県八戸の米軍ベースに数日来たのが丁度クリスマスの時期であった。その時マッケンジー、ジャニー、ボイドという三人の米兵と叔母がジープで大雪の中を大叔父の家にやってきた。彼等は生きた鶏を三羽かかえていた。クリスマスでも日本ではターキーなど売ってないから、「鶏の丸焼きを作ろう」という事だったが、オーブンなど洒落たものはないと分かった彼等は、「じゃ、すき焼きだ!」という事になった。 ところが、さて誰が鶏を絞めるのかという段階になったら三人共自分はいやだ!というのである。「第一、どうやって殺すのだ?」と一人がいえば、「俺は、都会でそだったから生きた鶏をみるのは初めてだ」というしで中々話がまとまらず、最終的には一番背の高いマッケンジーが、「僕のお祖父さんの田舎で見た事ある」という事で、彼が殺し屋の役に選ばれた。するとちょっと酔いがまわっていたボイドが、「かわいそうに、死ぬ前に数分自由を与えてやろうよ」と、パーッと雪の上に放ったから大変。死をさっした三羽の鶏はあちこちに飛び回った。 1メートル以上の積雪の中をズブズブ埋まりながら、三人は奇声をあげて、あちこちに足跡を残してやっと摑まえると、マッケンジーが野球のミットのような大きな手で一羽の首を摑まえてグルグル回しだした。母と叔母は「キャー」っと叫んで家の中に入ろうとしたが、私が「見る、見る」と手をひっぱったので、ジャニーが察して私を抱き上げてくれたから、私は一部始終をみた。 マッケンジーの手に首だけ残して、首なしの鶏が真っ赤な血を吹き出しながら雪の上を飛び回り、放り投げた首は胴からはなれていたのにも関わらず、しばらく目をパチクリさせていたが、やがて全てがとまった。このようにして三羽ともすき焼きの肉となった。大叔父一家も、久々にたらふく鶏肉を食べられた事に大喜びをしていた。 「三歳でそんな事、よく記憶してますね。あとから大人達からきいたのでしょう」と人々は疑うが、前にも書いたように、喜怒哀楽の度合いが大きかった事件なら私は二歳前からの記憶がある。第一真っ白の雪の中を首のない鶏が三羽、真っ赤な血を吹き出しながら飛び回るシーンなど忘れっこない。幼児だったから別に怖いとは思わず、ただ首と胴がはなれても暫く動いている事が不思議でならなかった。 東北の大雪は血だらけの雪をも埋めてしまい、数日後は何事もなかったかのように真っ白の雪山になっていた。降雪は続き、一階は完全に埋まってしまったので真っ暗になって昼間でも電気をつけていた。母の従兄が雪の滑り台を作ってくれたので私は毎日二階の窓からでて、道路までの滑り台を何度も楽しんだ。 そしてある日、「ブジ キコク アス ツク」と、ついに父からの電報が届き、我々にとっても戦争が終わった。
2023.12.05
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昨夜は、日本人のお友達のお嬢さんが出演してる、一風変わったコンサートを観てきましたSOKA創価大学の劇場は、素晴らしい音響効果のある舞台で、私もコ〜ラスで二度舞台にたったことあります。このコンサートはアメリカの東西を繋げる鉄道の工事をした時の歴史を音楽で表現したもので、アメリカン インディアン、黒人、アイルランド人、中国人、そして日本人やほかの東洋人の重労働で出来上がったのに、大企業がそれを全く無視した事に疑問を持った現代の若者が世に知らせようという試みから始まったようで、出演者達もその血を引いた人達で構成されてました。何時の世界でも、どこの世界でも企業のお偉いさんばかりが、ふんぞりかえって、称賛されて、本当に築き上げた人々は無視されるのですよね。ピラミッドにしろ、お城にしろしかり!海底ンネルだって、スカイツリー、新幹線のレールだって、多くの労働者のご苦労でできてるのですよねえ。(創価学会を見直しました。海外に、人種差別なしの大学など建て芸術をサポートしています。こんな素敵な巨大の噴水のある劇場、他にないですね)
2023.11.14
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孫の次男坊ライアン、アメリカン・アイドル, オ〜ディションしにハリウッドまで行きます!おめでとう🎊🎉 この子は歌うために生まれてきたような子。中学生の頃、楽譜の読み方を教えました。私も来月ライブオ〜ディションを観に行きます。良い結果でありますように。
2023.11.10
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今朝は思い出の写真をシェアさせてください。昔よんだかたはスルーしてください。私は昭和39年に日本を出て、日本にあまり帰りませんが、日本から母や兄弟が来てくれました。弟は日本にサ―フィンが紹介された初期から湘南でサ―フィンをはじめ、日本人としてハワイのチャンピオン大会に参加した二人目の男です。長い間大会の審査委員などやっていて、自分で板を削り出しOrange Countryという店を出しました。その時、わたしのところにやってきて、Stussy がラグナキャニオンで板を削っていて、ティーシャツなどを売り出してるのだというのです。私は「ストゥーシー❓聞いたことない」といいました。日本の弟のほうが地元の私より先に知っていたので驚きました。「これから流行るとおもうから、日本での特許を貰いたいんだ。通訳してくれない?」との事で、一緒に行った時のものです。ショ―ンは、「残念だなぁー、1週間遅かった、先週日本人が来てサインしちゃった!」と言ったのです。弟はもうとっくに、白髪のシニアになってますが、末っ子がチャンピオンになり、クウィックシルバーの専属モデルを長い事やっていましたが、3人の子持ちになって夏はサーフィン学校をひらいてるようです。蛙の子は蛙ですね。。
2023.11.05
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2000年あたりから、親友のラナと毎週金曜日に5キロくらいのスピードウォークを続けてます。家から東に車で3,4分の所に、貯水池のある大きな公園や、反対側の西には海があるので、時々場所をかえて、20年以上つづけてます。いまだに元気であるけるので、継続の大切さを感じてます。私は81歳、ラナは83歳でカナダ生まれですが、彼女の方が速く歩けます(笑)ラグナビーチに住んでいた頃、何度もスピードウォークを試みましたけど、相手は数週間でギブアップ、誰も長続きしなかったのですよ。離婚してから隣町にひっこしてラナとめぐりあったのですが、彼女もラグナビーチにすんでいて、離婚後は隣町にひっこしてきたのです。ラナとは、うまがあうのでしょう。一番長く続いてます。二人共若い頃は一生懸命に働きましたからね。今は、のんびりリタイア生活です。
2023.11.04
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昨日楽天に載せた、「進駐軍」というエッセイ、凄い事になってました。2004年頃始めたブログで、最高のアクセスで1500人強あったのです。過去1000人を超えたのは、カトリーナ台風のエッセイでしたから、数十年振りです。もう20年近くこのブログを書いてます。今の日本の方、戦後の日本にかなり興味があるようで、おどろきました。普段のアクセスは、平均400-500人なんです。来月号も続いて、進駐軍の話ですからまたおいでください。フェイスブックで、ネット友から、渋谷にあったワシントンハイツの記事のサイトをシェアしてもらい、「あ、私も行ったことある」というのを思い出しましたので、進駐軍関係のエッセイは暫く続きそうです。お楽しみに。エッセイのバックナンバーも、サイトの上にある (新記事一覧)というのをクリックすると、2005年のから読める事を知りました。トランプに関しての私の予言、全部あたってますよ。
2023.11.03
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台所のドアを開けて、誰かが「すみませ~ん、奥さんいますか!」と怒鳴った。母は具合が悪くて寝ていたので私が出て行くとキヤッさんというあだなの八百屋のお兄さんだった。「お母さんいる?」と聞いたので、「病気で寝てる」と答えると、「困ったなあ、アメリカさんが来てるだけどさぁ、ぜ~んぜんわかんねぇから、お母さんに助けてもらいたいだよ、駄目かなあ。聞いてくれる?」とさも困った顔をしていたので母の所に戻ると、もう聞こえていたらしく「着替えてから行きますからって言ってちょうだい」と、よろよろ立ち上がって普段着に着かえ店まで行った。 敗戦国の国民達は、相手がたとえ酔ってしつこくされてもアメリカ人だと、じゃけんに扱う事を極力差し控えていたから普段は喧嘩っ早い八百屋のキヤッさんも我慢強く「これオッケー!べリーグー」とかお世辞笑いなどをしていた。兵隊達は、新聞紙で作った袋に入れたミカンとか、林檎とか、あれこれ沢山かかえて、それぞれに百円札をだした。「こんな大金だされたって、つりがねぇよ」とキヤッさんはこまっていた。母が通訳すると、「つりは要らない」と手を振ってジープに飛び乗り消え去って行った。アメリカ兵にとって百円なんて30セント位のはした金であった。キヤッさんはよろこんで、母に沢山の果物と野菜をくれた。(ちなみに、昭和二十年頃の大企業のベテラン・サラリーマンの月給は四百円位であったから、店員などは百円以下であった。) 私もついて行ったので会話を聞いていたわけだが、当時三、四歳だった私からみた母は、キヤッさんと同じく「英語が話せるなんて、すごいなあ」と思っていたが、後にアメリカに嫁いだ私に子供ができた頃、日本からやってきた母の英語はブロークンであった。それでも発音だけはとても良かったので結構通じていたみたいで、我が家に三か月滞在中は毎朝スケッチブックを片手に、海岸通りまで一人で散歩にでかけては「玉ねぎさんと話した」とか「オニギリさんご夫婦と、友達になってお茶によばれた」とか「じぃさんばぁさんと仲良くなったから一緒にタバコを喫う人をみつけた」などと言って、ちょくちょく出かけていた。我が家は禁煙だったからである。ちなみに、じぃさんばぁさんというのはレズビアンのお婆さんで、いつも男のような恰好をしていたグランディーさんの事であった。このように、母は勝ってにあだ名をつける人だった。今にして思えば、当時大正生まれで英語が出来る日本女性は、やはり珍しかったかもしれない。 話を元にもどすと、キヤッさんの通訳をかわきりに、母はあちこちから通訳を頼まれるようになり、アメリカ兵が町にくると必ず呼び出された。そういうわけで、お礼に野菜、果物、魚介類とか食べ物をもらって来た。 それにしても、進駐軍のジープが百台近く連なって国道を通過するさまは凄まじかった。時々戦車も数台加わる場合は家の中にいても地響きがするので、近所の人達は家から飛び出てきて見物したものである。興津は広重の『東海道五十三次』の版画にもでてくる宿場町で、その昔、同じ国道を大名行列が通過したわけだが、わずか百年内に何という変わりようであったろう。 更にアメリカ兵がグループで町を歩くと、子供達は珍しがって「キャンデー、キャンデー」と、そのあとをぞろぞろついていった。外国人が珍しかったこともあるが、時々チューインガムや、キャンディーをばらまいたからである。家に持って帰ったら、元海軍士官だった父から、「そんなみっともないまねするな!」と、どなられたので、私は一度だけしか経験しなかったが、母が通訳をしていたからアメリカ兵は別にもう珍しくなくなっていた。 大人になって考えてみれば、戦中はアメリカ兵と戦っていた父にとって彼等は『敵』であったわけで、終戦になったからといって即座にアメリカ兵と顔を合わせたり、わが子でも『敵』から物をもらう事などは耐えられない屈辱だったに違いない。妻が通訳する事ですら良い顔はしなかったが、世の中が食糧難の時代に母が「お礼に」と、もらってくる生きたカニとか、丸ごとのスイカとか、沢山のとうもろこしとかは貴重であった。 進駐軍にかんしての思い出話は、決して良い事だけではない。戦争に負けるというのはどういう事か、というのを読者に知っていただきたいので『遠慮なく言わせて頂く』と、アメリカ兵にも悪いヤツがいて、汽車で移動した時など停車する駅では、わざと発車寸前までまって窓から乗り出し、うごきだしたレールの車輪近くにチョコレートやらキャンディーを投げ込み、我さきに群がった子供達が手をなくしたり、死んでしまったりする事件もおこした。 又は米軍ベース近くで、射撃の練習だといって農民が射殺されたケースもニュースになったし、集団レイプなども珍しくなく、それは日本のあちこちで起こった。ずっと後に私がティーンになったころ母から聞いたのだが 、私をかわいがってくれたTさんという母の友達もその犠牲者となり、気が狂って一生もとに戻らなかった。こういう事件は、どこにも持って行きようのない敗戦国の惨事である。戦争というのは、このように加害者も被害者も狂わせてしまうのである。戦争は二度と起こしてはならない。
2023.11.02
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私の書いた「ハッピー介護」の本、読書の秋に如何ですか?お求めになりたい方、アメリカでは、私から直接ご購入していただきます。メアドにご連絡下さい。8pkaigo@gmail.com (8p は ハッピーね、kaigoはロ―マ字の介護)日本ではAmazonだけでご購入いただけます。ヘルパーに家を乗っ取ららそうになったり、建築詐欺にあったり、車を盗られたり😵その度に、私の出番!どうやって解決するか!
2023.11.01
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先週、日本人のお友達のご主人が若くしてお亡くなりになり、心が沈んでいたところに、マシュー・ペリー(Matthew Perry)が昨日亡くなり、ダブルパンチ。今日は上記のお友達のご主人のお葬式に参加してきたのですが、帰宅して寝椅子に座った途端にどっと疲れがでて、1時間ばかり昼寝してしまいました。「ハリウッドの俳優だから関係ないでしょう?」と思われるでしょうが、私は別に彼のファンだったのではなく、俳優としてでない彼の家族全員をしってるからです。マシューのお母さんが再婚した相手は、NBCのジャーナリストのキース・モリソン(Keith Morrison)で、私はその子供達3人にピアノを教えていたので、子供の送り迎えにキースとお母さんのスーザンが交互に我が家まで来てました。始めて、キースが我が家に来た時、「見覚えがある顔。どこかで会ってません?」といったら、ニタリと笑って、「さあ?」といったのですが、「あ!NBCの・・・あ、同じなまえだ!あのキース・モリソン?」と聞いたわけです。私は、テレビのコメディーシリーズなどみないので、マシューが有名人だという事もしりませんでした。かえって、お父さんのキースの事はニュースでよく見ていて知ってたのです。ある日、Wが「お兄さんは有名人だよ。ヒロコは、フレンドというシリーズ見ないの?」というから、一度も見たことないと答えたらびっくりしてましたが、「今度みてみて」というので、一度だけみた。。。というあんばいです。で、マシューがドラッグとアルコール依存症になったへんから俳優としての彼でなく、依存症患者としての彼の行動に興味をもちはじめました。というのも、20年以上クリーン(正常)だったグレッグのドラッグ依存症が再発したからです。(2015-2020この5年間たたかいました)幸い、グレッグはまた正常にもどってから3年になり、マシューの事も祈っていた矢先だったのでご家族が大変お気の毒です。 ドラッグ依存症から抜け出すのには、本人だけでなく関係者にも大変な努力とお金がかかりますが、本人しだいなのです。自身がその気にならないなら、周りがなにをしても良くなりません。*今ニュースで検死が終わり発表は数週間先になるとのこと。私の娘と同い年だということで、さらに心が痛みます。 という訳でグレッグの話も書き残したいけど、今は前よりずっと朗らかになったグレッグとの生活を楽しむのを大事にするつもりです。これでながいこと、楽天ブログから遠ざかっていたのがおわかりでしょう。 い
2023.10.30
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我が夫の出来る事は、絵を描くことはもちろん、兎に角『花咲かじいさん』で、花、植物を育てる事、魚や生き物を育てる事、生き物がすきで蜥蜴も、蛇も、蜘蛛も絶対に殺さない人です。ところが、何事も行き当たりばったりで、計画の出来ない人。何をどこからはじめるか、植えたものがどのくらいのサイズになるか考えない人なので困ります。 そういう人ですから、旅行したいといってもどこで何を予約する、など考えると混乱してしまうのです。したがって全部私がやることになります。 私は典型なA型で、宿泊先、AからBまでの距離と時間、アトラクション・ツアーの時間、交通止めの道はあるか、何曜日に出発すれば交通渋滞をまぬがれるか。。。。。などなどしらべ、車を安全チェックしてもらいにだしたりしました。さらに、飲み物、食べものなども用意します。 モテルを予約し携帯に予約確証メールがはいってますが、故障したら不安なので、何度もチェックしてプリントアウトしたものも用意し、出かけました。 車は私が運転するのですよ、忍耐力があるし、地図をしっかり勉強してから運転するので、地図なしでもサンノゼまで行けます。夫は短気で車の前に危険に割り込んでくる人がいると、チャンスをみつけて追い越すのですよ。で、相手が悪い奴だとまたわざと前に割り込んでくる。。。つまり、ロードレージャーなので彼に運転させるのは危険だからです。 我が家からSan Joseまで途中でトイレの休憩、ガソリンを入れた時と二度ストップしただけで、7時間半かけてDay’s Innにチェックインしたら5:30pm。フロント事務所には鍵がかっていて、ベルを押したら出て来ましたが、対応ののろいこと。何度も同じ質問をします。まず出された紙をみると、「車の安全は保障しません」というのにサインをさせられました。こんなの初めてです。15分位してやっと部屋に案内されましたが、兎に角くたびれて、空腹なので荷を置いて直ぐにレストランを探しにでました。部屋に戻ってドア鍵の他にデッドボルトをかけようとしたら、半分ないのです。で、のぞき穴には、何か白い物がつまっていて外がみえません。「まいっか」と思って、トイレに座ると、シートがぐらぐらで左右に動くのです。ヘアードライアーは汚らしく横たわっていて手を洗おうとすると流しが斜めになってました。パスタオルが二枚あるだけ!テレビは壊れてる、ベット横のランプは亡くなっていて裸のワイヤーがむき出しにっていたり、椅子の汚い事!パジャマですわりたくありません。シーツはベッドカバーの下でなくて、上にかかってるのであきれました。幸いあたたかい夜だったので、ベットカバーの上に、そのシーツをかけてねました。シャワーカーテンは破けてるし、コーヒーポットはないし、朝カーテンを開けたら外はゴミだらけで、窓の汚い事。で、朝食込み保証とかいてあるのに「そんなものありません」という始末。これで一晩$140とは信じられなかったので、帰宅してクレームメールを、ブッキング会社とモテルにだしたら、謝罪と20%返金するというメールをもらいました。後の二つのモテルは、家具もお風呂場も清潔でコーヒーの用意もきちんとして全部そろっていたしな場所で満足でした。ちなみに最初のモテルの3分の2の値段でした。クレームに記録写真は必要ですね。 終わりよければ全てよしで、最初の夜だけ嫌な思いをしましたが、メキシコの木賃宿にばかり泊る夫は、「ティファナの僕のとまるモテルにくらべたら、豪邸のかなり贅沢なへやだよ」と、全く文句を言いませんでした。ははは。(おわり)
2023.10.29
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4日目は、ハースト・キャッスルから30分くらいのドライブで、Morro Bayに着くので、途中で車をとめて景色をみたり、食事にも時間をかけ、のんびりドライブ。コーストハイウェイは、海辺の道で、サンディエゴからワシントン州までいけるのですよ。途中で、1号線から101号線に名前がかわりますが、ずっと続いてます。話がそれますが、その昔、スペインの修道僧達が、まずサンディエゴに修道院(ミッション)をつくって、日の出と共に、徒歩でそのコーストハイウェイを北に向かって行き、日が暮れた場所に、また修道院を建てたのです。それをずっとサンフランシスコまで建て続け、ゴールデンゲートブリッジが出来上がってからまた、ソノマまで全600マイルの21か所に修道院をたてたのです。それこそ、日本のお遍路さんのように、寺院から寺院まで歩こうと思えば可能なんですね。で、Morro Bayは、その一つのサン・ルイス・オビスポ修道院のある郡にあります。東海道五十三次は宗教にはかんけいないけど、方や宿場町、方や修道院の町で人が休める場所としても似たような考えですね。どでかい大岩と、ラッコで有名ですが、30年前に母と来た時のように大群はいなくて、たった3匹しかいませんでした。時期と、時間帯にも関係あるかもしれません。出産期になると、赤ん坊をお腹に抱いて浮かんでいて可愛いですよ沖のほうに、アシカの群れがたむろしてる人口の場所があって、大声で吠えてました。
2023.10.28
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Winchester Mystery House をでて、南に5時間。平常なら、海辺のモントレーに出て、クリント・イーストウッドが住んでる、カーメルを通ってコーストハイウェイを南下するのですが、数年前の大嵐で、がけ崩れや、橋の切断で、通行止めになってるか所があるために、次の目的地の南まで行って、キャンブリアという町から北に戻る形になりました。今夜のモテルは、海の前で心地よく、昨夜と全く違う環境でほっと一息。翌朝、モテルをチェックアウトしてHearst Castleに向かいました。https://hearstcastle.org/ランドルフ・ハーストは、新聞王で、当時世界一、二を争う金持ちだったのです。日本でいったら関東が全部はいってしまうくらいの土地に、どでかい自宅を建てました。ゲストハウスだけでも、200坪くらいです。キャッスルとよんでるように、お城ですよね、こうなると。今でこそ、車でのぼってこられますけどね、その昔、車を持ってる人は金持ちだけでしょう。馬をつかったみたいです。自分のもってる土地に湧き水の出る場所もあるので、そこから水をひっぱってきてまかなってるようです。ハリウッドの有名人を次々に招いて大きなパーティーをやったり、スクリーニングの出来る部屋もありました。つまり、個人の映画館ですよね。30年前に、私の母が日本から来た時に一緒にいったときは、改築中で室内プールは空で、亀裂があったり、タイルがきたなかったりでしたが、今回はきれいになっていて、その昔クラーク・ゲーブルとか、チャーリー・チャップリンとかが泳いでいただろうのを想像してみました。このほかに、個人の動物園もつくったのですよ。いまだに、ゼブラが生き残ってるとか言ってました。自宅に、テニスコートも室内プールも、屋外プールも2,3か所あって、噴水だらけ。映画館、動物園、農園、果樹園、玉突き場、図書館、舞踏会場、何でも来い。360度の眺め。こう豪華絢爛になると、実用的でなくてうらやましくもないですね。ま、こういう世界もあるのだ。。。と感じただけで住みたいとも思いませんでした。あなたはどうですか。追伸:ランドルフの孫娘のパトリシアが1973年にシンビオニーズ・アーミーという超左派の暴徒のグループに誘拐されて、名前までかえて、彼女自身がその一員となって、ロビンフッドの真似をしたことがあります。つまり、金持ちから金を巻き上げて、貧乏人にまわすみたいなことやって、大騒ぎになったことがあります。それで、彼女をおとりにして、ランドルフに、身代金を要求したのです。毎日テレビニュースをみたのを思い出しました。
2023.10.27
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私達夫婦には二つの記念日があります。その一つは巡り合った日で、これは1997年3月ですから来年で27年になり、もう一つは20年も同居してるから「ついに結婚しちゃった」日で、2017年の10月10日。その日を選んだ理由は、覚えやすいから(笑)私ふうの駄洒落をいえば、(ひい、ふう、みぃ)の数え方で、とうとうけっこんしちゃった。という日です。そういうわけで、今月の10日に「今日は結婚記念日6周年だね」といったら、グレッグは「え?そうだっけ?」という具合。「何か,特別な事したい?」ときいたら、「さあ?わかんない」「どこか、行ってみたい、見てみたいものないの?」「ウィンチェスター・ミステリーハウスをみてみたいなあ」というので「じゃあ。いこう」と答え、帰り道に寄ってこられそうなところをかんがえ「ハースト・キャッスルは?」と聞くと、「行った事ない」「ラッコで有名なモロ・ベイは?」「ない」というのですよ。カリフォルニア生れの人ですよ、彼。私でさえ数回いってるのにです。ベトナム、カンボジア、ラオス、日本、フランス、スペイン、キューバなどに行った人がです。こういうのを灯台元暗しというのでしょう。それで、先週車にのって、3泊4日の小旅行をしてきました。 家を朝の10時に出発すれば、夕方の6時前にはSan Joseにつきます。私の車で、私の運転です。途中一度休憩して、一度ガソリンをいれて5:30に、目的のモテルにつきました。その話は最後にします。その話だけで、数ページになるからです。 先ずは、ウィンチェスター・ミステリー・ハウス。英語の読める方用にリンクをいれましたから、およみください。日本語の方が良い方ように、簡単に説明します。ウィリアム・ウィンチェスターは、昔ライフルとか、ピストル製造の大元の社長でした。夫婦には子供一人いたのですが、1カ月で亡くなり、それきり子供は出来ませんでした。彼が亡くなった時、奥さんのサラはコネチカット州からカリフォルニアのサンノゼ(San Jose)に引っ越してきて、8部屋ある農家の家を買いました。この夫婦は、家の設計に興味をもち、コネチカットでも自分達の設計で家をたてたりしていたので、未亡人になったサラはサンノゼの家も自分で設計して改築をはじめたのですが、彼女が亡くなった1922年まで改築し続けたので世界でも一番長い改築だそうです。途中まで改築して気にいらないと、こわすか放棄して別の場所を改築はじめるので、二階建てが七階にまでなったこともあります。ところが1906年の大地震で崩れたので、今では三階になってます。彼女が亡くなった時には、なんと2,230平米の家で、10,000の窓、2,000のドア、160の部屋、52の天窓、47の階段と暖炉、17の煙突、13の風呂場、6のキッチンという迷路のような館になってしまったのです。私が、30年前に行ったときは、サラがオカルトに凝っていて、チャーリーというスピリットが毎晩出て来て「次はどこどこに、なになにを建てろ」とか「改築をやめるとお前は死ぬ」といわれつづけてこんな家になった・・・という風にきいていたのですが、今回はそんな話はでなかったので、ウィキペディアで調べたら、それはアトラクション用の作り話だとかいてありますから、サラ自身の考えだったのですね。でもドアの後ろにまたドアとか、ドアを開けると落とし穴とか、行き所のない階段とか3センチ位の幅50センチ位の階段なんかは、普通の考えではありませんね。(リンクや、ウィキペディアにはもっと素敵な写真があります。撮影禁止だと思って、館内では写しませんでした)
2023.10.26
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ネット友達に、伊藤裕美子さんという画家がいます。彼女とはミクシーというブログで巡り合ってますから、もう20年以上になりますが、実際にお会いしなくてもフレンドシップが長続きすると言うのには、やはりお互いに、相通ずる『何か』と誠実さがあるからだと思っています。実母も私も絵描きになりたかった人間だし、長い事、画家の夫と暮らしているので、絵を観賞する『目』はあると思うのですが、裕美子さんの絵が体中で好きなのです。人が何と言っても構わない、好きだから、感じたように描く、というとても自由で、のびのびした作品が多いのです。その裕美子さんが、ある日きままに靴にデザインをしてネットにアップしたところ、物凄い反響!あっという間に、我も我もと注文がきてしまい、本人も驚いて、「え、まさか?本当にほしいの?」と、まごついている。。。というのが正直な現状みたいです。彼女が、サイトにアップする度に、「あ!好き!ほしい」「これもいい!」と私は全部ほしくなるのですよ。でも、バカの大足にフィットするサイズの靴が日本ではみつからなくて、あきらめていたところ、「こんなのならあります」と、もしかしたら男用のではないか、と思われるスニーカーの写真を送ってきましたが、勿論それで結構。「何色系がいいですか」と聞いて来たので、「全部おまかせ」にしました。なぜなら、彼女は注文した人をイメージして自由に描くからです。猫好きな人なら、猫が。。。ジャズ・ピアニストなら、それに合わせてという具合です。「描き始めました。ショパンのエチュードです」というので、わくわくしながら待っていたら、昨日、ピンポーンと、配達がありました!きゃ~!最高です、写真をご覧ください。一つだけ、MRS GRENというタグが入っていたので「これは何でしょう?」と質問したら、こんな返事がきて、ますます気にいってしまいました。(MRSGRENは、生物の行為の頭文字です。 MOVEMENT RESPIRATION SENSITIVITY GROWTH REPRODUCTION EXCRETION NUTRITION:WHAT IS LIFE という本の中で見つけた言葉です。)というわけで、世界に一つだけの靴を履いてます。
2023.10.05
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語学 明治維新は根本から社会をひっくり返して国造りをした驚くべき時代で、カーストシステムを無くし、侍もちょんまげをやめて刀をすてた。約260年続いた鎖国を廃止し「これからの日本は若者をどんどん世界に送り出し、様々な新しい知識をとりいれようではないか」という事で、日本政府は次々に優秀な人材を海外に官費留学させた。そういう中に、津田梅子がいた。明治の男は気骨があったというが、『遠慮なく言わせていただくと』梅子のように女性も気骨はあった。しかも6歳であった。 著者こだま・ひろこさんから直々にいただいた『小説・津田梅子』(新潮社)を最近読んだのだが、全く違う文化の中でスポンジのように英語を吸い込みアメリカの社会に溶け込んでいった梅子のその勇気と努力と忍耐力は、同じ日本人だと言う事が誇らしくなるような行動であった。英語の吸収力の速さは梅子が6歳であった事もあるが、まだ母親のふところが恋しい年頃で留学させた親も親だが、怖気づかなかった梅子の態度は、良くも悪くも昔からの武家の躾(しつけ)であったと思う。 ネイティブのアメリカ人と同じ発音で、帰国後日本女性の英語教育、特に教師を育てる事に力を入れたのだが、梅子は祖母の英語の先生でもあった。会話が主で、よく寸劇をし発音にはきびしかったおかげで、祖母の発音も可なりよかった。「英語の時間になると、皇后陛下(明治)が毎回おいでになり、教室の前にお座りになって、だまって授業参観をなさり。終わると生徒全員にお菓子をくださるので、皆それがとっても楽しみだった」と言っていた。 官費留学に選ばれなくても私費留学した者もかなりいて、祖母の兄弟も一人は米国のカルテックス、一人はスコットランドのグラスゴー大学を卒業し日本のカメラの技術や、計量器の技術開発に一役かったという。 又、明治時代の海軍は外国語養成に力をいれ、ドイツ語、英語、フランス語とロシア語を優秀な士官の中から抜擢して学ばせたのだが、海軍大佐であった母方の祖父はロシア語を任命させられ流暢に話しRadio officerと言って無線でロシアと通信をする係だったから、日露戦争では大活躍した筈である。「先生の名前はトドロウィッチと言うロシア人で、よく我が家にもご招待しましたよ」と祖母から聞いた。 更に昭和の始めに、叔母はドイツに留学する事になりドイツ語はドイツ人の家庭教師に習った。1935年からドイツで暮らしたのだが、あいにく第二次世界大戦のおぜん立てがはじまり、本物のヒットラーの行進などを見た直後に日本大使館からの「即帰国せよ」というお達しで、やむなく帰国。石井漠や伊藤道郎などの時代に日本にモダンバレーを広げる努力をした一人であったが、戦争と離婚でその夢は消えた。後に一緒に留学していた前夫が復活させ、彼の死後の今でも津田信敏舞踊研究所として続いている。 叔母は学習院で英語を習ったのでドイツから帰国後、英語に切り替えたときも問題なく短期間で流暢にはなせるようになり、戦後は生きる為に進駐軍の通訳等をして家族の生活をたすけていた。後にアメリカの市民権をとり、カリフォルニアの銀行で働いて貯めたお金で、戦争でホームレスになった母親(私の祖母)に家を買ったのだった。つまり語学が助けになっている。その息子も青山学院英文科を卒業して英語を主に使う外資系の会社に入社しリタイアするまで務めた。 語学の助けと言えば、明治女の気骨の話に戻るが、祖母のそれは見事なものであった。姫君と言われて育ち大富豪の祖父と結婚して何不自由のない暮しをしていたにもかかわらず、戦争で未亡人になったと同時に数十軒あった不動産も全焼、ほぼ無一文になり着の身着のままで疎開をしたわけだが泣き言を一度も聞いたことがない。それどころか、戦後赤ん坊の子守りと交換に二畳の部屋を無料で貸すという若い夫婦の条件を受け入れ、疎開先から従兄をつれて二人で東京に戻ってきた。「私の育った家のはばかり(トイレ)より小さな部屋」に住み、子守りをしながら浴衣や着物を縫ったり、お習字、和歌、鼓、謡曲などを教え、英語が出来るからとパートで米軍士官の犬のお守りをしにいったこともある。 祖母の影響はつよく、「芸は身を助くというのを覚えておきなさい」と言われた私は、カリフォルニアで半世紀くらいピアノを教えて生活費の足しにし、「人間は死ぬまで勉強を続けるものです」と言われていたので、経済的にも時間的にも余裕のできた49歳で大学に行き始めた。忘れかけていた日本語をきちんと習って日本語教師になろうと決心しカリフォルニア大学の学生となり、日本文学とPedagogy(教育学) を勉強して53歳で地元高校の日本語教師となった。更に妹の娘も日本で米国の会社に長年勤務し、現在はシカゴの本社で働いている。このように私の家系は代々『語学』に助けられた。今アメリカでこれをお読みになってるあなたならお分かりになるだろうが、外国語は自身の世界を広め同時に人類をつなげる大切なツールの一つになっていると思う。 追伸:『遠慮なく言わせて頂きます』を書き始めて三年目になりますが、私の回想録であって読者の皆様には面白くもない可能性があるので続けるか否か迷っています。ご意見をお聞かせくださると大変ありがたいです。弘子(8pkaigo@gmail.com)
2023.10.02
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今年の4月に呼吸困難でERに行き、そのまま入院した話は書きました。喘息の酷いケ―スで、退院後も酸素ボンベやら吸入器やら、inhalerやら、薬三昧。「嫌だなあ」とおもってましたが、専門家に処方してもらった薬で、奇跡のように元気になり、20年以上続けていたスピードウォークも再開で元気にしてます、、、がグレッグが、宣伝を何でも信ずる男で、帯状疱疹のワクチンの宣伝が出るとすぐワクチンを打ちに行き、フル―の宣伝を見るとうちに行くのです。コレステロールを下げる薬の宣伝をみると、医者に処方してもらったり、、、。最初は笑っていたわたしも最近テレビの宣伝の半分は薬ですから、冗談じゃありません。兎に角、また新しいRSVワクチンがでて、しかも、呼吸器の弱い人はウィルスにやられると死に至るも宣伝してる為に、この二ヶ月「ヒロコは、喘息持ちだからこのワクチンしろ、じゃないと死ぬかもしれない」 と、うるさいのなんの。挙句の果てには、子供でもあるまいに「ヒロコが打てば僕も打つ」等と言われて、うるさいから一昨日ワクチンを打って来ました。帰宅したら、薬局から、もう次のオミクロンと、フル―のワクチンの宣伝が携帯に入ってました。何だかな〜!ワクチンの為に生きてるみたいな感じです。
2023.09.23
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今年の4月に呼吸困難でERに行き、そのまま入院した話は書きました。喘息の酷いケ―スで、退院後も酸素ボンベやら吸入器やら、inhalerやら、薬三昧。「嫌だなあ」とおもってましたが、専門家に処方してもらった薬で、奇跡のように元気になり、20年以上続けていたスピードウォークも再開で元気にしてます、、、がグレッグが、宣伝を何でも信ずる男で、帯状疱疹のワクチンの宣伝が出るとすぐワクチンを打ちに行き、フル―の宣伝を見るとうちに行くのです。コレステロールを下げる薬の宣伝をみると、医者に処方してもらったり、、、。最初は笑っていたわたしも最近テレビの宣伝の半分は薬ですから、冗談じゃありません。兎に角、また新しいRSVワクチンがでて、しかも、呼吸器の弱い人はウィルスにやられると死に至るも宣伝してる為に、この二ヶ月「ヒロコは、喘息持ちだからこのワクチンしろ、じゃないと死ぬかもしれない」 と、うるさいのなんの。挙句の果てには、子供でもあるまいに「ヒロコが打てば僕も打つ」等と言われて、うるさいから一昨日ワクチンを打って来ました。帰宅したら、薬局から、もう次のオミクロンと、フル―のワクチンの宣伝が携帯に入ってました。何だかな〜!ワクチンの為に生きてるみたいな感じです。
2023.09.23
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今年にはいって、楽天から「宣伝の欄をいれろ」と、何度も何度も書いてくるので、ハエを追うようにOKを押してしまったのですが、どうやって入れるのかわかりません。ご存じの方はおしえてください。点数が、どうのこうのというより、毎回、ブログをアップするとき、ブロ活がまだです。。。。というのがでてきて、うるさいのですよ。よろしく。弘子
2023.09.23
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2015年位から、ずっと鬱が続いていたグレッグ、やっと2年前から晴れ間がでてきて、電話でカウンセラーと毎週話しており新薬も彼に良くあうらしくて、とっても朗らかになりました。ところが、先月は彼の子供みたいだった、愛犬のトニーが死んだので「これは、やばい?」と思ってたのですが、かなり長い事悲しんで、それもやっと過ぎ、今ではトニーの冗談までいえるようになり、ほっとしています。一昨年くらいから又絵を描き始めて、ロスの画廊から招待され, 絵が売れたり、またサンタ・アナでも今グループ展に出展しており、来月はサンタ・アナ・カレッジの持っている素敵な画廊で個展をやる事になり、一昨日は作品を27点配達してきました。ま、そういう事もあって、楽天ブログも可なりご無沙汰してました。で、やっとかける時間が出来たと思ったら、年とってました。ははは。ま、ときどき書きますので、のぞいてください。又、ジョン・ウェイン飛行場にも彼の作品が展示され、やる気になってますが、なんせ私が81歳ですので、いいかげん大変になって来てます。つまり、昔のようなスピードもないし、重い物もあまり持ち上げられません。まだ、パソコンはできるし、事務はできるので出来る事は手伝ってます。飛行場のです。この作品はラグナビーチ・アートフェスティバルのコレクションです。個展の招待状です。
2023.09.22
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17日の日曜日は、タスティンという町の本多屋30年記念チャリティー祭りがあって、オレンジ郡の日系協会もブースを出すというので、2時間ばかり、店番をしてきました。先ず思った事は、この60年で、アメリカに住む日本人が物すごく増えてる事でした。私の住んでる近所だけでも、こんなに多くの日本人がいるのですから、他の地域を換算したらどの位の日本人がいるのか想像できません。私が来た頃は、町に3人しかいませんでしたから、むろん日本食材などを売る店も限られていて、遠くまで車で行くしかありませんでした。この本多屋さんが開店した頃から日本の企業がどんどん南カリフォルニアに支店、支社を立ち上げていったのです。ですから、「日本語が流行るだろう」と考えて、私は大学で教師になる勉強をして、地元の高校で日本語の教師になったのです。 また、国際結婚も可なりふえているので、もちろんハーフが大勢いて、私とブース番をしていた若い子達も、茶道のブースや、金魚すくいのブースでボランティアしていた子達も、お客さん達もハーフなんです。舞台では、MCが日本語でしたから、白人の客も日本語が分かる人ばかりなんですね。なんか、夢を見てるような不思議な感じでした。つい最近、誰かに言われました。「ヒロコさんねぇ、昭和生まれってのは、我々の時代の明治生まれみたいな感じなのよ。もう、かなり古い人間なのよ」と。長生きすると、色んな面白い世の中をみられますね。『明治は遠くなりにけり』という言葉があったけど、『昭和も遠くなりにけり』ですね。追加:おうすをいただきましたが、あまりにも熱くてびっくりしました。泡もたってなくて、お茶碗に半分も入っていました。
2023.09.20
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嘘つき 私は小学生の頃『うそつき』と呼ばれた期間がある。嘘は許されない家庭に育ち、本当の事を言っていたのにである。 例えば「東郷平八郎は偉い海軍大将だった」という話がでると「親戚」と言い、「皇太后は」と言えば、「おばあさんの友達」、「坐漁荘は西園寺公望の別荘で普通の人は入れないんだよ」と誰かが言えば、「行った事ある」というたぐいで、疎開先の大人達から「ヒロコちゃん、嘘つくと閻魔さんに舌をとられるよ。」とたしなめられたのだった。 無理もない、母と祖母は手に持てるだけのもので疎開したから、私はつぎはぎだらけの服を着ていたし、すりきれた下駄か草履などを履いて遊び、お風呂も週に数回くらいしか入られなかったから浮浪児みたいだったのであろう。そんな子が東郷家の親戚である筈はないと思われても仕方がなかったが、父方の祖父は海軍少将で平八郎の従兄弟であった。 大人達が「嘘つき」呼ばわりした為に子供達まで「ヒロコちゃんは嘘つき」と呼びだしたから、以後黙っているようになり、還暦近くまで家系に関しては口を閉じていた。だが余命いくばくかになった今、世の移り変わりという歴史の一部として書き残していこうと思うようになった。 実はこの数週間、昔読んだ芹沢光治良の『人間の運命』という14巻に渡る大作を50年振りに読み直したのだが、明治から昭和の話で主な舞台が静岡県で、第一巻から沼津の御用邸、興津の坐漁荘など子供時代の懐かしい地名や人名が出て来た為に「嘘つきヒロコ事件」を思い出したのである。 疎開し始めは、親戚や知り合いを頼りに放浪し、どこでも食糧難だったから一か所に長居はできず、やっと祖母の学友の一人と連絡がとれ「気候が温暖で、海の幸山の幸にめぐまれておりますから是非疎開なさったらいかがでしょう。」と勧められたのが興津という漁村で、私はそこで中学まで育った。その興津を紹介してくれたのが、西園寺公望の奥様で、祖母の学友の元徳川さんであった。私は華族であったこの母方の祖母に育てられた。 当時2,3歳だったが、祖母に手を引かれてその坐漁荘に行った日がとてもよいお天気だった事を覚えている。西園寺公はもうこの世にいなかったが、坐漁荘はそのまま残っており特別許可を得て見学できるようになっていた。地元の人々は畏れ多いと言って誰も行かなかった。私達はミセス西園寺じきじきのご案内で別荘を見学、と言っても祖母は学友との積もる話に忙しく、幼児の私には面白くなかったから、手を振りきって勝手にあちこちを見て回ったのだが、ひとつ印象に残ったのはトイレであった。大きな畳の部屋だと思って入ったら、そこがトイレでびっくりした。棚には花がかざってあり、お茶室のようであった。 帰り際に「ヒロコちゃまにこれを差し上げましょ」とミセスから綺麗な和紙の『おひねり』をいただき、開けてみたら色とりどりの金平糖と落雁がはいっていて、最高にうれしかった。戦争中で一般人の口には入らなかったものであった。帰宅して母に見せたら、「うわ~きれい!懐かしい!こんな物資難でも、有るところには、あるのね。」とため息をついていた。砂糖なども手に入らない時代であった。 戦争が終わっても、大きな都市は食糧難であったが、興津は漁村だったので漁師は捕れる季節になるとほぼ毎日のように漁にでかけ、岸に戻って網を引くとき、私はバケツをもって網からもれて浅瀬にピチピチ跳ねてる小魚をいっぱい拾って来たので、我が家はいつも新鮮な魚を食べていた。又、漁師のおかみさん達が煮干し作りに窓のスクリーンみたいなものに蒸した鰯をのせ浜辺にズラーッと50メートル位並べて干し、夕方倉庫にいれ、又翌朝だして干す作業を繰りかえすのだが、それを集めて倉庫に入れた後かならず沢山の煮干しが落ちていたので、それも拾ってスナックにしていた。カルシュームたっぷりであったから、今でも歯や骨が丈夫な理由はそこにあると思う。鰯の煮干しなど地元の子供達は見向きもしなかったから、競争相手もいなかった。 又、静岡はミカンで有名な県でミカン畑には沢山のミカンが落ちていたので、それも拾ってきたし、ウラジロといって草餅に入れるシダ、つくし、ぜんまい、なども集めて来た。我が家の日本庭園も畑と化し、蕗、トマト、茄子、きゅうりなども自宅栽培をし、東京や横浜、大阪から親戚がきてはリュックに沢山つめて持ち帰った。「前庭には二羽、裏庭には二羽のにわとりがいる」という早口言葉ではないが、我が家でも鶏を四羽飼っていたので卵もあった。又、容器をもってミルクやクリームを農家に買いに行くのは私のしごとで、母は七輪の上にのせる小さなかまぼこ型の簡易オーブンで、サッカリンという人口甘味料を使ってクッキーやケーキを焼いて漁村の人々をびっくりさせていたが、「売らせてください」という店もでてきて、母はにわかベーカリーをやったこともある。生きるためには色々な事をやった時代であった。 時と共に「嘘つき」から「ヒロコちゃんちは、元かぞくさんだってねぇ」という風に変わっていったが、その意味が分からず「誰のうちでも家族じゃん」と私はぶっきらぼうに答え、「おばあさんが、沼津の御用邸にいったんだってねぇ」とか、「天皇さんにもあったことあるんだってね」とかきかれても無視し続けた。もう嘘つき呼ばれをされるのは、まっぴらだったからである。 * *右から二番目が、私を育ててくれた祖母です。父は戦地だったし、母は働いていたからです。祖母の学友には、勝(勝海舟の娘)徳川、伊達、西郷、松平、伏見、九条、明治維新に活躍した人々の娘とか、公家の娘達が多くいました。
2023.09.01
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