ひきこもりテツのページ

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2016/09/25
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カテゴリ: 鉄分補給
仮掲載中です

にあまた存在しているようです。

しかし、線路敷の多くが遊歩道として残っているだけですから、そのトレースと、玉川上水の橋台
(最近、真上に橋が架かってしまい、それすらみえにくくなってしまいました)と、「工」と刻ま
れた境界杭が紹介される程度で、深みがありません。

そこで、仮公開をしながら、表題の3つの路線との関係を時系列に整理していきたいと思います。

以下に掲げる写真は昭和51年、武蔵野競技場線の実地踏査(というほどのものでもないですが)
したときのものです。このたった5枚の、それもモノクロ写真から、どう話を展開していくか
自身が決めかねているくらいですが、所詮ブログなんぞは自己満足の世界なので、備忘録程度と



本線から分岐する武蔵野競技場線。駐車している車が時代を感じさせますね。



橋台    左:浄水場引込腺から分岐した中島工場引込線のものと推測
    右:武蔵野競技場線のものと推測

この橋台については
宮脇俊三編「鉄道廃線跡を歩く」(1995初版)でも、記述はありません。

いわゆる「廃線跡探索ブーム」になる前に撤去されてしまったのでしょう。いろいろ
ググってみましたが、この橋台を撮影したと思われる画像や、それに関する記述が
なかなかみつかりません。
しかたがないので、自分でしらべるしかないようですね。


左側の橋台のほうが古いように見えます。
それにしても、多分後年かさあげされたのであろう道路のレベルと橋台の位置関係が


武蔵境の駅から、左の橋台を通って武蔵野競技場前駅まで列車に乗車したという方に
お話を伺ったことがありますので、後日ご紹介しますが、真偽のほどは?
左は非電化だったはずですし、三鷹からは電化されていた武蔵野競技場線に入れた
時期があったからこそ「乗車」できたんでしょうが、そんな「時期」があったんで
しょうか?ま、何とも興味深い話ではありますが・・・



今は「ぎんなん橋」なんぞとかいう変な遊歩道橋の下に隠れちゃいましたね。



枕木です。1本だけ埋まってました。
周囲の畑の所有者(地主)さんにお話を伺っていますのでいずれご紹介します。


アメリカンスクールです。
米軍宿舎、消防署とともに、昭和48年に日本へ返還されました。
その直後、武蔵野市立第四中の校舎改築工事中、この建物をそのまま、仮校舎として
使用していました。この敷地に地下壕があって、好奇心旺盛な生徒たちの格好の探検
場所になっていました。

その辺のお話もさせていただくつもりです。

なお、追記の途中では本記事を一旦削除することもございます。
オリジナルの写真はこの5枚だけです。





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Last updated  2016/10/02 08:28:19 PM
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