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自分がもし、ダブル(子ども)を85~95年くらい前に生んでいたら、 またはもし、学校のサークル(部落研)で友人たちと出会うことがなければ、 この「部落のそとで生まれ」た母親は、もう一人の自分だったと思います。◇『神聖喜劇』(五)より(大西巨人、1982) 大正十一年(1922)初冬のある夕 照美: 兄ちゃん。ナシお金をあん水ん中に投げ込んだとな? 富太: そうせろ、ちおっかちゃんが、言うたもん。店屋の小父しゃんも、そげに言いよんなった。 照美: ナシじゃろうか。 富太: 知らん。 照美: それでん、ほかの小母ちゃんも子供も、店屋の小父しゃんやら姉ちゃんやらにお金をやりよったとに。 富太: ありゃ、橿原の者じゃなかったろうが?橿原の者は、誰でも、大人も子供も、あの中に入れにゃならんと。 照美: ナシな? 富太: うぅ、おれが知るか。照美は、しばらくだまってから、またつぶやく。 照美: ナシじゃろうかなぁ。 富太: せからしい(うるさい)。聞きたかったら、おっかちゃんにワガミ(お前自身)が聞け。墓地の雑木林をゆすぶる木枯らしの音。 富太: 暗うなってきた。早う帰らにゃ、幽霊出るぞ。エズカ(恐ろしい)。富太は駆け足になる。 照美: 兄ちゃん。エズカ。照美も駆け足になる。 冬木: 母親にたずねたとは、そげな変な目に五、六ぺん会うてからのことじゃった。「もちっと大きゅうなったら、お前にもわかるけん、・・・」 ち母親は答えた。それしか言わんじゃった。ほかにゃ言いようがなかったとじゃろう。自分が部落のそとで生まれとっただけに、なおさら言いようがなかったとかもしれん。そんときの母親の、なんちかんち悲しゅうしてたまらんごたぁる・涙ぐんだごだぁる顔持ちが、いつまでも内にゃ忘れられんとじゃ。・・・ そん時分が、始まりじゃった。そしてそれが、あの裁判事件まで続いた。うんにゃ、いまも、ここでも、続いとる。・・・いま思や、こっちから頼んでそうしたかった、ちゅうとが、おれの心底の本心じゃったごたぁる。今日までそうせんじゃったとは、東堂とか橋本とかに橿原生まれのこと、執行猶予のことなんかを隠したがっとったとじゃ全然なかった。---誘うてくれて、ありがとう。 子どもの目の前で涙をこぼした親として、自分は一生それを恥じて生きたことでしょう(六〇年代生まれです)。◇「牛返せ 一九四九年十一月」から(『五里霧』大西巨人より、1994) なかんずく最も屈辱的な記憶として忘れがたく刻み付けられたのは、彼の幼年期における左のような(鈴木ナンデモ屋に関する)体験の日常的な連続であった。・・・ 鈴木商店という食品雑貨類のナンデモ屋が、万代にあった。 店先に、鏡の抜かれた空き四斗樽が一個置かれ、それには満満と水が張られていた。 野田、伊勢、千木の人人は、おのおの、代金をその中へ投入すべきであった。 そのためには、紙幣は不都合ゆえ、彼らは、あらかじめ硬貨を(釣銭の不要なように正確な計算をして)準備せねばならなかった。・・・◇『わたしの童話』より(住井すゑ、1988) 『橋のない川』も一つの童話だと話されましたけど、これを書く直接のきっかけになったようなできごとはあるんですか。 住井: ええ。あれは勤評反対闘争で部落の子どもが同盟休校をやっていた和歌山へ行ったときのことなんです。学校で「綴方兄弟」という映画を観に行くことになったんだけど、・・・「ぼくたち兄弟が綴方、作文を出して商品を貰うと、近所の人は『あいつらは商品ほしさに、あること、ないこと書いて出しよる』と悪口いうけれども、賞品ほしさに作文書いたことはない。だれにも訴えようのない生活の苦しみ、それを乗り越えてあしたを生きるために生活の記録としてて書くんだ。それが自分たちの作文だ。だから弟は死んでも、ぼく一人でもあしたを生きるために、今日の記録をつける。作文は書きつづけます」 とね。 部落の子どもは、兄貴の語るのを一生懸命みてるんですが、一般の子どもはふさ男が死んでかわいそうだ、かわいそうだとわんわん泣いてて、ラストシーンなんかだれもみてない。 私は、なんで部落の子どもと一般の子どもの泣くところが違うのか、合点がいかない。・・・そしたら中学二年の男の子と女の子が、瞬間、私の顔をきっと見ましたね。 「先生、人間はいっぺんは死ぬんだで。」 そうですね、と私はうなずくばかり。 「人間はいっぺんは死ぬんだから、死ぬことは悲しくもなければ恐ろしくもない。悲しいのはその人間がどういう経路で死んでいかなくちゃいけないかということだ。あの弟は病気で死ぬんじゃない。風邪ひいたときに医者にかければ助かったし肺炎になっても病院が近いんだから入院させてやれば治るじゃないか。だからあの子は病気で死ぬんじゃなく、貧乏の差別に殺されていくんだ。その命に泣かずにいられるか。肺炎とわかっても入院もできず、貧乏の差別に殺されていく命が悲しくなくて何が悲しいんだ。他の友だちはふさ男が息をひきとってから泣いたけど、息ひきとってから泣いても間にあうもんか。息をひきとってからかわいそうだというなら、なんで生きているうちに、差別に殺されていく命に、泣いたり怒ったりしてくれないんだ。」・・・ 食ってかかられて、私ははじめて部落のつらさがわかりました。・・・私は、その晩、とうとう眠れなかった。・・・帰りの東海道線の中でも何度思い出して・・・「死ぬことはこわくもなければ、悲しくもない。悲しいのは差別に殺されていく命だ」といったあの子どもたち。その顔を思い出すとぐーっとこみ上げてくるわけです。・・・そのことがわからなかった私はまったく申し訳ない。だからこれから命がけの仕事をしようと、帰ってきてペンを握ったのが『橋のない川』なんです。 子どもは親を選べませんが、ダブルもきっと、母親思いの「冬木青年」のごとく、やがて仲間を見つけ、たくましく生きぬく生き方へと方針転換し、親を乗り越える生き方を身につけていったことでしょう(苦笑)。
2007.08.05
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