縁起
まず縁起の法の原点は12ではなく、3であるということです。原始仏教ではこの3つしか説かれていないのです。12になったのは後々の仏教の教義学者が作り上げた可能性が高いとされています。
原点の縁起の法は
無明→執著→苦
この3つしかないのです。これを私流に分かりやすく(?)説明すると。
我々人間(神の分魂?)は真理を知らない状態にある。(これが無明)。その真理と何か?それは以下のとおり(出ました!私の悪いクセ)
仏(神でも結構)の世界は無相であること(比較するものがない。美しいものしかなく汚いものはない。般若心経の「不垢不浄不増不減」はこのことを説明している可能性が高い。現象世界は逆の差別相の世界)
さて仏の世界は愛、永遠、一つがキーワードです。しかし比較するものがない(無相)世界ではこの3つを認識することも感動することができません。(病気を経験しないと健康であることに感動できないのと同じ)仏の世界は無感動の世界と言ってもいいかもしれません。さてどうしたら自分自身(仏自身)の持つ本質(愛、永遠、一つ)に感動できるでしょうか?答えは一つ。その本質と比較するものがある世界(宇宙)を創って仏(自分)の分魂を送り出してやることです。その本質と比較するもの(苦、生死、複数)は元々、仏の世界にはないものだから幻想として宇宙に用意する(?)のです。それは自分自身を知り、感動させるために用意した幻想の善意の網と言っていいでしょう。しかし何も知らされていない(臨場感を出すために敢えて教えない)分魂は幻想の善意の網を本物の悪意の網と受け止めてガンジガラメ(これが執著、サンスクリット語ではupadhiで元々の意味はガンジガラメですが執著と漢訳されています)になって実際に苦しむ結果となってしまうのです。さて釈迦はこの法を説く時に、「縁って起きる」と説明しただけのようです。つまり無明に縁って執著が起きる。執著に縁って苦しみが起きると説明しただけですが、後の教義学者が勝手に縁起の法と名付けたのが実態のようです。しかも12まで増やして複雑怪奇に内容を変えて「ありがたみ」(?)を捻出したのが実態ということのようです。
この3つだけの縁起の法であればスッキリしませんか?つまり本当の縁起の法は、この3つですから、我々も原点に帰るべきではないでしょうか?
さて、じゃーどうすればいいの?ということですが、釈迦は無明を無くすことに縁って執著が無くなることが起きる。執著が無くなることに縁って苦しみが無くなるということが起きる。と説明しています。つまり
無無明→無執著→無苦
これが縁起の法の逆観と言われています。前述の縁起の法が順観です。
さてさて、まだ続きがあるのです。釈迦は縁起の法を説明してから、縁起の法の欠点に気が付いたようです。つまり無明を無くせば良いと言っているのですが、無明を無くすには、どうしたら良いのか説明していないのです。そこで、再度、同じことを欠点を補って説明したのが 四諦
です。
苦→集→滅→道 これが四諦ですが、縁起の法の逆から同じことを説明しているのです。私流に説明しましょう。大阪弁でいきましょう。(朝ドラの影響?)
(苦)
皆さん苦しんでますね。ご愁傷さまですー。(集)何故だかわかりますか?それはね、あなた達はホンマのことが分かっていないからなんどす。私が用意した善意の網を悪意の網と勝手に思っているんですよ。苦しみなんて嘘なんどす。死ぬなんて嘘なんどす。いっぱい人がいるように見えるでしょう。それも嘘なんどす。みんな私自身なんどす。私の一人芝居なんどす。それはね、皆(実は私)に愛に感動して欲しいからなんどす。永遠の命であることに感動して欲しいからなんどす。皆が仲間で兄弟なんどす。皆が元々一つであることに感動して欲しいからなんどす。(滅)網にガンジガラメになっているのはダサイすよ!早うホンマのことを悟って楽にナラニャーアキマヘンデー!(道)さあ、それではホンマのことを悟るにはどうしたら良いのか教えましょう。
ここまで来て「肩透かし」になってしまいましたね。確かに現在、仏教では道は八正道になっておりますが、これも12縁起と同じで教義学者が作り上げたものであると断定されておられます。やはり自分で考えるしかないのでしょう。皆さんも一緒に考えましょう。ところで私なりに考えたことを本にしてアマゾンキンドルで出版しました。参考にしてください。写真がその表紙です。
般若心経改造論 2016年08月26日
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