元気力UP!

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2016年03月26日
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カテゴリ: 吾輩は猫である
 吾輩は虎から急に猫と収縮したのだから何となく極 りが悪くもあり、おかしくもあったが、主人のこの権幕と横腹を蹴られた痛さとで、虎の事はすぐ忘れてしまった。
同時に主人がいよいよ出馬して敵と交戦するな面白いわいと、痛いのを我慢して、後 を慕って裏口へ出た。
同時に主人がぬすっとうと怒鳴る声が聞える、見ると制帽をつけた十八九になる倔強 な奴が一人、四ツ目垣を向うへ乗り越えつつある。
やあ遅かったと思ううち、彼 の制帽は馳け足の姿勢をとって根拠地の方へ韋駄天 のごとく逃げて行く。
に成功したので、またもぬすっとうと高く叫びながら追いかけて行く。
しかしかの敵に追いつくためには主人の方で垣を越さなければならん。
深入りをすれば主人|自 らが泥棒になるはずである。
前 申す通り主人は立派なる逆上家である。
こう勢 に乗じてぬすっとうを追い懸ける以上は、夫子 自身がぬすっとうに成っても追い懸けるつもりと見えて、引き返す気色 もなく垣の根元まで進んだ。
今一歩で彼はぬすっとうの領分に入 に、敵軍の中から、薄い髯 を勢なく生 やした将官がのこのこと出馬して来た。
両人 は垣を境に何か談判している。


「あれは本校の生徒です」
「生徒たるべきものが、何で他 の邸内へ侵入するのですか」
「いやボールがつい飛んだものですから」
「なぜ断って、取りに来ないのですか」
「これから善 く注意します」
「そんなら、よろしい」
竜騰虎闘 の壮観があるだろうと予期した交渉はかくのごとく散文的なる談判をもって無事に迅速に結了した。
主人の壮 んなるはただ意気込みだけである。
いざとなると、いつでもこれでおしまいだ。
あたかも吾輩が虎の夢から急に猫に返ったような観がある。
吾輩の小事件と云うのは即 ちこれである。
小事件を記述したあとには、順序として是非大事件を話さなければならん。

主人は座敷の障子を開いて腹這 になって、何か思案している。
恐らく敵に対して防禦策 を講じているのだろう。
落雲館は授業中と見えて、運動場は存外静かである。
ただ校舎の一室で、倫理の講義をしているのが手に取るように聞える。
朗々たる音声でなかなかうまく述べ立てているのを聴くと、全く昨日 敵中から出馬して談判の衝 に当った将軍である。

「……で公徳と云うものは大切な事で、あちらへ行って見ると、仏蘭西 でも独逸 でも英吉利 でも、どこへ行っても、この公徳の行われておらん国はない。
またどんな下等な者でもこの公徳を重んぜぬ者はない。
悲しいかな、我が日本に在 っては、未 だこの点において外国と拮抗 する事が出来んのである。
で公徳と申すと何か新しく外国から輸入して来たように考える諸君もあるかも知れんが、そう思うのは大 なる誤りで、昔人 も夫子 の道一 以 て之 を貫 く、忠恕 のみ矣 と云われた事がある。
この恕 と申すのが取りも直さず公徳の出所 である。
私も人間であるから時には大きな声をして歌などうたって見たくなる事がある。
しかし私が勉強している時に隣室のものなどが放歌するのを聴くと、どうしても書物の読めぬのが私の性分である。
であるからして自分が唐詩選 でも高声 に吟じたら気分が晴々 してよかろうと思う時ですら、もし自分のように迷惑がる人が隣家に住んでおって、知らず知らずその人の邪魔をするような事があってはすまんと思うて、そう云う時はいつでも控 えるのである。
こう云う訳だから諸君もなるべく公徳を守って、いやしくも人の妨害になると思う事は決してやってはならんのである。
……」
主人は耳を傾けて、この講話を謹聴していたが、ここに至ってにやりと笑った。
ちょっとこのにやりの意味を説明する必要がある。
皮肉家がこれをよんだらこのにやりの裏 には冷評的分子が交っていると思うだろう。
しかし主人は決して、そんな人の悪い男ではない。
悪いと云うよりそんなに智慧 の発達した男ではない。
主人はなぜ笑ったかと云うと全く嬉しくって笑ったのである。
倫理の教師たる者がかように痛切なる訓戒を与えるからはこの後 は永久ダムダム弾の乱射を免 がれるに相違ない。
当分のうち頭も禿げずにすむ、逆上は一時に直らんでも時機さえくれば漸次 回復するだろう、濡 れ手拭 を頂いて、炬燵 にあたらなくとも、樹下石上を宿 としなくとも大丈夫だろうと鑑定したから、にやにやと笑ったのである。
借金は必ず返す者と二十世紀の今日 にもやはり正直に考えるほどの主人がこの講話を真面目に聞くのは当然であろう。



本連載は青空文庫収録ファイル「吾輩は猫である」(新字新仮名、作品ID:789)から引用・編集し提供させて頂いています。
夏目 漱石
慶応3年1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町に生まれる。本名は夏目金之助。帝国大学文科大学(東京大学文学部)を卒業後、東京高等師範学校、松山中学、第五高等学校などの教師生活を経て、1900年イギリスに留学する。帰国後、第一高等学校で教鞭をとりながら、1905年処女作「吾輩は猫である」を発表。1906年「坊っちゃん」「草枕」を発表。1907年教職を辞し、朝日新聞社に入社。そして「虞美人草」「三四郎」などを発表するが、胃病に苦しむようになる。1916年12月9日、「明暗」の連載途中に胃潰瘍で永眠。享年50歳であった。






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Last updated  2016年03月26日 08時48分15秒コメント(0) | コメントを書く


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