「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2022.11.10
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カテゴリ: 美術館・博物館
ロートレックは貴族の御子息でしたがモンマルトルのカフェに毎日通ってこの絵を描きました

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック作


アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
​Henri de Toulouse-Lautrec​


Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec Monfa
アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック・モンファ

1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)

フランスの後期印象派の画家。


もし自分が人並みの体だったら、

絵は描かず狩猟でもしただろう。
(ロートレック)



​【ロートレックのプロフィール】​

ロートレックの性格= みんなを笑わせることが好きでした。

家族構成= 母からは「小さな宝石」と呼ばれ愛された。

 生涯結婚しませんでしたが、



 本気の恋をするが、3年で破局。

よく使うモティーフ= 夜の歓楽街に集う人々。 

 モンマルトルの歓楽街。

 とくに娼婦や踊り子や役者。

よく行く場所= パリのカフェやダンスホール。

交流にあった文化人= 銀行家:ナタンソン家の

 サロンに出いりしていた文学者:アンドレ・ジード、

 マラルメ、ボードレールと交流があった。

尊敬する芸術家= ドガを崇拝し、その構図に影響を受けた。

 踊り子をモティーフにしたものも彼の影響か?

 一時期ご近所だったゴッホとも友情が。





​【ロートレックの年譜】​

1864年(0歳) 伯爵家の一人息子として、

11月24日、 南フランスの町アルビで生まれる。

1878年(14歳) 椅子から落ちて左大腿骨を骨折する。

1879年(15歳) 散歩中に溝に落ちて右足を骨折する。

1881年(17歳)

1882年(18歳) コルモンの画塾に入り、そこで、

 ゴッホやベルナールと知り合い友人になる。

1891年(27歳) 「ムーラン・ルージュ」の

ポスターが評判になる。

1899年(35歳) アルコール依存症の発作がひどくなり、

 精神病院に入院する。

1900年(36歳) パリ万国博覧会の日本館を

 車椅子に乗せられて見学する。

1901年(37歳)9月9日、 ボルドー近郊の

 マルロメにある母の城で死去。



本名:アンリ・マリ・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック。

長い名前が示しているとおり、

貴族の出身である。

14、15歳のときに相次いで両足を骨折し、

下半身の成長がとまってしまった。

そのため、

得意な絵画の道を突き進むことになった。



パリに出て、

当時の有名画家コルモンの画塾に入るが、

ロートレックを魅了したのは、

モンマルトルに集まる芸術家たちであり、

歓楽街の喧騒だった。



ロートレックは、

母親の反対を押し切り、

モンマルトルにアトリエを借り、

画家の友人たちとの日々を楽しんだ。


モンマルトルのカフェや酒場に

出入りするようになったロートレックは、

夜の退廃的な世界に魅了された。

そこでの現実を静かに観察し、

そこに人生の縮図を見て取っていた。


『ゴッホの肖像』1887年

10歳ほど年長のゴッホとの出会いは、

コルモンの画塾においてだった。

2人はつきあいは長くなかったが、

深い友情で結ばれていた。


最後の印象派展が開催された1886年、

2人の画家は、

パリのモンマルトル地区に住んでいた。

彼らにとって印象派展は、

参加するものではなく、観るものだった。


そして2人とも、

その影響から逃れることはできなかった。

この作品では、

初期のロートレックが、

印象派から影響を受けていたことを教えてくれる。


黄色と青色という補色を基調にしながら、

素早い筆致を用いており、

のちのロートレックの画風を予告している。

この画塾時代に画題は人物に絞られていく。



上流階級出身のロートレックは、

生活に困ることがなかったため、

自分の気に入ったものに専念することができた。


ドガ同様、ロートレックは、

人工照明の下にいる人びとを好んだ。


印象派の画家のように、

光を描き止めることに関心は向かなかったが、

都市の生活を描いたという点で、

印象派の後継者となっている。



ロートレックは、人物を素早くスケッチするため、

カンヴァスよりも厚紙を多く用いた。

印象を描きとめるには、

その方が便利だったようだ。


ロートレックは、

サロンで作品を発表することを

目指していた訳ではなかった。


彼の名前を有名にしたのは、

ポスターや版画という複製芸術であった。

日本の浮世絵からも

影響を受けた斬新な構図は、

とりわけポスター芸術で鼻開くことになる。


『ムーラン・ルージュにて、ダンス』1890年

パリのモンマルトルの丘の麓にある

ムーラン・ルージュ(赤い風船)は、

ステージの上の踊りや歌を鑑賞するだけではなく、

踊ることもできる

当時の人気のカフェ・コンセールだった。


ロートレックは、

1889年に開店して以来の常連客だった。

毎晩開店するとお決まりの席に座り、

夜の歓楽街を訪れる人びとの姿を観察しながら、

絵のイメージを膨らませた。


この作品は、

ムーラン・ルージュを描いた30数点のうち、

もっとも大きなもの。

中央では、

「骨なしヴァンタン」というあだ名を持った踊り手が、

新人の踊り子に稽古を付けている。

遠巻きにしている人びとは、

彼らにあまり興味を持っている訳ではなく、

女性を誘うことに忙しい男性の姿も見える。

うつろな目をしたピンク色のドレス女性は娼婦である。


(参考文献:東京美術/印象派絵画の見かたより)
(写真撮影:ほしのきらり)

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最終更新日  2022.11.10 00:10:10
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