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昨日は、某紙夕刊の〈『京のオバケ』 四季の暮しとまじないの文化の著者、真矢都さんが「翌日から暦の上で春になる節分は、いわばリセットの日」とおっしゃっている〉 という記事に目が留まりました。 二月三日(節分の日)に、中田直人弁護士が亡くなられてから、四日が過ぎようとしています。 ご存知のように、一九六三年から続く「狭山裁判闘争」では途中、部落解放同盟と日本共産党との間にできた溝を、三四年間にわたり埋められずにいます。 〈もうそろそろ関係をリセットしたら~〉と感じている次世代が一人でもいるならば、ブログ通じてつながりたいと、自分は思ったのでありました。 これは、人それぞれ色々な失意を抱えて明るく生きているとの悟りからでもありんす^^; そこに、再び共闘を呼びかけたとか、共闘を組んだとかいう明るいニュースが加わるとなおもいいんですけどね^q^ それでは、二月もぼちぼち宜しくお願いしまーす。(写真は“京都のおまつり 節分お化け”より) 前置きが長くなりましたが、故中山直人氏が残された「狭山裁判闘争」での功績の数々を、以下の年表にまとめさせていただきます。1963(昭和38)年5月29日中田直人、橋本紀徳弁護士ら三名が弁護人に選定される(石川一雄さんが逮捕されて六日後)*1963(昭和38)年6月11日中田直人、橋本紀徳弁護人が、地検、県警本部に対し、不当な拘束、違法捜査のないよう要望する*1963(昭和38)年6月17日石川一雄さんが保釈後、直ちに再逮捕され、特別取調室(川越署警察分室)へ送られる。捜査本部は、弁護人の面会を禁止する。石川一雄さんの弁護人への不信が高まる。弁護団は接見禁止解除の準抗告を行う。*1963(昭和38)年6月18日中田直人、石田享弁護人が、早朝二〇分だけ石川一雄さんとの面会を許可される。弁護団が、再逮捕に対する抗議の上申書を浦和地裁等五つの裁判所に送付する。*1963(昭和38)年6月19日石川一雄さんがハンガーストライキにはいる*1963(昭和38)年6月23日連日連夜の拷問、甘言、誘導により、石川一雄さんがウソの「自白」(共犯説)をさせられる*1963(昭和38)年6月26日石川一雄さんがウソの「自白」を単独犯にかえさせられる。中田直人、石田享弁護人と面会を行う。*1963(昭和38)年6月28日石川一雄さんが中田直人、石田享弁護人と面会を行う1963(昭和38)年11月23日荻原佑介氏が、警察の拷問を内田裁判長に具申する1964(昭和38)年3月11日浦和地裁、内田武文裁判長が、死刑判決を下す →石川一雄さん、控訴する*1964(昭和38)年9月10日狭山事件の第二審第一回公判が始まる(裁判長、久永正勝)1972(昭和47)年2月7日「狭山事件の公正な裁判と、無実の石川一雄君の即時釈放を要求する」第一次署名五十五万人と文化関係者の要望書と、東西本願寺の独自の公正裁判要請署名を、東京高裁へ提出する*1972(昭和49)年6月15日狭山事件の第二審第六十一回公判で、中田直人弁護人が証言する*1972(昭和49)年7月27日狭山事件の第二審第六十四回公判で、弁護団が「六通の鑑定書」を提出する*1974(昭和49)年9月3日 [[狭山事件]]、[[第二審]]第七六回[[公判]]([[東京高裁]]・[[寺尾正二]]裁判長)で、[[弁護団]][[最終弁論]]が開始される。[[弁護人]]は、[[中田直人]](弁論を始めるにあたって)他*1974(昭和49)年9月26日弁護人中田直人氏の最終弁論が行われる。石川一雄さんが最終意見陳述を行う(第八一回公判)*1974(昭和49)年10月31日第二審東京高裁の寺尾裁判長が、無期懲役判決を下す→石川一雄さんが最高裁へ即日上告する*1975(昭和50)年2月13日中田直人主任弁護人、石田享、橋本紀徳弁護人ら七名が石川一雄さんの弁護活動を辞任すると声明する*[[1980(昭和55)年2月7日]][[東京高裁]][[第四刑事部]]([[四ツ谷裁判長]])が、[[事実調べ]]をいっさいおこなわず、[[狭山事件]]の[[再審請求を棄却]]する。 2009(平成21)年2月3日 中田直人弁護士、肺がんのため茨城県茨城町の病院で死去される、七八歳。 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
2009.02.07
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