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毎日、目の回るような忙しさです。GW、関係なし。毎日雪崩のごとく仕事がやってくる。それらを消化するのに精一杯の日々。娘も、GWなど関係なしの職種ですので今朝もマスクを手に出勤していきました。・・本当は、幼い頃に見ていたドリフターズについて書きたいのですがじっくり時間をかけて書くことができません。ですので、箇条書きにて、少し。幼い頃の土曜日の楽しみと言えば「8時だよ!全員集合!」でした。以前の日記に書いたことではありますが毎日切羽詰まった精神状態で学校生活を過ごしていた私にとりまして、土曜日の夜の「全員集合」は、唯一ほっとできる時間でもありました。その番組の中ではいかめしい、いかにも厳しそうな学校の先生をいかりや長介さんが演じ、そのいかりやさんに、他のメンバー4人が様々ないたずらを仕掛けていく‥‥。せ、先生にそんなことしていいの?と、私自身思いながらもメンバーの破天荒な、めちゃくちゃないたずらをいかりやさんが(叱り飛ばしながらも)やんわりと受け流す様を見、心の何処かほぐれていくのを感じました。先生はこうあるべき、生徒はこうあるべき、そして、人はこうあるべきだ、というような私の持っていたバッキバキの固い枠組みをドリフターズの皆さんが笑いで解きほぐしてくださっていたのだと思うのです。思えば7歳という年齢にあるにもかかわらず自律神経失調症を発症していた私にとりましてドリフターズの皆さんはほっとできる存在でもありました。当時、大人はみな厳しく、規律正しく、ひたすら前だけを見て突き進む人たちなのだと、そして決して冗談など通じない人たちなのだ、とそう思っていました。なのに土曜日の夜、テレビをつけると大人が5人、揃いもそろってドタバタ笑いを繰り広げているのです(笑)。そんなメンバーの様子から・・・人生は、そんなに厳しいことばっかりじゃないよ。楽しいこともいっぱいあるんだよ。いろーんなこと、あっていいんだよ。失敗してもいいんだよ。・・・そんな、ドリフターズからの温かなメッセージをあの頃の私は確かに受け取っていたのだと思うのです。「全員集合」の番組の終わる頃、主演者全員が舞台に立ち「ババンバ・バンバンバン」と歌っていましたがその歌詞の中に「 いい子だな 」があったと思うのですね。加藤茶さんが「風邪ひくなよ!」「歯、磨けよ!」と仰るたびにまだ幼かった私はテレビの前できちっと正座をして「 はい♪ 」と返事をしいつかドリフターズの皆さんに「 いい子だな 」と思ってもらえるよう頑張ろう、と、あの頃、そんな風にも思っていたのでした。
2020.05.02
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毎日、ただただ慌ただしく過ぎてゆきます。連日、義父母の通院付き添い。仕事も多く、いつも夜中の3時過ぎまで格闘、さすがによれよれ。身体も悲鳴をあげつつあるようで先日の夜、数年ぶりに消化不良を起こしてしまいました。いつも、胃の重苦しい痛みから始まるのですが今回はそれを素早く察知し、飲食を全てストップ。冬の毛布を3枚身体にかけ、湯たんぽで腹部を温めます。ついで「中山式快癒器」を背中に当てお腹の蠕動運動を促すツボを刺激。手当が早かったおかげで、今回は何とか軽くすみました・・・。それにしてもこの「中山式快癒器」。優れものです。腹部の調子が何となく思わしくないときなど背中に当て、使用するのですが、かなりの効果が期待できます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・先週の土曜日、大学時代のクラブの友人が、関西に来てくれました。夕刻、友人と夫と私、3人で会ったのですが、本当に楽しかった。夢のような時間だったなあ・・・と。この友人と、大学時代、もっともっとたくさん話しておけばよかった。そうしたらたくさんの思い出を作ることができたのに。それと同時に思ったこと。今こうやって心から楽しく話をすることができるのはひとつには、友人の本当に温かな人柄。そしてもうひとつは 卒業してからの30年の月日。お互い、この30年の間、仕事にもまれ、結婚し、子供を育て多くのことを乗り越えてきた・・・年輪のようなもの。上手く言えないのだけれど、友人の優しさ、温かさが年月によってより豊かに醸成されている・・・そんな風に感じたのです。友人は、大学時代から本当に優しい人で本当はもっとたくさん話したかったのだけれど、私自身口下手で社交性もなかったので‥‥こちらから話しかけることもできなかった。今回、今のこと、お互いの子どものこと、そしてあの頃のこと、本当に多くのことを話すことができて、本当に嬉しかった。至福の時間でした。あの頃・・・毎日のように大学で顔を合わせていた頃、あの頃はみんなに毎日会えるのが当たり前になっていて本当にたくさんの時間を一緒に過ごしていて、なんて貴重な時間だったんだろう・・・って。夫とも、そんな風に話しています。
2019.07.06
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先日、ようやく53歳となりました。普通、年齢を重ねることに対し女性は喜ばないのかもしれませんが(笑)私自身は素直に嬉しい、と心から思います。病気のことを知りました時、自分に50代、60代の日はないかもしれないと思った時、周りの方々をどんなにうらやましく思ったことか。殊に50代以上の方々に対しまして本当に・・うらやましかった。50代、60代ともなれば自分の娘の結婚、妊娠、出産、育児。それらのことを、何とか無事に乗り越えようとする年代。確かに大変ではあるけれど自分の娘がその一生の中で大変な時期を迎えるときに母親である自分がしっかりと生き、娘を支え助けてあげられる、そのことがどんなに有難く素晴らしいことか・・・と。・・・そう思いながら我が娘を見てみますと今年の夏には早くも24歳。このひよきちわーるどを始めたころにはいまだ幼稚園生だったことを考えますと改めて 時の流れの速さを感じるわけです。ときに、君、結婚の予定はあるのかい?と問うてみましたところそんな予定はまるでない、と一言で返事が返ってまいりました(笑)。こればかりは・・・・ご縁の問題ですのであたたかく見守っていきたいと思います。数年前、メールの友人に誘っていただきFBに登録いたしましたがこのFB,本当に貴重ですね。今では メールの友人はじめ、幼稚園の頃からの幼馴染、小中高、大学の友人そしてこちら関西の友人、ネット上の友人とつながっております。そんな中で「!」と驚くようなご縁が。まず、メールの友人ですけれども(これは以前の日記にも書いたことですが)友人とは2006年、ネットの掲示板で知り合いました。ハンドルネームの美しさ ( SF小説の主人公の名 )、そして掲示板上での礼儀正しさがとても印象に残っております。お互いメールを重ねるにつれ友人が八王子高尾のケーキ屋さんの常連であったことが判明!そしてあろうことかそのケーキ屋さんとは、ひよきちがアルバイトをしていたお店!何と私たちは ケーキ屋さんの常連客と、その店員だったわけです。私が・・・そのケーキ屋さんでアルバイトをしていましたのは1985~1987年、ちょうどその頃に、友人はしばしばそのケーキ屋さんを訪れていたそうなんです。まさかその20年後に、Eメールなどという不可思議なものにて友人になるとは・・・!(*^_^*)本当に有難いご縁です。また、高校3年生の頃同じクラスだった人が今では私の義弟の同僚だったり、高校1年生の頃にクラスメートだった人が現在、私の妹夫婦と同じPTAの役員で妹たちと仲良くしてくださっていたり、同じく高校1年生の時のクラスメート、今では姪の通う高校の先生で、クラブの顧問でもあります。皆、FBつながりで・・ご縁の不思議さ、有難さをしみじみと思う日々です (*^_^*)
2019.03.30
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知人がお亡くなりになって数か月が経過しました。・・今でもまだ、信じられない気持ちでおります。私たち夫婦共通の知人でありこの20年間、お世話になった方でもありました。20年ほど前、我が家が大変な状況に陥ったときにも、そしてまた このたび夫が背骨骨折のため自宅療養していましたときにも「大丈夫ですか!」とわざわざ来てくださったのでした。その方が我が家の玄関に来られるとその空間すべてが明るくなるような、そんな笑顔の方でした。お通夜、告別式の際にも、椅子も全く足りなくなるほど多くの方々が参列なさいました。おそらくは会館の外にまで多くの方々が並んでおられたことと思います。弔辞も、会社の同僚、そして長年の友人が読み上げられましたが同僚の方はただただ泣きじゃくり、言葉にならなかった。その人の悲しみがどれほど深いものか・・・周りの私たちはただ黙って受け止めることしかできませんでした。あれほど、心のこもった弔辞を私は忘れることはできません。・・・良い人は、なぜ早くに亡くなってしまわれるのでしょうか。この数か月、知人のこと、そして13年前に亡くなられた桃花さんのことを想っていました。お2人とも、信じ難いほどに純粋で優しい方々でした。私自身、7歳も年上だったあの頃の桃花さんの年齢をいつしか超え、ようやく穏やかな気持ちで向かい合えるようになったのではないかと思います。かつて、夫が言ってくれました。私たちが真っ直ぐに生きようとしている限り桃花さんの心は、いつも私たちのそばにいてくれると。・・・それを思いましたら、この初夏のころに亡くなられた知人もまた私たち夫婦が懸命に生き続ける限りこれからもずっと、私たちとともにいてくれるのではないか、と。
2018.09.14
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日記の更新が途絶え、早くも2ヶ月以上が経過していました。その間、様々なことがあり身体的にも精神的にも、 かなり停滞してしまいました。ひとつは20年以上親交のあった知人がお亡くなりになったことです。「手術して早く治すから!」と仰っていましたのに手術の6日後にお亡くなりに。本当にあっという間の出来事でした。・・最後にお会いしました時の笑顔を、今も忘れられずにいるのです。あんなにいい人がどうしてこんな早くに亡くならなければならなかったのだろう。・・・もっと書きたいことも多くあるのですがそれらすべてを書き表すには、膨大な時間とエネルギーとが必要になります。残念なことに 今の私にはそれだけの時間も精神的・体力的な余裕も、もう残ってはいません。
2018.09.09
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FBは「思い出の扉」だと思う。幼稚園に入る前からのお友達と再会を果たせたり小・中・高・大の友人とも再び会うことができた。今までは「みんな元気かな・・・」と懐かしく思い起こすことしかできなかったのだけれどFBのおかげで、思い出の扉を開けることができた。本当に嬉しい。・・思えば、今から43年ほど前の昭和48年11月。交通事故により4ヶ月もの入院生活を余儀なくされ、当然のことながら学業の面でもその影響は大きかった。職員会議が開かれ、当時小学2年生だった私に対しもう一度2年生を、との声も挙がったそうである。しかしその時、クラス担任をしてくださっていた先生が「この子は絶対大丈夫だから。」と頑として、その意見を受け入れなかったとのこと。思えば・・私は早生まれであり、誕生日は3月29日。仮にあと数日ずれ込んでいたとしたらもうひとつ下の学年になっていたはずである。そのことを思えば、確かに もう一度2年生を、と提案した先生方のお考えも頷ける。けれど、それでも「この子は大丈夫だ!」と「同じ学年の友人達と一緒に過ごさせてあげたい」と、他の先生方の意見を制し守りきってくださった先生に私は、今も深く感謝している。先生が守ってくださったからこその今の私であり先生のおかげで、同じ学年の友人達と数え切れぬほどの思い出を築くことができたのである。・・・これからFBの中でどのような出会いがあるかそれは分からない。43年もの昔に、私を守ってくださった先生がいらしたことを「この子は大丈夫だ」と、信じてくださった先生のいたことを私は、生涯忘れない。
2017.01.04
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つい先日、ようやっと義父が退院できたのですが・・今度は腸閉塞でまたもや緊急入院となってしまいました。義父からの「どうも調子がおかしい。」との電話で慌てて実家に行き、義父を乗せて病院へ。そのまま検査、診察、緊急入院となりました。検査や診察に付き添い、入院に必要なものを揃えバタバタしていますうちに、いつしか夜。その翌日には義母を整形外科に連れていき次いで実家の外回りを掃除。また、今日は「お腹の調子が思わしくない」という義母をかかりつけの内科へ。検査の結果、大きな病院での精密検査が必要ですとのことで今月末には県内の総合病院へ。明日は自治会の行事が朝・夜と予定されており(・・・もしかしたら風邪を引いたかな?)と不安になりつつも(今、自分が風邪を引くわけにはいかない!)と気合いを入れています。・・とは言いますものの、今月29日には滋賀での腹膜偽粘液腫の検査、来月7日には乳癌の検査と、胃の痛くなるような予定を控えており気の休まることはありません。きっと、精神的に強いタイプでしたら「全然、大丈夫!」と言えるのでしょうけれど如何せん、小心者ゆえ戦々恐々としております。………………………………………………………………………………………昨日は、桃花さんの11回目の命日でした。この季節、紅葉の美しくなる頃になりますといつも、桃花さんのことを想います。もしも自分が、もう少し早く病気になっていたら桃花さんともっと違う話ができたのかもしれません。ましてや「人間は皆、一緒だ。いつかは皆死んでしまう。それが、早いか、遅いかだけだ。」などと馬鹿なことを伝えずにすんだのかもしれません。あの頃、まだ病気になっていない頃の自分はそれが励ましの言葉だと思いこんでいたのです。5年前、神戸で1回目の手術を受けたその日の夜中、術後の痛みに呻吟しつつ桃花さんのことを思っていました。今、自分は術後の痛みに苦しんでいる。けれど、それは痛み止めで十分対処できる程度のものだ。苦しいのは今晩だけで、あとは時間の経過とともに少しずつ良くなっていく。ただ、今、痛みに苦しんでいるこの状態でお見舞いに来てくださる方と笑顔で話ができるか?微笑みながら「どうぞ」とその人に椅子をすすめることができるか?「お茶をどうぞ」と気遣うことができるのか?・・・いずれもNOでした。自分にできるわけがない、と思いました。けれど、11年前の桃花さんはお亡くなりになる36時間前に、そうやって気遣ってくださったのです。本当に凄い方だった・・・とただ、項垂れるばかりです。昨日は夕刻、所用で神戸に参りましたが電車の中、窓に広がる播磨灘を見つめながらあの頃、ずっと年上でいらした桃花さんの年齢をいつしか超えてしまった、とそしていつかは親子ほども離れてしまうだろうことを想っていました。
2016.11.11
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昨日の日記に引き続き、心はてんやわんや状態でありながらも家の中の大改造を少しずつ進めている。進めているとは言っても、大改造終了を「1000キロメートル達成!」とするならば毎日の進む距離は1センチほど(涙)。泣きの涙である。先日は、大学時代の音楽テープを少しだけ整理。さだまさし、オフコースなど 懐かしい顔ぶれの中大貫妙子のテープが出てきた。・・・この人の曲については 数年前、この日記にも書いている。そして この曲とともに浮かぶ懐かしい人がいる。今日は、数年前の日記をここに再掲します。(年数につきましては適宜修正しての再掲であります。)……………………………………………………………………………今日は 正真正銘 恋のお話である。もう30年以上も昔のことになってしまうけれど彼は理系出身、毒舌家であった。そして 決して優しさを前面に出すことのない人であった。それでも時たま 驚くぐらいの優しさを見せる人でもあった。お付き合いしていた頃、彼から 大貫妙子のテープをもらったことがある。「僕はこの人の名前が好きです」というメッセージ付きで。早速テープを聴き、この歌い手の声、そして彼女の持つ独特の世界にひきこまれてしまった。中でも「突然の贈り物」は私のお気に入りの曲となった。たった一度だけ 彼に「きれいになったね」と言われたことがある。生まれて初めてのことだっただけに 私はひどくうろたえ 手をバタバタさせながら必死に否定し、気がついた時には「そ、そんなこというものではありません!」と口走っていた。・・・・でも、その時の一言は嬉しかった。「きれいになったね」と言ってくれたときのその人の表情、声の響きまで 全て覚えている。29年経った今でも。やがて 遠距離恋愛だった私たちはお互いの場所でそれぞれに好きな人ができ お付き合いも1年で終わりを告げるのであるが、1度だけ 彼に「今度の彼女はどんな人なの?」と(大胆にも)訊いたことがある。彼はちょっと後込みをしたあと その人の写真を見せてくれた。「この人、○○(ひよの名前)さんに・・・似てるんだよね」と言いながら。どれどれ。ちょっぴりおどけながらその写真をのぞき込んだ私は 何と言うべきか・・・苦笑するしかなかった。彼の言うとおり その人と私はまるで姉妹のようだった。彼によると声まで似ているという。・・・こういうとき、私は何と言ってこの場を切り抜ければよいのでしょう。写真に向かって「おお!お姉様!お会いしとうございましたぞ」などと お馬鹿なことでも言えばいいのだろうか。今度は彼が 私の新しい相手の写真を見た。「背の高い人だね」・・・そうだね。そう返事しながら お互いにふっと笑った。もう、私たちは恋人同士でも何でもない。でも こうして機会があると会っている。この人とは 恋愛感情云々というようなものから外れたところで良い友情を築いていけるのではないかと思った。・・・そんなことを 考えていた26歳の夏。いつだったか その人からの最後の手紙にこう書かれてあった。「あなたの1番良いところはその心のきれいさだと思う。 それって眼にも見えないし、耳にも聞こえないけれど いつまでも大事にして欲しい」うーん・・・・なぁんで最後の最後になって こういう事を言うかなぁ、あなたは。私はね、あなたのこと こんなことを言うような人だとは思っていなかったのだよ。もっと私に関して無頓着な人だと思っていた。あなたが私のことどう見てるかなんてちっとも分からなかった。それにしても あなたとはよく喧嘩したね。それぞれ 余りに主義主張が違っていたものだから 会うといつも喧嘩になった。でもね、変に相手に気を遣って何も言わないよりは、こうやってお互いの考えをぶつけ合う方が私は好きだった。本音でポンポン答えを返してくれるあなたが好きだった。最後に逢ったときのこと覚えてるかな。あなたはお気に入りのカメラで私を撮ってくれたね。写真を撮られると魂を吸い取られる・・・と怖れていたわけではないけれど私は再三辞退した。 照れくさかったから。けれどあなたは静かに笑いながら 何枚も撮ってくれた。「26歳のあなたは 一生のうち今しかいない。 時が経てば少しずつ変わっていくのだから 今のあなたを撮っておきたいだけ」と言ってくれた。今、私の手元にその写真がある。その写真の中の私は あなたに微笑んでいる。26歳のままの自分だ。・・・思えば その人は11歳から26歳までの私を見てくれていた。自分で言うのもおかしいことではあるけれどその人は 私の一生のなかで1番きれいな時期を見てくれていたことになる。(娘18 番茶も出花 と言うではないか)人にはそれぞれ 優しさの表現方法があるけれども その人の優しさに、私は最後の最後になって気付いた。最後に逢った日、車で送ってくれたのはいいのだけれど、その場所というのがお互いの実家の中間地点なのだ。何でこんなところで降ろすかなぁ(笑)。何も私の家の前まで、そして玄関先まで、と言うわけではないけれど もうちょっと場所というものを考えてくれてもいいのではなかろうか。ふとそう思ったけれど、その人はそういう人なのだ。そう思ったら何だか可笑しくなった。はっきり言って 私のことをか弱い女性だと思って接してくれるわけではない。荒野のど真ん中に1人取り残されても、力強く生き残る・・・・そんな女性だと信じて疑わなかったようである(笑)。・・・車から降りて その人の車を後ろから眺めた。案の定 その人は前方を見ている。こちらの方を見てバイバイと手を振ってくれるような、そんな男性ではないのだ。そんなの百も承知だ。そんなべたべたしたことをするような人ではない。その人らしいなと思い、そうだ・・・今日で逢うのも最後だからと思い、私は前だけを見続けているその人に軽く手を振った。その人には分かるはずもないと思った。それに その人に手を振るなんていう、そんな可愛いこと 私にとっても初めてだった。いつも会釈ですませていたから。そう思いながら手を振りかけた途端、それまでじっと前だけを見つめていたその人が 突然車のルームミラーに向かって手を振りかえしてくれた。それを見て驚くのと同時に、ああ、この人はそういう人だったのだと改めて思った。私に関して無関心だったわけでも、無頓着だったわけでもなかったのだ。バイバイと笑顔でもって手を振ってくれるタイプではなく(そう、優しさというものを前面に押し出す人ではなく)無関心を装いながらも 私の気付かぬところでちゃんと見てくれていたのだ。今まで 私はそれに気付かなかった。・・・・・今初めてその人に出逢ったところで私はその人に対し 恋心を抱くようなことはないであろう。時の流れと共に 私も変わってしまった。 毒舌を受け止めるだけのつよさも、今の私にはない。まるで謎解きのような会話を楽しむよりは、率直で素直な 温もりのある会話を愛するようになっていった。今日は 本当はこんな日記を書くはずではなかったのだが、偶然昔のテープを見つけ ほんのちょっぴり懐かしさに浸っただけのことである。大貫妙子のこの曲を聴くのも 29年ぶりのことだ。 突然の贈り物 甘く香る花束 頬を寄せて 抱きしめる温もり ・・・・・・・ 初めて出逢ったときのように 心が震える ・・・・・・・・ 幸せでいたなら それで良かった
2013.07.31
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今日は、桃花さんの七回忌です。6年前の今日、旅立たれました。あんなに眼のきれいな人はいなかった。眼が切れ長だとか、そういうことではなく人の話を聞く時の 怖いほどの真剣さ。まるでこちらの心の奥底まで見透かすようなそんな眼をなさっていました。・・・誠実で まっすぐな得難き友人でした。
2011.11.10
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今、手元に8歳の時の写真があります。お正月に、本家にご挨拶に伺った時のもので淡い桃色の着物に身を包み少し恥ずかしそうにしています。髪を結い、薄化粧をほどこしたことが恥ずかしくまた美しい色合いの着物も 自分にはもったいなく思われて(笑)それだけに・・・8歳の時のお正月を今も忘れることができないでいるのです。その年のお正月には 家族それぞれに様々な想いがありました。まず、祖母の末期がんからの生還。本当の意味での生還と言うには5年の年月が必要なのでしょうけれどともかくも、大手術を勝ち越え抗癌剤を一切拒否、その後、有り難いことに再発することはありませんでした。その祖母が 私のために誂えてくれた着物が上述の桃色の着物だったのです。祖母がいそいそと畳紙をあけてくれたときの嬉しさ。あまりに美しい色合いで 私にはもったいないとさえ思いました。ちょうどその時の私は前年の交通事故の影響で右手に大きな傷が残り幼いながらも、こころのどこかでお洒落を諦めておりました。どんなに可愛らしいお洋服を着ても右手にこんな傷があるようでは似合わない。いかにも滑稽だ、と、お洒落をしようとするたびに自分にブレーキをかけていました。そんな私に 祖母はこんなにも愛らしい着物を誂えてくれたのでした。幸い、着物の袖は右手の傷をすっぽりと隠してくれます。長襦袢を纏い、この美しい着物に袖を通すときこころが仄かに華やぎました。私もお洒落をしても良いの?と戸惑いつつ 絹のなめらかさ 柔らかさに胸は高鳴ったのでした。・・・今にして思えば 当時祖母は60歳。自身のがんを乗り越え、これからさらに元気に生きていこう、と思っていたことと思うのです。本当ならば、もっと自分のことに時間もお金もかけられるはずでした。けれど祖母は 自分のことにはほとんどかまわず当時、右手に傷が残り意気消沈していた孫娘のために美しい着物を誂えてくれたのでした。今も目を閉じればその柔らかな色合いが浮かびます。本当に自分が纏ってもよいのだろうかと戸惑っていた幼い私。そばで微笑んでいた祖母。元気を出しなさい生きることを謳歌しなさいそんな気持ちを着物に託し私に渡してくれたのでしょうか。・・・・この3月は 祖母の生まれ月。生きていれば、白寿を迎えていたはずです。私も44歳、今にして祖母に伝えたかったことしてあげたかったこと、本当に・・・多くあります。自分の運転する車に祖母に乗ってもらい祖母の好きなお店に連れて行ってあげたかった。祖母の好きなものをきき、自分のお給料でプレゼントしたかった。好きなお料理を作ってあげたかった。・・・今、自分の思っていること、してあげたかったこと最早それらのことを祖母に伝える術もないことを今更ながらに思うのです。
2011.03.09
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ひと雨ごとに 花壇のささやかな芽が大きく、大きく伸びてきています。自然の力のつよさ、不思議さを思いつつ顔を出したばかりの芽に心で話しかけます。ホトトギスも、鮮やかな緑色。藤袴は柔らかな翠です。今は少し元気をなくしている山橘ももう少ししましたら勢いを増してくるでしょう。金木犀も新たな芽を出し始めています。先日、とても優しい 懐かしい夢を見ました。遠い昔に まるで兄のように慕っていた人の夢。私はその人から多くの花の名を教えてもらったのでした。・・・夢の終わりにさしかかる頃その人が1冊の本を手に「こういう本があるんだよ」と教えてくれました。その本の表紙には淡い色の桜。そして「花の余韻」という題字が書かれてありました。その人は花との別れがあるからこそいっそうその花を愛することが出来る、と。こころの痛くなるような言葉だなと思うそばから 夢は覚めてゆきました。折々に訪れる、花々との別れ いえ、おそらく 花だけではないのでしょう。・・・・・・さまざまなことを思わせる短い、短い夢ではありました。
2011.03.01
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この時期、数年前までは稲美町の万葉の森公園によく行っていたものですがネット上の大切な友人を亡くしてからは行くのが辛くなってしまいました。風の冷たくなる頃になりますと白い椿が花を咲かせるのですね。この花の名をハンドルネームにしていた友人を鮮やかに思い起こすのです。信じ難いほどに優しい人でした。 白椿 優しき君の思はるる 花の名遺し 逝きにし人よ
2011.01.14
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5年前の今日は、桃花さんのお亡くなりになった日です。・・・今も「午後11時38分、ご臨終です」との先生の声が耳を離れません。「 Amazing grace 」それまでは好きな歌でしたがこの日を境に 聴くのが辛くなった歌でもあります。
2010.11.10
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町田にてお茶の先生をしていた大叔母が亡くなる。生まれて初めて お茶というものに触れさせて下さったのがこの大叔母だった。家の中でもきちんと着物を纏いその着姿があまりに自然で雰囲気も、そしてその色使いもさりげないものであった。そう、あまりにさりげなく大叔母が着物を着ているということさえこちらが忘れてしまうほど(笑)。身のこなし、歩き方・・・全て自然だった。本当に素敵な女性だった。私が落ち着いた色合いの着物に惹かれるのも殊に紺の着物 白の帯を愛するのも全て 大叔母がいてくれたからこそ、と思う。
2010.04.21
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叔母の告別式から早くも8日が経とうとしています。叔母は、私の母の妹でして大変明るい性格の持ち主でした。癌の手術を何度もくぐり抜けそのたびに寿命を延ばし長期にわたり闘病生活を送っていましたけれど1月下旬に自室で倒れているのを発見されそのまま救急搬送。・・・その翌日に帰らぬ人となってしまいました。叔母のお見舞いに行ったときのことをふと、思い出します。当時、叔母は2回目の手術を終えた後でしてまだ痛む傷口をかばいながらの会話でした。叔母が、こう言うのです。「病気になったのが ○○ちゃん(私の名前です)でなくてよかった」と。・・・今も、このことを思いますと涙がこぼれます。
2010.02.05
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先日、夫と、桃花さんの思い出について語り合った。早いもので、桃花さんがお亡くなりになって5年目である。あの日、お亡くなりになる2時間前ご家族から「もう、時間の問題です」とのお電話をいただき取るものも取りあえず電車に飛び乗った。急いで病院に駆けつけたのだけれど病室のドアを開けるのと同時に「ご臨終です」との主治医の声。・・・・不思議なもので彼の告別式に参列し、そのお顔を拝見しているというのにそして斎場へ向かう車をお見送りしているというのにこの世の何処かに彼が未だ生き続けているような気がしてならない。時折、まかり間違って彼のブログが更新なされているのではないかと思いお邪魔するのだけれど2005年11月の日付でブログは終わっている。伝えたい言葉がたくさんあった。して差し上げたいこともたくさんあった。クリスマスツリーを病室に飾りたいという彼の希望にもう、10月だろうが11月だろうがそんなの関係なしに飾ればよかった。余計なことしちゃ駄目かな?などと遠慮したりしなければよかった。「どちらが先に亡くなっても、私たちはずっと友達だ」と伝えればよかった。でも、「どちらが先に亡くなっても」という言葉を言ってよいのかと躊躇した。桃花さんを孤独に陥らせてしまうのが怖かった。彼のブログには「人間は所詮1人だ」という言葉が遺されている。そんな思いを抱えていた彼に対し「亡くなる」という言葉を遣いたくはなかった。私たち友人が彼の病室にいる間はまだいい、けれど、誰もいなくなった病室で彼がどんな思いで孤独と闘っていたのだろうと思うと・・・たまらなくなる。せめて私たち友人は 最期の最期まで桃花さんに対し「共に生きゆく仲間」として接するべきではないかと思い彼と、死について多くを語ることはしなかった。・・・・桃花さんを見送って5年目。心残りはたくさんある。同時に 自身の無力さを痛感している。朝夕、仏前に座り彼のご冥福をお祈りしているけれど生前、もっともっと彼のことを祈るべきではなかったかと彼の回復を祈るべきではなかったかと、今更ながらに悔やまれるのだ。・・・自身の無力さを痛感し同時に、自分自身に対する信頼を失いつつある。自分が嫌いになったとか、そういうのはまだ始末に終える。ただ、自分に失望したのだ。心の奥深く、何かが冷たく固まってしまった。そんな状態であるが故に昔からこの日記を読んでくださっている方からのご指摘の通り、この日記もずいぶんと変わってしまった。何がどう変わったのか自分でも上手く言えないのだけれどでも、変わってしまったことは事実である。・・・まず、物事を突き詰めて考えてしまう自身の癖が日記の中で浮き彫りになってしまった。良くも、悪くも。数日に一度の頻度で書いていた「お笑い日記」が書けなくなっていた。そういう類の文章は自分に、余程の精神的余裕がなければ書けない。人生や人間を肯定する気持ちがないと書けないものだと思う。他の方々のブログにお邪魔し、コメントを残す気力が失くなってしまった。ただ、お邪魔はしているけれど、そして文章も拝見しているのだけれどコメントを残すだけの気力が今の自分の中に残されていないのである。燃えさかるもの、熱いものが自身の心の中から消えてしまった状態なのだ。・・・自分に対する信頼の念を失くした者が一体これから何をどうしようというのだ、という無気力、自虐の思いが在る。・・・・先日の夜には、そういう自身の思いを夫に伝えた。夫に話しているうちに尚更つらくなり 涙が止まらなくなった。そして夫なら、この心の内を理解してくれるかもしれないと思った。夫はひとしきり私の話を聴いてくれたあと「それでよかったんちゃうか」と話してくれた。その時、その時で最良と思える方法をとったのならそしてそれが桃花さんを大切に思う気持ちから出たものならばそれでよかったのではないか、と。「桃花さんは今でも『強くなれ』と、励ましてくれているのではないか」とも。桃花さんと知りあったことで 私は多くのことを学ばせていただいた。そのご恩返しに自分に出来ることを少しでも・・・と思ったのだけれどそれでも、何もすることが出来なかった。これまで自分の生きてきた中での経験を思い起こし、想像力を総動員して桃花さんの気持ちに寄り添うことが出来たなら・・と思ったのだけれどそれでも、出来なかった。桃花さんは 最期のメールの中で「あなたに逢えて本当に良かった。」と書いてくださった。こんな、何の役にも立たなかった私に対しおそらくは方向違いの努力ばかりしていた私に対し桃花さんは最期まで優しかった。・・・そんな優しさに応える術を知らなかった自分に自分自身、失望したのである。しかし、人間は、こうしようと思ってはいても、思うように出来ない存在なのだとどう努力してよいものかも分からず途方に暮れてしまうのだと、そのことを本当の意味で分からせてもらったことに感謝したいと思う。知り合った相手が桃花さんであったからこそ私は何とか出来ないものかと藻掻いた。のこされた余命を安らかなものにしていただきたいと、そのために自分が出来ることはないかと考えを巡らせた。その結果、自分に出来ることなどたかが知れていることを痛感させられたのである。・・・今、自分に対し失望している私をもしも桃花さんがご覧になったとしたらどんな風にお思いになることだろう。夫は「そんなん、桃花さんは望んでないで。」と言う。自分に出来ることなどたかが知れている、と分かったからこそ今、この時をスタートとしなければならないのではないかと。ちっぽけなことしかできない、そして(おそらくは)方向違いのことをやってしまうかも知れない自分だからこそこの現実を真摯にとらえ、努力を続けていくべきだと。桃花さんが逝ってしまわれてから4年以上が経ちようやく、スタート地点に立った思いである。年を追うにつれいつか私は 桃花さんの年齢を追い越してしまうだろう。そして自分が70代、80代となった時親子ほども年の離れてしまった桃花さんのことを私はどのような思いで見つめることだろう。桃花さんに出会うことにより私は、何ひとつ出来ない自分を再発見した。共感能力、想像力をつよくしたいと心底願った。何も出来なかった自分に愛想が尽きた。けれど、だからこそ、新たに出発しなおそうと思った。そんな未熟な私を遠い思い出の中から桃花さんはどんな風に見ていてくれるのだろう。死を目前にしてあれほどまでに気高く優しかった人を私は 生涯忘れない。
2009.07.03
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6年前の日記を読み返しました。「オフ会参加」という日記です。・・・・時の流れの速さをしみじみと思います。
2008.12.05
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お付き合いの長い方なら 本日11月10日がどのような意味を持つ日かおそらくは知ってくださっていることでしょう。間に合わなかった(2005.11.11)あなたのように(2005.11.15)・・・3年前の、紅葉の美しい頃でした。その時から、紅葉は私にとりまして悲しみの象徴となっています。大切な友人である桃花さんへ 感謝を込めて。
2008.11.10
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数日前、少し悲しいことがありここしばらく物思いに沈むことが多くなっていた。・・・ふと思い立ち 桐の箪笥から空蝉の香を取り出して封を切り、お香を家の中のあちらこちらに置いてみた。仲秋の名月は過ぎてしまったけれどせめてもの名残に 兎の香合に香をしのばせ玄関に。小鳥の取っ手の付いたガラスの器に香を入れ陽の射す明るい洗面台に。残ったお香は柔らかな布に包み、家の中のいくつかの箪笥の中へ。ほんの少しだけ 鞄の中にもしのばせようかと思ったのだけれど香りには人それぞれ好みもあるだろうし自分ではよかれと思ってしたことでも他人様にとってはご迷惑でしかないこともあると思いそれについては取り止めに。・・・お香を長いこと桐箪笥の中に入れていたのでお着物や帯、伊達締めなどに仄かに香りがうつっており身に纏うたび甘やかな気持ちになる。けれど もしやこの移り香が 社中の方々に御迷惑をおかけしているのでは・・と心配になりお訊きしてみたのだけれど幸い、他の方々には全く気付かれぬほどの香りだったようでようやく安堵し、この移り香は自分のみのささやかな楽しみとなっている。冒頭に書いた、悲しい出来事というのは・・3年前の秋にお亡くなりになった大切な友人のことを思い出してのことである。数日前、大阪でのコンサートを終え帰り際、タクシーにて大阪駅に着いたのだけれどその着いた改札口が「桜橋口」だった。この桜橋改札口は、私が友人と会うときにいつも使っていた待ち合わせ場所であり私にとって大切な思い出の場所である。タクシーから降りて、何の気無しに駅の方を見た途端「桜橋口」との文字が目に飛び込んできたのだった。・・・こういう不意打ちは 本当によくない。恥ずかしいこととは知りながらたちまちのうちに涙がこぼれてきた。余命宣告を受けた友人に対し、何の力にもなれなかった自分。どんな言葉をかけてよいか途方に暮れていた自分。それまでの自身の経験や様々なことを総動員し自分に出来うる限りの想像力を働かせ友人に寄り添っていたいと思ったのだけれど・・・それでも、無力だった自分。改札口を通り抜けながら様々なことが脳裏に浮かび私はいたたまれなくなってしまった。あんなに早く逝ってしまわれるのなら辛い検査も治療も必要なかったのかも知れない。あんなに痛い思いをなさらなくてもよかったのかも知れない。ご自分が一番辛かったのに周りの私たちに心配をかけまいと いつも笑顔でいらした友人。亡くなる直前にも、あんなにも優しく温かだった友人。・・詮ないこととは知りながらも今でも、友人のブログページに行く自分が居る。まかり間違って日記が更新されているのではないかと思ってしまう、そんな自分が居る。このたび、物思いに沈みながら空蝉の香袋を開けてしまったことにほんの少し、後悔の念を抱き始めている。友人のことを偲びながら聞いた空蝉の香。これからこの香りに触れるたび私は 友人のことを悲しく思い起こすのだろうか。・・これ以上悲しい思い出を増やして一体どうするのかと自身に問うて それでも答えようもなく柔らかな香りの中独り 佇んでいる。
2008.09.05
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昨日のお昼過ぎ 実家の母より電話があり祖母が朝早く息を引き取ったことを知りました。お通夜は明日の夜、そして告別式は明後日となります。母の実家は阪神間にありますのでおそらく今日の午前中にも、母はこちら関西へ向かうことになります。母は 自身が2歳の時に実母を亡くしておりますのでこのたび亡くなりました祖母とは血のつながりはありません。しかし、幼い頃より自分を育ててくれた祖母には深い感謝の念を抱きこのたび祖母が亡くなりましたことは(かねてより覚悟はしていたこととは思いますが)母にとりましてどれほどの衝撃か・・・と思うのです。祖母はまことに小柄な、優しい瞳をした女性でした。会うたびに「○○ちゃん」と、私の名を呼んでくれていました。朝夕仏前に端座しそして昨年受けた大手術の際にもベッドの枕元にお数珠を置き決して祈りを欠かさぬ人でもありました。出身は宮崎の都城。遠く宮崎からこの関西に嫁いできて どんなにか心細かったことと思うのです。そして嫁いできた先には亡くなった先妻の遺した幼い娘たちが3人。祖母は自身の血を分けた子供を産むこともなくただ、血のつながらぬ娘達を必死に育ててくれたのでした。・・・確か数年前の春のことだったと思うのです。母の実家に遊びに行きました時、祖母が私を仏間に誘うのですね。なんだろう・・・と思いまして祖母のあとをついていったのですが彼女は仏壇の奥から古いお経本とお数珠とを出し、こう言うのです。「このお数珠はな、知代さんのお数珠やねん。」そう、知代さんというのは60年以上も昔にこの世を去った先妻です。祖母は「この前、古い荷物を整理していたら、このお数珠がでてきてん。 調べたらな、知代さんのお数珠やってん。」と。見てみますと それはまぎれもなく日蓮信徒のものであり経本も法華経方便品、寿量品でありました。知代さんが日蓮信徒であったことは今まで全く知りませんでしたしそしてまた、彼女にゆかりのある品を目にしましたのも私にとりましては初めてのことだったのです。・・・・はからずも、60年以上もの長い時を経て知代さん、そして祖母、母、私と同じ信仰でつながっていたことを知らされたのでした。・・・祖母が知代さんのことを話す時の瞳は穏やかでとても優しいものでした。祖母はおそらくは同じ女性として3人もの幼い娘を遺しこの世を去らなければならなかった知代さんの心中を深く思いやっていたのでしょう、遺影の中でしか知らぬ知代さんのために祖母は自身の幸福よりもまず 血のつながらぬ3人の娘のことを一番に考えてくれていたのでした。もしも、ここに知代さんがいてくれたならこのたび亡くなった祖母に対し一体どれほどの感謝の想いを抱いたことでしょう。・・・知代さんはさほど身体のつよい人ではなく結局は30代の若さでこの世を去ったわけではありますが遠く長野の地からこの関西に 祖父を慕ってお嫁入りしてきた人でありました。「苦労をかけるかもしれません」との祖父の言葉に「それでも、お嫁に行きます」と 全く知らぬ土地に嫁いできた人でした。・・・多くの夢を抱いていたことと思います。娘達との楽しい夢をたくさん思い描いていたと思うのです。しかし、もともと病弱な人でしたので おそらくは生活全般にわたり支障があったものでしょう、残されている当時の写真の中では 私の母や伯母はいずれもねえやさん方に抱かれており知代さんに抱かれている写真は一枚もないのです。やがて国は戦争へと突入しその最中 知代さんは3人目の娘を産んでまもなく持病が悪化、肺炎を併発しあっという間に亡くなってしまったのでした。・・・今夜、祖母は 数十年暮らし続けてきた家に安置されています。今日できることなら母の実家に行き、祖母に会いたかったのですが来てくれるのは告別式だけでいいよ、と母に言われ明後日行われます告別式に夫と私、娘の3人で行くことに致しました。今夜、この時間おそらくは母、伯母、そしてもう1人の叔母で祖母を囲みどなたにも気を遣うことなく祖母との最後の時間を過ごしているのだと思います。・・・祖母に訊きたかったことがあります。もしも、自分の本当の子どもができてしまったなら先妻の遺した3人の娘たちに対し公平な愛情を注げなくなる・・・そう思ったからだからこそ、ご自分の子供を産まなかったのですか。もしもそうであるならばそのつよさと並外れた優しさとを貴女は どのようにして培ってきたのでしょう。
2008.03.29
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昨日から始まりました仕事、高校英語を教えるようにとのことでしたが昨夜またもや会社から連絡がありまして加えて中学文系科目(国・英・社)も、とのこと。忙しくなることに多少の不安は覚えましたが文系科目「は」大好きですので、引き受けることに致しました。(理数科目につきましては頑なに拒否致しておりまする。 うふふ、何たって、生徒さんにご迷惑をかけてしまいますので)会社側に「私が理数系なんぞ教えてしまったら生徒さん達に迷惑をかけてしまいます・・・」と申しましたら会社側も何やら事情を察して下さったらしく(どうやら、先日のひよこの学力テストの結果が手元にあるようです)「ふっふっふ」と含み笑いをなさっていました・・・(笑)。お茶につきましては 正式入門しました途端座る位置から所作から ひとつひとつ注意がとんで参ります!やはり、こうでなくては!うふふ、この身も心も引き締まる時間が好きです。現在、大学時代の様々な荷物の入っている箱を整理中。あの頃の日記ですとか 書きためていた詩とかお友だちからのお手紙、写真、その他たくさんの思い出の品々。一気に20年前にタイムスリップです。・・・・そのなかにね、とても懐かしいものを見つけました。そう、和綴じ本です。和綴じ本につきましては、以前の日記にも書き綴りましたが私にとりましては大変思い出深いものでもあります。当時入っておりました学生寮の先輩方、そして同じクラブの先輩方に和綴じの方法を教えて頂きました。和紙を使っての装丁方法、そして・・確か(布団針でしたか?)大きな針を使っての和綴じ。ひとつひとつ、丁寧にご指導下さいました。自分で作ったその小さな本の中には万葉集、古今和歌集、そして絵筆で絵を添えておりましてその絵を見ておりますうちに「丁寧に描くのよ」との先輩方の温かな声もよみがえってくるようでした。・・・そういえば最初の頃は和綴じ本に自分で挿絵を描くことに対し とても躊躇しておりましてだって失敗するのがとても怖かったのですね(笑)。ですので、挿絵を描かずともよい和紙を最初から選んだりまた、和紙に絵柄の印刷されているものを選んだりしていたのですが先輩からは「世界にひとつしかない本なのよ」と言われ「心を込めて描きなさい」と諭されましてようやく絵筆を取り 未熟ではありますが描いていたものでした。・・・先輩方からは本当にたくさんのことを教えて頂きました。和綴じをはじめ お手紙の書き方、お化粧の方法など。忘れもしません、大学一年生の秋初めての大学祭を迎える私に先輩が一言「何故、貴女 お化粧していないの?」と。その頃はまだ18歳でしたし、お化粧をするということ自体自分にはまだまだ遠いことのように考えていたのですね。きょとん、としていた私に先輩方は「今日は学祭だから、内外からたくさんのお客様がお見えになるのよ」と「お客様方に失礼のないよう、きちんとお化粧しなさい」と仰りご自分のお化粧品を全て貸してくださったのでした。学内本部棟の1階洗面所にてこれは下地、これはチーク・・・とひとつひとつ教えてくださり何もわからぬ私にお化粧をしてくださったのでした。頬に触れる先輩方の柔らかな手の平を感じながら「私も、こんなふうに温かい上級生になりたい」と思ったものでした。・・・洗面所でお化粧をして頂き 廊下に出てきた私を同じクラブの先輩方が待っていてくださいました。何しろ、生まれて初めてのお化粧です。何だか妙に照れくさくて、何処に視線を移してよいかわからぬ私に先輩方が「○○ちゃん、きれいだよ。似合うよ。」と言ってくださいました。今にして思えば、おそらくは生まれて初めてのお化粧に戸惑い自信もなく、人前に出るのを恥ずかしがっていた私の気持ちを察し先輩方は励ましてくださったのだと思うのです。その温かなお心遣いに今も感謝致しております。何もわからぬ私と一緒にバスに乗り込み、和紙の専門店に連れていってくださりひとつひとつ丁寧に和綴じの方法を教えてくださった先輩方。お手紙の作法、食事のマナーを教えてくださった先輩。女性はきちんとお化粧しなさいと教えてくださった方々。大学にはもう慣れた?といって一緒に学内の庭園にてお話してくださった先輩。そのひとつひとつのことを思いますとき本当に感謝の思いでいっぱいになるのです。・・・はからずも開けてみた思い出の箱。その中には あの頃の出来事が色鮮やかに残っておりました。我が家の娘がもう少し成長しましたなら2人、美しい和紙を手に取り世界にひとつしかない和綴じ本を作ってみることに致しましょう。
2008.01.14
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先日 短歌の会に出席しました日のこと同じく短歌の会に入ってらした方がお亡くなりになったことを知りました。その方はまだお若く私と一回り違うだけでして私は その方のお詠みになる歌が好きだったものですから・・・・しばらく呆然としてしまいました。最後にお会いしましたのは今年の夏のこと。娘と連れ立って歩いていた私をご覧になり柔らかな笑顔で「そんなに大きな娘さんがいらっしゃるの?」と。物腰柔らかく万事控えめで私はその方とお話しするのが何より嬉しく短歌の会が巡って来ますたびに今回はあの方はどんな歌をお詠みになるのだろうと心待ちにしていたものでした。・・・・今年は一体何人の方を見送ったことでしょう。そう、いずれも「これで最後」と思いながら別れたのではなく「また今度」と言って別れた方々ばかりでした。その方ともっとお話すればよかった。貴女のお歌が大好きです、ともっと早くに言うべきでした。
2007.12.16
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今日は桃花さんの3回忌です。・・・時の流れの速さを思います。現在午後10時前。思えば、ちょうど2年前の今の時刻ご家族から「もう時間の問題です」とのお電話を頂き部屋着のまま家を飛び出し 病院に駆けつけたのでした。桃花さんがお亡くなりになりまして2年。1日も欠かすことなく仏前にてご冥福を祈っております。・・・・この前、娘とともに勤行をしておりまして亡くなられた方々の回向をしていたのですが娘が突然こう言うのです。「桃花さんのこともな、祈っとんねん。」娘は桃花さんに何度かお会いし可愛がって頂いたのでした。「桃花さんのことを祈っている」との言葉を聞きましたときはからずも 涙がこぼれました。・・・最後に 彼の好きだった歌を掲げたいと思います。Amazing GraceHow sweet the soundThat saved a wretch like meI once was lost, but now am foundWas blind, but now I see. Twas grace that taught my heart to fear,And Grace my fears relievedHow precious did that grace appear,The hour I first believed. Through many dangers, toils and snares,I have already comeTis grace hath brought me safe thus far,And grace will lead me home.
2007.11.10
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ようやく日記を更新する状態になりました。体調の方も少しずつ上向きとなりおかげさまで夜も眠れるようになって参りました。お祭りの後遺症(?)もほぼおさまりまして普段の暮らしがようやく戻ってきたところです。今月5日、親しくして頂いていた方が突然お亡くなりになりまして余りに急なことでしたので俄に信じることができませず未だに心の何処かが止まったままになっております。どうも私自身・・・精神状態がすぐに身体に出てしまうらしくその方の急逝を聞きました時より ずっと微熱が続いておりました。夜も眠ることができませず酷いときには 2日間連続一睡も出来ぬ日がありました。その方とは一回り年も離れておりましたけれどまるで妹のように可愛がって頂いておりまして時にはその方と一緒にお茶に行きましたり お花屋さんに行きましたりたくさんの思い出を作らせて頂きました。私には姉がおりませんでしょう?ですので、もしも自分に姉がおりましたらきっとこんな感じなのかな・・・と思っておりました。その方に最後にお会いしましたのは9月の中旬。ちょうど娘を歯医者さんに連れて行った日のことでした。歯医者の待合室で本を読んでおりましたら 突然「○○ちゃん?」と声をかけてくださった方がいらっしゃったのです。ふと顔を上げてみますとその方でした。にこにこと笑いながら「久しぶりやね」と仰りそれから10分ほどでしたでしょうか、その方とお話ししたのです。そのうち、娘と一緒に診察室に入らなければならなくなりましたのでいったんその方にご挨拶し、私は診察室に入っていったのでした。・・・診察終了後 その方と少しだけお話しすることが出来たのですがそれも2,3分のことだったでしょうか私はすぐに会計のことで名を呼ばれまして再びお話は中断。歯医者を出ますときに その方に「お先に失礼します」とご挨拶をしましてその方も「また一緒にお花買いに行こうな。」と声をかけてくださったのが最後でした。・・・思えば不思議なことでした。本来ならば その日、私と娘は歯医者に行く予定などなかったのです。いわば飛び込みでした。娘の歯茎が急に腫れ上がりまして急遽飛び込みでその歯医者さんに伺ったのでした。本当ならば一刻も早く、できれば午前中のうちに診て頂きたかったのですが生憎予約がいっぱいとのことで 午後6時に来院。もしも娘の歯茎の腫れるのが一日でもずれていたら。そして 歯医者の来院時刻が30分ほどずれていたら。おそらく私は その方とお会いすることなど出来なかったことでしょう。・・・その方が教えて下さった夏野菜カレーのレシピ。一緒に買いに行った鉢植えの花。夏の暑い日、一緒に入った喫茶店。思い出は次々によみがえります。有難うの言葉を伝えられないまま大切な 大好きな方が手の届かぬ所に行ってしまわれました。
2007.10.21
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一昨年の秋、桃花さんという大切な友人を亡くしてからというものこの「ひよわーるど」も随分と変わってしまった。第一、お笑い系の日記が書けなくなってしまった。時折 久しぶりの試みとしてお笑い系を書いてはみるけれどそれでも、書き終えた後に酷い疲れが残ってしまう。つまりはまだ、今の自分にはそぐわないということなのだろう。「ひよさんが日記を更新していると ああ、今日も元気なんだなって安心するんですよね。」という桃花さんの言葉に触れ「私は今日も元気ですよ」という想いを込めてこの「ひよわーるど」を書き続けてきたけれど桃花さんがお亡くなりになってからというもの今度は自身のためにこのブログを書かなければならなくなりそれで一気に、どう書いていったらよいか分からなくなってしまった。お付き合いの長い方ならお気付きのこととは思うけれど、桃花さんがお亡くなりになってからのこのひよわーるど、真面目な記事が多くなっている。いや、真面目なのは それはそれでよいのかもしれないけれどその真面目さが度を超していたと思うのだ。つまりは「素の自分」がそのまま出ていた。今までは「私、元気ですよ」というメッセージを込めることが優先となっていたので素の自分はさほど出ていなかったと思うし、物事を突き詰めて考える癖はこのブログ上には出していなかったと思う。けれど、桃花さんがお亡くなりになったことでメッセージを伝えるべき相手が居なくなりこのブログをどう書いて良いものか分からなくなったのである。・・・そのような過程を経てメッセージを伝えるブログから、心の内面を呟くブログへ変化してゆくのにさほど時間はかからなかった。しかし、自分の内面を深く掘り下げてゆく作業は殊の外しんどい作業でもあった。「終わり」がないのである。「正解」もない。自身の内面を掘り下げてゆくというスタンスは今まで通りですが時にはリラックスして、その日の出来事だけを書き連ねたり一言だけでその日の精神状態を書き表してみたり様々なスタイルを模索していこうと思います。・・・本当に油切れになりそうでしたのでこのあたりで仕切り直しかな。のんびりいきます(*^_^*)
2007.05.09
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つい2,3日ほど前 いつもの消化不良をおこしてしまい夜中の間苦しんでおりました。床につきます時には何でもないのですが1時間ほどしますと次第に腹痛が始まりまして そして全身に冷や汗をかくこととなります。こうなりますと症状が治まりますまで最低でも4時間は必要となりその間、気を失った方がましだと思うほどの苦しみと闘うことになります。症状の軽いうちは頭の中で楽しいことを思い浮かべ、痛みから意識を遠ざけているのですがその痛みも次第に強くなっていきますとただひたすら耐えるのみです。・・・その痛みの中で ふと祖母のことを想いました。私の持つ祖母のイメージは温かです。彼女はいつも「たぁちゃん」と私の名を呼んでくれました。私をそういう名で呼ぶのは 後にも先にも彼女だけなのです。私の名を呼ぶときの祖母の声の響き、笑顔。それらのものを思い浮かべるときだけは 心なしか腹痛も和らぐのですね。・・・夜中の3時半、症状も少しずつ和らぎようやく上体を起こすことができるようになるまでに。先程まで全身汗びっしょりになって痛みに耐えておりましたのでなかなか身体に力が入りません。けれど、そのまま床の中におりましても、返ってマイナスのことばかり頭に浮かび精神的にもかなり辛くなりますので 思い切ってパソコン部屋に移動。パソコンを起動させこういう時のための「精神安定ページ」にお邪魔致します。そう、器を扱うサイトやもしくはヤフーの、器のオークションページなのですね(笑)。体調がこんな状態の時には自分の好きな世界に足を踏み入れるのが最も効果的だと思いますので未だ腹痛は残っておりますものの 無理にでも器のページにお邪魔するのです。お茶碗や小鉢を見るのが好きでしてその形や色合いにとても惹かれます。殊に抹茶茶碗。今の季節にはどんなお茶碗がよいだろうと思い胸を躍らせながらあれこれ考えます。・・・もちろんそんな時ですら腹痛のぶり返しのようなものはたびたびありましてそのたびに冷や汗をかきながら「負けるもんか!」と 半ばムキになって器のことを考えます。痛みの激しいときには お茶席でのお道具の取り合わせについて考えるのです。丁度今頃の季節ですと卯の花や橘の花 そして不如帰。・・・源氏物語の花散里の御方に想いを寄せ彼の女人にふさわしいお道具類は一体どのようなものだろうと想像を巡らせます。こんな体調の時に自身を奮い立たせてくれるもの・・・それが器の美しさであることに気付きました時私に器の良さを教えてくれた祖母に改めて感謝の気持ちでいっぱいになるのです。当時まだ幼稚園生に過ぎなかった私に 祖母は様々な器を見せてくれひとつひとつの器について説明してくれました。その説明につきましてはほとんど忘れてしまっている部分もあるのですがお茶椀を両手で包んだときの手触り ぬくもり、柔らかさ。表面に描かれている文様の美しさ。まだ5歳にも満たなかった私の心にそれらの器はまるで花のように明るんで見えたのでした。それは 広い野原にところどころ咲きこぼれる可憐な花のようでもありました。・・・今年の夏はまたもや酷暑となるのでしょうか。その信じがたいほどの暑さに耐えるべく実は毎年夏の終わり頃に あることをするのです。いえ、あることをするとは申しましても特別なことではなくようやく夏の暑さも通り過ぎようとする時期に桐箪笥の奥から浴衣を取り出しまして袖を通すのです。その浴衣は祖母が私のために誂えてくれたものでした。紺地に白い芙蓉の花をあしらったものです。夏の終わりに咲く花を浴衣の上に咲かせる―――いかにも祖母らしいと思いました。毎年 ようやく暑い夏も盛りを過ぎました頃1人その浴衣に袖を通します。身に纏っておりますと「この暑さの中を、よくがんばったね。」と祖母が声をかけてくれるような気持ちになりましてしばらくはずっとそのまま その浴衣を身に纏ったまま部屋の中に座ります。生きていくうえにおきまして 確かに様々なことがありますけれどもそのたびごとに 亡き人は私の心の奥から現れて 優しい思い出をつれてきてくれます。祖母が私の名を呼んでくれたその時の風景は今も深く私の心に刻まれていてその時 祖母の後ろに広がっていた夕暮れの色台所で母がたてていた夕餉の支度の音居間に流れていた野球中継の声私の隣に座っていた弟の洋服の色その記憶は瞬時に、そして鮮やかに心によみがえります。確かに多くのことに翻弄され 様々な出来事にぶつかることもございます。憤慨することも納得できぬことも多くございます。けれど 人は その思い出の温かさに触れて かつて自分を愛してくれた人のぬくもりに包まれてまた再び 次の一歩を踏み出すことができるのではないでしょうか。
2007.05.04
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葉隠れに散りとどまれる花のみぞ しのびし人に逢ふ心ちする 西行病院の先生によりCOPDのことを伺いましてからというもの表面的には普段と変わらぬ生活を送っているつもりではありましたけれどやはり心の内では 鬱々と思いの晴れぬ日々が続いておりました。ネットで調べていますうちに「大変な苦しみを伴う病気」という言葉を目にしてしまい恥ずかしいことではありますが その言葉が頭から離れなくなってしまったのです。自分の人生の最期は苦しみのうちに終わってしまうのだろうかと心穏やかな最期を望むことはできないのかと不安に囚われてしまったのです。夜 床につきましてもなかなか寝付くこともできませんでした。・・そんな時、桃花さんの夢を見たのです。桃花さんがお亡くなりになりましてから1年5ヶ月。 その間 桃花さんの夢を見ることはなく随分と淋しい思いをしておりましたけれど数日前の夢に桃花さんは現れてくださったのでした。その夢の中で桃花さんは白い車に乗っていらして車の窓から大きく腕を出し 手を振ってくださいました。「それじゃ!」と笑顔で手を振って何処かに行こうとなさっていました。今にも出発しようとする桃花さんに心配をかけちゃいけないと思い私は 笑顔で大きく手を振りました。そう、桃花さんが生きていらした頃のように。「私は大丈夫だから!」と伝えたかった。・・・夢はそこで途絶えました。ふと目を覚ました私の目には部屋の天井がうつり夢の中で聴いた桃花さんの声が耳に残っていました。1年5ヶ月ぶりに逢えた桃花さんに笑顔で手を振ることができて良かったと思いました。いろいろなことがあっても でも負けない!という自分の気持ちを伝えることができて良かったと思いました。今、この楽天管理画面にログインしましてメッセージ欄に目を通しますと4年前 桃花さんが私に贈ってくださった励ましのメールがそのまま遺っています。私は どうしようもなく辛いときにはそのメールを何度も読み返します。いつも、どんな時にも私の味方でいる、との そのお言葉は日々葛藤しながら生きている未熟な私にとりましてどれほど大きな励ましとなっていることでしょう。そしてこれからも 桃花さんの遺してくださった言葉に何度励まされることでしょう。桃花さんは私ども夫婦にとりまして大切な大切な友人です。そう、いつも どんな時にも。既にこの世の人ではなくもう二度と逢えないとわかっていても。
2007.04.01
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今日、大阪の病院にまで行って参りました。梅田駅すぐ近くの病院です。駅から病院までは徒歩で。小雨降る中を傘もささずに歩きました。病院での用事を終え、駅の構内に入ろうとしましたとき懐かしい、かなしい光景を目に致しました。そう、大阪駅「桜橋口」。夫と桃花さんと私と、3人でいつも待ち合わせていた場所です。桃花さんはいつもマスクをしてあのコインロッカーの前で待っていて下さいました。ふと右側に視線を移せば、3人で一緒にお茶を飲んだ喫茶店。あの頃と少しも変わらぬたたずまいでした。・・・かつて桃花さんの立っていらしたロッカーの前に今日、ほんの少しの時間 立ってみました。駅の構内は多くの人でごったがえし、皆思うまま足早に歩いています。私の隣にも(おそらく人と待ち合わせをしているのでしょう)たくさんの人が人待ち顔で立っていました。馬鹿ですね。桃花さんが立っていらした場所に他の人が立っていたりすると「そこは桃花さんの場所だ!」と心の中で怒っている自分がいたりするのです。・・・苦笑いとともに眼を拭き 切符を手に改札口へ。桃花さんがお亡くなりになりましてから この「ひよわーるど」も変わりました。そう、表面的にはさほど変わっていないのかもしれませんが日記を書く自分の心模様が少しずつ変わってきているのです。以前は、このひよわーるどを読んで下さる方々のことがずっと心にありました。もちろん今もあります。けれど、何かが少し違うのです。・・・うまく言えませんね(笑)。読んで下さる方々のことは心にありますけれども今は 自分の心の記録をこのスペースに書き留めるという意味合いの方がより大きいように思うのです。全速力で駆けていった桃花さんのことを思いますとき私もまた自分の人生を駆けていかなければならないことを痛感致します。誰人たりとも、限りある時間との闘いだと思ったのです。自分の思ったこと、考えたこと、行ったことそれらは全て自身の内部に積み重なっていくわけですけれどもそのほんの少しの欠片だけでも この「ひよわーるど」に書き残しておきたいと思ったのです。私たち人間の意識は一瞬一瞬変わっていくわけではありますがその心の色もまた瞬間瞬間で変わっていくと思うのですね。一日を終え床に入りますとき今日、自分の心は何色に彩られたのだろうと思うのです。染め上げられた心の色は自身の内部に積み重なってゆき一生をかけて やがては一枚の衣となっていくのではないだろうかと。短い生であれ 長い生であれ人はその生を織り続けていくものだと思うのです。そのことを思いましたら何を行うにしましても そしてまた何を書くにしましても心を込めていきたいと思いました。私はここにいる、と。ここで生きている、と自分の生を確かめながらその思いを書きとめておきたいと思ったのです。それはもしかしましたら 祈りにも似た気持ちなのかもしれません。私の今生は 一体どのような色で染め上げられるものでしょう。そしてどのような衣を織り上げていくのでしょう。今生での生を終え次の世に生まれおちるとしましても彼の地でまた自分の生を積み重ねていくわけです。その気の遠くなるほどの作業をずっと続けていくのだと思います。そしてそれは おそらくは最終地など無くどこにも辿り着くことなどできないのではないかと。その遠い旅路をたった独りで辿っていくしかないのだと。
2007.01.07
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時折ふと思うのです。自分が実際に死の床につかなければ逝こうとしている人の心はわからないのだと。このことを、桃花さんとの出逢いによって気付かされました。桃花さんが逝かれて もう1年以上の月日が経ってしまいました。今でも、心残りはたくさんあります。あの時にこういえば良かったのではないかとかあの時にこうすればよかったとか心残りなど数え上げればきりがありません。今も判断しかねる「言葉」があるのです。桃花さんがホスピスに入院なさったとき何度かお見舞いに伺ったのですけれども彼に言いたかったことがありました。「うちのパパと私と、桃花さんとはいつまでも友だちだから。」と。誰が先に逝っても友だちであることには変わりはないと。生死を超えてずっと友だちだと。・・・最後の「生死を超えて」という言葉、やはり言えなかったのです。確かに 桃花さんはホスピスに入院なさっているのですから生還はあり得ないこと、頭では分かっていました。でもね、一度は病変の消失した、奇跡を起こした桃花さんなのです。ですから私自身、心のどこかで桃花さんだったらこのホスピスから生還なさるのではないかと思っていました。・・・馬鹿ですね。やはり私は、願望と現実とを一緒に考えてしまうような人間でした。ここから書くことは非常に個人的な考え方ではあるのですけれども「死」という言葉を口にして良いのは やはりご本人かご家族だけだと。友人やまわりの人は口にするべきものではないと思うのです。お昼間は明るく振る舞っていらした桃花さんもそのブログの中では「・・結局はひとりだ」とお書きになっていました。どんなお気持ちでお書きになったのだろう・・と思うのです。そんなふうに思っている桃花さんに対し周りの者が「死」という言葉を口にしてよいものか躊躇われました。だからこそ「生死をこえてずっと友だちだ」と言えませんでした。今にして思えば それでも言えば良かったのだろうかと思うときもあります。どうするべきだったのか今でも分かりません。桃花さんが危篤状態になられご家族の方から「時間の問題です」とのお電話を頂きましたとき夫は「間に合うように早く行け!」と私に言ってくれました。数日前、桃花さんのお見舞いに伺いましたときその別れ際に「また来ます。」と桃花さんに約束していたのです。その約束を守れ!と言って夫は送り出してくれました。私が病院に向かう電車の中でも 夫は携帯にて逐一連絡をくれました。「何をどう祈って良いのか分からない」と途方に暮れる私に対し夫は「あほ!泣いてどないするんぞ!」と叱りました。「桃花さんが苦しまないように祈れ!」とも言ってくれました。・・・今までは夫と2人、桃花さんの完治を祈って参りましたが今となりましては「苦しまないように」との祈りに。祈りを変えざるを得なくなりましたとき改めて本当に桃花さんは逝ってしまわれるのだ・・・とどうしようもない気持ちになりました。私が電車で病院に向かう途中 夫は仏前に座り桃花さんのことをずっと祈り続けていました。ホスピスに着きやっとの事で病室に辿り着きそのドアを開けました途端、先生の「ご臨終です」との声が。間に合わなかった・・・という気持ちと「死」という運命には誰も逆らえないのかという怒りともつかぬ気持ちと深い喪失感と 瞬時に様々な感情が湧き起こりました。もしも死後の生命が存在するとするならば桃花さんは一体どのようなお気持ちでいらっしゃるのだろうと思いました。私自身、難しいことは分からないのだけれどとにかく桃花さんが安らかでいらっしゃるようそして怖い思いをなさらぬよう ただそのことを祈りました。けれど 祈ろうとするのですがショックと悲しみの方が遙かにつよく祈りが定まらないのです。生前 桃花さんが「死後の生命?もしそんなのあったら、僕びっくりしちゃうだろうね。」「ひよきちさん、その時には僕が安心するよう祈ってね」と笑顔で仰ったことを思い出し なんとか必死に祈ろうとするのですが悲しみと闘いながら祈ることの辛さを痛感致しました。今もって桃花さんに対する心残りが大きいのもひとえにこの時のことがあるからなのです。悲しみに押しつぶされて自分は100%祈りきることができなかったのではないかという後悔の念です。桃花さんに出逢って私は信仰をたもつ人間としての自分を省みることができました。そしてまた死を前にしてあれほどまでに優しく強く生き抜かれた桃花さんの姿に学ばせて頂きました。桃花さんがお亡くなりになりこの「ひよわーるど」もそして私も変わりました。「自分とは何者か」「自分は何の為にこの世に生きているのか」を考えるようになりました。人と人との出逢いは一体どういう意味を持つものだろうと思うのです。
2006.11.08
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感謝を込めて
2006.10.12
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数日前 よく行くスーパーでの出来事でした。夜の9時過ぎでしたでしょうか高齢の方が手押し車を引きながらレジを済ませておられました。たくさんなお買い物で いくつもの買い物袋を手押し車の中に。・・・ふと その高齢の方は私をご覧になり「電話、電話・・・」と仰るのです。なんのことかな・・?と思っていましたら どうやら公衆電話をお探しの様子。それで私も一緒になって電話を探すことに致しました。あちこち探しておりますうちスーパーの隅の方にようやく発見。その方に場所をお教えしましたところ今度は「財布を探して」と仰るのです。お財布の場所なんて私に分かるはずもないと思いそしてそんな大事なもの、全くの他人の私が探してよいものか躊躇しながら一緒に探すことに致しました。結局探し物のお財布はその方の上着のポケットの中に入っておりましてその方はご自宅に電話をなさいました。私、もう帰っても大丈夫かな?と思いご挨拶して帰ろうと思っておりましたらその方が電話口にて 大声で「なんで?」と仰っているのです。お話を伺っておりますと どうやらご自宅の家族の方がスーパーにまでお迎えに来られない様子。その方も「どないしよう。こんなようけ荷物あるのに」と困っておられました。拝見しますにかなり高齢の方のようですし おまけに手押し車の中にはたくさんの荷物。しかも夜の9時過ぎなのです。10月とはいえ、夜ともなりますとかなり冷え込みます。・・・差し出がましいようではありましたが 私、その方に「おかあさん、私でよければお送りしましょうか?」と申しました。私の車は軽ですが 手押し車などは後部座席に置けばなんとか大丈夫のようです。それでその方には助手席に座って頂くことに致しました。ご自宅はスーパーの近所でして すぐ帰り着くことも出来ひと安心。車のなかでその方は「子供らに食べさせよ思てな、ようけ買うてきましたんや。」といろいろなお話をしてくださいました。・・・・そう、母親はいくつになりましても親なのです。「子どものためにいろいろと買い物をして 食べさせてあげたいと思う。」その方のそのお気持ちを思いましたら・・・ふと涙ぐんでしまいました。「我が子のため」との思いだけでこんな寒い時間帯に しかも徒歩でこのスーパーにこられていたのです。・・・私の祖母は晩年、多くのことを忘れ去りそのため他の人との会話もちぐはぐなものとなっていました。私の顔をじっと見て「どなたさんですか」と問うのです。それで「○○よ」と私の名を言いますと不思議ですね。その瞬間だけは記憶が戻りまして「みゆきは元気?」「○○さん(私の夫の名前)を大事にしなさい。」とはっきりとした声で言うのです。「あんたは身体が弱いから気をつけなさい」と言ってくれる祖母の顔を見て本当に有り難い気持ちでいっぱいになりました。・・・祖母のその時折の会話を思い出し今になってひとつ思い当たることがあります。今にして思えば 祖母の話す内容が少しずつ少しずつ時を遡っていたのでした。まだ症状の軽かった頃、話の中心は私たち孫のことでした。自分の孫たちのことを気にかけ一人一人の名を挙げては大丈夫だろうかと心配してくれていました。数年後にはその話の中心が 私の父に移りました。そして更に数年後には結婚してすぐに亡くなった旦那様のことになっていきました。私に対し、しきりに「晴水さんの顔を覚えてる?」と訊いてくるのです。「晴水さん」とは祖母の旦那様のことで 今から60年以上も昔に亡くなっており当然のことながら私が晴水さんのことを知っているはずもありません。 そして更に数年後 祖母の亡くなる少し前には「○○さんのことを知っている?」と私に訊いてくるようになりました。○○さんとは祖母の父のことで、私にとりましては曾祖父となります。曾祖父は祖母がまだ幼かった頃に亡くなりました。研究所で潮力発電に取り組んでいたそうですが 脳溢血で急死だったと聞きます。・・・祖母が、亡くなった自分の父親について話す頃ともなりますとその話す言葉も最早宮崎のものではなくなっておりおそらくは祖母の出身地である大分中津のものもしくは幼い頃を過ごした広島呉のものはなかったかと。そんなふうに記憶はどんどん時を遡り 祖母の心は完全に少女時代に戻っていました。けれどそんな中でも祖母はふと我に返り 突然私の父の方を向いて「あんたの一生を見届けるまで私は死なない」と言うのです。当時60歳になったばかりの私の父に もうすぐ90歳になろうかとしていた祖母が「あんたの一生を見届けるまで・・」というのです。その言葉を聴きながら父は向こうを向いて目をぬぐい私も涙ぐみました。「あんたの一生を見届けるまで」確かに常識で考えましたら おそらくそれは不可能でしょう。けれど 私には祖母の心が痛いほどわかりました。もしもこの祖母の言葉を 私の若い頃・・・例えばまだ子供を産んだこともましてや育てたこともない頃の私がきいたとしましたらこれほどまでに心に響かなかったかもしれません。けれど今では 祖母と同じ母親であるからこそ 私自身、その想いを理解することが出来たのではないかと思います。誰しも我が子の一生を見届けたいのです。でなければ安心して逝くことなどできません。私の祖母のように、晩年になりほとんど全てのことを忘れてしまったとしても我が子を思う気持ちは心の奥深く刻まれ ふと何かの折に表面にあらわれてくるのです。例えば祖母の場合には「あんたの一生を見届けるまで・・」という言葉としてあらわれておりましたけれども人によりましては 先の対戦の空襲の怖ろしさが記憶に残りその中で我が子の命を守らなければという思いが深く刻まれていて例えば現在 お昼のモーターがなりますたびにご自分のお子さまの名を呼びながら部屋の中から飛び出していく・・・そんな方もいらっしゃることを伺ったことがあります。また戦後の食料難に直面し、我が子を飢えさせてはいけないとの思いが刻まれおそらくは食料を蓄えなければとの思いが強くあったのでしょう、現在 様々な物を箪笥の中にしまおうとする方もいらっしゃるとのこと。・・・そういうことを伺いますたびに 母の、子を思うその深さを思います。確かに表面にあらわれる行為は人により様々であるでしょうけれどその奥に隠された思いは皆ひとつなのだと思うのです。年齢を重ね、記憶力が減退してゆくことを最も危惧していたのは他ならぬ祖母であったはずです。そう思いましたら あのぶ厚い広辞苑を新しく買い求め、いつも自分の枕元に置き「全部読むからね」と熱心に読み進めていた姿も今にして思えば納得できるのです。祖母はお団子が好きでして その話をよくしておりました。もしかしましたら 祖母の思い出の中ではその味が優しかった自分の母親の思い出に繋がっていたのかもしれません。そしてその思い出の中で 懐かしいお母さんがそばにいてくれお母さんの「いっぱい食べなさい」との声がきこえていたのかもしれません。祖母が亡くなって早くも4年です。お料理を教えてもらったことも 身体の心配をしてくれたこともそして夜遅くまで2人でいろんなおしゃべりをしていましたことも全て懐かしい思い出です。全てを忘れ去ってしまった祖母に会いに行きますときには私自身、必ず京都のおみやげを持っていっておりました。和紙で作られたお人形。京紅。巾着袋。祖母はそのたびに「きれいね」と喜んでくれました。「どなたさんですか」と祖母に問われても決して淋しい顔など見せず淡々と笑顔で「○○よ」と答えました。何を問われても言われても 柔らかく受けとめるように致しました。祖母の前では笑顔で。そう心がけていて良かったと今では思います。でなければ 祖母の前で涙を見せてしまったならば優しい祖母のことです、きっと心を傷めてしまうと思ったのです。ですので祖母の入所しておりました施設を出ましてからひとしきり車のなかで泣いておりました。幼い頃に父を亡くし 大人になったばかりの時に母を亡くしそして結婚してから2年も経たぬうちに旦那様も逝ってしまって2人の子どもを抱え、必死になって生きてきた祖母。生まれ故郷を遠く離れ 1人で生きてどんなに淋しかったことだろうと思うのです。おばあちゃん、もう頑張らなくてもいいんだよと、今まで精一杯走ってきたもんね と優しく包みこみたかった。お父さんのことは私たちが守っていくから何も心配しなくていいよと伝えたかったのです。今、こうして元気に生きている私をそして祖母の血を受け継ぐみゆきのことをもしも祖母が見てくれているとしたら一体どのような思いで見つめていてくれることでしょう。2003年、祖母の一周忌を前に書き綴った日記をここに掲げたいと思います。もうすぐ1周忌を迎えるに当たり、 心の何処かで もう一度彼女に会えそうな そんな気持ちがしてならない自分に気付き、馬鹿だなと思うのだ。 1周忌が巡ってきたとて、もう2度と彼女に会うことはできないのだ。 孫達の中で1番目だたなかった みっともなかった私。 お世辞にも可愛いなどと言えるような そんな器量でもなく、 おまけに右手には傷もこさえてしまって 暑い時期になってもなかなか半袖を着ようとしなかった孫娘を、 祖母は一体どのような思いでみていてくれたことだろう。 そんな孫をみて同情するわけでもなく 鼓舞するわけでもなく、 普通の人々なら マイナス要因としてしか捉えないようなことを 彼女は 私のためには「幸い」として考えてくれたのである。 私の器量の悪さを見ても 嫌いになるどころか 「周りの人から嫉妬されないから安心だ」と笑ってくれ、 右手の傷を見て「心はきれいになりなさい」と諭してくれ、 おとなしく、自分の気持ちをなかなかストレートに出せない私を はっきりしない子どもだと言うどころか 「人の気持ちを考えることのできる子や」と言ってくれた。 嫌うどころか 大きく包み込んでくれていた。 マイナス要因すら 「幸い」として考えてくれるような人が 一体どこの世界にいるだろうか。 彼女の1周忌を間近にして、改めて 伝えたかったこと、言えなかったこと、感じたこと。 最早それらのことを 彼女に伝える術もないことを 今更ながらに思う。
2006.10.07
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昨日は少し傷ついたことがございまして夜更けまで寝入ることが出来ませんでした。そんな時にはあたたかな紅茶をいれます。そして楽天内にログインしいつまでも変わらぬ優しいメッセージを読みます。言葉って本当にのこるものなのですね。いつまでも。その言葉を贈ってくれた人はもうこの世にはいないというのに。言葉を遺し遠く逝ってしまった人を想います。
2006.07.29
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今日、九州から戻って参りました。少し疲れております。大阪空港に降り立ちました時私、いつもの癖で携帯にて連絡をとろうとしたのです。「今、関西に戻ってきましたよ♪」って。・・・ふとその連絡先を見て指の動きが止まりました。そう、電話をしたとしましても二度と連絡が付くことはないのです。空に向かって「関西に戻ってきました」と呟くだけです。追・このたびの帰省にて多くのこと考えました。 この日記スペースを使って それらのことを書き綴っていこうと思います。
2006.07.02
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毎日義父の病院に行っているのですがその病室に向かう廊下に光溢れる待合室があります。窓が大きくて とても明るくてその待合室の中を眺めていますとなんだかね、今にも桃花さんが出てきそうなそんな感じがするのです。桃花さんが入院なさっていた病院と義父の入院している病院は違います。ですから桃花さんが出てくるなんてことあるはずがないのです。でも 光に満ちたそんな場所を見ていると桃花さんのことを思い出すのですね。毎日車に乗っておりますでしょ?で、アクセルを踏みながら今でもふと思ってしまうのです。「桃花さん、大丈夫かな。」と。そう思った瞬間、ばかだなと思うんです。途端に目の前の景色がぼやけます。最近になりましてね本当に桃花さん、逝ってしまわれたのだと思うのです。ようやく実感としてとらえられるようになってきました。時折 数年前のひよわーるどを読み返すのですけれど桃花さん、たくさんのコメントを残して下さっていたのだな・・と改めて思います。遺された言葉のなんて温かなこと と思うのです。最初は「桃花クン」としてそして「白椿」「桜葉」とハンドルネームを変えていらしたけれど最後は御自分の本名をハンドルネームとしてお使いになっていました。お亡くなりになるということはなんと取り返しのつかないことだろうと思うのです。桃花さんからは お亡くなりになった今でも数限りない励ましを頂いているというのにこちらからはなにひとつとしてできることはないのです。桃花さんとは神仏についてよく語り合いました。私、桃花さんの前では肩に力を入れたりせずありのままの自分でいれたのですね。ですのでひよのマシンガントークを御存知なのも桃花さんだけだったのです。桃花さんはよく仰っていました。自分が癌になったのは神との契約があったからなのだと。桃花さんがお若い頃 友人が大変な病気になりその友人の病気を治すためなら自分の命と引き替えにしてもいいと祈ったそうなんです。その後友人は病気を克服しとてもお元気になられたとのこと。だからね 僕が癌になったのはその時の神との契約があるからなんです、と。私、そのお話を伺いましたとき思わず「そんなの神でも仏でもない!」と怒鳴ってしまったんです。「そんなの、桃花さんを不幸にする悪魔でしかない。」と。「そんな契約のことなど捨て去るべきだ!」と言ったことを覚えています。普段大声で話すことなどない私ですがこのときだけはすごい剣幕で話していました。何かわからないのですがとても腹が立ってもどかしくて姿の見えないものに対して怒りを覚えたのです。桃花さんはご自分の幸せを考えるべきだと。契約に対し義理立てする必要など全くないのだと。万が一にでも神なるものが存在しているとしたらそんな契約を振りかざす神など絶対に桃花さんに近付くなと。そんな私を桃花さんはじっとご覧になっていました。そんなにいきりたってしようがない人だな(笑)と笑いかけるような表情でした。そんな桃花さんに対して「微笑んでいる場合ではないです!」と言ってしまったことも覚えています。それから数ヶ月経った2002年の秋「病変が消失しました!」との桃花さんからのお電話が。そのお話を伺いましたとき本当に嬉しくて思わず電話口で泣いてしまいました。「良かったね、良かったね!」と・・・良かったという言葉しか出てきませんでした。そんな時でも桃花さんは「僕が治ってしまったら 友だちがまた大きな病気になっちゃうんじゃないか。 僕が治って本当に良かったんだろうか。」と仰るのです。そう言って心配なさる桃花さんを見て桃花さんとはそういう人なんだ・・と思いました。今でも言葉で言い表すことはできないのですがこちらの胸がしんと痛くなるようなそんなこころをもった人なのだと思いました。このひよわーるどからお笑い日記が消えて数ヶ月が経過しました。もうこのまま お笑い系の日記など書けないかもしれません。もし書けるようになるとしましてもまた更に数ヶ月の時間が必要になるのかもしれません。確かに日記の更新は続けてはおりますけれど桃花さんがお亡くなりになってからというものひよわーるどの何処か一部だけはあの日のまま時間が止まっていると思うのです。
2006.06.06
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先日 実家の母より祖母の話を聞きました。この日記にも何度か出てきている母方の祖母についてです。30代の若さで幼い娘を遺し亡くなった人でした。私自身、その祖母の体質や面差しを受け継いでいることは知っておりましたけれど今回は祖母の遺した「言葉」を実家の母から初めて聞いたわけです。母方の祖母の家は長野にありました。当時は下伊那郡というところだったそうです。祖母はその地で生まれ育ったわけです。当時 関西にて織物の仕事をしていた祖父と知り合い祖母は友人を通して 自分の想いを祖父に伝えたそうなのです。(おばあちゃま、ちょっと大胆)祖父からは 自分はさほど裕福ではないことだから苦労をかけるかもしれない、賭け事などは一切しない人間であることだからその点は安心してほしいことなど何点か話があったそうなのです。祖母はそれらを聞いた上でそれでもお嫁に行きたいことを告げたそうで・・・。(おばあちゃま、かなり大胆)70年近くも昔に祖母は遠い長野からこの関西にお嫁に来たわけです。彼女は一体どのような思いでこの関西の地に嫁いできたのだろうと思うのです。私、それまで祖母のことおとなしい女性だとばかり思っていました。いえ、確かにおとなしい人だったのかもしれませんがその内には こうと決めたらそのまま進んでしまう一面もあったのだな・・・と。(まるで鏡を見ているようですが(^^;))3人目の娘を出産しましたあと産後の肥立ちが悪く喘息、肺炎を引き起こしそのまま亡くなってしまったと聞きます。慣れぬ土地での生活、慣習も言葉も何もかも違う土地での暮らしは想像以上に大変だったのでないかと思われます。ましてや祖母は身体もそう強くはなかったと聞きますのでダメージも大きかったのかもしれません。でもね、短い結婚生活ではありましたが祖母は幸せだったのではないかと思うのです。祖母はあの当時 自分の意志で結婚を決め遠い土地に嫁いでいったわけです。・・・私も同じ道を歩いてきましたため 祖母の気持ち、とてもよく分かります。13年前の春の日私は九州からこの関西の地に嫁いできました。美容室で白無垢を纏い着付けの先生方のご配慮で 式を挙げる直前、 私は控え室にて自分の時間を持つことができました。時間にして一時間ほどでしたでしょうか控え室の中には古い調度品が並び隅々まで磨き上げられていました。その日は朝から雨が降り始め部屋の外では 春の雨が静かに降り続いていました。思えば 今日から夫となる人以外に誰も頼る人はいず自分の旧姓も仕事も捨てて真っ白な生活の中に入っていくわけです。自分の周りの人々の聞き慣れない言葉のアクセントひとつにも驚く有様でした。話すテンポもとても速く上手く聞き取れないのです。先生方に着付けて頂いている間にも今まで聞いたことのない言葉を耳に致しました。おそらくはこの関西地方独特の言葉だったのでしょう。ひとつひとつのことに驚き、戸惑い、迷いそれでも、一人この関西の地に嫁いでくる自分は一体何なのだろうと思いました。新しい生活、全く知らない土地、耳慣れないアクセント。今日から身内となる夫の家族、親族。そういう様々なことが押し寄せてくる中においてもそれでも夫の元に嫁ぎたいと思うこの気持ちは 一体なんだろうと思いました。人を心から好きになるということは自分の人生を大きく覆すほどのエネルギーを秘めているものなのだと思いました。結婚しましてから14年目を迎えますけれど式を挙げる直前に思った多くのこと、今でも忘れることはありません。70年ほど昔、おそらくは祖母もこのような気持ちでこの関西に嫁いできたのでしょう。時の流れを超えて私は彼女の体質、面差しを受け継いだばかりではなく想う人のもとに嫁する時の気持ちをも共有していたのだと思うのです。
2006.04.19
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先日家族と一緒に昼食を摂ろうとお店に入りましたとき忘れられない出来事がありました。お店の方がメニューを持ってきて下さったのですがそのお店の方を見るなり、動けなくなってしまったのです。桃花さんにとてもよく似ていらしたのです。表情も声も 雰囲気までも。そのお店の方が少しいぶかしげなお顔で私をご覧になりそこで初めて私はその方のお顔を不躾にも凝視していた自分に気付いたのです。そんな不作法なことを自分がしていることに気付かぬほど私はただその方のお顔を見ていたのでした。桃花さんがお亡くなりになって もう5ヶ月です。以前のように「桃花さんに連絡しなければ」と思うことも少なくなってきました。私自身、ようやく現実を受け入れられるようになってきたのかなと思うのです。先日ね、車を運転しておりましたとき視界の端に白い椿が入ってきたのです。え?と思いもう一度その椿の花を確認致しました。この晩春の頃、確かにその白い椿は咲いていました。何だかとても嬉しかった。白い椿って 春先のほんの短い期間にしか咲きませんでしょう?ですから4月に入ったこの頃ともなりますともう白い椿に出逢うこともないのだな・・・と淋しく思っていたところだったのです。私にとりまして 白い椿は桃花さんの象徴なのです。少し俯き加減に はにかむように咲いている。この時期になりまして白い椿を見つけましたとき何だか まだこの世に桃花さんがいて下さるように思いまして元気が出てきたのです。何だか心がしゃんとして安心したのです。おそらくは心から安心したのでしょうね。帰りの車の中で私、この「ひよわーるど」用にお笑い日記の文章を考え始めていたのです。5ヶ月ぶりに。「お笑い日記」は自分の心が安定しておりませんと全く出てきませんで桃花さんがお亡くなりになりましてからというものそんな楽しい文章なんて全く浮かばなくなっておりました。気力がわかなかったのです。お笑い日記の存在すら忘れておりました。またそういう日記は ある程度シニカルな気持ちがありませんと書けないのですね。そんな気持ちなど ここ数ヶ月自分の中にありませんでただ自分の気持ちを立て直すことに必死だったのです。時折この楽天にログインし桃花さんに頂いたメールを拝見致します。4年前のちょうど今頃の季節私と夫は初めて桃花さんにお会いしたのでした。私、最初の頃は 桃花さんのこと20代の女性の方だとばかり思っていたのです。ですので 初めて桃花さんとお電話でお話しましたとき「桃花さんのお父さまでいらっしゃいますか?」と言ってしまいそうになったのです。今ではそれさえも楽しい思い出の一つです。遺して下さったメールを1通1通拝見しますとき桃花さんはひよのことを いつも前を向いて歩き続ける人間だと そう思って下さっていたのだろうかと思うのです。そういう言葉をいくつも遺して下さっています。確かに桃花さんはこの世からいなくなってしまわれましたが桃花さんの心を感じるものはたくさんたくさん遺されていると思うのです。時折 その白い椿の咲く道を車で通り抜けます。白椿のそばに佇み桃花さんが励まして下さっているように思うのです。夫ともよく話します。これから様々なことが起きてくるだろうけれど私たちがただまっすぐに生きてさえいれば桃花さんの心は いつも私たちのそばにいて下さるのではないか、と。
2006.03.28
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世は桜に染め上げられまさに春一色である。こういう時期にこそ「万葉の森公園」に行こうと思うのだけれどひとつだけ行けない理由がある。稲美町にある万葉の森公園には椿の木が多く殊にこの時期、緋色の椿が地を鮮やかにいろどる。この落椿を目にすると今は亡き祖母のことを思い出してしまうのだ。祖母は80歳を過ぎる頃より認知症が進みそのうち夜と昼との境がなくなってしまった。心細くなると 夜といわず昼といわず大きな声をあげて家族の者を呼ぶのである。最初は私たち孫のことを覚えていてくれたのだけれどそのうちに自分の子どもである、私の父のことさえも分からなくなってしまった。そしてしきりに50年以上も昔に亡くなった自分の夫のことを話すようになる。その夫のことを話す時期を過ぎると今度は自分の父親のことを話すようになってきた。そんな中でも ふと、現実に舞い戻ってくる時があった。私の顔をじっと見て「○○さん(ひよきちの夫)を大事にしなさい」と話しかけるのである。そして「みゆきは大きくなった?」とも訊いてくる。「うん、みゆきも大きくなったよ。」と私が答えると安心したような表情になる。そして今度は私の父に向かい「あんたが死ぬまで私は生きるから。」と呟く。「あんたの一生を見届けんことには死ねない」とも言う。・・・私も子供を持って初めて この祖母の気持ちが分かるようになった。本当にそうなのである。我が子の一生を見届けないことには死ねないと思うのだ。この強い気持ちには 理屈や常識でははかれないものがある。確かに常識で考えたら不可能なのである。もうすぐ90歳になろうかとしている祖母が60歳になる自分の息子よりもさらに長生きして息子の一生を見届けるというのだ。夜も昼も分からなくなりいつもいつも淋しいと言っていた祖母が自分の子どもを守ることだけは決して忘れなかった。樹を離れてもまだなお鮮やかな緋色をたもち地を彩る椿の花を見ているとそんな祖母のことを思いだして辛くなる。・・おばあちゃんもう、自分のことだけ考えればいいんだからね。お父さんのことは私たちが守っていくから。だからおばあちゃんは何も心配しなくていいからね。そう、伝えたかった。その言葉を伝えることも出来ないまま4年前の冬の夜 祖母は逝ってしまった。祖母危篤の報を受け取ったとき私は腰を傷めており 寝返りさえ打てない状態だった。なんでこんな大事なときにこういうことになるのかと床の中でどれほど泣いたか分からない。九州で行われたお通夜にも告別式にも参列することは出来なかった。告別式に参列できなかったためか私の記憶の中では 祖母は生前のままの姿なのである。だから時折 車を運転しているときでさえも視界の端に祖母によく似た人を見つけると急ブレーキを踏みそうになる自分がいる。祖母によく似た人を見かけ「あ!やっぱり おばあちゃんいた!」と思い急いで車を止めようとするのである。春 四月。近所を歩けば沈丁花の香りが漂い空を見上げれば 淡く桜が香る。山の淡い緑の中に桜色が広がり遠く霞むようだ。そんな中 地にある椿は樹上に咲いていた頃と少しも変わることなく緋色をたたえている。爛漫と咲き誇る桜。色をとどめて地にある椿。同じ春の中にありながらそのふたつの花のまわりにはおそらくは違う時間が流れている。
2006.03.23
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九州で生まれ育ったひよきちではありますがここ関西の血と長野の血が入っています。母方の祖母が代々長野の人だったのです。母方の祖母は「知代さん」という名で幼い娘を遺し 30代前半でこの世を去っています。3人目の娘を生み終えたあと産後の肥立ちが悪く持病の喘息も加わり あっというまに亡くなったと聞きます。おそらくは体もさほど強くはなかったのでしょう。周りから 結婚生活を無事に乗り切れるかどうか心配された彼女はお嫁入りの際には 身の回りのことをしてくださる方も一緒だったと聞きます。知代さんが我が子を抱いている写真など1枚もなく僅かに残された写真の中では 娘たちはいずれも他の方に抱かれているのです。知代さんの亡くなったのも戦時中のことでして遺された祖父は まだ幼かった3人の娘を必死になって育ててくれたわけです。そしてしばらくしてその家には新しい母親となる女性が嫁いできます。その女性が 今では90代になる元気な祖母です。確かに私自身、その祖母とは血が繋がっていないわけではありますが祖母はいつ会っても元気で 同じ女性としてみても本当に愛らしい人なのです。嫁いできても、自分の子供を産むこともなく先に亡くなった前妻の娘3人を愛情深く育ててくれたのです。・・・・私の母は 知代さんの実家の祖父母を知りません。無理もありません。本当の母である知代さんが亡くなったとき母はまだ2歳の小さな女の子でした。今思いますに、祖父は知代さんの実家の親族とうまくいっていなかったのではないか、と。いや、うまくいっていたはずが知代さんの早すぎる死によってその関係がぎくしゃくしたのではないだろうかと。知代さんの実家の親族が遺された幼い娘3人を引き取ると行ってきたのを振り切るようにして祖父は九州へ行ったと聞きます。戦時中のことです。祖父も、知代さんの実家と連絡をつけることもなくそのまま時が過ぎていったのだと思います。知代さんのお墓は今も長野にあります。ただ、そのお墓が何処にあるのか最近までわかっていなかったのです。母や、母の姉、妹が記録を頼りに探し続けようやく判明したとも聞きます。ただ、今の時点で母たちが知代さんのお墓に詣でることはないとも聞きました。幼い頃から必死になって育ててくれた祖母のことを思えば自分たちの本当の母の墓にお参りに行くことなど考えられないというのです。私が初めて長野の地に行きましたのは大学3年の夏のことでした。クラブでの合宿です。遠くに八ヶ岳が見えました。自分の生まれ育った南国とは違った風が吹いていました。この地のどこかに知代さんは眠っているのだろうなと思いました。おばあちゃん、私、貴女の生きていた場所にやってきたのですよ と心で語りかけました。鏡を見るたびに 知代さんのことを思うのです。彼女と私とはうりふたつなのだそうです。自分の持病を思うときおそらくは彼女の体質をも受け継いでしまったのかなと思うわけです。そしてもうひとつ。彼女から受け継いだものがあります。信仰です。彼女の遺品の中に法華経の経本があります。60年以上もの時を超えて幸せであれとの思いを込め彼女が私に贈ってくれたのではないかと思うのです。・・・20歳の時に初めて見た長野の山々。おそらくは知代さんも眺めそして彼女を愛していたその両親も眺めていた山々なのでしょう。大切にしていた娘を早くに亡くしそして孫娘たちさえも遠い九州に行ってしまったとき知代さんの両親は一体どのような思いでいらしたのだろうと思うのです。何十年という長い時を超えて今、知代さんの面影をそのままのこしている私をご覧になったならばどんなに懐かしくお思いになったことだろうと思うのです。いつか、私の娘を伴って知代さんの眠る長野の地を訪れてみたいと思います。
2006.02.25
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自分でもうすうす気付いてはいたのですがこの「ひよわーるど」からお笑い系の日記がなくなっているのです。もちろん以前に書いた日記は残っているのですがこの3ヶ月、ほとんど「お笑い系」を書いてないんですね。この「ひよわーるど」は園芸のジャンルですから(一応)花のことも書きますし、また家族のことを書いたりも致します。基本的に様々なものを題材に書こうと思っておりますので割と真面目な題材が続いた後には 息抜きの意味もありまして必ずお笑い系のものを書くようにしておりました。けれど、この数ヶ月全く書けないのです。書こうとする気持ちすら湧いてきません。と言いますか「お笑い系」を書くということすら忘れておりました。先日、ここ数年分の日記をざっと読み返してみまして「あれ?私、笑えるものを書いてたのか。」と気付いたのです。私は悔しいこと、悲しいこと、そしてとても嬉しいことがあったときに限り笑える日記を書いてみようかと思うタイプです。ですから2003年初夏に 精神的に辛いことが起きました時でさえも(おもてむきは)飄々として 当時まだ幼かった甥のことを楽しく書いていたものです。2003年初夏の頃のことも ようやく完全に振り切ることができました。ようやっと、です。2年9ヶ月ほどかかったことになります。けれど「よし!今度こそ完全復活やからな!」「今後一切 このことで悲しむことはない。」と腕まくりをし「これからやでえ!安心してや!」と 直接逢って報告するべき人はもういないのです。確かにね あの頃も今も 変わらず色々な出来事は起こり嬉しいことも面白いことも私の身の回りに起きているのです。以前の私でしたらその多くの出来事の中からおもしろさをキャッチしそれらをどう文章にあらわそうかと わくわくしながら考えていたのです。おもしろさをキャッチするだけのアンテナが今の私には無いのかなと思うわけです。2年半前の時は 悲しい思いをしながらでもそれでも「負けへんからな。」と自分を苦しめるものに対し宣戦布告することもできたのですが今回は 内に隠し持っていたはずのそのつよささえもぎ取られた思いです。けれど無理はしません。いつか時間が過ぎてゆけば元の私に戻ることもあるでしょう。生死の問題と信仰の問題は おそらくは私自身の核を成すものでありこのことについて真剣に議論した友人のことを忘れられるわけがないのです。何年経ったとしても。桃花さんがお亡くなりになって3ヶ月。私ね、「ありがとう」を伝えていなかったんです。改めて「ありがとう」と伝えることによって身近に迫っている死を再確認せざるをえないわけでそれが辛かった。頭では分かっていたんです。ここはホスピスなのですから生還はあり得ないって。でも心の何処かで認めたくなかった。とうとう桃花さんへの「ありがとう」を伝えられないまま時が過ぎてしまいました。私がきちんと「ありがとう」を伝えられなかったと言いますのに桃花さんはね ちゃんと伝えて下さったのです。あの日 彼のお葬式も終わりに近づき「Amazing Grace」の流れる中 出棺の時間が迫っていました。・・・桃花さんを乗せた車が視界から消えてしまったとき彼の元同僚だった方が私たち夫婦のそばに来て下さいましてこう話して下さったのです。「桃花さんは 『ひよきちさんたちが心配して いろんなことを話してくれた、 それがとても嬉しかった』と言ってましたよ」と。正直言って参ったな・・・と思いました。元同僚を通して 彼は最後のメッセージを伝えてくれたのだと思いました。それなのに私は「ありがとう」の一言を言うことができなかった。今になって気付くのですが 私たち夫婦のもとには桃花さんの写真も手書きの文字も何も残っていないのです。あるのは 思い出の中の彼の姿だけ。2年半前と違って「負けへん」と挑みかかるものも無く日々の生活の中から面白いものをキャッチできるだけのアンテナもなくしてしまいちょっと途方に暮れている今のひよきちです。けれど 頑張るよ。見ててね。
2006.01.28
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最近の癖。楽天にログインしても敢えてメッセージ欄には目を通さない。目を通せば桃花さんからのメッセージがたくさん遺っているから。やっぱり、まだ辛い。今日、稲美町の万葉の森公園に行ったのですがとてもきれいな白椿に出会いましてね。白椿、好きなんです。控えめで見ているだけで何となくほっとする。淡い桃色の椿も好き。桃花さんはたくさんのHNを使っていたけれどどれも皆 慎ましやかな花の名前ばかりだった。「白椿」もそのなかのひとつ。今日、その白椿を見て何だか雰囲気が桃花さんに似ているなと思った。公園の帰りに本屋に寄る。ふと耳を澄ませば聞き覚えのある曲がかかっていた。題名も歌っている人の名もわからないのだけれどこの歌詞は何処かで耳にしたことがある。「ただ逢いたくて もう逢えなくて」何でこんな時にこの歌がかかるんだよと思いながら周りの人に気付かれないよう眼を拭く。桃花さんの奥さまやお子様方はどうしていらっしゃるだろうと想いを馳せる。いつかまたお会いできるといいなと思う。季節が巡るたび光の中で揺れる花を見るたびにはにかみ屋だった桃花さんを思い出すのだろうなと思う。
2006.01.01
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正直な気持ちを書きましょうか。昨年11月に桃花さんがお亡くなりになってからというもの自分の中におきまして「ひよきちわーるど」を書き続ける気力がなくなったのです。この日記を書き続けてきた理由としましていくつか挙げられますがその大きな理由のひとつに「桃花さんに心配をかけてはいけない」というものがあったのです。かつて桃花さんが「ひよきちさんが日記を更新されると、 今日も元気なんだなって安心するんですよね。」と仰ったことがありまして桃花さんにはただでさえ色々なご心配をおかけしていたものですからとにかく自分にできることは拙いながらも「ひよわーるど」を書き続けていくことではないだろうか、と。だからね、桃花さんがいなくなってしまった今「ひよわーるど」を書く理由が見あたらなくなってしまったんです。この日記サイトをひとつのテーブルにたとえますといくつかの太い脚で支えられている、誠に不安定なものだと思います。まず自分が心身ともに元気であること、パソコンが故障していないこと、日記を書くための時間が確保できること。そして日記を書く気力を持ち続けていること。今 この「ひよきちテーブル」は「日記を書く気力」という太い脚が失われている状態なのかもしれません。でもね、自分の内面を書き綴るこのスペースが「他の誰かのためだけのもの」となってはいけないんですよね。あくまで自分の世界を作っていくことを目的とすべきであって。分かってはいるんです。この楽天に仲間入りして半年経った頃かな。桃花さんと出会ったのは。ランダム機能を使ってネットサーフィンをしておりまして本当に偶然の出会いでした。・・・それからは夫も私も桃花さんの体調を気遣うことがまるで日課のようになりまして「桃花さん、今日は大丈夫なのかな。」と夫婦で話したりもしていました。今日は1月10日。桃花さんがお亡くなりになってから丁度2ヶ月です。出会ってからというもの、こんな風に2ヶ月も音信不通のままということは初めてなので馬鹿ですよね。つい先程も「しまった、最近桃花さんに連絡してないよ。 身体は大丈夫なのかな。」なんて思ってしまって。「私、今日も元気ですよ。」と、他の誰かに安心してもらうための日記からそろそろ「自分の世界」を作っていくための日記に変えていかなければなりませんね。この「ひよわーるど」。これからどんな風に変わっていくか分かりません。全く変わらない部分もあるでしょうしがらりと変化してしまう部分もあるかもしれません。自分でも分からないのです。でもね、夫がこんなこと言ってくれたんです。桃花さんがもう一度この世に生まれてきていつか この楽天に帰ってくるかもしれない。その時この「ひよわーるど」を見て何故だか分からないけどなんだか懐かしいなと思ってくれるかもしれないって。だからそれまで「ひよわーるど」を書き続けていなさいって。
2005.12.22
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先日、桃花さんの奥さまとお電話でおはなししました。本当に温かな優しい方でした。お子様方も本当に礼儀正しく真っ直ぐな印象を受けました。告別式の中私の後ろの座席に座っていた方々が「ほら、今、挨拶しはった人が息子さんや。」「あんな立派な息子さんがおったら あとは安心やな。」と仰っていました。「立派な息子さん」その言葉、桃花さんにきかせたかったなと思いました。奥さま、お子様方とは今後も交流をもつことができたらいいなと思っています。桃花さんはこんなに素晴らしい方々との出会いを遺してくれました。
2005.12.11
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参りましたね。自分自身、現実を把握する能力がここまでなかったとは。1日に何度も桃花さんのことを思い出して無意識のうちにこう思っているんです。「こんなに あっという間に逝ってしまって。 『あまりに早すぎますよ』って 今度逢ったときに言わなくちゃ。」まだこんなこと、無意識に考えているんです。馬鹿ですよね。何だかね。桃花さんのブログを見ているとそのパソコンの向こうに まだ彼がいるよようなそんな錯覚を起こしてしまうのです。まかり間違って日記が更新されているんじゃないかって。今でもホスピスに足を運べばあの部屋の扉の向こうから「嘘でした~!」って桃花さんが笑顔で出てきてくれるような気がして。
2005.12.10
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桃花さんがお亡くなりになってから 今日で1ヶ月です。初めて迎える月命日となります。今にして思えば桃花さんがお元気だった頃、もっと携帯にお電話すればよかったな、と。時折かけても、桃花さんはいつも車の運転中で「今、車止めますから」と仰って電話に応じて下さったけれど桃花さんに負担をかけては申し訳ないと思いお電話の回数も少なくするようになってしまった。もっと「大丈夫?」「無理しないで」と声をかければよかった。桃花さんがホスピスに入院なさってからもひよきちわーるどの来訪者履歴を見てみると夜中の3時前に桃花さんの足跡が残っていることもあってそんな時、苦しくて眠れなかったのかな・・とか大丈夫なのかな・・と心配になることもあった。そんな時、例え夜中であったとしても「ひよも起きてますよ」とか「こんな時間に起きている人は誰だ~」なんて声をかければよかったと思った。けれど もし苦しくて起きているのならそんな時に声をかけるなんてとんでもないしもし苦しくなかったとしても貴重な時間を過ごされているのだから邪魔をしてはいけないと躊躇したりしていた。あの頃実際にお会いする桃花さんと桃花さんの書き綴る日記の文章とあまりに違いすぎて一体どちらが本当の彼なのだろうと不思議に思うこともあった。でもね 今なら理屈抜きにわかる。仕事の鬼だった桃花さん。とても厳しくて そんな彼の日記を読むたびに仕事に対する気迫を思った。昔からの友人たちに「カリスマ」と言われていた桃花さん。逢う人を魅了するその人柄。そしてとても繊細な心の持ち主だった。・・・どんな人だったのだろうとこちらが考える必要など無かったのだ。厳しかった彼もはにかみ屋の彼も全部 全部本当の桃花さんだった。
2005.11.27
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先日、香寺のハーブガーデンに足を運んだ。ここ香寺は比較的緑の豊かな土地で私はこの町に来ると 懐かしい故郷を思い出す。いつもの如く無農薬のお野菜を買い求めいくつかのハーブティーを購入。ここでは蜂蜜やアロマオイルも充実しており眺めているだけでも楽しくなる。お買い物の後、買い物袋を手に敷地内の喫茶店へ。店内に入った途端 飛び込んでくるハーブの香。真っ白な壁 光の差し込む明るい窓。窓際に座りリンデンのお茶をオーダーした。耳を澄ますと 微かにオルゴールの音色。・・・しまった と思った。今、一番聴きたくない音色だった。桃花さんが病室でお聴きになっていたのもオルゴールの曲だった。もともと愛らしい音色は好きなので本来ならば嬉しくなるはずだけれどせめて今だけは聴きたくなかった。窓辺に目をやればクリスマスのオーナメント。クリスマスには病室にツリーを飾りたいと話していた彼のことを思い出す。彼を驚かせたくて夫と2人 11月下旬もしくは12月の初めにクリスマスのオーナメントをたくさん買って彼の病室に持っていこうねと話し合っていた。そしてご家族の方々と一緒にツリーの飾り付けできるといいねと話していた。・・・少しずつ元気になろうと決心し落ち込んだままでは怒られちゃうよね、と夫と笑いあいそれでも 日常生活の少しの隙間に現れては消えていくいろんな出来事。何の前触れもなく 懐かしい思い出が浮かんできてそのたびに心の動きが止まる。大切な人を見送るということはこういうことなのか と改めて思う。果たせなかったいろんな約束。言えなかった多くの言葉。遠くに遠くに行ってしまった人。
2005.11.17
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今日、ふと気づいたこと。何だかムキになって日記を更新しているな、と。ムキになって・・・と言う言葉がしっくり来ない場合にはなんと言うべきか、意識して日記を更新しているといった方が正しいだろうか。どうしてかな、と思った。どうしてかなと思い、ようやくその答えに辿り着いたとき最初呆然とし、次いで苦笑いするしかなかった。私は2年半前と同じ感覚で日記を更新していたのだった。2年半前、精神的に落ち込んでいた私を桃花さんは励ましてくれ、「ひよきちさんが日記を更新していると安心するんですよね。」と伝えてくれた。「ああ、今日も何とか元気に過ごしているんだな」と思って 安心するのだ、と言ってくれた。その言葉があったからこそそして楽天の皆様の励ましがあったからこそ私はあの頃、必死に日記を更新し続けていたのだと思う。そして今、あの頃と同じくほとんど毎日のように日記を更新している自分に気づくのだ。何のために?心配して下さった皆様に「少しずつだけど元気になってます。」と伝えるために。そして 桃花さんに安心してもらえるようにと無意識にそう考えている自分に気づいた。安心してもらえるはずの人は もういないというのに。馬鹿だな、と思った。先日もそうだった。遺されたご家族の皆様とはこれからも何らかの形で交流ができたらいいなと考えていていつか、奥さまやお子様方といろんなお話ができるといいなとも思っていた。そしてご家族の皆様とお話できたなら「ご家族の皆さん、とてもお元気でしたよ」と桃花さんに報告しようとそんなことを考えている自分に気づいたのだ。頭では現実を受けとめているようではあるけれど心の何処かでは願望と現実とが未だ混在している状態。いっぺんには到底無理ではあるけれど少しずつ少しずつ元気になっていこうと思う。けれど無理はしない。強いて明るくもしない。自然体で行こうと思っている。悲しくなったらそのまま素直に日記に書き綴るだろうしいろいろな感情をそのままあらわしていきたいと思う。そろそろ元気になります。桃花さんにもう二度と会えないことを悲しむのではなく彼に出会えたことをずっとずっと感謝していきたいと思う。これからも前を向いて生きていきます。桃花さんが教えてくれたことをずっと忘れずに。
2005.11.15
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これからは紅葉の頃を迎えるたびにこの季節に逝ってしまった人を懐かしく思い起こすのでしょうね
2005.11.14
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たとえば君が傷ついて くじけそうになった時は かならずぼくがそばにいて ささえてあげるよ その肩を 作詞・杉本竜一 「BELIEVE 」今日の夕方、家の中で娘がこの歌を歌っていた。その歌を聴いた途端2年半前 桃花さんに励ましてもらったことを思い出した。あのとき、眠れなくて ご飯も喉を通らなくてそんな中桃花さんはいつも温かく励ましてくれた。励ましてくれていた桃花さんは自分の癌が再発したことを知っていた。そのショックはひどいものだっただろうにそんなこと、私には一言も言わなかった。・・たとえば君が傷ついて・・その歌詞を口ずさみ涙が止まらなくなった。
2005.11.12
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寝室の天窓からお月さまが見えます。数日前にも娘と一緒にお月さまを見ておりました。部屋の電気を全て消して私たちに届くのは月の光だけ。私は娘に言いました。「いつかママが死んでも みいちゃんがここに座ってお月見をするときには ママもみいちゃんの隣に座って一緒に月を見るから。」「姿は見えないけれど 心はいつもみいちゃんと一緒だからね。」月の光を楽器の音色にたとえると夫はフルートだと言い私は琴の音だと言いそして娘は笛の音だという。静かな光に照らされて娘は「何で月の光はこんなに優しいのかな。」と言う。月を見ているとこの世も そしてあの世も実はひとつのものではないかとさえ思う。逝ってしまった人はこの宇宙の中にとけ込んで姿こそ見えないけれど心は瞬時にそばに来てくれる。一週間前のこの時間にはまだあなたはこの世の人だった。この時間、私は必死に駆けつけている途中であり夫は家にとどまり あなたのことを祈っていた。飛翔力いまだ持たぬか七日目の逝きし時刻に待てど来たらず 北沢郁子
2005.11.06
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ふと気づきましたら桃花さんに関する日記、こんなに書いていたのですね。桃花さんは私たち夫婦にとりまして兄のような存在でしたのでそしてまた信仰やその他、多くのことについて本音で話すことのできる人でしたので私にとりましても、そしてまた夫にとりましても今回の出来事というのは本当に大きなことでした。彼のサイトに行きましても当然の事ながらもう、更新はなされないのですね。不思議です。お亡くなりになってそのお顔を拝見しておりますのにそして告別式にも参列させて頂いたと言いますのに心のどこかで彼の死を未だ信じられずにいる自分がいるのです。彼の携帯に電話をすれば「ひよきちさん?」と声が返ってくるような そんな錯覚に陥ってしまうのです。桃花さんがお亡くなりになる前日、ホスピスにお見舞いに伺いました。本当に辛そうでした。「ごめんね。 さすがにしんどいや。」と「食堂に一緒にお茶を飲みに行きたいけれど 体が動かないんだよね。」と笑って仰っていました。こんなに辛そうにしていらっしゃるのにここに私がいていいのかと思いました。でも、私で何かできることがあれば何でもしようとも思いました。・・・何でもしようと思いながら何の役にも立てないだろうことも分かっていました。そのうちに桃花さんが「食堂に行ってジュース頼んできてもらえますか? ひよきちさんも、何か頼んでね。」と仰いましたので私は 桃花さん、喉が渇いたのかもしれない・・・と思い急いで食堂に走りました。でもね、あとになって気づいたんです。あとになって気づくなんて本当に馬鹿ですよね。もう、ほとんど何も喉を通らなかったはずなのに桃花さん、私に気を遣ってそうやって言って下さったのだ・・・と。私その時、桃花さんにはジュースをそして自分には熱い紅茶を頼んだんです。そしてジュースと紅茶とをトレイに乗せて病室に戻ってきました。・・・紅茶を頂いていますときにお昼が運ばれてきましてね。あまり、長居をしてはいけないなと思いました。早く失礼した方が 桃花さんもお疲れにならずにすむと思い急いで熱い紅茶を飲もうとしたのですがとても熱くて早く飲めなかったんです。焦れば焦るほど飲めなくてでも、私が病室にいる時間が長くなればなる程桃花さんに負担をかけてしまうと思ってそれで紅茶を半分だけ頂いて少しでも早く失礼することに致しました。今になって思えば せめてその時だけでも冷たい紅茶を頼んで短時間で全部頂いた方が良かったのではないかと。せっかく桃花さんが気遣って下さったというのにその紅茶を半分残してしまうかたちになってしまったんです。でも・・・熱い紅茶を全部頂くにはその時かかった時間の2倍以上もの時間が必要だった。その間、私が病室にいる間は桃花さん、気を遣ってゆっくりできないのではないか、と・・・・。わずか短時間の間にいろんな思いが交錯しました。ひとつひとつ、あのときはこうすれば良かったのではないかとかこんな風に言えば良かったとか あとになっていろんな想いが出てくるんです。今になって後悔しても遅いのですが・・・・。・・・・私が病室に伺いましてその36時間後に亡くなったことになるのです。亡くなる36時間前に見舞いに来た友人にあんな風にあたたかく接することができるものでしょうか。私には到底できないことです。桃花さんは あんなに辛い中で人に対する優しさを決して失うことはなかった。最後まで 何と強い人だったのだろうと思うのです。人間とはここまで 気高く優しくなれるものかと思いました。人は皆、いつかは逝きます。私も何十年かあとにはこの世を去るでしょう。その時に、桃花さんのように優しく強くできるだろうかと思うのです。桃花さんは人間とはここまで気高く強靱に生き抜くことができるのだということを教えてくれました。最期まで 本当に優しい兄のような人でした。
2005.11.04
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