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横須賀本港出入り口付近に設置された「横須賀消磁所」です。 海上自衛隊の施設で艦船は長時間使用すると磁気を帯びて磁気機雷に反応しやすくなるため定期的に消磁作業をするということです。 日米で共同使用しているようです。
2011/05/25
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横須賀本港の浅瀬に自生する「アマモ」 きれいで豊かな海の指標といわれるアマモ。 アマモは群生して「藻場(もば)」をつくり産卵や稚魚の生息場になったり光合成で栄養分を吸収するため赤潮の発生を防ぐといわれています。 かつては東京湾沿岸にたくさん生えていたようですが戦後急速に進んだ湾岸開発や海洋汚染等の影響によって東京湾内ではアマモを含む藻場が激減したといわれます。 最近では藻場を再生する試みも行われ自生するアマモも徐々に回復しつつあるようです。
2018/04/18
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浦賀の「出桁(だしげた)造り」の民家。 江戸から大正にかけての一般的な商家建築。 奥行き方向に「梁(はり)」を渡し、この梁で間口方向の「桁(けた)」を支えます。その上に「垂木(たるき)」を架けて重い瓦屋根を支えます。 出桁造りは軒が大きく張り出しているのが特徴ですが関東大震災後、道路幅を広げる区画整理や耐火性の材質を使う必要から造られなくなります。
2013/09/22
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平作川の五郎橋付近です。 平作川は大楠(おおぐす)山を源流とする延長7kmほどの川ですが三浦半島では最長です。 このあたりがちょうど中間地点になります。ここから下流にかけて川幅が広がり水深も深くなります。 湘南橋付近です。 アオサギです。 梅田橋付近、横浜横須賀道路が横切ります。 夫婦(めおと)橋付近です。このあたりは漁船や釣り船が係留されています。 御稜威(みいつ)橋あたりです。 この狭いところを漁船が曳き波を立てて走って行きました。 平作川は1974(昭和49)年、台風による「七夕水害」が発生し下流域は大きな被害を受けたそうです。その後護岸工事が進められたようです。
2012/12/18
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「小栗忠順(おぐり・ただまさ)」 小栗上野介(おぐり・こうずけのすけ)と称される幕臣・小栗忠順。 幕末、日本の近代化を推進した人物です。 開国以来、外国船が押し寄せ幕府内では攘夷論が多数を占める中小栗は数少ない開国派でした。 このことが時の大老・井伊直弼(いい・なおすけ)の目にとまりアメリカへ日米修好通商条約批准書交換のための「万延(まんえん)元年遣米使節」に抜擢されます。 正使・新見 正興(しんみ・まさおき) 、副使・村垣 範正(のりまさ)小栗は「目付」でした。 前列右から2人目より 小栗、新見、村垣 1860(安政7)年、アメリカ海軍艦船ポーハタン号でサンフランシスコに向かいます。 随行艦として咸臨丸が出港、乗組員は軍艦奉行・木村摂津守、艦長・勝 海舟通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)ら94名、福沢諭吉もいました。 そして技術アドバイザー、ジョン・ブルック大尉らアメリカ人乗組員。 38日後にサンフランシスコに到着しますが34日間は荒天で、アメリカで船員をしていたジョン万次郎以外大半がひどい船酔いで何もすることができず、アメリカ人が操船しての航海だったようです。 咸臨丸はここで引き返しますが、使節団はサンフランシスコからパナマに移動パナマ地峡(パナマ運河の完成は80年以上先…)を鉄道で横断し迎えの船で東海岸を北上します。 ワシントンでブキャナン大統領に謁見、批准書を渡し任務完了します。 しかし、小栗は大老・井伊直弼から重要な使命を任されていました。為替レートの改正です。 開国以来、大量の「金」が日本から外国に流出していました。そのため為替レートの改正が必要だったのです。 小栗はアメリカ人も驚くほどの毅然とした態度で貨幣の分析実験を要求それまで極端に不公平だったドルと小判の交換比率を是正することに成功します。 そのときの態度を見たアメリカ人が小栗を「ノーといった最初の日本人」と評したと伝えられています。 そしてニューヨークで大歓迎を受け、その後大西洋、インド洋を渡り帰国し「公式に世界一周した初めての日本人」となるのです。 このときワシントン海軍工廠から「ネジ」を持ち帰ります。 この「ネジ」が日本の近代化の原点ではないでしょうか。 帰国後、外国奉行、勘定奉行などを歴任、さまざまな改革に取り組みます。「鉄の国」アメリカを見てきた小栗が特にこだわったのは「製鉄所」の建設です。 小栗は、栗本鋤雲(じょうん)を通じて駐日フランス公使レオン・ロッシュに繋がりを付け横須賀に「製鉄所=のちの造船所・海軍工廠」を建設することを練り上げます。 そして中国にいたフランソワ・レオンス・ヴェルニーが呼び寄せられます。 幕府内ではそんなものを造ってもこの先幕府はどうなるか分からないと言った反対意見が多かったようですが「幕府の運命に限りがあるとも日本の運命には限りがない」と切り返したとか・・ 小栗は先の先を見ていたのでしょう・・ フランス語学校を設立したほか 新聞発行計画郵便・電信事業ガス灯設置、鉄道建設火薬製造所、反射炉の建設 中央銀行の設立日本最初の株式会社「兵庫商社」の設立諸色会所(商工会議所の前身)の設立 など、さまざまなプランを打ち出します。 しかし、1868(慶応4)年、倒幕を掲げる薩長に対し徹底抗戦を主張するも受け入れられず、お役ご免となり領地のひとつ上野国権田(こうずけのくに・ごんだ)村に移り住みます。 (現・群馬県高崎市倉渕(くらぶち)町権田=かつての倉渕村は横須賀市の友好都市でした・・) その後、東善寺にいるところを捕縛され家臣三名と共に河原に引き出され取り調べもされないままそして切腹の名誉も与えられず・・斬首されてしまいます。 死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると小栗は「お静かに」と言い放ち、「もうこうなった以上は未練を残すのはやめよう」と諭したそうです。 倒幕軍にとって小栗の才能や洞察力はよほど脅威だったのでしょう。 『偉人小栗上野介 罪無くして此処に斬らる』 小栗終焉の地に建立された顕彰慰霊碑に刻まれています。 のちに「東郷平八郎」は遺族に、「このたびの海戦において勝利を収められたのはあなた方の父上が横須賀造船所を日本のために建設しておいてくれたおかげです。」 と言い作家・司馬遼太郎は「明治という国家」の中で薩長はファーザーズ(明治国家の父である小栗ら)の基礎工事の上に乗っかっただけ、と述べています。 小栗公が斬首された烏川の河原の石。1953(昭和28)年、倉渕村(当時)から寄贈されました。
2020/07/04
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護衛艦「てるづき」
2025/01/11
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