「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2022.11.06
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カテゴリ: 美術館・博物館
歪んだ教会にロイヤルブルーの青い空、魅了されますね〜ご存じゴッホの絵を鑑賞しましょう

フィンセント・ファン・ゴッホ
​Vincent van Gogh​

De kerk van Auvers

『オーヴェルの教会』1890年


油彩 カンヴァス 93.0cmx74.5cm

パリ「オルセー美術館」所蔵。

ゴッホ最晩年の作品。

昼なのに夜のようなロイヤルブルーの空です。

歪んだ教会にオランダの衣装の女性が向かう先は。


​Vincent van Gogh​
フィンセント・ファン・ゴッホ

1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳)

オランダ人のポスト印象派(後期印象派)の画家。



De Aardappeletes

『じゃがいもを食べる人々』1885年


​【ゴッホのプロフィール】​

ゴッホの性格= 頑固で強情でした。

家族構成= 結婚はしませんでした。

 子連れの貧しい売春婦シーンとの結婚は、

 家族や親戚から猛反対されました。

よく使うモティーフ= 働く農民の姿を多く描きましたが、

 身のまわりの風景にも興味がありました。

 自画像を多く残しました。

よく行く場所= ブリュッセル、アントワープ、パリ、

 アルル、サン・レミなど、あちこちに行きました。

交流のあった文化人= 収集家でもあったガシェ医師。

 アルベール・オーリエが作品を絶賛してくれましたので、



尊敬する芸術家= 17世紀オランダの画家レンブラント。

 19世紀フランスの農民画家ミレー。

De sterrennacht

『星月夜』1889年

​【ゴッホの年譜】​

1853年3月30日(0歳) 牧師の父のもと、

 オランダの北ブラバント地方フロート・ズンデルト村に誕生。

1869年(16歳) グービル商会のハーグ支店に就職。

1873年(20歳)

1878年(25歳) グービル商会を解雇され、一時エッテンに戻る。

1886年(33歳) アントワープの美術学校に入学。

3月 にパリに出て、コルモンのアトリエに通う。

1888年(35歳) アルルに移り住み、

 ゴーギャンとの共同生活を送るが、わずか2ヶ月で破局。

1889年(36歳) サン・レミの精神療養院に入る。

1890年7月29日(37歳) テオに看取られながら、

 オーヴェール・シュル・オワーズで死去。



『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』1886年10月


さまざまな試行錯誤ののち、

ゴッホは27歳で絵画の道を志した。

1886年3月にパリへ出てきたのも、

アカデミックな絵画教育を受けるためだった。


グービル商会で働いていた

弟:テオの住む小さなアパートに落ち着き、

そこから、アカデミックな画家

フェルナンド・コルモンの画塾に通った。

絵画の基礎を学ぶものの、

わずか4ヶ月でコルモンの画塾を去る。


画塾での最大の収穫は、

トゥールーズ=ロートレックや、

エミール・ベルナールなどの若い画家たちと

親交を結ぶことができたことである。


パリに来て3ヶ月も経たないころ、

第8回「印象派展」が開催。

スーラの

『グランド・ジャット島の日曜日の午後』が

話題を呼んでおり、

ゴッホも点描技法の研究をはじめる。

Le Pont de I'Anglois

『アルルの跳ね橋』1888年


ゴッホは・・・

弟:テオからゴーギャンを紹介された。

2人はすぐに仲良くなり、

印象派の画家たちのたまり場だった

カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌで

芸術について論議し、

タンギー爺さんの画材屋では、

タダ同然で絵の具やカンヴァスをわけてもらった。


パリでの友人たちとの交流を通じて、

ゴッホは印象派の技法を習得し、

日本の浮世絵への関心を高めた。


『タンギー爺さん』1887年秋

それまで貧しい人びとを

暗い色彩であらわしていたゴッホの作品が、

Slaapkamer te Arles

『ファン・ゴッホの寝室』1889年


明るい色彩による現代的な主題へと変化した。

1887年になると、

パレットはますます明るさを増すが、

1888年2月、突然パリをたち、

「日本の浮世絵にあるような明るい光」

を求めて南フランスの町アルルへと向かった。

そしてそこで、

自らの色彩と技法を確立することになる。


『ひまわり』1888年

陽光に憧れて南仏アルルに移り住み、

芸術共同体を夢見たゴッホ。

黄色い家を借りて12脚の椅子を揃え、

愛と芸術の象徴である

「ひまわり」の絵を12枚描いて飾るつもりでした。


そこに集まるはずの仲間を、

キリストの十二使徒になぞられたのでしょう。

けれども、やって来たのは・・・


『夜のカフェテラス』1888年9月

希望に満ちていた頃、ゴッホの眼に映った明るい夜景。


1888年10月、ついにゴーギャンがやって来ました。

しかし、

「南方のアトリエ」の実現 が、

一歩近づいたと喜ぶゴッホとはうらはらに、

ゴーギャンのアルル行きは、

「ここに来れば、テオの仕送りによって生活できる」

という打算に満ちた選択でした。



『ローヌ川の星月夜』1888年


料理は、ゴーギャン。

買い出しは、ゴッホ。

テオからの仕送りの使い道を決めるのは、ゴーギャン。

などの取り決めのもと始められた共同生活でしたが、


熱狂的な制作活動の後、

夜な夜な行われる芸術論議は、

激しさを増し、

妥協を知らない二人の仲は、

徐々に険悪になっていきました。


ゴッホの「耳切事件」勃発!

ゴーギャンは、逃げ去り南国タヒチへ。


事件後、

ゴッホは、アルルの病院に収容されます。


『医師ガシエの肖像』1890年

発作を繰り返す兄を案じ、

テオは芸術に非常に理解のある医師ガシエに、

兄を託すことにしました。

医師の住むオーヴェールは、

パリからも近く、

ガシエと意気投合したゴッホは、

しばらくの間、制作に没頭する。


『糸杉と星の見える道』1890年


サン・レミ療養院への道は、

結婚するテオの負担を少しでも軽くしたいと願った

ゴッホが自ら決めたことでした。

しかし、

入所後も、

重度の発作を度々繰り返します。

ゴッホは、

「芸術は最良の病の避雷針」 と信じ、

正気が戻った際には、

猛烈な勢いで絵を描き続けました。


『鴉の群れ飛ぶ小麦畑』1890年

悲劇は、

「夏はみんなでオーヴェールで過ごそう」 という

ゴッホの提案を振り切って、

テオ一家がオランダの実家に戻っていた間に起きました。


パリで疲弊し窮乏に喘ぐテオの姿を見て、

長年自分が強いてきたテオへの負担の大きさを

痛感してしまったゴッホは、

全ては自分のせいだと感じ、

「もはや、どうにもならない」と、

自殺を決意したと推測されます。


ゴッホは自殺を図った2日後、

7月29日に亡くなりました。

弟テオも病の悪化で半年後に亡くなります。


(写真撮影:ほしのきらり)

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最終更新日  2022.11.06 00:10:10
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