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北九州市小倉の松本清張記念館で「1909年生まれの作家たち」という企画展が行われている。松本清張は1909年生まれだから今年は生誕100周年にあたる。久しぶりに訪問する気になったのは、「1909年生まれの作家たち」という企画に興味を惹かれたからだ。中島敦、太宰治、大岡昇平、埴谷雄高、そして松本清張という並べれた作家たちの生きた時代に興味を持った。1909年という年は、伊藤博文が朝鮮で暗殺された年であり、文学誌スバルが創刊された年でもある。年譜をみると、彼らの少年時代は大正デモクラシーの時代で、自由主義教育、大正教養主義の盛んな時期で、教育の現場では「綴り方」が行われていた。埴谷雄高の1年から5年までの通信簿が展示してあった。修身、国語、から始まって歌唱、手工などすべてが「全甲」だった。国語の項目を覗くと「話し方、読み方、綴り方、書き方」になっていた。大岡は小林秀雄に心酔し個人授業を受けているが、青年時代は、清張のみ高等小学校を出て就職している。早熟の中島は東京帝大を出て33歳で亡くなっている。大岡は京都帝大を出て国民新聞、帝国酸素、川崎重工を経て出征し、新夕刊新聞、フランス映画輸出入組合に職を得ている。戦争が始まった昭和16年、彼らは32歳。太宰は胸を患い徴用免除、埴谷は結核、清張は朝鮮で衛生兵、大岡は暗号手としてフィリッピンに出征している。清張と大岡が会社勤めをしたのは、出征後にも手当てがでることが理由だった。埴谷雄高は「死霊」、太宰は「人間失格」、中島は「山月記」、大岡は「武蔵野夫人」などの代表作がある。「群像」を舞台とした大岡昇平の「松本清張批判――常識的文学論と清張の「大岡昇平氏のロマンティックな裁断」という論争もあった。この同年生まれの5人の作家の全集が並べてあった。中島は3巻、太宰は12巻、埴谷は19巻、大岡は23巻、そして清張は実に66巻と圧倒的な仕事量だった。(それそれ別巻がある)5人の年表を並べて掲示してあった。中島は33歳で「山月記」、34歳で没しているが、死後「李陵」が発表された。太宰は、35歳で「津軽」を刊行。大岡は39歳で「俘虜記」。埴谷は39歳で「死霊」。そして松本清張は44歳で「小倉日記伝」で芥川賞を受賞して世に出ている。清張はこの中でも遅咲きである。清張は83歳で亡くなるまで膨大な仕事をしたし、88歳で亡くなった埴谷はその直前まで作品を発表している。全体を眺めてみると、活躍した時代をずいぶんと違う。生年ではなく、没年が重要なのだ。企画展を見た後、常設展を足早に見てまわった。この記念館は第56回の菊池寛賞を受賞している。「水準の高い研究誌を刊行しつつ、多彩な企画展を催すなど、健闘しながら開館十年を迎えた」と評価されている。女性館長藤井康栄さんは「作家・松本清張らしく運営することにいたしました」と述べているように、仕事の鬼だった清張にならって年中無休で開いている。
2009/02/21
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昨日の出身高校の同期会から「中津方言」で盛り上がっている。1、しゃーしぃ (うるさい)2、うたちぃー、こんやたぁー (汚いな~こいつは!)3、むげねぇー (かわいそう)4、いびしー (恐ろしい、怖い)5、おろいー (ずるい)6、とごえ (お調子者)7、ととっちょる (お調子者で走り回っているさま)・・こんやたぁ、ととっちょるのー8、いっぺこっぺ (たくさん)9、なんちかんち(言っても) (そう(言っても))10、ほいと (乞食)11、よだきい (きつい、つかれる)12、ねき (近く、そば)13、ちょびっと (少し、わずか)14、ちぃーと (少し、わずか)15、うーんと (たくさん)1、とぜねえ もう解散かえ、とぜねえな (寂しい)2、いらんこつ なしいらんこつするんか (余計なこと)3、みのけな おいさんはみのけな話しが好きじゃ (いやらしい)4、どべ 走りゃ一番じゃけど、勉強はどべじゃった (びり、最下位)5、ふがいい あんたずっとふがいいなあ (運がいい)----------------------午後は、企業での講演。「目からウロコ」は一人。f:id:k-hisatune:20121002160528j:image「やわらかい頭で」「驚き」「新鮮」「眠くならなかった」「考えることを考えさせられた」「考えることは面白い」「納得」「実感」「発見」「覚えるのではなく理解すること、が身に染みた」「頭がクリヤー」「考え方が180度変わった」「弱点を解決」「幹部も受けさせたい」「目からウロコ」「ひとつの解決策」「スムーズな流れであっという間」「刺激」「より良い職場に」「魅力」、、、。---------------------10月1日発行の「知研フォーラム319号」が届く。・人物記念館の旅(久恒啓一)--藤田嗣治、阿久悠、フェルメール。・BBC改革と公共的価値(原麻里子)・大都市制度について(鈴木邦彦)f:id:k-hisatune:20121002052211j:image表紙は私の写真だったのでビックリ。--------------------------------------------------学部長日誌「志塾の風」121002 | 編集 11時。多摩大の母体である目黒の田村学園を訪問。田村常務理事に人事案件の相談を兼ねて近況を説明。結果を今泉先生に報告。
2012/10/02
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4月初めの土曜日、池袋から東武東上線で1時間かかる武蔵嵐山(らんざん、と読む)に建つ、念願の安岡正篤記念館を訪問する。一世の師表・天下の木鐸とうたわれた安岡正篤(1898-1983年)の記念館は、正式には社団法人郷学研究所安岡正篤記念館という名前であつ。総面積5500ヘーベの域内には記念館のほかに、恩賜文庫、金鶏神社、成人研修会館、管理等などがある。ここでは安岡郷学を基調とした郷学の振興をめざし、この地にあった日本農士学校以来の伝統を継承している。この学校は昭和6年に創設され、東洋思想に基づき農村青年を教育した学校であるが、居ずまいを正さなければならないような気韻に満ちた空間である。まず、金鶏神社にお参りする。1927年(昭和2年)に安岡が小石川の義家公ゆかりの地に創設した金鶏学院がその源である。主神は天照皇大神、産土神は八幡太郎義家と畠山荘司重忠、そして学問神として孔子・孟子・王陽明・藤原せいか・中江藤樹・熊沢蕃山・安岡正篤・学院創設以来の道縁者と記されてあった。これが東洋学の系譜だろう。その後、平屋の日本家屋風の記念館に入る。記念館の看板は横に長い板に書かれた文字だが、安岡正篤の人格を髣髴とさせる立派な美しい文字である。安岡正篤は自身を教育者として位置づけていたが、生涯で二度大役を果たしている。最初は、鈴木貫太郎内閣時代、太平洋戦争を終える決意をした昭和天皇の「終戦詔書」に最後の赤字の筆を入れたときである。この詔書は1945年(昭和20年)8月15日にラジオ放送によって流れた天皇の言葉となって全国民が聞いた。安岡は戦争に負けて降伏するという言い方ではなく、将来にわたって大事な言葉を書き込んだ。これを「黄金の言葉」と言っている。「万世のために太平を開かんと欲す」という言葉は、天皇の玉音放送の中で抑揚をもっているので、これまで何回となく聞いているので私も覚えている。これは「近思録」という中国の書の中にある。もう一つの言葉「義命の存するところ」という春秋佐伝の言葉は、道義というものを至上命題とするという目的で入れようとしたが、最終的には「時運の命ずるとこと」に変わってしまった。これは風の吹くままという意味であり将来の国家再建に向けての財産とはならない。安岡は戦争を止める理由と国家の命題を同時に入れ込めなかったことを残念がったとのことである。もう一回は、昭和天皇崩御によって新しい元号を決めるときである。1989年1月7日、天皇崩御、1月17日に小渕官房長官は「平成」の二文字を発表した。この記者発表は若い小渕の顔と名前を一躍有名にした。小渕はミスター平成と呼ばれる。元号案は3案あった。修文、正化、そして平成である。敗戦とともに元号制度は風前の灯火となり慣習法上の地位として残っていたが、ようやく1979年(昭和54年)の大平内閣時代に元号法が成立する。この法はたた2条しかない。「元号は政令で決める」と「元号は皇位の継承があった場合に限りあらためる」である。内閣ではひそかに宇野精一、坂本太郎、諸橋徹二、安岡正篤の4人の碩学に元号についての検討を依頼している。平成とは、「地平らかにして天なる 内平らかにして外なる」からとった言葉である。これは後に総理となった竹下登が講演の中で「安岡さんの案」として紹介したことがある。書経には「万世のために太平を開かんと欲す」という言葉があり、その上に「地平天成」という言葉がある。明らかに安岡正篤の案であろう。吉田茂総理大臣は、その祖父である牧野伯爵が私淑していた安岡を老師として仰いだ。その縁で、岸信介、池田、佐藤栄作、大平正芳と続く歴代総理の指南番としての「役割を果たしていく。佐藤栄作の秘書だった楠田実は、佐藤総理は大事な文章にはほとんど朱を入れてもらうために安岡先生に面会したと述懐している。安岡の葬儀委員長は岸信介である。記念館にはアメリカの元駐日大使グルーの語った記録があった。太平洋戦争の和平工作にあったえ、アメリカの意向を直接に天皇に伝えられる人物として7人があげられている。最初に安岡正篤、それから緒方竹虎、結城豊太郎、藤山愛一郎、、。やはり影響力の大きい人物だったのだろう。熱心に記念館をみていたら受け付けの女性が男性を紹介してくれる。財団法人の評議員の方で、若いときから安岡に仕えたとのことで「偉過ぎて近寄りにくい人だった。その人にあうように話をしてくれた。人をみて話をする」と日常の人となりを説明してくれた。この人によると安岡正篤の長兄は高野山の大僧正403世である。兄は仏教会界の最高峰、弟は東洋思想の大家である。そして親切にも恩賜文庫の中を見せてもらっや。安岡の蔵書が何万冊と整理されて保管してある。壮観だ。何でも最近ホームページを立ち上げたところ、訪問者が一気に増えたとのことだ。思えば今まで安岡正篤の本はよく読んできた。「人物」をテーマに学問を積みあげた人物だけに心に響く言葉をたくさんもらってきた。今回も改めて多くの書物を買い込んできたので、珠玉の言葉を拾っていずれまた書いてみたいが、少しだけあげておこう。「経書は学問の最も根幹である。、、、一切の学問を経書の註釈にするように勉強すればよいい」「どんな一事・一物からでも、それを究尽すれば必ず真理に近づいてゆき、竟には宇宙・天・神という問題にぶつかるものだ。」「自分はつきつめた所、何になるかといえば、自分は自分になる”完全な自己”になるということだ」「宗教と道徳を区別するのあ西洋近代学の通念であって、東洋ではこの二者を”道”として一なるものと考えてきた」
2007/04/28
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平成元年から始まった20周年を迎える「元祖 The Club」の会合が飯田橋のメトロポリタンエドモントの「FOUR GRAINS」で行われた。もともとは大手企業の広報・宣伝課長の集まりだった。この会のメンバーはそれぞれの業界で活躍している人が多く、話も面白いので私も必ず出席してきた。京都(ワコールの塚本社長の自宅での桜鑑賞会)や軽井沢(トイ・ミュージアム)への旅行、話題のレストランでの食事会、和服専門店とのタイアップ企画で、東京駅の「ホテルメトロポリタン丸の内」のレストラン「天空」、和装の狂言鑑賞会など多彩な企画で毎回が思い出に残る会合となっている。小学館、ソニー、JR東日本、東京ガス、NTT、ワコール、ニッポン放送、写真家、評論家(波頭亮)、サントリー、JAL、などのメンバーで、現役陣では社長、副社長、常務等の役員、また独立している人、好きなことに没頭している人など、実に多才だ。今回は久しぶりに「和楽」の花塚久美子編集長も久しぶりに顔を見せた。今回は私の左隣は、スタジオを経営して人物写真を撮っているカメラマン。平成時代の20年を一緒に疾走してきた同志達の顔を眺めると皆それぞれ歴史のあるいい顔をしてるということになり、「現代ビジネスマンの肖像」という企画案が持ちあがった。また右隣は、JR東日本の副社長だったが、2年ほどこの会社の研修講師をしているので、企業の内部のこと、研修の成果などの話題になった。アイフォンとiPadの話題も。次回は9月9日の予定。中村勝宏グランシェフの特別料理(中村氏は所用で不在、石原雅弘シェフが陣頭指揮)。以下、メニュー。------開宴のプレリュード・赤ピーマンのムースと永田トマトのカクテル バジルの香り・ラディッシュの詰め物 フロマージュブランの白味噌風味・ぶどう海老のカネロニ仕立て ライム風味フレッシュ黒トリュフとフォアグラのフィーヌ・タルト・フリアンドルと菊芋のヴルーテ<カプチーノ仕立て活オマールテールのポワレ オマールのクーリのエミルジョンブレス産仔鳩のファルシとフレッシュ黒トリュフのクルート焼トム・ド・サヴォアのプチマフィン ノワゼットのサラダ添えショコラのデセール<シュープリーズ>コーヒー-----------------朝は、ポッドキャストのプロの早川さんがみえて、多摩大チャンネルの可能性を検討。午後は、秋学期の成績つけを終えて、九段で学部長と一緒に学長にブリーフィング。
2010/02/10
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6日の河北新報朝刊に中経出版から出た本の広告が載っている。1890円。「企画立案・集客からあとかたづけまで 地域振興に役立つノウハウ満載」「ボランティア活動に知恵と活力を与える本!」「宮城大学教授 久恒啓一先生 推薦!」という言葉も載っている。以下は、表紙の裏のソデに載せた推薦文。------------------------------------------------------------------仙台は祭りの盛んな都市である。七夕祭り・青葉祭りに加えて、SENDAI光のページェントや定禅寺ジャズフェスティバルなどの新しいイベントが市民の手で行われ、街に活気と潤いをもたらしている。新興のイベントを支える仕組みの高度なノウハウ化によって、組織運営や方法論や伝統を改めて意識にのぼらせた「SENDAI 光のページェント」は更に一段の発展をみるはずだ。この本は仙台・宮城・東北、そして全国の志ある人たちに勇気と希望を与えることだろう。-------------------------------------------------------------------
2005/12/05
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ファンである壇ふみが出演するNHK「新・日曜美術館」を日曜日の夜に見ることが多い。毎回、優れた美術作家を一人取り上げて深く追い、専門家の話も聞くという構成である。この分野に興味がわいてきたのはつい最近なので知らない画家や陶芸家の作品と人生を知ることを楽しみにしている。最近では画家の山本鼎の番組もよかった。先日の信州の旅で訪ねたかったが割愛せざるを得なかった。今日この番組で紹介されたのは、陶芸家の国吉清尚だった。沖縄に育ち沖縄で優れた仕事をした人である。沖縄の土に珊瑚を嵌め込み、1300度という高い炎で焼くという焼き締めという手法でつくった壷はテレビの画面ながら風合いがあって心惹かれる作品だった。国吉はある分野の作品に没頭し評判をとってもそこに安住しない。いろいろな要素からなるので熟練者でないと難しいとされる土瓶も、評判になる頃には次のテーマに没頭していて二度とつくらなかった。そして「世紀末のたまご」という個展を終え、1999年に55歳というこれからという年齢で自身の体に灯油をかけて自死する国吉の姿と作品に感銘を受けた。沖縄にも足を延ばしたくなった。縄文的な力強い要素、古代から現れたような独特の形状、炎との戦いの中で偶然にできる文様、人智を超えた陶器の不思議な肌合い、、、。本物を見たい、そして日常生活で使いたいという誘惑を感じる。この国吉の作品を使った沖縄料理の店が紹介されていた。国吉清尚の作品と人生を紹介していた早稲田大学の教授の解説も朴訥ながら的確だった。この人はアナウンサーや壇ふみの顔をまっすぐに見ずに、下を向いたり目をそらしたりしながら語るのが特徴だった。
2007/08/26
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「名言との対話」1月6日。今西錦司。 「君たちがいる。そして、わしがいるではないか。われわれにやれなくて、だれがやるのだ」。 ダーウィンの進化論に挑戦し、今西自然学を打ち立てた京都学派の棟梁・今西錦司は、若い頃は万年講師といわれていたように不遇だった。57歳でようやく教授になったが、63歳の定年までわずか6年しかなかった。その今西の弟子であり梅棹人類学を創った梅棹忠夫も万年助教授だったと回顧している。学問に名前がつくような独創的な研究者は遅咲きの人も多い。 今西は山がライフワークでもあった。登山歴は62歳で400山に達していたが、いつか達成しようと夢見ていた「日本五百山」を66歳で達成した。そして岐阜大学学長を退官した71歳の時に日本山岳会会長に就任し山行のペースがあがり「日本千山」を達成するのが76歳である。77歳で文化勲章を受賞。その後も山行は続く。そしてとうとう「日本千五百山」を83歳で達成する。この間7年だった。その後は、数を数えずに楽しみの登山に変え、85歳の山行を最後とした。1902年1月6日が今西した日だ。 ダーウィンは進化を自然現象とみて、生物進化の法則を求めようとした。ところが今西は進化を歴史としてみたから法則性には拘泥していない。種というものには自己同一性(アイデエンティティ)が具わっており、それを維持しながら変わってゆく。ランダムに変異して進化するのではない。環境変化に対応するために、突然変異の頻度を高め、次に現れてくる突然変異を適応の方向に沿うようにして、小刻みに変異を重ねてゆくうちにあたらしい適応型に変わってゆく。そして新しい種にまで変化していくこともある。これが多発突然変異による進化である。ダーウィンのいうような自然淘汰ではない。主体性の進化論である。 今西錦司は京都大学探検部の創設期から指導した。ようやく巡ってきた中国東北部と内モンゴル高原を分かつ大興安嶺の探検というビッグチャンスに、40歳の天性のリーダーは、この言葉を吐いた。30歳前の森下正明、学生であった梅棹忠夫、川喜田二郎、吉良竜夫ら、優れた弟子たちが奮い立った。このとき、大探検プロジェクトは成功を約束されたのだ。-------------------副学長日誌「志塾の風」150106 今年の初出勤。今日の白眉は、ペッパー君だ。このペッパー君をどう育てていくか。皆で知恵を絞ろう。新年の挨拶。 高野課長:沖縄・名桜大学との協定の様子。 山本さん:「名言との対話」のラジオ番組。 杉田先生:中期計画 金先生 大森先生:中期計画 バートル先生 酒井先生 豊田先生
2016/01/06
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国際協力機構(JICA・緒方貞子理事長)での2010年度の専門家対象の派遣前研修が始まった。市ヶ谷のJICA国際協力研究所に出向く。このあたりは、防衛省、自衛隊東京協力本部、いくつかの独立行政法人などがあり、独特の雰囲気だ。私の講座は、「図解思考を用いた国際コミュニケション力の向上」という名称で、一年間にわたって継続して行う予定。14時から17時まで。3月にJICAで行った模擬研修はJICA職員が対象だったが、今回は派遣される専門家が対象。今回は、 32名が受講。最年少は32歳から最高齢は62歳。殆どの方はこの5月か、6月に任地に赴任する。派遣国は、セネガル、ラオス、トンガ、ベトナム、ミャンマー、モンゴル、ブルキナファリ、インドネシア、ガーナ、チュニジア、ボリビア、メキシコ、カンボジア、マレーシア、コスタリカ、ベトナム、スリランカ、ハイチ、チュニジア。アジアとアフリカと南米の途上国だ。指導分野は、植物品種保護、安全作物生産普及、灌漑、防災行政、建設工事品質、浄水処理、都市計画・都市開発制度、広域重点課題支援(教育)、住民参加型計画と開発、地域保健、ガバナンス・人材育成、計画策定・地域開発、総合援助調整、地域保健(看護・助産ケア)、広域重点課題支援(農業)、、。実に多彩な分野にわたっており、国作りには膨大な分野があることを再確認した。農林水産省、法律事務所、水資源機構、日本生産性本部、首都高速道路、旭川市、国立国際医療研究センター、林野庁、福島県、JICA、旭川市、横浜市、コンサルタント会社、などから派遣される人が多いが、所属無しの人も三分の一ほどいる。派遣期間は2年が中心。三分の一が女性。「専門家」派遣なので、海外派遣の経験のある人が多い。サウジアラビア・エチオピア・ヨルダン、英国・カンボジア・ベトナム、ニジェール・ブキナファリ・ハイチ、ルワンダ・ギニア・セネガル、などの経歴がある。実習の過程で、モンゴルで調停制度をつくりにいく弁護士、ラオスで「母と子」の支援に出向く保健師、国税庁の役人、ハイチ地震の援助に向かう女性、森林保護に立ち向かう男性、灌漑施設で水資源の確保を目指す人、住民参加による計画と開発を志す人、などのミッションを具体的に垣間見ることもできた。図解実習のテーマは、「私の使命」「私は何をするのか」「私の仕事」で、相手国の人に自分のやるべきことを説明する図を描くことにした。出来上がった図の中のキーワードを英語や現地語に訳して使ってもらおうという狙いだ。国際語・世界語として「図解」を活用してみようというJICAとしても新しい試みだ。私にとっても「図解コミュニケーション」が国際協力分野でどの程度役に立つのかに大いに関心があるので、突っ込んでみたい。こういう人達からの現地からの報告も楽しみだ。3時間という短い時間での講義と実習。以下は終了後のアンケートから。 * 図示=世界語、図解思考に基づく国際コミュニケーション、共通認識とフレキシブルな対応、スムーズな共同作業の推進、と理解しました。任地でも役に立ちます。 * 実際に作業してみるとあいまいな部分がよく見えてきた。ただ現地で村人たちが図解を理解できるか未知である。 * 職場だけでなく全ての場面で応用できそうです。専門は医療安全ですが、図解によるアプローチの可能性を確信しました。 * 久々に脳が活性化しました。 * 論理としてりかいできた。ただしセネガル等、図を読む文化の無いような村人もいるためその場合はどうするのか。 * 図解思考法はとても有用なツールと感じました。 * 大事なことを中心に図解にチャレンジしてみたい。 * 相互アドバイスが役に立った。 * 自分のやるべきことを真面目に考えるよい機会となった。任地ではカウンターパートにもぜひ書いてもらい関係についての相互理解を深めたい。図の描き方、図解のつくりかた、についての具体的な指導を望む声も多いようなので、次回からは30分ほど時間を延ばして、応えようと思う。
2010/04/19
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日本ではみかけないが、欧米には「歴史家」という肩書きがある。司馬遼太郎の書き換えた日本史の膨大な蓄積と優れた観察に、まともに対抗できた日本史を専門とする歴史学者はいなかった。梅棹忠夫の「文明の生態史観」という骨太な世界史の構想に対して、各国史を専門とする歴史学者は沈黙を余儀なくされた。日本はなぜ太平洋戦争に突入して負けたのか、という問題意識をもって日本史の世界に小説という想像力を要する武器で切り込んだ司馬遼太郎、世界と人類の歴史をまるごと把握しようとし生態学の観点から文明の成り立ちと発展を論じた梅棹忠夫、この二人の巨人に共通するのは深い問題意識と徹底した現場主義と精力的な文献の渉猟である。司馬遼太郎の生前時代、この二人の対談を興奮を持って読んだことを思い出す。この二人は事実関係を積み上げる歴史学者という職業人ではなく、現在と未来のために総体としての歴史を論じることのできる歴史家と呼ぶべき人たちであろう。「20世紀から何を学ぶか(下) 1900年の旅 アメリカの世紀、アジアの自尊」(寺島実郎・新潮選書)は、寺島実郎の歴史家としての本質を際立たせた名著である。この本は自らの足と眼を使って歴史の現場に立ち、文献と資料によって事実を確認し、自身の20世紀像を確認しようとする壮大な試みである。「1900年の旅」を雑誌「フォーサイト」で「欧州篇」の連載を始めたのは1997年8月からの2年間で、「アメリカ・太平洋篇」は2000年からの2年間だった。それぞれ「1900年への旅--あるいは道に迷わば年輪を見よ」と「歴史を深く吸い込み、未来を想う---1900年への旅 アメリカの世紀 アジアの自尊」という二つの本に結実しており、私も読みかつ出版記念会での講演も聞いている。この新潮選書は2007年の時点で改めて加筆・修正を行い改編したものである。10年前の1997年といえば、寺島本人がニューヨークとワシントンの米国駐在から帰国した年である。宮城大学の開学も同じ年であり私が仙台に赴任してからの10年とまさに重なった時期にこの連載とその成果として本が完成している。この間、東京での様々な機会における講演や私の大学での客員教授としての講義や私的な交流の過程で本書の内容について聞く機会が多かったが、改めて読むとこの優れた構想と実行力に頭が下がる思いがする。下巻はアメリカ・太平洋篇であるが、1900年前後に日米関係と日本とアジアの関係の中で活躍した人物を追いながら20世紀を総括し、我々が歩み始めた21世紀を考えるという試みである。明治の青年に夢を与えたクラーク博士、タイム・ライフ・フォーチュンを創刊したヘンリー・ルース、第二次世界大戦当時の米国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト、戦後日本をつくったマッカーサー、太平洋の橋を目指した新渡戸稲造、高尚なる生涯を生きた内村鑑三、禅の世界的思想家・鈴木大拙、6歳で米国留学に挑んだ女子教育の津田梅子、世界的名声を博した医学の野口英世、アメリカ社会での日本の存在感を演出した高峰譲吉、在米のまま日本の近代のあるべき道を示した朝河貫一、近代石炭産業の功労者・松本健次郎、情報戦争の敗北者・大島浩駐独大使、アジアは一つと唱えた優れた美術行政家・岡倉天心、偉大な魂ガンディー、インドの良心チャンドラ・ボースとパール判事、中国革命の父・孫文、中国民衆の啓蒙者・魯迅、不倒翁・周恩来、、、、、。これらの人々の生きた時代とそれぞれのテーマと歩んだ足跡を一歩一歩踏みしめ丹念に掘り起こしながら20世紀の意味を考えぬ抜く、そこから21世紀の現代のテーマを念頭に置きながら教訓を導き出していくという忍耐と知性を必要とする知的営為に挑んだ姿には感動を覚える。深い問題意識と解決の道筋を発見しようとする強い意志と、解決のための体型的な構想の提示が寺島の真骨頂である。私自身、寺島実郎という人物と仕事や私的な活動の中で四半世紀にわたり交際を続け、その言動を注意深く観察する機会に恵まれているが、その思想や生き方に大いに影響を受けてきた。この書の中で展開される優れたキーワードは直接耳から、あるいは雑誌論文で見ていたが、改めて体系的にそして厳しい文字による言葉として触れると、一層の深みと強さを持って心に響いてくる。「選書版へのあとがき」の中の「人物論の妙味---人生を衝き動かすもの」という項では、歴史に名を残した人物を衝き動かしたものを深く考えるなかで、彼等の「時代認識との格闘」に著者は心を打たれている。またそれぞれが直面した「中年の危機」にあたっては、「使命感の再確認」と「出会いと人間関係」による力の獲得により進化を遂げていると述べている。単なる人物論の視界を越えて時代との関係において人物の本質や情念を汲み取ろうとする努力を重ねているのだ。そして見えにくい時代のテーマは歴史のメッセージに静かに耳を傾けることによって考え、「自分は何をすべきなのか」に回答を得なければならないと締めくくる。まさにこの書は進化する思索者であり、透徹した歴史家である寺島実郎自身の生き方の回答を探す旅の一里塚である。
2007/07/15
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金沢に仏教哲学者・鈴木大拙の記念館が大拙の誕生日10月18日にオープンした。県庁職員への研修中の昼休みにあわただしく訪問してきた。鈴木大拙(1870-1996年)は禅の研究を通して東洋の思想を世界に伝えた人物である。存命中の1960年発行の「ライフ」で「世界に現存する最高の哲学者は誰か」という世論調査で圧倒的多数で鈴木大拙が選ばれている。f:id:k-hisatune:20111108131657j:imageこの大拙の最終学歴は「中卒」である。在籍した第四高等学校、東京専門学校、帝国大学文科大学は、いずれも中退しているからだ。四高時代には、西田幾多郎(哲学者)、山本良吉(武蔵高校の創設校長)、藤岡作太郎(国文学者)と巡り合っている。また、大拙は安宅産業を起こした安宅弥吉が献身的な支援を惜しまなかったこともあり、紆余曲折を経て世界的人物になった遅咲きの偉人である。f:id:k-hisatune:20111108131952j:image26歳でアメリカに行くのだが、宗教学者・ポール・ケーラスの助手としてオープン・コート出版社に勤める。米国滞在は11年に及ぶが、この間に「大乗仏教概論」を英文で出版している。また、生涯の伴侶・ビアトリスとも出会う。ようやく帰国した1909年には、すでに37歳になっていた。f:id:k-hisatune:20111108131716j:image聖路加国際病院理事長で先日100歳を迎えた日野原重明先生が、90歳以降の最晩年の鈴木大拙を診ている。当時日野原先生は48歳だった。大拙は90歳頃から親鸞の「教行信証」の英訳にあたる。「年をとらないと分からないことがたくさんある」と語っていたそうである。宗教学者の山折哲雄も晩年の大拙に何度か会っている。桑原武夫が、津田左右吉が俳人・一茶を日本文学史上の最高の文学者とし、鈴木大拙が妙好人(みょうこうにん)を高く評価したこと、そして精神医学の土居健郎がもっとも惹かれる人物が良寛であると吐露したことを書いている。それは要するに「日本回帰」と結論付けている。大拙の著書は、禅の世界観を用いて日本文化を伝えようとした。f:id:k-hisatune:20111108131226j:image後に石川県専門学校(のちの四高)時代の数学教師であった師の北条時敬(ときゆき)は、欧州滞在中の大拙と会う。北条は「実に堅忍勉学、身を立てたる人物なり」といい、「同氏は学生時代には優秀人物に非ざリシニ」と書いている。大拙は年齢を重ねるごとに大きくなっていった遅咲きの人であった。北条は、山口高校校長、第四高等学校校長、広島高等師範学校初代校長、東北帝大第二代総長、そして学習院院長と栄進を続けた教育者だった。大拙は、尊敬すべき師と優れた友人に囲まれていた。f:id:k-hisatune:20111108131735j:image大拙の書物は、いくつか今からひもとくが、禅や浄土宗など大拙が研究したものは、中国やインドの叡智を学ぶのではなく、それを機として「日本的霊性」が外に現れてくるという言い方をしている。日本研究の人ということだろう。日本的霊性 完全版 (角川ソフィア文庫)----------------------------大学で書類整理。事務局の数人と面談。来年度からのゼミ生志望者と面談。夜は、町田の「井の上」で樋口裕一さんの家族4人と私の家族4人との会食。
2011/11/09
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正月休みを延長。5日は、竹田市の岡城を訪問。荒城の月のモチーフとなった堅城。印象深い名城だった。佐藤義美記念館を訪問。日本のアンデルセンと呼ばれる童謡の作詞家。その後、国東半島の安岐町へ車を飛ばす。まず、重光葵を記念した三渓偉人館を訪問。ミズーリ号上で日本が降伏調印した当時の外務大臣。戦犯、後に許され戦後も活躍する。今回の旅のメインであった三浦梅園資料館を訪問。ずっと気になっていたが、予想どうり大きな収穫があった。今後の私の研究テーマに影響があるだろう。今回は1泊2日の旅だったが、すばらしい収穫の多い旅となった。詳細は別途報告するつもり。---------------------------------岡城址瀧廉太郎の「荒城の月」の舞台である。竹田は山々を描く南画の世界そのもであるといわれたが、山の上の台地を切り拓いて堅固な城をつくった、その名残りがこの岡城址である。確かに登り口以外の壁にあたる部分は、峻険で断崖絶壁で容易に人を寄せ付けない自然の城だ。大手門まで登ると後は、ほとんど台地となっていて広い。この中に三の丸や西の丸、家老の居宅、賄い方などの跡があり、本丸は一段と高くなっている。本丸に登ると360度に景色が見渡せる。北は九重・大船山の九州アルプス連邦、西は東洋一の阿蘇の噴煙を眺め、南は祖母山(1756m)、傾山(1602m)の高峰一帯の大森林を一望のうちに収めることができる。そして下には2つの川が見える。牛が臥した形に似ていることから、臥牛城とも呼ばれている。日本の音百選に選ばれた岡城址では、風が大木の枝や葉をかすめる音がサワサワ、サワサワと響いている。また川の瀬音も聞こえる。「春高楼の花の宴 めぐるさかずき 影さして 千代の松枝 わけいでて 昔の光 今いずこ」という土井晩翠の「荒城の月」の歌詞が彫られた石碑が建っている。 この城は、大野郡緒方荘の緒方三郎惟栄(これよし)が源義経を迎えるために築城したと伝えられている。1586年に島津の大軍の猛攻を18歳の志賀親次が支え、秀吉から感謝状をもらっている。その後、中川氏の居城となった。御廟の山城、本丸と二の丸・三の丸が平山城、西の丸が平城で築城史上特異な城である。 本丸から下ったところに楽聖・瀧廉太郎の像が建っている。もしやと思って裏に回るとやはり朝倉文夫の署名があり、建立時のいきさつや友情が記されている。 「瀧君とは竹田高等小学校の同窓であった。君は15歳、自分は11歳。この2つの教室は丁度向かい合っていたので、わずかに1年間ではあったが、印象は割合に深い。しかしそれから君の亡くなるまでの十年間はほとんど何も思い出せないのに、11歳の印象を土台に君の像を造ろうというのである。多少の不安を抱かぬではなかったが、製作に着手してみると印象派だんだん冴えてきて古い記憶は再び新しくなり、追憶は次から次へとよみがえる。学校の式場でオルガンの弾奏を許されていたのも君、裏山で尺八を吹いて全校の生徒を感激させたのも君。それは稲葉川の為替に印した忘れることのできない韻律であった。そして八年後には一世を画した名曲「四季」「箱根の山」「荒城の月」に不朽の名を留めたことなど、美しい思い出の中に楽しく仕事を終わった。 昭和25年8月15日 朝倉文夫今、自分は50年前の童心に立ちかえり幽憶つくるところをしらず 君をしのぶれば(?)笛の音将に月を呼ぶ このような高台にある大きな城跡は見たことがない。瀧廉太郎が12歳から14歳の時分にこの岡城に何度も足を運び、大きな影響を受けたことが偲ばれる実に印象深い場所だった。-----------------------------------佐藤義美記念館「ニルスのふしぎな旅」「十五少年漂流記」の翻訳文の作者、「いぬのおまわりさん」などの作者である童謡詩人佐藤義美記念館。1905年竹田生まれ、1968年に63歳で没した。 横浜の家のつくりをそのままつくった2階建ての一戸建て。書斎には、机とベッドがあったが、ランプやかたつむりのように巻いた時計、鳥の模型など楽しい人柄を偲ばせる品がある。「日本のアンデルセン」とも呼ばれている。長身痩躯で、ヨット遊びの写真や帽子を被ったおしゃれな詩人。逗子の自宅で、仕事とヨット以外の時間は読書にあてていたという。最近(2004年)出た「ネバーランド」という童話の広場を目指した雑誌の創刊号は、佐藤義美特集だった。「いぬのおまわりさん」 まいごの まいごの こねこちゃん あなたの おうちは どこですか おうちを きいても わからない なまえを きいても わからない にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん にゃん ないてるばかりでいる こねこちゃん いぬのおまわりさん こまってしまって わん わん わん わん わん わん わん わん」グッドバイ「グッドバイ グッドバイ グッドバイバイ とうさん おでかけ 手をあげて でんしゃにのったら グッドバイバイ グッドバイ グッドバイ グッドバイバイはらっぱで あそんだ ともだちもおひるに なったら グッドバイバイグッドバイ グッドバイ グッドバイバイ三びこ うまれた 犬の 子もよそへ あげたら グッドバイバイグッドバイ グッドバイ グッドバイバイまちから いらしたおばさんもごようが すんだら グッドバイバイグッドバイ グッドバイ グッドバイバイあかい ゆうやけ お日さんもしずんで いったら グッドバイバイ」この二つの童謡は、今でも歌うことができる。本当に久しぶりに思い出した。この人の作品だったのか。歌の力は大きい。いつまでも残っている。 「一本の指が痛いとき」は原爆否定の長編童話。「ともだちシンフォニー」は、反戦のうた。-----------------山渓偉人館(重光葵) 国東半島の安岐町の道路沿いにある太平洋戦争で降伏調印(ミズーリ艦上)をした日本全権の外務大臣重光葵を記念した山渓偉人館の前に立つ。立派な胸像が建っている。もしかしてと作者名を見ると朝倉文夫とある。朝倉は、同県人の瀧廉太郎も、重光葵も、そして角聖双葉山も手がけていたのだ。 瀧廉太郎の父は直入郡の群長だったが、重光葵は三重町群長の次男。東大をでて外交官になった。ドイツ、英国、ポートランド、ベルサイユ、中国、ドイツ、上海、中国全権公使、天長節の満州での式典中に爆弾テロにあい、右足を失う。満州事変から大東亜戦争にかけて、外務次官、駐ソ連大使、駐映国大使、駐華大使。昭和18年東条内閣の外相、小磯内閣外相兼大東亜大臣、主戦後東久爾内閣の外相県大東亜相、ミズーリ号上での降伏調印、A級戦犯として巣鴨へ。昭和23年極東軍事裁判にて禁固7年、27年仮出所後、改進党総裁。29年第三次鳩山内閣では副総理・外相、日ソ交渉全権大使。 1887年生まれで1957年に69歳で世を去っている。文藝春秋社から「巣鴨日記」を出版している。偉人館には、チャーチルと2人で写った写真や爆弾テロにあう直前の写真などが印象に残った。役場の担当者がつきあってくれたが、この偉人館を訪れるのは年に4-5人ということだった。重光葵記念館と明確にするともっと人は訪れると思う。重光葵が太平洋戦争をどうみていたか、巣鴨日記を読んでみたいと思う。降伏調印に向かう心情 「ながらえて 甲斐ある命 ○○ しも しこの御盾ならましを」昭和25年「魂のよみがえる くにに幸のあれ 国の起こらで なぞ止むべきや」「国連の○に掲げし日の丸の 旗は朝日の輝きし見ゆ」娘・華子「不自由な足を引きずり 進み行く 壇上の父 我わすられじ」昭和32年杵築高等学校での揮毫 「志四海」-----------------三浦梅園資料館 1723年生まれで67歳で没した。杵築藩の黒岩往還と中津藩の藤田敬所に師事。医者をしつつ宇宙の仕組み、自然の摂理などを研究した思想家。遊学は生涯3回のみ。23歳の時の長崎では、天文学に触発され宇宙の原理を学び、その後天球儀も自力で作成している。30歳近くのお伊勢参りでは、天地の条理を発見、それが「玄論」となった。この書には宝の引用は一切ない。56歳で長崎に再び遊学。梅園塾には17カ国200人以上が学んでいた。 あらゆるものを円と直で説明できるという説を唱えた。円は直からできている。私の図解の理論と同じだ。そういえば、梅園の研究家が私の講演を聞いて同じだと言っていたことに納得がいった。陰と陽、は平等で相対的。一即一・一。一・一即一。反観合一は反対からみる方法。「自然が先生だ。自然の仕組みを活用すると大いなる成果があがる。人間は分と限度をわきまえよ。他の生物と共存せよ」同時代のカントや百科全書派のディドローと同じ考えだったそうだ。梅園は儒教を否定して、人を利すことが内を利すことになる。情欲が満たされてこそ社会は安定すると唱えた。著書「価原」は通貨はそのものに科地があるのではなく、交換が役割と定義。エンデの思想とも通じる。条理とは対の構造の確信。玄語図は円と直で構成されている。大直、大円。玄語図は湯川秀樹や古在由?が高く評価。 三浦梅園は、科学者、教育者、政治経済学者、文学者、医学者と万能の大きな学者だった。1975年には梅園学会ができ活発に活動している。 「人生恨むなかれ 人の識るなきを 幽谷深山 自らなき?なり」(辞世の句:中国の対句)「希う所は 後世作者興ることあらば 則ち顧を万分の一に得んことを。 死すとも且つ朽ちざるなり」(「敢語」序) 教育方針 「おのおの、その長ずる所にしたがい 好む所に向かわしめる」(「塾制――行状)門人師弟を教育するに各其の長ずる所に随い 其の好む所に適す」(行状9 それぞれの長所を伸ばし、好みに合うものをさがして。三浦梅園―亀井南明―広瀬淡窓梅園三語 玄語:天地を条理的に叙述した自然哲学書。他人の引用が一切ない。 「故人古書を一言も引かず我見る所にまかせて書きつらぬ」 贅語:従来の学説を天地の条理の観点から吟味した学術史。 「天地に合ふ所は拾い 天地に合わざる所はすつる故 諸家の説を取捨して贅語を書きたり」 敢語:人間の道を条理でとらえ儒教的政治学説をも大胆に批評した政治論三浦梅園の考え方を、図解コミュニケーションの先達として研究してみよう。梅園研究の資料や梅園学会の出版物などをたくさん買った。---------------------------------------
2005/01/05
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581ページという大部の「リー・クアンユー回顧録」(下巻)を読了。1965年にマレーシアから分離独立した淡路島、東京23区とほぼ同じ面積を持つ多言語・多国籍からなる人口国家の建設、という途方もない難題に取り組んだ英雄の考え方と足跡がわかる本だった。この国家はマレーシア、インドネシアに囲まれた島国であり、地理的にも気候的にも厳しい環境だった。マレーシアからの水の供給を断つという脅しに対処するために、イスラエルと台湾から援助を得てゼロから国軍を創設する。英国の撤退、金融センターの創出、労働組合への勝利、住宅供給と健康管理と年金などの公正な分配、共産主義への勝利、中間票の獲得など一連の基本的な政治施策を推し進めた。多言語社会をどう克服するか。マレー語、中国語、タミール語、英語の4つを公用語と定めた上で国際語である英語ができる人が専門的職業に就け高給を食むことができることを知って自然に英語を使える国民ができあがった。このことが経済の発展とIT技術の浸透につながった。一方で伝統的価値観の保存も必要でそのための措置も講じている。日本はアメリカの影響を受けても日本人のままで勤勉で社会貢献に重きを文置いていると評価している。清潔な政府をどうつくるか。「クリーン行政」を志向しアジアでもっとも汚職の少ない国となった。選挙に多額の資金がいらない政治システムが必要である。多額の資金が必要なら当選後にそれを取り戻そうとするから汚職が蔓延することになる。清潔さを保つためには政治家と政府高官の報酬を有能な他分野の人びととそん色のないレベルにすることが必要だ。日本は世界でもっともお金のかかる選挙システムを持つ国と分析し、公共事業で結びついた建設業者などの企業が協力しているとしている。マスコミをどう管理するか。外国プレスに免許を与えてシンガポールで誤報や国家打倒のキャンペーンをはることは許していない。政府をどう運営するか。政府の運営は有能なチームを指揮するオーケストラの指揮者のようなものという考え方で、その時々に最重要な課題を抱えた省に常に最高の人材をあてることにしている。そして目標を設定しあとは任せるが、政府の失敗の責任は首相がとる。今やアジアのハブ空港となったチャンギ空港はわずか6年というスピードで完成している。IT技術の早期導入は競争力を高めた。リー首相は70歳でコンピュータを学んでいる。1967年に結成した近隣諸国との東南諸国連合、そして1965年に22番目のメンバーとして加盟した英連邦は、シンガポールに多くに利益をもたらしている。アセアンの協力によって1997年からの東アジア経済危機に対処し、英連邦のネットワークによって各国の元首たちから貴重なヒントを得ている。日本をどう見ているか。「旧日本軍のシンガポール占領後の残虐行為」を忘れないリーは、「日本は平和的で非軍事的ではあるが、決して本気で悔い改め謝罪しない国である」と言っている。池田勇人から橋本龍太郎まで歴代の首相の印象を語っているが、荒削りでダイヤモンドのような魅力を放っていたと田中角栄首相を評している。歴代の自民党政権は日本の過去と向き合うことはしてこなかった。ドイツ人の行っている歴史教育の方法を学ぶべきだという。日本人は精神の浄化ができていない。毒を取り去っていない。過ちを認め、謝罪し、前進して、より大きな信頼と信用を得てともに前進して欲しい。日本の文化は強靭で知能指数は欧米人より高い。日本はいかなる災難も克服していくだろうが、極端に振れるのが恐い点である。韓国。肉体的には日本人より頑健だが、まとまりと献身の点では日本人には及ばない。激しい国民で容易に妥協しない。北朝鮮がIT技術の発展にもかかわらず情報統制で国民の世界観を形成することに成功したら非常に危険だと警鐘を鳴らしている。中国。人口の4分の3を占める華人の故郷。海外華人はタイ、マレーシア、フィリピン、インドネシアに対して脅威を与えている。アセアンは中国から放送を通じて直接華人に働きかける姿勢を危険な反政府活動ととらえている。とう小平を高く評価。「窓を開ければ新鮮な空気と一緒に蠅や蚊が飛び込んでくる」日本について、アメリカが頼りにならないとなれば日本は一人歩きを始めるかもしれない。東南アジアの全ての国に対する脅威は増大する。核武装の危険もあると懸念する。中国は、地域覇権国家の道を選ぶか、国際社会のよき一員として成長の道を歩むかの二者択一の選択になる。今後中国は50年の間に、計画経済から市場経済へ、農村ベースから都市ベースへ、共産主義社会から市民社会への移行である。致命的な問題は汚職である。よい政治実は、よい人間が必要だ。首相は目標と達成期限を明確にする。任せられた人はいちばんいい方法をみつける。人物鑑定でもっとも難しいのは人柄の評価だ。人格がより重要だ。分析力、想像力、現実感覚。大きな観点から事柄や問題を見る能力、問題点を明確にして取り出す能力。最後に、31年間首相をつとめたりー・クワンユーは「私は運がよかった」と回顧している。仕事、家族、兄弟姉妹の関係もいい。「アジア太平洋地域の平和と安全は、アメリカ、日本、中国の三角関係次第である」と語っている。バランスが保たれれば地域の将来はよくなりシンガポールは世界に役立っていける。日中関係、日米関係、米中関係。日本への期待は大きいことがこの言葉でわかる。この分厚い本を読み終えて思うことは、りー・クワンユーは内外に問題を抱える人口国家の建設という難題を見事に解いた稀有の人物であると思う。問題の設定と解決の道筋の決定と不屈の精神、そして柔軟な修正。優れた人材を使いこなすリーダーシップ。大局的世界観。現実感覚。人物を見抜く目、、。日本に対しては、憎悪と尊敬の入り混じった感情を抱いている。日本人の能力と態度には敬意を表してはいるが、その暴発も恐れている。何よりも過去の謝罪と未来へ向けての繰り返さない方策を求めている。そこから再出発してくれという強いメッセージを受け取った。-----------------------------------------学部長日誌「志塾の風」130127 | 一般入試ターミナル型の二日目。本部詰め。昼食はラウンジで安田SGS学部長、橋詰SGS入試委員長、樋口入試委員長と情報とアイデア交換をしながら摂る。試験の合間に樋口先生、豊田先生と入試関係のアイデアのブレーンストーミング。付属系列との連携の深化、近隣大学との連携の強化などすぐに着手できる方策が浮上。「ターミナル」という名称はイメージがよくないので変えるべきだと思う。また入試の名称が複雑になって受験生を混乱させる恐れもあるので整理することが必要。
2013/01/27
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「北海のヒグマ」との愛称で親しまれた異色の政治家・中川一郎の記念館を北海道十勝支庁広尾町に訪ねた。注目していた政治家だったが、自由民主党総裁選に立候補して破れた後3か月もたたない1983年1月に、突如57歳で早世してそのニュースに驚きをもって接したことがある。1925年(大正14年)に北海道に生まれた中川一郎は、十勝農業学校、宇都宮高等農林、九州帝国大学農学部(農業土木)で学び、父の悲願どおり北海道庁で役人生活を始めるが、酒の飲みっぷりがいいという理由で、北海道開発庁長官になった党人政治家・大野伴睦(1890-1964年)の秘書になり、大野を生涯の師とする。その後、緒方竹虎長官の秘書もつとめ、政治への志を持つ。12年間の役人生活を経て第30回総選挙に立候補し当選する。以後、目鼻立ちのくっきりとした保守政治家として精力的な活動を行う。中尾栄一、浜田幸一、石原慎太郎、渡辺美智雄らとともに31人で1973年に青嵐会を結成し、事実上のリーダーである代表世話人をつとめる。その後、1979年に自由革新同友会を22人の同志とともに結成、これが事実上の中川派の旗揚げとなる。この間、福田赳夫大蔵大臣から「有史以来の名政務次官」と言われるなど大蔵政務次官を二度つとめるなど手堅い手腕もみせる。福田赳夫総理のもとで農林水産大臣として日ソ漁業交渉をまとめ、そして科学技術庁長官(鈴木内閣)で原子力発電に力を入れている。13人という小派閥を率いる中川一郎は、1982年10月16日自民党総裁選に立候補する。このとき立候補したのは、中曽根康弘、河本敏夫、安部晋太郎と中川一郎の4人である。河本、安部、中川の反主流三派連合の成立で予備選実施を避けられないと判断した鈴木首相は、退陣を表明し中曽根行革長官を後継者に指名し、田中、鈴木、中曽根の主流三派は中曽根康弘を候補に一本化する。結果は派閥の締め付けがあり予備選で安部にも及ばず4位となる。このときの中曽根総理誕生のドラマは私も社会人となっており鮮明に覚えている。そのときの風雲児が中川一郎だった。率直、大胆、駆け引きのない人柄、というのが中川に対する人物評であるが、同志であった石原慎太郎は、中川の「魅力は結局可愛らしさだったと思う。」と評している。中川一郎の座右の銘は、「真実一路」である。親孝行でも有名だった。またよく歌う唄は「星影のワルツ」で「仕方がないんだ、君のため」の君を国に置き換えて歌っていた。北海道出身の横綱千代の富士の後援会長でもあった。記念館から天馬街道を走ったところに「中川一郎農林水産大臣生誕の地」という碑が建っている。黒地に白抜きで書かれている字は広尾町長の泉耕冶氏の書いたもの。この碑の建立にあたって寄付をした人と名前が脇に書いてあった。5万円が11人、3万円が2人、2万円が3人、1万円が17人とあったから、合計で84万円になる。青い山々を遠くに眺め、小麦畑の美しい緑に囲まれた秋の風景は、中川の凛としたそして厳しい振舞いを感じさせる。記念館は、紅葉の木々を従えて悠然と建っている。中川が和服を着て佇んでいるような印象であり、思わず居ずまいをただしたくなるような建物だった。「資質衆に優れ、理解力、判断力は抜群。行動力に秀で、正邪を鮮やかに分別し、しかもこれが正しいと信じたことについては、千万人と雖もこれを排して進む気概の持ち主である。」「雲を呼ぶ飛竜であり、風にうそぶく猛虎そのものであった」(「福田赳夫)「抜群の知恵と力を持つ、いわば存在感の重い男である。加えて、人を魅了する陽気さと気さくな人柄で、どんな人にも信頼感を抱かせる、抱擁力(包容力?)の大きい政治家だった。」「親友中の親友だった」(安部晋太郎)「折にふれて思い起こす度心の中をさざ波をたててよぎっていく、という相手は滅多にあるものではない」「あの巨きくもろく可愛かった、私の人生の中を通り過ぎていったひとりの懐かしい男」(石原慎太郎)中川一郎の後継者を争った長男・中川昭一と実力秘書だった鈴木宗男の二人が並んで中川一郎のことを偲んでいるいる文章を目にした。中川昭一は、「「らしく生き抜いた」57年の10か月の親父の人生」というエッセイで、「「らしく生き抜いた」と私は思います。人間らしく、、、男らしく、、、夫らしく、、、父親らしく、、、政治家らしく、、そして中川一郎らしく自ら燃え尽きてしまった、、」「親父が好んで書いた言葉は、「真実一路」、「寒門に硬骨あり」、「雲去りて天一色」、「人事を尽くして天命を待つ」でした」とある。鈴木宗男は、「この人のためなら、体をはろう、全てをかけよう」そんなkモ地でおつかえした14年間でした」「親孝行な人でした」「いつかおふくろに喜んでおらおうと思って、今日までがんばってきた」いつもこう話していたもんです」「本音を言う政治家として一時代を築いた中川一郎先生の姿こそ、私にとって最高のお手本であります」。そして「厳しい選挙戦の結果、ご子息は、中川一郎先生を上回る立派な成績で当選され、私もひきあげていただきました」とも語っている。中川一郎は大学の先輩でもあり注目していたが、今回記念館でその残した言動を知るにつけ、一度会っておきたかったという思いのする人物だった。総裁選前夜に、中川が糾弾している政敵・田中角栄とゴルフをしたとき、「池のコイははねてもよいが、砂利の上に落ちるとスルメになるぞ」と言ったと報道されて、この台詞は有名になった。
2008/11/07
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私たちは日常生活では常に選択に迫られている。どちらのプランを採択するか、どんな戦略で行くか、赤いシャツを買うかグレーのシャツにするか、誰を食事に誘うか、状況や重要度に差はあるものの、様々な場面で決断をしなくてはいけない。その時にすぐに判断を下せない人が案外多い。時には何事も決断できず、決断しても満足行く結果が得られないと、結局「失敗した」「損をした」と後悔ばかりする。そのような人が、非常に難しい問題でも早く決断できるようになる方法がある。どちらでもいい。そう信じることだ。自分が選んだ方が正解なのである。私も大学時代、何事においてもどちらがいいか選べない時期があった。自分の出す決断に自信が持てなかったのである。しかし、岡本太郎の『原色の呪文』という本を読んで衝撃を受け、それから、どのような状況でも早く判断ができるようになった。私が影響を受けたのはその本の中の、「迷ったら、失敗する可能性が高い方、自分がダメになる方を選べ。そうするとエネルギーが湧いてくる」という言葉だった。実際は、それをそのまま受け止めたわけではなく、常に苦しい方を選ぼうとは思わなかったが、私が迷う原因は、成功しそうな方、得をするであろうという方を選ぼうとすることだと気がついた。よく考えてみれば、成功しそうな方を選んでも失敗するかもしれないし、苦しい方を選んでも結果的にうまく行くかもしれない。つまり、どちらを選んでも、その後の自分の行動や心掛け次第で結果は変わるのだ。それならば、決断を下す時点で重要なことは、どちらかをとにかくはやく選ぶことだけなのだ。それからは、「迷ったら、どちらを選んでもいいのだ」と思えるようになった。どちらでもいいと思うと、早く決断できる。決断が早いと悩んでいる時間が少ないので、気分が楽になる。楽に考えることが習慣になると、どちらを選ぶかというような苦しい判断をする場合でも、あまり悩まなくても選ぶことができるようになった。就職先を選ぶ時でも、真剣にどちらがいいかを悩んでも誰が考えても正解だという答えはでてこない。不確実を承知でどちらかを選ぶという決心で前途を切り拓こうという気概が生れてくるのだ。また、どちらかを選ぶという選択肢ではなく、「どちらも」という選択肢もある。あまり早めに決めることは避けて、ある期間同時並行でやっていくと、自然に決まってくるということもある。自然な流れの中で進むべき方向が見えてくるのだ。曖昧さをかかえたままで、ある期間過ごすということも必要なのである。
2007/01/12
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