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朝礼のとき、校長先生が、「地方に親戚がある人は、疎開することを考えるよう
、
お家の人に話してください」と、
話すようになっていた。
東京では、前年から三年生~六年生の「学童疎開」が実施されていて「強制疎開」
「集団疎開」などの言葉も聞かれるようになっていた。
何人かは疎開して行き、反対に浦和に疎開してきた
子も何人かいたが、学校全体でどうこうするまでの事態は起こらなかった。
防空壕が出来た次の日から、人ではなく、荷物の疎開が始まりました。夕方、荷車を引いて男の人が3人
来て何日か、箪笥・客布団等々を、祖母が手配してくれた”本家”の蔵に預かって貰うと運び出しました。
家の中がガランとしました。そのために、川崎と世田谷で罹災した二家族に部屋を貸すことになり、世田谷の
三人家族との葛藤ともめ事が絶えない、不愉快な日々を過ごすことになるなど予想もできませんでした。
学校へは相変わらず、「警戒警報」のたびに、行ったり帰ったり。「再登校できなかったときは、
この漢字を
十回ずつ書いていらっしゃい」「このページの計算問題をやっていらっしゃい」と、宿題攻めになった。
昼間のうちに済ませてしまわないと、夜は電灯が暗くて何も出来なくなる。
『学童動員』のお達しもあった。検索すると、『小学生が工場の手伝いをした』
『近隣の農家の作業の手伝いに
学校から連れていかれた』など記述されている。
近くに工場も農家もない私の学校は、“別所沼開墾“農作業に
何度か連れて行かれた。
沼の周囲を
畑にするのだが、
沼の周辺なのでぬかるんでいて、歩くだけでも一苦労。
鍬を手にする環境になかった四年生の女の子に何が出来たと言うのだろうか。
「もっと深く耕さなければ駄目」「畝が曲がってる。まっすぐに掘りなさい」先生の容赦ない声が飛ぶ。「やってみせて」心の中で反発した。
今
は「別所沼公園」として整備され、ホームページには、周辺を含むこの開墾で、減少したり、絶滅した
種もあると記されているが、当時は、そうしなければ食べることが出来なかったのだろう。
戦争の終焉が近いなど知る由もありませんでした。
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