元気力UP!

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2016年03月10日
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カテゴリ: 吾輩は猫である
辞職をする勇気のあるようなものなら最初から教師などをして生徒の御守 りは勤めないはずである。
主人は教師である。
落雲館の教師ではないが、やはり教師に相違ない。
からかうには至極 適当で、至極|安直 で、至極無事な男である。
落雲館の生徒は少年である。
からかう事は自己の鼻を高くする所以 で、教育の功果として至当に要求してしかるべき権利とまで心得ている。
のみならずからかいでもしなければ、活気に充 ちた五体と頭脳を、いかに使用してしかるべきか十分 の休暇中|持 てあまして困っている連中である。
これらの条件が備われば主人は自 からからかわれ、生徒は自からからかう、誰から云わしても毫 も無理のないところである。
それを怒 る主人は野暮 の極、間抜の骨頂でしょう。


諸君は四つ目垣とはいかなる者であるか御承知であろう。
風通しのいい、簡便な垣である。
吾輩などは目の間から自由自在に往来する事が出来る。
こしらえたって、こしらえなくたって同じ事だ。
然し落雲館の校長は猫のために四つ目垣を作ったのではない、自分が養成する君子が潜 られんために、わざわざ職人を入れて結 い繞 らせたのである。
なるほどいくら風通しがよく出来ていても、人間には潜 れそうにない。
この竹をもって組み合せたる四寸角の穴をぬける事は、清国 の奇術師|張世尊 その人といえどもむずかしい。
だから人間に対しては充分垣の功能をつくしているに相違ない。
主人がその出来上ったのを見て、これならよかろうと喜んだのも無理はない。
しかし主人の論理には大 なる穴がある。
この垣よりも大いなる穴がある。

彼は垣は踰 ゆべきものにあらずとの仮定から出立している。
いやしくも学校の生徒たる以上はいかに粗末の垣でも、垣と云う名がついて、分界線の区域さえ判然すれば決して乱入される気遣はないと仮定したのである。
次に彼はその仮定をしばらく打ち崩 して、よし乱入する者があっても大丈夫と論断したのである。
四つ目垣の穴を潜 り得る事は、いかなる小僧といえどもとうてい出来る気遣はないから乱入の虞 は決してないと速定 してしまったのである。
なるほど彼等が猫でない限りはこの四角の目をぬけてくる事はしまい、したくても出来まいが、乗り踰 える事、飛び越える事は何の事もない。


垣の出来た翌日から、垣の出来ぬ前と同様に彼等は北側の空地へぽかりぽかりと飛び込む。
但 し座敷の正面までは深入りをしない。
もし追い懸けられたら逃げるのに、少々ひまがいるから、予 め逃げる時間を勘定に入 れて、捕 えらるる危険のない所で遊弋 をしている。
彼等が何をしているか東の離れにいる主人には無論目に入 らない。
北側の空地 に彼等が遊弋している状態は、木戸をあけて反対の方角から鉤 の手に曲って見るか、または後架 の窓から垣根越しに眺 めるよりほかに仕方がない。
窓から眺める時はどこに何がいるか、一目 明瞭に見渡す事が出来るが、よしや敵を幾人 見出したからと云って捕える訳には行かぬ。
ただ窓の格子 の中から叱りつけるばかりである。
もし木戸から迂回 して敵地を突こうとすれば、足音を聞きつけて、ぽかりぽかりと捉 まる前に向う側へ下りてしまう。
膃肭臍 がひなたぼっこをしているところへ密猟船が向ったような者だ。
主人は無論後架で張り番をしている訳ではない。
と云って木戸を開いて、音がしたら直ぐ飛び出す用意もない。
もしそんな事をやる日には教師を辞職して、その方専門にならなければ追っつかない。
主人方の不利を云うと書斎からは敵の声だけ聞えて姿が見えないのと、窓からは姿が見えるだけで手が出せない事である。
この不利を看破したる敵はこんな軍略を講じた。
主人が書斎に立て籠 っていると探偵した時には、なるべく大きな声を出してわあわあ云う。
その中には主人をひやかすような事を聞こえよがしに述べる。
しかもその声の出所を極めて不分明にする。
ちょっと聞くと垣の内で騒いでいるのか、あるいは向う側であばれているのか判定しにくいようにする。
もし主人が出懸けて来たら、逃げ出すか、または始めから向う側にいて知らん顔をする。
また主人が後架へ――吾輩は最前からしきりに後架後架ときたない字を使用するのを別段の光栄とも思っておらん、実は迷惑千万であるが、この戦争を記述する上において必要であるからやむを得ない。


本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。





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Last updated  2016年03月10日 22時42分32秒
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