「きらりの旅日記」

PR

カレンダー

プロフィール

ほしのきらり。

ほしのきらり。

2017.09.14
XML
カテゴリ: 美術館・博物館

グイド・レーニ Guido Reni『ベアトリーチェ・チェンチ』 di Beatrice Cenci・・・とは?


エミリア派1600年代の肖像画「グイド・レーニ」の愛らしい肖像画に隠されたお話とは?


グイド・レーニ作『ベアトリーチェ・チェンチ』

di Beatrice Cenci  1600年ごろ

ローマ「バルベリーニ宮」 国立美術館 2階 第24室  エミリア派

Palazzo  Barberini  (Galleria Nazionale d’Arte Anitica in Palazzo Barberini)

Primo Piano Sala 24 Emiliani

エミリア派と1600年代初期の肖像画の部屋に展示



グイド・レーニ Guido Reni・・・とは?


グイド・レーニ

Guido Reni

1575年11月4日-1642年8月18日

17世紀前半、バロック期に活動したイタリアの画家

アンニーバレ・カラッチらによって創始された

ボローニャ派に属する画家で、

ラファエロ風の古典主義的な画風を特色とする。

日本語では、ファーストネームを「グイード」

姓を「レニ」と表記する場合もあるが、ここでは慣用的表記に従う。

レーニは1575年、

イタリア北部のボローニャに生まれた。

修業期にはフランドル出身の

画家デニス・カルファート(1540年頃-1619年)に師事した。

カルファートは16世紀のヨーロッパ画壇を席巻したマニエリスム系の画家であった。

この師のもとで数年間修業した後、1594年、

地元ボローニャの画家一族であるカラッチ家が主宰する

画学校(アカデミア・デリ・インカミナーティ)に入門し、

ルドヴィコ・カラッチに師事した。

レーニは20歳代半ばの1601-1602年頃、

ローマへ出て本格的な画業を始める。

1604年頃まではアンニーバレ・カラッチの工房の一員として、

カラッチの代表作であるファルネーゼ宮殿天井画制作に参加した。

ローマには十数年間滞在し、

教皇パウルス5世(在位1605-1621年)や

その甥にあたる枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼの注文を受け活動した。

パウルス5世の注文による作品としては、

1608年から翌年にかけて制作した

バチカン宮殿「アルドブランディーニの間」

(現在はバチカン図書館の一部)の装飾(画題はサムソンの物語)がある。


『アウローラ』

ローマのクイリナーレの丘に建つパラヴィチーニ=ロスピリオージ宮殿の

天井画『アウローラ』(1612-1614年)はレーニの代表作である。

この宮殿はもともと教皇の甥シピオーネ・ボルゲーゼの別邸として建てられた建物であり、

『アウローラ』は宮殿の庭に建つカジーノ(離れ)の天井に描かれている。

この作品は「アウローラ」(曙)と通称されているが、

画面の中心的位置を占めるのは黄金の馬車に乗ったアポロンであり、

主題は「アウローラ(曙)に導かれるアポロンの馬車」と解すべきであろう。

アポロンの周囲をめぐって輪舞する女性たちは

ホラ(「時」の擬人像、英語の"hour"の語源)である。

レーニは『アウローラ』を完成した1614年、生地ボローニャへ戻った。

教皇や貴族らの注文を受ける華やかな生活よりも、

故郷での自由な生活を望んだためと言われる。

以後、没年までは短期間の旅行を除いてボローニャを離れず、

制作と後進の指導に努めた。

優美な女性像を多く描いたレーニは、

実生活では女嫌いだったと言われ、生涯独身を通した。


【作風・評価】


『嬰児虐殺』


レーニの作風には、

バロック期の巨匠カラヴァッジョの劇的な構図や明暗の激しい対比が見られるとともに、

ルネサンス期の巨匠ラファエロ風の古典主義様式が見られる。

代表作『アウローラ』に見られる、考え抜かれた構図、

理想化された優雅な人物表現、柔和な色彩などはレーニの作風の典型を示すもので、

古典研究の成果がうかがわれる。『アウローラ』の並列的な人物の配置には

古代の浮き彫りの影響が見られるともいう。レーニは生前から「ラファエロの再来」と呼ばれ、

ゲーテによって「神のごとき天才」とまで激賞された画家で、

19世紀までの評価はきわめて高かったが、美術に対する人々の嗜好が変化し、

古典主義的絵画の人気が下落した20世紀以降は不当に低い評価を得ていた。

しかし、20世紀末頃からアカデミスム絵画再評価の動きとともに

ようやく正当に評価されるようになっている。


【代表作】

アウローラ(1612-1614年)パラヴィチーニ宮殿

嬰児虐殺(1610年頃)ボローニャ、国立絵画館

ダヴィデ(1605年)ウフィツィ美術館

ベアトリーチェ・チェンチの肖像 ローマ、バルベリーニ国立絵画館


グイド・レーニ作『マッダレーナ』

Maddalena  ローマ・バルベリーニ宮「国立古典絵画館」

マッダレーナ (Maddalena)と は、イタリア語の女性名。
マグダラのマリアの「マグダラの」という意味。

マグダラのマリア自体を指すこともあり、

芸術作品などに命名されている。フランス語のマドレーヌに相当する。



ベアトリーチェ・チェンチ Beatrice Cenci・・・とは?

グイド・レーニ作『ベアトリーチェ・チェンチ』

di Beatrice Cenci  1600年ごろ


ベアトリーチェ・チェンチ Beatrice Cenci

1577年2月6日 - 1599年9月11日

イタリアの貴族の女性

ローマで起こった尊属殺人事件(父親殺し)裁判の主役として知られている。

その悲劇的な最期から、多くの文学・芸術の題材とされて来た。


【伝記】

ベアトリーチェは

貴族のフランチェスコ・チェンチの娘として生まれた。

フランチェスコは、その暴力的気性と不道徳きわまりない行動から、

教皇庁裁判官と一度ならず悶着を起こしていた。

一家は、ローマのレゴラ区にあったチェンチ宮に暮らしていた。

チェンチ宮は、ローマのユダヤ人居住区の端にある、

中世の要塞跡に建てられたものだった。

家族は他に、兄ジャコモ、

父親の2番目の妻ルクレツィア・ペトローニ、

そしてその子供でまだ幼かったベルナルドがいた。

一家は、ローマの北、リエーティ近郊の小さな村に

「ペトレッラ・デル・サルト要塞」という名前の城を所有していた。

伝えられるところによれば、

父フランチェスコは、妻と息子たちを虐待し、

ベアトリーチェとは、近親姦の関係にあった。

ある時、父フランチェスコが別の罪で投獄された。

貴族であったことから、恩赦を受け、すぐに釈放されたが、

その時、ベアトリーチェは、頻繁に受ける虐待を当局に訴えた。

ローマ市民は、誰でも

フランチェスコがそういう人間だということは知っていたが、何の手も打たなかった。

父フランチェスコは、娘が自分を告発したことに気付き、

ベアトリーチェと妻ルクレツィアを

ローマから追い出し、田舎の城に住まわせた。

ベアトリーチェ、ルクレツィア、そして2人の兄弟は、

こうなったらもう父親を亡き者にするしかないと決心し、

全員でその計画を練った。

1598年、父フランチェスコが城に滞在中、

2人の召使い(1人は後にベアトリーチェの秘密の恋人となった)の助けを借り、

父親に麻薬を盛ったが、殺すにはいたらなかった。

やむなく、家族全員で父親を金槌で殴り殺し、

死体はバルコニーから突き落とした。

ベアトリーチェは、事故だと主張したが、誰も信じる者はなかった。

父親の不在に気付いた官憲は、事件の真相の調査を開始した。

ベアトリーチェの恋人は、拷問を受け死んだが、真相は一言も喋らなかった。

家族の友人(その人は殺人に気付いていた)は危険を避けるため、

もう1人の召使いを殺すよう命じた。しかし計画は露見し、

ベアトリーチェたちは逮捕され、有罪判決を受け、死刑を宣告された。

ローマの人々は、殺人の動機を知って、裁判所の決定に抗議した。

それで処刑は短期間延期されることになったが、

ローマ教皇クレメンス8世はまったく慈悲を示さなかった

(チェンチ家の財産を懐に入れるため処刑を決定したともされる)。

1599年9月11日未明、被告たちはサンタンジェロ城橋に移送され、

そこに処刑台の足場が組まれた。

ジャコモは木槌で手足を4隅に打たれ、四つ裂の刑に処された。

ルクレツィアとベアトリーチェは順番に斬首された。

唯一若い弟だけは死刑を免れたが、財産を没収され

(その財産は教皇の家族のものとなった)、

刑務所に戻される前、処刑台で家族の処刑を見せられた。

ベアトリーチェの遺体はサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会に埋葬された。

ローマの人々にとって、ベアトリーチェは、

傲慢な貴族社会へのレジスタンスの象徴となった。

そして、毎年、彼女が処刑される日の前夜、

ベアートリーチェの幽霊が斬られた自分の首を持って橋に戻ってくるという伝説が生まれた。


【ベアトリーチェが登場する作品】

ハリエット・ホスマー『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』

ジュリア・マーガレット・キャメロン『A Study of the Cenci』

ベアトリーチェ・チェンチは、文学や音楽などの作品でよく取り上げられている。


【文学】

チェンチ - パーシー・ビッシュ・シェリーの悲劇。1819年の5月から8月5日にかけて、ローマおよびリヴォルノ近郊のヴァルソヴァーノ荘で執筆。1820年春、ロンドンのC. & J. Ollierから出版。

Béatrix Cenci - キュスティーヌ侯爵の悲劇(1833年)。

チェンチ一族 - スタンダールの中編小説(1837年)。

The Cenci - アレクサンドル・デュマ・ペールのエッセイ(1839年。Celebrated Crimes第1巻)。

ベアトリーチェ・チェンチ - フランチェスコ・ドメニコ・グエラッツィの小説(1854年)。

大理石の牧神 - ナサニエル・ホーソーンの最後の長編(1860年)。ベアトリーチェについて、2人のヒロイン、ヒルダとミリアムが議論する。ヒルダはベアトリーチェのしたことを「償うことのできない犯罪」と非難し、ミリアムは「すべてが罪なわけではない。むしろ、こんな状況では最善の選択」と擁護する。ホーソーンはミリアムとベアトリーチェに多くの類似点を持たせている。

Beatrice Cenci (In a City Shop-Window) - アメリカの詩人サラ・ピアットの詩(1871年)。

ネメシス - アルフレッド・ノーベルの悲劇(1896年)。

チェンチ一族 - アントナン・アルトーの劇(1935年)。

ベアトリーチェ・チェンチ - アルベルト・モラヴィアの劇(1958年)。

黄金の鹿の闘騎士 - 南房秀久のファンタジー小説。主人公の女闘騎士ベアトリスの名前の由来となっている。

花窗玻璃 シャガールの黙示 - 深水黎一郎のミステリー小説(2009年)。グイド・レーニの描いたベアトリーチェの肖像画が、事件の解明に大きな役割を果たす。なおこの小説はカタカナを一切使っておらず、ベアトリーチェ・チェンチは貝雅特麗齊・倩契と表記される。

無月物語 - 久生十蘭の短編小説。舞台を平安末期(後白河法皇時代)の日本に置き換えている。暴君のようにふるまう名門藤原家の鬼才、藤原泰文を、後妻の公子と娘の花世が共謀して従僕に殺させ、平安期では大変に珍しい死罪とされた事の顛末として描き直される。


【音楽】
ベアトリーチェ・チェンチ - ベルトルト・ゴルトシュミットのオペラ(1949年 - 1950年)。

The Cenci - ハヴァーガル・ブライアンのオペラ(1951年 - 1952年)。シェリーの悲劇に基づく。

ベアトリクス・センシ - アルベルト・ヒナステラのオペラ(1971年)。

ザ・チェンチ - ジョルジョ・バッティステッリ(it:Giorgio Battistelli)のオペラ(1997年)。アントナン・アルトーの原作に基づく。

Beatrice Chancy - ジョージ・エリオット・クラーク台本、ジェームズ・ロルフ作曲のオペラ(1999年)。シェリーの悲劇に基づく。舞台が19世紀のノバスコシア州に移されている。

Betarice Cenci - Alessandro Londei&Brunella Carontiのミュージカル(2006年)。オリジナル。ベアトリーチェX事件/続 ベアトリーチェX事件 - CeuiのCDアルバム『パンドラ・コード~絶望篇~』『パンドラ・コード~希望篇~』(2014年)にそれぞれ収録されている。オリジナル。


【美術】

ベアトリーチェ・チェンチの肖像 - グイド・レーニの絵。

ベアトリーチェ・チェンチの肖像 - ハリエット・ホスマーの大理石の彫刻(1857年)。

A Study of the Cenci - ジュリア・マーガレット・キャメロンの写真(1868年)。


【映画】

Beatrice Cenci - ルチオ・フルチの映画(1969年)。

パッション・ベアトリス - ベルトラン・タヴェルニエの映画 (1987年)。ベアトリーチェ・チェンチの悲劇を下敷きにしている。ただし、時代や舞台は百年戦争後のフランスに設定されている。

マルホランド・ドライブ - デヴィッド・リンチの映画(2001年)。

美術館にぽち にほんブログ村 旅行ブログ 世界遺産へ








お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2017.09.14 00:00:22
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: