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沖縄まで行こうと準備していたところ、出発前日、もやいロープが切れる事故が発生。3日ほど遅れて出発の前日に今度はエンジン故障。冷却水ポンプの水漏れ発生です。修理を頼んで、直ったのが4月22日でした。ここまで遅れると予定変更です。伊豆諸島までの航海になりそうです。残念でした。もやいロープが切れたのは、ロープに縛っておいたボルトが川の流れで長年振動してロープを削っていたようです。想定外でした。流れのあるところでは要注意です。
2019年04月26日
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函館港は三泊でした。その前の下風呂では四泊で、のんびりクルーズをしています。大きなトラブルはありませんが、三回ほどちょっとしたトラブルがありました。ひとつは航海中、電気関係トラブルでGPS使えなかったこと、八戸港内で座礁したこと、函館に向かう途中、ペラにロープが絡んでこと、その途中、波で横倒しになったこと等 、しかし、なんとか乗り越えてきました。写真はクルーズ中の三艇です最後の晩、お別れ会をしました
2018年07月09日
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写真のポンツーンは地元のMさんが県と交渉して自費で作ったそうです。目の前にはお風呂、トイレ、ショッピングモールもありで、最高の場所です。しかも無料とのこと。これから多くのビジターで賑わうことでしょう。Mさんのボランティア精神に脱帽です。
2018年06月30日
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準備に手間取り遅れましたが22日に出港の予定です。一周の予定ですが、途中で戻ることもありです。今日の記事は初めてスマホからアップしました。私もようやくガラ系から脱皮です。まだ使いこなしていませんが便利であることは確かですね。
2018年06月21日
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日本は1941年12月8日のハワイの真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争に突入しました。前後して東南アジアにも軍を進め、植民地支配をしていた欧州列国(イギリス、フランス、オランダ)の軍を撃破し一時的には東南アジア全体を掌握するところまで行きましたが、その後の展開はご存知のとおりです。 注目していただきたいのは当時の東南アジア諸国の政治家が残した言葉です。これをありのままに列挙しておきますので参考にしてください。 1.日本軍がビルマを支配していたイギリス軍を撃破してビルマを解放した後、昭和18年8月1日に独立記念式典が開催されました。このときに挨拶したタキン・ウ・ヌー氏(後のビルマ国の外相)は次のように述べています。「歴史は、高い理想主義と目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみに生命と財産を犠牲にした例を、一つくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える」 2.同じ独立記念式典で元ビルマ独立義勇軍(BIA)のコドマインは「私の人生で今日ほど幸せだったことはない。わが国土から英国が追放され、偉大なアジヤ民族が馳せつけて他のアジヤ民族を解放してくれた。我々に古代の遺産と国土と自由、宗教、文化を取り戻してくれた。私は死ぬ前に、この幸せな日を見ることができた喜びに泣いた」 3.日本軍が昭和17年3月10日にインドネシアを支配していたオランダ軍を撃破してンドネシアを解放した際、アラムシャ将軍(後のインドネシア副首相)は次のように日本軍を讃えている。「我々インドネシア人は、オランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年に亘り、幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの狡的なスパイ網と強靭な武力と過酷な法律によって圧倒され、壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し、感謝感激をしたのは当然である」 このように日本にラブコールを送っていますが、外交辞令的要素はあるとしても、今の自虐的歴史観しか持ち合わせていない日本人に是非聞かせたいと思ってブログに載せてみました。
2018年05月19日
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ポツダム宣言は1945年7月26日に連合国から日本政府側に提出されました。日本は既に敗戦の色濃く、降伏は時間の問題でした。米国は当初、ポツダム宣言の中に天皇条項(天皇制は残す)を入れる予定で検討していました。それは日本の心情をよく知っていたグレー国務次官(元在日米国大使)の提言が反映されたそうです。すなわち天皇条項を入れないと日本は降伏せず本土決戦に持ち込む可能性が必定であると読んでいたのです。ところが、宣言案を作るためのポツダム会議が始まる7月17日の前日に米国のトリニティ実験場で核実験が人類史上初めて成功したというニュースがトルーマン大統領の耳に入ります。しかも次に原爆を投下できるのは早くて8月3日以降であるという情報も一緒でした。この時のトルーマンの心の内に分け入ってみましょう。「ヤッター!これで我が国は世界に国威を示すことが出来る。待てよ!このまま天皇条項を入れてポツダム宣言を日本に出せば日本はすぐに降伏するだろう。そうすると道義的には原爆を投下できないことになる。原爆を是非、実戦で使ってみたい。少なくとも原爆を投下できる8月3日以降まで時間かせぎをしよう。よし、天皇条項を除いて出すことにする。そうすれば日本はポツダム宣言を拒否するだろうから、原爆を投下する理由ができる。原爆投下した後に天皇条項を復活すれば無条件降伏をするだろう。それに今年の2月に開催したヤルタ会談でロシアに本土決戦に備えて北方から日本を攻撃するよう要請し、その見返りに南樺太、千島列島をロシアの領土にする了解をしていた。しかし、原爆さえあればロシアの参戦は必要ないかもしれない。これ以上ロシアの極東における利権を拡大させることは米国の国益に添わない。よし、ポツダム宣言の署名国からロシアを外してしまおう」このトルーマンの選択は悪魔の選択と言ってもいいでしょう。これにより人類史上未曽有の大残虐が起きるのです。原爆投下により被爆直後で20万(5年以内で34万人)の犠牲者、さらにロシアの蛮行(詳細は後述)により52万人(戦死者5万人を除く)の犠牲者が出ました。この52万人という数字の詳細は後述します。さて、7月26日にポツダム宣言を受け取った日本は天皇条項が入っていないため閣議は紛糾します。阿南陸軍大臣を中心した軍部は本土決戦による徹底抗戦を主張します。結論を出せぬまま悶々とした日々が続きました。米国もイライラしていました。日本側のポツダム宣言拒否の回答を心待ちしていたのです。ところが鈴木首相とマスコミが大チョンボを犯します。記者会見で鈴木首相は「まだ検討中で結論は出ていない」と言えばよいものを「黙視している」答えたのです。これを日本の新聞は黙殺と書いてしまい、さらに米国の新聞は無視と訳してしまったのです。つまり日本はポツダム宣言を拒否したという報道になってしまったのです。このことについて鈴木首相は後で猛反省していますが、後悔先に立たず!米国はポツダム宣言拒否を理由に原爆投下(後日、米国政府は記者会見で日本がポツダム宣言を拒否したので原爆を投下したと発表していますが、これは嘘です。日本はまだ拒否はしていなかったのです)さらにロシアも8月8日に日本に宣戦布告をして満洲、朝鮮、樺太、千島列島に怒涛のように攻め込んできました。そのロシアの宣戦布告書には「日本がポツダム宣言を拒否したので参戦する」と書いてあるのですが、これも嘘です。何と、米国とロシアは新聞報道だけで国の重要政策を決定したのです。しかも極悪非道な政策です。なんという愚かな国でしょうか。さて、8月9日の御前会議でポツダム宣言受諾が決定されました。(実際決定されたのは10日午前2時半)その内容は米国に伝えられます。但し、それには国体維持すなわち天皇制を維持することを前提とするという条件を付したのです。これに対して米国は8月12日に「占領軍の制限下において天皇制を認める」と回答しました。この回答はバーンズ回答とも言われており、実質的にトルーマンを操っていたバーンズ国務長官が作成したものです。この「占領軍の制限下」という言葉で、又も閣議は紛糾します。阿南陸軍大臣はこれでは国体を維持できないとしてポツダム宣言拒否を主張。結局、日本政府は結論を出すことができず、最後は8月14日の御前会議で天皇陛下のご聖断により決定することになったのです。そして昭和天皇は次のよう述べられたそうです。(要約)「私はどうなってもよい。国民の命が大切である。ポツダム宣言受諾により国民に未曽有の苦難が待ち受けているかもしれない。しかし日本民族は必ず復活する。私はそれを信じる」それはバーンズ回答受諾の瞬間である。つまりどのような形であれ天皇制が維持されるという日本側に少し歩み寄ったバーンズ回答が決定打となったのです。この後、阿南陸軍大臣は陸軍官邸において15日未明に切腹、自ら命を断ちました。その時の阿南陸軍大臣の心の内に分け入ってみましょう。「このまま無条件降伏したら日本は精神的に死んでしまう。本土決戦で米軍に一矢を報い、条件降伏に持っていきたかった。既に軍部には無条件降伏を阻止するためクーデターを起こす動きがある。クーデターの計画書は既に私の元に届いており、賛同するよう部下から求められている。しかし陛下の(私はどうなってもよい。国民の命が大切である。)という言葉は私の胸の奥に深く突き刺さった。やはり陛下の御意思のとおりにするしかあるまい。だが私が軍部にクーデターを止めるように説得しても私を射殺して彼らは強行するだろう。しかし、もし私が切腹すれば私の意志が固いことを知ってクーデターをあきらめてくれる可能性はある。それによって陛下の御意思のとおりになるのであれば、わが命、露と消えても何の悔いがあろうか」阿南陸軍大臣が切腹した頃には畑中少佐ら陸軍将校6人は森近衛歩兵第2師団長を射殺してクーデターを強行しようとしていた。宮城の一部占拠まではいきましたが、その後、軍部全体の賛同を得ることは出来ず挫折。畑中少佐と椎崎少佐は二重橋の前で自決しました。クーデターは未遂に終わったのです。軍部全体の賛同を得ることが出来なかった理由は定かではありませんが、阿南陸軍大臣の切腹が影響を与えたという説は否定できないでしょう。もしそうだとすれば阿南陸軍大臣の思惑どおりになったということになり、阿南陸軍大臣は乃木大将と並び称される忠義の大将として歴史に残ったことでしょう。時計の針をポツダム宣言の日本側への提出日(7月26日)に戻します。ポツダム宣言署名国から除外されていることを知ったスターリンの心の内に分け入ってみましょう。「あのヤンキー野郎め!ヤルタ会談で南樺太と千島列島を我が国の領土にする約束を反故にしようとしている。こうなったら、日本と戦争状態にあるという既成事実をつくり、戦利品として日本の領土を獲得するしかない。よし、今こそ日露戦争で負けた恨みを果たす時だ。日本とは中立条約を結んでいるが、そんな条約など糞食らえ!それに米国とは日本との本土決戦になってから参戦する約束になっていたが、そんな約束などどうでもよい!いざ出陣!」ロシアは8月8日に佐藤尚武駐ロシア日本大使を官邸に呼び宣戦布告書を渡し、日本政府に打電させないようにして奇襲攻撃を行いました。この実に汚いやり口はロシアらしいと納得します。8月8日以降のロシアの蛮行には目に余るものがありました。略奪、レイプ、虐殺が横行したのです。何しろ満州戦に配属されたロシア部隊は陥落したナチスドイツで200万人のドイツ女性をレイプした(アントニー・ビーバー著「ベルリン陥落1945」から)という悪名高き部隊でした。囚人兵が多かったそうです。日本の女性は頭を坊主にして黒い墨を顔に塗り男装していましたが、胸に触り女性であることを確認してレイプ。抵抗する女性は容赦なく射殺。性奴隷として監禁していた宿舎では日本女性の青酸カリによる集団自殺がありました。舌を噛み切って自殺した女性もいたそうです。婦女子だけが避難していた葛根廟という集落では1200人のうち1080人が虐殺されたそうです。このような虐殺は満洲のいたるところで起きたのです。日本政府発表の数字では日本の民間人の犠牲者数の合計は25万人です。さらにシベリアに抑留された捕虜と民間人は強制労働の中で過労死、凍死、餓死で18万3千人が死亡、それ以外に収容所に移動途中で死亡したのが4万人(貨物車に乗せられて移動する際、列車に乗っていた全員が凍死したこともありました)、船で移動した際の死亡者は犬猫のように海に捨てられたそうです。労働できない病弱者の4万7千人はシベリアの極寒地に捨て置きにされ、凍死または狼の餌にして死亡させたそうです。この犠牲者数はシベリア抑留者支援・記録センター代表世話人の有光健私氏のネットの情報です。この数字が必ずしも正確とは言えないかもしれませんが最近公表された機密文書の詳細な調査をした結果の情報ですから参考にすることは出来るでしょう。合計で52万人の日本人がロシアに虐殺されたのです。ロシアのジャーナリスト、アルハンゲリスキー氏は「シベリアの原爆」という題名の本を出版しました。その中で自国ロシアの蛮行を暴露しています。シベリアの原爆という名前は、まさにシベリアで広島や長崎の原爆以上の犠牲者があったからこそ名付けられたタイトルなのです。その著書の中でロシア政府は自らの蛮行(犠牲者数)を隠蔽するために、死んだ日本人の墓(しかも日本人が作った墓です)のほとんど(75ヵ所)をブルドーザーで潰してしまったことを証言しています。亡き者の魂をも凌辱する行為はとうてい許されません。このような蛮行を直前まで中立条約を結んでいた国のやることでしょうか。日本はロシアに対して戦争行為は全くしていなかったのです。ノモンハン事件等の衝突はありましたが日本は中立条約を結んでいる関係上クソマジメに防衛に徹していたのです。しかもロシアが行った蛮行は終戦の1週間前からで、しかも終戦後(8月15日)以降も5年間も続いていたのです。ロシアの行った行為は火事場泥棒として昔から言われているのですが、それは真実であり、国際法上もっと厳しくロシアを追及する必要があると思いますが、多勢に無勢で戦争に負けた国は無力なのでしょう。何も言えず今日に至っています。最近の日本政府はまさに「お人よし外交」の愚の骨頂になっているようで、シベリア抑留の犠牲者数をロシア発表の数に合わせるようになってきました。最初は37万人の犠牲があったとして国連に提訴までしていたのですが、今は7万人として、ほぼロシア側に擦り寄っています。何となさけない!そんな妥協をしても北方領土問題は解決しません。大事なことはロシア政府を直接相手にするのではなく、ロシアの国民に歴史の真実を伝え(その前に日本人が理解しなければならないのでしょうが)ロシア人の良心の中に罪(恥?)意識を醸成し、ロシア政府を動かす力にすることが北方領土問題を前進させる秘訣であると私は思っています。それは最も遠いようで最も近い道であると信じています。我々日本人も「戦争に負けたんだから仕方ないじゃん」などと呑気なことを言っている場合ではありません。歴史の真実を知った上で北方領土問題を真剣に考えましょう。後にトルーマン大統領は記者会見で「原爆を投下したことについて反省はしていないのか」という質問に対して「全く反省していない。あれはグッドタイミングだった」と言ってパチンと指を鳴らしたそうである。さらにキリスト教団体の原爆投下についての批判に対し「ケダモノに対してはケダモノの扱いをしなければならない」と答えたそうである。この発言はトルーマン自身がケダモノであることを証明したことになるだろう。私は戦争終了後も蛮行を続けたスターリンと日本人に対してケダモノ発言をしたトルーマンを生涯許すことは出来ません。但し、私が天国に行って彼らに会ったら次のように言うでしょう。「俺もアホだったけど、お前らもアホだったよなあー」すると彼らは頭を掻きながら下を向いて「いやー、本当にアホでした」と言うはずです。そのとき、私は彼らを赦すことでしょう。最後に、この記事は私の推測ではなく、竹田恒泰著「アメリカの戦争責任」や長勢了活著「シベリア抑留」及びネット情報を基に、私流のアレンジを入れて書いたものであることを申し添えます。
2018年04月07日
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12世紀の東ジャワのクディリ王国のジョヨボヨ王が遺した「バタタユダ」なる民族叙事詩に中に、ある予言が書かれていました。それは「黄色い神が白い服を纏って空から舞い降りて、支配していた白い人間を追い出して我が民族を解放してくれるだろう。そしてその黄色い神はすぐいなくなるであろう」という予言である。ところが日本軍が太平洋戦争の初期に白いパラシュウトで東南アジア諸国に舞い降り、次々に当時植民地支配していた西洋諸国を追い出して解放したため、予言が成就したということで東南アジアの国々は大騒ぎになったのである。日本軍は解放軍として熱狂的に歓迎されました。日本軍は神さまにされてしまったのです。当時の日本兵も異常な歓迎ぶりに戸惑いを隠せなかったそうである。 しかしこのジョヨボヨの予言は日本の敗戦まで予言していたようである。何故なら日本は敗戦後に東南アジアから撤退することになったからです。黄色い神はすぐにいなくなるだろうという予言も成就したのです。日本軍が去るときには武器をコッソリ現地人に渡しました。その武器は又ノコノコ戻ってきた旧支配国との独立戦争に大いに役に立ったのです。勿論日本に帰らずそのまま独立戦争に参加した2000名の日本軍兵士もおりました。彼らは独立戦争のリーダーとして活躍したのです。私は残った2000名の日本軍兵士に敬意を表します。日本に帰れば少なくとも命の危険はない生活が送れたはずですが、他民族の解放のために最後まで独立戦争を現地人と共に戦い抜いたのです。大本営の命令は帰国でしたが、それを拒否して戦い、半数は戦死したのです。彼らは現地人を見捨てて日本に帰るような無責任な行動が出来なかったのです。なんという素晴らしい武士道精神でしょうか。私はいつか東南アジアに訪れた時は必ず戦死した日本兵の慰霊碑訪れるつもりです。慰霊碑に向って黙祷を捧げる自分の姿を想像するだけで目頭があつくなります。 PKO活動で自衛隊がカンボジアに行った際、現地の異常な歓迎ぶりに自衛隊員が驚いたそうです。現地人から見れば「あの黄色い神が又やって来た」という感覚で大騒ぎだったのです。その昔自分たちを解放してくれた恩を忘れていなかったのです。
2018年02月10日
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「日本は植民地を持ったことは一度もない」等と言えば世間からバッシングを受けることになるでしょう。しかしこれは事実です。まず、太平洋戦争勃発の頃、世界の弱小国はほとんどが西洋諸国の植民地になっていました。アフリカはエジプトを除く全ての国がそうでした。東南アジアはタイとネパールを除く全ての国がそうです。南米は全ての国がそうでした。これらの弱小国は何百年もの間、西洋諸国から搾取され続けられたのです。植民地を持つことは今ではタブーになってきましたが、当時は、それが当たり前だったことで、むしろ国の政策として奨励されていた事実をしっかりと認識しておいてください。「赤信号皆で渡れば怖くない」さて日本は満洲と朝鮮を植民地にしたではないかという意見が出ると思いますが、日本の場合は満洲国と朝鮮国に現地人の政府を作り、背後から統治する形をとりました。実質的には植民地に近いかもしれませんが、これは歴史学上の分類では植民地ではく統治国と分類されるそうです。(佐治芳彦著の太平洋戦争の真実)さらに東南アジアに侵略して植民地にしたではないかという意見も出ると思いますが、これも大きな誤りです。日本政府は以前から弱小国で燻っていた独立運動を影から支援していたのです。地下組織にいたスカルノ(インドネシア)やボース(インド)、アウンサン(ビルマ、今現在のミャンマー。アウンサンスーチンの父親です)に対して資金援助や日本に呼んで軍事訓練をしていたのです。彼らはその後独立を果たした英雄として尊敬されています。つまり、日本の南方進出はアジア民族独立の支援するためだったのです。次々とオランダ、フランス、イギリスの軍隊を撃退し現地入りしたとき日本軍は解放軍として熱狂的に歓迎されたのです。このような事実は戦後のアメリカ教育では教えられていません。日本人に自虐史観を植え付けるために日本の良いところは教えないことにしたのです。しかし、日本が敗戦を迎え東南アジアから撤兵する時期になると、又かつての植民地支配していた西洋諸国がノコノコと乗り込んできました。しかし今度は民衆が立ち上がりました。日本軍から軍事訓練を受けて準備ができていたのです。日本軍は兵器を大本営には内緒にして現地人にコッソリ渡して去っていきました。日本に帰らず現地に留まり現地人と一緒の独立戦争を戦い抜いた日本兵がいました。その数2000名、うち1000名は戦死したそうです。この独立戦争は東南アジアの全ての国で始まり戦死者は40万人ともいわれている中で全ての国が独立を勝ち取るのです。スカルノ大統領は独立記念式典の演説の中で「我々が独立できたのは日本のおかげである」と演説し、功績のあった日本軍人に最高の勲章を与えています。ちなみに南方進出は大東和共栄圏のためだけではなく石油資源の確保のために必要であった事情もありますが、それは大東和共栄圏構想をいささかも歪めるものではありません。
2018年02月07日
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先日のブログで真珠湾攻撃は米国と英国の罠であったと書きましたが、新たにそれを裏付ける情報を入手しましたので報告します。 ルーズベルト政権で陸軍長官を務めていたスチムソンは(ホワイトハウスで開かれた秘密会議、昭和16年11月25日開催)にルーズベルトが次のように話したことを日記に綴っている。「問題はどのように日本を操ってわれわれにあまり大きな危険を及ぼすことなく、彼らに最初の一発を発射させるような立場に追い込むべきか、ということである。これは難しい注文だ」ハワイ太平洋艦隊の駆逐艦部隊司令官シオボールド海軍少将はスチムソンの日記を読んで、自身の著書の中で次のように記述している。「ルーズベルト大統領が、どんな策略を使って、戦争を始めようとしていたか、その全てがここに見られる。アメリカ国民を奮起させ、団結させて戦争に突入させるには、日本の先制攻撃が頼みであった」 これは明らかに米国が真珠湾攻撃を誘導したという証拠です。米国が欧州戦に参戦するために日本は利用されたのです。真珠湾攻撃の4日後に米国はドイツとイタリアに宣戦布告をしました。
2018年01月23日
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GHQの内部文書を調査していた高橋史郎氏は著書(日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと」副題「こうして日本人は国を愛せなくなった」)の中でGHQの内部文書にあった日本人再教育プログラムを記述しております。以下原文 「過去に日本国民を軍国主義に追随させた封建制度、神国日本思想に基づく人種的優位性のエネルギーに変化を与えることによって日本人の再教育を行わない限り、占領目的は達成されない」「日本の敗戦の真実、日本の戦争有罪性、現在および将来の日本の災害と苦難に対する軍国主義の責任、連合国による軍事占領の理由と目的を、すべてのレベルの日本公衆に周知させる」「日本国民に対し、戦争への段階と戦争の真相を明らかにし、日本を破滅と敗北に導いた軍国主義のリーダーの犯罪と責任を日本聴取者の心に植え付ける」 以上の原文を読むとGHQが日本人の精神的武装解除という言葉で日本人の精神的構造改革(洗脳)を強力に推し進めたことが分かります。GHQ が自ら作成した「太平洋戦争史」は占領軍=善、日本軍=悪というアメリカファーストの真の歴史を歪曲した本でしたが、これを教育現場やマスコミに流し、日本人の精神構造に徹底して自虐的性向を植え付けたのです。この戦略は結果として見事に成功しています。周りの日本人をよく観察してください。「日本は悪いことをした。負けてよかった」と言う人が圧倒的に多いではないですか。これはアメリカが仕組んだ日本人の洗脳政策が見事に成就している証拠です。今、我々が知る日本の戦争中の歴史は大ウソであることは、多くの有識者が指摘していることですが、聞く耳を持っていないのか、精神的痴呆状態になっているのか分かりませんがほとんどの日本人は有識者の訴えに反応していません。マッカーサーは日本占領後に朝鮮戦争で司令官として苦戦しましたが、その際に初めて極東情勢を理解することができました。すなわち北朝鮮の背後にいたソ連と中国の脅威、満州国の重要性、朝鮮国の不甲斐なさを肌で感じたのです。(前野徹著「戦後60年の大ウソ」)これはそのまま当時の日本の悩みでもあったわけですから、朝鮮戦争を経験して初めて日本の立場を理解できたのです。その証拠に1951年5月3日に開催されたアメリカの上院、軍事・外交合同委員会聴聞会でマッカーサーは次のように証言しています。 「大東亜和戦争は侵略戦争ではなく、資源の禁輸という経済封鎖によって日本が自存のために、やむにやまれず遂行した自衛戦争である」 これはそれまでとは180度も違う証言ですが、朝鮮戦争を経験したからこそ日本が侵略戦争をしかけたのではないということが理解できたのです。マッカーサーがもう少しこのことに気が付いていれば東京裁判では別な結果が出ていたかもしれません。少なくとも冤罪による死刑はなかったでしょう。全くもって実現不可能なことではありますが、模擬裁判でもいいから東京裁判の再審裁判をして日本の無実を証明し、日本の文化と伝統に基づいた日本人の誇りを回復することが必要だと私は思っています。もちろんこれは一老人のボヤキで終わることは承知の上.です。気持ちがそうであるということです。
2018年01月10日
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東条英機(戦時中の首相、後にA級戦犯として絞首刑)の宣誓供述書を読みました。この供述書は当時のGHQによって発禁文書として抹殺されていたのですが2005年に孫の東條由布子氏によって出版されたものです。内容的には当時の戦争にいたる経過がきめ細かく記載されており改ざんがないため本当の歴史を知る意味で貴重な資料だと思います。東京裁判で15人の裁判官のうち一人だけ日本に無罪判決をしたパール博士が「戦前の日本のような状況に置かれたならば、どんな小さな国も拳を上げて戦争を起こしたことだろう」と言った言葉の意味が供述書を読むことによって痛いほど分かります。おそらくパール博士は東條英機の供述書を読んでいたに違いありません。そのパール博士の判決に関わるレポートも発禁文書になったのですが戦後18年経ってから「日本無罪論」という題名で出版されています。これも私は読んでいます。この東条英機供述書とパール博士の判決に関わるレポートを公表すれば東京裁判で連合軍が有罪になり日本が無罪になる可能性があったため発禁にした可能性が高いと私は思っています。長くなるので詳細は省略しますが、東條英機が戦後初めて知ったことして供述書に書いていることを二つだけ紹介します。一つは日米交渉が始まる以前に米国は日本との戦争を決意しており日米交渉は戦争準備の時間稼ぎのジェスチャーで、従って米国は最初から譲歩することは全く考えてなかったこと。二つ目は英米の密約の中で米国を欧州戦(対ヒットラー戦)に参戦させるために日本に先制攻撃させる策略を練っていたという事実です。二つ目は少し説明を要します。つまり英国は米国に欧州戦に参戦するように再三要請していたのですが米国の世論は第一次世界大戦の苦い経験から断固拒否していたのです。そのためドイツと三国同盟を結んでいる日本を戦争に巻き込むことにより世論を欧州戦参戦に誘導したかったのです。米国は日本軍が真珠湾を攻撃することを最初から分かっていました。アメリカのジャーナリストが「米国政府はハワイ基地の司令官に敢えて日本軍の攻撃を伝えず、少なからず被害を出すことにより世論を喚起しようとした」と発表しています。それがどこまで真実なのかどうかは棚に上げて、少なくとも英国のチャーチル首相が日本の真珠湾攻撃のニュースを聞いた時、嬉しさのあまり拳を上げて「我々は勝った!」と叫んで椅子から立ち上がったことが伝えられていること、及び当時真珠湾には廃船間際の軍艦しか停泊していなかったこと、及び肝心の空母4隻が避難していなかったことから考えて策略があったことは間違いないでしょう。真珠湾攻撃は米国にとって廃船処理と世論の喚起という二重のメリットがあったのです。それにしても最後まで米国との交渉に望みを繋ぎ戦争回避のために血を流すような努力した東条英機首相があまりにも不憫です。東条英機首相はルーズベルト大統領と直接会談まで提案して最後まで対話を模索していたのです。この日米の首脳会談は米国から拒否されて実現していません。英米は日本よりも役者が2枚も3枚も上だったということです。さて今日の北朝鮮が置かれて状況は戦前の日本と非常によく似ています。どちらもアメリカを中心にした包囲網により、海外資産の凍結、軍事関連物資の輸入禁止等の圧力が加えられています。「窮鼠猫を噛む」の諺どおり、戦前の日本と同じ運命をたどらないように切に望みます。日本の安部首相は今は対話でなく圧力だと豪語していますが、最後まで対話を模索していた東条英機首相の爪のアカでも煎じて飲んで欲しいと思うのは私だけでしょうか。
2017年11月24日
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「ひと目でわかる慰安婦問題の真実(水間政憲著)」の作品を読みました。この本の内容を中心にして、かつ私の想いも入れて慰安婦問題を考えてみましょう。2014年の4月に米軍元慰安婦(今話題になっている日本軍元慰安婦ではなく米軍元慰安婦です)122名が韓国政府に対して賠償を求めて訴訟を起こしました。韓国政府は朝鮮戦争時代の1950年から米軍兵士のために慰安所を設け慰安婦を勤務(?)させていたのです。何故、今になって訴訟を起こしたのか答えは簡単です。つまり「日本軍元慰安婦があんなに賠償金を貰っているのに何故私たち米軍元慰安婦は一銭も貰えないの?」という単純なお金目的の行動です。しかし、これは元慰安婦本人たちの意図とは別に、今騒がれている慰安婦問題に一石を投じることになるでしょう。その理由は後半説明いたします。戦後、日本においても進駐軍米軍兵士のために日本政府が慰安所を設けました。それは一般の婦女子が米兵による暴力の被害に合わないようにするための苦肉の策だったのです。ヒットラー率いるドイツが陥落した際、最初のベルリンに入ったロシア兵が7歳から70歳までの全ての女性を暴力した事実を情報として日本政府は事前に掴んでいたのです。しかし、慰安所を設けても米軍兵士の日本婦女子に対する暴力は後を断ちませんでした。GHQがもみ消しを図ったため表面には出ていなかったのですが、その裏付け資料が見つかり最近出版されたのが冒頭で紹介した本です。これを読むと驚くべき事実が書かれてありました。一つだけ紹介しますと、米軍の兵隊250人がトラックで東京の大森にある病院を突然訪れ病院の女性患者及び看護婦合わせて80人を次々に輪姦した事件があったのです。妊婦も子供を産んだばかりの女性も含まれています。なかには7人の米兵に輪姦され気絶した女性もいました。はずみで赤ちゃんが床に落ちて死んでいるのです。当時の社会党の藤原道子議員が国会で「この8か月で1878件の米兵による暴行事件があり、これは氷山の一角である」として政府の対応を糾弾しています。このように韓国政府も日本政府も米軍兵士のために慰安所を設置していたという事実に着目してください。これによって今問題になっている日本軍慰安婦問題の対応が微妙に変化しています。つまり日本だけを非難することは出来なくなっているのです。キムワンソプという韓国のジャーナリストが「日韓禁断の歴史」という著作の中で「日本の慰安婦制度は日本という国家の先進性を証明するものといって間違いないだろう。この従軍慰安婦制度は日本軍のヒューマニズムを象徴する証拠として再評価されねばならない」と記述しています。それはこの制度が朝鮮の婦女子を暴力から守る意味で大いに貢献したことを説明しているのです。元より日本政府の慰安所設置の目的はそこにあったのです。つまり戦地の婦女子に迷惑をかけたくないという配慮があったのです。慰安所があったことは恥ずかしい歴史の現実ではありますが、ある意味で必要悪と考えざるを得ないと思います。問題は日本軍の婦女子の強制連行があったかどうかなのです。この強制連行は朝日新聞の記事が発端で生まれた冤罪なのです。1992年に朝日新聞は日本政府が関与して強制連行があったこと新聞で報道しました。その後、どんどん飛び火して世界各国から非難の目が向けられることになったのです。しかしその後22年たった2014年に朝日新聞社自身が誤報であったことを認め強制連行はなかったとして謝罪の記事を載せているのです。その経過は、当時日本政府は一部の韓国人が農村の女性を違法かつ無慈悲に婦女子を誘拐している事実に目を向けて韓国人の取り締まりを強化する通達を出したのです。つまり韓国人による強制連行が起きている現実を改善するための施策だったものが逆に強制連行に日本が自ら関与したと曲解されてしまったのです。関与したと言えば関与です。つまり強制連行が無くなるように関与したということです。全く幼稚な誤解だったのですが、その後有識者の努力により朝日新聞に謝罪させることに成功したのです。ところが、一度レッテルを張られると冤罪は一度には晴れないのが世の常人の常で、さらにこの機に乗じ抗日的日本人及び抗日韓国人は元慰安婦の嘘としか思えない証言を次々に発表して鬼の首を取ったように日本国を侮辱するようになったということです。この慰安婦の証言はお金で買収したものとしか思えません。当時、慰安婦の性病のチェックを仕事として慰安婦の現状をよく知っていた衛生兵(水間正憲氏の友人)は「よくもあのような嘘を言えるものだと」と証言しています。慰安婦の平均的月収は300円(現在の貨幣価値で150万円)で、稼ぐ人は1000円だったそうです。当時の内閣総理大臣の月給は800円でしたから慰安婦は高級取りだったのです。日本兵に超人気のあった有名な慰安婦(文玉珠さん)は毎月1000円の貯金をし、最後の残高は26000円(現在の貨幣価値で1億3000万)でした。「嘘だー」と思われる方は冒頭で紹介した本を読んでみてください。貯金通帳の写しが載っています。私は日本の韓国大使館前にベトナム戦争で韓国軍兵士の蛮行により犠牲になったベトナム人女性の慰霊碑を建てたらどうかと思っています。その蛮行は、にわかに信じられない醜悪な現実なのです。韓国軍は米軍と一緒になってベトナム軍と戦っていたのですが、その蛮行を原文のまま掲載します。1. 住民(女性、子供、老人)を一か所に集めた後、機関銃を乱射して抹殺2. 子供の頭を割ったり首をはね、脚を切ったり四肢を切断して火の中に放り込む3. 女性を暴力した後、殺害して妊婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏みつぶすその他韓国兵による暴力は常態化しており、被害者は三万人ともいわれています。そのため韓国兵に暴力され生まれた子供は「ライハンタン」と呼ばれるほど問題になっているのです。この韓国による蛮行についてはもっと真実を検証する必要があると思います。私は本に書かれている韓国軍の蛮行をそのまま掲載しているだけですが、これにより韓国が世界的なバッシングを受ける前に韓国人自らが歴史を検証し、反省すべき点は反省し、誤解だと思うならば誤解を解く努力をすべきだと思います。ついでですが、韓国の日本大使館前に慰安婦像を設置している限り、韓国はベトナムにおける蛮行について世界からバッシングを受け続ける責任があります。水間政憲氏の著作が完全なる真実だと言い切ることは出来ません。しかし仮に真実でないとしても真実であって欲しいと願うのは日本を愛する人間として自然なことではないでしょうか。
2017年11月14日
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10月8日に開催された全日本選手権マスターズフルマラソン70歳以上の部で優勝しました。35k過ぎで足がつりはじめ何度も止まりましたが、結局、2位に10分差で優勝です。もう一度フルマラソンを走ってみたいという気持ちがあったので10年ぶりに挑戦したのですが、目標以上の成果がありました。感謝感激です。もうこれで思い残すことはありません。まだまだヨットができるという実感があるのみです。表彰式の写真を事務局に撮ってもらったのですが、家に帰って見てみると写っていませんでした。残念無念。目標は4時間を切ることでしたが、結局3時間54分で目標達成!おまけに優勝までさせていただきました。感謝感激です。これからの目標をどうするかはこれから考えます。ドン・キホーテは幻想の世界で前進あるのみです。
2017年10月10日
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出航してから丁度50日で母港石巻港に到着しました。日本製紙の煙突が見えた時は正直嬉しかったです。今回の航海は大きなトラブルなくも大変リィフレッシュになりました。来年は北海道一周、再来年は沖縄航海、この繰り返しの最後は天国一周になるでしょう。
2017年06月06日
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土佐清水以降は久礼、室戸岬、日和佐、周参見、那須勝浦、志摩ヨットハーバー、伊良湖、福田、妻良、伊豆大島、三崎、勝浦、銚子、那珂湊に入港しました。今日の朝、小名浜港を出航したのですが、すぐ戻りました。雨、濃霧、雷と、ものすごい波で出鼻をくじかれました。勇気ある撤退です。昨日も小名浜港に入港する際、一時的な前線なのでしょうか豪雨と突風で苦労しました。低気圧の中にスッポリ入っているので何が起きるか分からない状態なのでしょう。高気圧がくるまでおとなしくしています。もうすぐ石巻です。高名の木登りではありませんが、用心!用心!
2017年06月02日
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徳島港以降停泊した港は、土庄東、多度津、弓削、御手洗、室津、別府、三瓶、愛南海の駅、そして土佐清水です。今回で瀬戸内海の航海は3回目ですが、初めて、一番すごい潮流を経験させていただきました。佐田岬を通過する際、白波が崩れる2mを超す波の列を横切ったのですが、まるで荒天帆走している感じでした。海の中を激流が走るというのは本当だったんですね。ところで、クルーキングをしているヨットマンと話をしていて共通なのがホンダワラで苦労していうことです。私も前回苦労したのでペラにステンレスで囲いを作って臨んだのですが、期待したほどには効果はなく、結構、藻で苦労しています。しかし、仮に藻が絡んでも囲いで叩かれて藻が千切れるため洋上でもぐることは今までありませんでしたので、その点は良かったと思っています。次回に上架した際にはもっと網の目をこまく改造したいと思っています。
2017年05月13日
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明日、子鳴門海峡を通り瀬戸内海に入ります。伊良湖港以後の寄った港は志摩ヨットハーバー、那須勝浦、周参見、阿尾です。那須勝浦でも新しいジョギングコースを発見、阿尾にも良いジョギングコースがありました。民宿の橋本壮でお風呂に入れてくれます。
2017年05月01日
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現在、伊良湖港にいます。これまで順調な航海でした。明日は志摩ヨットハーバーに行く予定です。伊良湖は3回目の入港でしたが素晴らしいジョギングコースがあることを初めて発見しました。海岸沿いにハイキングコースがあって雄大な自然を楽しみながらジョギングできます。また、勝浦港と副田港で偶然に航海中のヨットと合流し一緒に酒を飲みました。尚、二人とも銚子ヨットハーバー所属でした。ところで銚子では地元ヨットマンに何かとお世話いただき感謝です。今まで寄った港は鹿島、銚子、勝浦、大島、妻良、福田、伊良湖です。尚、タブレットに変えてから画像の取り込みができなくて残念です。また、冷蔵庫と電子レンジが故障で難儀しています。
2017年04月25日
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長年、少なくとも5年はインペラの交換はしていなかったのですが、あけてみるとビックリ、6枚のうち3枚の羽根部分が欠落していました。それでも吸水はしていたのですからビックリ仰天です。これからは毎年点検をしなければならないでしょう。
2017年03月25日
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ヨットの上架を3月22日前後にする予定です。その後、四国一周の旅に出航予定。6月下旬帰港予定です。限りなく天国に近い御年71歳ですので、むさぼるように海を楽しみたいと思っています。ブログはタブレットに変えてから画像の取り込みが中々難しいので今の予定では航海中はブログは書かない予定です。尚、今年の3月にkindleから本を電子出版しました。タイトルは「般若心経を解体します」ですが、関心のある方は読んでみてください。さてはコマーシャルのためにブログを更新したな!と思われるでしょうが、そのとおりです。kindle会員の方は無料で読めます。以外の方は税込み100円です。ジュース一杯分で人生バラ色になりますよ(^◇^)
2017年03月11日
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先のブログで般若心経に関連して、五蘊について後日伝えると約束をしましたので、以下のとおり整理したいと思います。バラモン聖典では万物が16の構成要素になっており、それが4つに分類(元素、知覚器官、行為器官、思考器官)されています。仏教では万物が五蘊(色、受、想、行、識)に分類され人間の身体の構成要素とも説明されていますが、バラモン聖典の4つ分類と仏教の5つの分類はそれぞれに意味が対応しています。これを表に整理すると以下のとおり。 バラモン聖典 仏教 人間に例えると 船に例えると ↓ ↓ ↓ ↓ 素粒子(5) 色 身体 船体 知覚器官(5) 受 五感 レーダーやGPSのアンテナ 想 表象(象を表す) レーダーやGPSのモニター 行為器官(5) 行 運動能力・意欲・欲望 エンジンの推進力・ヘルム 思考器官(1) 識 総合調整・自律神経 自動操舵装置 これを見るとバラモン聖典の知覚器官が仏教の受と想に分かれていることが分かります。それぞれの項目の意味は上記の表のとおり人間と船に例えて説明すると分かりやすいと思います。私はヨットマンなのでバラモン聖典の4つの分類の方が現実的に感じます。船乗りはレーダーのアンテナとモニターは分離しないで一つに考えるのが一般的だからです。仏教の場合は何でも5つに分類してしまう傾向(例えば5戒)があるのでこのようになったのかもしれません。 そもそも、万物は現象界(宇宙)を意味するものと考えるのが過去の伝統的解釈ですが、釈迦は宇宙の構成要素を説明する際に人間の体に例えて説明したのではないでしょうか。何故なら宇宙も人間も生命体と考えるならば、一番身近な生命体は人間ですから人間に例えて説明すれば分かりやすくなるからです。それがいつのまにか五蘊は人間をも表すものとして定着した可能性があります。もしも釈迦がヨット乗りだったら船で説明したかもしれません。私から見れば船で説明した方が分かり安いと思うからです。だとすれば五蘊は結果的に船を意味することになっていたかもしれませんね(^_-)。しかし元々の意味は万物(現象界)の意味が正解です。般若心経に出てくる五蘊はまさに万物(現象界)と考えるべきです。そうでないと般若心経自体が深みのない経典になってしまいます。さてバラモン聖典では万物が16の構成要素になっていると言っていますが、この16の数字に聞き憶えはないでしょうか?最近16番目のヒックス粒子が観測され16の素粒子が全て発見されたと報じられ、発見者がノーベル賞を受賞しています。最新の科学でも万物は16の素粒子で構成されているというのが常識になっているのです。しかし3000年も前に既に同じことが聖典に書かれているのです。しかも素粒子という言葉まで使っているのですから驚きです。これを偶然の一致と考えるか「何かある」と考えるのか、それは皆さんの自由です。
2016年09月07日
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般若心経は超有名な経典です。大般若経600巻を276文字に凝縮したとされるものですが、その中に秘められたものは、結果的に文字通り秘められたままになっているのではないでしょうか。秘められたものに少しでも光をあてるために私が独断と偏見を持って恥じらいも外聞も捨てて般若心経の改造を試みました。なんと恐れ多いことでしょう。これも言論出版自由のなせるわざです。(^_-)-☆まず般若心経は超省略の経典ではあるにもかかわらず、意外と説明が重複したり、余計な説明をしたり、余計な形容詞が多いのです。そして肝心の説明が抜けていて、欠点が多いように思われるのです。結果的に私が改造した般若心経は超省略経となりました。以下が私の改造般若心経です。五蘊皆空 三仏無相 個我虚仮 羯諦 羯諦 波羅 羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶これだけになってしまいました。たったこれだけであれば誰しもが憶えて唱えることができるでしょう。それでは、これまでになった経緯を説明します。まず最初の摩訶般若波羅蜜多心経これは般若心経が「悟りを開く智慧"の真髄」であることを強調している形容詞で真理の内容ではありません。なので、いらないと思います。カット。観自在菩薩 行深 般若 波羅蜜多 時観音菩薩の概念は大乗仏教にしかありません。宗教学者によると「大乗仏教の経典は観音菩薩が釈迦の一番弟子であった舎利子に対して講釈を垂れる形のものが多く、これは観音菩薩を大乗仏教とし、舎利子を小乗仏教と見立て、大乗仏教の優位性を強調しようとしている。これは大乗仏教の小乗仏教に対するコンプレックスの表れである」と説明しています。般若心経も「同じ穴のムジナ」ということでしょうか。いずれにしても誰が、いつ、誰に、講釈を垂れたなど、真理の説明とは関係ありませんし、ましてコンプレックスであるとすれば般若心経に残すことはできません。故にカット。照見五蘊皆空 度一切苦厄。般若心経の中で一番光っているのが「五蘊皆空」だと思います。五蘊というのはバラモン聖典から派生しているもので,ここでの説明は長くなるので近日中に日記に載せたいと思います。ここでは五蘊を現象世界(物質の世界)と解釈してください。これは聖徳太子が辞世の言葉として残した「世間虚仮」と同じ意味です。つまり、この部分は「我々の住む現象世界が幻想であることを悟ると一切の苦しみは無くなる」と説明しています。現象世界が幻想であることは古代インド哲学の基本になっています。仏教は古代インド哲学の系統ですので、その哲学はしっかりと残っているということです。従って、五蘊皆空は残し、「照見」と「度 一切 苦厄」は「くどい」ので削除します。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。さきほど説明したように小乗仏教代表の舎利子に対して観音菩薩が講釈を垂れています。この部分の説明は五蘊皆空の説明と重複しています。五蘊というのは色・受・想・行・識の五つのことですので、五蘊皆空と説明すれば色・受・想・行・識が全て空であることを説明したことになるのですが、又同じことを個々に説明しているのです。これは明らかに無駄な説明です。従ってカット。舎利子。是 諸法 空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。又、舎利子の登場です。最初に全てが空であるとして、生まれるも滅するもない、汚いも浄いもない、増えるも減るもないと説明しています。この「不生不滅、不垢不浄、不増不減」というのは仏の世界が無相の世界であることを説明しようとする作者の意図が感じられます。しかしこれだけで仏の世界が無相であるという説明にはなりません。もっと直接的に説明したほうが良いと考えます。従って、ここは三仏無相に変えます。つまり過去現在未来に渡って存在する仏の世界は無相であるということです。ここで仏の世界が無相であることについて若干の説明をしておかなければならないでしょう。つまり無相というのは比較するものが無いということです。仏の世界は美しいものしかないと言えば分かりやすいかもしれません。この比較するものが無いという概念は比較するものが満ち溢れている我々の世界では理解されないことかもしれませんがバラモン聖典の時代から執拗に説かれている真理で、仏教では仏の世界が無相で現象界は差別相であると区分して説明されています。ところで現象界でも無相は経験できます。宇宙空間においては上下の概念は無相になっています。無重力の世界では上も下も無いのです。従って何等かの条件が変われば無相の世界はあるかも知れないという気持ちだけは持ちましょう。さて、「五蘊皆空」という言葉の中で現象世界が幻想であることを説明し、さらに仏の世界が無相であると説明して、それ故に全てが空であるというのが般若心経の本意であると思うのですが、説明している文面では順序が逆になっているし、言葉の使い方にも疑問を感じます。最初の「全てが空である」という説明の後に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」が出てきてきますが、これでは順序が逆です。結論は、ここの部分は三仏無相だけにします。以外はカット。是故空中(前の文章「是諸法空相」と説明が重複しています)無 色、無 受・想・行・識(仏教の重要教義である「五蘊」が無いと説明しています)無 眼・耳・鼻・舌・身・意、無 色・声・香・味・触・法(仏教の重要教義である「一二処」が無いと説明しています)無 眼界、乃至、無 意識界(仏教の重要教義である「一八界」が無いと説明しています)無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽(仏教の重要教義である「一二縁起」が無いと説明しています)無 苦・集・滅・道(仏教の重要教義である「四諦」が無いと説明しています)この部分が大きな問題なのです。仏教の重要な教義(文字の色が違う部分)を全て列挙し、それを無いとして否定しているのです。文面通りであるならば般若心経は仏教界から追放しなければならないでしょう。しかしこのことについて宗教学者は次のように述べています。「この部分は仏教の教義を否定しているのではなく、小乗仏教に対しての批判である」としています。これを私流に平たく説明すると以下のとおりになります。「あのさあー、君たち小乗仏教の皆さんは釈迦の教えをクソマジメに勉強しているよね。勉強することは結構だけどー、大衆のことを無視して自分たちが悟りを得ることしか考えてないじゃないか。それは無いよ」ということです。つまりこの部分は文面のとおりであれば仏教界から追放。善意に解釈して小乗仏教への批判だとすれば「愚痴」ということになります。従ってこの部分は般若心経から削除する方が般若心経自身にとってベターです。この部分を一字一句解説している本を時々見受けられますがナンセンスです。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。この部分は「小乗仏教では、教えを知ることもなく、悟りを得ることもできません。何も得ることはできないのです。しかし大乗仏教では悟りを開くことができるので心に障りがなく恐怖を感じず、一切の迷いから離れて安らぎの極致へと到ることができるのです。」と説明しています。文面では大乗仏教という言葉はないのですが、大乗仏教の代表格の菩薩が悟りを開いたとして大乗仏教においてしか悟りを開くことができないと強調しているように見えます。この部分はあからさまに小乗仏教への批判となっているのです。宗教学者の間では般若心経は小乗仏教への批判書であるというのが通説です。いずれにしてもこの部分は「大人げない」ので削除します。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。この部分は「菩薩だけでなく、過去、現在、未来に渡って存在する仏もこの知恵(大乗仏教の知恵)によって、完全なる悟りを開かれました。」と説明しています。これも大乗仏教の優位性を強調している部分なので削除します。故知、般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒、能除一切苦、真実不虚。 これは「これから伝えるマントラは霊力があり、この上ないマントラであり、他に並ぶものがありません。このマントラは一切の苦しみを取り除き、真実にして虚しいところがありません。」と説明しています。これはあまりにも大袈裟で気張りすぎの宣伝になっているので、般若心経に残すことに躊躇を覚えます。従って削除します。故説、般若 波羅蜜多 咒。即 説咒 曰、これは「悟りを開く智慧のマントラを伝えましょう。さあ、これこそが究極のマントラである」と再度、前置きしています。この部分はパレードが始まる前に小太鼓をたたいて先兵が行進する形と似ています。真理の説明とは程遠い文面なので削除してもいいでしょう。次に鳴り物入りでマントラが登場します。羯諦 羯諦 波羅 羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶これは私も最高のマントラであると思っています。その理由を説明する前に、言葉の意味を説明します。このマントラはサンスクリット語をそのまま音写したもので漢字に意味があるのではなくサンスクリット語の言葉に意味があります。訳しますと。羯諦(ガテー) 悟りました羯諦(ガテー) 悟りました波羅(パーラ) 真理を羯諦(ガテー) 悟りました波羅(パーラ) 真理を僧(サン) 本当に羯諦(ガテー) 悟りました菩提薩婆訶(ボーディ、スヴァーハー) 感謝いたします。実に単純なマントラですが、ここには宇宙真理が秘められています。「引き入れの法」というものがあって「願い」ではなく現在完了形で想念を宇宙に何度も発信すると、そのとおりになるというのです。例えば「お金持ちになりたい」と宇宙に発信すると、今現在はお金持ちでないことを宇宙に発信することになるので、いつまでたってもお金持ちになれないというのです。「悟りを得たい」と宇宙に発信すると今現在が悟りの境地でないことを宇宙に発信することになるので、そのまま、いつまでたっても悟りは得られないことになる訳です。だから感謝の気持ちを込めて「悟りました」と発信しなさいということです。人間の最高の目的は「悟り」だと思います。とすればこのマントラは最高のマントラということになりませんか?。従ってこの部分は般若心経に絶対に残すべきでしょう。さて般若心経に肝心の重要仏教哲学が一つ欠落しています。それは「無我」です。バラモン聖典においては普遍我(ブラフマン)と個我(アートマン)は同じものであり、個我の自我意識は錯覚であるとしています。錯覚ですから無いと言えば無いのですが、その錯覚が無ければ「私はあなたを愛する」というステージが生まれません。従って普遍我の愛を表現するために、自我意識の錯覚は必要なものであるとしています。それが仏教では無我の哲学として継承されているようですが。この般若心経では、何も記述がありません。従って「個我虚仮」を追加させていただきます。般若心経経典の最後にある文字ですが、これは敬具の意味でしょうから削除しましょう。さて最終の改造(解体?)般若心経を再度登場させていただきます。般若心経に敬意を表して出来るだけ本文を残そうと努力しましたが、残ったのは五蘊皆空と羯諦 羯諦 波羅 羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶だけでした。五蘊皆空 三仏無相 個我虚仮 羯諦 羯諦 波羅 羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶「現象界が幻想であることを念じ、仏の世界は無相であることを念じ、自我意識は錯覚であることを念じ、生きとし生けるものの幸せを念じつつ、感謝の心を込めて、マントラを唱える」これに尽きると思うのですが、いかがでしょうか?私はこのマントラをジョギングの時に唱えています。100万回マントラを唱えると悟りの境地になれると伝えられていますが、実際100万回唱えた人がいて、結局悟りには至らなかったとのこと。私の場合は計算すると75歳頃で100万回に達しますが、おそらく75歳過ぎても、「スケベ」で「飲んだくれ」の「おじいちゃん」のままでいることは確かでしょう。尚、何故、大乗仏教が執拗に小乗仏教に優位性を示そうとするのか?それには理由があります。それは後日をお楽しみに。長い時間の精読ありがとうございました。般若心経の原文(参考)【全文】摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多咒。即説咒曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経
2016年08月26日
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昨日、釜石に着いて本日朝早く宮古に向けて出航準備をしていたところ、ラダーを動かすと異常な音が出ることに気が付きました。特にラダーに力がかかっているようではありませんが、気になってクルージングどころではないので、石巻に戻る決心をしました。潜って点検の上、来年4月の上架の際に完璧に修理しましょう。今日の航海では特に音が出ないのですが、港について大きくラダーを動かすと、やはり音が出ます。気にしながらのクルージングは面白くありません。特に梅雨時期の航海はミステークだったかもしれません。雨と濃霧の連続で快適セーリングはまったくなし。 さて話は変わりますが、藻対策のためペラにガードを付けたのですが、これは成功だったと思っています。まず艇速が落ちるのが心配だったのですが、実感として落ちたようには感じられません。おそらく整流効果かスロットル効果で相殺されているのではないかと思います。(あくまで推測ですが)藻が絡んだ場合にどのような影響があるのか意外と知られていない可能性がありますので、私の経験したことで情報提供しておきます。まず3段階があるのです。大きな藻が絡んだ場合は船が振動して、とても走れる状態ではありません。次に中くらいの藻ではオートパイロットが機能しなくなります。これは意外と理解されていないかもしれませんが、船のシャフトの回転には一軸右回りと左回りがありますが、これによって船はどちらかに曲がろうとしますが、それをオートパイロットが制御しているのですが、大きな藻がからむと、どちらか曲がる力が強くなりオートパイロットが制御できなくなるのです。最初はオートパイロットに問題があると思ってメーカーに送って点検してもらったことがあります。結果は異常なしでした。メーカー側もこのことが分かっていない可能性があります。次に、小さい藻の場合は艇速が落ちるだけですが、場合によっては1ノットから2ノットは落ちます。これら3段階は私は全て経験しました。さてペラのガードを付けても藻が絡む場合もあるでしょうが、大事にはいたりません。なぜなら藻がシャフトと一緒に回る半径はペラガードによって小さくなるので、上記の1番と2番の深刻な問題は発生しないと思っています。だだ、ロープが絡んだ場合はペラガード自体が壊れて深刻な問題になる可能性がありますが、そもそもペラガードを潜り抜けてシャフトに絡む可能性はほとんどないと思っていいのではないでしょうか。ちなみに15万くらいの値段でロープと藻の兼用カッターが売られていますが、藻はシャフトと一緒に回りますから切れないと思います。私のペラガードは特注で15万程度でした。クルージング派の方にお勧めです。漂流物が多い日本沿岸でペラとシャフトを剥き出しにして走るのはクルージングではなくクレイジングと言われる時代がくるかもしれません。本州一周の航海で外洋で潜った経験は10回ありました。サメが多くなっている海で潜るのは本当に死ぬ思いでした。以上参考まで。
2016年07月09日
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昨日は田代島に停泊。朝早く5時に出発です。雨で南風が強い予報でしたので迷ったのですが、次の日はやや強い北西の上りになってしまうので思い切って出航。途中思ったことは「出るべきではなかった」でした。デイクルージングの時は絶対出ない海況でした。波が高く、真追手のためダッチロールしながらの機帆走です。着いて思ったことは「出てよかった」です。男心は180°変わります。気仙沼の大島には親戚がいるのでお風呂と軽く一杯(いっぱい)ごちそうになりました。明日も気仙沼でしょう。田代島では岸壁のヨットに7匹集まってきて餌ねだりです。図々しいのはヨットに乗り込んできます。写真を写したのですがうまくアップロードできませんでした。タブレットでは初めてのブログ書き込みでしたので機械音痴の私ではまだ駄目のようです。
2016年07月06日
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60歳代では最高で3位でしたので一歩前進です。次回は優勝を狙います。目標は100歳代マスターズ世界チャンピオンです。(^_-) 1位になった人は前回優勝者でした。マークしてゴール前500mまでは後ろについていたのですが、最後は50mほど離されてしまいました。それでも大満足です。体力はまだまだ大丈夫です。つまりヨットもまだまだ乗れるということですから嬉しい限りです。これからが青春です。(^◇^)写真は2位のトロフィーを持つ私です。
2016年05月03日
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縁起の法の原点を探って見ると、12縁起が霞んでしまいます。中村元さん(1999年没、インド哲学と仏教哲学の世界的権威者、文化勲章受賞)の著作の中に新たな発見がありました。私はブログに12縁起の仮説を載せていますが、これが結構ヒットしていて常にランキング上位になっていますが、その仮説の一部は取り下げなければならないでしょう。まず縁起の法の原点は12ではなく、3であるということです。原始仏教ではこの3つしか説かれていないのです。12になったのは後々の仏教の教義学者が作り上げた可能性が高いとされています。原点の縁起の法は 無明→執著→苦 この3つしかないのです。これを私流に分かりやすく(?)説明すると。我々人間(神の分魂?)は真理を知らない状態にある。(これが無明)。その真理と何か?それは以下のとおり(出ました!私の悪いクセ) 仏(神でも結構)の世界は無相であること(比較するものがない。美しいものしかなく汚いものはない。般若心経の「不垢不浄不増不減」はこのことを説明している可能性が高い。現象世界は逆の差別相の世界)さて仏の世界は愛、永遠、一つがキーワードです。しかし比較するものがない(無相)世界ではこの3つを認識することも感動することができません。(病気を経験しないと健康であることに感動できないのと同じ)仏の世界は無感動の世界と言ってもいいかもしれません。さてどうしたら自分自身(仏自身)の持つ本質(愛、永遠、一つ)に感動できるでしょうか?答えは一つ。その本質と比較するものがある世界(宇宙)を創って仏(自分)の分魂を送り出してやることです。その本質と比較するもの(苦、生死、複数)は元々、仏の世界にはないものだから幻想として宇宙に用意する(?)のです。それは自分自身を知り、感動させるために用意した幻想の善意の網と言っていいでしょう。しかし何も知らされていない(臨場感を出すために敢えて教えない)分魂は幻想の善意の網を本物の悪意の網と受け止めてガンジガラメ(これが執著、サンスクリット語ではupadhiで元々の意味はガンジガラメですが執著と漢訳されています)になって実際に苦しむ結果となってしまうのです。さて釈迦はこの法を説く時に、「縁って起きる」と説明しただけのようです。つまり無明に縁って執著が起きる。執著に縁って苦しみが起きると説明しただけですが、後の教義学者が勝手に縁起の法と名付けたのが実態のようです。しかも12まで増やして複雑怪奇に内容を変えて「ありがたみ」(?)を捻出したのが実態ということのようです。この3つだけの縁起の法であればスッキリしませんか?つまり本当の縁起の法は、この3つですから、我々も原点に帰るべきではないでしょうか?さて、じゃーどうすればいいの?ということですが、釈迦は無明を無くすことに縁って執著が無くなることが起きる。執著が無くなることに縁って苦しみが無くなるということが起きる。と説明しています。つまり無無明→無執著→無苦これが縁起の法の逆観と言われています。前述の縁起の法が順観です。さてさて、まだ続きがあるのです。釈迦は縁起の法を説明してから、縁起の法の欠点に気が付いたようです。つまり無明を無くせば良いと言っているのですが、無明を無くすには、どうしたら良いのか説明していないのです。そこで、再度、同じことを欠点を補って説明したのが四諦です。苦→集→滅→道 これが四諦ですが、縁起の法の逆から同じことを説明しているのです。私流に説明しましょう。大阪弁でいきましょう。(朝ドラの影響?)(苦)皆さん苦しんでますね。ご愁傷さまですー。(集)何故だかわかりますか?それはね、あなた達はホンマのことが分かっていないからなんどす。私が用意した善意の網を悪意の網と勝手に思っているんですよ。苦しみなんて嘘なんどす。死ぬなんて嘘なんどす。いっぱい人がいるように見えるでしょう。それも嘘なんどす。みんな私自身なんどす。私の一人芝居なんどす。それはね、皆(実は私)に愛に感動して欲しいからなんどす。永遠の命であることに感動して欲しいからなんどす。皆が仲間で兄弟なんどす。皆が元々一つであることに感動して欲しいからなんどす。(滅)網にガンジガラメになっているのはダサイすよ!早うホンマのことを悟って楽にナラニャーアキマヘンデー!(道)さあ、それではホンマのことを悟るにはどうしたら良いのか教えましょう。さて、道について、中村元さんは次のように言っておられます。「結局、仏教の原典の原典を辿っていっても道についての明確な説明は見当たらない」ここまで来て「肩透かし」になってしまいましたね。確かに現在、仏教では道は八正道になっておりますが、これも12縁起と同じで教義学者が作り上げたものであると断定されておられます。やはり自分で考えるしかないのでしょう。皆さんも一緒に考えましょう。ところで私なりに考えたことを本にしてアマゾンキンドルで出版しました。参考にしてください。写真がその表紙です。http://www.amazon.com/dp/B017Z6CMV6
2015年11月15日
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しばらく膝の故障でジョギングはしていませんでしたが、毎日、自転車漕ぎをして体力の温存はしていました。天気も良かったので、大好きな田代島のジョギングロードを走ってみました。膝を気にしながらの3ヶ月ぶりのジョギングでしたが、素晴らしかったです。膝も何ともありませんでした。とにかく空気がおいしい!島のマイナスイオンがおいしい!景色がおいしい!島の霊気がおいしい!何度走っても飽きないコースです。 二斗田港の整備は最近完成したようで、完全に元の状態に復活しました。又、ここにヨットが集まってくるでしょう。停泊したひまわり号と一緒に港の現況を紹介します。
2015年05月02日
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八戸港を午前5時に出航。しばらく振りに濃霧は晴れて視界良好。2人なので疲れは半分になるはずです。前日Kさんに居酒屋で話したのですが。2人になると事故の確率は高くなる。それは相手がちゃんとやってくれるものと期待するからだ。その相手は任されたとは思わずに、逆に相手がちゃんとやってくれると思ってしまう。それが事故につながる。ただ、何があっても助かる確率は2人の方が高くなるから2人のほうが良い。こう話したのだが、この予言(?)は的中した。事故は起きた。停泊していた漁船に衝突したのだ。金華山水道を抜けるところから自然とKさんが操船するようになり、私も明確に「頼む」という意思表示しないまま経過してしまった。それは私のミステークであった。心の中では任せたつもりだったが、口に出さなかったのだ。しかもKさんは任されたという意識は無いからクルーとして気軽な気持ちでいたのだろう。それが事故を生んだ。私は帰り支度のため船内で作業をしていたら、ものすごい衝撃でヨットは漁船に衝突。デッキにいたKさんが眠ってしまったのだ。全ては艇長である私の責任である。「後悔先に立たず」「高名の木登り」の格言がそのまま当てはまります。これまで無事に航海してきたのに最後の行程で、しかも石巻港を、すぐ前にして事故が起きたことは非常に残念ですが仕方ありません。反省をして今後に繋げたいと思います。石巻港には午前11時到着。総じて今回の3ヶ月の航海は2度目でもあり非常に気も楽で、楽しく過ごすことができました。最高レベルに精神的リフレッシュがありました。航海を見守ってくれた方々に心からお礼を申し上げます。来年は沖縄を往路して、2年目は沖縄復路、3年目は北海道、4年目は本州一周の4年サイクルで体とヨットの状態が許す限り日本周遊を続けていきたいと思っております。長い間ありがとうございました。写真は衝突したバウ。スタンション、ファーラーは取替えしなければならないかもしれません。船首にクッションがあったためリギン関係の致命的な損傷はありませんでした。それが不幸中の幸いです。
2014年07月04日
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白糠港を午前5時に出航。濃霧で20、30mの視界しかない中でした。途中視界がやや良くなることがありましたが結局、陸は全く見えないまま午前11時半に八戸港に到着。今日も風はほとんど無し。しかし何故か波は高かった。ここ2、3日の風の名残だろうか。白糠港ではお風呂に3回入りましたが、遠いのが欠点。片道8kもあります。しかも坂が多く、歩かないと進めないところが2箇所もあります。時間にして40分もかかるのです。それでもお風呂に入りたくなるのはストレス解消には最高だからです。今回のように一人で4日間も同じ所に居ると気が滅入ってきます。私の場合は読書、ジョギング、お風呂、アルコール、グッスリープのサイクルがありますから、まだ良いのですが、何もしない人にとっては天気が悪い中(一度も晴れなかった)4日間(4泊5日)も居たらストレスは最高潮になるでしょう。ところで白糠港ではなく隣の泊港に停泊すればお風呂は近くなります。最初からそうすれば良かったのですが結果論です。泊港の情報が全くありませんでした。港湾案内にも載っていません。明日7月1日は直接石巻を目指します。夜を徹しての航海です。30時間は覚悟しなければなりません。石巻からKさんが来て一緒に乗る予定。Kさんは私と同じでジョギングとヨットを趣味にしている方で、つい最近サブフォーの仲間入りをしました。サブフォーというのはフルマラソンを4時間切ったランナーの称号です。私も7年前にサブフォーになりました。(石垣島マラソン)ちなみにサブスリーが3時間を切ったランナー、2時間10分を切るとサブテンとなります。所詮人間は俗物で肩書きが欲しいのは世の常、人の常です。ヨット界でも日本一周した人に何らかの称号を与えても良いのではないかとフト思います。皆さんも考えてみてください。「アラウンドジャパンヨッティ」約して「アラジャヨッティ」あんまりピンときませんね。やめときましょう。写真は八戸港に停泊する向日葵号、金毘羅丸(不動)はクルージングヨットの専用桟橋になっています。
2014年06月30日
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白糠港は7年前とは全く様相が変わっていました。航海途中でお会いしたヨットマンに聞いて分かってはいたのですが、かなりガッチリした造りになっていました。岸壁の上にさらに5m程の防波堤を、かさ上げしており海は全く見えません。これなら台風が来ても安心して停泊できます。港全体はまだ完成しておらず、完成予定図が掲示されていましたので下の写真で紹介します。私は一番右下のところに停泊しました。下風呂でお会いしたユニークヨットのNさんに電話したところ、私が経験した7ノットの潮のところ(大間岬)に挑戦したそうですが、全速でも船が押し戻されて、結局撤退して又同じ下風呂港に戻ったそうです。ここは大回りするか、陸側ギリギリ数メートルのところを通るしかないようです。昨日の航海の時に濃霧だったので回転灯を点灯しようとしてカバーを取ったら回転灯がすでに回っていました。スウィッチ盤を見たら電源ONになっていたので、今度の航海中は回転灯が回りっぱなしになっていたことになります。回転灯さん!ご苦労様でした。電気冷蔵庫を常にまわす関係上、航海中は夜も昼も電源を入れっぱなしにしていますが、それでも電気不足にならないのは、やはり風力発電(75w)とソーラー(45w)の両方が効いているようです。明日もあさっても風が強そうなので、しばらくここにいるかもしれません。お風呂があることを今日聞いたので安心です。
2014年06月27日
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下風呂港を5時半に出港。濃霧で全く何も見えない状態で出航です。視界は20m~30mで手さぐりの航海です。勿論GPSとレーダーに「オンブにダッコ」です。風は又もや凪で機帆走しかありませんでした。白糠港に着いたのは午後1時です。予想外に時間がかかりましたが、これは逆潮(2ノット位?)だったから。下風呂港を出てから白糠港まで陸は全く見ることはありませんでした。途中漁船の影がボンヤリ見えただけです。昨夜のことですが、下風呂港には温泉街があり温泉の銭湯もあります。古びた銭湯でしたが、硫黄の臭いがあると温泉らしさを感じます。ゆっくりできました。ジョギングコースは海が見える道路はあっても歩道がないため走りにくい。イマイチでした。下風呂港にはヨットの先客がいて、懇談をすることになりました。最初はヨットが居ることは分からなかったのですが、八戸のMさんと停泊場所の確認をしたら居ることが分かり私の方から訪問することに相成ったということです。76歳になる人で横浜から反時計回りで日本一周をする予定とのこと。石巻にも寄ったそうです。石巻は岸壁工事の真っ最中で停泊する場所はほとんど無かったはずですが、よく地元以外の人が場所を見つけて停泊したものだと感心しました。世の中は狭いもので、私の船の前オーナーと知り合い(以前同じ泊地)で私のヨットで何回も酒を飲んだそうです。私の船を見て「懐かしい」と連発していました。写真はそのNさんのヨットですが、非常に変わった艤装で一見ヨットには見えません。だからその存在も分からなかったということです。
2014年06月26日
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小泊港を4時半に出航。下風呂まで96kもあるので早めの出航です。海は今日も全くの凪でメインのみの機帆走しかありません。途中、海流2、3ノットの海流に乗って快調に走っていましたが、下北半島をかわすところでは海流が何と7ノットになり、海面は、ざわめきながら渦をまくようになりました。ヨットは左右に振られて翻弄される状態でした。海の中に音を立て白波を見せているところがあり、まるで海の中を川が流れているような感じでした。このような光景は44年間の海の経験の中では最高レベルのものです。この海域は反対方向の航海はヨットでは絶対できないでしょう。艇速は12.5ノットを記録しました。私の船は通常5.5ノット(2500回転)でしか走れませんから差し引き7ノットが海流ということになります。海流のおかげで下風呂に着いたのは非常に早く12時でした。昨日の小泊港のことですが、近くにお風呂もスーパーもあり便利です。又ジョギングコースも私好みのところもあり気に入りました。
2014年06月25日
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深浦港を午前5時出航。全くの凪で穏やかな海でした。小泊港に着いたのは12時。小泊までは65kと近いのでエンジンの回転数を落として、のんびりと走りました。これで日本海の航海は終了です。下関から小泊までの日本海の航海は天候に恵まれて大変順調でした。下関から酒田まで2週間で来たのですから出来過ぎです。しかも石巻に帰った2週間は荒れたのですが私が航海した期間は高気圧に覆われて絶好のコンディションだったのです。ラッキーでした。日頃の行いが良いからでしょう(~_~)。これからの太平洋の航海もこの調子であることを期待します。昨夜は「みのり温泉」が月曜日で定休日だったので深浦観光ホテルの日帰り温泉に入りました。最初はあきらめてヨットのシャワーで我慢しようと思ったのですが、偶然日帰り温泉があることを教えてくれる人がいたのです。しかも「みのり温泉」は露天風呂がないのですが深浦観光ホテルはありました。400円でした。写真は「北のハズレたっぴ岬」日本列島は海から見ると全部絶景です。
2014年06月24日
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戸賀港を午前5時出港。曇りで小雨が時々降る天候でした。気分は冴えません。風はフリーの順風で途中までは順調な航海でしたが、丁度半分の行程の時に突然エンジンが悲鳴を上げた。何かが絡んでエンジンが止まりそうになったのだ。すぐエンジンをニュートラルにして覘いてみるとロープらしきものが絡んでいた。風は順風でも波は悪い状態だったが潜るしかない。覚悟を決めて潜ってみたところ、やはりロープの塊りが絡んでいた。塊が大きいので中々取れない。鎌を使ってロープを何回にも分けて切り、何とか取り外すことができました。時間にして20分くらいだろうか。北国なので水は冷たかった。ヨットに上がると震えが止まらない。ガスレンジの火で暖をとり何とか正常になった次第です。その犯人(ロープ)が下の写真です。又別の船に絡むかもしれないので深浦港まで連行(?)しました。私のヨットにはシャフトにロープカッターがついているのですが、このような大きな塊では無理なようだ。ただ一部が切れていたのでシャフトが曲がる最悪の事態は避けることができたようだ。そういう意味でロープカッターがついていて良かったと思う。実際、網が絡んでシャフトが曲がるケースがあることは聞いています。ヨットの一人航海は冒険ではないと思っていたが、やはり冒険と言わざるを得ないかもしれません。何が起きるか分からないからです。深浦港に着いたのは午後2時でした。昨夜は戸賀港で一緒になったHさんと懇談したが、料理店を経営していて店を絶たんでヨットの旅に出たそうです。65歳まで40年間はヨットから全く離れていたそうだ。以前に「ヨットを楽しむ人は絶滅危惧種である」と言ったが、このように復活してくる人もいるとなると訂正しなければならないかもしれない。尚、戸賀港では民宿原田荘でお風呂に入れてくれます。歩いて10分です。
2014年06月23日
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秋田マリーナを午前4時半に出航。戸賀までは40kしかないが10時頃から真向かいの風が強くなる予報だったので早めに出発した。やはり戸賀の入り口近辺になるとスプレーの洗礼を受ける程の風になっていた。到着したのは午前8時10分。こんなに早く港に着いたのは初めてである。昨日の夕方は9kのジョギングをしたが、コースが素晴らしい。前回も走っていたので味をシメているのだ。海岸沿いの自転車ロードで海風を体に受けて海を眺めながらジョギングできる。これに勝る楽しみはない。夢にまで見るのだから、よっぽど私は好きなのだろう。秋田マリーナに来る理由の一つがこれである。ジョギングの後はマリーナの車を借りて温泉に直行。250円にしてはサウナがあるなど設備が立派である。体が芯から気持ちが良い。久々の気分であった。その後は秋田マリーナで一緒になったYさんと懇談。Yさんは私と同じコース(本州時計回り一周)でクルージングしている方で舘山ヨットクラブ所属の65歳。24フィートのヨットで頑張っている。エンジンの調子が悪くて上架するとのこと。写真は戸賀港の向日葵号。私が着いた後に、又別の日本一周中のヨットが入港してきた。愛知県のヨットである。
2014年06月22日
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酒田港を朝4時半に出航。秋田まで距離が100kもあるので早めの出発です。午前中はドンヨリとした梅雨空で雨が時々降る中、カッパを着ての操船です。こんな海を好きな人はいないでしょう。私も同じです。早く秋田に着きたい気持ちが先行します。順調に午後2時半に秋田マリーナに到着。マリーナの入り口が7年前とは全く様相が変わっていたので戸惑いましたが、なんとか電話で確認しながらの入港でした。7年間の月日は長いもので、マリーナの従業員は全員入れ替わっていました。浮き桟橋も、かなり老朽化しており、段差があったり、奇妙な音を立てたりしています。私が係留した桟橋は少し斜めに傾いています。ジョギングをしようとしたらお風呂もシャワーも5時で終わりということなので、ジョギングを省略してシャワーを浴び本日は終了。夜はEさんと懇談。秋田のヨットクラブの会長で、前回の日本一周の際にもお世話になった方です。現在秋田では実際に動いているヨットは3艇くらいしかなく、ヨットレースもできない状態になっているそうだ。ヨットを楽しむ人間は、そろそろ絶滅危惧種に入るのかもしれない。写真は秋田マリーナに係留する向日葵号
2014年06月21日
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私のパソコンでは何故かブログのコメントを読むことも書くこともできません。多分windows xpであるためかもしれません。せっかくコメントを書いていただいている方々に常々申し訳なく思っております。今は石巻におりますが、20日頃酒田に向かう予定です。今日は石巻の泊地の浮き桟橋がロープが絡んでハチャメチャになっていたので整理作業をしました。木の枝が絡んでいたのが主たる原因ですが、さらに改良しないと又同じことが起きそうです。本格的な対策はヨットが石巻に着いてからにします。
2014年06月15日
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粟島港を午前4時15分に出港!遅くなれば遅くなるほど途中で何かあった場合に対処ができないからだ。天気も後半に強風になるという予報だ。エンジンは腫れ物に触れるような気持ちで低速回転の航海だ。海も穏やかで追潮だったことも幸いした。酒田港に着いたらAさんが待っていてくれて早速上架した。Aさんは途中から向日葵号をロープで引っ張って回航することも考えていたという。上架のクレーンはヨットハーバー所有で会員以外は2000円の使用料だそうだ。ちなみに会員は500円。プロのエンジン屋さんが来て手際よく修理完了。正味1時間の作業だった。メデタシ!メデタシ!それにしてもAさんには本当にお世話になった。何から何まで手配をしてくれたのだ。感謝感激です。Aさんは馬も飼っており、見せていただいたが白毛の16歳馬だった。私はヨットとジョギングだがヨットと馬の組み合わせも面白い。ヨットと陶芸の組み合わせの人もいたが人生色々ですね。ここのヨットハーバーは環境的に最高です。波、風は完全にシャットアウトされているし、年間停泊料も7、8万と安い上に上架料も年間1回までは無料で2回目から500円になるとのこと。山形や仙台在住の人で、このハーバーにヨットを置いている人もいるそうだ。このハーバーは県が造ったそうですが県によって何故こんなに開きがあるのでしょうね。ところで酒田にヨットを置いて石巻に帰ります。2週間は石巻にいますので、その間ブログはお休みです。写真は酒田港に聳え立つ鳥海山。悠然と姿を現したときは感動した。実に美しい。
2014年06月05日
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小木港を午前4時半に出航。粟島までは111kもあるので超早めの出発です。途中又藻がペラに絡み洋上で潜ることになった。穏やかな海だったので問題はないが、サメがいないとは限らないので覚悟を決めて潜るしかない。実際、洋上で潜っていてサメに襲われて命を亡くしたヨットマンがいるのだ。途中、又、藻が絡んだが、今度は少し速度が遅くなっただけなので、港に着いてから潜ることにした。港に着いて早速潜ったが、新たに問題が発生!プロプラシャフトを支えて鋼鉄製の備品からプラスティク製のベアリンングが、ずれ落ちていたのだ。押したら又入っていったが、又すぐ、ずれ落ちるだろう。上架して直すしか手はない。幸いジンクリンク(シャフトにつける防蝕亜鉛)でストップされるので短い時間であれば何とかも保つはずだ。しかし緊急を要することに変わりはない。結局、酒田港のAさんと相談して酒田港で上架して修理することにしたが、酒田港までの航海中が心配である。しかし、粟島ではどうにもならないので出航するしかない。同じような経験は7年前にもあったが今回は、エンジンを少しは使えるのでまだ良い。前回は帆走で次の港まで回航したのだ。潜った後、お風呂に行ったが、残念ながら定休日だった。しかたなく海水パンツを履いたままコックピットでお湯を頭から、かぶって御仕舞にした。写真は粟島港の向日葵号
2014年06月05日
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狼煙港を午前5時出港。距離が93kもあるので早めに出発です。最初は濃霧で回りは全く見えない状態でした。定置網があるはずなので常に緊急の舵をきれる状態を保つようにしての航海です。風はほとんど真上りでメイン一枚の搬帆走でした。佐渡島の小木港に着いたのは午後3時半。小木のヨットクラブのゲストバース(?)に停泊。事前に小木のヨットクラブのEさんに連絡していたのだ。ここは7年前にも停泊したことがあり、安心して休める環境です。ただ一つ欠点は「たらい船」の発着所がすぐ近くにあり一日中「佐渡おけさ」の音楽が流れていることだ。でも音楽を聴いていると佐渡に来たという感覚になることはたしかだ。自転車で10分のところに温泉があり7年前に2回も入りに行ったのだが、もう道を忘れていた。年なのかな?小木港には2日くらい滞在するつもりでしたが天気予報を見ると、5日から荒れる予報になっていたので、天気が良いうち足を伸ばした方が良いと判断。明日出航することにした。ヨットクラブのEさんが来てクラブハウス(?)電気と水を使っても良いとのことでしたが結局使わなかった。今年小木港開港100年(?)記念の大きな大会を予定しているそうで30艇ほどのヨットを集めるとのこと。小さいヨットクラブですが頑張っているようです。影ながら応援します。
2014年06月05日
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輪島のマリーナを午前6時半に出航。次の狼煙港は距離にして50kと比較的近いのでエンジンの回転数を下げて、ゆっくり走った。風はほとんどないのでメインセールだけの機帆走である。本日の航海で失敗が2つ。電子海図の暗礁を見逃して、すれすれのところを通過してしまった。後から冷や汗が出た。もう一つは狼煙港に入ってから座礁!砂だったので損傷はなかったがまいりました。エンジンをふかして浚渫するような感じで前に進み脱出した。この狼煙港はインターネットの情報でも紹介されている港ですが、浅いという情報は全くなかったので安心していたのだ。後から猟師さんに聞いたところ港の真ん中辺は浅いので通らないようにしないといけないという。反省!港湾案内には港の中の水深まで書かれているのですが、どういう訳か狼煙港は港湾案内に載っていません。 この港はお風呂もスーパーも何もない!今日はジョギング省略、お風呂省略、しかしアルコールだけは省略できません。一人反省会をしなければならないからです。立派な理由があるのです。 明日は佐渡に渡ります。港を出る際は又座礁しないように気をつけなければなりません。この港はもう2度と来ることはないでしょう。こりごりです。写真は向日葵号に集まるカモメ。一度餌を与えるとワンサカ集まってケタタマシイ声を上げておねだりします。段々には岸壁から向日葵号に降りてくるカモメもいました。退屈しのぎには良いレクレーションです。ここのカモメは種類が違うのか栄養不足なのか分かりませんが地元石巻のカモメよりも小さめです。
2014年06月02日
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金沢港を午前4時45分に出航。輪島まで足を伸ばす関係上早めの出航です。それにこの停泊地は朝の漁船の引き波がまともに入ってくるので早々に退散という意味もあります。順調な航海で思ったよりも早く午後3時に輪島港のマリーンセンターに到着です。ここは最近マリーナとして開業したところで、私のヨットですと1泊で6800円の停泊料になるのですが、町で6800円以上の買い物をして領収証を提出すると無料になるというシステムになっています。それは分かっていたので、今まで買い物を控えてまとめ買いをしたという次第です。しかし、ここのマリーナはまだ完全には整備されておらず、荒れた天気ではとても停泊できる状態ではありません。漁船の引き波もドンドン入ってくるし、担当職員も不慣れでイマイチのマリーナでした。しかし、水をヨットに積む際に担当職員が手伝うなど、誠意はすごく感じられました。(普通のマリーナではここまで職員はしません)早くマリーナとして一人前になるよう祈ります。このマリーナにオーストラリアから来たヨットが停泊していました。一人だと思ったら一匹の猫と一緒です。なつっこい猫で私に擦り寄ってきました。猫は人間が猫を好きかどうか一瞬に判断できるようです。ヨットから降りて散歩してくるなど、粋な猫です。このヨットマンは北海道に渡り、アリュウシャン列島を経てアラスカに渡り、アメリカ大陸の西海岸を南下する計画だそうです。日本語は全然喋れず、私のつたない英語力で何とか話は通じました。それにしても私は本州一周くらいで自己満足している場合じゃないですね。上には上がいるものだと、つくづく思います。写真はマリーナに停泊する2艇
2014年06月02日
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福井港を午前6時に出港!何事もなく午後2時に金沢港に到着。ヨットの先客がいて、夜は交流会となった。世間は狭いもので、祝島でお逢いしたTさんにヨットを「そそのかした」(ヨットを始めるキッカケを作った)人でした。これから祝島にも寄る予定だという。私とは逆のコースで航海しており、今日が最初で最後ということになりそうです。クルーとして乗っている方がおりましたが、私と同じジョギングが趣味で私と同じように訪問地でジョギングをしているとのこと。趣味が同じであるというのは、即、心の繫がりができるようで楽しい「ひととき」を過ごすことができました。岸壁で釣りをしていた若者(多分高校生)3人を見ていたら、シルエットが何とも綺麗だったので写真を撮りたくなりました。釣れなくとも海にいるのが楽しい様子で微笑ましく思ったのです。これから日本を背負っていく若者に幸あれと想いながら撮りました。帰るときに「釣れた?」と声をかけたら「釣れなあ~い」と返事が返ってきましたが、釣るのが目的ではなく海にいるのが楽しいのでしょう。遅い時間だったから家に帰ったら叱られるのかな?
2014年05月31日
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伊根港を出航したのは午前5時。車で送ってもらったKさんとその場でお別れです。又合うことでしょう。次の港は福井!伊根の思い出を背に向日葵号は快晴の若狭湾を爆進する。最近は高気圧が居座っているので天候が安定している。安心して航海できるので助かる。しかも追い風が多いのでラッキーだ。福井に着いたのは午後2時半!たまたま地元のヨットマンがいて舫いの手伝いをしてもらう。心配なことが一つあった。7年前に福井でお世話になった陶芸家のHさんと連絡が取れないのだ。境港の中嶋さんと同じ結末になるのでないかと不安だったのだ。恐る恐る舫いを手伝ってもらったヨットマンに聞いたところ、行方不明で誰も連絡が取れないそうだ。九州の方に居るという噂もあるようで、何故そうなったのか等の詳しい話は聞かないことにした。とにかく亡くなってはいないので、まずは一安心である。福井には良いお風呂がある。夕日を眺めながらお風呂に入れるのだ。灯台の先までジョギングした後、早速入浴!生ビールを飲んでから帰宅(帰船?)&グッスリープ。写真はそのお風呂から見る夕日である。
2014年05月30日
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津居山港を6時半出港。今日も穏やかな海でした。途中うっかりして定置網の中に入ってしまった。定置網は途中3箇所あったが7年前も同じ場所を通過していたはずなので、完全に記憶を失っていたことになる。痴呆のサインだろうか?伊根港に着いたのが午後1時半。次の港は舞鶴の予定だったので、舞鶴在住ヨットマンのHさんに電話してみた。ところが、肺がんで入院治療中だという。何としたことだ。Hさんとは以前に秋田、石巻、舞鶴でお会いしたことがある。ご迷惑をおかけするので残念だが舞鶴港入港の予定は変更することにした。ところが、その後、伊根在住のKさんという人がヨットを訪ねてきた。何と舞鶴のHさんが電話で連絡してくれたのだ。KさんもヨットマンでHさんとは職場(海上自衛隊)も一緒だったそうだ。Kさんは海辺にログハウスを自作しており、そこを海好きの人間の溜まり場にしているのだ。あくまでボランティアの利他精神でやっている。素晴らしい!今日はそのログハウスで海を見ながらKさんと酒を飲みました。大きな開き戸を開けると海が2、3mのところにある。海の中に家が建っている感じで、素晴らしいロケーションだ。夕日を眺めながら飲む酒は格別でした。その夜はKさんの熱い想いを聞かされて議論は大いに盛り上がりました。又是非来たいと言ったら大歓迎だという。その日はそのままログハウスに宿泊。ヨット以外に場所に宿泊したのは今回が初めてである。舞鶴のHさんにはお礼の電話を入れた。そして来年は病気を治して3人一緒にログハウスで飲む提案をしたところ、是非そうしたいとのこと。又一つ楽しみが増えた感じだ。
2014年05月29日
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鳥取港を6時半出港。昨日は大時化だったが今日は一転して「大なぎ」。海はこんなにも表情を変えるものか。昨日は陸から吹く南風だったので沿岸の海は時化のエネルギーが残っておらず静かなのだ。津居山港に着いたのが午後1時半。お風呂は城崎温泉が4kくらいのところにあることは鳥取のNさんから聞いていたのでジョギングの後、自転車で行ってきた。有名な温泉だそうで旅行客も結構いました。途中にも温泉(1kほど)があったのですが本日は火曜日で休みでした。ジョギングコースとしてはイマイチで、短い橋の歩道が一番良かった。そこを何度か行ったり来たり!海を見ながら海風を体に受けて走るのが好きな性分なので、どうしてもそうなる。今日は早く着いたので、ゆっくりできた。できればこれからはそうしたいが、場合によっては長距離もやむを得ない。酒田港にヨットを置いて6月10日までに帰る用事があるので、少し、気があせっています。今の調子だと大丈夫ですが、時化が続くと予断を許さない。写真は津居山港の入り口
2014年05月28日
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七類港を午前6時出航!アビーム(船の横から受ける)の風に乗って快調にひた走る。帆走しているときはペラやシャフトに藻が絡む心配がないので気が楽である。日本海は特に藻が多いのでエンジンをかけている時は神経が休まらない。真面目に考えているのですが今度上架したらペラとシャフトを網で囲う工事をしようと思っている。ヨットの速度は落ちるかもしれないが精神的なメリットは大きいと思う。前回、外洋で潜ったときも、ほんのちょっとの時間、目を離したときなのだ。一人で航海するのであれば必要な工事であると最近は強く感じています。鳥取港に着いたのが午後2時半。Nさんが出迎えてくれた。この地域はヨットの旅人を大事にする風土があって舫いの手伝いを自主的にしてくれるのだ。この連絡網とシステムを構築したのが故中嶋さんだ。彼の偉大なる遺産に感謝!感謝!鳥取港ではコインランドリーに行ったり買い物等に時間をとられ、ジョギングも風呂も省略となった。明日は時化のため出航できないので、ゆっくりしたいと思う。鳥取港の停泊地のすぐ前が港湾事務所になっていて届出を出すことになっている。以前停泊したときは1500円支払いした覚えがあったので財布を持っていったら無料だった。4、5年前から無料にしたそうだ。ヨット関係者からヒンシュクを買い、評判が悪くなったからだそうだ。(地元ヨットマンの話)外洋ヨット12、3艇のハーバーもすぐ傍にあるが、停泊料が年間、7、8万円と比較的安い。前は15、6万だったそうで、行政もかなり努力して妥協してきたようだ。しかもポンツーン用の柱は行政の予算で打ち込みをしたとのこと。地元石巻の行政さん!見習って頂戴!写真は海から見た鳥取砂丘
2014年05月27日
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大社港を6時出航!予定では次の港は境港マリーナでしたが、七類港に変更。理由は会いたいと思っていた境港マリーナの中嶋さんが亡くなったことを昨日電話で知ったからです。昨年、血液の癌で亡くなったとのこと。中嶋さんは7年前に私が境港マリーナに寄った際、大変お世話になった人で、ヨット界の重鎮でした。大震災の時も見舞いの電話まで頂いた方です。歳も私と同じで誕生日も1日違いだったので特に印象深く覚えていたのです。日本一周に出たいと言っていたので、その時は石巻に是非寄って下さいと話していたのですが、儚い夢に終わってしまいました。中嶋さんの分まで私が日本周遊の旅を楽しむことにします。それが私の出来るせめてもの供養です。ご冥福をお祈りします。七類港に着いたのが午後2時でした。私の後に別のヨットが入港。夕方はコックピットで一緒に酒を飲みながら港情報の交換会!私とは逆方向で石川県から岡山県までの航海なので寄った港の最新情報を入手できたということです。七類港は200円で入れるお風呂があるのですが、それ以外は何もない港です、しかし景色は良いし、のんびりできる港でした。
2014年05月25日
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浜田港を6時半に出航!天気予報では強めの向かい風が吹く予報だったので、正直出航をためらったのですが、強風注意報も出ていないこともあったので、ついつい出航してしまいました。やはり波に叩かれて苦労する結果と相成りました。大社港についたのは午後4時半。10時間の航海でした。やはり迷ったときは出航しないことにするのが鉄則です。大社港に着いたら地元の猟師さんに泊めてよい場所を教えていただきました。何しろこの港は初めてなので勝手が分かりません。お風呂はないと聞いたので、今日はジョギングもせず、お風呂も入らず、即、酒飲み体制に入りました。&グッスリープです。写真は大社港の向日葵号
2014年05月24日
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萩港を6時半に出港!浜田港に着いたのが午後3時。安定した追い風で順調な航海でした。浜田港にはNさんという知り合いがいて、今日はNさんの家で食事会をすることになっていました。Nさんは日本一周した際に石巻に立ち寄り偶然お逢いした人です。奥さんの手料理で楽しく過ごさせていただきました。家庭の雰囲気は、しばらく遠ざかっていたので嬉しかったです。Nさんはヨットで釣りをすることも趣味にしており、それが半端でなく市場に出荷するほどの収穫があるそうですが、出荷しないで家で食べる分の米と野菜と物々交換しているとのこと。まさに自給自足の生活をしてわけです。餌も買わず自作の毛針で釣っているそうですが餌の3倍は釣れるとのこと。早速そのノウハウを知りたいので現物を見せて欲しいとお願いしたところ、翌日の朝にわざわざヨットに届けていただきました。ありがとうございます。私も石巻で実践してみたいと思っています。以前から自給自作は私の夢で、現在、家庭菜園はやっておりますが、米は魚と物々交換したいという想いは以前からあったのです。まさか実際にやっている人と巡り合えるとは思ってはいませんでした。
2014年05月24日
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