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食糧不足が深刻になり、全ての品目の絶対量が不足した。麦・大豆・ジャガイモ・サツマイモ・アワ・
稗などが米の代わりとして配給された。
ご飯に麦をまぜて炊くようになり、米と麦の割合もだんだん
麦の方が多くなっていった。 ”
ご飯“が食べられるのは
、
まだマシだった。
ほどなく
“代用食”と称して、1日1食は、ジャガイモ・サツマイモ・カボチャなどで済ませなくてはならなくなった。
隣近所の家では庭木を抜いて、畑を作りはじめた。最初は野菜だったが、イモ類を植えた家もあった。「うちでも、家庭菜園作ろうよ」と言ってみたが、父は「素人の作った野菜なんて、おいしくない」と反対し、花壇には相変わらず、チューリップやヤマユリを植えていた。代わり庭の隅に畳3畳ほどの
モ類の皮、粟・稗も飼料になった。
“ご飯”には、さまざまな物が混ぜられた
。
麦・大豆・ジャガイモ・サツマイモ・アワ・稗など。
大麦 枝豆→→実らせ大豆 高粱
大豆ご飯は冷めると、大豆が硬くなった。ジャガイモは米粒大に刻んでご飯に混ぜられた。これが、
一番抵抗なく食べられた。
サツマイモは、今はおいしい品種を混ぜて炊き、薄い塩味をつけて、
ご馳走として食べられるが、戦中のガリガリの芋では、無理やり喉に流し込むしかなかった。
穀類では、真っ赤なコウリャン (
高粱 )
までが配給された。家では、お米に混ぜられることはなかった。鶏の飼料になった。
銃後:戦場の後方。直接戦闘に携わっていないが、間接的に何かの形で戦争に参加している一般国民。 「
参加させられて」でしょ?
日中戦争
以降、主に
商工省
を中心として
1938
年
(昭和 13
年)
4
月
に公布された
国家総動員法
の制定を
きっかけに広く生活必需品が配給制になったことが知られている。配給する品
目等は、
1940
年
4
月 24
日に
設置された価格形成中央委員会で決定され、同年
6
月1
日
以降、
米
、
味噌
、
醤油
、
塩
、
マッチ
、
砂糖
、
木炭
など
生活必需品
10
品目について順次、配給切符制が導入された。(引用)
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