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先日の自分史フェスティバルでのミニ講演の一部から抜粋。-----------------------私は最近いろいろな人の伝記や自伝を読んでいます。特に最近2ヶ月は歴代総理の自伝を読み込んでおります。日経新聞が出している「私の履歴書」という本があります。戦後歴代の保守政治の方々はそれぞれ素晴らしい出来ですが、私が最も優れた自分史だと思うものがありました。それは田中角栄の自分史です。これは28歳になるまでの自分史ですね。書いた当時は40代前半ですから、様々な役職を経験して、さあこれから総理を取りに行く、という前です。そのときに書いた、生まれたときから28歳までの自分史です。田中真紀子が「お父さん、お父さんの『私の履歴書』を小林秀雄が誉めていたよ」と言うんです。すると、田中角栄は「へぇ、そうか。小林秀雄って誰だ?」と言ったらしいです。小林秀雄は高名で非常に厳しい評論家です。私も読んでみましたが、具体的な事実や事件にそこから得た教訓を書いていくという仕掛けになっていました。女性に関係したところだけを紹介しましょう。まず、お母さん。お母さんは角栄が上京するときに「大酒は飲むな。馬は持つな。できもせぬ大きなことは云うな」と注意をしました。「馬を持つな」というのは、お父さんが馬で失敗をしたからですね。自分は政治家だから大言壮語もするし、大変反省している、と書いてあります。それから、「金を貸した人の名前を忘れても、借りた人の名前は忘れるな」などいろいろいいことを言っているんですね。それを彼は守ってきた、と言っていました。彼は今問題にもなっております理化学研究所の出なんですね。びっくりしましたら、大河内先生という方が理研を作りましたが、その人と仲良くなった。理研の関連会社の社長をやっていまして、大学に行こうと思えば行けたらしいのですが、「大河内先生から得るほうが大きい。私の大学である」と言って、ずっとそれをやってきたということでした。その後、軍隊に行っています。すると、当時の彼女から手紙が来る。手元に届くときには上官が先に封が開いて読んでいる。彼はそれに対して非常に怒り、その時以来、「信書の秘密は非常に大事だと思う」と思ったそうです。即物的なことで共感を呼び、ほろりとさせられ、人間 田中角栄が非常によくわかります。奥さんとのなれそめもあります。田中角栄は、一旦結婚をして子供を産んだ年上の奥さんをもらっています。この人は虫も殺さぬ顔をしていたのですが、結婚するときに3つ約束させられます。まず「出て行けといわぬこと」。二番目は「足げにしないこと」。これは前の人からやられたのではないかと思います(笑)。三番目は「もし将来二重橋を渡るようなことがあったら必ず自分を同伴すること」。その3つを言っています。それ以来25年間、ずっとそれを続けてきました。それ以外はすべて耐えると言っていた、と言います。彼が他の女性を囲ったのは、許されたんだと思いましたね(笑)。そこで「実は彼女の方が一枚上手だった」と書いてあります。選挙では一度落ちるのですが、二回目に当選します。そのときに、昏々と眠り続けます。「代議士になったんだよ」と言われても関係なく寝ていた。そして「その日が28才の誕生日であった」と終わるという、非常に素晴らしい自分史です。田中角栄の文章は出色です。小説家になろうとしたことが以前にあった、と書いてありましたが、そういう才能もあったのではないかと思いました。具体的な事件とその時の心情と得た教訓、それが人間・田中角栄を実に魅力的に表現している。角栄の「私の履歴書」は、自分史の一つの頂点であると思います。----------------------------------学部長日誌「志塾の風」1401001 | 編集 高野課長と情報交換 豊田先生 趙先生から「多摩大学歴史未来館」の説明を受ける。25年間の歴史と現在に関するパネルや資料が整った。明日オープン。 趙先生、樋口先生と懇談。 志賀MIC長:読書メータを紹介する。 大森学生委員長:学生案件の相談 今泉学科長と相談 2年生の転ゼミ希望者2名と面談。アドバイスをする。来訪者累計本日昨日
2014/10/01
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昨日の出身高校の同期会から「中津方言」で盛り上がっている。1、しゃーしぃ (うるさい)2、うたちぃー、こんやたぁー (汚いな~こいつは!)3、むげねぇー (かわいそう)4、いびしー (恐ろしい、怖い)5、おろいー (ずるい)6、とごえ (お調子者)7、ととっちょる (お調子者で走り回っているさま)・・こんやたぁ、ととっちょるのー8、いっぺこっぺ (たくさん)9、なんちかんち(言っても) (そう(言っても))10、ほいと (乞食)11、よだきい (きつい、つかれる)12、ねき (近く、そば)13、ちょびっと (少し、わずか)14、ちぃーと (少し、わずか)15、うーんと (たくさん)1、とぜねえ もう解散かえ、とぜねえな (寂しい)2、いらんこつ なしいらんこつするんか (余計なこと)3、みのけな おいさんはみのけな話しが好きじゃ (いやらしい)4、どべ 走りゃ一番じゃけど、勉強はどべじゃった (びり、最下位)5、ふがいい あんたずっとふがいいなあ (運がいい)----------------------午後は、企業での講演。「目からウロコ」は一人。f:id:k-hisatune:20121002160528j:image「やわらかい頭で」「驚き」「新鮮」「眠くならなかった」「考えることを考えさせられた」「考えることは面白い」「納得」「実感」「発見」「覚えるのではなく理解すること、が身に染みた」「頭がクリヤー」「考え方が180度変わった」「弱点を解決」「幹部も受けさせたい」「目からウロコ」「ひとつの解決策」「スムーズな流れであっという間」「刺激」「より良い職場に」「魅力」、、、。---------------------10月1日発行の「知研フォーラム319号」が届く。・人物記念館の旅(久恒啓一)--藤田嗣治、阿久悠、フェルメール。・BBC改革と公共的価値(原麻里子)・大都市制度について(鈴木邦彦)f:id:k-hisatune:20121002052211j:image表紙は私の写真だったのでビックリ。--------------------------------------------------学部長日誌「志塾の風」121002 | 編集 11時。多摩大の母体である目黒の田村学園を訪問。田村常務理事に人事案件の相談を兼ねて近況を説明。結果を今泉先生に報告。
2012/10/02
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結婚ゆび輪はいらないといった朝、顔を洗うとき私の顔をきずつけないように体を持ち上げるとき私が痛くないように結婚ゆび輪はいらないといった今、レースのカーテンをつきぬけて」くる朝顔の中で私の許に来たあなたが洗面器から冷たい水をすくっているその十本の指先から金よりも 銀よりも美しい雫が落ちている-----------花からとりのぞけるものはない花に付け加えられるものもない---------ちかごろ花をふたつ描くことが多くなった妻よひとつはおまえかもしれないね---------絵も詩も少し欠けていた方が良いような気がします。欠けているもの同士が一枚の画用紙の中におさまった時、調和のとれた作品になるのです。これは私達の家庭も社会も同じような気がします。欠けている事を知っている者なら、助け合うのは自然な事です、、、、------、、畑も田んぼも山も一つの美術館で、村の人たちがつくる作物が村の人たちの作品だと思う。-----、、苦しむ者は、苦しみの中から真実を見つける目が養われ、動けない者には、動くものや変わりゆくものが良く見えるようになり、、、変わらない神の存在を信じるようになる。十字架に架けられたキリストは、動けない者の苦しみを知っておられるのだろう。----、、たった一度しかない人生ですから、社会がどうあろうと、人が何と言おうと、そんなことにひるむことなく、大切な自分の人生を、志を持って進んでいけたらいい。志という言葉の中には、日本人らしさ、まわりに流されない生き方というものが含まれている気がします。--------------「「詩画」という独自の表現方法を編み出した星野富弘には、ファンが多い。1946年生まれ。群馬県勢多郡東村に生まれた富弘は群馬大学を卒業後、中学校の体育教師になるが、新任で赴任した直後の6月17日に器械体操のクラブ活動を指導中に首から落下し頚椎を損傷、手足の自由を失う。大学時代に登山やスポーツに明け暮れたように、体を使う仕事をしたいとの想いを抱いた富弘は、体を使えなくなるという悲劇に見舞われる。体も首も動かせない、言葉も使えない富弘は2年後、筆を口に加えて母が動かしてくれて「お富」という文字を書く。横向きになって口で絵筆を噛みながら文字を書くという表現手段を得た富弘は、「あ」という文字を書くのに5秒かかった喜びをビデオの中で語っている。そうすると今まで見てきた作品の味のある達筆は、その後の練習によって勝ち得たのかと胸が詰まった。ビデオの中の富弘は、ゆっくりかみ締めるように話す姿は、やさしく誠実な人柄を感じさせる。5年後、スケッチブックをベッドの横に固定する工夫ができて、今まで手で持っていた母の両手が空いた。母がパレットを持てるようになり、絵に色がつけられるようになり、絵に言葉を添えて手紙を描き始める。富弘美術館の作品には花をモチーフにしたものが多い。お見舞いの花が唯一の接することができる自然であり、花が友達だったという言葉に納得する。毎日花を見つめる富弘は、その色と形に驚く。自然の姿をそのまま写しとればいいと思い、絵とそれに言葉を添えた作品をつくり続ける。9年目、思いがけず展覧会を開くことになる。それまでにかきためた10冊のスケッチブックは、1979年5月 15日に展覧会で多くの人の目に触れ、深い感動を与える。その年に退院した富弘は詩画作家としての道を歩む。入院中に聖書を読みキリスト教の洗礼を受けた富弘は、1981年には伴侶も得ている。」「星野富弘 ことばの雫」の奥付には「著者 星野富弘 写真 星野昌子」とある。その伴侶こそ昌子さんである。この本では「詩画作家」というこの人にふさわしい肩書きがついていた。星野富弘の美しく微妙な色彩は、富弘の繰り出す細かい指示と、その指示に忠実に絵の具を混ぜ合わせ忠実に反映しようとする昌子さんの感覚から生まれてくる。「詩画作品は自分たちの子供のようだ」と星野は言う。
2010/05/17
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JR東日本の研修を秋から受け持っていますが、今日は5回目の最終回。107名の受講者が熱心に話を聴いてくれました。いつもは終了後、本社ビルのレストランで懇親会があり、受講生の若い現場の職員と人事関係のJR職員と一緒に歓談するのだが、用事がありそれには出席できませんでした。本社ビルに入るのは初めてという受講生もおり、緊張しながら受講している人もいます。20代後半がメインなので、自分のその頃のことも織り交ぜながら、励ますような話題も盛りこむことにしています。さて、散歩には必ずデジカメを持っていくようにしていますが、「今日の一枚」は雲です。陽ざしを浴びながら公園の芝生に寝転がっていたら、青空に白い雲がゆったりと動いていて、あるときそれが日本列島の形に見えたので、シャッターを切りました。北海道、東北、関東・関西、中国、九州らしき形になっています。公園の裸木も入れて撮ってみました。「はてな」のブログには「一日一枚」というコーナーがあるので、写真を意識するようになっています。http://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/今日は、何を撮ろうかな。
2009/01/16
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私たちは日常生活では常に選択に迫られている。どちらのプランを採択するか、どんな戦略で行くか、赤いシャツを買うかグレーのシャツにするか、誰を食事に誘うか、状況や重要度に差はあるものの、様々な場面で決断をしなくてはいけない。その時にすぐに判断を下せない人が案外多い。時には何事も決断できず、決断しても満足行く結果が得られないと、結局「失敗した」「損をした」と後悔ばかりする。そのような人が、非常に難しい問題でも早く決断できるようになる方法がある。どちらでもいい。そう信じることだ。自分が選んだ方が正解なのである。私も大学時代、何事においてもどちらがいいか選べない時期があった。自分の出す決断に自信が持てなかったのである。しかし、岡本太郎の『原色の呪文』という本を読んで衝撃を受け、それから、どのような状況でも早く判断ができるようになった。私が影響を受けたのはその本の中の、「迷ったら、失敗する可能性が高い方、自分がダメになる方を選べ。そうするとエネルギーが湧いてくる」という言葉だった。実際は、それをそのまま受け止めたわけではなく、常に苦しい方を選ぼうとは思わなかったが、私が迷う原因は、成功しそうな方、得をするであろうという方を選ぼうとすることだと気がついた。よく考えてみれば、成功しそうな方を選んでも失敗するかもしれないし、苦しい方を選んでも結果的にうまく行くかもしれない。つまり、どちらを選んでも、その後の自分の行動や心掛け次第で結果は変わるのだ。それならば、決断を下す時点で重要なことは、どちらかをとにかくはやく選ぶことだけなのだ。それからは、「迷ったら、どちらを選んでもいいのだ」と思えるようになった。どちらでもいいと思うと、早く決断できる。決断が早いと悩んでいる時間が少ないので、気分が楽になる。楽に考えることが習慣になると、どちらを選ぶかというような苦しい判断をする場合でも、あまり悩まなくても選ぶことができるようになった。就職先を選ぶ時でも、真剣にどちらがいいかを悩んでも誰が考えても正解だという答えはでてこない。不確実を承知でどちらかを選ぶという決心で前途を切り拓こうという気概が生れてくるのだ。また、どちらかを選ぶという選択肢ではなく、「どちらも」という選択肢もある。あまり早めに決めることは避けて、ある期間同時並行でやっていくと、自然に決まってくるということもある。自然な流れの中で進むべき方向が見えてくるのだ。曖昧さをかかえたままで、ある期間過ごすということも必要なのである。
2007/01/12
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徳富蘆花の代表作の一つ「みみずのたはこと(岩波文庫」は、蘆花の考えがよくわかるエッセイ集だ。かなりの長期間にわたってベストセラーを続けている。108版には11年で10万余部となっている。この著書から、蘆花は蘆花という雅号を廃し、本名の徳富健次郎で出版していく。1977年に書かれた巻末の解説は中野好夫である。みみずのたはこと 下 改版 (岩波文庫 緑 15-6)みみずのたはこと 下 改版 (岩波文庫 緑 15-6) 作者: 徳冨健次郎 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 1977/11 メディア: 文庫 この商品を含むブログ (1件) を見る「みみずの真似して、土ほじくりする間に、折にふれて吐き出したるたわ言共をかき集めたるものなり」「土の洗礼を受けて武蔵野の孤村に鍬をとれる著者が、折に触れ興に乗じて筆を走らせし即興のスケッチ、短編小説、瞑想、書簡、紀行等を集む」「年40にして初めてしかと大地に脚を立てた最初の記録です」上巻に「彼は美的百姓である。彼の百姓は趣味の百姓で、生活の百姓では無い。」から始まる「美的百姓」という項がある。この短いエッセイの最終部分は、こうだ。彼は昔耶蘇教伝道師見習の真似をした。英語読本の教師の真似もした。新聞雑誌記者の真似もした。漁師の真似もした。今は百姓の真似をして居る。真似は到底本物で無い。彼は終に美的百姓である。変転の多い起伏に富んだ人生をこの数行で表している。同志社での学び、兄徳富蘇峰の雑誌記者、、、。漁師は私の記憶にないが、巡礼紀行を終えてトルストイのすすめる農業生活に入る、そして最後は美的百姓で終わる。すべてが本物ではなく、真似であったというのが人生の総括だったのだろうか。都心の青山から人力車で1時間半かかる武蔵野粕谷へは、自動車ができたことで30分の距離となった。そして1912年に敷設工事が始まり笹塚調布間で運転を始めた京王電鉄のことも話題に出てくる。東京の寺院墓地移転用敷地2万坪買収事件に対する憤慨など、興味深い叙述もある。新宿から府中まで開通して朝夕の電車が東京へ通学する男女でいっぱいになったり、この村から夏の夕食後にちょっと九段あたりまで縁日を冷かしに行って帰ってくることができるようになったとの記述もある。「世界一周して見て、日本程好い処はありません。日本では粕谷程好い処はありません。諸君が手をたたいて喝采しました。お世辞ではありません。全然(まったく)です。この気いにった場所で「幼稚な我儘とと頑固な気まぐれ」の持ち主で、兄から「多情多恨」と言われた蘆花は、土の生活に入った。長短のある気ままなエッセイは当時の田舎の生活と筆者の感覚を伝えてくれる。やはり蘆花は文章がうまい。この徳富家は、父は93歳、母は91歳、そして兄は94歳で亡くなっているから長寿の家系であろう。ただこの健次郎蘆花だけは60歳でみまかっている。京王電鉄の蘆花公園という駅の名前を聞くたびに蘆花と蘇峰の兄弟のことを思い浮かぶ。----------------------高倉健主演「あなたへ」を観る。内容よりも、主演の高倉健について。高倉健の6年ぶりの映画だ。パンフレットに高倉健のインタビューが載っている。しばらく映画にでなかったのは、「ただ作品を撮って、お金をもらっている生活が、とても虚しく感じてね。」この作品を終えての感想。「もっと自分は仕事をやらないといけないと思いました。仕事をするというのは新しい人と出会うことですから。出会う、というのはいいですよね。」1956年以来2005年までの約50年間に204作品だから、1年に4本というペースでコンスタントに仕事をしてきた大スター高倉健にしても、仕事が虚しくなり、もう一度仕事をするとまた元気が出るという繰り返しなのだろう。仕事というものの不思議さでもある。----------------------------------------学部長日誌「志塾の風」120904 | 編集 諸橋副学長の研究室を訪問。 中庭学長室長の研究室を訪問。 樋口入試委員長とラウンジで。 多摩大総研で松本先生、酒井先生と。
2012/09/04
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ある仕事で、自伝や評伝を調べている。自分が読んだもの、影響を受けたものを選んでいる。現時点で選んだものを並べてみると、次のようになった。正確には、評伝もあれば、自伝の部類に入るかと思うものも含まれているが、とりあえずあげてみた。本人が自分のことを語る自伝は興味が尽きない。-------------------福沢諭吉 「福翁自伝」--フランクリン自伝と並ぶ世界の自伝の傑作。軽妙な語り口フランクリン「フランクリン自伝」--今なお読み継がれる世界最高峰の自伝。勇気をもらう本多静六 「本多静六自伝 体験八十五年」---努力の素晴らしさ。励まされる梅棹忠夫 「裏返しの自伝」--いくつもの可能性で自己を豊かに語る名文の楽しみ横松宗 「大正から昭和へ」---戦前・戦中・戦後の時代の激動を生きる行動力と眼力鈴木健二 「30代に男がしておかなければならないこと」-名アナウンサーの生き方に学ぶ渡辺崋山 「渡辺崋山」(キーン著)--家老・蘭学者・絵描き。江戸のマルチ人間の人生渋沢栄一 「渋沢栄一自叙伝」(1938年)--日本資本主義の父の考え方・生き方ウェルチ 「ジャック・ウェルチ わが経営」-GEを率いた名経営者の波乱万丈の回顧録サッチャー 「サッチャー回顧録」 ---「幸運だったのではない。私はそれだけの努力をしてきた」-------------------この過程で梅棹忠夫先生の「裏返しの自伝」(講談社)を久しぶりに繰ってみた。この先生の本はどの本を読んでも目からうろこが落ちる感覚を味わうことができるが、この本も面白い。「人生には無数のわかれ道がある。」「こういうものになりたいとおもい、またその機会と可能性もじゅうぶんにあったのだが、けっきょくはそうはならなかった。あるいは、なれなかった人生の話なのである」実人生では、動物学、生物学を経て、民族学、文化人類学に目覚め、京都大学で社会人類学の教授となり、国立民族学博物館の初代館長となった。自伝を書いた時点では72歳。内容は6章に分かれているが、それぞれが実に面白い。「わたしは大工」「わたしは極地探検家」「わたしは芸術家」「わたしは映画製作者」「わたしはスポーツマン」「わたしはプレイボーイ」最後の「わたしはプレイボーイ」では、「そもそも人生に目的なんかあるものか、といのがわたしの実感であって、」「人生のそれぞれの時期に、これはおもしろそうだというものを発見するとそれに熱中した。つまり一所懸命にあそんだのである。」「ひとつのアドベンチャーがおわたtら、つぎのアドベンチャーの計画にとりかかる。それは連続してなにかある究極の目的につながるものである必要はまったくないのだ。そのときそのときに、全身全霊をあげてあそぶだけのことである」梅棹先生をある雑誌が取り上げて、「知のプレイボーイ」と評したことがある。それを先生は気にっていた。民博に訪ねたときこの雑誌が話題になって「よう見た」と筆者を褒めていたことを想い出す。「この道一筋というのは私は嫌いや、私は10本くらいの筋を追っている」と言われた。だから知のプレイボーイなのだろう。
2008/01/14
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南桂子生誕100年展。義父のお見舞いのついでに群馬県の県立舘林美術館を訪問。この美術館は「自然と人間」をモチーフとしている。腐食銅版画家の南桂子(1911-2004年)は、富山県高岡市で生まれた。祖父は高峰譲吉の妹であるなど、政治家、学者、弁護士など極めて高い教養に恵まれた一族である。34歳で上京し、小説家の佐田稲子の紹介で壺井栄に会い、童話作家を目指す。そして銅版画の浜口陽三と宿命的な出会いをし、銅版画に向かう。43歳、浜口陽三と一緒にフランスに渡る。ニューヨーク近代美術館のクリスマスカードに銅版画「羊飼の少女」が採用される。1958年年には国際連合児童基金(ユニセフ)のグリーティングカードに作品「平和の木」が採用された。61歳、28年余り住んだパリを浜口とともに米国サンフランシスコに居を移す。85歳、日本に帰国。浜口は2000年に死去。93歳、南桂子死去。浜口陽三と南桂子は夫婦だった。私生活は夫唱婦随であったが、画業の分野では同じ銅版画を競い合った。南桂子のモチーフは、少女、鳥、魚、船、樹木、塔などの童画的であり、心をなごませる。
2012/03/24
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>人物記念館を訪ねるたびにある名前が出てくるのに気がついてからかなりの時間が経った。棟方志功、芹沢けい介、白州正子、そして武者小路実篤(白樺同人の柳は4つほど年下)といった人々は、この人物から多大の影響を受けて、優れた仕事を成し遂げてきた。その彼らの仕事の影響を今日の私たちは受けている。ようやく、東京駒場にある柳宗悦という人物のつくった日本民藝館を訪問する機会を得た。五百五十坪の土地に、大谷石を材料に使った二百坪の建物が完成したのは昭和10年である。本館は一階6室、二階5室の和堂々たる和風建築で、灯篭のように建つ門の板に「日本民藝館」の名が記されていた。玄関を入ると、大階段が目に入る。スリッパがそろえてあるなど、配慮が行く届いているとの第一印象を持った。大きな木の柱と梁、日本家屋らしい障子の多用、各部屋に備えている木のテーブル、そして日本各地から集めた民藝品の数々。「室町から江戸」の室では、煙草入れ、状袋、財布、抱鞄、箱、喫煙具、角酒器などの日用品が並べられている。柳の思想をよくものに結実した河井寛治次郎の茶碗、三段重、浜田庄司の作品などと並んで、「朝鮮とその芸術」選集、「蒐集に就て」「美と模様」などの著作も並べてある。ほとんどは芹沢けい介の装丁だった。並べてある小壺、碗、土瓶、手箱など、これらの作品はたしかに正しい姿をしている。奇をてらったものはない。これが民藝品だろう。柳宗悦の間があり自筆原稿が展示してあった。「模様の意義」としてあった文章の標題を「意義」に線を引っ張って消し、「模様とは何か」に書き換えている。また「一度、、の問題を取り扱ってみたかった・」の後に、「のである」を加えてもいた。そして「蒐集に就ての意見」の意見を赤で消してもいた。「人間をた易く夢中にする」の「す」、に線を引いて「させ」に換えている。文章の推敲の後がみえて興味深かった。愛用の文鎮や万年筆があったが、「踏マレツモ 人ヲ ミチビク 原ノ路 宗悦」という書もあり、仕事に挑む心意気が見えた気もした。柳宗悦の仕事は膨大であった。「白樺」での西洋美術評論、英米文学研究、西洋宗教哲学、朝鮮李朝工芸の蒐集、美術史、仏教美学、茶道評論、近代工芸評論、そして民藝運動と実に多彩である。柳の師であった鈴木大拙は葬儀の席で「日本は大なる東洋的 美の法門 の開拓者 を失った」と語っている。柳は日用の雑器を蒐集した。それらは名もなき職人たちの手によって生れた。これを民衆的工芸、すなわち民藝と名付けた。鏡のように民族の心を映し出している陶磁器、自由にのびのびと描かれた絵漆の美の漆工、全国の金物横丁や鋳物師町で作られていた金工、着物や夜具などの美の世界をつくった布、重さで秤売りされていた和紙を工芸の高みにおいた和紙、手仕事の美の細工物、人間の姿を純化した人形などが柳が見つけた新しい美の形である。「民藝四十年」(岩波文庫ワイド版)という柳宗悦の書を読んだ。「日本の眼」という論考を読むと、西洋の眼は完全の美であるのに対し、日本の眼は不完全な美であると主張している。こういった美の形を深く追求した民族はない。日本人は眼がきくこともあって、日常生活では選ばれた器物に囲まれて暮らしている。インド人は思索に長け、中国人は実行に優れ、日本人は鑑賞に長けている。だから日本は日本の眼に確信を持ちそれを世界に輝かせよ、との意見を述べている。また茶の利休については、権力に仕える茶であり、人格面でも問題があり、俗気の多い人であって、その程度の仕事のレベルでとどまってはいられないとの決意を語っている。生活に即した器物は強く健康である。そういった美の発見者である柳にとっては、日本全国は完全な処女地であり、蒐集に全力を注いで日本民藝館を創立し民藝運動の拠点とした。民藝運動の大きな潮流は、現代にでも息づいている。古民家再生という流れもその一つである。自然素材、実用性、簡素など最大級の民藝品が古民家ということになるのである。今話題の白州次郎の妻であった白州正子なども柳の教えを受けて、日本の美の行脚を行っている。武相荘という2人の住居には、柳の思想が息づいていたことを思い出した。今回は日本民藝館の向かいに建つ柳の住居の中は見ることができなかった。もう一度訪れたい。柳宗悦は「民藝とは何か」「美の法門」などの名著を残し後世に影響を与えたが、日本民藝館という拠点を確保したことによって、長く生き続けていると思う。この館はその後も活発な活動を展開しているようで、現在では世界50カ国とも交流も持っているという。師の鈴木大拙のいうように柳宗悦は、「大きな思想家、大きな愛で包まれて居る人--このような人格は、普通に死んだといっても、実は死んで居ない」。
2006/12/10
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神奈川県茅ケ崎市にできた開高健記念館を訪ねた。茅ケ崎には橋本駅からJR相模線というローカル線で一時間弱かかる。林と田んぼの中を優雅に走り、気分がゆったりする。いまだにボタンを押してドアを開くというやり方で、やや戸惑う。車内に入ると冷房が効いて寒い位だが、節電令が終わるとまた冷房がやや効き過ぎになっている。茅ケ崎は、たくましい裸体のまま自転車に乗ってサーフォンボードを持って海に駆け付けようとする男性を多く見かけた。この街の海側を初めて歩いたが、海の近くのリゾート街、おしゃれなカフェ街、図書館や美術館を擁する文化街、ネオンの咲く飲み屋街と分かれており、成熟した街という印象を持った。海へ歩いて7-8分のところに、開高が1974年に建てた家がある。当初は書斎を持つ仕事場として使っていたが、後に妻・牧羊子と娘が移り住んで、終の棲家となる。この茅ケ崎はJRでも車でも一時間と変わらないと開高はエッセイに書いている。瀟洒なつくりの家の前に立つと、「哲学者の小経」という表示があり、この家の周りを巡ることができる。途中に「悠々として急げ」、「遠い道を ゆっくりと けれど休まずに 歩いていく人がある」、「明日、世界が滅びるとしても 今日、あなたはリンゴの木を植える」、「朝霧の一滴にも 天と地が 映っている」、という開高の言葉を書いたボードがある。最後の方に、書斎が現れた。「主人を失った書斎」という説明が書いてある。亡くなった当時の書斎をそのまま保存している。十畳ほどの個室には、横長の机と座椅子がある。隣の二畳ほどの小部屋を含む壁には、開高は仕留めた動物の毛皮や魚のはく製が貼りついている。ブラックベアの毛皮、キングサーモン、レッドサーモン、ピンクサーモン、グレイリング、マスキー、ピラーニア。開高健は1930年に大坂で生まれ旧制大阪高校に入るが学制変更で大阪市立大学法学部に入学しなおす。20歳の時に処女作「印象生活」を発表。23歳、7歳年上の牧羊子と結婚。24歳、寿屋入社。26歳、コマーシャル色を排除した面白くてタメになる雑誌「洋酒天国」を創刊し編集発行人となり大ヒットする。28歳、「裸の江様」で芥川賞を受賞。寿屋を退職。その後、作家生活に入り大活躍をする。ベトナム戦争、ビアフラ戦争、中東戦争などの渦中に入り、戦争のルポは話題になった。44歳で茅ケ崎に仕事場をつくる。そして58歳に若さで食道腫瘍にはいお延を併発し倒れる。大江健三郎と争って勝ち得た芥川賞受賞時には、「定型化をさけて、さまざまなことを、私は今後どしどしやってみたいと思っている」と語っており、実際その通りの型破りの作家となっていった。開高の原稿用紙に書いた字を展示してあった。わかりやすい字だ。大型の原稿用紙。ほとんど校正の後がないきれいな原稿である。NHKの「あの人に会いたい」のビデオを流れていた。その肉声から以下、言葉を拾う。 ベトナム戦争。誰も戦闘を見ていない。 今日の私は昨日の私ではない。 私はタフでハードだが、ピアノ線のように感じやすい 危機と遊び、男が熱中できるのはこの二つ。危機と遊びが男を男にするのではないか。記念館に貼ってある言葉。 飲みながら書くのは連想飛躍を求めるからにほかならない。ウオッカがいいのは翌日に臓器にダメージを残すさないから、、出版人マグナカルタ9条1.読め 2.耳をたてろ 3.両目をあけたままで眠れ 4.右足で一歩一歩歩きつつ左足で跳べ 5.トラブルを歓迎しろ 6.遊べ 7.飲め 8.抱け。抱かれろ 9.森羅万象に多情多恨たれ右の諸則を毎日三度、食前か食後に暗誦、服用なさるべし開高健全集は、22巻だから、相当な量である。20歳から58歳までの38年間。文藝別冊「開高健 生誕80周年記念総特集」にある「開高健著作リスト」で著作数を数えてみた。 単行本85冊 全集51巻 翻訳2冊 文庫87冊合計で225冊となった。この作家は生きていれば81歳だらか、20年以上の歳月があったはずだからどれほどの厚みになっていただろうか。この記念館は開高家が茅ケ崎市に土地と建物を寄贈し、運営は市とNPO法人開高健記念会が行っている。入場料は無料なので聞いてみたら、開高健の作品の印税で賄われているとのことだった。
2011/09/18
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午前のマネジメントデザイン2の10回目の授業。f:id:k-hisatune:20111202114359j:imageテーマは「修養・鍛錬・研鑚」。取り上げた人物は、安岡正篤・新渡戸稲造・朝倉文夫・二宮尊徳・小泉信三・野口英世・サトーハチロー・佐野常民・星野富弘。------------------------------午後は、消防大学校で講義。幹部科の受講生は36歳から53歳までで、平均年齢は47歳。北は北海道函館市消防本部から南は鹿児島市消防局まで総勢65名。階級は消防指令がほとんど。役職は係長と課長補佐級。予防係長、救急総括主幹、当直司令、中隊長代理、主幹、危険物係長、分隊長、人事課主幹、課長代理、課長補佐、隊長、小隊長などの役職がついている。全体のカリキュラムや資料をみると、消防という仕事の大変さを垣間見ることができる。「リーダーシップ論」「緊急消防救助隊アクションプラン(東海地震支援編)消防応援活動調整本部図上訓練」「消防と医師との連携」「放射線の基礎知識と原子力災害対策」などの資料が目についた。f:id:k-hisatune:20111202170053j:image「放射能の強さはを示すベクレルはボクシングのパンチの数、吸収線量を示すグレイはパンチの威力、放射線が人体に与える影響を示すシーベルトはダメージ(けが)の大きさ」と書いてあった資料には、以下のデータもあったので勉強になった。 一年間に私たちは2400マイクロシーベルトの自然放射線を受けています。 一度に10万マイクロシーベルト以上受けた場合に体に影響がでます。消防と医師との連携の講義では、具体的な場面を設定して、最先着隊の隊長の場合どうするかなどの問いに答える討論をしている。図上訓練では、災害対策本部を構成する立場につけてロールプレイングをシミュレーション室で行っている。本日の私の講座の受講生の反応から。 ものの見方が変わった。 視野が広がった 理解している事柄、理解していない事柄が明確になった。 考えることの本質をとらえている。 ここまで深く考えたことは無かったので疲れました。 苦手な部分が浮き彫りになった。 発想が広がった 頭がカタクなっています。 自分の頭の中を知ることができました(空っぽ)。 自分の周りが見ていなかったことに気づきました。 部下、自分、上司の目線の山から見る考え方は参考になりました。
2011/12/02
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意外なことに近代絵画の父と呼ばれるセザンヌ(18239-1906年)という画家は遅咲きだった。30代は落選が続き、初入選は43歳だった。そして初の個展もそれから13年後だから、セザンヌは56歳になっていた。また、妻・オルタンスとの出会いは、セザンヌ29歳mオルタンス18歳だったが、父の反対もありようやく結婚したのはその18年後だった。没後の1907年のサロン・ドートンヌでの回顧展でゼザンヌの名声は不動のものになった。セザンヌの油彩画は1000点。静物画は200点、水浴画は115点、肖像画は165点(うち自画像は25点)、風俗画90点を数える。「りんごひとつでパリを驚かせたい」と言ったセザンヌの静物画は、何か違う。このなぞは先日のNHKの日曜美術館が解いてくれた。セザンヌはリンゴ、壺、などすべての静物を、見たままにか描かずにそれぞれがもっともよく見える視点を選んで一つ一つ描いたのだった。「オレンジにもりんごにも、球体にも頭部にも、最も高い点があるということです。、、我々の目に最も近いところにあるおです。」と言っている。その高い点がよく見える視点を選んだのだろうか。あのピカソが死と言える画家はセザンヌ一人だたっと言っている意味がわかった。ピカソは一人の人の顔を右から左から描いてそれを全部絵に入れるという奇想天外な画法を採用したのだが、そのアイデアはセザンヌの静物画に源を発しているのだった。セザンヌには師はいない。師はルーブル美術館であり、自然そのものだった。 自然を前にして優れた研鑚を積むこと、これが一番良いのです。 上達するには、自然しかありません。自然に触れる中で、眼が鍛えられます。きちんと眺め、働かせることで、中心に向かう視覚を獲得するのです。芸術の頂点は人物画だ。自然を円筒、球、円錐という単純な形にとらえなおし遠近法の中に置く。その線や面を中心に向かうように配置する。私は一つのりんごでパリを驚かせたいのです。私は絵を描きながら死にたい。描きながら死にたい。セザンヌは1906年、本当に描きながら死んだ。----------------------------------------学部長日誌「志塾の風」 | 編集今日から、連休明けの5月11日まで、教員面接が続く。学部長の私と前学部長の諸橋副学長の二人で、教員一人一人を昨年度の報告書と今年度の計画書をもとに30分ほど面談を行った。梅澤先生。飯田先生。大森映子先生。椎木先生。杉田先生、中村有一先生。それぞれの先生たちの問題意識と活動の詳細、今後の方向などが理解でき、こちらも考え方を直接伝えることができるなど深いコミュニケーションができた。
2012/04/23
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マルクス・アウレーリウス(121-180)の「自省録」(神谷美恵子訳・岩波文庫)をめくってみた。この人の治世は、哲人政治が実現したたった一つの例といわれる。大ローマ帝国の皇帝であり、同時に哲人であった人が、原題が「自分自身に」とあるように、多忙な公務の合間に自分にあてて書いたものだ。 君の肉体がこの人生にへこたれないのに、魂のほうが先にへこたれるとは恥ずかしいことだ。 宇宙の中のありとあらゆるものの繋がりと相互関係についてしばしば考えてみるがよい。 君の分として与えられた環境に自己を調和せしめよ。君のなかまとして運命づけられた人間を愛せ。ただし心からであるように。 この世で大きな価値のあることはただ一つ、嘘つきや不正の人びとにたいしては寛大な心をいだきつつ、真実と正義の中に一生を過ごすことである。 自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう。 完全な人格の特徴は、毎日をあたかもそれが自分の最後の日であるかのごとく過ごし、動揺もなく麻痺もなく偽善もないことにある。「君」とあるのは自己に対する呼びかけであり、この書は自己との対話ともいうべきものだ。この人の誠実で気高い倫理観には感銘を受ける。---------------------------今日の1限のプレゼミは春田先生の三回目。 現代史は、300年前の欧州発の産業革命から始まり、数十年前の米国発の情報革命につながる。 産業革命は組織のマネジメントを生み、情報革命は個人の能力を飛躍的に高めた。 いつの時代も問題が発生し、若者がその解決に挑戦する。それは社会の進化につなっていく。 アインシュタインの相対性原理。3人の若者の素粒子論を50年後に技術として具体化したのが1940年のコンピュタ。1947年のベルのセミコンダクタと1948年のシャノンの情報論が今日のケータイにつながっている。 農業社会は1日1ドル100円の生活、工業社会は1日10ドル1000円の生活、情報社会は1日100ドル1万円の生活。 21世紀の今日、世界180カ国の内1日100ドルの生活をしているのは30カ国に過ぎない。 先進国はコミュニケーション技術の革命に対処するために「教育」に力を入れている。---------------2限のマネジメントデザインの授業は、新聞や雑誌の広告を材料に図解広告をつくるというテーマ。f:id:k-hisatune:20120615112119j:image---------------------------学部長日誌「志塾の風」120615 | 編集 今泉教務委員長と打ち合わせ 井川さんからグローバル人材申請関係の書類の説明あり。
2012/06/15
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人麻呂の歌碑訪ひ来たる奈多の海ゆ伊方原発遠く光る見ゆ(中津市・久恒啓子)本日の朝日新聞の「朝日歌壇」に母の歌を発見。奈多海岸の人麻呂の歌碑は一緒に行ったし、四国の伊方原発は宇和島別府の船の中で見たから、この情景はよく理解できる。この歌を採った選者の心にも響いたのだろう。「朝日歌壇」は、1910年、石川啄木を選者として始まった。1970年(昭和45年)から、代表的歌人4人がそれぞれの視点で投稿から秀作を選び解釈や評価を記す。この歌については選者の高野公彦が「奈多(国東半島の南部)から見る白い異物」という言葉を加えている。自分の立っている九州の一角と遠くに見える四国の岬の突端にある原発。そして柿本人麻呂の時代と現代のシンクロ。この地理感覚と歴史感覚の交合、そして原発という大きく不気味なテーマと向き合っているという時代感覚がこの歌のポイントだと思う。母に電話をすると、朝日歌壇に採られたのは三度目という。2011年02月の朝日歌壇には、以下の歌が載っている。 原爆に遭いしピアノの傍らに従姉坐れり老女となりて (中津市) 久恒啓子この歌は仙台和泉区の高森に住む従姉が、広島で原爆に遭ったピアノを大事に持っていて、そのことが話題になった新聞記事を見た時に作った歌だ。私も実物を見ている。3・11の東日本大震災の直前の時期でもある。相当に被害を受けたと来ているが、あのピアノはどうなっただろうか。今回は原発の歌だが、これは原爆の歌だ。原爆と原発は背中合わせの科学技術であるが、その二つの歌が朝日歌壇に採られたのは興味深い。--------------------------------2004年12月18日には大岡信の「折々のうた」でも採られている。十年余の看とり辛からむと友は言ふ独りになるはもっと恐ろし 久恒啓子『「風あり今日は』(平十六)所収。十年余の看病とあるが、作者によると昭和六十二年に夫が脳出欠、症状が意外に重く、右片麻痺、失語症となった。以来十五年間、看病の明け暮れだっという。その間、子供たちの協力で一年に一度、国内外を旅行してストレスを解消したという。その夫も亡くなり、三回忌をすませた。この辺で「前向きに歩き出そう」と、この歌集を編んだという。右は闘病中の歌。健気な妻の本音。 大岡 信来訪者累計本日昨日
2014/02/17
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