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岩手、宮城、福島3県を除く44都道府県で7月24日正午、1953年に始まったアナログ放送が幕を閉じました。私が生まれ育った家では、アナログ放送が開始された当初はテレビはなく、真空管ラジオで「ヤン坊ニン坊トン坊」や、「赤胴鈴之助」、「うたのおばさん」、「お話でてこい」などを楽しんだものです。大相撲の栃若対決は、近所の家でテレビを見せてもらって観戦しました。写真は、長谷川家にある初代のテレビです。撮影したのは1962年1月頃、写っているのは二十世紀(日本テレビ)です。テレビを買ったのはもう少し前だったと思いますが、写真としてはこれが最も古いものです。後ろのほうに私のランドセル、左端にはミシン台が見えています。
2011.07.24
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50年前の写真を連載してまいりましたが、今年はこれで最終回です。1960年はなぜか、アルバムに貼ってある写真が極端に少なく、日付の記載が無いものもありました。今回の写真も何月頃撮ったものかは不明ですが、半ズボンに長くつした、ジャンパーなどを身につけていることから、おそらく12月の写真だろうと思われます。当時、「パール」と名付けた雑種犬を飼っていて、時々散歩に連れて行きました。ここの土地はもともと畑だったせいか寄生虫が多く、飼っていた犬ばかりか、私まで虫下しを飲まされたことがありました。この犬は小学5年の8月に死んでしまい、そのショックから、以後、私がこの家に住んでいた時にはずっと犬を飼わずにいました。後ろの小山は、井戸掘りの時の土を盛り上げたもので、赤土がいっぱい混じっていたことを覚えています。
2010.10.18
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アルバムによれば、1960年の11月6日に国立競技場を見物したという記載があります。正式には国立霞ヶ丘陸上競技場と呼ばれるそうですが、「霞ヶ関」ならともかく「霞ヶ丘」という地名があるとは知りませんでした。この競技場は、1964年の東京オリンピックのメインスタジアムとして有名ですが、写真は1960年ですのでそれより前の風景です。御本家のサイトによれば、着工は昭和32年1月で、【アジア】大会を2か月後に控えた昭和33年3月、ついに完成となりました。そのアジア大会が成功裡に終了し、東京オリンピックの招致も実現すると、国立競技場は、まさしく日本を代表する国際的競技施設という存在を国内外にアピールしてゆくこととなります。東京オリンピックを2年後に控えた昭和37年3月、競技場の拡張工事が開始されました。主な内容は、収容人員増のためのバックスタンドの増設、正面スタンドから見て右側にあった聖火台のバックスタンド中央への移設、グラウンド地下道の新設、電光掲示盤や夜間照明設備の改修などでした。当時はまだ、警備もいい加減だったようで、アンツーカのグランドをこっそり走った記憶があります。
2010.10.17
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アルバムに日付が記されていなかったのではっきりしたことは分かりませんが、小学校2年の夏休みに、真鶴の三ツ石に家族旅行をした模様です。引き潮の時に向こうの岩礁(三ツ石)まで渡りました。戻ってしばらくしているうちに、どんどん満ち潮になってきて、通り道が水没してしまいました。海には干満があるのだということを生まれて初めて実感しました。ネットで「真鶴三ツ石」の写真を検索してみましたが、50年後の今でも、海岸の様子は殆ど変わっていないようですね。ちなみに、この場所にはその後、一度も訪れた記録がありません。
2010.10.16
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50年前(1960年)のアルバムの第四弾は、羽田空港です。写真左端の表示にもありますように、この年の6月11日に、羽田空港に見学に行きました。文具会社が主催した写生大会であり、絵が上手な児童が選ばれて参加した模様です。改めて写真を見て驚くのは、見学者と飛行機(プロペラ機)の間が粗末な金網で仕切られているだけになっていることです。いまの厳重な警備体制からは想像が付きませんよね。JAL機のマークや外装も全く違っていたようです。もう1つ写真を見て疑問に思ったのは、この年の6月は、60年安保の真っ最中だったことです。ウィキペディアには、6月10日には東京国際空港(羽田空港)で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日した大統領報道官(当時は新聞係秘書と報じられた)ジェイムズ・ハガティ(報道は「ハガチー」表記)が空港周辺に詰め掛けたデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生(ハガチー事件)、...と記されており、この写真はその翌日に撮影したことが分かります。70年安保の時だったら、空港周辺を機動隊が取り囲み、催涙弾や投石が飛び交う争乱状態となっており、小学生の写生大会などは到底不可能であったと思われます。横を向いているのが当時の私です。
2010.10.15
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小学校2年の春の遠足は、井の頭公園でした。といっても、公園のどこで何をしたのかは全く記憶に残っていません。写真はクラス全体の集合写真だったのですが、肖像権の問題もあり、背景の公園風景のみを掲載しました。ポツポツと出ている頭は付き添いのお母さん方です。幼稚園はともかく、小学校の遠足で父兄が付きそうというようなことは、うちの子どもたちの時代にはありませんでした。当時、なぜ、一部の方が付き添いに来られたのかは謎となってしまいました。いずれにしても、いまお元気でおられたとすれば、80歳前後になられていると思います。井の頭公園には、この遠足の後はずっと訪れたことがありませんでしたが、何年か前に、家族で三鷹の森ジブリ美術館を訪れた帰りに、私だけ別行動で、井の頭公園内を散策し、京王線の井の頭公園駅から帰ったことがありました。といってもいつのことだったか、写真ファイルを検索しても分かりませんでした。
2010.10.14
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昨日の続きです。50年前の3月30日は、鎌倉大仏参拝のあと、由比ヶ浜で遊びました。写真は、海辺で何かを採集しているところです。鎌倉には、学校の行事で一度、建長寺や鶴岡八幡宮を訪れた記憶があるのですが、その時には鎌倉大仏や由比ヶ浜には行かなかったような気がします。ですので、その後、由比ヶ浜がどうなっているのかは全く不明です。鎌倉大仏のあとに長谷寺に寄った記憶もあるのですが(名前が長谷川なので、似ているなあと思った記憶があります)、奈良の長谷寺との記憶がごっちゃになってしまって、これまたあやふやです。
2010.10.13
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私の誕生月である10月にちなんで、毎年この時期に、50年前の写真や絵日記を掲載することにしています。※この日記はいちおう、昭和30年代の想い出というテーマ日記として執筆しているところでありますが、これまでのところ、私以外の方からのご投稿はゼロのようです。よろしかったら、このテーマでのご執筆をお願いします。さて、今回は、1960年3月の春休みに日帰り旅行した、鎌倉大仏の写真です。Googleで「鎌倉大仏」の画像を検索して比較したところでは、「火に焼けず 雨にも朽ちぬ 鎌倉の はだか仏は 常仏かな」と詠まれている通り、大仏さまのお姿は何十年経っても少しも変わるところが無いように見えます。もっとも変わらないのはご本尊のみ。肖像権の関係でぼかしてありますが(←50年経つと時効かも)、当時の観光客の服装は今とは相当違っており、男性や帽子着用、女性は和服姿が多かったようです。大仏さまの周辺の木々や石碑なども今とは多少異なっているようです。
2010.10.12
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5月22~23日は、2010年 人間・植物関係学会 10周年記念大会が、奈良市・春日大社で開催されました。5月11日の日記にも書きましたように、私は、奈良という場所には殆ど縁が無く、この春日大社を訪れたのは結婚式を挙げた日以来、なんと27年ぶりということになりました。1日目の朝、会議の時間より40分ほど早く着いたので、大急ぎで、萬葉植物園を一周してきました。目当ては、27年前の新婚当時の撮影場所を探すことでした。ゆるやかな坂の途中で、背景にハナショウブが咲いていたという記憶を頼りに歩き回った結果、どうやら写真下のところであったと推測することができました。後ろの木々の枝振りは少々変わっていますが、樹種は殆ど同じでした。※今回は学会出席が目的ということもあり、東大寺、興福寺、奈良国立博物館、平城宮跡などには全く立ち寄りませんでした。もっとも、会場となった春日大社では、本殿正式参拝の機会を得たほか、理事会会場となった貴賓館で重森三玲の庭園の一部を拝見することができました。
2010.05.23
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昭和30年代シリーズの最終回は、羽根木公園から眺めた、小田急ロマンスカーです。羽根木公園のことは、1958年7月24日の日記にも記載があります。羽根木公園は、世田谷城址公園、松陰神社近くの林(現在の若林公園)、豪徳寺などと並んで、いちばんよく遊びにいった公園の1つです。当時は樹木の殆ど無いススキの山で見晴らしがよく、眼下には小田急線を行き来するロマンスカーがよく見えていました。今では騒音問題で苦情が出そうなところでしたが、当時はオルゴール電車とも呼ばれていて、単純なメロディーを繰り返しながら走っていました(ウィキペディアによれば、正式には「ミュージックホーン」と呼ばれ、1972年8月24日、相模大野駅以東での使用が禁止となったとか)。しかし、ロマンスカーに乗って箱根に旅行するということは結局一度もありませんでした。中学生以降では箱根の金時山や神山、丹沢山系に行く時に小田急線を利用していましたが、節約第一で、急行電車のみを利用していました。その後、愛知県犬山に住んでいた頃、新幹線特急料金節約のため、新宿から小田原までロマンスカーを利用し、小田原から、こだま号に乗るというコースをたどったことが何度かありましたが、もはや1959年当時の「あこがれ」はどこかに消えてしまっていました。※誕生月記念企画の「昭和30年代」シリーズはこれで終了です。次回は2010年10月に、1960年の写真や絵日記を掲載の予定です。
2009.10.31
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中央線電車区間の終着駅・浅川駅(現在の高尾駅)には祖父母の家があり、子どもの頃、「田舎に行く」と言えば、ここに遊びに行くことを意味していました。当時は、都心部にはミンミンゼミは生息しておらず、浅川に来て初めてその鳴き声を聞こえてきました。ですので、今でもミンミンゼミの声を聞くと浅川を思い出します。下の絵は、当時の中央線です。オレンジ色の車体は、つい最近までずっと続いていたと思います。浅川駅(高尾駅)は、今でも、単式ホームの東京寄りを切り欠いて1番線が設置されているそうです。東京に帰る時には、祖母がホームまで見送りに来てくれました。TVアニメの最終回「青春の幻影 さらば999 後編」で、鉄郎が1人、銀河鉄道に再び乗って地球に戻ろうとするシーンがあります(メーテルは最初一緒だったが、発車時には隣の列車に移ってしまった)。私にとっては、アニメに出てきたあのホームは、浅川駅の1番ホームそっくりに見えました。
2009.10.30
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小1の頃は、自分の住む世界がどのように広がっているのかは、かなり漠然としていたようです。世田谷区・若林から下北沢に行く途中には奥多摩湖という大きな湖があるとか、アメリカより蒙古のほうが強いとか、勝手な想像をしていたように記憶しています。下の絵日記は、夏休みに描いた鉄道地図です。京急(当時は「京浜急行」と呼ぶのが一般的だったと思います)の路線図の中に「きたばんば」とか「みなみばんば」という聞き慣れない駅名がありますが、ネットで調べたら、かつては確かにそういう駅が存在していたことがわかりました。中央線の駅名の1つ、「あさかわ」は今の「高尾」です。「かわぐちこすいめいそう」というのは、父親が河口湖に泊まった時のホテルの名前のようです。ネットで検索したら、確かに「水明荘」という名前があったことがわかりました。「ほっかいどう」がなぜ、右下にあるのかは不明。
2009.10.28
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1959年は、アルバムに貼られている写真がなぜか10数枚しか残っておりませんでした。昨日掲載の、秋の遠足風景がこの年の最後の写真でした。そのかわり、小学校1年の夏休みには、絵日記を毎日執筆しており、どんな過ごし方をしたのか、ある程度思い出すことができます。幼稚園や小学生のお子さんのおられる方、ぜひ、お子さんに絵日記の執筆を勧めてあげてください。50年後にその価値がわかりますよ。下の絵は、夏休み2日目に遊びに行った東京タワーの「近代科学館・マジックランド」というところです。一ばんおもしろかったのは、でこぼこかがみでした。...あたまが、あたまでっかちになったり、てがまるたのようになりました。と記されていました。凸面鏡や凹面鏡の鏡に自分の姿を初めて写した時の驚きは相当なものだったようです。
2009.10.27
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小学校1年の秋の遠足は、多摩動物公園でした。この動物園は1958年5月5日に開園したそうですので、まだ、できたての時に遠足に行ったことになります。アフリカ園はまだ造られていませんでした。公園のゲートはずっと後まで同じ景色であったと思いますが、いつのまにか造り変えられたようです。写真下のインドサイは開園当初から飼われており、その後1973年には繁殖に成功したとありますから、かなり長生きしたものと思われます。ちなみに、当時は道路事情が悪く、世田谷区・若林からこの公園まではバスで2時間以上はかかったものと思われます。園内の坂道を歩いたあげくに長時間の乗車ということで、みな相当にくたびれたという記憶が残っています。ま、今でも、中央道や甲州街道は渋滞が多く、それほど改善されていないようですが...。
2009.10.26
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小学校1年の夏休みには、熱海から伊東のあたりに家族旅行をしたという記録があります。今でもそうですが、東京駅からは伊東行きの普通列車がありました。そのこともあって、東海道線の終点は伊東であると思い込んでいた時期がありました。あと、この旅行の帰り、熱海から東京に戻る時、列車の席取りでいざこざがあったことを記憶しています。当時は冷房の無い客車だったので、開けっ放しの窓から荷物を放り込んだり、窓から乗り込んで席をとる人がいました。今はそんなマナーの悪い人はいませんね(というか、窓も開かない)。この旅行では、「やまき旅館」に泊まったという記録があります。この旅館は現在でも繁盛しているようです。写真の海岸は、左端の「海のつり堀」という看板を拡大してみると、「井上海水浴場」という文字が判読できます、海岸の向こうに標高の高そうな山が見えていますが、「井上」というキーワードで検索しても地名は分かりませんでした。
2009.10.25
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小学校入学後の最初の遠足は、新宿御苑でした。新宿御苑には、全部で3回ほど遠足に行った記憶があります。遠足の行き先として、なぜ新宿御苑が好まれたのかは、今となっては不明であります。幼稚園の遠足は、「としまえん」に2回、「京王遊園地」に1回という記録が残っていますが、公立小学校では、遊園地主体の遠足は考えられなかったのだと思います。当時はまだ、駒沢公園や砧緑地はできておらず、広々とした芝地というと、新宿御苑ぐらいしか無かったのかもしれません。私自身は、遠足以外でここを訪れた記憶が殆どありません。東京オリンピック記念の石の彫刻が展示されていたのはここだってでしょうか。であるとすると、オリンピック以降に少なくとも一度ここを訪れていた可能性があります。
2009.10.24
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毎年10月には、50年前の写真を掲載することにしておりましたが、今年は海外旅行の写真などを連載したため、掲載の開始がすっかり遅くなってしまいました。1959年の最初の写真は、4月6日に行われた小学校入学式です。この学校は明治4年に開校された太子堂郷学所を前身としており、世田谷区でいちばん古い公立小学校です。私の学年は91回生でした。校歌の最初にある「まつかげの古き歴史に」の「まつかげ」は、近くの松陰神社に由来していると教わりました。歌詞のなかの「みどりさやけく」とか「いよよ睦みて」というのはどういう意味だか、卒業するまで分からないで歌っていました。なお、入学記念に校門の左手にクスノキを記念植樹したことを覚えています。この樹はずっと残っていたと思いますが、最近は訪れていないので不明。背後の木造2階建て校舎は、私が卒業した年に鉄筋校舎に改築されました。よって、私たちが、木造校舎の最後の卒業生ということになります。
2009.10.23
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農学部農場のサツマイモ畑が、連日、幼稚園の芋掘り遠足で賑わっています。今年は、芋畑のすぐ北側にコスモス畑があり、子どもたちにとっても、お花畑の隣で芋掘りをしたことが永く記憶に残るものと期待されます。ちなみに、私自身の幼稚園時代のアルバムを参照したところ、1957年9月26日に、京王遊園地と梨もぎに遠足に行ったという記録がありますが、芋掘りについては小学校4年の頃までは、体験記録がありません。そのことで思い出しましたが、毎年10月には昭和30年代の写真日記を更新することに決めていました。今年はまだ1枚も更新していないので、この楽天版の執筆習慣に合わせてぼちぼち更新しようかと思っています。明日以降の日記にご期待ください。
2009.10.22
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昭和30年代の写真日記の続きです。1958年10月24日の絵日記にも描かれているように、この頃、ジョンという名前の犬を飼っており、写真アルバムや絵日記に時々登場していました。ちなみに、私の実家では、私が生まれて以降、五代目までの犬を飼っていました。写真の犬は二代目です。名前のほうは、一代目がポチ、三代目はパール、二代目、四代目、五代目は、ジョンという名前でした。小さい頃から犬と遊んでいたこともあって、たいがいの犬は初対面でも手なづけることができます。私が犬好きだということはちょっとしたしぐさに表れるようで、たいがいの犬は初対面でも尻尾をふってくれます。こちらの写真は、初対面の犬を手なづけているところ、こちらの犬は、自分で飼っている犬ではありませんが、私の携帯電話をかじってダメにしてしまったので、お説教をしているところです。
2008.10.31
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10月限定で50年前(1958年)の写真を連載する予定でしたが、10月も残りわずかとなってしまいました。多少はみ出しで11月にもアップする予定です。今回の写真は、近所の羽根木公園(世田谷区代田、小田急線の梅ヶ丘駅すぐ)で遊ぶわたしです。7月24日の絵日記には、ぼくは、はねきこうえんにいきました。そしてあなぐらにはいりましたけれど、ぐちゃぐちゃですから、あなぐらにはいるのは、やめたのです...と書かれてありました。「あなぐら」というのはコンクリートでできた迷路で、地面を掘って作ったので、みずたまりができていたりしました。また子どものころは「はねぎ」ではなく「はねき」と呼んでいました。この公園に限りませんが、かつて、草むらや、苗木を植えたばかりだった公園などを30年ぶり、50年ぶりに訪れると、鬱蒼とした林になっていて驚かされることがありますね。
2008.10.29
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昨日に続いて昭和30年代の写真です。今回は、自宅の庭のビワの木に登っているところです。このビワは、あまり甘くはありませんが、毎年たくさんの実をつけていました(残念ながら今はありません)。当時はテレビも、テレビゲームもありませんでしたので、昼間は外でよく遊んだものです。大きな木のほか、塀、さらには屋根の上まで登ったりしていましたが、もし落っこちても当然自己責任です。最近は、怪我をしては危ないという事なかれ主義で、児童遊園の遊具を撤去したり、小川や溜池は立入厳禁、野外教育施設の木登りも大人がついていないと禁止ということが多いように思われますが、ま、大けがの危険のあるところは撤去・禁止するとしても、ちょっと血を流してガーゼを貼るくらいの怪我であるなら、むしろ適度に自己体験させておいて、リスク管理の精神を身につけさせたほうがよいのではないかという気もします。
2008.10.27
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各種報道によれば、文部科学省は2008年10月24日、老朽化のため今年引退した南極観測船「(初代)しらせ」を解体すると発表したそうです。民間などに後利用の受け入れ先を募ってきたが、技術や資金面から保存維持は難しいと判断したそうで、一代目の「宗谷(1956~1965) 」は東京・お台場にある船の科学館で一般公開、二代目の「ふじ(1965~1983)」は名古屋港ガーデンふ頭に係留され一般公開されているのに対して、三代目はどうやらスクラップとなりそうです。というころで、久しぶりに昭和30年代の写真として、一代目の「宗谷」の出航前々日に撮った写真をアップしたいと思います(船の前で並んで立っているのは祖父と私です)。↓の写真のほか、こちらにもう1枚あります。よろしかったら併せてご覧ください。なお、「宗谷」に関連する記事が2002年5月14日と2004年1月20日のじぶんの日記にあります。余談ですが、越冬隊に置き去りにされたタロとジロの奇跡的な生存が発見されたのは1959年1月14日だそうです。つまり、この時出航した宗谷が翌年正月に南極に到達した時の話ということになるかと思います。
2008.10.26
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久しぶりに、昭和30年代の写真です。ウィキペディアの当該項目には、東京タワー(Tokyo Tower)とは東京都港区芝公園四丁目にある東京地区の集約電波塔である。1958年(昭和33年)10月14日に完成した。という解説がありますが、私が少々疑問に思っているのは、10月にはまだ完成していなかったのではということです。↓の写真を貼ったアルバムには、昭和33年12月と記されていましたが、よく見ると塔にはまだワイヤーが張られていて何かを運んでいるように見えます。10月14日というのは、あるいは、塔の骨組みが出来上がった月日なのかもしれません。同じウィキペディアの「建設時のエピソード」を見ると、そちらには、1958年(昭和33年)12月23日完成という記述もあります。また、御本家の公式サイトにも「12月で開業50周年を迎えます」と書かれてありますので、そちらのほうが正式なのでしょう。当時父親が都立・三田高校の教員をつとめておりましたので、建設中の東京タワーも何度か見た記憶があります。また、子どもの頃は、世田谷の自宅の屋根からでも見えていましたが、その後、乱立したビルの影に隠れていきました。
2008.10.17
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昭和30年代の絵日記連載です。1958年7月23日の絵日記には台風がやってきたという記載がありました。最近は便利なもので、デジタル台風の過去記録を調べてみたところ、ちゃんと台風195811号 (ALICE) が、この日に東京を直撃したという記録がありました。これより前にも、戦後には英語名の台風が次々と日本を襲ったと思いますが、私自身の記録としては、これが初体験ということになります。
2008.10.09
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私が初めて絵日記を書いたのは幼稚園年長組だった1958年7月21日のことでした。いまでも、写真をくっつけたブログなどやっていますから、かれこれ50年続いている?ということになりますかねえ。(こちらに資料を追加していく予定です)。↓は、その4日後の7月25日の日記です。「ぼくは、なしのきのせんにんのおはなしをききました」とだけ書いてあって、どんなお話かすっかり忘れていましたが、ネットで検索したところ、どうやら、聊齋志異にある「梨売りと仙人」のお話だった模様です。当時はテレビは無かったので、たぶん、当時、毎回聴いていたNHKラジオ「お話でてこい」のお話ではないかと思われます。出~てこい、出てこい、出てこい、どんどこどん...という出だしで、お話おじさんが語ってくれたお話だったと記憶しています。
2008.10.07
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昭和30年代の写真日記というのを細々と開設しているのですが、なかなか更新できません。そこで、昨年から、私の誕生月である10月限定で、50年前の写真をアップすることにしています。昨年は、じぶんの日記のほうに掲載していたのですが、今年は楽天plusの有料サービスを申し込んだこともあり、主としてこちらの楽天版のほうで追加していきたいと思っています。最初の写真は、「刀をさすわたし」です。当時は、赤胴鈴之助や少年マンガなどでチャンバラものが流行っており、刀をさすとそれだけで強くなったような気持ちになっていました。その後、子どもが目を刺すと危ないといった理由からでしょうか、子ども向けのラジオやテレビからチャンバラものが姿を消していったような記憶があります。なお、手で持っているのは竹製の水鉄砲、後ろのほうには昔なつかしい縁側が写っています。※昭和30年代の写真は、10月限定でときたま追加していく予定です。
2008.10.06
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とっとり花回廊で撮影した写真を、もう1枚だけ掲載したいと思います。↓の白い花は、この時期に見頃を迎えた、ヤマナシの花です。果樹の梨の花や、洋梨の花は毎年どこかで見ていますが、これだけたくさん花をつけたヤマナシを見たのは今回が初めてでした。ところで、やまなしと言いますと、小学校1年の頃に読んだ、こどものとも『やまなしもぎ』を思い出します。この頃に読んだ絵本というのは、幼少時の記憶に鮮明に残るものです。いまでも、山道を歩いていて分かれ道に行き当たった時など、ゆけっちゃ かさかさなどという、その絵本にあった言葉が浮かんでくるほどです。なお、いま福音館から売られている『やまなしもぎ』は、文章は同じ、平野直先生によるものですが、絵のほうは、私が読んだ時の佐藤忠良先生ではなく、大田大八先生の絵に変わっています。その経緯はよく分かりません。
2008.04.22
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昨日の日記と同じ、シャコバサボテンの写真です。2002年1月17日の日記にも書きましたが、この株は、少なめに見積もっても8年以上の古株です。さすがにこれだけの歳月が流れますと、茎の一部は木化して、その節目からやっとこさ芽を出しているだけで勢いが衰えてきました。花が終わったら、挿し芽などで復活させたいと思っています。
2007.01.11
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春先からずっと屋外の日陰に出してほったらかしにしておき、霜が降りる前に室内に取り込んだところ、今頃になって一輪だけ花をつけました。ごく普通のシャコバサボテンなんですが、これってかれこれ8年以上の株なんです。2002年1月17日の日記にその謂われが記してあります。
2007.01.10
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きょうのじぶんの日記(2/8付け)には、大学構内の雪だるまの写真を載せました。あれはたぶん、理学部の学生たちが作ったものと思われます。岡山(ただし、岡山市近辺)は滅多に雪が積もらないので、雪が降ると喜んで雪だるまを作る人たちがいます。同じ岡山県内でも、県北はゼンゼン別。そういや、鳥取県との県境の人形峠は本日の昼に161.2cmの積雪を記録していました。たぶんこの冬の最深積雪かと思います。ところで私自身にとっての大雪の初体験は、たぶんであろうと思います(元記事はこちら)積雪地方には住んだことが無いため、未だに雪が降るとわくわくします。豪雪地帯の皆さま、ごめんなさい。
2006.02.09
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今日のじぶんの日記で●私はなぜ冬ソナにハマったのか(1)について書いてみました。ここで「ハマる」とは、規則的な日常生活に支障が出るくらいに熱中するという意味で使っています。岡山に住むようになってまもなく15年となりますが、これまでにハマったのは、冬ソナを入れて過去3回です。1回目は、息子が幼稚園年長組の頃に買ったスーパーファミコン。ファイナルファンタージー4を初めとするRPGゲームにすっかりハマり、毎日1時間以上、土日は半日以上熱中しました。2回目は、ヘールボップ彗星が出現した時です。晴れている限りは毎日、写真を撮りにでかけました(その時の記録が、こちらに残っています。ところで、毎日1時間もRPGゲームをやるなんでずいぶんヒマだったんだなあ、今ではそんな時間どうやっても確保できないと思うのですが、よく考えてみると、当時はWeb日記を書いていなかったのです。つまり、RPGゲームで遊んでいた1時間がまるまる日記執筆に振り替わったわけです。よく、長谷川はWeb日記執筆にハマっていると言われますが、冒頭の定義から言えばこれはあてはまりません。なぜなら、今の私の規則的な生活には日記執筆時間がちゃんと組み込まれているからです。
2006.01.29
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昨日、木曜洋画劇場で「マスク・オブ・ゾロ」という映画をやっていました。紹介サイトにはかつてのゾロ”ドン・ディエゴ”(アンソニー・ホブキンズ)から正義の意志とマスクを受け継ぎとあったところからみて、かつての怪傑ゾロのリメイク版ではないようですね。ちなみに、「怪傑ゾロ」というのは、私が子どもの頃、ガイ・ウイリアムズ主演のテレビシリーズ(1957~)が放映されており、毎回熱中したものです。その後、アラン・ドロン主演の映画「ゾロ」(1974)も見ましたが、やはり、テレビシリーズのほうが素朴でよかった。かつてのゾロには、ベルナルドという耳の聞こえない従者と、敵ながら憎めない太っちょのガルシア軍曹がいて、この番組を特徴づけていました。残念ながら、今回の映画にはどちらも出てこない模様です。ところで何で今頃ゾロかと思ったら、続編の「レジェンド・オブ・ゾロ」が上映されていたんですね。しかし、こんな映画ばかり観ていたら、だんだん、子どもの頃のゾロのイメージが崩れていきそう。どうせ映画館行くなら、夫婦でむせび泣くジウ姫がファンの涙を誘う…最新主演映画「連理の枝」でも観に行ったほうがエエかも。でもこれも、冬ソナのユジンのイメージが壊れてしまうと怖い。
2006.01.27
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今日は二十四節気の1つ「大寒」ということなので、これまでに体験した寒さの思い出など。まず第一位は、「冬のシベリア鉄道」で体験したマイナス39度。鼻で息をすると鼻毛が凍ってパラパラ落ちてくる寒さでした。ハバロフスクのホテルの前にはアムール川がありましたが、完全に凍結。氷の上を数百メートル歩いてみたりしました。第二位は、ウルムチ~石河子のあたりで体験したマイナス24度。その時の写真はこちらにあります。海外の山登りには何度か行きましたがマイナス10度以下になるような危ない経験は、今のところありません。昨年正月に行った冬のチベットはそれほど寒くありませんでした。緯度が低いせいでしょう。ところで、中国や旧・ソ連に行くといつも驚くのですが、雪道が凍結したからといって、チェーンをつけて走るような車は全くみかけません。タイヤなども、スノータイヤとかスパイクタイヤといった上等なものではなくて、普通のタイヤの使い古しが多くツルツルしています。あれでどうしてスリップしないのかなあと不思議です。たぶん、あのころは、車を運転するのはプロばかり。運転が上手なんでしょう。日本の場合は、雪道に慣れていない素人がいっぱい走るから事故が起こるんですね。明日の朝は雪が降るらしい。おでかけの方は気をつけましょう。
2006.01.20
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阪神淡路大震災から11年を迎えました。岡山に住んでいたので家族は全員無事でしたが、大学時代の後輩やそのご家族には犠牲になられた方がおられます。岡山では確か震度4程度だったと思いますが、いつもとは揺れ方が違っていて、何かあったなと直感しました。直後にテレビのスイッチを入れたところ、速やかに各地の震度が表示されましたが、しばらくは情報が混乱しており、市内のコンビニで棚から商品が落ちた映像ばかり流していました。その後7時すぎからだったでしょうか、次々と大きなニュースが入ってきて、これは大変なことになっているんだということが分かりました。大きな災害の時の報道はいつでもそうですが、最初は、比較的軽微で情報が伝わりやすいところからニュースが流れています。犠牲となった方々の数なども、最初は数十名、時間がたつにつれて何倍にも増えていくものなのですね。震災から何ヶ月か経った時に大阪方面を訪れたことがありますが、明石を過ぎたあたりから、青いビニールシートをかけた家がチラホラ見えてきます。神戸に近づくと景色は一変しました。それから何年も経ったあと、野島断層保存館・メモリアルハウスを見学したことがありましたが、あれは本当に恐ろしさが分かります。耐震偽装などのニュースで建物の構造への不信が高まっていますが、地震に備えるには、家具もちゃんとしておかないとダメですね。といっても我が家は至る所に荷物が積み重なっていてどうにもなりません。
2006.01.17
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クリスマスだというのに、羽越線で大きな事故がありました。12月25日19時すぎ、特急列車が強風にあおられて脱線転覆し、4人が亡くなられたそうです。まずは、亡くなられた方々のご冥福と、怪我をされた方々の一日も早いご快復をお祈りしたいと思います。さて、この羽越線特急ですが、今年の6月に鶴岡に行くときに利用したことがありました。但しこの時は、最上川鉄橋は通っていません。余目より北方面まで行ったのは、今から25~30年前、日本海縦貫線で北海道に渡った時でした。あの当時は、昼間なら大阪発青森行きの特急「白鳥」が、また夜行列車としては、急行「きたぐに」や特急「日本海」が走っていました。学生時代はお金が無かったので、寝台特急は敬遠し、もっぱら、「白鳥」を利用することが多かったと記憶しています。当時の白鳥は、朝10時半ころに京都を出て、真夜中少し前に青森につきました。そこで青函連絡船に乗り換えてぐっすり眠り、早朝に函館に到着。いっぽう、青森発は確か4時50分頃発で京都に戻るのは18時すぎだったと思います(但し、私は、京都~米原間は新幹線に乗って、乗り継ぎ割引で特急料金を半額にしていましたので、実際に京都で「白鳥」に乗降したことはありませんでした。あっ、まだ湖西線はできていなかった)。「白鳥」の時間に合わせて旅行していたため、青函連絡船に乗るときはいつも寝ていて、「津軽海峡冬景色」を眺めたことは殆どありませんでしたね。それにしても、これまで何十年もの間、毎日何本もの列車が通過していたのに、なぜ、今度のような事故が起こったのでしょうか。尼崎の事故は明らかに過密ダイヤと運転手への罰的統制が原因の人為的な事故でしたが、今回は100年に一度吹くような突風が原因だったのでしょうか。それとも、車体の軽量化やスピードの出し過ぎに原因があるのかなあ。究明が待たれるところです。
2005.12.26
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DVDに録画しておいた、●NHKシルクロード 第9集 カシュガル 千年の路地に詩(うた)が流れる(11/20放送)を、食事時にすこしずつ視ていましたが、さきほど見終えることができました。このシリーズは、毎回の作品にかなりの出来不出来がありますが、今回の第9集は現代のカシュガルにおけるウィグル人たちの生活がとてもよく描けていたように思いました。前にも書きましたように、私はカシュガルを2回訪れたことがあります。1回目(2000年)の時は、昔ながらの職人街に感動しましたが、2004年に訪れた時は、あまりの変わりように驚いた次第です。カシュガル観光を目的地として訪れることはもう無いと思いますが、いずれ治安が安定したら、カザフスタンからキルギスを通ってカシュガルに到達するルートを通ってみたいとは思っています。その時のカシュガルはどうなっているやら...。
2005.11.22
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きょうのじぶんの日記(11/5付け)には、第5回全国身障者スポーツ大会「輝いて!おかやま大会」の会場の「炬火」の写真を掲載しました。少し前の「おかやま国体」の時にも炬火が灯されていたはずですが、この時は行かずじまい。ああいう火を眺められるのはこれが最後のチャンスだと思って、夕食後の夫婦の散歩の時に見物に行きました。国体では「炬火」と呼びますが、オリンピックでは「聖火」ですね。私が思い出すのは、1964年の東京オリンピックの時の聖火です。開会前、この聖火が皇居前広場に灯されていて、わざわざ家族で見物に行った記憶があります。同じ時にその美しさに感動して、御自分の娘さんの名前を「聖子」にした、という話はよく聞きますね。もっとも、「聖子」で有名な松田聖子さんはこの年生まれではありません。橋本聖子さんは、たぶん、聖火にちなんだお名前ではないかと思います。ひょっとして、いま岡山に来られているのだろうか。
2005.11.06
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妻のリクエストにより、夕食時にまんが日本昔ばなしを視ました。たぶん10数年ぶりです。あの番組は、子どもたちが小さい頃によく視ていました。リンク先の番組サイトによれば、●1975年1月にスタートした初回シリーズから、1994年9月の放送終了まで全39シリーズ、952回にわたって放送されたとありますので、子どもたちが幼稚園の頃の時代に一致します。妻が「あの番組、私が子どもの頃からやっていのよ」と言っていましたが、これはいくらなんでも記憶違いでしょう。ところで、このアニメは、たった二人の声優だけでいろいろな声を表現しています。娘も今回初めてそのことに気づいて驚いていました。このうち常田富士男さんという方は、私は未だにお顔を知りません。ネットで検索したところこういうお顔だったんですね。いや、昔はもっと若かったんでしょうが。←あたりまえやないか。市原悦子さんのほうはある程度存じ上げています。
2005.11.02
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夕食後、アパートの下を御神輿とだんじりの行列が通っていました。町内会主催の秋祭りの行列です。この行列には、子どもが小さい時は毎年参加していたのですが、2000年10月21日に、当時小6だった娘が御輿を担いでめでたく卒業。その後、妻が町内会の婦人部の役回りになった時にお手伝いをしたこともありますが、最近はベランダから眺めるだけとなりました。昨日、教室で簡単なコンパがありました。後期から教室の一員に加わった2回生を歓迎する目的だったのですが、そういえば、今度の2回生は息子と同じ学年にあたります。あの秋祭りに初めて参加したのは息子が幼稚園年中組の時でしたから、月日のたつのは早いものです。
2005.10.29
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今回の上京は8日から13日まで、5泊6日に及びました。9月12日と13日の東京はよく晴れていて、都内からでも富士山が見えました。こういう時の空を見ていると、東京で生まれ育った頃のことがいろいろ思い出されます。有名な高村光太郎の作品に“智恵子は東京に空がないといふ、 ほんとの空が見たいといふ。 私は驚いて空を見る。...”というのがありますが、私はむしろ逆で、今住んでいる岡山よりも東京のほうが本当の空があるように思います。じゃあ、どこが違うのかと言われてもうまく表現できません。雲の形や空の色が違うとは思えないのですが。
2005.09.13
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6月26日は「露天風呂の日」ですね。その発祥の地は、岡山県の湯原温泉のようですが、私自身は、あのダムの下の露天風呂には入ったことがありません。日記読み日記にも書きましたが、混浴がいやな女性は、こちらがオススメです。さて、露天風呂ということで思い出話をいくつか。私が好きな露天風呂と言えば、まずは、別府の泥湯(一部混浴)でしょうかね。これだけ規模の大きい泥湯は滅多にありません。別府では、このほか、鉱泥温泉の泥湯にも入ったことがあります。男女別。午前中しか営業していないので要注意。これまでに入った中でもっとも野趣に富んだ露天風呂といえば、北海道の川湯硫黄山裏側にある無料の露天風呂でした。ネットで検索したところ、こちらに、硫黄山温泉という名前で写真が出ていました。ちなみに、川湯硫黄山というのは全山噴気孔だらけのスゴイ山ですが、レストハウス側の裏側のほうには登山道があって、山頂まで登ることができます(←但し、念のため、最新の火山情報をチェックしてください)。上記の露天風呂は、その登山道の途中にあります。
2005.06.26
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楽天サイトは、出張先のホテル選定や航空券の予約ではしばしば利用しているのですが、これまで、通販でモノを買ったことはありませんでした。今回、初めて買い物をしてみました。その商品はコレ(6本爪)。しかし、このクソ暑い時に、こんなもの買う人って、他に居らんでしょうなあ。もっとも、先日、地元のコージツショップに登山靴を買いに行きましたが、けっこうお客さんが来ておられました。夏休みにトレッキングや登頂ツアーに参加する人は、そろそろモノを揃えて慣れておかないと間に合いませんし。ま、今回買ったモノは、装着して練習する場所がありませんので、ぶっつけ本番です。これをつけ、登山靴を履くと、片足1.1kgになってしまうんですよね。高所ではキツそうだなあ。
2005.06.24
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きょうのじぶんの日記では、元大関貴ノ花の二子山親方が亡くなられたことについて書きました。日記読み日記のほうに書いたように、Web日記では、「元・貴ノ花」と呼ぶ方と、「ニ子山」親方と呼ぶ方に分かれています。現役時代の活躍ぶりを知っている人は前者、引退後の親方としての半生を知っている方は後者の呼び方をするのではないかと思われます。私はもちろん前者です。元・貴ノ花とは3歳違い、北の湖理事長よりは1歳年上ですから、当たり前のことです。大相撲に興味を持ったのは栃若時代の頃からでした。母親がファンだった影響で、いちばん最初に応援したのは若乃花(貴ノ花のお兄さん)でした。当時は家にテレビがなく、近所の家まで見せてもらいに行きました。そういう近所づきあいがあった時代でしたね。その後、巨人・大鵬・玉子焼きで有名な大鵬、そして、北の富士、輪島、北の湖、千代の富士などが活躍する時代となりますが、私が応援したのは、比較的小柄な力士に限られていました。具体的には、佐田の山、玉乃島(玉ノ海)、旭國などなど。千代の富士や朝青龍も三役以下の時は応援していましたが、あまり強くなると別の力士のほうを応援したくなってしまいます。貴ノ花は小柄でしたが、人気がありすぎて、あまり応援したことはありませんでした。最近は大相撲中継を観る機会がすっかり減っています。もう少し遅い時間だと観られるのですが。
2005.05.31
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きょうのじぶんの日記では、「らんたんラーメン」のことを書きました。あのお店は創業31年だそうです。3月6日に取り上げた「天下一品」ラーメンはもうちょっと古くて創業34年となります。 京都にはもちろん、明治維新以前から続いている老舗はたくさんありますが、ごく普通のお店屋さんに限れば、けっこう消えてしまった店も多いように思います。 少し前に、昔下宿していたあたり(烏丸鞍馬口付近)を歩いてみたことがありますが、食べ物屋さんんは大部分、店をたたんだり、全く違うお店に変わっていました。銭湯もすでに無く、普通の住宅に変わっていました。その一方、清雅堂、西光堂という2つの写真屋は、昔より店が大きくなっていました。デジカメ時代でもけっこう儲かっているんですね。 ごくふつうの商店街でも、20年前、30年前の記憶と重ね合わせながら歩いてみると楽しいものです。
2005.03.24
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大相撲で、玉乃島という力士が、朝青龍とともに7戦全勝を続けています。 しかし、玉乃島という四股名で私が真っ先に思い浮かべるのは、かつての横綱の玉ノ海のほうです。詳しい情報がこちらにあります。 私は過去に一度だけ、国技館(蔵前)まで大相撲を観に行ったことがありました。ちょうど千秋楽であり、結びは、玉乃島(=玉ノ海)と大鵬が対戦。玉乃島は、本割りで大鵬に敗れ、優勝決定でも連敗して優勝を逃しました。大鵬に比べると小柄でしたが、肩幅がものすごく広く見えました。 まことに残念なことに、その玉ノ海は、昭和46年の10月に虫垂炎手術後の心臓発作で亡くなりました。最近はNHKの解説のほうでおなじみになった北の富士さんとのライバル時代が続いていたら、大相撲はもっと盛り上がっていたはずです。
2005.03.19
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きょうのじぶんの日記では、京都御苑内で咲いていた梅の花の写真を掲載しました。この日記でも何度か、京都に住んでいた時の思い出話を書いていますが、長く住んでいたわりには、京都御苑に行ったことはあまりありませんでした。大学入学の頃から12年間、烏丸鞍馬口近くに下宿していたため、通学路として京都御苑内を通るようなルートを選ぶことも可能ではありました。しかし、あの中は、細かい砂利がしきつめてあるため、自転車では非常に通りにくくなっていたのです。梅園や桃園があることは全然知りませんでした。通学路としてよく利用したのは、相国寺の中、加茂川左岸、あるいは、下鴨神社の糺の森の中でした。こちらに、下鴨神社の今と昔の写真があります。
2005.03.08
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京都に1泊した時の夜は、天下一品祇園店でラーメンを食べました。このラーメン屋さんの情報はこちらにあります。このラーメン屋さんは、今でこそ全国各地に支店を出していますが、こちらのストーリーにあるように、かつては、京都・北白川で屋台ラーメンとして創業されました。昭和46年といいますから私が大学に入ったのと同じ年ですね。それから何年か経った頃だと思いますが、銀閣寺店が開店したあとは、よく食べに行ったものです。あの頃は夜型の生活をしていましたので、夜中の1時~2時頃に行くことが多かった。
2005.03.06
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きょうの「日記読み日記」では、ブルートレイン「さくら」の廃止のことを取り上げました。「さくら」の凋落については2002年3月29日の日記でも取り上げたことがあります。その時にも書きましたが、下りの「さくら」といえば、かつては東海道本線の列車番号「1」番。いつかは始発駅の東京から長崎駅まで通して乗ってみたいと思っていましたが、かなわないうちに廃止されてしまいました。2月26日の楽天日記にも書きましたが、私は学生時代にはワイド周遊券を使って日本全国いろんな場所を旅行したことがあります。しかし、ワイド周遊券では寝台列車には乗れません。また大概は新幹線自由席より割高です。そんなこともあって、国内の寝台列車に乗ったのは、これまで全部合わせても10回程度にしかならないと思います。
2005.03.02
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きょうのじぶんの日記では、横見さんの日本全国全駅下車の話題を取り上げました。横見さんには到底及びませんが、私も学生時代には鉄道の旅をけっこう楽しんだものです。大学1年生の冬、夜行列車で寝泊まりしながら、2週間にわたって北海道一周をしたことがありました。但し1回だけ、釧路のユースホステルに泊まりました。その後、海外の鉄道も何度か利用したことがありました。「冬のシベリア鉄道」にも乗ったことがありましたが、あれは、北海道の景色と大差ありません。それと、朝10時から午後3時頃までを除いては真っ暗で退屈でした。いちばん最近乗った鉄道は、アルゼンチンの「雲の列車」です。こちらにアルバムがあります。
2005.02.26
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日記読み日記でリンクしましたが、どうやら「中央アルプス市」が誕生しそうな気配です。撤回された「南セントレア市」ほどの違和感はありませんが、カタカナ地名はどんなもんですかね。どこの合併でもそうですが、もっと、との土地の歴史や文化を大切にしてほしいと思います。ところで、中央アルプスには3回登ったことがあります。いずれも、今回話題の駒ヶ根市からです。こちらには、中央アルプス山麓より撮影した木曽御嶽噴火の写真を掲載しています。この時は、20kg以上の荷物を背負って木曾谷側に降りましたが、上り下りが多く途中でへたりました。中央アルプスに登られる方は、伊那谷側の往復をオススメします。
2005.02.15
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