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ニューヨーク『フリック・コレクション』ハンス・ホルバインの作品についてのお勉強♪
ハンス・ホルバイン ・・・とは?
ハンス・ホルバイン(子) Hans Holbein the Younger
1497-1543
ドイツ人
ドイツ・ルネサンス
同じく画業を営んでいた父の下で絵画の修行をしたと考えられている。
父も同名(ハンス・ホルバイン)であることから、
現在はハンス・ホルバイン(父)、
ハンス・ホルバイン(子)として区別されており、
功績で考えるとハンス・ホルバイン(子)の方が圧倒的に高い。
最も古い記録では
1515年バーゼルでエラスムスの
『痴愚神礼讃』の挿絵を制作したとされているが、
この年代以降は裕福な市民の肖像画や木版画の挿絵を多数描いている。
また聖母子像やキリストの受難など宗教画も同様に多数描いていたと考えられているが、
1529年宗教改革が激化し聖像破壊がおこなわれたため、
初期のもの以外、現存する作品は極めて少ない。
1526年から1528年の2年間と、1532年から渡英し、
同地に滞在するドイツ商人の肖像画を描いているほか、
1536年以降はヘンリー8世の宮廷画家として活躍した。
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トマス・モア・・・とは?
1478年2月7日 - 1535年7月6日
イングランドの法律家、思想家
カトリック教会と聖公会で聖人
政治・社会を風刺した『ユートピア』の著述で知られる。
ロンドンの法律家の家に生まれた。
大司教・大法官のジョン・モートンの家で従僕として教育を受け、
オクスフォード大学、リンカーン法曹院で学び、法律家となった。
1504年、下院議員。1515年からイングランド王ヘンリー8世に仕え
ネーデルラント使節などを務めた。1529年、官僚で最高位の大法官に就任した。
ヘンリー8世が離婚問題からローマ教皇クレメンス7世と反目すると、大法官を辞任。
ヘンリー8世の側近トマス・クロムウェルが主導した1534年の国王至上法
(国王をイングランド国教会の長とする)に
カトリック信徒の立場から反対したことにより査問委員会にかけられ、
反逆罪とされて同年ロンドン塔に幽閉
1535年7月6日に斬首刑に処された。
【列聖】
1935年にカトリック教会の殉教者として
同年6月22日に処刑されたジョン・フィッシャーとともに死後400年で列聖されており
記念日は6月22日である。政治家と弁護士の守護聖人となっている。
【思想】
モアはフィチーノの著作に影響を受けた人文主義者であり
神学者ジョン・コレットとは友人であった。
また1499年以降、デジデリウス・エラスムスとも親交があった。
エラスムスの『痴愚神礼讃』は1509年、モア宅で執筆された。
モアはマルティン・ルターの福音主義を否定し、
カトリック教会による平和主義と社会正義を求めた。
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荒野の聖フランチェスコ(聖痕を受ける聖フランチェスコ)
San Francesco nel deserto (Stimmate di san Francesco)
1480-1485年頃
124.4x141.9cm
テンペラ・板
フリック・コレクション
ジョヴァンニ・ベッリーニの署名が残る、
キリストが出現しない特異的な聖痕拝受の作品とされるが、
現在もその解釈については議論されている、
イタリア・ルネサンスで最も克明に描写された風景が秀逸の、
画家中期の最高傑作のひとつ
『荒野の聖フランチェスコ(聖痕を受ける聖フランチェスコ)』
画家が手がけたペザーロ祭壇画
(聖母の戴冠)のプレデッラにも同主題が描かれていることも考慮され、
現在最も有力な説として本作の図像は
『聖痕を受ける聖フランチェスコ』と解釈されている。
ヴェネツィアの貴族タッデオ・コンタリーニが旧蔵していたことが確認されている本作は、
イタリア・ルネサンス期に描かれた作品の中でも、
最も克明に風景描写された作品であるとされる。
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初世エセックス伯トマス・クロムウェル・・・とは?
Thomas Cromwell, 1st Earl of Essex,
1485年 - 1540年7月28日
イングランド王国テューダー朝の政治家である
ヘンリー8世に側近として仕え、イングランドの宗教改革や「行政革命」を主導した。
【生涯】
大陸での青年期
1485年、ロンドン郊外のパトニーで、ウォルター・クロムウェル
(1463年 - 1510年)の子として生まれる。
ウォルターは鍛冶屋・醸造家・旅館業など職業を転々とし、貧しい暮らしだった。
トマスは早くから故郷を離れ、大陸へ渡航、フランス王国軍の兵士となり、
イタリア戦争にも従事したという。
その後1512年まではフィレンツェの有力な富豪にして銀行家のフレスコバルディ家に雇われ
ネーデルラント(オランダ)のミデルブルフ織物市場で商事に従事していた。
クロムウェルはこれらの活動を通じてラテン語・イタリア語・フランス語に堪能となり
バチカン図書館の史料によれば、
ローマ教皇庁の枢機卿レジナルド・ベインブリッジの代理人となり
イングランドに関わる教皇庁控訴院の案件に従事していたという。
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