読書備忘帖

読書備忘帖

2010.05.12
XML
カテゴリ: 評論・思想・時事
柳田国男は、エリート官僚としての発意と自ら打ち立てんとする民俗学の葛藤の中で、それでもユニークな発想を巡らせながら著述を重ねてきた。著者は、その文章の底に仄見える「新しい公民像」といったものを、ネーションステートの作り出す「伝統」でもなく、ノスタルジックな村的「伝統」にも回収されない新たな「可能性」として提示しようとする。「それぞれの『私』を出発点とし、互いの差異を自らのことばで語り合い、それらの交渉の果てに」あるという「公共性」。柳田のナショナリズムを忌避する側面と、一方にある母性的郷土への思いは、双方が左右陣営それぞれの拠り所となっていたという指摘は興味深い。だがそれは、福澤諭吉から漱石、鴎外まで、明治人には多かれ少なかれ付き纏わざるを得ないアンビヴァレンツだったとも言える。確かに「伝統」は創られるのであろう、だが、新しい公共性もまた「創られる」のである。では、想像する主体が国家ではなく「イマ・ココ」の「私」であるのなら良いのか、という所でおそらく思索は躓くのかもしれない。ここで一様、西部邁氏等の伝統観、つまり、ルールやマナーを引き継がせるものとしての「言葉(使い)」とその歴史性というものについてきちんと答えねばならない(ただし、西部氏の言葉遣いには歴史性が全くと言っていいほど感じられないのだが)。言葉は個人のものであるのかという問いである。「伝統は創られる」というのは、今や紋切り型の言説で、まさしく「伝統的」になりつつあるのだが、その物言いに隠微な形で潜んでいるのは何か。矢張り、しょうもない人間がしょうもない毎日をしょうもなく生きている、しかしそれでも何らかの確かな価値を時には示しながら生きている、そういう小さな日々を舐めてしまう「さかしら」と言っていい。「伝統は創られる」という言説は、充分注意しなければ単に「過去の人間がアホだった」という結論を導き出し、そのことで叶えられる「新たな可能性」という訳の分からない言葉に酔い痴れるだけに終ってしまうのではないか。共同幻想としゃらんと言ってしまう「さかしら」は、人々の暮らし(生活ではない)の質感を括弧に入れることによって可能となる。それが、科学であり、今日言われるところの学問(サイエンス)に他ならない。D





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2010.06.01 00:21:02


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: