「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2020.04.03
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​​​​​​​​ベルギー【世界遺産】ブルージュ歴史地区「マルクト広場」の中央に立つブロンズは、誰なのでしょう!?フランドルとヨーロッパの歴史まで深掘りするってきらり偉いでしょ〜歴史を知ってから旅をしてみたいですね。


​きらりのわがまま『ベルギー旅日記』ブルージュ篇(112回)​


ベルギーを旅したのは友人との2人旅新型コロナウイルスも無かった2019年4月。

​【世界遺産】ブルージュ歴史地区「マルクト広場」​


マルクト広場の中央に立つブロンズは・・・


フランス軍の騎兵に勝ったフランドル軍のモニュメント。



“フランドルの独立を守った戦い”


「コルトレイクの戦い」「金拍車の戦い」


として記憶され 祝日となっているそうなのですが


ヨーロッパにおいて市民中心の歩兵が





ここには、フランスとベルギーの因縁の歴史が関係。


ベルギー人・フランドル地方の庶民がスキットする戦い・・・とは?


どんな戦いだったのでしょう?


Bataille de Courtrai『コルトレイクの戦い』


『金拍車の戦い』・・・とは?


フランドル地方を含むネーデルラントは・・・


843年、フランク王国が分割された時に


ヴェンダン条約によって中フランク王国に含まれて


870年、メルセン条約でフランドル等のベルギー地域は


西フランク王国に併合されました。


しかし、フランドル伯は、国王に匹敵する力を持っていた。


第4回、十字軍の時には・・・


フランドル伯ポードゥアンは、ラテン帝国皇帝となっている。





その力は、相対的に低下していった。



12世紀以後・・・


イングランドは、良質で高級な羊毛を特産とし


その輸出は、フランドル諸国であった。





毛織物産業は、ローマ帝国時代から著名であり


そこにイングランド産の良質な羊毛を


大量に輸入することで急速に発展し


12世紀半ば以降は、国際的な知名度を高めた。


農村と都市を相互に供給する商品経済が


ドーヴァー海峡を挟み大規模に展開されていました。


イングランドで毛織物生産が始められるのは、


この14世紀以降である。


このようにイングランドとフランドルは・・・


相互に密接な関係にあり


フランス国王によるフランドル支配の阻止は、


イングランドとフランドル双方にとって死活問題であった。


イングランドにとっては、


商品経済関係が成立している以上直接フランドルを支配する事で


イングランドを発展させたい思惑が生じた。



フランスは・・・


集権化を開始しており


ギュイエンヌ公領(イングランド王も兼ねていた)


ブルゴーニュ公領、ブルターニュ公領と共に


フランドルは、王国統一と


王権の強化のために克服すべき対象でした。


したがって同地において英仏の衝突は、不可壁であった。


当時のフランドル伯ギーは、


豊かなフランドル地方を狙っている


フランス王フィリツプ4世と対抗するために


娘をイングランド王太子エドワード2世と結婚させ


イングランドと同盟しようと図った。


これを知ったフィリップ4世は、破談にするように強要したが


ギーは、最終的にこれを拒否して


イングランド王エドワード1世と結んで反抗した。



​『ブルージュの朝』​


1297年、フィリップ4世は、フランドルの併合を宣言し


ヴァロワ伯シャルル率いるフランス軍は、フランドルを占領した。


スコットランド侵攻を重視するエドワード1世が単独で調和したため


ギーは、捕らえられ、ジャック・ド・シャティヨンが


フランドル総督に任命された。しかし、その支配が過酷だったため


1302年5月18日にブルージュにおいて、


市民の反乱が起こり、


フランス人を虐殺した『ブルージュの朝』


そこで、フィリップ4世は、


アルトワ伯ロベール2世を派遺し鎮圧に当たらせたが、


フランドルの諸国は同盟を結び、これに抵抗した。


その結果、コルトレイクでの衝突に至った。



​『コルトレイクの戦い』って・・どんな戦い?​


フランドル軍は・・・ 


7月9日、コルトレイクの攻撃に失敗した後


その近辺でフランス軍を迎え撃った!


フランドル軍は、2500人


弩弓兵(いしゆみ兵)1000人


パイク兵(やりの兵)1000人


その他の歩兵3500人の計8000人であった。


当時は、騎士は、10倍の歩兵に匹敵すると信じられていた。


周辺は、溝やぬかるみのある地形で


騎兵に不利であったが


圧倒的優位を確信していたが


騎士に戦功を上げさせたいアルトワ伯は、


歩兵を呼び戻し、騎士軍の突撃をかけ有利に進めていたが


密集方陣を敷いたフランドルの市民軍は、統制が取れており


装備も良かったため容易に崩せず、


逆に取り囲まれて、次々と殺されていった。


当時の戦闘では、騎士は殺さずに捕虜にして


身代金を取るのが普通であったが、


市民軍は、その習慣は無く多くの騎士が殺された



アルトワ伯ロベール、フランス軍司令官


ネスレ卿ラウル2世・ド・クレルモンの最高幹部2人の元師


ジャン2世・ド・ブリエンヌなど4人の伯、


ジャック・ド・シャンティヨン等多くの貴族と


1000人近い騎士が戦死したという。


戦場には・・・


騎士の象徴とされた「金拍車」が多く残されており


フランドル軍は、それを


コルトレイクの聖母教会に飾って勝利の印とした。
(資料一部:ウィキペディア様より)



それで『金拍車の戦い』とも呼ばれたのですね!!


フランドルの歴史を少しだけ理解できたところで


なんだか〜スッキリ先へ進みましよう〜


・・・つづく・・・

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最終更新日  2020.04.03 00:10:08
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