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このところの忙しさは一体何なのだろう、と思う。冷静に考えてみれば・・確かに (物理的に) 時間がない。朝夕の娘の送り迎え。このことに最低でも1時間半ほどかかっている。以前の日記にも書いたことだけれど、これは娘へのストーカー対策であり勤務先からの業務命令でもある。その他、義母の病院付き添い。義母のかかりつけは内科・整形外科・眼科など全部で8つ~9つ。総合病院での検査が入ればほぼ一日がかりとなる。そして自身の仕事、家事。殊にこの年度切り替わりの時期、仕事量は急増しすべて終えるのに 連日夜中の3時過ぎまでかかっていた。そのさなかでの、このたびの義母の緊急入院。退院してきてからは、さらに昼・夜の食事の準備が加わった。・・・さすがに そんな日々が続けば体調にも影響を及ぼすこととなる。夫からは「死相が出ている」と心配され鏡をのぞきこめば、確かに かなり青白い顔をしていた。・・・最近ちょっと、いえ、精神的にかなり荒んでいるのかな、と思う。その理由のひとつに忙しさも挙げられるし隣の駐車場オーナーとのちょっとしたトラブルも、そう。けれど一番の理由は、こうやって、自分の気持ちを素直に書き表すことができなかったからではないか、と。今までは、自身の気持ちを書き表すことで心の整理をし、落ち着きを取り戻していたのだと思う。この数か月間、それができなかったからこそこんな風に 心の何処か荒んでしまうのではないか、と。・・・・そんな風に考えている 今日この頃。
2021.05.08
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ふとカレンダーを見れば、何と2ヶ月も日記を更新できないでいました。義母の入院・仕事・体調不良とただただ慌ただしかったこの日々。また、この楽天にて日記を更新していきたいと思います。
2021.04.18
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時は晩秋。腹痛の起こったのが春3月であったことを思えばなんと長い時間が過ぎてしまったことだろう。地元の病院でどれほど無駄な時間を費やしたことか。そのことを深く後悔しつつ神戸の病院へと向かう。診てくださったのは副院長先生だった。診るなり 先生は「 これはひどい、炎症がかなり広がっている。 」と仰り私の顔をご覧になりながら「 今まで痛かったでしょう。すぐに手術をしてあげますからね。 」と言ってくださった。・・・思えば 十数年も前、口腔外科を一度受診しただけの患者が 紹介状もなく、何の予約も無しにいきなり病院にやってきて「 手術をしてください 」とお願いしているのである。常識で考えれば あり得ないことだった。・・確かに紹介状のことも気になって仕方なかった。しかし 紹介状を書いてもらうにしても一度は「 診察打ち切り 」と言った外科医のもとに、そしてあくまで「 ただの虫垂炎だ 」と言い続け「虫垂が破裂したからといって、何がどうなると言うの?」と言い放ったその外科医に紹介状の依頼をしなければならないのである。そしてその外科医とて、毎日外来の診察をしてるわけではないのだ。一通の紹介状をもらうのに 一体どれだけの労力と時間を必要とするのだろう・・・と暗澹たる気持ちになった。そして その間にも、一番最初に診断してくださった内科医の「 虫垂が破裂したら取り返しのつかないことになるんです 」との言葉が常に心にあった。痛みは日増しに強くなり、夜、一睡もできない日さえ出てくるように。こうしている間にも、いつ虫垂が破裂するか分からない。そんな縋るような思いで、神戸に向かったのだった。診察室で 激痛に苦しむ私に「 痛かったでしょう 」と寄り添ってくださりすぐに手術の手筈を整えてくださった先生のことを、私は、生涯忘れない。・・・どんなに有り難かったことか。診察を終え 病院を出た私の前に広がっていた南京櫨の並木。その美しさに息をのんだ。紅、黄色、橙、緑、黄緑の葉が風に揺れまるでおとぎの国のようだ、と思った。足元を見れば、駅まで続くムービング・ウォーク。断続的に続く痛みのため、普通に歩くことさえできなくなっていた私にとってそのまま駅まで運んでくださる設備は本当に有り難かった。見上げれば「 大丈夫だよ 」と言ってくれているような秋の樹々。そして 私の切実な願いを受け止めてくださった副院長先生。こんなにも温かな病院があっただろうかと、目頭が熱くなった。
2021.02.18
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内科医の見立てでは すぐに腫瘍を切除しなければならないとのことだった。でなければ虫垂が破裂し 取り返しのつかない状況になる、と。そこで 手術に踏み切るべく、外科にまわされた。しかし、あらたに診察を受けた外科ではこれは「 虫垂粘液嚢腫 」ではなく、単なる「 虫垂炎 」だと。ですのでこのまま様子を見ましょう、と 手術はあっさり見送られることとなる。私自身、内科医と外科医の見立ての あまりの違いに戸惑い、外科医に手術を懇願するも、全てスルー。以来、再三にわたって手術をお願いしても全く聞き入れてもらえず診察日だけでなくそれ以外の日にも病院に行き、外科医に会い、手術をお願いし続けても、それでも駄目だった。腹痛は依然として続いており思い余ってセカンド、サードオピニオンに望みを託し診察を受けるも、やはり 様子見、手術はデメリットが大きすぎる、との診断だった。そうこうしているうちに件の外科医が「たいしたことないので診察を打ち切ります」と言い、そこでの診察・検査は終わりになってしまった。・・・診察を打ち切られた後でも なお腹痛は続き、何ひとつ好転していない。それどころか痛みは日ごとに強くなり、やがて日常生活にも支障をきたすように。地元で最も力のあるとされている病院でさえ、そのような診察結果だった。これ以上一体何処へ行けばよいのか、と途方に暮れていたある日ふと通りかかった○○病院前の看板に目を奪われた。この、何の気無しに○○病院の前を通り、そして看板を見たことにより事態は一気に急展開することとなる。・・・看板には「健康まつり」と書かれてありそこに書かれていた「血糖値測定」に興味を持ち、ふと、その病院に入ることにした。そこで偶然にも、義父がお世話になっていた医師に出会い、その医師の担当している「健康相談コーナー」に足を運ぶことに。そこで自分の現状を話し、いまだ腹痛の続いていること、これからどうするべきか悩んでいること、そして最後に内科医の見立てでは「虫垂粘液嚢腫」と言われたということを話した途端、医師の表情がさっと変わり「切らなければ駄目です!」と。「私なら即刻切ります!」「大変なことになる!」とはっきり仰ったのだった。・・・病院を後にし、帰りの車の中で「やはり手術は必要だ」としみじみ思い、この○○病院に、そしてこの医師に手術をお願いしたい、と思った。その日の夜、帰宅してきた夫に経緯を話し、手術を受けようと思っていること、そして○○病院にお世話になりたい旨を話した途端、夫が反対し始めた。もちろん手術には大賛成!しかし、手術をするのなら絶対に神戸に行け!と。実は、夫は神戸の病院には一度も足を運んだことはない。なのに、なぜ今、ここで、神戸の病院が出てくるのだ?と思い夫に訊いてみたところ昔、私が何度も何度も、これでもか!というくらい神戸の病院のすばらしさを力説していたからだ、と *^ ^確かに俺はそこには一度も行っていない、だけど医療技術の高さ、施設の充実、いろんなことを考えあわせれば、やはりここは神戸に行くべきだ!と。その夫の話を聞き・・・昔、神戸の「口腔外科」に行った時のことを改めて思い出した。「舌癌ではないか」とこわごわ診察を受ける私に、医師は「大丈夫!悪いものではないよ。」と笑顔で話してくださり、そして「舌痛症」との診断に「かわいそうに、あなたは一体どれだけのストレスを抱えているんだろう。」と親身になって心配してくださった。( 当時の私は、いや、そんな、私、ストレスなんてないけどなあ・・・と のんびり、何も考えていなかった *^ ^ )その時の先生の笑顔が、そしてスタッフの方々の細やかな心配りが改めて思い出され・・そこでようやく、神戸に行こう、と決心。ああ、馬鹿だ、どうして神戸の病院のことを忘れていたのだろう、と思った。けれど自分がすっかり忘れ去っていたとしても、夫がしっかりと覚えていてくれた。そして ここぞという時に教えてくれたのだ。・・・そのことに感謝し、さっそく神戸の病院に行く準備を始めた。
2021.02.15
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病発覚より早くも10年目。最近になり、これまでの道のりを書き残しておこうという気持ちになってきた。思えば・・病を得たことは確かに不運ではあったけれど何故だろう、いつもここぞというところで 守っていただいている。ただただ不思議と言うよりほかなく・・・心から感謝の気持ちでいっぱいである。・・・時は今から二十数年前にさかのぼる。当時、私は原因不明の舌の痛みに悩まされていた。( 結果として「舌痛症」と診断されることになる )地元の総合病院に行きたくとも「口腔外科」がなく、しぶしぶ遠くの神戸中央病院にまで足を運ぶこととなった。今にして思えば、これが布石であったのだと思う。痛くなったのがたまたま舌であり、そして地元の病院に「口腔外科」がなかったからこその、神戸の病院行きではあった。もし痛みの出たのが腹部や脚だったとしたら、私は地元の病院に駆け込み、わざわざ神戸にまで行こうという気持ちは起こらなかっただろう。「口腔外科」を求めて神戸に行き、そこで先生方の温かさに触れ、それ以来、神戸中央病院は私にとって大きな存在となったのだった。それから10年ほど経った、2008 ~ 2010頃のこと。ほとんどテレビを見ない我が家で、ある日、娘がテレビを付けていた。ふと見てみれば医学関連の番組が放映されていて普段なら「テレビ、消してくれる?」と言ってしまうはずの自分が何故だかその番組をチェック、最後までしっかりと見てしまった。その番組で放映されていた病気の名前は「腹膜偽粘液腫」。そして その病気の治療に携わる名医のお名前は米村豊先生。病名と先生のお名前が何故か頭に残り、そしてどんな病気なのか、手術はどんなふうに行われるのかなど当時、自分には関係のなかった病気のはずなのに番組の内容を懸命に理解しようとしていた。そして、世の中にはこんな大変な病気があるのか、とでも、米村先生がいらっしゃって本当に良かった・・と思ったことも覚えている。まさかその数年後、自身が米村先生の診察を受けることになるとは夢にも思わぬことだった。そして 今から10年前の2011年3月、突然の腹痛に見舞われる。いつまで経っても腹痛のおさまる気配はなく急ぎ、地元の総合病院に駆け込んだ。本来ならば外科を受診するべきところ何を思ったのか、内科に飛び込んでしまった。途中で しまった! 内科ではなく外科に行くべきだった・・と思ったものの検査スケジュールが次々に組まれ仕方なく そのまま内科での検査・診察となったのだった。・・・今にして思えば、この時、間違って内科を受診してしまったことがあとになって大きな意味を持つこととなる。その後、様々な検査を受けおそらくは「虫垂粘液嚢腫」ではないかとの診断。この病気は、虫垂が破裂したら大変なことになるので、夜中でもいつでも、強烈な痛みが出てきたらすぐに救急車を呼び急ぎ病院に来るよう促される。その時の内科の医師のただならぬ表情、話しぶりにこれは大変なことになった‥‥と、私自身青ざめたことを覚えている。
2021.02.13
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仕事に加え、最近は義母の介護度認定にまつわる様々なことに対応、IHの工事、隣接する駐車場のことで弁護士に相談、などちょっとバタバタしております。IHの工事など、業者の方にお任せすればよいのですがその「前準備」が大変なことを改めて痛感。工事のため、台所の流し下収納・床下収納を整理。昨年末の足の怪我も癒えていない状況ですので やはり・・かなりしんどかった。夫にものすごく助けてもらいました。義母の介護度認定にしましても、当日までの準備が大変。これもまた、自身が経験して初めてわかることばかりでした。仕事と、様々な前準備と、そして義父の遺した膨大な資料の整理。連日、夜中までかかって頑張っております。・・・やはり、負荷がかかり過ぎていたのでしょうか。大切な用事を忘れてしまったり、娘のお弁当を届け忘れたり小さなこととなりますとそれこそたくさん、たくさんミスが起こります。食事を作っている時にも、つい今しがたオムライスの上にケチャップをかけたということすら忘れ(ほんの1分半前のことなのに!)「 あ!ケチャップ、かけてくれたんだね! ありがとう!」と夫にお礼を言っている。自分でケチャップをかけた記憶が、すっぽりと抜け落ちていた。そんなふうに・・・日常生活の中でもいろいろやらかしております。ただでさえぼーっとしているのに、これ以上思考力を下げてどうしようと言うのだ。しっかりしろ、自分 ( 叱咤 )。で、今、我が身を振り返り 思いますことは‥‥先日、明け方に見た夢の中、家族3人でカラオケに行っていまして娘のはじき出した点数がすこぶる低く、カラオケ店の店員さんから「 歌の点数が大変低かったのでIH工事の代金、さらに27万円上乗せしておきますね 」と言われなんでカラオケ店でIH工事代金の支払い?なんで上乗せ?など、びしばし反論すべきところ そうか・・・。歌唱力がないということはこんなふうに様々なところで影響が出てくるということなのね・・・と何故か納得しその上乗せ代金を支払おうとしていた、あの日の夢の中の自分を叱り飛ばしたい気分であるわけです b (*`◇´)
2021.02.04
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つい今しがた仕事を終え、ほっとしているところです。この仕事を始めてもうすぐ10年目を迎えますがやはり今でも右往左往しております(涙)。辞書を引っ張り出し、参考書を広げ呻吟し数時間にわたり格闘、頭はすでに飽和状態であります・・・。で、飽和状態のまま車で出かけ「ラーメン屋」を「ブーメラン屋」と読み間違え「ブーメラン販売だけで商売は成り立つのか?」などと在りもしない店舗の経営状況まで心配している b(*`◇´)今の家に移り住みましてから、早くも17年が経過いたしました。ガスコンロも17年使い続け、そろそろ IH にかえようと見積もりをしていただき、あとは工事の日程を決めるだけとなりました。ついでに洗面所の照明も新しいものに。ガス給湯器もそろそろ怪しいですし、冷蔵庫もかれこれ25年使っております。気づけば リビングのエアコンは20年、電子レンジは28年使い続けていた・・・ぼーっとしているにも限度というものがあるだろう!と今、自身にカツを入れているところでございます。 これらの電化製品、全く壊れず、何の問題もないのですがやはり 新しいものにそろそろ替えていかなければならないのでしょう。・・・このところ、兄弟・親族というものについて考えます。やはり、兄弟・親族は似通ってくるものなのかな、と。性格やものの考え方は全く違っているのですが、ふと気づけば、似たような人生を歩んでいる。さらに言えば、似たような職業を選んでいる、ということでしょうか。父の背中を見て育った私も弟も、気付けば教育の道に進みふと隣を見れば夫も教職、そしてこの春大学4年生となる甥も同じ道を目指しています。姪もまた幼児教育への道を進んでいるとのこと。我が家の娘も、全くの偶然ながら私の弟のお嫁さんと同じ仕事に就きました。建築科で教えていた父の建築への夢を、現在 私の妹(三女)夫婦が継いでいます。妹夫婦は建設会社を営み、父はそこで建築士として頑張っています。( 思えば妹はもともと銀行員だったのですが、夫となる人が建築への夢を持っていました )皆それぞれ 誰かから「こうしなさい」と言われたわけではないのに気付けば、同じような仕事に就いている。皆がばらばらの職業についてもいいはずなのに親族ってなんだかおもしろい存在だな・・と思いました。そしてさらに思いましたことは 同じような仕事に就くことによってお互いに情報を交換し合い、助け合っていける。これは本当に有難いことでした。その現場での大変なことを お互い理屈抜きに共感し合い、助け合ってさらに前に進むことができる。これは本当に大きな支えとなることと思います。そしてまた逆に、自分とは違う職種についている親族からのアドバイスは何より有難い。看護師をしている妹(次女)からは親の不注意から命を落とす子どもさんの多くいることをききとにかく状況が許すのであれば、子どもの小さいうちは親が家にいるように、とつよく言われました。そしてまた患者としての心構え、もっと言いますとこういうことをしたら病院側に迷惑をかけるからやめた方がいい、という様々なパターンも教えてもらい、私自身、入院する時にとても助かりました。現在、我が家の娘が 大怪我をすることも病気で入院することもなくいられますのもこのときの妹のアドバイスによるもの、と深く感謝しております。前述の 建設会社を営む妹夫婦からは子どもの進学費用についてのアドバイスも。妹夫婦には4人の子どもがおりますが、4人とも 私ども夫婦の母校である大学に進学する予定。既に4人の内、2人がこの学校に進学しております。そこで頭を悩ませるのが「家賃」。学費はどうしても致し方ないのかもしれませんが・・せめて この家賃だけでもどうにかしたいもの。簡単にざっと計算しましたところ、1人にかかる家賃がA 最初の1年間は寮に入りますので 600,000円 ( 寮費 ) 。B 次の2年生から4年生までは独り暮らしですので 1ヶ月 60,000円のハイツに入った場合、 60,000円×12か月= 720,000円。 それが3年間ですので 720,000円× 3年 = 2,160,000円。 よって、上述の寮費 600,000円と合わせまして、1人にかかる4年間の家賃は 2,160,000円 + 60,0000円 = しめて 2,760,000円。C その4人分ですので 2,760,000円 × 4人 = 11,040,000円。 ・・・・・・・。 無理。到底無理。その他学費、食費、そのほか諸々。もう無理。b(T-T) 当然のことながら 妹夫婦にとりましても非常に厳しいものがある。しかも、払い続けた家賃、かえっては来ない。11,040,000円・・・・(涙)そこで妹夫婦が考えついた案は、中古住宅を購入すること。そこに 進学した子どもたちを住まわせる。そして4人の子どもたちが無事卒業した後にその家を売却すれば住宅購入に使った金額のうち大部分が戻ってくる。よって、前述の11,040,000円もの大金を失うこともない、とのこと。・・・私などには考えもつかぬことでした。やはり建設・不動産業を生業としている場合、こういうことをぱっと思いつき実際に行動に移すのだ・・と驚きました。しかし、こういうことをアドバイスしてもらったところで我が家ではおよそ実行不可能 b(*`◇´)現在、その家には甥っ子が住んでおりこの春、大学の女子寮退寮予定の姪もまた、この家に移り住む予定。4月からは甥、姪、お互いに力を合わせ頑張っていくことでしょう *^ ^我が家の娘も、仕事のことで弟のお嫁さんに連絡を取り様々なアドバイスをいただいた様子。私もいずれ、姪っ子に幼児教育の現場での様々なアドバイスを伝える時が来るのでしょう。そして前述の4年生となる甥っ子、もう進むべき道は決まっているようでして実は現在の私と同じ職種、考えようによりましてはライバル関係ともなります(笑)。そしてまた彼とはFXという共通の話題もありますのでそれにつきましても様々な情報を共有していくのでしょう。・・・幼いころ、我が家によく来ていた父の生徒さんたち。涙ながらに父に相談し、父も一生懸命に励ましていた姿。その様子を見ていた弟と私。気が付けば、弟も私も父と同じ道を歩んでいました。2人の妹を守らなければ!とあつくるしかったあの頃の自分。ある時は 妹(次女)が近所の男の子に泣かされたと聞き、そのお宅に怒鳴り込み、そしてある時は もう1人の妹(三女)が溝にはまってしまう!と彼女をかばい自分が溝に落ち全身びしょぬれ、あちこち強打(笑)。彼女のおしめを替え、子守唄を歌って寝かしつけいつも抱っこしていました。その彼女たちに、今では多くのことを教えてもらっているのです。( 正確に言いますと、お姉ちゃん、しっかりして!と叱られております )そしてほんの20年ほど前、生まれたばかりの甥や姪。夜泣きを続ける彼らを一晩中抱っこし続け一緒にご飯を食べたりお風呂に入ったりご飯を食べればお魚の骨がのどに刺さり大騒ぎ。スーパーに行けば彼らはいっせいにばらばらの方向に走り去り私は声を嗄らして彼らの後を追う。甥が朝、がばっと起床、傍で寝ている私の顔を踏んづけて歩き「○○ちゃん、かくれんぼしよう!」と爽やかにのたまう。今、何時だと思っておるのだ。朝の5時だぞ。腰を傷め寝がえりさえ打てない私に「 踊れ 」と言う。曲は Queen の We will rock you ! 台所から生の玉ねぎを持ってきて「一緒に食べよう」と言う。涙を流してまで食べ方を実演してくれた彼には申し訳ないが、そんな勇気は・・私にはなかった。・・・本当に過ぎてしまえば、あっという間のことでした。あの頃、おしめをし、ハイハイをし、泣き泣きしていた彼らもいつの間にか大きく成長し、私の知らぬ世界へと飛び立ってゆくのでしょう。そんな彼らの、そして今はまだ見ぬ子孫のためにもお互いに力を合わせながら助け合い、これからも ともに前に進んでゆきたいと願います。
2021.01.21
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約半月ぶりの更新ではあります。年末に怪我をしました足は、少しずつ回復中。しかし、どんなに意気込んだとて やはり年齢には勝てずこの回復ぶりのなんと悠長なこと(焦)!ついこの前まで、怪我してもちゃっちゃと治っていたはずですが50代中盤ともなりますと・・・やはり治りは遅いのだ、と痛感。そして ざっくり切った傷口よりも実は打ち身の方が難儀なことも併せて痛感。打ち身って・・本当に侮れないのですね。知らなかった・・・。私自身、いつも何かしらやらかしていますので(笑)これからは 慎重に、慎重に生きていこうと思います *^ ^
2021.01.14
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2021.01.04
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皆様、ごきげんよう(笑)。お付きあいの長い方は、もうお気づきですね。ひよきちが「 ごきげんよう 」などと口にする場合たいてい何かあった時であります。「・・ごきげんよう 」と、元気なく微笑むひよきちの左足には大きめのガーゼが巻かれ部屋の中を移動するときには「 いててて 」と独り言ちつつよろよろよろとしております。ものの15分も立ってはおられませぬ。・・・夕暮れ時、家の前の溝にはまり( 何してたんだ )左足の弁慶の泣き所をざっくりと切り、両足首をねじり、そのまま道路に倒れ伏したひよきち。散々ではありましたが、頭を強打しなかっただけでも有難いことです。あれからかなり日数は経っておりますが、場所が場所だけにやはり痛い(涙)。日常生活にもかなり支障が出ております。完全に良くなるまでまだまだ時間はかかりそうですが何とか、頑張ります。 b(*`◇‘ ) 慌ただしい年の瀬、どうぞみなさまお身体にはくれぐれもお気を付けくださいませ。
2020.12.22
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仕事の合間に、ほんの少し更新。皆様と同じく多忙です(涙)。朝起きて、ふと気が付けば、夜。仕事の山を突き崩し、お皿の山を片付け、市内を車で走り回り、洗濯物と格闘し。はっと我にかえればもう師走ではないですか。年末の大掃除も、これから。年賀状も書かなければ。義母の病院への付き添い、自身の通院。新聞集金もある。よって、慢性の睡眠不足だ。この前なんか、ラーメン屋さんの看板をぼーっと見つつ「ラーメン」が「ブーメラン」に見えてしまい「ブーメラン屋さんか・・。」と、「ブーメランを販売するだけで、暮らし成り立つんかな・・・。」とありもしないお店の経営状況まで心配している自身を発見 ( しっかりしろ )。かなり、きてます。 b( *`◇‘ )
2020.12.01
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2020.11.25
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多忙ゆえ、日記もなかなか更新できません。仕事・家事・義母の病院付き添い。加えて自身の体調不良。体力の無さを気力で補っている感覚。これから年末にかけ、さらに忙しくなってゆくのでしょう。・・・この「ひよきちわーるど」も20年目に入りました。この間に、本当にいろいろなことがありました。恙なく、この空間にいられることに感謝です。2001年10月、35歳だった私へ。現在、2020年10月、54歳。文体も、日記の内容も、そして私自身も変わった。でも・・自身の核となるものは変わっていないように思う。そして たぶん、これからも変わらない。この空間にこんなに長くいるとは思ってもみなかった。随分、遠くまで来たのかな。これからも この場所で、ずっと生きていく。 2020.10.30
2020.10.31
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はた、と気付けば、はやくも9月尽。毎日、様々なことに忙殺されております。ともかくも仕事をこなし、家事にいそしみ、義母の世話をし、家族と自身の体調管理。最近空気が冷たくなってきているせいか喘息も出てきているようです。苦しい。お線香や、家族のシャンプーの香りにも敏感に反応し途端にゼーゼー言い出す始末。こんな時、万一コロナに感染でもしたら非常にまずい。この春から変わらず自粛生活を続けておりますがこれからの寒い季節、さらに気を引き締めてかからねばならないのでしょう。この秋、正倉院展や、元明天皇展など・・・(*`◇´)・゜・。殊に歴代天皇のうち、深く敬愛してやまぬ元明天皇。その方の展覧会ともなれば万難を排し駆け付けたいところではありますが・・・我慢。まずは、自身の体調管理。寝込まないこと。仕事と家事をきちんとこなすこと。変わらず忙しない毎日ではありますが頑張って、前に進んでいきます。
2020.09.30
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先日は一日中、神戸の病院にて検査。いくつかの診療科を回り、朝の10時から夕刻の5時過ぎまで。冷房の強い中 長時間滞在していたせいか身体がすっかり冷え切ってしまった。検査結果は、後日郵送にて。いつものことではあるけれどやはり、結果を知るまでは何かと落ち着かない。あれこれと思い悩んでも仕方のないことなので日々、やるべきことに集中するのみ。自身の病院通いに加え、義母の病院への付き添いへ。眼科、整形外科、内科、脳神経外科に頭頚部科その他義母の寝室のシーツ替え、洗濯、買い物等々。年齢とともに気弱になっていく義母を励ましつつあれこれ様々なことを手伝っているうちに本当に、あっという間に日々は過ぎ去っていく。その中で自身の仕事、我が家の家事などどう時間をこじ開けてきちんとこなしていくかこれもまた自分の闘いなのだと思う。・・・神戸の病院から帰ってくると改めて、心身ともに疲れ切っていることに気付く。やはり病院独特の空気によるものなのかもしれない。殊に今回のエコー検査では、最初診てくださっていた技師が突然「ベテランを呼んできます!」と告げ慌てて来られたベテラン技師も画像を見ながら「うーん・・・」と呟いている。最初の技師とベテラン技師との「ここだよね」「そうです」「こことここがつながってる?」「前回の画像は?」との会話。当然のことながら ( いくら耳をダンボにしようとも ) 患者の私には意味の分からぬことばかり。いつもなら20分ほどの検査も、今回は1時間以上かかっていた。こんなに時間がかかった、ということはお、おそらく丁寧に診てくださったということよね。うんうん。そう無理やり自分に言い聞かせ検査室をあとにする。・・・もしも今回の検査、結果が「凶」と出た場合、いろいろと考えなければならないのだろう。病院内では、診察室は固い扉に遮られ当然のことながら中をうかがうことなどできないけれど待合室では、案外筒抜けになってしまう。たった今診察を終えたばかりの患者さんのそばにスタッフの方が来られ、「では、○月〇日にPET検査ですね。」などと仰る。向こうの方では別の患者さんに「○月〇日に造影剤を使ったMRI検査です。」とも仰っている。PET検査、造影剤。なぜそのような検査が必要になるのか、おおよその見当は付いてしまう。患者さんたちは一様にいま手渡されたばかりの書類に目を落とし、無言のまま。・・・・・数年前の私もそうだった。数年前のあの日、診察室から出た後、今しがた先生に言われたことが頭の中でこだまし、思考がストップしてしまった。機械的に、手渡された書類に目を通すけれど文字が頭の中に入ってこなかった。ふと、自分の眼の前に座っている女性を見ればご両親がその人の両隣に座り、がっしりと守っていた。そして その女性と一緒に、手渡された書類に目を通しながらあれこれアドバイスなさっているようだった。・・・あの日の自分の両隣を思い起こせばふっ、がらんどう、でしたな。 誰もおらぬ。 b(*`◇´)・゜・。私の座席、何と広々としておることよ、と両手を広げ肩をまわし、深呼吸をしたりした。そして ご両親にしっかりと守られているその人の姿を見るのがちょっと辛くて座席をかわってしまったあの日の自分。大丈夫、大丈夫と何が大丈夫なのか分からぬままに呟きつつ病院を出、モノレールの駅で椅子に座り冬の空を見上げていた。・・・あれから早くも数年。これまで待合室ではいろんな人に出会い、お話を伺いたくさんの思い出を作ることができた。だからこそ、待合室のソファにてうなだれている人、放心状態の人、これから多くの検査を受けなければならない人に対しとても他人事とは思えない。だからと言って、いきなり「大丈夫やで!」と他の見知らぬ患者さん達の肩を抱き熱く語ることはしない。( 通報レベルだ )けれど、大丈夫かな、辛くないだろうか・・と、何とか無事であってほしい、と切に願っている。
2020.09.08
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2020.08.25
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2020.08.22
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このところ、体調思わしくなく仕事は変わらず多くおまけに唇・手のひらが同時に痺れはじめましてこれはさすがにまずい、と脳神経外科を受診しました。6年前の初夏、軽い脳梗塞で緊急入院したことがありますので(その時は、本当に着の身着のまま、いきなりの入院 夫に、入院のための様々なものを病院にまで運んでもらうことになり…)このたびは 夫に前回のような迷惑をかけてはならない、と入院準備を万端整えた上での受診でした。受診の結果、やはり脳幹に何らかの支障があったのでは、と。それでも一過性のものでしたので入院することなく帰宅することができました。水分を多めに摂り、薬もしっかり服用。クーラーや扇風機に弱いこともあり今までは敬遠しておりましたが脳梗塞・熱中症を防ぐためにも適切に使用していこう、と。道を行けば蝉時雨。見上げれば ゆきあいの空。1日ごとに秋が近づいてきています。
2020.08.17
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2020.08.08
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2020.08.02
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現在、姫路市立美術館にて「 志村ふくみ展 いのちを織る 」が開催されているけれどそしてその展覧会をずっと心待ちにしていたのだけれどこのたびのコロナ禍のことを考え、断念することにしました・・・。確か数年前にも、氏の展覧会に足を運びたいと思いつつその時は自身の体調不良により断念したのでした。このたび諦めたことを良しとしつつも美術手帖に掲載されている文章を目にするたび、「やっぱり行きたいな・・」と辛くなります。「 本展は、作家の故郷にある滋賀県立近代美術館のコレクションを中心とした 紡織着物およそ100点により、初期から近年にいたる志村の芸術をたどるもの。 自然と人間との関わりと、古典文学をはじめとする日本の文化に対する深い考察に基づき 染織界に新たな地平を切り開いた志村の作品が一堂に揃う。( HPより抜粋 )」「 志村の芸術をたどるもの 」「 志村の作品が一堂に揃う 」という一言一言がこのたびは行かない、と決めた自身の胸を撃ち抜くのですね(笑)。しかも「行こう!」と決め、車に乗ってまっすぐ走りさえすれば40分もせぬうちにその美術館に辿り着いてしまうほどの近さ! (ノ`◇´)・゜・。何故、よりにもよってこんな時期にこんな貴重な展覧会を開催するのだ、と文句のひとつも言いたいところではありますが(笑)こ、ここはひとつ、我慢のしどころなのでしょう。・・・確かに展覧会に行ったとしましても、大丈夫なのかもしれません。人との距離をとっておけば、感染することなく帰宅できるのかもしれない。けれど・・確率は fifty-fifty 。万一、自身が感染してしまえば、自分のことだけではすまないわけです。夫の勤務先・・同僚、数百人の子どもたち、その保護者。娘の勤務先・・1日にかなり多くの方が利用なさる施設。たとえば 絶対に間違わぬ判断をしてくれる人がどこかにいて「○○さんは、ジムに行っても大丈夫ですよ。」「■■さん、旅行? ああ、全く問題ありません。」「△△さんは・・・デパートはやめておいた方がいいでしょうね。」などとそ、そんな存在などいないこの世の中、1人1人がああでもない、こうでもないと思案しながら葛藤しながら、そして細心の注意を払いながら進んでいくしかないのでしょう。あれほど心待ちにしていたこの展覧会もまた数年ののち、どこかで開催されるのかもしれません。そのことを楽しみにしつつそして その時まで必ず元気でいることを祈りつつ、待ち続けていたいと思います。
2020.07.16
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インスタグラムを更新するたびに何故か異国の方がいつも「 いいね 」をくださる。もちろん、私の更新はいつだって日本語でその方に日本語が通じている・・・わけではないと思うのだけれどその方のページに飛んでみると その方もお嬢様がお1人、3人家族のようでとても仲睦まじい。いつも微笑ましい気持ちでこちらからも「 いいね 」を贈っている。この「ひよきちわーるど」と違い、インスタグラムでは プライベートなことをほとんど書かないようにしている。なので、我が家も同じく3人家族であることは、その方には伝わっていない。インターネットがなかったならば、決して出会うはずのなかったご家族。国は違えど、娘を思う気持ちは同じ。「そうだよね、我が子には本当に幸せになってほしいよね。」そんな気持ちで、今日もそのご家族のページを見つめている。
2020.07.15
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確かに、それまで九州で生きていた人間が同じ日本とは言え文化も慣習も違う関西に嫁ぎ、この○○家の中、試行錯誤を重ね戸惑っていたことも事実である。慣れぬ暮らしの中、生来の口下手も手伝い義父と意思の疎通のうまくできないことも幾度となくあった。( 他者と暮らす 2より )そんな中、義父が「もっと心を開いてほしい」と言ってくれたことがあった。・・・正直言って、びっくりした。当時、自分でもめいっぱい心を開いていたつもりだったから。こ、これ以上、何をどうすればよいのだろうか・・と思案したことを覚えている。実を言えば、自分自身、九州の実家においてでさえあまりものを言わぬ人間であった。中高生の頃にも、そのあまりのもの言わなさを担任の先生に心配され、従兄にも「いつか自殺するんちゃうか」と心配され社会人になってからは上司に「ほとんど笑わないね。大丈夫か?」と言われてしまった。自分としては、ごく普通に過ごしているつもりだったのだけれどはたから見れば、どうもそういうわけではなかったらしい。思えば反抗期もなかった。反抗というものは、やみくも、力任せに投げたボールが必ず自分のもとに返ってくるという確証があるからこそできるもの。受け止めてくれる壁があってこそのもの。そして 何か行動を起こせば、相手は必ず自分のことを見てくれるはずだという信頼のようなものがあるからこそできるものだ、と今では思う。以前の日記にも書いたことではあるけれど、自分の下には弟や妹たちが3人幼いころから家の中はいつも賑やかであり、私のもの言う隙間などあるはずもなかった。何か言ったとて、一体誰が自分の言葉など掬いあげてくれただろう。他の長男・長女の方々同様風邪を引き高熱を出し、臥せっている時ですらただでさえ多忙な両親に負担をかけてはいけないとお願いしたいこと、伝えたいことを我慢し、独りでいた。いつしか 自分にも他の人と同じように言いたいことのあったこと、伝えたいことのたくさんあったこと、分かってほしかったこと、そのようなものが自身の中にあることさえ 忘れるようになっていった。そして これもまた以前の日記に書いたことではあるけれど私の父は、自身が1歳の頃に自分の父を亡くしている。そして母もまた、自身が3歳くらいの頃に自分の母を亡くしている。いわば、私の父は「父親」というモデルを知らないままそして私の母は「母親」のモデルを一切知らないまま、親になったのだ。そういう両親のもとに初めての子どもとして生まれてきたのが私だった。当時、父は22歳、母は23歳の若さ。初めての子育てに右往左往したことと思う。そんな中でも 手探りで、一生懸命に育ててもらったことに心から感謝している。私自身が出産を経験し、子育てを経験したことでその感謝の思いは一層強くなった。おそらくは父も母も 自分たちが幼かった頃、その胸に抱えていた様々な思いを誰からも聞いてもらえなかったのではないだろうか。聞いてもらえばこそ人は、聞いてもらった時の嬉しさ、安心感を初めて知ることができるのに。もしも、2人が一度も自分の胸の内を聞いてもらったことがなかったとしたら。親に「自分の話を聞いてもらう嬉しさ、質問されることの嬉しさ」がこの世に存在する、ということすら知らなければそれを初めての我が子にしてあげられるわけもない。父と母のことである、もしも2人が 自分の思いを聞いてもらえる嬉しさを知っていたとしたら我が子にもその嬉しさを教えてあげたい、と思い「今、何を考えている?」「困ったことは?」「○○についてはどう考える?」などとしつこいくらいに私に質問し、あれこれ心を砕いてくれていたことだろう。しかし、残念ながらそのようなことはかった。 ・・・つくづく、あの戦争がなかったら、と思う。もしも戦争がなかったならば父の父も、そして母の母も若くして亡くなることはなかった。そして まだ幼かった父が親戚の中で暮らすことも、母が「私にお母さんがいたら」と泣くこともなかったかもしれない、と思う。( 続きます )
2020.07.03
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つい先ほど、滋賀の検査から戻って参りました。結果はいつもの如く「グレー」。今度は卵巣と肺のあたりに腹水出現。半年後に再検査です。ただ、今回は「要経過観察」とあり以前のように「再発か?」とは書かれていませんでしたのでそれだけは、ちょっと安心かな。滋賀での検査となりますと、いつも早朝7時前に自宅を出その日の夕刻に帰宅、という日帰りパターンとなります。しかしよく考えてみれば・・その時間帯はちょうどラッシュアワー、おまけに神戸・大阪・京都・滋賀と4つの県をまたぐことに。今回はコロナのことも考慮に入れ前日のうちに滋賀県入り、病院近くの宿で前泊し、検査に臨みました。ビジネスホテルのシングルに入り、荷物を解き夕食は近くのお店のテイクアウトを利用、パソコンも何も持っていきませんでテレビもみることなく夜の8時半過ぎには床につきました。早すぎるかな?とも思いましたがやはり心身ともに疲れ切っていたものでしょう、途中何度か目を覚ましたけれども、翌朝の7時半までぐっすり。・・・いつもは「野菜を買わなきゃ!果物も!チーズも」とバタバタ数件のお店を走り回りアイロン掛けなきゃ!クリーニングを取りに行かなきゃ!もう夕方!洗濯物を取り込む!仕事がまだ終わらない!新聞集金も!草木の水遣り!お皿洗い!繕い物!とわずか数分の時間さえも無駄にするものかと躍起になって日々を過ごしていたけれど出来る限り細く長く生きていくためにはこんな風に「空白の時間」をすごすことも大切なのだ、と改めて思いました。でもね、1人はやはり寂しい (*`◇´)ノホテルの部屋の窓から見える山々の姿に感動してもそれを伝える相手がいない。夕食のテイクアウトにしても自分のものだけを買うのは、つまらない。自分の日々の暮らしは、と言うよりも自分の人生は もう家族なしにはあり得ないのだ・・・と家族の大切さを、改めて痛感。今日の検査結果には、うーん、またこの半年間、いろいろ心配しなければならないなと思いながらも心に何か「重し」がなければ、私の場合、駄目なんだろうなと。重しがあるからこそ1日1日をものすごく大事にできるのだろう。常に病気のこと、生死のことを考えていなければならないのは辛いけれど絶対に自分には必要なことなのだ、と。・・・そう思いながら 電車の窓から見上げた山科の森。緑鮮やかで力強くてこの大自然の力が、きっと、私の中にも隠されているんだと思う。 山科の杜は語りぬ 生き抜けと いのちのちから湧き立たせよと
2020.06.23
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折に触れ、今は亡き義父のことを思い起こす。この日記の中に幾度も書いているように 義父は私にとって理想そのものであり生涯、尊敬し続けていく存在である。義父は謹厳実直、家に行くと、必ず本を読んでいるか、仏前に座っているかのどちらかだった。何処か近寄りがたい雰囲気すら漂わせていた。真面目、勉強家、頭脳明晰。そ、そんな舅のいる○○家に嫁いだ、大雑把大王ひよきち b(*`◇´)ノ義父とうまくやっていけるかどうか新婚の頃は何かと頭を悩ませていたものである。こんな嫁でごめんなさい、と自己嫌悪状態でもあった。けれど、そんな私の心配をよそに義父はいつだって、私を理解しようとしてくれた。そのことがどんなに有難かったことか。確かに、それまで九州で生きていた人間が同じ日本とは言え文化も慣習も違う関西に嫁ぎ、この○○家の中、試行錯誤を重ね戸惑っていたことも事実である。慣れぬ暮らしの中、生来の口下手も手伝い義父と意思の疎通のうまくできないことも幾度となくあった。( 続きます )
2020.06.16
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今日は、少し落ち着いてパソコンに向かっている。ようやく仕事のピークも過ぎたからかこんなにほっとした気持ちでいられるのは 一体何か月ぶりだろう。日頃ぼんやりと思っていたことを、今日は少しここに書いてみようと思う。もちろん、仕事のピークが過ぎたとてやるべきことは山積、せっかちな自分のことだから、あれもせねば、これもせねばとパソコンに向かいながらも、頭の中はやるべきことでいっぱい。それでも、今しか書けないことを少しでもここに残しておきたいと思う。夫と結婚して27年。夫とはどういう人か、そう問われて私はどう答えるだろう。27年前の私の答えと 今の私の答えとでは全く同じ部分と、そして少しずつ違ってきている部分とがある。結論から先に言えば、夫と私はおそらくは同じタイプの人間である。夫の友人たちからすれば嘘だ!という声が聞こえてきそうだけれど(笑)けれど これが、27年ともに暮らしてきた結論かもしれない。・・・結婚当初、そして夫と知り合ったばかりの大学生の頃、夫と私は全く正反対の人間だと思っていた。彼は燦燦たる太陽で、私は月。いや、違うな、月でさえもない。小さな星だ。彼は天真爛漫、私はいるかいないか分からぬほどのおとなしさ。私自身、大学生の頃、周りの人から「○○ちゃんって、何を考えているか分からない」と言われていた。自分では懸命に表現しようとするのだけれどその方法がまずいのか、それとももっと強烈に自分を出すべきだったのか、それさえも分からなかった。もちろん今でもわからないままである。在学当時、いつだったか鼻歌を歌っていた時に「○○ちゃんって、鼻歌を歌う人だったんだ!」と言われその驚かれように、こっちが驚いた(笑)。鼻歌を歌ったぐらいで驚かれる私は一体何なんだ、と思った。ど、どんな人間にうつっているのだ、と不安にもなった。在学当時、多くの人の中でもまれ、それぞれの価値観に否応なしに触れ、何が正しいのかそうでないのか判断する暇もなくまさに嵐の中での錐もみ状態 (*`◇´)ノ良い意味においても、そしてそうでない意味においても心身ともに非常に充実・消耗した学生時代であったと思う。そんな中、こんな冴えない自分を見つけてくれた夫に心から感謝している。冒頭「夫と私はおそらくは同じタイプの人間である」と書いたけれどそれはあくまで内面において、である。内面において、彼と私はおそらく同じタイプなのではないかと思う。外面的な部分においては変わらず彼は太陽であるし、私は一層小さな星のひとつに過ぎない。彼とともに暮らしていく中で彼の中にある信じ難いほどの繊細さ、傷つきやすさ、抱えている不安に気付いた。殊に細やかさにおいては、私など彼に遠く及ばない。彼は、それほど繊細な人だった。と同時に、彼と私の中にある「お笑いが好き」という共通項もいつしか発見(笑)。今ではどなたも信じてくださらないけれど自分自身、小学校時代には「学習発表会」において漫才を披露。なんで「学習発表会」のような場で漫才をするようになったのかその経緯については全く記憶に残っていないけれど居並ぶ保護者の皆様の前で友人と漫才を繰り広げたのだった。今にして思えば、とんでもないことだ (*`◇´)ノ当時の担任の先生、そして母上、ごめんなさい。それまで小学校の通知表・所見の中において「あまり元気がありません。」「元気を出してがんばりましょう。」「決められたことをよくやっていますが、元気がありません。」「大きな声を出すと元気も出てきます。」など「元気を出せ」コールのオンパレードだったのだけれどその学習発表会以降においては「明るいことが好きで、見かけがおとなしいので意外に感じます。」と書かれてありようやくこれで、「元気を出せ!」と言われなくてすむんだ、とほっとしたことも覚えている。・・・夫は、こんな、わざわざ学習発表会での漫才を見ずとも私の中の「明るいことが好き」という部分にいち早く気づいてくれ、そしてそれを大切にしてくれた。そしていろんなことに対し、一緒になって笑ってくれた。それが何より嬉しかった。他者と暮らす中において自分自身を100パーセント理解してもらえる、ということは不可能である。自分ですら、自身のことをきちんと理解できていないのだから。若い頃、自分はどうも結婚には向いていないと思い生涯独身を貫こうと思った時期もあった。けれど、結婚し他者と暮らしをともにする中で完全に分かり合うことは不可能であるにせよそれでも歩み寄り、互いを少しでも理解しようと努力し続けることのなんと楽しく、幸せなことか、と。そしてこれは常々娘にも言い続けていることだけれど人が10人いれば1 その中の3人は、こちらが何をしたってどう言ったとて こちらのことを嫌い、残念ながら敵となってしまうタイプ2 そして3人は、こちらをどこまでも信頼し、味方となってくれるタイプ3 そして残りの4人は、どっちつかず 正確に言えば、こちらのことなど最初から眼中にないこちらが何をしようが何を言おうが全て悪感情でもって断罪する人に迎合したとて、何になるだろう。それならば、自身のことを信頼し共感してくれる人々とさらに深く理解し合い、幸せな人生を送ればよい。ただ、ここで大切なことは他者に迎合する必要の全くない部分と、自身が留意し直していかなければならない欠点とは全く別物である、ということである。必要なのは どこまでも「自分自身」であり続けること。さらに言えば「これだけは大事にする」というものを生涯持ち続けること。そうする中で、いつか自分のことを深く理解し共感してくれる人に巡り合うことができるのではないかと思う。( 続きます )
2020.06.11
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仕事も相変わらず。朝から夜まで、ひたすら仕事の山を突き崩すのみ。仕事の合間をぬって、大慌てで買い物、掃除、洗濯。明日からは雨が続きそう。毛布やシーツ、座布団など大物の洗濯を何とか梅雨入りまでに終わらせることができた。・・1日に9時間以上英文を読み続けもはや頭の中は飽和状態。自分の好きな曲を聴いたり、和歌を読んだりして何とかバランスを保っている。しかし、担当教科が理数科目でなくて本当に良かった。数学や化学だったら、間違いなく高熱を出して倒れていただろう(笑)。このところ体調も思わしくなく、食欲も全くわかない。どうも腹部の調子が悪く、食欲のわかないのもその影響だと思われる。辛うじて口に入れられるのは丸ぼうろ、カステラ、ういろう。一度「小さなお餅はどうだろう」と試してみたけれど、失敗。余計に調子が悪くなってしまった。丸ぼうろやカステラ、お白湯で、この1週間を生き延びている。調子の悪いときには、食べない。人により様々だろうけれど、私の場合は食べない方が回復が早い。こんな調子のまま、今月23日には滋賀での定期検査がある。検査の結果も気になるけれどとにかく今は、毎日を乗り切ることだけで精一杯。読書も趣味も、何もできない毎日だけれど仕事をし、家族のために家事を頑張り、それだけで、もう十分に幸せだと思う。
2020.06.10
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駐車場横のレモンバーム、初夏の陽を浴びますます元気に生長しています。そして何故か、植えた記憶の無いジャガイモ、長芋も6月の風に爽やかになびいています(笑)。先日、風邪を引きかけたのか悪寒に襲われまして毛布2枚、厚い掛布団、湯たんぽまで取り出し暖かくして眠ったわけではありますが、その前に熱いレモンバームのお茶をいただいたのですね。何しろ「抗菌作用」抜群のレモンバーム。飲んでる端から汗が出てきました。・・・おかげさまで 翌朝、あんなに痛かった喉も治りすっかり元気に。市販の風邪薬が飲めない私にとりまして本当に有難いお茶ではあります。このレモンバーム実は、ハーブに目覚めるきっかけでもあるのですね。ずいぶん前の日記にも書いていることですが以前住んでいた家の庭にこのレモンバームの苗を植えたままその後、その存在をすっかり忘れ去っていたのです。数か月後、当時まだ小さかった娘が「まんま、まんま」と呟きながら庭の片隅に近づいて行きなんだろうと思い あとをついていきますと、そこにはレモンバームの群生が。いつしか大きく生長し、辺り一面にレモンの良い香りを漂わせていたのです。これにはびっくりしました。改めてハーブの持つ生命力の強さ、その香りの良さに惹かれたのでした。そしてその数年後、今度はカモミールによってさらにハーブの魅力を知ることとなります。岡本のフロイン堂に食パンを受け取りに行きその帰り、神戸ハーブガーデンに寄ってみたのですね。ロープウェイに乗り、神戸の街並みを眼下に見下ろしつつ広い広いハーブガーデンへ。ガーデン内を散策したのち喫茶室にてカモミールティーをお願いしたのです。当時、カモミールについての知識は全くなくただ何となく、という理由でオーダーしてみたのでした。・・・とても美味しく、仄かに林檎の香り。と同時に、汗がどんどん出てきましてその日はかなり肌寒かったのに身体が芯からあたたかくなったのです。こ、これはどうしたことだ!と思い帰宅してすぐにカモミールについて調べてみましたところカモミールには発汗作用があるとのこと、摂取して、すぐに効果の出てくるところなどハーブってまるでお薬みたいだ・・・と思いました。それからはレモンバーム・カモミールをはじめとしましてミント、オレガノ、ラベンダー、ローズマリーなど多くの品種を育て始めました。ハーブはその生命力の強さゆえ、ほとんど手がかかりません。こぼれ種・地下茎にて次々に仲間をふやしていきます。花壇の顔ぶれは少しずつ変わっていくのでしょうけれどこれからもハーブとの暮らしを大切にしてゆけたらと思います。
2020.06.04
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忙しさは変わらず、ですがそれでも ほっと一息つける時間を持てるようになってきました。この自粛期間、おそらく皆様方は家中の掃除・整理整頓にいそしまれたことと思うのですがそして本来ならば私もそうしたかったのですが・・つっぎつぎにやってくる仕事・仕事・仕事。・・・心身ともにバタバタのこの自粛期間ではありました。ふと、駐車場横の植え込みを見ますとレモンバームが元気よく生い茂っていました。このレモンバーム、あまりに勢いが強すぎて一緒に植えている他の植物たちを駆逐してしまうのですね。いつしかクールミントも、カモミールもほとんど姿を見せなくなってしまいました。剪定も兼ねてレモンバームを刈り取ります。そして葉を丹念に洗い、刻み、冷凍庫にて保存。午後のお茶の時間にこのレモンバームティーをいただきます。・・・・まずいです(笑)。人により好き好きはあるのでしょうが正直言いまして、好みの味ではありません。お砂糖を入れますと何とか飲める、という具合です。ただ、この効能を考えますとまじゅい、とか言ってられないわけですね。【 効能 】1 放射線から体を守る2 消化促進効果3 抗菌・抗ウイルス効果4 抗酸化・アレルギー抑制( 天然の抗ヒスタミン剤 )5 精神安定効果剪定しても次々に生い茂る、この生命力豊かなハーブ。この時期、たくさん収穫しこれから数か月分のお茶の材料にしていきたいと思います。 花壇にはローズマリー・ラベンダー。ローズマリーも ジンジャーによく似た美味しいお茶です *^ ^
2020.05.16
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毎日、目の回るような忙しさです。GW、関係なし。毎日雪崩のごとく仕事がやってくる。それらを消化するのに精一杯の日々。娘も、GWなど関係なしの職種ですので今朝もマスクを手に出勤していきました。・・本当は、幼い頃に見ていたドリフターズについて書きたいのですがじっくり時間をかけて書くことができません。ですので、箇条書きにて、少し。幼い頃の土曜日の楽しみと言えば「8時だよ!全員集合!」でした。以前の日記に書いたことではありますが毎日切羽詰まった精神状態で学校生活を過ごしていた私にとりまして、土曜日の夜の「全員集合」は、唯一ほっとできる時間でもありました。その番組の中ではいかめしい、いかにも厳しそうな学校の先生をいかりや長介さんが演じ、そのいかりやさんに、他のメンバー4人が様々ないたずらを仕掛けていく‥‥。せ、先生にそんなことしていいの?と、私自身思いながらもメンバーの破天荒な、めちゃくちゃないたずらをいかりやさんが(叱り飛ばしながらも)やんわりと受け流す様を見、心の何処かほぐれていくのを感じました。先生はこうあるべき、生徒はこうあるべき、そして、人はこうあるべきだ、というような私の持っていたバッキバキの固い枠組みをドリフターズの皆さんが笑いで解きほぐしてくださっていたのだと思うのです。思えば7歳という年齢にあるにもかかわらず自律神経失調症を発症していた私にとりましてドリフターズの皆さんはほっとできる存在でもありました。当時、大人はみな厳しく、規律正しく、ひたすら前だけを見て突き進む人たちなのだと、そして決して冗談など通じない人たちなのだ、とそう思っていました。なのに土曜日の夜、テレビをつけると大人が5人、揃いもそろってドタバタ笑いを繰り広げているのです(笑)。そんなメンバーの様子から・・・人生は、そんなに厳しいことばっかりじゃないよ。楽しいこともいっぱいあるんだよ。いろーんなこと、あっていいんだよ。失敗してもいいんだよ。・・・そんな、ドリフターズからの温かなメッセージをあの頃の私は確かに受け取っていたのだと思うのです。「全員集合」の番組の終わる頃、主演者全員が舞台に立ち「ババンバ・バンバンバン」と歌っていましたがその歌詞の中に「 いい子だな 」があったと思うのですね。加藤茶さんが「風邪ひくなよ!」「歯、磨けよ!」と仰るたびにまだ幼かった私はテレビの前できちっと正座をして「 はい♪ 」と返事をしいつかドリフターズの皆さんに「 いい子だな 」と思ってもらえるよう頑張ろう、と、あの頃、そんな風にも思っていたのでした。
2020.05.02
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毎朝「 今日はどれくらい仕事が来てるかな? 」と鼻歌交じりにパソコンを起動、そのあまりの量に卒倒しそうになっているひよきちです。一日中パソコンに向かい呻吟するも、終わらぬ仕事。とにかく今は自身の睡眠時間を確保すること、体調を崩さぬことに留意し毎日を何とか乗り切っているところです。夫や娘が、私がコロナにかからぬよう気を遣ってくれそのことを本当に有難く思います。思えば現在、最も強力なステロイドを使っており喘息と心疾患を抱える身。家族のためにも自分がコロナにかかるわけにはいかない、とさらに気を引き締めているところではあります。2018年のお正月にインフルエンザにかかりましたが・・あの時の苦しさを今も忘れることはありません。もともと熱には強いタイプではありましたが40.5度を超えるあたりから一晩中悪夢に苦しめられることとなります。極採色のポスターが次から次へ半ば強制的に目に飛び込んでくる。そして、そのポスターは動く(笑)。じっとしていない。一晩中そんな状態の時に高熱でうなされる自分の声ではっと目を覚ます。この「はっ」と目を覚ますときの何とも言えぬ気持ちの悪さ。そして ずっと切れ目なく続く咳・呼吸困難。単なるインフルエンザでもあれほど苦しかったのですからこのたびのコロナ…現在、入院なさっている方々がどんなに大変な思いをなさっているか‥本当に心配です。もっといろんなことを書き綴りたいのですが如何せん、時間が足りない。今しか書けないこともあるのでしょうが書きたいこと、書き残しておかなければならないこと、けれど、今、自身の目の前にあるやるべきことの数々。そのはざまで揺れている。とにかく、やるべきことを着実にこなし日々の務めをしっかりと行っていきたいと思います。
2020.04.24
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今、思うことを、つらつらと。コロナについて。100年後、歴史の教科書にはどんな風に書かれるのだろう。今、私たちはその真っ只中にいるんだよね。100年前のスペイン風邪の時にはみんなどんな風に過ごして、何を思っていたんだろう。いや、100年前の自分もきっと何処かで生きていてスペイン風邪に怯えていたのかもしれない。このたびの国のやり方には( ある意味 )驚くことばかり。何故春節の時に入国禁止にしなかったんだ。緊急事態宣言、もっと早く出すべきではなかったか。そして、よりにもよってマスク2枚。このニュースを初めて聴いたとき思わず「 は? 」と言ってしまった。マスク関連に466億円必要とのこと。もっと他に使い道はないのか。休業要請により倒産の危機にある店舗に対し例えば1000万円支給とすれば( もちろん返済不要 )466億 ÷ 1000万 = 4660店舗 が助かるかもしれないのに。そしてもし仮に国民1人につき30万円支給とすれば、466億 ÷ 30万 = 155,300人 分もの支給の財源とすることもできる。韓国 8万6000円支給 香港 14万円支給 アメリカ 13万円分の小切手を支給 イタリア 30万円支給 フランス 休業分を全額補償 スペイン 休業分を全額補償 イギリス 休業分を8割補償 日本 ガーゼのマスク2枚↑ このこと、私たち日本人は忘れてはいけないと思う。コロナは、図らずも この国の姿を浮き彫りにしてしまった。感染してしまった人にも、いろんな人がいるんだと思う。本当に気を付けていたにもかかわらずたまたま免疫力が落ちていて感染してしまった人。何の注意も払わず、感染した人。後者の場合には確かに非難されても仕方ないのかもしれないけれど大半は、気をつけていても感染してしまった、という場合が多いのかもしれない。そういえば娘が話していたのだけれど・・娘の同僚が、職場の入り口にてお客さんと話していた時そのお客さん曰く「 あのな、市内の病院で感染者が出たやんか。 私、さっきまでその病院におってんで。」同僚 「 !△■¥?! 」同僚はすぐさまそのお客さんとの話をやめ、職場の洗面所に駆け込み速攻でうがい手洗いを何度も繰り返したとのこと。それで同僚たちに「もし、私、感染してたらごめんなさい!」と詫び職場でも同僚たちと距離を取っていた、とのこと。娘の職場は、こんな非常時にも絶対に必要だという場所ではない。いわば不要不急の場所。なのに、感染者が出た病院にさっきまでいた人がこの場所に来て、しかも(マスクも無しに)スタッフと話をする。・・・この話を聞いた時に、思わずため息をついてしまった。100%気を付けている人ばかりの世界もあり得ないしまた、全く無頓着な人ばかり、の世界もあり得ない。本当にいろんな人がいろんな状態で、ともに生きている。混沌としているんだ。そして これが私たちの生きている世界なのだ、と思った。「自粛疲れ」という言葉も好きではない。そんな、コロナに心ならずも感染してしまいベッドの上で大変な思いをなさっている人々のことを考えたら自粛くらいで疲れていてどうする!と腹立たしく思わぬでもない。自身が自粛することで、他の誰かを守っているかもしれない。病院で今も闘っている人々に心を寄せ家族を守りそんな私たちを励ますかのような春の花々に「ありがとう」と呟き今、できることを、きちんとしていこうと思う。
2020.04.12
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コロナの影響にて、県内、緊急事態宣言が出されました。夫・娘の職場もほぼ休業状態。ただ、2人とも変わらず多忙であり毎日出勤しなければなりません。その2人の勤務状況に合わせ、こちらも大わらわです。朝、娘の運転する車に乗り込み彼女の職場へ行き、そのあと、私は車を運転していったん帰宅、家事や自分の仕事をしながらお昼には夫のお弁当をもって彼の職場へ。夕刻に再び娘の職場に行き、そのあと彼女の運転する車に乗って帰宅。ほどなく夕食の準備、夫の夜のお弁当を作り、彼の職場へ。夫の帰宅時刻は午後10時 ~ 午前12時。夫も、もうクタクタになっています。私も自分の仕事をこなしながらの毎日ではありますがやはり知らず知らずのうちに身体に負担をかけていたものでしょう、またもや不調に悩まされ、原因不明の蕁麻疹が出てくるようになりました。そういう私の様子を見かねた夫が夕食後、何とお皿洗いをしようとしているのです。驚いた私が制止しようとするのですがそれでも洗う、と言ってきかないのです。それで喧嘩が始まるのですね(笑)。・・・何だかありがたいなあ・・と思いました。お互いを思いやるが故の喧嘩。相手の身に何かあってはいやだ、という気持ち。夫と結婚して27年経つわけではありますが彼は変わらず温かい。出会いましたのがお互い18の時でしたので無意識のうちに、相手もそして自分も若い気持ちのままでいたのですが冷静に考えてみましたら、もう54歳なのです。夫も私も髪の半分ほど白くなってきておりますしもう、無理もききません。お互いの健康のためそして多忙故、話をする時間もなかなか取れませんので最近では夜、一緒にウォーキングをしております。一緒に歩きながら夫の少年時代はどんなふうだったのか、私が短歌を詠むようになったきっかけについて、などその時、その時、心に浮かんだことを語り合うようにしています。・・・結婚しまして27年。1日1日が宝物でした。生きるって、こんなにも嬉しく楽しいものだったのか、と思いました。全て、夫がいてくれたからこそです。27年もの美しい時を本当にありがとう。
2020.04.10
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年度末の整理、そして新年度の準備と夫も毎日忙殺されています。加えて数日後には学校再開。日々感染者が増える一方なのにここで本当に学校を再開させて良いのか、と甚だ疑問。今年度はクラス担任、学年主任、教務と一体どのように仕事をまわしていけばよいのか、と戦々恐々。ここ最近の帰宅時間は午後10過ぎ。先日などは午前1時半でした。私にできるのは、とにかく夫の健康管理。夜8時ごろには夫の職場に夕食を持っていきます。私自身も、毎年4月5月は多忙を極める時期。日々の睡眠時間が3~4時間。そうしなければ仕事の山を崩すことができない。とにかく家族3人、力を合わせてこの時期を乗り越えるしかないのだと思います。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・先日、夕刻の買い物を済ませ店舗駐車場から出てきたときのこと。その日は比較的気温の低い日だったのでしょう、夕暮れの空が淡い薄紫。その薄紫の空のもと桜が花を咲かせていたのですね。・・あんなに優しい色に出会ったのは初めてでした。
2020.04.05
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2020.03.23
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やがて月日は音もなく流れ時は1980年代中盤、場所は東京都多摩地方。あの頃7歳だったひよきちも、いつしか大学生に。・・・「 三世変わらずを性となす 」とも申します。何度生まれ変わりましても自身の性格はそう変わらないそうですからそんな、当時7歳の女の子が十数年後、ようよう大学生になったとていきなり才気煥発・理路整然! なるわけがない(笑)。そう、あれは忘れもしない大学2年生の時のこと。当時 私は西○○バスで通学しておりました。ある日、足を負傷した友人○○ちゃんとバス停でばったり会い話が弾み、やがて時間どおりにバスが到着。友人は痛む足をかばいながら やっとの事でバスに乗車。・・・実はその友人が座席に座らぬうちから荒っぽくバスが走り始めたのですね。大方 私たちがゆっくりとバスに乗り込んだのが運転手さんの気に障ったのでしょう。・・・・25分ほどして 大学前に到着。私と友人がバスを降りようとしました時あろう事か、運転手さんがドアを開けてくれないのです。これにはびっくり致しました。予想していました通り私たちの乗車時の動作がゆっくりだったとか言ってその運転手さんは文句を言い始めたのです。最初は私もおとなしく聞いていたのですが、途中から少しずつ腹が立ってきました。私たちがふざけて、あるいは悪意でもってわざとゆっくり乗車したのなら文句を言われても仕方ありません。私たちが悪いのだから怒られるべきであるし、きちんとお詫びもするべきでしょう。けれど友人は、他の乗客に迷惑をかけてはいけないと痛む足を引き摺って必死にバスに乗り込んでいたのです。その一体どこに「ふざけ」があったでしょう。・・・なおも運転手さんは文句を言い続けていました。そして私も時間の経過とともにいよいよ腹が立ってきました。友人は私の気性をよく知っていますので私が爆発せぬうちに(笑)一刻も早くこの場を立ち去ろうとしていました。けれど立ち去ろうにもその運転手がドアを開けようとしないのです。・・・ただ、文句を言われているから腹が立ったのでは決してありません。この運転手は友人が足を怪我しているのを分かった上で、私たちがそれでも何とか素早く乗車しようと努力していたのも理解した上で、それでも文句を言っているのです。何故か。ひとえに時間のロスがいやだったから。・・何と情けない、と思った。人への思いやりをなくしてまでこだわりたいものとはいったい何なのだろう。・・・・そうこうしているうちにとうとう堪忍袋の緒が切れてしまいました。いや、切れてはいるけれどもそこでまた ぐっと堪えました。奥歯を噛みしめながら、それでも穏やかに伝えようと努力します。「 もうすぐ授業も始まりますので 降ろしていただけませんか? 」 運転手は ぎろっとこちらをにらみ「どっから乗った!」と怒鳴りました。私自身、表面的には冷静さを装ってはいましたけれども心の内では やはりかなり怒っていたものでしょう、そしておそらくは怒りも頂点に達しようとしていたものと思われます。そのため言語を正しく理解する能力がいつにもまして減退「 運転手さん、一体何を言っているのだ!」と思ったのですね。「 どっから乗った!」なんてそんなあったりまえのこと、訊いてくるんじゃない!そ、そのままの勢いでもって答えました。「 どっから乗った! 」( 間髪入れず )「 バス停からに決まってるでしょうが!! 」「 ・・え?」と呟く傍の友人。「・・・ 」 宙を見つめる運転手さん。静まり返るバスの中。も、もう、あたしゃ怒りも頂点で、声もむっちゃ大きなっとるで!心の中での悪態はなおも続きます。どっから乗った!って、何あったりまえのこと訊いとんねん!バス停からに決まっとるやろ!あほちゃうか!( 怒 ) ↑ ・・・あほは君だ。在学当時の皆々様こんなひよきちを友として下さり、まことに、まことに有難うございまする。衷心より御礼申し上げる次第にございます。・・・上記の発言につきまして、自身の致命的な誤りに気が付きましたのはそれから3日後のことにございました。
2020.03.20
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小学校3年生の時でしたか、同じクラスのお友達が話しかけてきました。「 ○○さん、勉強できるね。 」と。・・・一瞬、え・・?と思いました。 謙遜などではなく、本当にまごついた。誰か他の人と間違えている、と。今にして思えば 当時、いつも一緒にいたお友達が頭もよく、はきはきとしてクラスのリーダー的存在でした。顔が似ていたため、おそらくはそのお友達と私とを間違っていたものと思われます。b(T-T)前回の日記にも書きました通り当時、私は交通事故により4か月もの入院生活を余儀なくされようやく退院してきたばかり。痛む右脚を引きずっての毎日ではありました。そして( これまた前回の日記に書いたことではありますが )1年生の算数のテストでは軒並み0点(笑)。そんな風に・・ただでさえみんなに後れをとっていたというのに2年生で、いきなり長期にわたる入院生活。 これは本当に大きかった。あとでわかったことではありますが、学校の職員会議にて私をひとつ下の学年に編入させようという意見も先生方から出ていた、とのこと。思えば、1年のうちの3分の1以上学校を休んでいたことになるのですから先生方のお考えも頷けるというものです。結果的には学年を変わることなく、有難いことにそのままだったわけではありますが久しぶりの学校ではまさに浦島太郎状態。勉強もわからなかった。当時、水泳も球技も苦手、クラスの中でもいるかいないか分からぬおとなしさ、身体も1番小さかったまさにないない尽くしの私にとりまして唯一( いわば )自身の武器であったはずの逃げ足の速ささえも交通事故の後遺症により全く失われていたのでした。そして右手には以前にはなかった大きな傷。 本当に・・まいりました。そんな中、クラスメートからかけられた言葉が、上記のようなものだったのです。いや、人違いだ、私はそんなんじゃない、と慌てて否定しましたがその友人はこうも続けたのでした。 「 ○○さんは、きちんとしてる。 」と。きちんとしているという内容がどのようなものだったのか・・今では確かめる術もありませんが今にして思えば、勉強面・運動面・社交性の面において優れたものなど持たぬ、退院してきたばかりの頼りない自分。そんな自分が、「学校」といういわば閉ざされた世界で生きていくためには何に対しても全力でぶつかっていくしかなかったわけです。本当にそれしか方法はなかった。クラスメートには難なくできることが、自分にはなかなかできない恐怖。幼い頃から 皆に取り残される怖さが身に沁みていました。だからこそ 宿題が出されれば、絶対に忘れないよう肝に銘じる。漢字の書き取りも学校でのテストも(無闇に)頑張る。先生の仰ることをしっかり聞く。・・・そうでもしなければ、とても安心できなかったのです。おそらくは、そんなのっぴきならぬ精神状態で学校生活を送っていた私の姿を見、そのクラスメートは 「きちんとしてる」と感じたものでしょう。実際にきちんとしていたのかどうか今ではわからないのですが(笑)そしてまた冒頭の勉強云々、という言葉につきましてももはや言わずもがなのこと、完全なる人違い。けれど、今にして思えば・・・その時のクラスメートの言葉が本当に有難かった。だって、不安いっぱいで入学した小学校ではテストを受けるたびに0点。 これは恐怖だった。国語の本読みをしても先生から「声が小さい!」と叱られ家に帰り、父に算数の特訓を受けましてもさっぱり理解できず理解できないがゆえに父にも叱られる。怠慢で、そしてふざけていて理解できないのではなく懸命に努力しても駄目だった。もう、限界だった。当時は家に帰りましても、既に自分の下には弟や妹が3人おりましたから何処にも私の甘える場所などなくおそらくはストレスによるものだったのでしょう、 7歳という年齢であるにも拘わらず自律神経失調症を発症することとなります。・・・そんな時の クラスメートの冒頭の言葉だったわけです。そんな言葉、私にとりましては生まれて初めてだった。人違いだと分かってはいても私の心にどんなに大きく響いたことか。その彼女の屈託のない言葉にはまるで魔法の力がこもっているようでした。なんて安心できる言葉なんだろう、と。そして、たった一言、こんな風に言ってもらえるだけでこんなに安心できるのであればもし、実際に、本当に、勉強のできる人になれたらもう、毎日不安と闘わなくていいんだ、と。それが、勉強を頑張り始めるきっかけとなってくれました。今にして思えば 確かに、頑張る目的が「 探究心 」ではなくただ安心を手に入れるため、と言うのが少々疑問ではありますがそしてその後、頑張る割には案の定結果が伴わないわけですが(笑)それでも、大きく踏み出すひとつのきっかけになったのではないか、と思うのです。( 続きます )
2020.03.11
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何年生の時でしたか 「 詩を書きましょう 」という宿題がありました。・・・「 詩 」って何だろう。作文とはちょっと違うらしい。でも、どこがどんな風に違うんだろう。混乱したまま机に向かうのですが、一向に分からない。そうこうしているうちにも提出期限は迫ってくるわけです。当時の私にとりまして、「 教科書 」は絶対の存在でありました。そして「 分からないときには教科書を調べる。」 これ、鉄則ですね。当時、教科書の中に一片の花びらがブランコに乗って遊ぶ という素敵な詩が掲載されていたのですが8歳になったばかりの私、「 教科書に倣う 」という大鉄則にのっとりましてその詩の中の主語である「 花びら 」を「 蝶々 」に替え、あとはすべて教科書の文章をそのまま写し、意気揚々と提出したのでした。大鉄則にのっとった上での宿題提出であります。これ以上の正解があるでしょうか! b(`・ω・´)キリッそう思い 安心しつつ提出したわけではありますが、当然のことながら 先生から返ってきた言葉は「 自分の思ったことを詩に書きましょう。 」「 自分の思ったことを書く 」。そうか!「 詩 」と言うのは、自分の思ったことを書くのか!で、書きました。 素直に。自分の思ったことを。「 花びらはブランコにすわっていたけれど、 そのままじゃ、すぐにブランコから落ちてしまうとおもいます。 」「 ブランコから落ちたら、いたいので 落ちないように、花びらをのりとかでくっつけたらいいとおもいます。 そしたら、ブランコから落ちないと思います。 」「 でも、気をつけないと、男の子とかがブランコにのってきて 花びらがつぶれてしまうので、はやくにげた方がいいとおもいます。 」 ↑ ・・・これを感想文と言います b(T-T) まったくもって詩ではありません。この時点におきまして、やはり全く理解しておりませんでした。そんな私に 詩のすばらしさを伝えてくれたのはみつはしちかこ先生の「 小さな恋の物語 」でした。チッチとサリーですね *^ ^その前年の7歳の時に、交通事故で4か月ほど入院いたしましたがその時仲良くなったお友達に教えてもらっていた作品です。その「 小さな恋の物語 」の中に素敵な詩がたくさん掲載されていました。その温かな作品に惹かれ、私は少しずつ詩の世界に魅了されることとなります。詩には「 正解 」がない。公式もない。正解以外はすべて突っぱねる、ということもない。あるのは「 自分の心 」だけ。そういう広やかなところに惹かれたのでした。その他、今なお深く胸に残る作品に川崎苑子先生の「 カリフォルニアポピー 」「 スノードロップ 」があります。両作品の 殊に最後のページ。これは漫画ではなく、詩なのだ、と思いました。作品の基底部に深い詩心があるのだ、と。だからこそ読む人の心に沁みとおり その後数十年にわたって忘れられないものとなるのではないか・・と。そして同時期にサトウハチローさんの「 詩集 おかあさん 」に触れ心打たれます。この詩集は当時30代後半だった私の母が購入してきたものです。母は、自身が2歳の時に実母を亡くしており時折 この詩集を独り見つめておりました。( 続きます )
2020.03.05
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前々回の日記に書いたことではありますがクラスの中ではいるかいないか分からぬほどの存在、マーチングでは自身の希望するものとはほど遠いパート、そして一度も遊ぶことの叶わなかった大きな積み木。そんな、ないない尽くしの幼稚園生活を過ごしてきた私が入学した小学校はあまりに大きく、人数も多く、右も左も分からぬ状態ではありました。入学式の日、新しい教室に入った時の緊張感。入学式を終え、講堂を出、そのままコンクリートの通路を通って教室に入ったわけではありますが春のうららかな日、コンクリートから立ちのぼる熱気、プランターに植えられていたチューリップの花、そして・・・教室内に整然と並べられた机、椅子。天井も窓枠も全て白。まるで病院みたいだ、と思いました。幼稚園と違って、小学校では勉強も始まるんだ。国語とか、1+1=2 もあるんだ。勉強ができなかったらどうしよう、みんなに追い付けなかったらどうしよう。入学の喜びよりも、ただ不安だけがありました。帰宅し、真っ先に教科書を取り出します。国語の教科書を開いてみれば「 あさ、あさ、あかるいあさ 」と書かれてありああ、よかった、これは読める、と ほっと胸をなでおろしたことでした。算数では「 1+1=2 」だ!と、これで大丈夫だ!と。最初の頃、「 1+1=2 」だと安心したまでは良かったのですが当然のことながら算数の授業もどんどん進んでいくわけでしてやがて足し算も、両の手の指だけでは追い付かなくなっていきます。算数の授業中、当時の私がほっとリラックスできた唯一の時間は教科書に描かれているキャンディーやプリンのイラストを見る時だけでした(笑)。そのイラストを見ながら、この教科書を作った人はすごいなあ、と。きっと、子どもたちがさらに勉強に親しめるよう、そして私みたいに算数のできない子どもがほっとできるようにこんなお菓子のイラストを描いてくれたんだなあ・・・と。教科書作りには、もっといろんな工夫があるんだろう、と。授業中、周りのお友達はみな必死に問題に取り組んでいるわけではありますが一番必死にならなければならないはずの私は、「 ほほぅ・・・ 」と教科書を作った人たちに思いを馳せていたわけで、そりゃ、先生に「 早く問題を解け 」と怒られるはずです。しかし何故でしょう、算数の文章問題を読んで答えはわかるのですが式を立てることができなかった。確かに答えはあっていたそうですが答案用紙に式を全く書いていませんでしたので、当然のことながら得点は0点。いつも0点。 何度テストを受けようが0点。当時、私の算数のテストを見た祖母がこんなことを言っておりました。「 えらいもんだ。 」と。「 普通は往生際が悪くて、1点とか2点とか、つい取ってしまうものだけど 0点となると、取れるようでなかなか取れないもんなんだよ。 」と。え、褒められているのか諦めているのか今ひとつ分かりませんけれども(笑)祖母の「 大丈夫だ 」との一言に安心することができましたことを今でもしみじみと思い出すのです。( 続きます )
2020.03.02
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そういえば 母は若い頃こう言っていました。「 私は、人生の大道の、ど真ん中を歩いていきたい。 」・・・片や娘の私はできるだけ道の端っこをでも端っこ過ぎて溝に落ちぬよう、道を行く車や自転車にぶつからぬよう、細心の注意を払いつつ歩いていく…おそらくはそんなタイプかと思われます。母は3人姉妹の次女、幼い頃は、自分の姉をいじめる近所の男の子たちを大枝を振り回しながら追い駆けていたそうで Σ(・◇・ノ)ノ!そういうところを考えますに・・やはり親子と言えど母と私は正反対の性格だと思うわけです。昭和47年4月、小学校の入学式にてクラス写真に納まった時のこと。実は撮影の時に、左側のお友達がぐいぐい肩をせり出してきていたのですね。せりだしてくるごとにこちらは大変狭苦しくどうしよう・・・と困り果ててしまったのです。写真屋さんが「 はーい、右端のお友達、もうちょっと詰めてね。 」「 えーと、真ん中の人はちゃんとこっちを向いてね。 」などと呼び掛け撮影もいつ終わるか分からない。 長い。非常に長い。その間にも、左側のお友達がぐいぐい押し迫ってくる。押さえつけられている左肩が椅子の背に当たり、ものすごく痛い。隣の人に「 もう少し離れてくれる? 」と言いたいけれどどう伝えていいのかわからない。前の方では写真屋さんが「 はい、静かにして!こっち向いて! 」と声を涸らしている。そんな時に、たとえ我が身を守るためとはいえ隣の人に話しかけたらいけないよね・・困ったな・・などと思っていました。そうだ、私は今、もの凄く大事な写真を撮っているところなのだからしっかりしなきゃ!頑張らなきゃ!痛いのも我慢するんだ!と自分を励ましながらの撮影ではありました。…確かその時のアルバムが本棚の奥にあったはずだ と探してみましたら…ありました。 え、まるで森のドングリを思わせる風貌ではあります。 表情だけを見てみましたら、この森のドング… いえ当時の私 非常に平和な顔をしてはおりますけれども心の中では「 どうしよう、困ったな。 」の嵐。 今にして思えば その数日前にようやっと6歳になったばかり、周りのどのお友達を見ても自分より体も大きく、声も大きかった。そういうお友達に圧倒されつつ 膝の上の小さな手にぎゅっと力を籠め「 頑張れ、頑張れ 」と、必死になっていたあの時の自分。まさに「 三つ子の魂百まで 」ならぬ「 六つ子の魂五十三まで 」。おそらく多くの皆様方もそうだとは思うのですが「 どうしよう‥ 」と困り果てながらも 表面的には「 いえ、なんでもありません。 」という顔で頑張り通してしまう。「 何でもない風 」を装ってしまうその淵源は実はこの入学式にもあったのではないか、と思うのです。( 続きます )
2020.03.01
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今さらではありますが ふと気づけば、53歳 。我が身を振り返り、そうか、自分も50代中盤に差し掛かるのだと(柄にもなく) 感慨深くなりました。20代前半は、ただただ仕事で精一杯。27歳になる直前で結婚、そして29歳で出産。この出産が、自分という人間を本当に大きく変えてくれた、と感謝しています。1人の命を預かるということがこんなに大きく、重いことだとは…恥ずかしながら実際に出産するまで知らずにいたのでした。身体もそう強くはなく、出産を諦めかけてもいましたが夫と結婚し、ともに暮らしていく中で彼の血を引く人にどうしても会いたくなったのです。彼のような人がもう1人この世にいたらどんなに嬉しいだろう、と思いました。それを思いましたら 怖ろしい出産さえも乗り越えていけるのではないか、と。・・・・今では夫にそっくりな娘が傍にいてくれその有難さをしみじみと噛みしめています。50代になり、いえ、もっと言えば 病を得て気付かされたことが多くあります。自分自身、子どもの頃からおとなしくいるかいないか分からぬタイプでしたからバレエの舞台で言えば群舞、時代劇で言えばその他大勢の切られ役、・・・そういうタイプでした。今もそうです。だからと言って奮起するかというとそういう気持ちにもなれず偶然ライトが当たったりしますとど、どうしよう、とどぎまぎする・・・そんな人間だったように思います。それは今から48年ほど前、幼稚園の遠足での出来事でした。お弁当のあとの自由時間、私は虫取り網を手に蝶々を追いかけたのですね。あともうちょっとで捕まえられる…!と思い、一生懸命走り続けるのですが走れど走れど蝶に追い付けないのです。「 頑張れ、頑張れ 」と自分に言い聞かせながら蝶を追いかける最中それまでの1年間にわたる幼稚園生活が次々に思い起こされるのでした。入園式……たくさんのお友達に囲まれ、右も左もわからぬ状況で先生が「お名前を呼ばれた人は○○組さんに行ってください。」と仰るのですがまずもってその「○○組さん」という概念が理解できていませんでした(笑)。隣に座っていたMちゃんが私の名札を見、「今、名前を呼ばれたよ。○○組さんに行かなきゃ。」と教えてくれ、一緒に教室に入ってくれました。( そのMちゃんとは数か月後のお遊戯会にて 一緒に、絣の着物を着て紅花摘み唄を踊ることに。)給食の準備をするとき、自分も頑張らなきゃ!と思い牛乳瓶を抱えていましたらお友達が悲鳴を上げながら近づいてきて、「○○ちゃんはこれを持って!」と手渡されたのが「ストロー」。軽い、かるぅい「ストロー」。たとえ落としても何の影響もないであろう「ストロー」。 昼休み時間、本当は大きな大きな積み木で遊んでみたかったのですがそれはみんなに大人気で、私はいつも教室の隅で粘土遊びをしていました。粘土でお団子を作りながら、ちらと積み木の様子を見るのですが結局は…卒園するまで一度も積み木で遊ぶことは叶いませんでした。ハサミもうまく使えない、でんぐり返しもできない、身体も1番小さい。そしてクラスで1、2を争うほどのおとなしさ。まさにないない尽くしの1年間、これには弱り果てました。それでも せめて目端の利く性格でしたら良かったのですが忘れもしない、それは秋の避難訓練の時のこと、お昼のお弁当の後、担任の先生が「今日は避難訓練があります。」と仰るのですね。「もうすぐベルが鳴りますから、逃げるときには上履きのままでね。」とも仰るのです。まず私自身、「避難訓練」の意味が分かっていなかった(笑)。そこにもって、いきなりけたたましいベルの音。「逃げますよ!」と仰る先生。慌てる私。上履きのまま園庭に出、ブロック塀をよじ登る。よじ登りながら、子ども心に「先生、すごい‥‥。」と思った。先生が「もうすぐベルが鳴る」と仰ったら、本当にベルが鳴った。先生は預言者なのかもしれない。きっと、今日のこの訓練を何度も受けてきたからだろう。( 違ふ )私も頑張って、預言者になろう。↑ 余談ではありますが、目端の利くどころではないこのような傾向は小学校に入学したのち さらに遺憾なく発揮されることとなります。入学した小学校は城跡に建っていたのですがその敷地内にある石垣から、メリーポピンズよろしく傘を持ってふわりふわり 飛び降りようとしたこともあります。↑ ここです、ここ。普通、ここから飛び降りてみようなどという発想は生まれないはずです。ようこそ 今日まで生き永らえさせていただいたことです。 ( 画像は宮崎観光ナビ!様よりお借りいたしました。 )小学校での算数の授業では、最初、おはじきを使っていたと記憶しておりますが授業中、先生が「おはじきをお皿に出しなさい」と仰るのですね。それで皆ざらざらと自分の小皿の上におはじきを出すのですが、私自身、その雑然と出されたおはじきを眺めつつ、こう思ったのです。こんな雑な出し方では、ぱっと見たときにおはじきがいくつ並んでいるか分からないではないか。これでは問題を解くときに無駄な時間がかかってしまう。‥‥そうだ、おはじきをきちっと並べ、いくつあるかすぐ分かるようにしよう。そう思い、小皿の上のおはじきを整然と並べ始めたのですね。そうしましたら、いきなり先生に頭を叩かれたのです。こ、これにはびっくりしました。先生からすれば、クラスの皆、きちんと前を向いて先生の話を聞いているのに私だけ下を向きおはじきで遊んでいる…おそらくはそんな風にうつったものでしょう。おはじきの並べ方について6歳なりに考えた上記の工夫など先生に伝わろうはずもなく、先生にお叱りを受けながら「自分の考えが、他の人にそのまま正しく伝わるとは限らないんだ」と思ったものでした。・・・話が逸れました。「 頑張れ、頑張れ 」と独り言ちながら 変わらず蝶を追って走り続けていましたがふと「 やっぱり、私には無理だな。」と思うわけです。でんぐり返しもできなかったではないか。お遊戯会の劇「 ヘンゼルとグレーテル 」では赤ちゃん役だった。マーチングではバトンをやってみたかった。でも駄目だった。マーチングでは自分がどんなパートになるかひとりひとりいろんなテストを受けるらしい、とクラスのみんなが話していて自分なりに一念発起、バトンのいくつかの技をひそかに練習、なんとか習得することもでき来たるべきテストに備えていたのだけれど、結局そんなテストなど全然なく、パートについては先生方がさっと決めてしまわれた。案の定、私はリコーダーだった ^_^; その時のちょっと寂しいような、悲しいような気持ち。・・・・そんなことを思い起こしながら追っていた あの時の蝶の羽の色、足元、風に靡いていた草の緑。48年経った今なお鮮やかに覚えています。( 続きます )
2020.02.18
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早いもので、このブログを開設してから19年目に突入いたしました。最初の頃の自身の文体を見てみれば最早、ほんとにこれは自分が書いたものなのか?と思うものも(笑)。当時35歳。・・・あれから本当にいろんなことがあってふと気づけば、こんなに時が過ぎていました。その間、この楽天日記のほか、goo, exblog, livedoor 等々他の場所にてブログを書いていたこともありましたがやはり、最終的にはこの楽天に帰ってきました。やはり、楽天は私の home ground なのだと思います。使い勝手など問題点は様々あるのでしょうがやっぱり、ここが1番ほっと致します。twitter につきましては、これまで2回登録、2回挫折(笑)。2018年4月に ( 懲りずに ) 3回目の登録をし、現在辛うじて続けています。しかし更新を忘れ去り、数か月放置ということも。やはり・・・自分にはなじまないのでしょう。確かに、つぶやくのに時間はかからないのですが文章を推敲する楽しみがほとんどないように思われます。今ではもっぱら、他の方々のつぶやきを拝見するのみです。pinterest の登録は2017年。ここでは自分のお気に入りの写真を集めています。このサイトの写真は・・・本当に美しい。茶道、骨董、インテリア、和菓子など様々なジャンルにて、自身の好みの写真を集めていますがpinterest に掲載されている写真のレベルの高さに驚いています。自分の世界を一気に広げてくれます。Instagram は2017年に登録。故郷の飫肥の写真を集めるのに重宝しています。ただ使い勝手が悪く、不具合の多さにも閉口。そして「インスタ疲れ」の意味もわかるような気がします。Facebook は2011年に登録。メールの友人に誘っていただきました。ここはまさに思い出の扉。幼稚園に入る前から現在に至るまでの友人・知人との再びの出会い。遠い思い出の中からみんなが一気に目の前に帰ってきてくれたかのようです *^ ^・・・思えば、恐る恐るインターネットの世界に飛び込みましたのが2001年 5月のことでした。最初はメールだけでしたが少しずつネットの世界を散策するようになり、同年10月に 楽天広場にてブログを開設。今では、自身の生活にインターネットはなくてはならない存在となりました。中でも「腹膜偽粘液腫」について非常に多くの情報を得ることができますこと、このことにつきましては感謝してもしきれるものではありません。おかげさまで専門病院に辿り着くこともでき再発防止の手術を受けることができました。そして同じ病気の方々との交流、ブログを拝見することもでき・・もしも、このインターネットがなかったならば私は病への不安とともに 孤独に陥っていたことでしょう。また、機械音痴の自分がパソコンを使っての在宅勤務。そして数字音痴のはずが、これまたパソコンを使ってのFX。まさかパソコンで自身の暮らしの糧を得るようになるとは・・思ってもみないことではありました。これからもインターネットとのお付き合いは続いていくでしょうしその関わり方にも、少しずつ変化はあることと思います。今から19年も前、躊躇する私に「これからはインターネットや!」と背中を押してくれた夫にただただ、感謝です *^ ^
2020.01.13
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先日、滋賀での定期検査を受けてまいりました。結果は、ありがたいことにセーフ。昨年10月下旬の検査では「再発の疑い強し」とありましてこの時ばかりは主治医にも笑顔が全く見られず、すぐさま、この1月上旬に再検査となりました。血液・MRI検査を受け、待合室にてその結果を待つ時毎回、ソファに座りながら震えてしまいます。本当は悠々と結果を待っていたいのですがやはり再発した場合のことを考えますと、とても悠々とは・・・できません。ただ、思いますのは「再発の疑い強し」となったのも今回で4回目。さすがに4回目ともなりますと「ジタバタしても無駄だな。」といういわば諦めにも似た気持ちが出てきまして、初めて「再発の疑いあり」と言われた時よりは幾分落ち着いていたようにも思います。・・数年前の冬、初めて「再発かもしれない」と言われた時には放心状態となり、そのまま病院を出、電車を乗り継ぎ琵琶湖・福井の敦賀にまでゆきました。能登川を過ぎる頃から雪が降り始め湖北・余呉は雪におおわれ しんと鎮まっていました。そばの道にも、駅のホームにも誰1人おらず・・ずっと雪の中に佇んでいました。聴こえるのはポタリ、ポタリと雪のとける音。風の音。私が湖北をこよなく愛しますのもおそらくは この風景を忘れられないでいるからなのだ と思います。
2020.01.11
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本年もどうぞよろしくお願い申し上げます皆様にとりまして素敵な一年でありますように令和2年 元旦
2020.01.01
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今年はお節を作る予定もなく、年賀状をしたためることもなくまた、夫の学期末の成績付けもありませんでしたので比較的ゆったりとした時間が流れています。お節を作らぬことにはどうにも落ち着かないのですがこのたびは両手が酷い状態で・・作ることができません。包丁や菜箸さえ握ることができず、往生しております。普段の年越しでは大掃除をし、年賀状やお節の準備等々真夜中までかかっててんてこまい、そしてそれが楽しかったのですが今年は自身の身体の状況を考え、思い切って諦めることに致しました。正直言いまして、こんな年越しでいいのか・・?とも思うのですがこれから歳を重ねるにつれ時にはこんなことも出てきてしまうのでしょう。若い頃には思いもよらなかったことです。それでも、ほんの少しずつでも頑張って前に進んできたいです。数日前、雨の降る中を買い物に出掛けましたが車を降りた途端、よい香りに包まれたのです。なんだろうと見上げますと、桜の樹。桜紅葉に雨が降りかかり淡い香りがひろがっていたのでした。川辺には栴檀の樹。栴檀の実がちらちらと まるで闇夜に光る小さな星々のようでした。
2019.12.29
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こんな風に、落ち着いてパソコンに向かうのは一体どれくらいぶりだろうと思います。義父逝きて早2か月、事務的な手続きはまだまだ残っておりますものの夫の妹と手分けし、何とか手探りで頑張っております。・・情けないことに告別式の翌日にいきなり体調を崩しその状態はいまだ続いておりまして何故か両の手のひらには水泡もできてしまいました。手のひらの水泡と言いますとそんな、全く大したことないじゃん、と今までは思っていたのですが実際自分がなってみまして、思ったより大変なことを痛感。皮膚科の先生も、この手の状態をご覧になるなり「うわ!」と大声をお出しになり( しぇんしぇい、そんなん言うたら患者は泣きそうになりますぞ・・ )強力なステロイドを処方されるもほとんど効かずそれどころかますます酷くなる一方。暮らしの中におきましては洗面台の前にて「・・顔ってどうやって洗うんだっけ」と立ち尽くし書類の角が手に当たろうものなら悲鳴を上げ保護用の手袋が手放せず、酷いときには両手を包帯にてグルグル巻き。親族や自分の友人・知人にあてての喪中はがきも何とか必死にペンを持ち、書き上げることができました。このたびの体調不良、そして手のひらの不具合。周りの皆さんからは、今までの疲れがいっぺんに出たんやなと言っていただいておりますが、そして確かにそうなのですがそれ以上に、義父が亡くなってしまったことが・・本当に大きかった。今でもなお、わからないことや「あれ?」と思うことなど無意識のうちに「お義父さんに聞いてみよう。」と思ってしまう自分がいます。ふとした拍子に「お義父さん、今回の入院長いな・・。大丈夫かな。」と「本や着替えをたくさん持って行かなきゃ。」と思ったりもするのです。自分自身、精神面がダイレクトに身体に現れてしまうわけですがおそらくはこのたびのショックを受け止めきれず免疫関連が脆くなってしまったものでしょう、身体の弱い面(皮膚)にかなりのダメージがあったものと思われます。また先々月、腹膜偽粘液腫の検査が滋賀の病院にてありましたがこれもまたグレー。いつもは「大丈夫」と言ってくださるはずの主治医が今回は笑顔が全く見られず、年明け早々に再検査となりました。・・・義父の遺してくれた膨大な資料、闘病日誌、日記。今、それらひとつひとつに目を通していますけれどもその中に、数年前、私がこの偽粘液腫の検査のため滋賀の病院に行った時のことが書かれてありました。それについて様々なことが書かれてありましたが最後の行に「 頑張れ 」と。このたび あと十数日で再検査を受ける身としましては義父の「 頑張れ 」との言葉が心に響きます。今から6年ほど前の義父の闘病日誌に、こうも書かれてありました。たとえ身体は消滅しても、心はいつまでも伝えていくことができる。その意味において、まさに心は不死であり、永遠である。まさに義父の遺してくれた言葉は私たち家族のよりどころとなり、この長いトンネルを進む上での大きな支えであります。確かに 義父は私たちの前からいなくなってしまいましたが心は、いつまでも私たちとともに在るのだと思います。
2019.12.22
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数年前の日記を再掲いたします。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この時節になると、口ずさむ歌がある。 百合とはじかみ賜ひき さはれつゆの身よ 夏いつまでの夕ぐれならむ 塚本邦雄 ・・・数日前、車の運転席から見た景色。 道の端に繁る葛の葉が夕暮れの光の中 風になびいていた。これから夏に向かう、そして季節は夏至に向かおうとしているこの時でさえ夕暮れの光には翳りが見えていた。 生を謳歌する季節にあってさえも既に衰えの兆しは見えている。この世に常なるものなど何ひとつとしてないことを思い結局は人は独りであることを この広い天地をたった独りで往かなければならぬことを思い その道のりの寂しさを思った。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・義父逝きて、早くも2ヶ月。ふと空を見上げ 今頃になり紅葉の季節も終わってしまうことに気付きました。今年の秋は、空の高さも秋草も眼にうつらなかったように思われます。 しんしんと 更けゆく夜の病棟にて みまかる父の御手のぬくもり
2019.12.18
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義父の死は、私にとりまして誠に大きな出来事でした。今抱える様々な思いを、文章にしようと思いましてもなかなかできることではありませんでした。今はおそらく、自身の思いを醸成する時期なのでしょう。いまだアウトプットする時ではないのではないか、と。確かに、義父との血のつながりはなく接することのできた時間は26年半。この月日を長いと思うか、短いと思うかは人それぞれでしょう。私にとりましては本当に短い月日であったと思います。義父は、私の神経質なところをも受け入れてくれ理解してくれていました。もっと言えば、そのままの私を見てくれていたのではないか、と。宇宙について、生死について、法華経について芸術、科学、万葉集と義父との語らいは本当に楽しかった。義父も私も茂木健一郎氏・小林秀雄氏の著作が好きで何故好きなのか、の理由も同じ。両氏の著作について語るときの義父は本当に楽しそうでした。数年前、蓮祖の「ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給ふべし」との言葉についてこれは具体的にはどういうことかと私自身疑問に思いこのことについて義父はどう思っているのだろう、と自宅に伺うと、ちょうど義父が難しい顔をしながら部屋から出てきたところでいきなり「○○さん、法華経に身をまかせるということは一体どういうことなんだろうね。」と全く同じ時期に同じことで悩んでいた、ということもしばしばでした。義父には、まだまだ伝えたいことがたくさんありました。そして聞きたいこともたくさんありました。今ではそれもかなわず遺された義父の手紙、多くの資料を前にただ静かに 思い出をたどっています。
2019.11.24
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義父が亡くなる数日前に、伝えたことがあります。「お義父さん、私は来世どうしても男性に生まれたいんです。 何故かというと、今度はお義父さんと同じ世代の人間として生まれて 男同士、親友として生きてみたいんです。 そしたら、来世は数十年もの間 ともに多くのことを語り合えます!」と *^ ^義父とは、価値観やものの考え方がことごとく一致、ともに話し始めますと、あっという間に数時間が経過していました。亡くなる5日ほど前にも義父は「○○さん、仏法における一念三千とはね、」と病床においても仏教の解説をしてくれたのでした。おそらくは信仰を同じくしているという信頼もあったのかもしれません。そして、この信仰を生涯保ち続けてほしいという願いもあったのではないかと思うのです。対話は信仰だけでなく、芸術、書物、科学、万葉集など多岐にわたりましたが義父との対話がどんなに楽しかったことか。義父は学生時代、犬養孝先生の教え子でもありましたので犬養先生の万葉の旅にご一緒したこともあった、とのことその思い出を楽しそうに話してくれました。冒頭の「来世は親友に!」との私の言葉にも義父は頷いてくれまして「来世、○○さんに会ったときには おお、また会ったね!となるね。」と微笑んでいました。だからでしょうか来世再び、何処かで義父に会えそうな気がするのです。そして、このたび2019年10月でいったんは終わってしまう義父との対話をいつか必ず再開できるような、そんな気持ちにもなるのです。
2019.11.17
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義父が亡くなって、早くも3週間が経とうとしている。義父と血の繋がりのない私でさえこれほど悲しいのだから夫の悲しみはどれほど深いのだろう…と心配になる。夫は本当につよい。ただ淡々と仕事に励み体調を崩してしまった私のことをも気遣ってくれる。彼はほとんど自分のことを語らない。他者に対し、声高に「頑張れ」とも言わない。慎み深く、優しく、細やかである。何を語らずとも、その行動で傍にいる者を勇気づけてくれる。
2019.11.07
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