2015.05.12
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戦後70年
プロローグ「あの戦争から何を学ぶか」1  薄れる惨禍の記憶 戦後システムに疲労

 2015年は戦後70年の節目の年。軍人と一般国民合わせて310万人が亡くなり、アジア各国にも多大な被害を及ぼした戦争の記憶は薄れ、焦土から築き上げた戦後民主主義のシステムも制度疲労が激しい。私たちの地域社会、日本という国、そして世界はこれからどこへ向かうのか。手始めに、あの戦争から何を学ぶか考えよう。


 ▼ 「勝つか、死ぬか」 終結構想ないまま


 「勝つか、自分が死ぬかしかないと思っていた。降伏して終わるなんて全く想定していなかった」。陸軍士官学校61期生の 戸塚新 (とつか・あらた) (86)=東京都世田谷区=は何度も繰り返した。

 戸塚が陸士に入校したのは1945年2月。半年後に戦争が終わるとは夢にも思わず、模擬爆弾を抱えて米軍戦車に見立てたリヤカーに忍び寄って自爆する訓練などに明け暮れた。

 当時の日本軍は、敗北の瀬戸際に追い込まれていた。前年10月のフィリピン・レイテ沖海戦で、連合艦隊がほぼ壊滅。米軍は45年4月、沖縄本島に上陸した。本土でも、各地の都市がB29爆撃機による空襲に連日見舞われ、民間人の死傷者が急激に増えていた。

 「なぜ、戦況がこれほどひどくなる前にやめられなかったのか」。戸塚に問うと、しばらく考えてから、絞り出すように言った。「無理だった。どんなに犠牲を払っても、戦いを続けていれば何か打開の手はある。そんな気持ちだった」



 戦争は当初、日本軍の優勢で進んだ。41年12月8日、ハワイの真珠湾とともに英領のマレー半島などを攻撃して太平洋戦争を始めた日本は翌年3月には、当時オランダ領だったインドネシアのジャワ島に上陸。開戦の最大の目的だった石油の確保に成功した。

 当時の首相兼陸相、 東条英機 (とうじょう・ひでき) の秘書官などを務めた陸軍大佐、 西浦進 (にしうら・すすむ) は戦後の回想で「南方(の石油)を取る。そして向こう(米軍)が出てきたところを連合艦隊が1回か2回たたけば、神風かも分からないが、何か和平の空気が出てきやせんかと思っていた」と振り返る。

 たたくチャンスは意外に早くやってきた。42年6月、海軍は北西ハワイにあるミッドウェー島攻略を仕掛けて米空母部隊を誘い出し、撃滅する作戦に乗り出した。

 「作戦開始」の知らせを受けた西浦は「しめた」と思ったが、2日後には「日本の空母4隻全滅」という大敗の報告。東条も「うーん」とうなるだけだったという。

 ▽願望のシナリオ
 ミッドウェー海戦は太平洋戦争全体のターニングポイントになった。快進撃を続けていた日本軍はこの大敗を機に、ガダルカナル島(43年2月)、サイパン島(44年7月)など戦略的拠点を次々に失う。

 特に、サイパン島はB29の出撃基地として使われ、同島が陥落したマリアナ沖海戦の敗北で、「この戦争の軍事的決着はついてしまった」(東京大教授の 加藤陽子 (かとう・ようこ) )と言われる。

 それにもかかわらず、その後1年以上も戦争が続いたのはなぜか。

 昭和史を研究するノンフィクション作家、 保阪正康 (ほさか・まさやす) (74)は「終結構想がないまま戦争を始めた」ことを挙げる。

 開戦約1カ月前の41年11月、政府と軍は「出口戦略」ともいえる「戦争終末促進に関する腹案」を決定した。それは、日本が中国をたたき、ドイツが英国に勝てば、米国でも戦争を嫌がる世論が広がり、講和に持ち込めるだろうという願望に基づいたシナリオだった。

 この「腹案」を起草したエリート軍人で当時の中堅幕僚、 石井秋穂 (いしい・あきほ) に保阪は戦後、何度も取材した。「願望を並べたと石井は言っていた。最初の起案だからいいかと上に出したら、そのまま通ってしまったと。終戦の方法は国策を決める上層部の責任者の間でまともに論じられることはなかった」。保阪はそう結論づける。



 対照的に米国は、中部太平洋の島々を飛び石のように制圧して航空機の前進基地を確保、日本本土を直撃するという対日戦略の基本を定めていた。日本の戦争遂行能力を低下させるため、石油運搬用タンカー、兵士や武器・弾薬、食糧、医薬品を運ぶ輸送船を徹底的に攻撃。「敵軍から奪取、または現地調達」という日本陸軍の補給軽視思想も災いして、前線の戦いぶりは悲惨を極めた。

 「糧食は1週間分。12門の火砲に砲弾は全部で600発だけ。こちらが1発撃つと1000発お返しを食らうありさまで、勝ち目がないのは明らかだった」。陸軍野戦重砲兵第4連隊の指揮班長としてガダルカナル島で米軍と戦った 矢吹朗 (やぶき・あきら) (93)=東京都板橋区=は500人の部隊のうち、400人が飢えやマラリアで死んでいった地獄のような4カ月近くの日々を忘れることができない。

 広島、長崎への原爆投下、ソ連参戦という八方ふさがりの状況に追い込まれた45年8月、日本はようやくポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を決めた。「出口」を考えずに開戦し、人々に多大な苦しみを与えておきながら戦争を続けた責任の所在は戦後70年の今も、うやむやのままだ。(敬称略)

 ▼310万人が犠牲に ロシアから南太平洋まで

 厚生労働省によると、1937年の日中戦争開始以降の戦死者数は、軍人と一般国民を合わせて310万人に上る。死亡場所は国内はじめ、北は現在のロシアから、南は南太平洋のニューギニア島まで広範囲にわたる。



 多くの餓死者を出したことで知られるガダルカナル島を含むビスマルク・ソロモン諸島は11万8700人。ガダルカナル島は日本から約5千キロ離れている。西ではインドで3万人が死亡。戦地がいかに広範囲だったかが分かる。

 戦線が各方面に広がる中、食糧の補給が行き届かず、ガダルカナル島以外でも餓死者が続出した。軍人の戦死者のうち6割が餓死か、栄養不足が原因の病死とみる専門家もいる。

 軍人の戦死者を時期別に分類するのは可能か。厚労省はそうしたデータは集計していないとしているが、一橋大の 吉田裕 (よしだ・ゆたか) 教授(日本近現代史)は岩手県に残された記録から類推して、44年以降の終盤に死者数が集中していたとみている。同県の「援護の記録」(71年)によると、太平洋戦争開戦後の、同県に本籍がある陸海軍の戦死者計約3万人のうち、44年以降が87・6%に達していたからだ。

 吉田教授は「終戦の決断が遅れたために、戦死者数が膨れあがった。『あと1年、終戦が早ければ』と悔やむ遺族が数多くいたことを忘れてはならない」と話す。

 厚労省のまとめでは、沖縄県と硫黄島を除く日本国内の戦死者は一般国民が50万人で軍人が20万人の計70万人。沖縄県は軍民合わせて18万6500人となっている(県集計では18万8136人)。

 国内の一般国民50万人という数字は「太平洋戦全国戦災都市空爆犠牲者慰霊協会」(当時)が戦後、全国113の戦災都市から受けた原爆や空襲被害の報告に基づいている。

 「他にも空襲を受けた地域があり、実際には50万人を超えていただろう」と吉田教授。空襲被害が本格化するのは44年末以降。ここでも終戦の決断の遅れが大きく影響している。

(共同通信)=2014年12月6日





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最終更新日  2015.05.13 01:06:15 コメントを書く


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