「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

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2023.08.22
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カテゴリ: 話題の人
朝ドラ「らんまん」を見ながらモデルの牧野博士の生涯をたどっています朝ドラとの比較

植物研究がおこなわれた「小石川植物園」内にて、


まきのとみたろう
牧野富太郎の生涯 ​・・・その4

1867年5月22日〜1957年1月18日(94歳没)


1887年(明治20年)、

育ててくれた祖母:浪子が77歳で死去。


26歳で、



『日本植物志図』の刊行を自費で始めた。


印刷工場に出向いて印刷技術を学び、

絵は自分で描いた。


これは当時の日本には存在しなかった

日本の植物誌であり、

今で言う植物図鑑のはしりであり、

マキシモヴィッチからも高く評価された。


この時期、

富太郎は東京と郷里を往復しながら

研究者の地位を確立していくが、

その研究費は亡き祖母:浪子に代わって

猶が工面し、



実家岸屋の経営は瞬くうちに傾いていった


1887年(明治20年)12月、

​一目惚れした ​小澤壽衛​ (14歳)と、

下谷区根岸の御隠殿(輪王寺宮門跡の別邸)跡の

離れ家で一緒に暮らしはじめ、



第一子:園子(1888年〜1893年)が生まれる。


・・・おやっココ朝ドラとかなり違いますが・・・




1889年(明治22年)27歳で、新種の植物を発見

『植物学雑誌』に発表し、

日本で、はじめて新種の

​「ヤマトザクラ」​ に学名をつけた


1890年(明治23年)、28歳の時に

東京府南葛飾郡の小岩町で、

分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、

柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する

​「ムジナモ」​ の日本での新発見であり、

そのことを自ら

正式な学術論文で世界に報告したことで、

世界的に名を知られるようになる。


しかし、同年、

矢田部教授(朝ドラ役:要潤)により、

植物学教室の出入りを禁じられ、

研究の道を断たれてしまい、

『日本植物志図編』の刊行も六巻で中断してしまう


失意の牧野は・・・

マキシモヴィッチを頼り、

ロシアに渡って研究を続けようと考えるが、

1891年にマキシモヴィッチが死去したことにより、

実現はしなかった。


・・・この辺りは朝ドラとほぼ同じ・・・

(つづく)


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最終更新日  2023.08.22 05:58:52
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