2020.06.24
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カテゴリ: 京の見どころ
 暫く季節と共に自然をお伝えしてきた記事がコロッと替わります、
 明治の初期に新島襄が自分の夢を実現するべく、 志を同じく する者が創った結社「同志社英学校」(のちの同志社大学)を創立します、それに関わった新島襄・八重の夫妻と八重の兄山本覚馬が中心となりキリスト教精神に基づく教育の場を創りあげました その歴史を生んだ邸宅跡です  
(記事少し長くなります、お時間の許す折に又はスルーして下さい)

 新島襄旧邸  同志社英学校創立の跡地です

 ↓「新島襄旧邸」玄関です


 ↑新島襄

 ↑建設当初の同志社英学校
     (以下三人の写真は、同志社社史より)

 新島襄   同志社の創立者
 国を改革し近代化する日本をとの夢を持ち、1864年21歳の時国禁を犯してアメリカに渡航、現在も有数な大学の一つアーモスト大学に学び、日本人として初の理学士の称号を得ます、留学中にキリスト教徒となり一つの夢、キリスト教主義教育を日本でもと言う夢を膨らませます、このあとアンドーバー神学校でも学びます
 1872年在米中に、明治政府の岩倉具視を全権大使とした欧米岩倉使節団(新政府の中枢木戸孝允・大久保利通・伊藤博文など108名)と出会い通訳として参画を許され、欧米各国の教育制度を視察、自由と良心に基づくキリスト教主義の教育で日本を近代化出来るとの確信を得、1874年帰国する前にアメリカン・ボード(アメリカ最初の海外伝道組織)の年次大会総会で、日本での学校設立を強く訴え5,000ドル(当時)の寄付の約束を得て帰国します
 1875年に京都府知事槇村正直の賛同と同府顧問山本覚馬の強力な支援を得て京都御苑の東側寺町丸太町上るに同志社英学校を開校します、更に翌年八重と結婚したのち欧米の伝統的な総合大学の創設を目指し、私立同志社大学の設立の為東奔西走しますが創設目前に志半ばにして倒れ1890年47歳の若さで亡くなります のち、遺志は山本覚馬を始め徳富蘇峰らにより引き継がれ同志社大学が創立されています

 ↑新島八重

 ↑女紅場(ニョコウバ)址、裁縫手芸料理等の教場

 新島八重   (旧姓・山本八重)  同志社の母と呼ばれます
 戊辰戦争時会津が戦場となった時に断髪・男装し会津若松城に籠城、自らスペンサー銃を持ち奮戦します(大河ドラマ八重の桜で知られます)が敗戦、三年後の1871年26歳の時に当時京都府顧問だった実兄山本覚馬を頼り上洛、兄の推薦により京都女紅場(現府立鴨沂(オオキ)高校)で権舎長を務め教育への足掛りとします、
 この頃新島襄と知り合い1875年婚約キリスト教の洗礼を受け同志社英学校創立の身近な支援者となり翌1876年クリスチャン同志の結婚式を挙げる、襄の八重を称して「その生き方がハンサム」と言った事から云われるハンサム・ウーマンはその後知られる所となります、
そのあと、同志社分校女紅場(のち同志社女学校)で礼法の教員となるのを始め同志社各校の教務に携わり、また篤志看護婦として日清・日露の戦争に従軍し取締として看護婦を指導、その後の看護婦地位向上にも寄与し勲六等宝冠章を授賞しています
 襄の死後も住宅(旧邸)に起居していましたが、襄の想いを継ぎ住まいの土地建物、什器一切同志社に寄贈しています
八重は86歳の長寿を全うし、若王子山襄の墓の隣に葬られています

 ↑山本覚馬

 ↑前中央が覚馬 後ろ中央に襄と八重、時期は不明

 山本覚馬   同志社の礎となります 
 会津藩の砲術師範で、勝海舟らと共に佐久間象山に学び、1862年京都守護職に就任した松平容保(カタモリ)に従い京都に入る、この頃から眼を患い失明同然となります 鳥羽伏見の戦いで捉えられ薩摩藩に幽閉、この中で口述筆記された建白書「管見(カンケン)」が認められ、京都府顧問として遷都後の京都近代化に貢献、初代府議会議長、商工会議所会頭など歴任します。
1874年以前から学んでいたキリスト教に入信洗礼をうけます、その縁で知り合っていた宣教師ゴードンを通して新島襄に出会い彼の私学創立の想いに深く共鳴して、全面的に協力支援し同志社英学校創立に至ります
 そして襄の死後もその遺志を継ぎ、明治維新後所有していた旧薩摩藩邸の敷地(京都御苑北側の現同志社大学今出川校地)を提供して同志社大学創立に導き、現同志社の礎となります

 ↓御苑側から見た建物前面です


 ↓新島襄先生の石塔が立ちます


 ↓旧邸です 1878年(明治11年)に竣工、木造二階建ての和風建築で洋風の手法を取り込んだ建物で、現在は市の有形文化財に指定されています


 ↓建物東面です お寺や神社には明治時代やそれ以前に建てられたもの数多くありますが、住宅として現存しているのは希です、木造洋風住宅としては京都最古のものだそうです


 ↓建物南面です 柱が露出され壁はその内側に納まります


 ↓建物近くから 珍しい明治時代の洋風の住居、内部の設えと共にご覧下さい


 ↓建物外側は外縁が三方囲みます 和風の住まいには珍しい造りです


 ↓「応接室」 多くの来客があった様で、椅子・ソファーは多人数に備へ置かれています


 ↓襄がいつも在室し執務した「書斎」です 書籍そのまま残されています


 ↓「食堂」です


 ↓オルガンが置かれます、八重の部屋となります


 ↓「寂中庵」茶室です 


 ↓寂中庵内部 襄の没後茶道家となった八重が洋室を改め茶室としたものです


 ↓通し廊下と二階への箱階段 二階へは行けません二人の居住に使った部屋です


 ↓旧邸の南にある「新島記念館」 最初の写真に見えていた建物です


 ↓記念館内部です 新島襄と三人が残した貴重な遺品や資料が保存され、一部展示もされています


 ↑覚馬1892年64歳で亡くなります

 ↑襄は1890年47歳の若さで、八重は1932年86歳で生涯を閉じています   墓碑の銘は勝海舟の揮毫
 ↓新島襄と八重、山本覚馬三人の墓は共に左京区若王寺山(ニャクオウジヤマ)の山の上同志社墓地に葬られています   (山道険しくとても登れません・写真は同志社社史より)


 ↓「同志社礼拝堂(チャペル)」1886年(明治19年)建てられたプロテスタントのレンガ造チャペルとしては日本に現存する最古の建物となり、重要文化財とされています


 現在の同志社今出川校地には、明治この時代の建物五棟が残り使われています、校内レンガ造りが一際目立ち明治の雰囲気が漂います


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最終更新日  2020.06.24 05:00:06
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