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2014年12月26日
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テーマ: 臨戦刀術(92)
カテゴリ: 臨戦刀術


 後の首器斬り役人山田浅右衞門は、山野勘十郎成久の弟子とも、
またその子吉右衞門後勘十郎久英の弟子であったともいわれている。
 久英の居宅は、江戸市ヶ谷の本村にあった。
 この久英、腕はよほど冴えていたが、
試刀のため伝馬町の牢まで行く事が億劫〔おっくう〕で、
罪囚の死屍を運ばせ、自宅の庭に土壇を築いて刀を試した。
 それがため、俄か雨の時などは、庭に積んで置いた死屍に雨がかかるのをおそれて、
弟子や妻女にまで手伝わせ、死屍を椽〔たるき〕の下などに取り入れたという。
 この男は、一面剽軽〔ひょうきん〕なところがあって、乞食などに銭を与え、
死屍の下に寝かせて切るに、上の胴は切れても下の乞食にはあたらなかったという。
 ある時、自宅へ帰ろうと、津の守坂を下って行くと、
前方に大きな西瓜〔すいか〕を肩にのせて行く者がある。
久英の物ずきな出来心がこの時むらむらと起こり、
えいッと気合いもろ共抜き打ちに件の西瓜を切って落とすと、
西瓜は赤く二つに切れてころりと落ち、
持っていた男はいささかの傷も負わないのに、
「首がおっこちた。大変だ大変だ。」
 とわめいて逃げ去ったという。
 山野氏は、三代限りで、後継者を欠いてか、
あるいは他の理由でか首斬り役人の地位を失い、
それに代わったのが門弟の山田浅右衞門であった。


 幕府のお刀お試し役人というのは、山野山田二家が主なるものではあったが、
他にもそうした家柄役柄があったらしく、
延寳七年五月十二日に、八兵衞という強盗を、
小石川の山屋敷(キリシタン屋敷のこと)で前島伴右衞門という者が試斬りをした事、
同じく六月十二日、駈け落ちした仲間一人を同所で同人が斬った事などから、
それと うかがわれるのであるが、その他に、
近くは伊予今治久松家で家士須藤五太夫をはじめ、
小松原甚右衞門などの名前も、試刀技術家として記録の中に見えている。


 最後に、浅草観音の境内に、縁結びの霊神として
もろもろの功徳をあらわしている久米平内様も、その経歴を洗ってみると、
立派な首斬り稼業であって、縁結びの神として崇められるような理由は一向に見当たらない。
 平内は本姓兵藤平内兵衞長守といって、九州浪人の武藝者で、
志を得ずして江戸に来たり赤坂に住居して居合剣術を指南し、
千人斬りの悲願をかけて夜な夜な辻斬りを働いた。
 承應の頃、旗本の士青山主膳に召し抱えられ、
主人が、盗賊改め役であったからその下で働き、苗字も妻の本姓の久米に変え、
用人格としてそうした荒仕事に携わった。
 青山主膳は性粗暴、後に侍女を井戸の中に斬り込んで
一家断絶した番長皿屋敷の主人公だけに、
する事なす事が手荒く、盗賊改めは、いかにもその適役であった。
 平内は、別職として罪囚の打首や試刀をなし、その斬った首数は二千にものぼり、
首塚を二度まで建てて供養したそうである。
 天和三年に死ぬる時、
「俺が死んだらその死に顔を似せて像を刻み、人通りの多いところへ建ててくれ。
生前に人を多く斬った罪を滅ぼすために、晒しものになるのじゃ。」と遺言した。
これが浅草に現存する石像の由来であるという。
 息を引き取る今わの際まで、大切に抱いて離さなかった長大な愛刀は、
宇多の國宗であったという。
 平内が死んでから三年後の貞享二年にその妻が死んで、
駒込海蔵寺の同穴に葬ったというから、縁結びというような艶っぽい事は、
おおかたそんなところから出ているのではなかろうか。






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Last updated  2015年01月18日 22時10分44秒


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