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誰も語らないようなので、川内康範に触れることにします。あのおじさん、もう88歳だったんですね。自分ら、50年代生まれの男の子は、川内康範の「親衛隊」のようなものなのでしょう。あの月光仮面というのは、独特ですね。みなさん、ご存知ないけれど月光仮面って1年半ぐらいしかテレビで放映していないんです。しかし、最大瞬間視聴率は67%以上あってその時間になるとものの見事に全国どこにいっても銭湯に浸かっているようなガキはいなかった。テレビが、さほど普及していない時代ですからねえ。それは凄かったんですよ。子供に受けすぎて、大人が潰しにかかるというのか非難ごうごうであっというまに放映が終わってしまいましたなあ。パチンコ屋で軍艦マーチよりも、頻繁にかかった時代がありましたよ。月光仮面の唄ね。子供が、なんどもリクエストするんでレコードが磨り減って・・・当時は、パチンコ屋は電蓄だったんです。私は、二つの眼で見届けていますから。とにかく、筋もなにもあったものではないです。テレビに、月光仮面が出てくるともうブラウン管みている子供が、集団ヒステリー起こして騒がしいのなんの。だって、テレビなんて一人でみるというような贅沢な時代じゃないですからねえ。まあ、普通は5人、10人でみるわけです。カッコいいとか、悪いとか。そういう次元じゃあなかったですね。あれは所謂ヒーローものの域を越えていましたよ。だから、後々の仮面ライダーとか、ウルトラマンとかとは少しちがって、まだヒーローもの未体験の、テレビ未体験の地域、家族、村に突然降臨した生き神様みたいなものなんです。それが、よりによって「正義の味方」だというんだから凄いでしょう。あ、あまり理解できないかなあ。だって、正義なんて語彙は、この国の戦後日本では月光仮面と一緒にやってきて不即不離なんです。もともと、この国では「正義感が強い」なんて褒め言葉じゃなくて書生っぽいとか、ガキの親玉みたいないわれ方をされかねない処にいきなりテレビで月光仮面ですからねえ。正義の味方って、みな肌が粟立つぐらい昂奮しちまったわけです。『終末から』には、全国月光仮面共闘(全月共)という高校生などによる集団が蜂起し、権力中枢を制圧して臨時革命政府「月光仮面社会主義共和国」を樹立するという革命シミュレーション小説「月光仮面社会主義共和国建国秘録」も単発で掲載されている。70年代だったかなあ。月光仮面社会主義共和国なんて、与太飛ばす人がでてきて皆クスクス笑っていたけれど関西学院大学が、大学の徽章をそのまま使えるじゃないか、なんて馬鹿話がでてくるほど、月光仮面は学生運動のスタイルにも多少の影響があったのかもしれない。覆面して、サングラスしている中核派とか、革マル派って、テレビで正義の味方を学んだ人たちみたいな思い込みの激しいところが濃厚でしたからねえ。川内康範自身は、月光仮面のモデルは大山倍達だったと週刊誌で述べていました。太平洋戦争が終わった直後で、繁華街というよりもにわかに登場した駅周辺の闇市で人々は飢えを凌ぎ、買い物をして、生活必須資財を調達したわけです。そこに気の荒いアメリカの兵隊さんが、言葉が通じないから騒動が頻発して。紳士的ではない乱暴狼藉が日常茶飯事だったんですってね。そんな中に忽然と現れたのが、喝采を被った空手家。殺されかねないほど拳銃を打ち込まれても、ひるまず空手の手刀で素手。山手線沿線の駅周辺の繁華街で神出鬼没というぐらいの動きで米兵とっちめていたらしい。また、川内康範ってそれを繁華街で何度か目撃したんだそうです。あの唄にある「疾風のようにあらわれて疾風のように去ってゆく」って、ジョークじゃなく当時の大山倍達の日常だったんだそうです。もう、御分かりでしょう?正義の味方って、この国では最初から反米愛国なんですよ。
2008年04月09日
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1945年、7月の今頃のこと。73年前の夏。テニヤン、サイパン島が陥落した。そこからB29原爆搭載機が準備万端整えて乗り込んでくるのだ。そう、あの有名なカトリック神父ジョージ・ザブレッカを同伴して。 (シャルドネ)メモ 》 過去の投稿米軍空軍のカトリック教会であるジョージ・B・ザベルカ(George B. Zabelka)は、1945年に南太平洋のティニアン島に駐留し、509番目のコンポジットグループに就任しました。これは、広島と長崎に原子爆弾( "リトルボーイ"と "ファットマン")を落としたエノラ・ゲイとボクサー(クルマとボックスカーともいう)の乗組員のユニットです。彼の任務には、日曜日と週中のミサ、告白の聴聞会、兵士との話し、そして戦時礼拝堂の他の典型的な任務が含まれていました。しかし、爆撃の結果を見るために私たちのうち3人が長崎への旅をしたが、何の制限もなかったので、生存者がいた最寄りの場所に移動していましたが、私はこのことについて新しい考え方の始まりであっても、私が本当に始めたのは、恐ろしく焼け付いて苦しんで死ぬ小さな子供たちでした。その2〜3ヶ月後だったので、看護師と医者がいましたが、これは胃の中で何かが間違っているのをまったく新しい種類のワームの始まりでした。なぜ彼らは苦しんでいたのですか?この見積もりは、25:40〜26:ザベルカもまた非常に兵士であり、かつては「過度の熱意」のために軍の戒めを受けていた。彼は軍を大佐の大佐と一緒に退去させた。その後、1973年には、福音の非暴力の問題とその意味に焦点を当てた他の教区の司祭と一緒に退去しました。1975年12月頃、彼は「顔について」(完全に回ることを意味する軍用語を使用して)と呼ばれることをしました。ジョージ・ベネディクト・ザベルカ(1915-1992)、1945年にティニアン島の原子爆弾の乗組員であった509回目のコンポジットグループのカトリック牧師は、1915年5月8日にミシガン州セントジョンズで生まれました。 -1957)とKatarina(Zolek、1874-1940)Zabelkaは、父親が軍隊に勤務していたオーストリア - ハンガリーから、第一次世界大戦の前にアメリカに移住したモラヴィアのカトリック者であった。ジョージ・ザベルカは60エーカーの農場で育ち、ミシガン州セントジョンズの1部屋の校舎で小学校に通った。文法学校を卒業して、デトロイトのカトリック教区大聖堂の聖心軽神学校に入学しました。彼はそこで高等学校の教育を修了し、オハイオ州シンシナティのセント・メアリー・カトリック神学校に入学し、大学の学位と神学教育を修了しました。彼は1941年6月7日、ミシガン州ランシング司教区のカトリック司教ヨセフ・H・アルバースによってローマカトリック司祭に任命されました。彼は聖ヨハネのミシガン州セントジョセフ教会で最初のミサを祝った。彼の最初の牧歌的な任務はミシガン州フリントの聖なる教区教会のジョン・ブラスコ教会の補佐牧師でした。彼は1943年12月までその位置にとどまった。赦しの巡礼また、ザベルカとイエズス会の司祭、ジャックモリスは、ベツレヘムの平和巡礼を企画し、組織し、参加しました。これは、神の平和を人類にもたらすために、7,500マイル(米国で4,000人、ヨーロッパで3,500人)の2年間の歩みでした。それはワシントンがワシントン州のバンゴーにある核潜水艦基地を去った1983年に始まり、パレスチナ/イスラエルのベツレヘムで1984年にクリスマスイブに終わった。ザベルカは67歳で、この巡礼を始めた。1985年、Fr. ジョージ・ザベルカは、日本の都市の原爆の40周年を迎え、広島から長崎への巡礼を、自分と教会のための爆撃で傷ついた人々に尋ねる方法として、生命の豊かさ、慈悲の代わりに不幸 "ザベルカは、日本の都市の火事や広島と長崎の原爆投下中に沈黙して、重大な道徳的ミスを犯したことを認め、オーストラリア人の民謡であるピーター・カーニーは、アメリカの世俗的または宗教的なラジオ局やネットワークで演奏されたことはありませんが、「My Name is George Zabelka」は世界中で何千万も聞いています。1988年、ザベルカの人生と転換の話を伝える長編ドキュメンタリーが英国で発表されました。""不信心な預言者 "は世界中で見られており、今日まで、多くの地方の教会の宗教教育授業や地方の平和と正義のプログラムで使用されています。しかし、今日まで、それは米国の公的または私的な世俗テレビでも、米国でも見られていません キリスト教のテレビネットワーク。カトリックの神権に任命された第50代記念日を祝う1991年の大集会で、彼の家事の中で、ザベルカ氏は、「私はカトリックの聖書を見た。私はプロテスタント聖書を見ました。私は正教会の聖書を見ました。そして、それらのすべての1つで、それは不確実な用語ではなかった。イエス様は「あなたの敵を愛してください」と言っています。メモ 》ミゲル・デスコト・ブロックマン第63回国連総会議長あいさつ広島、2009年8月6日親愛なる兄弟の皆さん、 私は、世界がかつて目にしたなかで最大の残虐行為を想起する、この最も厳粛な機会を皆様と共に過ごすことを光栄に思い、また深く心を動かされています。 本日、私は国連総会議長としてだけでなく、個人的な立場からも、この場に臨席しています。 ローマ・カトリック教会の神父及びナザレのイエスの弟子として、宿命的なB-29エノラ・ゲイ号の故ポール・ティベッツ機長が我々の教会の信者であったという事実に対し、私は心の底から日本の兄弟・姉妹の許しを請いたいと思います。後に、カトリックの従軍牧師であったジョージ・ザブレッカ神父が、この行為がイエスの教えに対する、想像しうる最悪の裏切りの一つであったと認めたことは、私にとってある程度の慰めではありますが、私は、自分の教会の名において皆様に許しを求めます。 64年後、原子爆弾による破壊という恐ろしい現実は、悲しみと恐怖、そして、無理からぬ怒りを呼び起こす力を全く失っていません。 地上から核兵器を廃絶するまで、そして、核兵器製造能力を信頼性があり永続的な国際的管理の下に置くまでは、核兵器が再び使用される危険性を取り除くことはできないですし、これまでもできませんでしたし、今後もできないでしょう。 これが技術的にも政治的にも複雑なもので、難しい課題であることは理解しています。それでも、もし我々がこの核による最初の恐怖の犠牲者と遺族との誓いを守ろうとするならば、我々は、今この場で、完全な核軍縮という明確な目標に向けて進み始めるために、説得力のある行動をとることを決意しなければいけません。 日本が核兵器による攻撃という残虐行為を経験した世界で唯一の国であり、更に日本が許しと和解の素晴らしい模範を世界に示してきたことに鑑みれば、私は日本こそが、最大限の道義的権威を持って、核保有国をこの象徴的な平和都市である聖なる広島に招き、世界に核兵器を一切許さない「ゼロ・トレランス」への道を進み始めることにより、我々の世界が正気を取り戻すプロセスに真剣に着手することのできる国であると信じます。 ありがとうございました。---引用終わり関連:【カトリック背乗り天国日本】B29エノラ・ゲイになぜカトリック神父は搭乗していたのか? | 新発想ビジネスヒントフォーラムWEB2.0 - 楽天ブログ https://plaza.rakuten.co.jp/hint2003/diary/201805210002/
2018年07月22日
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ありゃ 森栄徹くん他界でしたか。小学校5年、6年同級生でしたが生徒会長もしてたから覚えている同級生も多いやろうな。小学生時代からかなり奇人柄は出ていたのでよく覚えてますよ。京都大学で美学やって、卒論はメルロ・ポンティやったでしょう。あの頃の流行りものやけれど「眼と精神」やるんやったら脳神経科学のいまやるべきであれはどんな役にたったんかなあ。たぶん京大で紛争期には百万遍界隈で暴れまわってはったんクチやろうかなとか。卒業してから花板さん目指して居酒屋で修行してはったらしいです。そこから読売新聞の記者に転じるとか森栄くんらしいです。2000年頃に目ざとく私のブログ記事みつけて都ホテルのロビーに呼び出されました。まさか小学校の同級生にブログで名指しされると思ってもいなかたんでしょうか。南海飯店の餃子を奢って貰いました。母上は職業軍人の内儀らしく参観日ではひときわ映えておかげで田舎者のわが女親は参観日に近づかなくなりました。どうせ森栄くんの母上になにかたしなめられたんでしょうw
2026年05月10日
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加賀まりこ生い立ち東京都神田区小川町(現:千代田区神田小川町)に生まれ、新宿区神楽坂で成人した、現在も新宿区在住。父・加賀四郎は大映のプロデューサーとして知られ、姪に俳優の田中健夫人の女優、加賀千景を持つという芸能一家の中で育つ。伯父・加賀一郎はアントワープオリンピックで100mと200mに出場しており、ベルリンオリンピックにも役員として選手団に同行、祖父は元衆議院議員の加賀卯之吉、母方の祖母は神田錦町で貸席を営んでいた松本フミ、伯父・加賀二郎は松竹株式会社元常務、また父方・母方の従兄妹は元女優の岸雅子(のち加賀周子)、シャボン玉ホリデーカバーガールをつとめた加賀美知子、元日本テレビプロデューサーの加賀義二。加賀本人は父似と語っている。姉は13歳年上、兄は12歳年上。小学生の時分より隣町である神田神保町の古本街に通い、澁澤龍彦翻訳の「マルキ・ド・サド選集」を愛読。小さい時から思ったことは何でも口にする歯に衣きせぬ毒舌だったという。また映画で見た、オードリー・ヘプバーンの髪型にするため1人で美容院に行くほどの早熟な子供であった。中学校時代には陸上競技を行っており、2年時には走幅跳で都大会で優勝している。高校生になると行動範囲は広がり、六本木や麻布界隈で飯倉の高級イタリアレストラン「キャンティ」に学生服のまま通っていた。また、キャンティのママの自立した生き方に強い憧れを抱いていたという。なお、六本木野獣会のメンバーと誤解されることがあるが、本人は無関係だと否定し、「野獣会などは田舎者の集まり」と言っている。千代田区の一橋中学を経て明星学園高等学校入学。同校在学中の1960年、通学姿を見初めた篠田正浩と寺山修司に路上でスカウトされ、フジテレビ系ドラマ『東京タワーは知っている』でデビュー。芸名は秋山庄太郎に付けてもらった。「加賀だったら、『まりこ』が明るくていいじゃないか」とのことだった。20歳の時、次々に舞い込んでくる仕事と女性週刊誌がイメージだけで書く記事に嫌気がさし、人生をリセットする目的で半年先のスケジュールまでキャンセルして、単身パリに渡る。それまでに稼いだ金で豪遊のかたわら、イヴ・サン=ローラン、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワーズ・サガンらと交友する。半年が経ち、金が底をつき帰国を考えていた矢先に国際電話で演出家・浅利慶太から「舞台に出るかい?」と舞台出演の打診をされる。帰国後、劇団四季の舞台『オンディーヌ』に出演。連日大入りの大盛況で日生劇場始まって以来の大成功となる。この舞台で初めて、女優としての喜びを知り、以降女優業に本腰を入れる。井上順 13歳で、峰岸徹、大原麗子、田辺靖雄、ジェリー藤尾らがいた「六本木野獣会」へ加入し、峰岸にはデビュー前から食事や遊びなどにしばしば誘われ、峰岸が亡くなるまで弟のように可愛がられた。ザ・スパイダース (1966)ザ・スパイダース(The Spiders)は、日本のグループ・サウンズのバンド。1961年に現在は田辺エージェンシーで社長を務める田辺昭知が結成し、ジャッキー吉川とブルーコメッツとともにGSの礎を築いたグループ。ヒット曲に『夕陽が泣いている』、『なんとなくなんとなく』、『あの時君は若かった』などがあり、1970年に解散。当時の音楽の先端であったブリティッシュ・ビートに強く影響を受ける一方、堺正章、井上順、かまやつひろしの3人を主体に繰り広げられる軽妙なやりとりで、コミカルな要素が強い人気グループであった。「70年代のSMAP」と言われている。井上堯之兵庫県立星陵高等学校卒業後は板前だったが、TVのオーディション番組をきっかけに、歌の世界に入る。ザ・スパイダース結成時代は、「スリージェット」という3人組のコーラス&ダンスグループの一員として活躍したが、リバプールサウンド編成に伴い、ギターを独学し、ボーカル・リードギターを担当するまでになった。ザ・スパイダース時代は井上 孝之と名乗っていた。1971年にザ・スパイダースが解散するとPYGに参加し、同時期に井上堯之バンドを率いた。沢田研二のバックバンドとしての活動の他、PYGボーカルの萩原健一が出演したテレビドラマ『太陽にほえろ!』・『傷だらけの天使』や、千葉真一主演のテレビドラマ『十字路』のバックグラウンドミュージックを担当。サントラの作曲、HOUND DOGの音楽プロデューサーをつとめ、1986年の映画『火宅の人』では日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞、1987年には作曲した「愚か者」(近藤真彦歌)が日本レコード大賞を受賞した。
2018年05月05日
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