元気力UP!

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2015年06月24日
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カテゴリ: 吾輩は猫である
しかしそれも薄々は知ってます」「ホホホホ面白い事ばかり……」と細君|相形 を崩して笑っていると、格子戸 のベルが相変らず着けた時と同じような音を出して鳴る。
「おやまた御客様だ」と細君は茶の間へ引き下がる。
細君と入れ違いに座敷へ這入 って来たものは誰かと思ったらご存じの越智東風 君であった。

ここへ東風君さえくれば、主人の家 へ出入 したとまで行かずとも、少なくとも吾輩の無聊 を慰むるに足るほどの頭数 は御揃 になったと云わねばならぬ。
これで不足を云っては勿体 ない。
運悪るくほかの家へ飼われたが最後、生涯人間中にかかる先生方が一人でもあろうとさえ気が付かずに死んでしまうかも知れない。
幸 にして苦沙弥先生門下の猫児 となって朝夕 虎皮 べるので先生は無論の事迷亭、寒月|乃至 東風などと云う広い東京にさえあまり例のない一騎当千の豪傑連の挙止動作を寝ながら拝見するのは吾輩にとって千載一遇の光栄である。
御蔭様でこの暑いのに毛袋でつつまれていると云う難儀も忘れて、面白く半日を消光する事が出来るのは感謝の至りである。
どうせこれだけ集まれば只事 ではすまない。
の陰から謹 んで拝見する。

「どうもご無沙汰を致しました。
しばらく」と御辞儀をする東風君の顔を見ると、先日のごとくやはり奇麗に光っている。
頭だけで評すると何か緞帳役者 のようにも見えるが、白い小倉 の袴 のゴワゴワするのを御苦労にも鹿爪 らしく穿 いているところは榊原健吉 の内弟子としか思えない。
従って東風君の身体で普通の人間らしいところは肩から腰までの間だけである。
「いや暑いのに、よく御出掛だね。
さあずっと、こっちへ通りたまえ」と迷亭先生は自分の家 らしい挨拶をする。
「先生には大分 久しく御目にかかりません」「そうさ、たしかこの春の朗読会ぎりだったね。
朗読会と云えば近頃はやはり御盛 かね。
その後 御宮 にゃなりませんか。
あれは旨 かったよ。
僕は大 に拍手したぜ、君気が付いてたかい」「ええ御蔭で大きに勇気が出まして、とうとうしまいまで漕 ぎつけました」「今度はいつ御催しがありますか」と主人が口を出す。
「七八|両月 は休んで九月には何か賑 やかにやりたいと思っております。
何か面白い趣向はございますまいか」「さよう」と主人が気のない返事をする。
「東風君僕の創作を一つやらないか」と今度は寒月君が相手になる。
「君の創作なら面白いものだろうが、一体何かね」「脚本さ」と寒月君がなるべく押しを強く出ると、案のごとく、三人はちょっと毒気をぬかれて、申し合せたように本人の顔を見る。
「脚本はえらい。
喜劇かい悲劇かい」と東風君が歩を進めると、寒月先生なお澄し返って「なに喜劇でも悲劇でもないさ。
近頃は旧劇とか新劇とか大部 やかましいから、僕も一つ新機軸を出して俳劇 と云うのを作って見たのさ」「俳劇たどんなものだい」「俳句趣味の劇と云うのを詰めて俳劇の二字にしたのさ」と云うと主人も迷亭も多少|煙 に捲 かれて控 えている。
「それでその趣向と云うのは?」と聞き出したのはやはり東風君である。
「根が俳句趣味からくるのだから、あまり長たらしくって、毒悪なのはよくないと思って一幕物にしておいた」「なるほど」「まず道具立てから話すが、これも極 簡単なのがいい。
舞台の真中へ大きな柳を一本植え付けてね。
それからその柳の幹から一本の枝を右の方へヌッと出させて、その枝へ烏 を一羽とまらせる」「烏がじっとしていればいいが」と主人が独 り言 のように心配した。
「何わけは有りません、烏の足を糸で枝へ縛 り付けておくんです。
でその下へ行水盥 を出しましてね。
美人が横向きになって手拭を使っているんです」「そいつは少しデカダンだね。
第一誰がその女になるんだい」と迷亭が聞く。
「何これもすぐ出来ます。
美術学校のモデルを雇ってくるんです」「そりゃ警視庁がやかましく云いそうだな」と主人はまた心配している。
「だって興行さえしなければ構わんじゃありませんか。
そんな事をとやかく云った日にゃ学校で裸体画の写生なんざ出来っこありません」「しかしあれは稽古のためだから、ただ見ているのとは少し違うよ」「先生方がそんな事を云った日には日本もまだ駄目です。
絵画だって、演劇だって、おんなじ芸術です」と寒月君大いに気焔 を吹く。
「まあ議論はいいが、それからどうするのだい」と東風君、ことによると、やる了見 と見えて筋を聞きたがる。


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。





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Last updated  2015年06月24日 19時17分06秒コメント(0) | コメントを書く


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