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結婚ゆび輪はいらないといった朝、顔を洗うとき私の顔をきずつけないように体を持ち上げるとき私が痛くないように結婚ゆび輪はいらないといった今、レースのカーテンをつきぬけて」くる朝顔の中で私の許に来たあなたが洗面器から冷たい水をすくっているその十本の指先から金よりも 銀よりも美しい雫が落ちている-----------花からとりのぞけるものはない花に付け加えられるものもない---------ちかごろ花をふたつ描くことが多くなった妻よひとつはおまえかもしれないね---------絵も詩も少し欠けていた方が良いような気がします。欠けているもの同士が一枚の画用紙の中におさまった時、調和のとれた作品になるのです。これは私達の家庭も社会も同じような気がします。欠けている事を知っている者なら、助け合うのは自然な事です、、、、------、、畑も田んぼも山も一つの美術館で、村の人たちがつくる作物が村の人たちの作品だと思う。-----、、苦しむ者は、苦しみの中から真実を見つける目が養われ、動けない者には、動くものや変わりゆくものが良く見えるようになり、、、変わらない神の存在を信じるようになる。十字架に架けられたキリストは、動けない者の苦しみを知っておられるのだろう。----、、たった一度しかない人生ですから、社会がどうあろうと、人が何と言おうと、そんなことにひるむことなく、大切な自分の人生を、志を持って進んでいけたらいい。志という言葉の中には、日本人らしさ、まわりに流されない生き方というものが含まれている気がします。--------------「「詩画」という独自の表現方法を編み出した星野富弘には、ファンが多い。1946年生まれ。群馬県勢多郡東村に生まれた富弘は群馬大学を卒業後、中学校の体育教師になるが、新任で赴任した直後の6月17日に器械体操のクラブ活動を指導中に首から落下し頚椎を損傷、手足の自由を失う。大学時代に登山やスポーツに明け暮れたように、体を使う仕事をしたいとの想いを抱いた富弘は、体を使えなくなるという悲劇に見舞われる。体も首も動かせない、言葉も使えない富弘は2年後、筆を口に加えて母が動かしてくれて「お富」という文字を書く。横向きになって口で絵筆を噛みながら文字を書くという表現手段を得た富弘は、「あ」という文字を書くのに5秒かかった喜びをビデオの中で語っている。そうすると今まで見てきた作品の味のある達筆は、その後の練習によって勝ち得たのかと胸が詰まった。ビデオの中の富弘は、ゆっくりかみ締めるように話す姿は、やさしく誠実な人柄を感じさせる。5年後、スケッチブックをベッドの横に固定する工夫ができて、今まで手で持っていた母の両手が空いた。母がパレットを持てるようになり、絵に色がつけられるようになり、絵に言葉を添えて手紙を描き始める。富弘美術館の作品には花をモチーフにしたものが多い。お見舞いの花が唯一の接することができる自然であり、花が友達だったという言葉に納得する。毎日花を見つめる富弘は、その色と形に驚く。自然の姿をそのまま写しとればいいと思い、絵とそれに言葉を添えた作品をつくり続ける。9年目、思いがけず展覧会を開くことになる。それまでにかきためた10冊のスケッチブックは、1979年5月 15日に展覧会で多くの人の目に触れ、深い感動を与える。その年に退院した富弘は詩画作家としての道を歩む。入院中に聖書を読みキリスト教の洗礼を受けた富弘は、1981年には伴侶も得ている。」「星野富弘 ことばの雫」の奥付には「著者 星野富弘 写真 星野昌子」とある。その伴侶こそ昌子さんである。この本では「詩画作家」というこの人にふさわしい肩書きがついていた。星野富弘の美しく微妙な色彩は、富弘の繰り出す細かい指示と、その指示に忠実に絵の具を混ぜ合わせ忠実に反映しようとする昌子さんの感覚から生まれてくる。「詩画作品は自分たちの子供のようだ」と星野は言う。
2010/05/17
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上野の不忍池に面した台東区池之端の横山大観記念館を訪ねる。7月のはじめに訪問したことがあるが休みだった。この記念館は、月・火・水が休みで、夏季休暇、年末年始は24日間、そして梅雨期も閉めている。この梅雨期にあたったというわけだ。京風数奇屋造りの自宅で横山大観の絵などの実物を展示するということなので、梅雨の時期には湿気を避けるなどの工夫が必要とのことだ。横山大観は1868年の明治元年に生まれ、1958年に没しているから90歳の長寿であった。元々は水戸藩士の長男として生まれたが、湯島小学校、府立一中を経て東京英学校時代に洋画家に出会い、19歳で画家になることを決心する。21歳で東京美術学校に入学し、生涯の恩師・岡倉天心校長に出会う。途中、天心とともに五浦で修行をするが、間断なく「無我」「屈原」「迷子」「正々流転」「紅葉」「不二」(大観ほど富士を描いた画家はいない)「などの日本画の名作を生涯描き続けた。41歳で新居を建て、途中8年ほど伊豆山にいた期間を除き、この地に住んだ。46歳のときに天心の遺志を継いで「伝統と個性を経緯とする応用・発達にあり。新しき古派運動」という創立の精神を持つ日本美術院を再興する。69歳では第1回の文化勲章を受章、亡くなったときには正三位勲一等旭日大綬章を受けている。天心とは4歳の違いであるが、大観は師の死後45年の間、日本画を描き続ける。廊下に飾ってある大観の写真は、和服姿で髭(ひげ)を生やしている。穏やかだが厳しさを秘めたいい顔をしている。最初の間は、「鉦鼓洞」(しょうこどう)という客間である。五浦時代に住んだ断崖の下で太平洋の波がチャポンチャポンと洗う洞窟の水音を水戸烈公が名づけた名前を借用したものである。大観は自ら鉦鼓洞主と号し印鑑にこの号を用いた。この客間から庭を眺める。敷地面積1380ヘーベ、建物延床面積は310ヘーベのこの屋敷は、京風数奇屋造りで、水と木と花と石を配した見事な日本庭園を持つ。池を中心に、オオシマザクラ、川ウツギ、ヤマブキ、ウメ(白梅)、モミジ、ツバキ、ガクアジサイ、サザンカキョウチクトウなどの花が咲く。この季節は、庭の緑が素晴らしい。無月燈籠と命名された燈籠(とうろう)が立っている。天心の詩「仲秋無月」からとったものだ。 夢の世の中、世の中、 泣いて笑って笑って泣いて、 残る涙が命の露よ、 何を頼りに松虫の 沈沈地露淋 沈沈地露淋 沈沈淋淋 沈ちろりん 月なき秋のやるせなやこの記念館では3ヶ月ごとに企画展を行っており、今は「人物を描く」というテーマだった。大観の描いた「屈原」「「迷子」「五柳先生」などが飾ってあった。廊下のふすまとその突き当りには、日本の自然を描いた作品が並べてあった。「春あい」「霖雨」「雪よ」「嶺風」などの名作、そして昭和4年に描いた「夜桜」、6年の「紅葉」などの屏風絵も素晴らしかった。金の上に墨を塗る手法である。安井曽太郎(1888-1955年)の「大観先生像」という絵が、晩年の顔を描いている。何でも「大観先生写生の会」(細川護立侯爵主催)が開かれ、安井、梅原龍三郎、小林古径などが思い思いに絵筆を振るった。本人はいやがったというが、大観の顔はまことに立派な顔だったらしい。一種の異相であった。大観は作品とともに風貌も有名だった。「先生のお顔くらい立派な顔貌はめったにないと思っている。厳格で、些かの俗味なく、端正にしてして重厚雄大な気宇を持たれるそのお顔はまさに美丈夫というべきである。、、まさに堂々たる風格と申すべきである」(堅山南風)「先生は、元来異相の巨人である。殊に毛髪、眼、鼻に一種の風格が窺われる」(松林桂月)2階の入り口には、大観と下村観山の和服姿の写真がある。「虎渓三笑」という大きな習作があった。普通は小下絵、拡大、本下絵という手順で絵を描くが、大観は、小下絵からいきなり本番となる。途中で構成が変化し、描き直しも多く、未完成の作品も多い。これを習作と呼んでいる。晩年の大観が炉辺で笑っている珍しい写真があった。屈託のない愉快そうな笑顔だった。このアトリエには「大観先生像と静子夫人像」もあったが、圧巻は「四時山水」という絵である。日本美術院創立50周年の80歳のときの作品で、長巻26.8mの巻きもの形式の絵である。巻頭には「一切の芸術派無窮をおふの姿に他ならず 芸術は感情を主とす 世界最高の情趣を顕現するにあり」という天心の詩を書いている。この作品は、春の日の出から冬の日没に終わる構成で、風景が四季の変化とともに一日の流れの中に表現されている。筑波山の春の日の出、富士山、比良山梅林、琵琶湖・竹生島、保津川、清水寺、京都市街、嵯峨野、若草山、高雄(京都)、黄璧山万福寺、宇治平等院、雨晴海岸(富山県)、立山連峰の冬の日没。全国の名景色を描きながら一日で季節を表現する構想が素晴らしい。日本美術院の再興院同人のリスト1階の廊下に張りだされていた。横山大観、小林古径、前田青邨、中村岳陵、川端龍子、栗山南風、奥村土牛、小倉遊亀、守尾多多志、片岡球子、岩橋英遠、福王寺法林、平山郁夫という名前をリストアップしてみた。驚くべきことにこれは文化勲章受章者である。日本画の世界に実に13人の巨匠を生んだことになる。平成10年に文化勲章を受章した平山郁夫は、東京芸大の学長、日本美術院の理事長を襲っている。そしてアジアの遺跡の修復・保護運動に情熱を傾けているが、天心の志を継ごうとしているように見える。大観の藝術に関する言葉を拾ってみよう。・藝術には眼で描く芸術と、心で描く芸術と、二つある。眼で描く芸術は技術が主になりたがり、 心で描く芸術は技術を従とする傾きがあります。・写生の真意は、、その物象の性格と環境と雰囲気とを研究探明してその裏にひそむ性霊を表現す るにある。・形から入って形を棄てよ・芸術は創造である。如何なる場合に於ても模倣は之を排斥せねばならぬ。・偉大な人が出た時に初めて偉大なる芸術が出来る。・気韻生動・富士を描くということは、富士にうつる自分の心を描くということだ。・人間ができてはじめて絵ができる。それには人物の養成ということが第一で、まず人間をつくら ねばなりません。、、。世界的の人間らしき人間ができて、こんどは世界的の絵ができるという わけです。、、、ただ一つ我は日本人であるという誇りをどこまでも堅持してもらいたい。
2006/07/24
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箱根仙石原のポーラ美術館はその概観もさることながら、展示美術品の質と量に驚いた。アンリ・ルソー展を観た後、各展示室を見て回ったが、著名な西洋画家のよく知られている作品が次々と現れていく様は圧巻である。驚きの中でこの美術館は誰がつくったのか、という疑問が湧いた。その人物は、鈴木常司(1930-2000年)だった。化粧品の分野で確固たる地位を占めるポーラ・オルビスグループのオーナーである。40数年に亘るというから20代から始めた筋金入りの収集は、西洋絵画、日本洋画、日本画、版画、彫刻、東洋磁器、日本の近代陶器、ガラス工芸、そして古今東西の化粧道具など、総数で9500点に及んでいる。中心は西洋近代絵画400点だ。このコレクションの特徴は、恣意的に集めたものではなく、しっかりした構想のもとに体系的に集められたものであることである。だから絵画の歴史の流れを実感できるようになっている。この鈴木常司の「文化」に対する思い入れには尋常ならざるものがある。企業理念は「美と健康の事業を通じて、豊かで平和な社会の繁栄と文化の向上に寄与する」であり、その理念を体現すべく、本業以外の文化活動に精力的に取り組んでいる。1976年発足のポーラ研究所は、「美と文化」、とくに「化粧」についての総合研究所である。収集した化粧道具は6700点、関連蔵書は13000冊。1979年発足の財団法人ポーラ伝統文化振興財団は、日本の優れた伝統工芸、伝統芸能、民俗芸能・行事などの無形文化財を記録・保存・振興・普及を目的としている。1996年に発足した財団法人ポーラ美術振興財団は、若手芸術家、美術館職員に対する女性、美術に関する国際交流の推進を実施している。そういった流れの中から、2002年にこのポーラ美術館が誕生した。このとき既に鈴木は他界していた。この美術館は鈴木常司の人生の総括にふさわしい優れたものとなっているという印象を持った。日本の西洋近代美術の個人コレクターは、大原孫三郎(1880-1943年)の大原美術館、石橋正二郎(1889-1976年)のブリジストン美術館、そして国立西洋美術館の基礎となった松方幸次郎(1865-1950年)の松方コレクションという流れがある。戦後から始めた個人コレクションとしては、鈴木常司のコレクションは国内最大級である。鈴木常司は、化粧品製造を始めた父・忍の長男で、アメリカのウィリアムカレッジに留学していたが、1954年の父の死により切り上げて帰国してその業を継いだ。留学していたウィリアムズカレッジ内にある美術館、あるいはアート・インスティチュートなどを見て大きく影響を受けている。20代半ばで帰国した鈴木は、20代の後半から美術品の収集に力を注いでいる。このポーラ美術館は奥が深く、今後箱根を訪れる時には必ず訪問したい。3月には「堀文子展」が予定されているから、また来たい。そして、こういった美術館を遺した鈴木常司の人生に想いを馳せてみたい。-------------- * 午前中は、大学で書類整理。午後は、新宿のJR東日本本社で研修講師。 * 本日の産経新聞の投稿を読んだ人からの連絡がいくつか入ってきた。同級生、友人、知り合い。 * 「図解で身につく! ドラッカーの理論」の増刷の連絡が入る。12刷り1万部増刷で、累計12万2千部。
2010/11/30
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下田に「唐人お吉記念館」がある。下田という港は昔から避難港で、近海を航行する漁船やその他の大型船も嵐になるとこの穏やかな湾に逃げ込んでくる。色街もあり、「伊豆の下田に長居はおよし 縞の財布がかるくなる」と歌われた場所である。お吉(本名・斉藤きち)は、1841年に誕生。14歳で芸者になり「新内明烏のお吉」と表案をとる。16歳、鶴松と将来を誓い合う。17歳、総領事ハリスの侍妾として領事館に入る。年俸120両(600万円に相当)、支度金25両。19歳、ハリスが公使となり江戸の善福寺に入る。日米修好通商条約締結により役目を終える。22歳、京都で芸者。28歳、鶴松と再会し同棲。31歳、下田に帰る。大酒を飲み夫婦仲は悪い。36歳、鶴松と別れ三島で芸者。38歳、下田で髪結業。42歳、料亭「安直楼」を開くが、44歳で廃業。49歳、半身不随。51歳(1891年)、投身自殺。幕末から明治にかけて世の中が激動したときに、ハリスの侍妾として幕府の役人から恋人と別れさせられ、説得されてハリスのもとに入る。日本側のスパイとしての役目もあった。その後も、権力に利用され、人々の偏見(ラシャメン(洋妾))にさらされ、回国の生け贄として悲劇的な一生を終えた女性の物語は、映画、小説、歌舞伎、テレビ、レコードに何度となく取り上げられている。水谷八重子、佐久間良子、太地喜和子などが、お吉を演じている。お吉の一生を描いた物語は、人々の共感を呼んでいる。「どうせ正気じゃ世渡りできぬ 剣菱 持て来い 茶わん酒」「さめちゃ浮き世がうろそてならぬ」という言葉もお吉のものだ。唐人お吉記念館のある宝福寺には、お吉の墓がある。粗末な墓と、後に建立した墓と二つある。新しい墓には椿の花が咲いていた。椿は落ちても散らない、凜とした花であり、信念を貫いた、ぶれなかったお吉に似合う花だと掃除の夫人に教えてもらった。この寺は、坂本龍馬と縁がある。幕府の高官・勝海舟(1823-1899年)と土佐の山内容堂1827-1872年がこの寺で会見をしており、そのときに土佐脱藩浪士・坂本龍馬の赦免を取り付けた場所である。容堂は「歳酔三百六十回 鯨海酔候」という色紙を残している。「その坂本とかいう者、それほどに思われてとんだ果報者でござるな」と容堂はいい、翌年2月に正式に赦免されている。ここから龍馬の活躍が始まる。今日の一首 寒椿 唐人お吉に似たる花 落ちても散らず凜として咲く
2010/02/07
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理事長をしているNPO法人知的生産の技術研究会(知研)は、現在二つの出版プロジェクトを遂行している。年内に一冊、年度内に一冊の本が上梓される予定だ。この二冊の本は各界の知的生産者を訪問取材し、そのエキスをまとめて、読者に提供する計画であるのだが、両方に私も登場する予定である。今日は、午前中は大学の研究室で取材を受けた。知研会長の八木さん、事務局長の秋田さん、会員の斉藤正明さん、札幌からきた会員の松本さん、そして編集者、フォトグラファーという総勢6人の集団だ。インタビューは子供時代の話から始まって、大学時代、会社員時代を中心に話をした。終了後、写真を何枚か撮られた。今回の本は写真も重要な要素なので、実力派のフォトグラファーがずっと取材に同行している。京王堀之内駅周辺のそば屋で昼食を摂った後、午後は八王子の東京工科大学キャンパスに向かう。軽部正夫学長を取材した。13万坪の大きな、そしてきれいなキャンパスである。ゆったりした空間、大きな美術館、日本庭園、高層ビルなど、驚くべき大学だ。美術に関心のある名経営者である理事長を中心に発展を続けている大学。軽部学長自らつくたっという基本理念が学長室にかけてあった。「生活の質の向上と文化の発展に貢献する人材を育成する」。軽部先生。1966年東京水産大学水産学部卒業後、72年東京工業大学大学院理工学研究科化学工学専攻博士課程修了(工学博士)。米イリノイ大学食品科学科博士研究員、東京工業大学資源化学研究所教授、東京大学先端科学技術研究センター教授、東大国際産学共同研究センター長などを経て、2003年より東京工科大学バイオニクス学部長、05年より副学長。バイオ、IT、ナノテクなどの先端科学技術に精通し、マネジメント能力に秀でた起業家を育成する同大学の大学院アントレプレナー専攻でも教鞭をとる。フランス政府教育功労章、バイオセンサー国際賞、日本化学会学術賞、文部科学大臣賞(研究功績者)ほか受賞多数。【専門領域】バイオテクノロジー、バイオニクス軽部先生は、知研で10数年前にも「創造力」をテーマに講演をしていただいており、そのときは発明、創造などについて面白い話をしていただいた。当時は東京工大の教授だった。楽しく、愉快に、お話を伺った。ずいぶんと人生をエンジョイしている人だと感心する。笑い声の絶えないインタビューとなった。人ができないことをやろう・一番遊んだ人が一番偉くなった・すべてがムダにならなかった・学者でなければ経営者になっただろう・東大先端研時代は47の審議会に出ていた・当時講演は少ない都市で80回、多い年で126回・やることを趣味にする・人がやらないことより、やれないことをやれ・好きを探せ・粘りと熱とと押し・独創人間のすすめ、、、、、。外国自動車マニア・八ミリ・ヤフーオークション・釣り・テレビタレント・農産物、、、、、、。「今は経営が面白い、息抜きに研究をしている」という軽部先生は、ハンサムで、エネルギッシュで、凝り性で、サービス精神旺盛で、そして何でも楽しむ名人だ。こういう人の周りは常に笑いと活力に満ちているだろうな。先生の独創を重んじる考え方に深く共感し、前向きな生き方に感銘を受けた。八木さん、松本さんと、南大沢でお茶を飲みながら総括。夜は、都内に勤める娘が帰ってきたので、娘の誕生日祝いを家族でする。そしてみんなで「Wii」を楽しんだ。
2009/08/27
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高崎のホテルでの会合を終えて、新幹線の時間まで2時間近くあったのでタクシーに乗る。中年の運転手さんに行き先を告げる。「かまちはハンサムで女性に人気があります。美形でした。私と同い年です。」と言う。17歳で亡くなった山田かまちは生きていれば46歳、このくらいの年頃になっているのだなあと思いながら、運転手の盛り上がった肩や顔を眺める。「山田かまち水彩デッサン美術館」は画廊の隣にひっそりと建っていた。かまちは昭和35年生まれ。3歳の時には浜田広助の童話「あいうえお」を暗誦、5歳では怪獣を描く、8歳では25枚の小説を書く、小学校の3年生の冬休みにかまちは1時間という短い時間で36枚の動物画を描く。鳥、チータ、サンショウウオ、水牛、てんとう虫、、、。かまちは動物が好きだった。11歳、子供写生大会で藤五社長賞、カラヤンのファンになる。12歳、読書感想文「山田長政」入選、謝恩会の構成詩を作詞・作曲・ピアノ演奏。中学校では、芥川龍ノ介を好み、天体望遠鏡で冬の空を眺める。SF小説に興味。14歳、ジイド、トルストイに傾倒、SFや詩も書く。アイドル桜田淳子のファン。15歳、原始社会に憧れ絵を描く、氷室京介らとロックグループを結成。16歳高校受験に失敗し浪人、17歳高崎高校入学。そして昭和52年8月10日、高崎高校1年生の夏、山田かまちは自宅でのエレキギターの練習中に感電死する。絵、詩、音楽、天体観察と「僕には一日が24時間では足りない」という言葉が口癖のかまちのあっけない死であった。自室のベッドの下からは数百枚の水彩画とデッサン、詩と童話が発見された。 ぼくはロックシンガーになりたい ぼくはすぐれた画家になりたい ぼくはとても金持ちになるたい ぼくはすぐれた作曲家になりたい ぼくは優れた作家、作詞家になりたい ぼくは125歳以上は生きたい ぼくはしぶくかっこよくなりたい ぼくは人類を幸福にしたい ぼくはすぐれた人に愛される思想家になりたい ぼくは感動的な雄弁家になりたい ぼくはとても健康でエネルギッシュな紳士になりたい ぼくは幸福になりたい ぼくは食べたいとき食べたいものを食べたい ぼくはすばらしい美術を完成したい ぼくはダウンしたくない ぼくは高崎高校に合格して楽しくすばらしい高校生活がほしい ぼくは君がほしい! ぼくは高高に合格したい ぼくはすぐれた演奏家になりたい! ぼくはすぐれた科学者になりたい! ぼくは真理を発見したい ぼくは人々に愛される人物にならなければならない鹿麻知(かまち)という名前は、「日本歴史物語」(河出書房新書)の中に縄文時代の少年の名前として出てくる。父・山田秀一によれば、平仮名したのは後で自由に意味を持たせることができるからである。かまちこの名前が完全な父の独創でないことを残念がったが、気に入っていた。かまちは絵もいいが、言葉がいい。死の前日の絶筆。 人間の一生なんて 線香花火のように はかないものだ 朝 気持ち良く起きて ほんとうに気持ちのよい一日を過ごす。 そのためにすべてはあるのだ。 気持ちのよい食事 気持ちのよい活動 気持ちのよい愛 気持ちのよい---眠り なんのいや気のない生活 そのためにすべてはあるのだ 幸せな人 幸せな人幸せな人は あまり幸せでない人を幸せな幸せな人にする小学校からの同級生でロックバンドを組んでいた親友・氷室京介(ロックバンド「BOØWY」のボーカリスト)は次のようにメッセージを贈っている。 キース・ヘリング アンディ・ウオーホール 足早に、その生涯を 駆け抜けていった 愛すべきクリエーター達 ビンセント・ヴァン・ゴッホ エコン・シーレ ドラマティックにその一生を送ることを運命づけられた天才たち そして君も生まれながらにして選ばれた者達 だけが持つ独特な輝きを持ち合わせて いたよね せめて、あと10年、、、 あの非凡で多彩な才能を奪う事が できたら、、、、 君を思い出す度に その事をとても 残念に思います山田かまち水彩デッサン美術館には、多くの人がノートに書き付けを残している。それぞれに人が生きる勇気をもらっている。 ・ずっと昔からかまちの存在は知っていた。 ここにくるまで27歳になっていました。 ・中学生の終わり頃、あなたの存在を 知りながら、25歳になる今、やっと ここに来て、あなとのつづった詩や絵に触れています ・6年前、17歳の時、君の詩と絵、生き方を知ってすごく感化され 受験勉強を放棄して、三重県津市から ここまで野宿をしながら 自転車旅行をしました 23歳になった今、またここに来ました ・4度目の訪問です、17歳になりました ・25歳の社会人です ・19歳です。17歳の時に来たかった ・60代の定年退職者。君に負けないように「生きたい」山田かまちの文章、絵、詩、写真は、国語、社会、美術、英語などの教科書に載っていて若い人は知っている人が多いのだ。かまちが詩を書き、絵を描き続けた対象が、佐藤真弓さんである。かまちは好きでたまらなかったが、佐藤さんはとまどっていたようだ。しかし、遺作展を見て「一生涯にこんなに愛されることがあったのかと、言葉にすることができないほど感動しました」との言葉が作品集の中にあった。佐藤さんはいまでも独身だということだ。この日の訪問者は私一人だったので、館長の広瀬毅郎さんとゆっく話をする機会があった。隣に画廊を営む広瀬さんは、井上房一郎氏(美術評論家)が遺作展を開きたいので画廊を貸して欲しいとの申し出を受ける。かまちの絵と激しく短い生涯に魅了され、「宮沢賢治に似ている」と思い、かまちの絵と詩を飾るレンガ造りの小さな美術館を建てようと決心する。その3年後平成4年に美術館がオープンすることになる。「広瀬さんはいい仕事をしてしましたね」とねぎらう。山田かまちの人生の不思議な余韻にひたりながら美術館を後にした。
2006/06/03
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都心で少し時間が空いたので、お茶の水の明治大学アカデミーコモンへ。地下に阿久悠記念館がある。阿久悠(1937-2006年)は、淡路島の洲本高校を出て、校歌にあこがれていた明治大学文学部に入学する。大学卒業後、広告代理店宣弘社に入社。27歳。放送作家として阿久悠を名乗る。29歳、独立。30歳、作詞家デビュー。34歳、最初のレコード大賞「また逢う日まで」。以降、毎年のように賞を獲得する。レコード大賞だけで5度。35歳、レコード大賞童謡賞「ピンポンパン体操」。36歳、レコード大賞作詞賞「じんじんさせて」。37歳、日本作詞大賞「さらば友よ」、日本レコード大賞ヤングアイドル賞。38歳、レコード大賞大衆賞、作詞賞。39歳では、伊豆・宇佐美に転居。書斎が復元されていた。四畳半に板縁の和室。40歳、レコード大賞「勝手にしやがれ」。41歳、日本歌謡大賞「サウスポー」、「UFO」でレコード大賞。42歳からは、小説を書きはじめる。直木賞候補になった「瀬戸内少年野球団」。「カサブランカ・ダンディ」でレコード大賞金賞。43歳、日本歌謡大賞「雨の慕情」、レコード大賞。44歳からは日記を書きはじめる。亡くなった70歳まで一日も欠かさず書き続ける。世界情勢、気象、スポーツの結果などを記した時代日記だ。「日記力「日記」を書く生活のすすめ」という本も書いている。これは読んだことがある。ブログを書くのに参考になった記憶がある。確か、継続しようとすると工夫が必要になるとあった。30年近く日記を書き続けたから、阿久悠は「鍛錬」の鍛を超えて錬の段階を越えたことになる。また、時代を読み解くために、記事のスクラップをよくしていた。「歌謡曲は時代を食って色づき、育つ。時代を腹に入れて巨大化し、妖怪化する」と語っている。「もしもピアノが弾けたなら」でレコード大賞金賞。45歳、横溝正史賞。これ以降も切れ目なく受賞が続くので書くのを飛ばす。ヒットの連続で安打とホームランを打ち続けているという印象だ。51歳、「隣のギャグはよく客食うギャグだ」で直木賞候補。52歳、「黒にり少年オペラ」で直木賞候補。直木賞は候補には三度なったが、賞は取れなかった。この頃、1989年に開学した多摩大学の学園歌は阿久悠作詞、三木たかし作曲。この学園歌は素晴らしい曲。少し飛ばす。60歳、1997年菊池寛賞を受賞。作詞活動に対するオリジイナリティへの評価と30年位及ぶ活動を評価された。この頃、50代最後のあたりの阿久悠に出会ったことがある。仕事(JAL)の関係でホリプロのパーティに出ていた時に、野田先生と出会い話をしていた時に、阿久悠が通りかかって野田先生が呼び止めて紹介してもらった。「今度、宮城で大学をつくる。久恒君を教授として呼ぶ。各社から人を集めてね」とおっしゃった。62歳、紫綬褒章。新しい領域を開拓したというのが授賞理由。「馬力を落とさず、ある種の高度を保ってきたことへの評価だと思う」70歳、2007年旭日小受綬章。日本レコード大賞特別功労賞。没。2011年10月28日、明治大学阿久悠記念館が開館。遺族から自筆原稿をはじめとする関係資料1万点が寄贈された。明治大学は、古賀政男、スマイリー小原、掘威夫、宇崎竜童、阿木よう子などの音楽関係者を輩出している。阿久悠は、生涯の作詞は5000曲以上。日本レコード大賞は史上最高の5度。34歳から43歳までの作品。「また逢う日まで」「北の宿から」「UFO」「雨の慕情」、、。生涯著作は100冊に迫る。この人はやはり膨大で質の高い仕事をやり続けた人だ。シングルレコードの売り上げは6800万枚と史上一位だ。最高の作詞家だったのだ。この杵記念館を訪ねた後に、野田先生を訪問するのも何かの縁だろう。以下の本を読みたい。「愛すべき名歌たち」「書きおろし歌謡曲」(岩波新書)「清らかな厭世」---------------------------学部長日誌「志塾の風」120528 | 編集 朝から昼過ぎまで大学で仕事。昼休みは諸橋副学長(人事関係)、飯田先生(国際教養大の中嶋学長の講演の件)、杉本主任(学生の特別聴講生の件)。金子さんと専任教員向けの「教育の手引き」の検討。 夕刻に赤坂に野田名誉学長を訪問。後から加わった朝日新聞の荻野記者とイタリアンで食事会。 途中、野田先生の友人たちと電話で話。大分県の平松元知事。ジュディオングさん。多摩大総研の望月照彦所長。
2012/05/28
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思い立って、人物記念館の旅で横浜へ。下村観山(横浜市美術館)。安藤百福(カップヌードルミュージアム)黒岩重吾(神奈川近代文学館)-------------------------------桜木町で降りて、横浜市美術館で開催中の「下村観山展」。f:id:k-hisatune:20140212080825j:image岡倉天心門下の横山大観と並ぶ俊秀。この人には二人の理解者がいた。師の天心と、実業家の原三渓である。下村観山(1873-1930年)は、30代にはとうとう横浜本牧和田山の三渓の所有地内に住んで終焉までここで絵を描いた。穏健は人柄で原に愛されたようだ。もともとは紀州藩の小鼓方で幸流の能楽師の系統である、故事に詳しい。父は最後の狩野派絵師であり、最初の日本画家であもある狩野芳崖に託し、その後は橋本雅邦に師事する。才能を早くから発揮し、9歳で北心斎東秀という号をもらう。16歳で、東京美術学校の一期生として入学する。以後は、天心と大観と一緒に行動する。30歳で英国留学。ラファエロに関心。師の天心の死に際し、大観と日本美術院の復興を誓い、1周忌に再興を果たす。57歳という画家としては早い死であった。調べてみると、同志の菱田春草は37歳、木村武山は66歳であり、大観の90歳が群を抜いている。売店でJAL時代の仲間だった女性と偶然会う。----------------------------------------安藤百福発明記念館。愛称はカップヌードルミュージアム。f:id:k-hisatune:20140211133446j:image5階建ての大きなスケールの建物。子供連れの客が多く、大人気のミュージアムだ。体験型で、自分でカップ麺がつくれるそうだが、予約で満杯だった。f:id:k-hisatune:20140211134526j:image安藤百福(1910-2007年)はベンチャー精神とバイタリティにあふれた面白い人物だ。メリヤス、養蚕事業、幻灯機、航空機エンジン部品、炭焼事業、バラック住宅、製塩業、交通技術者養成学校、病人用栄養食品など多くの事業を立ち上げる。最後に行き着いたのが「食」に関する事業だった。ハレー彗星の接近とともに生まれた安藤百福は48歳でチキンラーメンの開発に瞬間油熱乾燥法を用いて成功。61歳で究極の加工食品と呼ばれるカップヌードルを「開発。95歳で永年の夢であった宇宙食ラーメン(スペース・ラム)を開発しNASAに提供し野口聡一宇宙飛行士が宇宙で食べた。日清食品の社葬は宇宙葬であった。インスタントラーメンの父と呼ばれたが、亡くなった時、ニューヨークタイムスは社説で「ミスター・ヌードル」と呼んだ。「人に魚を釣る方法を教えればその人は一生食べていけるが、人に即席麺を与えれば、もう何も教える必要はない」とも社説は語った。タイム誌で行ったアジアの英雄66人にも選ばれている。また、富士総合研究所が行った20世紀の世界をうならせたメイドインジャパンというアンケートでは、2位のカラオケ、3位のヘッドフォンスステレオ、4位の家庭用ゲーム機、5位のCD、6位のカメラ、7位の黒澤明、8位のポケモン、9位の自動車技術、10位のすしを抑えて、堂々の1位である。小学館「ラピタ」のメイドインジャパン大賞では、1位にカップヌードル、6位にチキンラーメンが入賞している。驚きの多い、実に楽しいミュージアムだ。----------------------------------------神奈川近代文学館で開催中の黒岩重吾展。f:id:k-hisatune:20140211145432j:image黒岩重吾(1924-2003年)は、同志社在学中に学徒出陣。株で儲けて酒色に溺れてある日全身麻痺に襲われる。入院3年。「書く以外に生きる方法はない」と決心し、1961年に「背徳のメス」で直木賞を受賞。その後、あらゆる注文を引き受け、月間700-800枚を書いた。19070年後半からは、古代を舞台に歴史小説を書く。「私は、人間の生につながるセックス、金銭欲、権力欲、等の飽くなき欲望を、えぎりにえぐり、人生とは何?を酷烈に自問自答させたい」と小説を書く動機を語っている。「阿騎野の朝に志を立つ」「生きることを苦しく思う時、思い切り生きたい」。直木賞選考委員として、1984年上半期から2002年下半期まで。吉川英治文学賞選考委員として、1990年から2003年まで。柴田錬三郎賞選考委員として、1988年から2002年まで。古代の歴史については、なかなかリアリティを感じることができないので、この人の書いた小説を読んでみるか。「中大兄王子伝」「日の影の王子 聖徳太子」「白鳥の王子 ヤマトタケル」「紅蓮の女王」「茜に燃ゆ」、、。来訪者累計本日昨日
2014/02/11
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観測史上第一位の積雪のため、丸一日自宅に籠城。思いがけない時間をもらったので、読書「リベラル再生の基軸」(寺島実郎)と映画を堪能した。-------------------下村観山の画業と生活。身近な人々が見た観山。 三男・英時「元来、筆不精の人で、随分手紙では諸方へ不義理をした」 菱田春草「全然独創的に新領域を開拓する人ではないやうである。前人の既に着手した跡を探ねて、それに自家の意趣を加えて画を作る人である。それが穏健なる下村君の長所である。又た甚しい失敗に陥ることのない所以である。」 内山敦子「天賦の画才と出自に恵まれた人であり、また古典への精通から、創造性以上に換骨奪胎の妙を評されることの多い画家であった。」 妻仙子「画室には鍵をかけて、誰も入れません。何事も自分でしなければ気の済まぬ性質で、、。毎日古画を出しては嘆賞しながら、仏画を描いております。」 野間清六「またそのころ(日本美術院サイコウ後から大観の画風は急速な進境があったのに対し、換算の画風は停滞し勝ちであった」住み込み書生の弟子や子息が筆記した「画坊日記」からみえる日常。 捌ききれないほどの応需制作におわれながら院展出品画の制作や公的な依頼をこなし、画壇における交際や来賓の応接にも応じる多忙な日常。 朝・昼・晩に酒を飲むのが習慣で、飲酒絡みの弟子の嘆息が散見される。体調不良の遠因に過度の飲酒がある。師・岡倉天心の言葉。観山は天心の教えを一番守った弟子だった。 「人の型に入る勿れ、自分の影を踏むなかれ」 「いたずらに古人に模倣すれば必ず滅ぶ。系統を守りて進み、従来のものを研究して、一歩を進めんことを勉むべし。西洋画、よろしく参考すべし。しかれども、自ら主となり進歩せんことを。」観山は食道がんを遠因とする心不全で57歳で没している。大観は90歳まで生きたから、人生の長さは33年も違う。やはり、人は生年よりも没年が重要だ。-----------------------------------映画(DVDとテレビ) 「ロッキー」:アリと無名のウェブナーとの対戦にヒントを得て、スターローンが3日で脚本を書き上げ、プロダクションに売り込むがうまくいかない。ようやく決まりかけるが自身が主演のはずが「主演にポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、アル・パチーノといった有名スターを起用する」との条件を拒否。長い時間の後「 ギャランティーに関しては、監督は普段の半分、スタローンは俳優組合が定める最低金額、プロデューサーはなし。 制作費はテレビシリーズ1本分(約100万ドル)。 36万ドルまで高騰した脚本料を2万ドルに減額。」という条件で成立。第49回アカデミー賞作品賞ならびに第34回ゴールデングローブ賞ドラマ作品賞受賞作品となる。主演男優賞。 「ペリカン文書」:検察官を目指し法科に通うダービーは、世間を騒がす最高裁連続殺人に関する自分なりの説をまとめ文書を作った。それがいつの間に国家の上層部の黒幕の目に触れ、“ペリカン文書”と名付けられ、彼女は命を狙われる。恋人でもあった恩師は殺された。孤立無援の彼女を助ける者は敏腕新聞記者。ホワイトハウスの犯罪を描いたストーリーに引き込まれた。[学部長日誌「志塾の風140215CommentsAdd Star 大学院の修士論文最終試験の日だったが、観測史上第一位の積雪。交通機関が大きく乱れたが、朝になっても大学院からの連絡が全くない。6時過ぎにメールを出すが返事がない。6時半過ぎに事務長に電話して、院生と教員に至急連絡するようにと連絡。その後、ようやくメールで中止の連絡が来たが、対象院生と教員も大混乱した模様。 徳岡先生から電話連絡があり、院最終試験と院教授会の日程を調整。来訪者累計本日昨日
2014/02/15
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