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『モナ・リザ』には、パリ・ルーヴル美術館でお会いできるのですが・・・なかなか側まで近づけないしガラスの反射でますます遠く感じますよね〜どんな感じで描かれているのでしょうか パリ「ルーヴル美術館」で鑑賞する人々レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。代表作=『モナ・リザ』レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)1503年〜1507年(その後も手を加え続けたか?)ポプラ板に描かれた 油彩77.0cmx53.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。『モナ・リザ』は、どんな状態なのか?ポプラの板に描かれており、硫酸カルシウムを使った白の薄い層と亜鉛が塗られている。この方法は・・・レオナルドが「絵画論」のなかで推奨する、白や石灰を塗ってから、亜麻油をむらなくひき、その上から鉛白を塗る手法である。鉛白に含まれる酢酸をアンモニアで中和するために、乾いた後に尿で洗うこともおこなわれていた。その後表面を磨き、下絵を描いてから緑青と黄色の顔料を混ぜた下塗りをおこなう。下絵を描く際に用いられた黒い輪郭線が見つかっており、炭素成分も検出された(黒は骨炭や木炭、イカ墨などが用いられた)。影を描いたら乾燥させ、ゴムラッカに炭を加えて加筆する。ゴムラッカは、虫の分泌液から作られる。鮮やかな赤には・・・シナバー(長砂、赤色硫化水銀)や、サンギーヌ(紅殻)を、落ち着いた赤には・・・ヴァーミリオン(朱、硫黄水素)、赤茶色には・・・シエナ(土)などを用いる。黄色には・・・イエロー・オーカー(黄土)を、青には・・・高価なラピスラズリなども用いている。当時の画家が、なべて鉱物や植物の豊富な知識を有している理由である板の最上部には・・・亀裂が入っており、裏面からの写真を見ると修復のために蝶型の留め具が二つ使われている。このうち、上側に付けられていた留め具は失われている。フランス語で「Au garde des Tablcaux a Versailles・・・ bureau du Directeur(ヴェルサイユ宮殿の絵画担当護衛艦へ・・・ 管理事務所)」の書き込みがあるが、これはフォンテーヌブロー宮殿からヴェルサイユ宮殿へと移した際の指示では中と思われる。左上に「Joconde」と記されている。「Gioconda」のフランス語表記で、いつ記入されたかは不明。右下の赤いスタンプは・・・「Musee Royal(王立美術館)」で、フランス王家の百合の紋章も見える。数字「316」は・・・王室コレクションだった時に付けられていた番号であり、中央にある大きな「29」の数字は・・・作品がヴェルサイユ宮殿から、ルーヴル美術館へ移された際につけられた番号である。その上にある「H」という文字だけが、何を意味するのか、またいつ書かれたものなのか不明である。赤外線撮影によって・・・うっすらとではあるが、下絵の線をみることができる。特に左手の人差し指と中指の部分には・・・ペンティメントがはっきりと確認できる。レオナルドが最後まで構図を決定するのに迷ったものと想像できる。ここで注目すべきは・・・指輪が下絵においてもみられない点であるもし、嵌めているなら、左手薬指の可能性が高いが・・・そこには指輪の位置を示す線さえないリザ夫人であれば・・・指輪をしているはずで、それが描かれなかった原因を指部分の未完成に求めてきたが、下絵にもさえ無いということは・・・その予定さえ無かった可能性が高い。つまりこの女性は、既婚者ではないと考えるのが妥当であり、先日ブログに[F]のケースを最も高いものと述べたが、この写真はその考えを補強していると言って良い。表面の顔料層には・・・深くこまかな亀裂がびっしりと刻まれている。これは、展剤に用いた油の含有率が高すぎたことが主原因とみられている。同様の特徴をレオナルドの他の作品に見ることができる。ただ、不規則なため、まるで指紋のような機能があり、模写作品との識別を容易にしている。その上を覆うニスは黄変し、画面全体を暗くしている。その色だけを抽出してデジタル除去した図版によって、私たちは作品がもともと持っていた鮮やかな色彩を知ることができる。柔らかく左側から差し込む光に照らされて、胸元が白く浮かび上がり、手の指や首、顔の微妙な肉付きや凸凹が、繊細な明暗の違いによって描写されるさまは見事である。胸元の幾何学的な紋様装飾や、一本一本描きこまれた頭髪の繊細な描写、巧みに立体感とツヤで描かれた衣装のひだ、そして何といっても奥に広がる幻想的な風景。優しげな微笑。現作品における様式の際立った特徴は・・・輪郭線が描かれていない点である。見たことのないものは描かないとばかりに徹底したリアリストとなったレオナルドは、自然界に存在しない輪郭線を描くことをやめ、色彩のトーンとグラデーションだけですべてを描く。絵画の表面に筆致さえ残さないように、少しずつ色素の含有量を減らした透明のグラッシ層を指の腹で何層も重ねて輪郭を浮かび上がらせる。彼が編み出したこの独自の技法を・・・「スフマート(ぼかし)」と呼ぶ。本作品でも・・・特に頬や鼻、唇の描写部分において、容易に確認することができる。徹底的な観察眼が生み出したこの技法は、レオナルド自身の中でも本作品においてようやく完成し、全面的に適用されている。コレッジオのようにこの技法を用いようとした後世の画家もいるが、本作品ほどに高いレヴェルで徹底して用いられた例は他にない。それほどに、気が遠くなるような根気のいる作業なのだ。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)スフマートにぽち
2022.07.16
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まだまだ謎は深まっております〜一体この女性は誰だったのでしょうか?レオナルドはなぜ最後まで手元に置いたのかレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)部分1503年〜1507年(その後も手を加え続けたか?)ポプラ板に描かれた 油彩77.0cmx53.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。18世紀末、作品はヴェルサイユ宮殿に入り、チュイルリー宮殿にいったん入ったのち、再び、ヴェルサイユ宮殿に移った。19世紀の初頭には、ナポレオンの寝室を飾っていたことがわかっており、その後ルーヴル美術館へと居を移した。さて、これまで見てきた以外にも、モデルとしてさまざまな説が挙げられてきた。代表的なところで、イザベッラ・デステ、ナポリ女性イザベッラ・グアランダ、ミラノ公妃イザベッラ・ダラゴーナなどがいる。ただイザベッラ・デステなら、あれほどに催促されていたのなら、肖像画を送って支払いを受けているはずだし、イザベッラ・グァランダなら、ナポリでも非常に高明な女性だったので、ナポリから来たデ・バエティスならその名を挙げて記録しているはずである。ミラノ公妃にいたっては、レオナルドの個人様式史からみても、制作がミラノ時代だったとは考えられない。デル・ジョコンド家の注文だとしても、なぜ絵を送って支払いを受けていないのか?という根本的な疑問は残ったままである。また、結婚している家庭婦人を描く場合、女性モデルの指には通常であれば指輪がはめられている。しかし、現作品にはそのようなものはない。もちろん、指の部分が・・・最も未完成の度合いが高いことも事実であり、そこまで描くことなく終わったとも考えられる。さらに、『糸巻きの聖母』や『レダと白鳥』などのケースに見られるように、人物像を先に描き、背景を後から描く手法は、ここでも採られたかもしれず、現作品の背景が人物肖像画のそれとしては極端に異質で幻想的な風景となっていることも肖像画を納品させる必要がなくなったあと、好きなように描いて良い状態になったからこそだと考えることもできるだろう。ここで、昨日までのブログで述べた[D]〜[G]のケースにおける作品のその後の行方を加えながら、それぞれのケースで考えられるストーリーを考えてみる。いずれも、デ・ベアティスが目にした作品を「ジュリアーノの注文によるフィレンツェ婦人の肖像」と証言するための要件を満たしている。[D]現作品は、リザ夫人の肖像画であり、ジュリアーノの注文である。ジュリアーノは、かつて追放前にフィレンツェにいた少年時代、親戚関係にあるリザに淡い恋心を抱く。そして長じてレオナルドにリザ夫人の肖像画を依頼する。レオナルドも、リザの夫とは父を介して友人関係にあり、この注文をうけるが、いつものように完成に時間がかかる。そのうちにジュリアーノの結婚か死亡を機に作品はそのまま手もとに残され、ともにフランスの工房へと移る。その過程で、リザ夫人に似ている必要は無くなり、普遍的な女性の理想像へと変わっていく。デ・ベアティスもこれを見て記録。その後作品はフォンテーヌブロー宮殿に入り、現在に至る。[E]現作品は、リザ夫人の肖像画であり、ジュリアーノの注文ではない。他にジュリアーノ注文によるフィレンツェ婦人像がある(消息不明)。リザ夫人の肖像画は、次男の誕生を機に夫でレオナルドの友人であるフランチェスコから依頼されたもので、はるか上位の顧客をさしおいて優先的にこの作品に取り組んだ。しかし未完成のまま納品されず、レオナルド工房にあるままフランスへ移った。その過程で普遍的な女性像へと変化していった。一方、より上位の顧客であるジュリアーノから、おそらく愛人であるフィレンツェ出身の女性の肖像を依頼され、第二フィレンツェ時代か、ローマ時代にこれに取り掛かる。しかしジュリアーノの結婚か死去によって政策は中断。この作品もフォンテーヌブロー宮殿に入り、デ・ベアティスは、こちらを見ている。その後、作品は失われた。[F]現作品は、リザ夫人の肖像画ではなく、ジュリアーノの注文によるフィレンツェ婦人の肖像である。この他に、リザ夫人を描いた別作品があった(消息不明)。上客であるジュリアーノから、おそらく愛人であるフィレンツェ出身の女性の肖像画を依頼され、第二フィレンツェ時代か、ローな時代にこれに取り掛かる。しかし、ジュリアーノの結婚か死去によって制作は中断。そのまま手もとに残った作品にレオナルドは最後まで手をいれていた。これをデ・ベアティスが記録。これがそのままフォンテーヌブロー宮殿を経て現在に至った現作品で、おそらくジュリアーノからの依頼が解消された時点から、肖像は実際の誰かではない女性の普遍的な理想像へと変化していった。一方、リザ夫人の肖像画は、次男の誕生を機に夫でレオナルドの友人であるフランチェスコから依頼されたもので、同時期に、おそらく工房の弟子が彩色を担当している。作品はしかし未完成のまま納品されず、レオナルド工房にあるままフランスへ移ったか、その過程でサライの手を経由してフォンテーヌブロー宮殿に入り、その後は失われてしまった(あるいは、レオナルでスキの作品の一枚がこれである可能性も)。[G]現作品は、フィレンツェで描いていた注文主不明・モデル不明の作品。別にジュリアーノ注文によるリザ夫人の肖像画があった(消息不明)。上位顧客の注文を弟子中心にやらせているなかで、ほとんどひとりで取り組むような上位顧客を他に想定することは難しい。デ・ベアティスが見たのは後者だが、ここにも「ニコル・モデル」が必要となり、また前者がその後どのような経緯でいつフォンテーヌブロー宮殿に入ったかなど、同時に満たせる説明は困難にすぎるため、このケースも検討から外して良いと判断する。指輪がない点に関しては・・・[D][E]では、その部分が未完成だったためであり、ケース[F]では、婚外恋愛の愛人が最初のモデルだったとの説明になる。それぞれの欠点は、[D]では、やはり「ニコル・モデル」の幼い恋愛関係が必要になる点である。[E]では、デ・ベアティスが見た作品がその後どこに消えたか、またなぜ上位顧客の催促をさしおいて現作品たるリザ夫人の肖像に単独で取り組んだかの説明が難しい。[F]では、リザ夫人の肖像画が、フォンテーヌブロー宮殿に入った後どこに消えたか、そしてなぜ現作品がかわりにリザ夫人の名で呼ばれるようになったかの説明が難しい。当然ながら、これら欠点は同時に他方の利点となる。[D][E][F]それぞれに利点と欠点があり、どれかを打ち消すほどのものではない。以上の比較によって、上記のケースのうち、現時点では、ケース[F]の可能性が比較的高いと判断できるだろう。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.15
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『モナ・リザ』と『ラ・ジョコンダ』という別に二枚の絵があったのでしょうか?謎は深まるばかりですレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)1503年〜1507年(その後も手を加え続けたか?)ポプラ板に描かれた 油彩77.0cmx53.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。1524年3月、亡くなったサライの遺産目録(1525年4月21日作成)には、『聖アンナと聖母子』や『洗礼者ヨハネ』などと並んで、『ラ・ジョコンダ』(la Honda・・La Ioconda)が登録されている。表価格は・・・100スクーディで、最も高い『レダと白鳥』の、200スクーディの半額を付けられている。もちろん、これがレオナルドの真筆なのか?質の高い工房作なのか?サライの頃で論じた通り、議論の対象となっている。また、「マリアベキアーノ文書」には、レオナルドの作品として『ピエロ・フランチェスコ・デル・ジョコンドの肖像を描いた(Ritrasse dal naturale Piero Francesco del giocondo)』という記述がある。ピエロは、リザの幼い子の名なので、年代的にもフランチェスコ・デル・ジョコンドのことを指している。諸説はあるが、記憶違いや書き間違いがしばしばみられる同文書のこと、単純に夫と妻を間違えたものと思われる。次いでヴァサリーの「美術家列伝」に以下の記述が登場する。リオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンドのために妻のリザ夫人を描こうとし、四年間苦心して完成させずにいた(Prese Lionardo a fare per francesco del Giocndo il ritratto di Monna Lisa sua moglie, e quattro anni penatovi lo lasció imperfetto)。その作品は、今はフォンテンブローのフランス王フランソワ一世のもとにある。ーージョルジョ・ヴァサリ、「美術家列伝」より』ヴァザーリが「今は〜にある」と書くのは、伝門で得た情報にすぎず現物を見ていない時にしがちな表現である。それでも、現作品の指などに未完成の部分があることを考えれば、ヴァザーリの記述は参考にする必要がある。ただ、この文の後に、現作品には無い「眉毛(Le Ciglia)」が記されていたりはする。これをもとに、現作品とは別の作品がリザ夫人の肖像画だったという説は、昔から何度も繰り返されてきた。ヴァザーリは「美術家列伝」の初版版を1550年に出版し、かなり修正を加えた後に1568年に第二版を出した。たとえばそこでは、師アンドレア・デル・サルトの妻に対する悪口を多少削ったりと、初版本を出した後の読者の評価や意見を採り入れて修正をはかったことがわかる。ただ、リザ夫人の肖像画に関する部分には、一切変更が加えられていない。初版出版時にフランチェスコ・デル・ジョコンドは世を去っていたが、リザ本人はおそらく存命中で、少なくとも彼らの子らはフィレンツェでおおいに活躍していた。彼らフィレンツェの富裕層を想定読者として出された「美術列伝」で、せっかくリザ夫人の肖像画についての記述があるのに、本人やその子らが目を通さないはずがない。それなのに修正の必要が無かったということは、つまりは修正の必要が無かったか、あるいはあるにしても些細なものだったかだ。加えて、ヴァザリは第二版改定前の1566年頃にメルツィにも取材しており、そこでも修正の要求がなかった。つまり、レオナルドは、リザ夫人の肖像画を描こうとして未完成のままにしており、それが1550年頃の時点でフォンテーヌブロー宮にあることは事実として扱って良い。次いで、ヴァザーリにやや遅れて、ジャン・パオロ・ロマッツも例によってレオナルド作品についての記録を残している。1563年に書かれた「Libro dei Sogni(夢の書)」では、対話形式をとった本の中でレオナルド本人が述べる。「まだ完成させてないが、 四年かかったリザ夫人の肖像画は、 すでに完璧なものとなった・・・(Redussi si a perfizion, non essendo ancora finite, il ritratto di Mona Lisa, dretto al quale stei quatto anni・・・)」明らかにヴァザーリの書を読んで書かれたものだろうことをうかがわせる記述だが、この後、1571年にロマッツォは失明し、そこから彼の執筆活動は本格化する。しかし1584年の『Trattato dell'arte de la pittura・・・(絵画論)では、ロマッツォはなぜか「・・・レオナルドの手になる、 春の装いをした、 ジョコンダやモナ・リザの肖像画のような・・・(・・・quelli di mano di Leonardo, ornate a guise di primavera, come il ritratto della Gioconda e di Mona Lisa・・・)」と、まるで『ラ・ジョコンダ』と『モナ・リザ』という二枚の絵があるような書きぶりをする。この記述をもとに、『ラ・ジョコンダ』と『モンナ・ヴァンナ(裸のモナ・リザ)』とする説はある。ロマッツォは、さらに1590年の『Idea del Tempio della pittura(絵画の神殿のイデア)』で、「絵画を鑑賞したいと願う者は、 裸のレダとナポリのリザ夫人の肖像画(il ritratto di Mona Lisa Napoletana)のような、 リオナルド・ヴィンチ(Lionardo Vinci)が 完成させた絵(数は少ないが)を観るとよい。 それらはフランスのフォンタナ・ディ・べレオ(Fontana di Beleó'、フォンテーヌブローのこと)にあり、 自然を芸術が超越し、 鑑賞者の目をいかに強く魅了するか教えてくれる」と書く。 その後も、バルベリーニ枢機卿の初期で、美術愛好家のカッシアーノ・ダル・ポッツォが、1625年にフォンテーヌブロー宮殿で、「半身像のジョコンダの肖像・・・(mezza figura,et é ritratto d' una tal Gioconda・・・)」があることを確認している。ニスで傷んでいること、24〜26歳前後に見えること、眉毛がないことなども彼は記しており、現作品がもつ特徴とほぼ相違ないと見てよい。ここからは、当時フォンテーヌブロー宮殿にあった肖像画は、現作品だった可能性が高いことがわかる。サライの遺産目録が持つ問題を除外すれば、ヴァザリーが書いたリザ夫人の未完成の肖像画は、フォンテーヌブロー宮殿にあり、それがそのまま現作品へと繋がるとみるのが妥当だ。1642年にはフランス王家の絵画管理人であるペレ・ダン神父が、レオナルドが友人のフェッラーラの貴族フランチェスコ・デル・ジョコンドのために、その妻で、ジョコンダと呼ばれるモンナ・リーザの肖像を描き、フランソワ一世が、4000ドッカーティで購入したと書いている。このように、時代を下るにつれて徐々に情報に不正確さが増してはいるが、フォンテーヌブロー宮殿に現作品=『ラ・ジョコンダ』があったことは何度も確認されている。ここで注目すべきは、フランチェスコ・デル・ジョコンドと、レオナルドが友人関係にあると書かれている点で、手稿にもどこにもそれを示す証拠はないのだが、ただある修道院とフランチェスコの間で揉めた時に、公証人:セル・ピエロに仲裁を依頼したことが、パッランティによって報告されている。それなら、その子で画家のレオナルドに、次男の誕生を祝してフランチェスコが妻の肖像画を依頼したこと、そして、マントヴァ公爵夫人イザベッラ・デステのような大物からの催促を無視し続ける一方で、成功者とはいえ一介の商人の妻の肖像画を手掛けたことにもある程度うなずける。しかし一方で、フランス王からの注文にさえ、彩色段階をほとんど弟子にやらせるような状況ではある。そこでひとつ考えられるのは、リザ夫人を描いていた肖像画も、基本的には下絵のみで彩色を弟子にやらせていた可能性である。もちろんこの場合、レオナルドの真筆単独作の疑いのない現作品は、リザ夫人の肖像画ではない。それなら、ほぼ同時期に自分で描いていた現作品は、もっと上位の顧客からの注文、つまりは、ジュリアーノ・デ・メディチやフランス王家になる。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)モンナリーザにぽち
2022.07.14
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謎の名画『モナ・リザ』のモデルについて他の可能性を追求してみましたレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)頭部1503年〜1507年(その後も手を加え続けたか?)ポプラ板に描かれた 油彩77.0cmx53.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』 さて、モナ・リザのモデルが・・・ジュリアーノ・デ・メディチが注文する場合、モデルは意中の人、つまりは愛人である可能性が高い彼の愛人だったことが分かっている女性に、ウルビーノ出身のパチフィカ・ブランダーノがいる。彼女は、生年不詳だが、1511年にジュリアーノとの間に一子をもうけ、これが後のイッポリート・デ・メディチ枢機卿となる(ティツィアーノ による肖像画のモデルなどでも知られる)。ただし、彼女は、ウルビーノ出身なので、デ・ベアティスの言うフィレンツェ婦人との記述に反し、昨日ブログで示した[E]、[F]のケースでは矛盾が生じる。その後、ジュリアーノは、1515年2月22日にフィリベルタ・ディ・サヴォイア(サヴォイア公フィリッポ二世の娘)と結婚するこの時に描かせたパチフィカの絵を手もとに戻したというストーリーは考えられる(あるいは、完成前で納品しないまま手もとにのこった)。この場合、レオナルドがパテフィカの絵を描いたのはローマにいた1513年〜1516年の間となる。この場合、[D]、[F]、[G]での製作時期には合致しない。一方、ジュリアーノが正妻フィリベルタの肖像を描かせた可能性はほとんど無い彼女もフィレンツェ出身の女性ではないし、フランスで結婚式を挙げてローマに戻ってきたから、翌1516年3月17日にジュリアーノ自身が亡くなるまではレオナルドの制作期間としては短すぎるし、その間ジュリアーノは、ほとんど病床にある。さらに、現作品に描かれている女性のモデルと仮定するには、婚姻時にわずか17歳にすぎないフィリベルタは、若すぎる。それにもしジュリアーノの妻がモデルなら、デ・ペアティスも「フィレンツェ婦人」ではなく「ジュリアーノの妻」と書くはずだ。もちろん、ジュリアーノが依頼した肖像画のモデルが、パチフィカでもフィリベルタでもない、リザでもない第四の女性(フィレンツェ出身でジュリアーノ・デ・メディチの愛人)である可能性は否定できない。この想定では、[E]、[F]の可能性が高まる。この場合に考慮に入れるべきは、レオナルドが1500年にヴェネツィアをまわってフィレンツェに帰っている点である。というのもその時にヴェネツィアで、ジュリアーノ・デ・メディチと会った可能性があるからで、そうなると、ジュリアーノからの注文を1513年からのローマ滞在まで待つ必要がない。つまりモデルはパチフィカやフィリベルタではなく、第四のフィレンツェ出身の女性となる(つまり[D]、[G]が外れる)。ただ、その年にはジュリアーノはまだ21歳にすぎず、想い人がいたとしても相手の女性もかなりの低年齢だと思われ、別作品のモデルとする[E]なら可能なものの、現作品のモデルとなる[F]では、やや年齢が合わない。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)第四の女にぽち
2022.07.13
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モナ・リザの絵をレオナルド・ダ・ヴィンチから直接に説明を受けた人からの証言をもとに謎の考察をしてみましょうレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)1503年〜1507年(その後も手を加え続けたか?)ポプラ板に描かれた 油彩77.0cmx53.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。1517年10月10日、アントニオ・デ・ベアティスが、クルー城館にレオナルドを訪ねた際の記録である。ルイージ・ダラゴーナ枢機卿に秘書として同行したデ・ベアティスは、レオナルドの工房で3点の作品を目にしている。それらは、『若い洗礼者ヨハネ』と『聖アンナの膝に座った聖母子』、そして、当時はこう呼ばれたと思われる謎の絵画『故ジュリアーノ・デ・メディチの注文による、 等身大のフィレンツェ婦人』(dona firentina facta di naturale ad istantia del quondam mag.co Juliano de Medici)である。現在ルーヴル美術館におさめられている三作品をデ・ベアティスは見たことになるが、彼はレオナルドの工房で、本人から直接説明を受けており、その記述には、ある程度信頼を置くことができる。ジュリアーノ・デ・メディチは、ロレンツォ・ルイ・マニフィコと妻:クラリーチェ・オルシーニの三男で、かつてレオナルドが、ローマに呼ばれた時のパトロンであり、彼の早逝をうけてレオナルドは、フランス王の招きに応じて異国に来ていた。よって、デ・ベアティスの言葉をそのまま信じれば、以下の通りとなる。[C]1517年、フランスのレオナルドの工房に、ジュリアーノ・デ・メディチの注文によるフィレンツェ婦人の肖像画がある。この情報を、昨日ブログで述べた[A&B]と合わせれば、以下の通りになる(「A’]は現作品とは限らないので、[A]を現作品とする時には用いない)。[A&B&C]=[D]レオナルドは、1503年〜1505年頃にフィレンツェでリザ夫人をモデルに現作品を描いており、注文主は、ジュリアーノ・デ・メディチである。この組み合わせで奇妙なことは、リザが、フィレンツェ商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻であり、ジュリアーノ・デ・メディチの愛人などではない点である。また当該の製作時期に、ジュリアーノ・デ・メディチは、他のメディチ一党と同じく、1494年から1512年まで、フィレンツェから追放状態にあった。つまりこの組み合わせは、ほとんど不可能に思えるが、リザとジュリアーノが遠い親戚関係になることから、ニコルは、ジュリアーノが15歳で追放される前にリザに淡い恋心を抱き、長じて彼女の肖像を頼んだというロマンティックな可能性を提起している。両者は、ジュリアーノの叔母が嫁いだ夫の姪が、リザの父:アントンマリーアの後妻という関係にある。フィレンツエのような中規模の都市の富裕層は、限られた数の家系同士が、なにかしらこうした縁戚関係で結ばれており、ニコルが想像するようにお互いが知り合っていたとしても不思議ではない。ともあれ、[A&B&C]の可能性を残したままで、これ以上の選択肢を以下のようにケース別に考えてみよう。[A&B/C]=[E]現作品は、1503年〜1505年頃にリザ夫人をモデルに描いたもの。1517年にフランスのレオナルド工房にあるのは別作品で、ジュリアーノ・デ・メディチの注文によってフィレンツェ婦人を描いたもの。[A’/B&C]=[F]現作品は、1504年〜1505年頃にフィレンツェでフィレンツェ婦人を描いたもので、ジュリアーノ・デ・メディチの注文による。1503年10月に24歳のリザ夫人を描いたのは別作品。[A&C/B]=[G]現作品は、1504年〜1505年頃にフィレンツェで描かれていたもので、モデルは不明。1503年10月に24歳のリザ夫人を描いた別作品は、ジュリアーノ・デ・メディチの注文によるもので、1517年にフランスのレオナルドの工房にある。[A’/B/C]=[H]現作品は、1504年〜1505年頃に、フィレンツェで描かれたモデル不明の絵。1503年10月に24歳のリザ夫人を描いた別作品がある。さらにそれらとは別に第三作があり、ジュリアーノ・デ・メディチの注文によるフィレンツェ婦人の絵で、1517年にフランスのレオナルド工房にある。このうち[H]のケースでは、現作品のほかに二枚も別の作品があることになり、レオナルドの制作量からは想定しにくいので、以下の考察からは外す。また、ジュリアーノがリザ夫人の肖像画を依頼する[D]と[G]は、前述のとおり可能性が低く、いわば「ニコル・モデル」が正しい場合のみ起こりうると言える。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)リザ夫人にぽち
2022.07.12
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ルーヴル美術館に入館するとまずは、この方にご挨拶したいですよね〜モナ・リザ「モナリザ」ジョコンダ、ジョコンドさんとは何者なのでしょうか?作者は・・・レオナルドレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)1503年〜1507年(その後も手を加え続けたか?)ポプラ板に描かれた 油彩77.0cmx53.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。リザ・デル・ジョコンド・・・とは何者か?近年の研究で、この謎めいた人物の生涯は、かなり明らかにされている。なかでも、ハトフィールド、スカイエレーズ、パッランティ、モーエンらによる文献が最新かつ詳細な情報を提供している。リザ・ゲラルディーニの生涯1479年6月15日、フィレンツェで生まれた。35歳だった父:アントンマリーア・ゲラルディーニは、キャンティ地方に所有地をもち、ワインの生産農家を経営していたが、前年にパッツイの乱が起きたあおりで、ナポレオン軍が、キャンティ地方を荒らしており、決して経済状態は良くなかった。同家には・・・リザの4歳下に長男:ジョヴァルグアベルト、その下に次男:フランチェスコ、さらにその下に二女:ジネヴラを得た。ジネヴラは、ジョヴァンフランチェスコ・ベンチに嫁いぎ、夫を早くに亡くして後は姉のもとに身を寄せている。『ジネヴラ・デ・ベンチ』のモデルは、別人のベンチ家の娘ジネヴラで、ルイジ・ニッコリーニに嫁いでいる。一方、リザの夫となるフランチェスコ・デル・ジョコンドは、1465年3月19日、フィレンツェで、繊維業を営む父:バルトロメオの子として生まれた。リザより・・・14歳年上で、レオナルドより、13歳年下にあたる。繊維業は、フィレンツェ経済を支えた主幹産業であり、欧州を席巻したフィレンツェ銀行業も、繊維業で豊かになった市経済によって支えられていた。その大アルテの構成員として、同家は共和国の政治にも関心を示し、一族から何人かのプリオーレ(行政官)を出している。フランチェスコは、レオナルドの父:セル・ピエロと同様に、成功した層の常として、名家から若い妻を娶る。最初の妻となったカミッラ・ルチェッライはしかし、一子バルトルメテオ(祖父と同じ名)を産んだあと、二度目の出産時の産褥熱によって、わずか18歳の若さで世を去る。伴侶を亡くしたフランチェスコは、8ヶ月後には、すぐ次の妻を迎える。こうして彼の二番目の妻となったのがリザ・ゲラルディーニである。婚姻書類は、1495年3月6日に作成された。夫は、30歳になる直前で、新妻は、まだ15歳の若さである。この時、フランチェスコは婚資の一部として、キャンティ地方の農地を手に入れている。ふたりの間には・・・翌1496年に男児:ピエロが、1499年に女児:カミッラが生まれている。後に、先妻との子:バルトロメオが家業を継ぎ、1561年に亡くなっている。ピエロは、1569年まで生き、カミッラは、後に200フィオリーニの資金付きで修道院に入っている。リザには・・・ピエロとカミッラの下に、1502年にアンドレア、1507年にジヨコンド、そして生年不明の女児を産み、計5人の実母となった。くどくどと青年を書き連ねているのは、女性の肖像画を描くきっかけに、しばしば婚姻時と出産時があるからだ。ヴェスプッチのメモに記された年と見比べて、該当しそうなのは、1502年12月12日の次男誕生ぐらいか。ただ、1503年3月には、フランチェスコが子らに財産を生前贈与する書類を作成している。まだ40歳だが、あらかじめ将来の財産相続を決めておくのはよくあることで、生涯のひとつの区切りとなるイヴェントではあった。ともあれ、1503年にリザは24歳前後であることを、昨日ブログの[A]に足しておこう。[A’]レオナルドは、1503年10月に24歳のリザ夫人を描いている(ただし現作品とは限らない)。制作動機は、次男誕生や生前贈与か。ちなみにフランチェスコは、1508年に亡くなり、リザについては、その翌年の相続文書に載ったのを最後に消息が途絶えている(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)リザにぽち
2022.07.11
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モナリザとして世界中に知られた名画ですが、先日のクイズで作者は誰でしょうか?の問いに答えられない芸能人たちに失望レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)1503年〜1507年(その後も手を加え続けたか?)ポプラ板に描かれた 油彩77.0cmx53.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。『最後の晩餐』と並ぶレオナルドの代表作で、疑いなく世界で最も有名な絵画である『ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)』は、レオナルド独自の様式の頂点に位置し、縦80cmほどの小画面のなかに彼の思想が盛り込まれた傑作であるまた同時に、モデルなどに関する謎の多さで・・・これまでひとびとを惹きつけてきた。そのため論文や文献から荒唐無稽な記事まで、関連資料の数も圧倒的に多く、ここですべてを紹介することはできない。ここでは、代表的な説を採り上げるにとどめ、なるべく簡潔に事実関係を列挙し、現時点で最も妥当と思われる解釈を記すことにしたい。まず同時代の記録は・・・1503年のものである。これは、2005年にハイデルベルク大学図書館のシュレヒター研究員によって、報告された事例による。同図書館が所蔵する、1477年にボローニャで出版されたキケロ(紀元前106〜前43年)の『Epistulae ad familiares(友人・家族宛書簡集)』というインキュナブラの一冊に、本の所有者だったアゴスティーノ・ヴェスプッチが、メモを書き込んでいた。彼は「アメリカ」の語源となったアメリゴ・ヴェスプッチのいとこにあたり、フィレンツェの役人で、レオナルドやマキャヴェッリとも交流があった。メモがあるページには、古代の大画家アペレスに関する記述がある。それに触発されたのだろう、ヴェスプップッチは、欄外に「アペレス」と赤インクで書き、続けてセッピア(イカ墨)インクで、画家レオナルド・ダ・ヴィンチが現在絵を描いていること、そしてその一枚が、「リザ・デル・ジョコンド(Lisa del Giocondo)」であると記している。その終わりには、1503年10月という日付も明記されている。まずこの史料から、レオナルドが1503年にリザ・デル・ジョコンドの肖像画を描いていることは確実である。おそらく1504年にフィレンツェにやって来たラファエッロは・・・師のペルジーノの弟弟子であるレオナルドと親交を結び、工房に出入りして『レダと白鳥』と『ラ・ジョコンダ』を見て、それぞれスケッチを残している。おそらく、『糸巻きの聖母』も見ている。そのうち、『ラ・ジョコンダ』を見て描いたと思われるスケッチには、全体の構図、体と顔の向き、手の組み方、両端に円柱のあるベルコニーなど、『ラ・ジョコンダ』との共通点が多く、それらを同時に満たす肖像画が、当時の定型ではないことからも、ラファエッロが・・・レオナルドの作品を実際に見ていたことはほぼ確実であるその一方で、服装のディテールや、随分と若く見える顔つき、円柱の幅や奥の風景などで相違点も多い。このことは、ラファエッロが簡単なラフを描くにどどめて、本スケッチを自分のアトリエで(つまり実作品を前にしていない状況で)あらためて描いたか、あるいはレオナルドの『ラ・ジョコンダ』にまだまだ未完成な部分が多かったかのどちらかである。よって、まず次のことが確かめられる。[A]レオナルドは、 リザ・デル・ジョコンドの肖像画を 1503年10月に描いている。 ただしこれが現作品(ルーヴル所蔵品)とは限らない。[B]レオナルドは、 1504年〜1505年頃に フィレンツェで現作品を描いている。 ただしモデルはわからない。ただでさえレオナルドが、彩色画制作の意欲を失っていたこれらの時期に、二枚も肖像画を同時に手掛けることは考えにくく、よって素直に考えれば、これらを同時に満たす次の仮定がまずは成り立ちそうだ。[A&B]レオナルドは、 1503年〜1505年頃に フィレンツェで、 現作品を描いており、 モデルはリザ夫人である。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)ジョコンダにぽち
2022.07.10
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レオナルド・ダ・ヴィンチの最晩年の足跡を追ってみましょう〜レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Jean-Baptiste『洗礼者ヨハネ』1513年〜1516年頃くるみの板 油彩 69.0cmx57.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』レオナルド・ダ・ヴィンチ晩年の年譜1514年(62歳)7月7日、「1514年7月7日23時、ベルヴェデーレ宮にイル・マニフィコ(ジュリアーノ・デ・メディチ)が私のために準備した書斎にて終了」9月27日、[→パルマ]パルマにいると記す。9月27日、「サンタンジェロに近いポーの河岸で」12月、[→ローマ]ローマにいて、異母弟で公証人:セル・ジュリアーノの訪問をうける。1515年(63歳)1月9日、パトロンのヌムール公ジュリアーノ・デ・メティチが婚礼のためにローマを発ったとのメモ、レオナルドはローマにいる。7月12日、フランソワ1世凱旋式のための機械仕掛けのライオンをリヨンに送付。7月か8月、フィレンツェにいるムール公の手紙の下書き、(病気から快復したこと、月7ドゥカティのジョルジュ(ゲオルク)、 鏡職人のジョヴァンニ(ヨハン)という 二人のドイツ人助手への不平を記している)10月8日、ローマのフィレンツェ出身者たちによる洗礼者ヨハネ同信会への入会審査。10月、教皇レオ10世の随員としてフィレンツェへと出発。11月30日、[フィレンツェ]フィレンツェ到着。12月9日、[ミラノ]ミラノからフィエーゾレの農場管理人ザノピ・ボーニに対し、今年のワインにはガッカリとの手紙。12月14日、[ボローニヤ]教皇とフランス王との会見場に出席。12月17日、ボローニャを発つ。1516年(64歳)3月3日、「この法則を見出した」(幾何学に関して)8月、ローマのサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ教会の計測メモ。冬、[→アンボワーズ]フランスへ出発。1517年(65歳)1月15日、[ロモランタン]「聖アントニオの祝日(=1/16)前夜、 ロモランタンから、アンボワーズに戻る」5月、アンボワーズのクルー館にて、10月10日、ルイジ・ダラゴーナ枢機卿の一行が、クルー館のレオナルドを訪問。随員のデ・ベアティスは、膨大な量の手稿および絵画3点を見る。レオナルドが30人以上の解剖をおこなってきたとの証言も記す。12月29日、デ・ベアティス、ミラノで『最後の晩餐』が激しく傷んでいると記す。1518年(66歳)5月3日、フランソワ1世の姪マドレーヌと教皇レオ10世の甥ロレンツォ・デイ・ピエロ・デ・メディチの祝婚式典(アンボワーズ城にて、6日まで)6月19日、祝婚行事の一部として、クルー館で、レオナルドによる装置を用いた「パラディーゾ」の再演。6月24日、「アンボワーズのクルー館にて」1519年(67歳)4月23日、遺言書に捺印。5月2日、レオナルド、アンボワーズで死去。6月1日、メルツイから、レオナルドの異母弟セル・ジュリアーノ・ダ・ヴィンチに宛てて、レオナルドの訃報と遺産分与を告げる書簡。8月12日、アンボワーズのサン・フロランタン教会にて葬儀。1520年4月6日、ラファエロ・サンティ37歳で死去。便宜上、この年をもって「ルネサンス」という時代区分の終わりとする。1525年4月21日、前年3月に亡くなったサライの遺産目録、(『ラ・ジョコンダ』や『レダ』などの記載あり)(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.09
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レオナルド・ダ・ヴィンチの48歳〜61歳頃までは→あちこち忙しく移動していますレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Anne,la Vierge etI'Enfant Jouant avec un agneau,dite La Sainte Annc.Vers 1508-1519 『聖アンナと聖母子』1508年〜1510年頃レオナルド・ダ・ヴィンチ年譜=3放浪の旅・第二フィレンツェの時代1500年(48歳)〜1513年(61歳)レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズ1500年(48歳)、「公は国も財産も、自由も失ってしまった・・・」2月頃、[→マントヴァ]公妃イザベラ・デステの肖像をデッサン3月、[ヴェネツィア]ヴェネツィアにいる。3月14日、ヴェネツィアでレオナルドによるイザベラの肖像を見た。とのロレンツォ・グスナスコからイザベッラ・デステへの手紙。4月24日、[→フィレンツェ]ヌーヴァ病院の口座から50ドゥカーティ出金。1501年(49歳)3月20日、[ローマ]ティヴォリでヴィッラ・アドリアーナを見学。3月か、[フィレンツェ]フィレンツェのサンティッシマ・アヌンツィアータで『聖アンナと聖母子、洗礼者ヨハネ』のカルトンが2日間公開されて評判をよぶ。2月27日、イザベラ・デステからフラ・ピエトロ・ダ・ノヴェッラーに対し、レオナルドの近況報告を求める手紙。4月3日、ノヴェッラーからイザヴェッラへの返信、当時のレオナルドの制作の様子と上記のカルトンの構図がわかる。4月14日、ノヴェッラーラからイザベッラへの書簡、レオナルドがフロリモン・ロベッテのために『糸巻きの聖母』を描いていることなどの報告。7月31日、マンフレード・マンフレディからイザベッラ・デステへの書簡(レオナルドからの返事の伝言)1502年(50歳)5月3日、イザベッラ・デステからフランチェスコ・マラテスタに宛てて、レオナルドを訪ねてほしいとの手紙。5月12日、マラテスタからイザベッラへの返信(クリスタルの壺など4点のレオナルドの評価額)夏前〜年内いっぱい、[→北中部各地]チェザーレ・ボルジアと転戦7月30日、[ウルビーノの鳩舎]8月1日、[ペーザロの図書館]8月5日、「8月半ば、チェゼーナで、サンタ・マリアの日(8/5)に」8月8日、「リミニの噴水で見たように、水の落下を使ってハーモニーを作れ」8月10日、「チェゼーナ、サン・ロレンツォの市で」8月18日、チェザーレから通行許可書の交付、レオナルドの肩書きは「建築家および技師」9月6日、「15時(=午前9時)ポルト・チェゼナーティコ」と軍事用メモ。10月、マキャヴェッリ、フィレンツェからチェザーレ勢力下のイモラに派遣される。同地でレオナルドと親交を結ぶ。年末?、[→フィレンツェ]フィレンツェに戻ったか?1503年(51歳)、アンブロージョ・デ・プレディスとともに、『岩窟の聖母』の支払額再審査を求める。『ラ・ジョコンダ』に着手。3月5日、フィレンツェに戻っている。ヌオーヴァ病院の口座から50ドゥカティ出金。3月9日、ルイ12世、『岩窟の聖母』の調停をミラノ法務官に要請。4月18日、アッタヴァンテ・ディ・ガブリエッロに4ドゥカーティ貸した記録、サライに金を貸し、布を与えた記録(アランデル手稿)7月3日、オスマン・トルコのスルタン、バヤズィット2世に宛てて、自薦状を送付(ただし疑う説もある)7月22日、「マッダレーナの日(=7/22)になされたアルノ川の水位測定」9月7日、フィレンツェ、ピサを攻撃、マキャヴェッリとともに、レオナルドも参加か?10月、レオナルドがリザ・デル・ジョコンド(ゲラルディーニ)の肖像を描いているとアゴスティーノ・ヴェスプッチが記録。10月16日、〈アンギアーリの戦い〉のためのカルトン制作場所として、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の教皇広場が準備される。10月18日、フィレンツェの画家組合に再加入。10月24日、教皇広場の鍵の交付。12月16日、カルトン制作の足場を組むための木材が教皇広場に搬入される。この頃、116冊もの蔵書目録を記す。1504年(52歳)1月8日、再び、教皇広場で足場を組むための作業。5月4日、〈アンギアーリの戦い〉制作の正式な契約締結、4月からの支払い記録あり、5月14日、イザベラ・デステ、アンジェロ・デル・トヴァーリアを介してレオナルドに「12歳ぐらいの若いキリスト像」と依頼する書簡。5月27日、トヴァーリアからイザベッラへの返信、レオナルドが承諾したとのこと。6月29日〜7月8日、召使いトンマーゾとサライに対する家計用の出費などのリスト、ほぼ1週間分。7月9日、父:セル・ピエロ死去。水曜日7時。加えて「ポデスタ宮の公証人で、わが父、7時に、80歳で、 10人の息子と2人の娘を残す」(アランデル手稿)7月11日〜8月1日、召使いトンマーゾンとサライに対する家計用の出費などのリスト。8月3日〜9月16日、ドイツ人のヤコボが住み始めた記録と出費メモ(アランデル手稿)銀行から引き出した記録も。10月31日、イザベッラ、デステからレオナルドへ嘆きの手紙。11月1日、[ピオンビーノ]ピオンビーノにて、領主に説明したとのメモ、同日、太陽がつくる影についてのメモ。11月20日、「ビオンピーノの城壁」11月30日、円の面積の求め方を理解した、との記述。12月25日、クリスマスの朝に発明したとのメモ。1505年(53歳)頃、『レダと白鳥』の下絵を制作。3月5日、「3月3日土曜日、サンタ・マリア・ヌオーヴァから50ドゥカーティ出金、残り450,50をサライに返却」1503年とみる説、1507年とみる説などがある。(1505年も)いずれの年も3/5は土曜日ではない。3月14日、鳥が上昇する様子を観察したメモ。4月14日、「ロレンツォが私のところに来る、17歳」4月15日、受領記録。4月30日、〈アンギアーリの戦い〉のカルトンを壁面に転写しはじめる。6月6日、〈アンギアーリの戦い〉彩色開始、フィレンツェは豪雨にみまわれ、壁画は壊滅的な被害をうける。7月12日、「私レオナルド・ダ・ヴィンチによって始められる」(「幾何学の書」書き出し)1506年(54歳)4月27日、ミラノで『岩窟の聖母』の支払額の再審査と再契約締結(200リラの追加と2年の納品期限)4月30日、父:セル・ピエロの遺産分配が、レオナルド抜きでおこなわれる。5月3日、義理の叔父:アレッサンドロ・アマドーリ(レオナルドの継母の弟)から、イザベッラ・デステに宛てて、レオナルドに約束の絵を描かせるとの手紙。5月12日、イザベッラからアマドーリへの返書。この頃、フランスのミラノ総督シャルル・ダンボワーズからミラノへ招かれる。シャルル・ダンボワーズの要請により、ミラノで「オルフェオ」劇再演。5月30日、フィレンツェ政府から、ミラノへの3カ月の滞在を許可される。違反した時は150ドゥカーティの罰金との条件。6月1日、[→ミラノ]ミラノへ出発。この頃、ミラノで『岩窟の聖母』の第二ヴァージョン制作。8月18日、シャルル・ダンボワーズからフィレンツェ政府に対し、レオナルドの滞在延長を要請する文書。8月19日、再度、同様の文書。8月28日、フィレンツエ政府から返事、レオナルドのミラノ滞在を9月までとする。9月末、シャルル・ダンボワーズから、レオナルドの滞在再延長をフィレンツェ政府に要請。10月9日、フィレンツェ共和国長官ピエロ・ソデリーニからシャルル・ダンボワーズに対し、拒否の返書。12月16日、シャルル・ダンボワーズから、フィレンツェ政府に対し、再延長の許可に感謝する文書。1507年(55歳)1月12日、フィレンツェ大使:フランチェスコ・パンドルフィーニから、フランス王がミラノに到着するまで、レオナルドを留めるよう望んでいる旨の書簡。レオナルドの「一枚の小さな絵」について言及。1月14日、フランス王ルイ12世から、フィレンツェ政府への書簡。1月22日、フィレンツェ政府からレオナルドに対し、王を満足させるよう要請する書簡。7月5日、継母に宛てた手紙。剣や布などの贈り物のこと、レオナルド自身がまもなくフィレンツェに戻り、9月いっぱいいることなどを伝えた内容。7月26日以前、フランス王ルイ12世より、「我が国専任の画家兼技師」に任命される。7月26日、フロリモン・ロベルテからフィレンツェ政府に対し、レオナルドの叔父:フランチェスコの遺産相談をめぐる訴訟の決着を要請する書簡。8月15日、シャルル・ダンボワーズから、フィレンツェ政府に対し、遺産相続訴訟のためにレオナルドが一時フィレンツェに帰郷することを告げた書簡「王が望まれている一点の板絵」(サルバトール・ムンディか?)9月18日、レオナルドから、フェッラーラのイッポリート・デステに宛てた書簡(他人による清書)、遺産相続訴訟に関する助力をねがうもの。10月頃、フィレンツェに戻ったか?1508年(56歳)3月22日、フィレンツェのピエロ・ディ・ブラッチョ・マルテッリ家について、この日から、手稿の断片を集めて書にすることを宣言した、読者に向けてのことば(アランデル手稿)この頃、「閣下」「シャルル・ダンボワーズ」「メルツイ」に宛てた3通の手紙の草稿(訴訟がほぼ決着したことがわかる)7月頃、[→ミラノ]ミラノに戻り、オリエンターレ門の近くに工房をもうける。この頃、〈トルヴルツィオ騎馬像〉計画に着手。8月18日、『岩窟の聖母』第二ヴァージョンに関する文書。9月12日、「ミラノで始めた」→解剖学の記述へ10月、30スクーディ受け取り、うち13スクーディをサライの妹の嫁資としてサライに貸す。10月23日、『岩窟の聖母』への最終的な支払い記録。1509年(57歳)4月、1508年7月から、1509年4月までに王から受け取った給与のメモ、100スクーディ十100十70十50十20、それから200フラン(1フラン48ソルディの割合で、とも)4月30日、「5月1日の前夜、日曜日の22時に解を見出した」と幾何学の面積問題のメモ。5月3日、「ミラノのサン・クリストファノの運河、1509年5月3日に完成」1510年(58歳)9月26日、「アントニオ足を骨折、40日間の安静」(ボルトラッフィオのこと)この頃、マルカントニオ・デッラ・トッレと親交。冬より前、「1510年の冬には、この解剖を終えているはずだ」1511年(59歳)1月5日、[アルプス]アルプス旅行中1月5日、彫刻家:ベネデット親方(ベネデット・ブリオスコ?)が、サルッツオ近郊の採石場から、カッラーラの大理石によく似た石の破片を顔料用に送ってくれると約束した、と記す。12月16日、火災発生(二度目はスイス兵による)のメモ。1513年(61歳)1月9日、日付の記入。9月24日、メルツイやサライとともにミラノからローマへ出発。秋、ミラノからローマまでの荷物の輸送費に関するメモ。10月10日、旅の途中でフィレンツェに寄り、ヌオーヴァ病院で、300ドゥーカティを貯金。10月頃、[→ローマ着]ローマ入りか?12月、ローマのヴェルヴェデーレ宮にいる。12月1日、教皇庁付き建築家:ジュリアーノ・レーノによる「ヴェルヴェデーレ宮殿のリオナルド・ダ・ヴィンチ氏の 諸室に施すべきこと」のメモ。月額33ドゥーカティを得ている。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.08
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レオナルド・ダ・ヴィンチが中年の30歳〜40歳代には、ミラノで活躍しますレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Vierge aux rochers『岩窟の聖母』1483年〜1485年レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズ没レオナルド・ダ・ヴィンチ年譜=2 ミラノ時代(1483年〜1499年)1483年(31歳)4月6日、ラファエッロ生まれる。4月25日、デ・プレディス兄弟とともに、無原罪懐胎信心会より、サン・フランチェスコ・グランデ教会附属礼拝堂祭壇画の委託『岩窟の聖母』5月1日、同祭壇画のための最初の支払いをうける(100リラ)1485年(33歳)、『スフォルツァ騎馬像』の構想開始か?ラファエッロの父:ジョヴァンニ・サンティと詩人:ウゴリーノ・ヴェリーノがそれぞれレオナルドについて言及継母:マルゲリータ死亡。父:セル・ピエロ、ルクレッアと結婚。1487年(35歳)8月8日、モラの大聖堂ティブーリオの模型に対し、8リラの支払い。9月30日、同前、再度8リラの支払い。1488年(36歳)1月11日、同前、40リラの支払い。1489年(37歳)4月2日、日付記入。7月22日、ミラノの大使ピエロ・アラマンニから、イル・マニフィコ宛の書簡に、イル・モーロが(スフォルツァ騎馬像)をレオナルドに要請したとの記述。1490年(38歳)1月13日、ミラノ公ジャンガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとナポリ王の娘イザベッラ・ダラゴーナの祝婚行事として「パラディーゾ(天国の祝祭)」上演、レオナルドが総合演出を担当。4月23日、「1490年4月23日、この本を書き始める。馬を再開」5月10日、ミラノ大聖堂ティブーリオに関するあらたな依頼。6月、[パヴィア]フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニとともにパヴィアに行き、〈レジソーレ〉を視察。7月22日、サライが住み始める。当時10歳。7月23日、サライが住み始めて二日目に、4リラ財布からくすねた。7月24日、サライが住み始めて三日目に、2人前の食事を平らげる。9月7日、サライがマルコ・ドッジョーノの22ソルティ相当の銀筆を盗む。この頃、『白貂を抱く貴婦人』を制作か?アルジェロ・ポリツィアーノ台本による劇「オルフェ」を初演か?1491年(39歳)1月26日、騎馬槍試合の総合演出、その最中に、サライが他人の財布を盗む、2リラ4ソルディ4月2日、ボルトラッフィオの24ソルディ相当の銀筆をサライが盗む。5月12日、「制作中のブロンズの馬について記す」マントヴァで「オルフェオ」劇再演、弟子:アタランテ・ミリオロッティが主役をつとめる。実母:カテリーナとアカッタブリーガの子フランチェスコが戦死。同じ頃、アカッタブリーガも死亡。1492年(40歳)、ジュリアーノ・ダ・サンガッロに、騎馬像の鋳造への助言をあおぐ。7月10日、金銭メモ。1493年(41歳)1月1日、円が大きくなるとコンパスを使う必要があるのはなぜ、の記述に年紀。3月18日、「ドイツ人のジューリオ、私のところに来る」同紙葉に、他に2月末、9月27日、10月6日の記入あり、7月16日、「カテリーナ来る」11月1日、金銭メモと、それまでの数ヶ月の仕事の記録と期間11月30日、〈スフォツルァ騎馬像〉の粘土逆像模型、ピアンカ・マリーア・スフォルツァと神聖ローマ皇帝マクシミリアンの祝婚祭典で披露。12月20日、騎馬像鋳造の記述(横倒しにして鋳造することにした)1494年(42歳)、『最後の晩餐』の壁画を委託される。(ラ・ベル・フェロニエール)を制作か?1月29日、出費メモ、同紙葉に「壁の高さは何プラッチャか、125プラッチャ6」の記入(最後の晩餐に関する最初の記述)2月2日、スフォルツァ城での階段の設計メモ、2月〜3月、ヴィジェヴァノに滞在。3月14日、「ガレアッツォが来て私のところに住む」3月20日、「ヴィジェーヴァノの葡萄園」6月26日、ミラノの公文書に「フィレンツエのカテリーナ」なる女性が60歳で亡くなったとの記録。7月14日、「ガレアッツォから2ライン・フィオリーニを受け取る」9月15日、「ジューリオは、私の仕事場の鍵にとりかかる」11月17日、イル・モーロが、騎馬像のためのブロンズをフエッラーラに送る。カテリーナの埋葬に要した諸経費のリスト。1495年(43歳)、ミラノの公文書に、技師で画家としての名。パチョーリの「スンマ」を購入。1496年(44歳)1月2日、「明日1496年1月2日の朝、試しに革の紐を造らせよう」1月31日、バルダッサーレ・タッコーネ台本による「ダナエ」劇上演、レオナルドは総合演出を担当ミラノに来たルカ・パチョーリと交友。1497年(45歳)1月3日、月日のみ記入。4月4日、サライに服を買ったメモ。サライが4ソルディ盗む。9月18日、イオディッティが来て住み始めたことの記録。9月28日、「トルコのニオライオの子タデオは、サン・ミケーレの祝日の前日、1497年9月28日に9歳を迎えた」10月17日、買い物の記録。10月17日、ベネデットが来て住み始めたとの記録(おそらくこの年)12月7日、金額の記録。1498年(46歳)2月頃、『最後の晩餐』完成。2月8日、スフォルツァ城での「学芸の決闘」にパチョーリと参加。3月17日、鉄を延ばす力についての記述。4月10日、レオナルドが、「黒の間」の装飾を手掛けていることをミラノ財務官バスカペが記録。4月23日、レオナルドが「アッセの間」にとりかかることをバスカペが記録。4月26日、イザベッラ・デステから、チェチリア・ガレッラーニに宛てて、レオナルドが描いたチェチリーニの肖像画(=『白貂を抱く貴婦人』)を貸して欲しいのとの手紙。4月29日、チェチリアからイザベッラに返書。5月18日、イザベラから絵を返却したとのチェチリアへの手紙。1499年(47歳)4月1日、金額のメモ。4月26日、イル・モーロから、ミラノ郊外の葡萄園を与えられる。(1498年の説もあり)8月1日、「ここに運動と重さについて記す』12月14日、ミラノからフィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院への送金記録600フィオリーニ。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.07
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レオナルド・ダ・ヴィンチの誕生から青年期までを、もう一度振り返ってみましたパリ・ルーヴル美術館レオナルド・ダ・ヴィンチ年譜=11426年4月19日、父:セル・ピエロ誕生1451年、父:セル・ピエロ、フィレンツェのポデスタ館(現:バルジェッロ美術館)内に公証人事務所を開く。1452年(0歳)4月15日、[ヴィンチ]ヴィンチ村に生まれる。父は、公証人:セル・ピエロ、母は、カテリーナ。両親結婚せず、父方の祖父:アントニオ宅で育てられる。父は、アルピエーラと結婚。実母:カテリーナは、窯焼き職人:アカッタブリーガ(アントニオ・ブーティ)に嫁ぐ。1454年(2歳)、実母:カテリーナ、レオナルドの異父妹にあたる長女:ピエらを生む。1457年(5歳)2月27日、祖父:アントニオの税申告書に、レオナルド5歳の記述、家族構成がわかる。1459年(7歳)10月15日、アカッターブリーガによる税申告書に、妻:カテリーナ、長女:ビエラ5歳、マリア2歳の記述。1461年(9歳)、実母:カテリーナ、レオナルドの異父弟にあたる長男:フランチェスコを生む。1464年(12歳)8月1日、継母:アルビエーラ、出産がもとで死亡。1465年(13歳)、フィレンツェに移り、ヴェロッキオ工房に入る。父:セル・ピエロ、フランチェスカ・ディ・セル・シュリアーノ・ランフレディーニと結婚。1468年(16歳)、祖父:アントニオ死去。1469年(17歳)、父:セル・ピエロによる税申告書にレオナルド17歳の記述あり、父は、二番目の妻:フランチェスカと、フィレンツェのピアッツァ・ディ・サンタ・フィレンツェの向かいの家に住んでいる。1472年(20歳)6月、フィレンツェのサン・ルカ画家組合に親方として登録。この頃から『受胎告知』に着手か?また同時にヴェロッキオが『キリストの洗礼』に着手か?1473年(21歳)8月5日、『雪のサンタ・マリアの日』風景画に年紀[1473,8,5]1474年(22歳)、継母:フランチェスカ、おそらく産褥熱で死亡。1475年(23歳)3月6日、ミケランジェロ生まれる。父:セル・ピエロ、マルゲリータと結婚。レオナルドを中心に『キリストの洗礼』に着手。1476年(24歳)4月9日、ヤコボ・サルタレッリをめぐる男色行為で告発される。6月7日、サルタレッリ事件の再審、同文書に、レオナルドがヴェロッキオ工房にいるとの記述。12月26日、最初の義母弟アントニオが生まれる。1478年(26歳)1月10日、ヴェロッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の依頼。3月16日、同祭壇画の手付金として35フィオリーニの前払いを受ける。12月、「1478年12月、2点の聖母像にとりかかった」『ブノワの聖母』か?1479年(27歳)12月28日、パッツイ事件の逃亡犯ベルナルド・ディ・バンディーノ・バロンチェッリの処刑、レオナルドは、これをスケッチし特徴を記入。1480年(28歳)、父:セル・ピエロによる税申告書、レオナルドの名が無い。セル・ピエロはフィレンツェのギベッリーナ通りに事務所をかまえている。1481年(29歳)3月、『東方三博士(マギ)の礼拝』サン・ドナート・ア・スコペート修道院より注文。7月、同契約書締結。8月、サン・ドナート・ア・スコペート修道院、薪や丸太、小麦や葡萄酒をレオナルドに与える。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.06
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ルーヴル美術館所蔵の若いイケメンの洗礼者ヨハネは、全体がスフマート技法で描かれていますレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Jean-Baptiste『洗礼者ヨハネ』1513年〜1516年頃(若き洗礼者ヨハネ)くるみの板 油彩 69.0cmx57.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』1517年10月、デ・ベアティスが、フランスのレオナルドの工房を訪れた時、彼はそこでおそらく現在の『ラ・ジョコンダ』と思われるフィレンツェ婦人の肖像画と『聖アンナと聖母子』、そして、『若い洗礼者ヨハネ』(San Joane Bap.ca giouane)を見ている「マリアベキアーノ文書」の逸名記者(アノニモ・ガッディアーノ)も「聖ヨハネを描いた(dipinse anchora un San Giouannj)」と記しているので、イタリアでもこの絵の情報は流れていた。画面全体にスフマート技法が用いられており、強いぼかしによって、筋や骨の走りは、脇腹と首の付け根あたりに見られる程度で、『聖ヒエロニムス』に典型的な鋭角的な線と深い陰影で刻んでいた初期の表現からは大きく変化している。よって、レオナルドの個人様式の終盤に位置し、科学的な調査によっても、顔料層の厚みなどが『ラ・ジョコンダ』などとよく似ていることが確認されている。ただ、本作品は注文契約などの文書記録に欠けるので、彼の作品群の最終盤に位置する一枚という以外に断定することはできない。諸説あるうち、本作品をレオナルドがローマに滞在していた1513年〜1516年頃とするブラントの説が最も多くの指示を集めている。当時の教皇レオ10世が、洗礼者ヨハネの称揚をはかっていたことと、本作品の制作動機を結びつけるツォルナーらの意見に筆者も賛成である。実際に教皇はラファエッロ工房に命じて、『若き洗礼者ヨハネ』を描かせるなどしており、前述のデ・ベアティスが「若い」とわざわざ記す通り、レオナルドとラファエッロ工房の作品は、様式的には似ても似つかないが、若者としての洗礼者ヨハネ像を描いた点では、一致している。そしてこのことは、幼児期にイエスと戯れる図像を除けば、ヴェロッキオと共作した『キリストの洗礼』などに見られるような、イエスに洗礼を授けた先輩格として男性的に描かれることが一般的な洗礼者ヨハネとは大きく隔たっている。レオ10世の名は、ジョヴァンニ・デ・メディチ(イル・マニフィコの子)であり、洗礼者ヨハネが自らと同じ名をもつこと(ヨハネのイタリア語表記がジョヴァンニ)が、案外と教皇によるプロモーションの動機だったりする(そのような例は多い)。また、先に引用した「マリアベキアーノ文書」からわかるように、レオナルドの『洗礼者ヨハネ』は、イタリアにおいても知られているので、彼がフランスに行く前に描かれたと考えて良い。これらのことを合わせて考えると、本作品の制作年代は、ここに示した期間におのずと限定されてくる。作品はその後、フォンテーヌブローの宮殿に入り、1625年、ルイ13世によって、ティツィアーノ などの作品と引き換えに、イングランド王チャールズ1世のもとに送られた。1649年、王は処刑され本作品を含む彼のコレクションの一部は売却された。幾人かの所有者を経て、1661年、フランス王室のコレクションに戻り、今に至っている。それにしても・・・『洗礼者ヨハネ』は、実に奇妙な作品である。背景部分には、おそらく後世の加筆があるが、それまで彼がこだわっていた大気遠近法による風景表現が排除され、ここでは・・・闇のなかからミステリアスに浮かび上がる。暗い背景から、ぼうっとその姿を現す洗礼者ヨハネには、髭も無く、謎めいた微笑みをうかべながら、巻き毛の長髪をたらしたその顔を傾ける。体つきも丸みを帯び、十字架の杖と毛皮こそ洗礼者ヨハネのアトリビュートであるもののその姿は、中性的で妖艶であり、従来の定型表現からは大きく逸脱している。作品にしばしば自らの思想を組み込んできた彼のこと、これが最後に手掛けた、いわば遺作と呼びうる作品であるなら、この作品が謎めいたものになった理由があるはずだ。そしてそれは、彼が最終的に辿りついた思想に違いない。そして筆者の見るところ、おそらくこの図録には錬金術的な思想がその背景にある。もちろん、彼は永久機関などの検証によって、錬金術師たちを明確に否定している。しかし、彼が薫陶をうけたルネサンス・ネオ・プラトニズムには、錬金術と親和性のある思想が入り込んでおり、本作品にも、その発露を見ることができる。そしてそのことは、彼がフランスに根付かせたフォンテーヌブロー派の美術に影響を与えている。よって同派の図像を検討することで、レオナルドの本作品に組み込まれた思想の存在が逆説的に確かめられるのだ。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)ヨハネにぽち
2022.07.05
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ボルゲーゼのレダは、卵がひとつ子が二人ですが、科学調査により驚きの事実が・・・『レダと白鳥』LEONARDO copia da「Leda」Primo venticin uennio del sevolo XVITEMPERA SU TAVOLA CM 115x86『レダと白鳥』(ボルゲーゼのレダ)ローマ「ボルゲーゼ美術館」所蔵。ロブル男爵から受け継いで、パリのロツィエーレ公爵のコレクションにあった『スピリドン・レダ』は、1874年、未亡人からルドヴィゴ・スピリドンへと所有が移された。その後、1941年、ガロッテイ・スピリドン公爵夫人からゲーリングに売却され、大戦後の1948年、ロドルフォ・シヴィエロ大臣によって取り戻された。帰属問題は、諸説あって決着をみておらず、たとえばマラーニは、1505年、「アンギアーリの戦い」制作中に登場する「Fenando spagnolo(スペインのフェルナンド)」の可能性を提起している。他にメルツィの名も取り沙汰されてきた。制作年代は、ラファエッロによるスケッチとの関連性などから、ツォルナーや多くの研究者によって、1505年から1515年頃までの間に制作されたものと考えられている。本作品と非常によく似た作例に、『フィラデルフィアのレダ』と呼ばれる作品がある。レダと白鳥、卵と子供たちは、本作品をトレースしたかのように等しいのだが、背景の木々や風景部分は大きく異なっている。1730年以前の記録に欠ける『ペンブローク・レダ』は、はやくから「失われたレオナルドの原作の模写」として知られ、クラークによって1939年に「チェーザレ・ダ・セストの作で あることによってほぼ確実で、 彼が1507年から1510年の間に レオナルド工房で描いたものであろう」とされた。『スピリドン・レダ』と『ペンブローク・レダ』と同系統の他の作品に、『ヘイスティングス・レダ』、『腰巻のレダ』がある。いずれもレダと白鳥の形状は前二作品とほぼ同じだが、卵と子、背景部分は大きく異なる点に特徴がある。一方、『ボルゲーゼのレダ』は・・・1693年のボルゲーゼ家財産目録で最初に言及され、その時点でレオナルドに帰属されていた。19世紀になって、ソドマとバッキアッカ、ブジャルディーニ、メルツィらの名が作者として挙げられているが、様式的に、彼らと本作品を結びつけることには否定的な分析結果が出ている。ヴェッツォージによれば、様式的には、ミラノのレオナルド派ではなく、むしろトスカーナやローマ周辺に近いとしている。本作品が、他と異なる大きな特徴は、「卵がひとつ、子が二人」である点だが科学調査により、もともとは「卵がふたつ、子が四人」で、後世の加筆によって、現在の姿になったことが明らかにされている。前述したように、ルネサンス期に知られていた『ホメロス賛歌』の「ディオスクーロイ賛歌」ではレダの子が二人しか登場しない。また、ケレーニィによれば、ヘレネと兄弟たちが、ひとつの卵から生まれる異説もあるという。レオナルド派は、基本的に「卵が二つ、子が四人」なので、アポロドーロスによるレダ伝説の主流に基づいている。そのため、『ボルゲーゼのレダ』に加筆した(させた)者は、こうした異説に基づいた可能性があるだろう。伝統的にジャンピエトリーノに帰属される本作品は、彩色画のなかでは跪坐である点と、白鳥がいない点で異彩を放っている。本作品は、1749年にパリで「発見」され、1756年にヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム8世が購入した。その時点で卵とひとりの子が塗りつぶされた状態にあり、そのためレオナルドによる〈カリタス(慈愛)〉と誤った主題で1783年の目録に記録された(〈カリタス〉の擬人像は、一般的に 三人の子供を抱えた女性の姿で表されているため)。これをうけて、ゲーテも紀行文に同種題名で記している。1806年、ナポレオンのフランス軍によって、パリに運ばれ、1821年、パリで売却された後、1833年、ロンドンのクリスティーズで売り出される。この間、1835年以前のどこかで加筆が取り除かれ、本来の姿と主題が明らかになった。その後も複数のコレクションを渡った後、1962年、カッセルへと帰還。その後断続的におこなわれていた修復が、1984年、終了した。この過程でジャンピエロリーノに帰属され、ほぼすべての研究者によって支持されている。1984年から1989年にかけておこなわれた赤外線調査によって、下絵の下に、ルーヴル美術館所蔵のレオナルド『聖アンナと聖母子』の構図が発見された。スポルヴェロ転写法の跡らしき黒い点があることもわかっており、最初は『聖アンナと聖母子』の下絵用か?複写用の板であった可能性が高い。この点も、1508年にかけての時期を本作品の制作時期とする根拠となっている。以上見てきたとおり、『レダと白鳥』には、「跪坐」と「立位」の二タイプがある。そのうちレオナルド本人による「跪坐」のスケッチによれば、レダは左ひざを前に出し、右足をやや後ろに引いている。両手はやや広げ、左手だけを、白鳥を包み込むようにまわしている。頭の向きと傾きは一定ではない。いずれもレダの足もと、画面左前方に卵と、生まれたばかりの乳児が四人描かれている。『ジャンピエトリーノの彩色画』は、レオナルド派のなかでこのタイプに属する唯一の彩色画だが、右手で赤子を抱えており、また画面に白鳥がいない点で、レオナルドによる習作デッサンと大きく異なっている。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レダにぽち
2022.07.04
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美しい「レダと白鳥」は、レオナルド・ダ・ヴィンチの女性観を示す一例でありますLEONARDO copia daLedaPrimo venticin uennio del sevolo XVITEMPERA SU TAVOLA CM 115x86『レダと白鳥』(ボルゲーゼのレダ)ローマ「ボルゲーゼ美術館」所蔵。作者不詳の古代詩集「ホメロス(風)賛歌」における「ディオスクーロイ」では、レダが生んだ子として、ディオスクーロイのふたりしか登場しない。後述するように、レオナルド派による〈レダ〉の作品群には、レダのもとに卵がふたつあるものと、ひとしか描かれていないものがある。レオナルドが、レダを好んで採り上げた動機については、第一部で推測したが、彼の女性観を示す一例として興味深い。以下、関連作品を見ていくが、量も多く煩雑に過ぎることを避けるため、特にここで示す必要性の高いもの以外の類似作例は省いた。また、作品の来歴なども可能な限り注にまわすか省略した。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルド本人による〈レダ〉の彩色画は無いが、素描が幾つか残っている。全身像には大きく分けて、「跪坐」と「立位」とがある。〈キャッツワースのレダ〉と呼ばれる跪坐タイプの素描には、表面右下部に、17世紀か18世紀初頭頃と思われる「Leonardo da Vinci」との記入が、ペンとブラウン・インクでなされている。第二代ヴォンシャー公ウィリアム・キャヴェンディッツシュ(1729年没)が入手したものと思われ、その後、デヴォンシャー公家のコレクションとして代々伝えられた。もうひとつの代表的な跪坐タイプである通称〈ボイマンスのレダ〉にも、表面右下隅に17世紀か、18世紀初頭のものと思われる。「Rionardo da Vinci」の、ペンとブラウン・インクによる記入がある。ブリストルとロンドンにいたトーマス・ローレンス卿(1830年没)で、1941年にボイマンス美術館財団に寄贈された。〈アンギアーリの戦い〉のためと思われる馬のデッサンが描かれた紙葉に、二体のレダの全身像が描かれている。どちらも画枠が付いているので、彩色画を念頭にいれていたことがわかる。ただサイズがあまりに小さく、ためらいや描き直しの線があまりに多いので、下絵としても最終段階のものではなく、構想のかなり初期の段階のものと思われる。二点とも跪坐のタイプで、最大の特徴は、白鳥がいない点にある。そのためマルマンジェのように、レオナルドは最初、白鳥のいない〈レダと子〉を構想していたとする見方がある。ジャンピエトリーノ作とされる〈レダ〉は、ポーズも白鳥がいない点でも本素描と似ており、その直接的な関係性は明らかである。また、本紙葉に描かれた馬に酷似したモティーフが、〈アンギアーリの戦い〉での軍旗争奪場面に描かれているため、本素描も1504年頃の制作と考えて良いだろう。立体タイプのレダのスケッチのひとつは、小型の窓枠に差し込む形で紙葉が挿入されており、「30」の書き込みが上方にある。同紙葉の裏面にも、やはりよく似た立体タイプのレダのスケッチが描かれている。裏面には幾何学に関する書き込みがある。幾何学に没頭していた時期は、1504年〜1508年頃である。ここからぺドレッティは、本スケッチをレダ構想の最初期のものとみている。本素描と類似のものに、トリノ王立図書館所蔵の素描がある。そちらは頭部の向きだけが逆だが、同じ時期の試行錯誤の一例と思われる。ナンニらは、その制作年代を「1504年頃」としている。同様に、立体レダのスケッチと思われるものが、「アトランティコ手稿」にもある。レオナルドはレダのために女性頭部をスケッチしている。ここに示したのは、四つの視点から見た女性の頭部スケッチで、彼の関心は女性の表情よりも頭髪の編み方にある。その毛の長さと量から考えて、カツラと思われるが、あまりに緻密なため、実物を見て描いたものでないことは明らかである。ウィンザー紙葉にはこの他にも、類似の女性頭部スケッチがいくつかある。1879年にミラノ市のコレクションに「レオナルド派の作」として加わったデッサンは、帰属問題を常にかかえており、1890年には、モレッリによってソドマに帰属され、1921年には、アドルフォ・ヴェントゥーリによってレオナルド本人の作とされた。ぺドレッティやヴェッツォージは、ヴェントゥーリ説を支持し、(べドレッティは1510年〜1511年頃、 ヴェッツォージは1505年頃としている)、一方、マラーニやマリア・テレーザ・フィオリオらは、レオナルドによるオリジナル作からの模写と考えた。フィオリオは、本作品を1515年頃の作とし、作者としてジャンビエトリーノの可能性を挙げている。この他に、パルマ国立絵画館、フィラデルフィア美術館、ロンドンのホルフォード=メルチェット・コレクションなどに残る、一連の「乱れ髪の乙女」とも呼ぶべき女性頭部デッサン群が存在する。それらはいずれも頭の傾きと向ける方向、伏し目などの点で上記二素描と共通点が多い。これらのことから、ゴールドブラッドのようにそれらを『レダの白鳥』と結びつける研究者もいるが、より細い楕円の卵型のシルエットと、なにより渦巻き状の編み目ではなく風にたなびく乱れ髪である点など、違いも多い。筆者は、それらをむしろ「岩窟の聖母」のマリアとの結びつきで考えるのが妥当と考えている。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.03
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レダと白鳥のモティーフは、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品の中では、珍しくセクシーな女性として描かれていますレオナルド派(ソドマ派?)の画家ボルゲーゼのレダ(レダと白鳥)1515年〜1520年頃板にテンペラ 112.0cmx86.0cmローマ「ボルゲーゼ美術館』所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチの『レダと白鳥』の図像は、『糸巻きの聖母』などと同様に、確実にレオナルド本人によるものと断定できる彩色画が残っていないにもかかわらず、レオナルデスキによる作品や関連作は少ない。加えて、『岩窟の聖母』のように、レオナルド派以外の画派による同系統の類似図像がほとんど無く、結果的にレオナルデスキに特徴的な作品系統となっている。そのため、『レダと白鳥』は、レオナルドと工房の関係や、後期レオナルドの制作スタイル、そして、レオナルデスキ内部での様式伝播のあり方を探るための良いモデルケースとなる。これまでにも多くの論考が加えられてきたが、その伝播経路などに関しては諸説入り乱れいまだ一致をみていない。そのためここでは、やや詳しく扱い、同時代史料と先行研究を検討しながら最新の情報を加え、錯綜した状態にある伝播経路の推定をおこなう。レダの物語・・・とは?レダの物語は、ヘシオドスによる「神統記」には記述がないが、ホメロスによる「オデュッセイア」第11歌で詠われている。しかし、そこには白鳥との関わりもゼウスとの交合も一切ない。現存する古代テキストのうちレダと白鳥との関わりがはっきりと示された最も古いものは、ギリシャ三大悲劇作家のひとりで、紀元前5世紀後半に活躍したエウリビデスである。ゼウスが白鳥の姿となってわが母レーダーのもとに翔び来り、追いせまる鷲をかわしつつ、闇のたくらみをなしとげたとのこと、もしこの話がたしかなら。わたしはヘレネーと名づけられた。ーーエウリビデス、『ヘレネー』よりここでは、主人公へレネの母が、レダであること、そして、父親がスパルタ王テュンダレイオス、しかし実際には、白鳥に化けたゼウスが、レダを襲って産ませた子であることが明確に語られている。紀元前412年に上演されたと考えられているこの戯曲が、その後のレダと白鳥の基本的な関係性を決定づけたと言って良いだろう。その後、紀元1年から2世紀にかけて活躍したアポロドーロスの「神々について」は、古代ローマ世界に広く受け容れられ、ギリシャ・ローマ神話体系の基本形となった。そこでは、アレスの子テスティオスと、人間の娘エウリュテミスとの間にうまれた女性がレダであり、スパルタの王テュンダレオスに嫁いだとされる。この人妻に惚れたゼウスは、得意の変身能力で白鳥に姿を変えて近づき、思いを遂げる。同じ夜にレダは、夫テュンダレオスとも交わり、夫との間には、カストルとクリュタイムネストラを、ゼウスとの間には、へレネとポリュデウケス(ポルックス)の四人の子をもうけた。カストルとポルックスの男子2名は、長じて雄々しき偉丈夫に育ち、2人そろってディオスクーロイ(「ゼウスの子」の意)と呼ばれ、やがて天にあげられて双子座となる。女子2名は、トロイ戦争において主要な役割を果たす。周知のとおり、へレネは戦争のそもそもの発端となった女性であり、クリュタイムネストラは、夫である英雄アガメムノンを殺害する悪女として知られている。同時にアポロドーロスは、鷲に化けたネメシスと白鳥に化けたゼウスとの間にうまれた子をへレネとする異説も紹介している。神話学者ケレーニイは、白鳥=ネメシスのパターンを主とし、白鳥=ゼウスのパターンを異説として扱っている。しかし、レオナルド(とミケランジェロ)は、白鳥=ゼウスのパターンに基づいており、エウリピデスとアポロドーロスが、ルネサンス期における神話主題の主要なソースとなっていたことを証明している。エウリピデスの「へレネ」を伝える現存テキストとしては・・・オクシュリンコス出土の紀元前1世紀後半のパピルスなどがあるが、ルネサンス期における影響力を考えれば、中世期に制作された二点の写本が最も重要である。これらはいずれも、フィレンツェのラウレンツィアーナ図書館所蔵のもので、14世紀第14半期にテッサロニケの工房で制作されたことがわかっている。これらを底本とする二次制作写本(下位写本)が、14世紀末頃から制作され、パリやフィレンツェに現存するする。さらにそれらを底本として、ヴェネツィアのアルドゥス・マヌティウス書店から、二巻組のエウリピデスの戯曲が1503年2月に出版された。なお、へレネは、中世キリスト教世界においては、ひとびとを誘惑し社会を混乱に陥れた悪女として、なかば、ファム・ファタル的な異端的存在とみなされていた。1502年にドイツでヤーコブ・ロッヘルによって著された戯曲「パリスの審判」などは、そうしたヘレネ観に基づいた物語の典型である。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.02
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レオナルド・ダ・ヴィンチの『聖アンナと聖母子』についてフロイトの分析による母性についての構想パリ・ルーヴル美術館レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Anne,la Vierge etI'Enfant Jouant avec un agneau,dite La Sainte Annc.Vers 1508-1519 『聖アンナと聖母子』1502年〜1516年頃ポピラの板 油彩 168.5cmx130.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。〈ルーヴル彩色画〉『聖アンナと聖母子』の初期構想段階を示すものは、いくつか残っている。これらのスケッチは、(未完成ではあるが)最終形となったルーヴル彩色画に至る試行錯誤の過程をよく示している。聖アンナの膝の上にマリアが座る不自然な形は、はやくから出来上がっていた。しかし聖アンナの頭部の位置は、なかなか定まらず、右へ左へと揺れ動く。結局は、このスケッチで試された聖アンナのふたつの頭部の、中間の位置に配されることになった。一方、幼児イエスは、自らの受難の象徴となる子羊と遊んでいるのだが、当初はイエスと羊の距離が長く、マリアは、わが子を受難の運命から遠ざけようとしているようだ。しかし彩色画では、イエスと羊はより近づいて密接な関係となり、マリアは両腕を伸ばして、イエスを差し出すポーズが選択されている。それはあたかも母がこの運命を受け容れ、神の意志に委ねているかのように見える。ルーヴル彩色画は・・・レオナルド後半期に特有のスフマート技法によって、丹念に描かれており、そのため描かれた人体の丸みや表情の柔らかが一層強調されている。しかし同技法によほどに時間がかかったのだろうか?特に、マリアの衣装と背景の風景部分において、未完成さがも立つしかし、背景の山々や足元の岩場は・・・『岩窟の聖母』や、『ラ・ジョコンダ』に近く、その険しさによって幼児イエスに将来ふりかかる悲劇を暗示しているように思える。また、ルーヴル彩色画では採用されなかったが、〈バーリントン・ハウス・カルトン〉の聖アンナが、「天を指し示す手」をしている点は興味深い。ここでは素直に、イエスが生贄となるのは、神の意志によることを、マリアに教えていると読もう。しかしその手が、洗礼者ヨハネの顔のすぐ横に描かれていることで、いずれレオナルドの最後の作となる『洗礼者ヨハネ』に同カルトンでの構想の一部がそのまま繋がっているようだ。それにしても、マリアとアンナの、それぞれ我が子を見つめる眼差しの、なんと優しく柔和なことだろう〜。その背景に、幼児期に実母と離れて暮らしたレオナルド自身の境遇をみることは間違いではないだろう。母の愛へ飢餓感を始め、レオナルドは、これまでにも多くの精神分析の対象となってきた。それらの最初期のものである「フロイトによる分析」は有名だ。彼が手がかりとしたのは・・・レオナルドが語るところの幼年期の思い出である。レオナルドが、ゆりかごの中で寝ていると、一羽の鳶(とび)が飛んできて、尾を口の中に突っ込んできて、その尾で何度も口の中を打ったとの思い出話だ。これをフロイトは、レオナルドの同性愛的性向に結びつけ、その深層心理の母の記憶があると考えた。つまり、口の中にある鳶の尾は、母の乳房の思い出だと、精神分析学の父は考えたのだ。フロイトは絵画の中にこの深層心理が発露している可能性を考え、レオナルドが最後まで手放さなかった三枚のうちの一枚である『聖アンナと聖母子』にそれを見出した。フロイトはこの絵の中で、聖母マリアが着いている服に、翼を広げた鷹の姿を見出したと主張した。この説は議論を巻き起こし、手法自体の有効性についても論争が起こった。フロイトがしかし“鷹”だと考えた語は、“鳶”のドイツ語への誤訳から来ているので、この説自体が成り立たないことは、今ではすでに明らかである。また、口の中に尾を突っ込まれてかきまわされる白昼夢の思い出は、筆者にはマザー・コンプレクスの発露というよりも、もっと直接的に彼の同性愛的性向を映し出しているように思える。ただ、レオナルドの鳥に対する観察記録には、母と子の関係についての考察もかなりある。小鳥があまりに太ると鳶の親鳥は餌を与えないといった記述に加え、巣から奪われて他の母に育てられた雛たちが、大きくなってから実の母鳥のもとへ戻るといった話だ。そこには、彼の幼少期における実母との関係が無意識に影をおとしているのかもしれない。重い運命を背負ったわが子を見守る母マリアの眼は、かぎりなく優しい。そして娘マリアを見つめる母アンナの微笑みもまた然り。レオナルド絵画に頻出する「子を抱く優しき母」像は、ルネサンス期には珍しく官能性にかけるかわりに、かぎりない母性をたたえている。だからこそそれらは観る者の心に響くのだろう。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.07.01
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レオナルド・ダ・ヴィンチの聖アンナと聖母子と洗礼者ヨハネが描かれた元々の「バーリントン・ハウス・カルトン」について詳しく調べてみました『聖アンナと聖母子、洗礼者ヨハネ』[バーリントン・ハウス・カルトン]1500年〜1502年頃、紙(カンヴァスに表装)に木炭、白チョーク141.5cmx106.5cmロンドン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。カルトン[バーリントン・ハウス・カルトン]は、レオナルデスキのひとり:ベルナルディーノ・ルイーニが、所蔵していた。その長子:アウレリオのもとにあった本カルトンについては、ジャン・パオロ・ロマッツォによって記録されている。「聖アンナのカルトンは、 その後フランスに移っていたが、 今はミラノの画家:アウレリオ・ルイーノのところにある(Cartone della Santa Anna, che fu poi transferito in Fraancia, & hora si trova in Mirlano apperesso Aurelio Louino pittore)」ルイーニは、この下絵に基づき、聖ヨセフを右端につけ加えた以外は、カルトンに充実な彩色を残している。制作年代は、1530年頃と考えられる。このことからも、ルイーニが所持していたのは・・・[バーリントン・ハウス・カルトン]であるのは確実だ。ルイーニが、レオナルドの直接の弟子かどうかは議論の対象であるが、もし直接レオナルドから同カルトンを譲り受けたなら、レオナルドが、ローマに行く1513年以前のことだろう。もしくは、フランスから戻ってきた他の素描や手稿とともに、レオナルドの死後入手したかのどちらかである。ロマッツォは、執事には盲目ながらも、基本的にかつて実見したもの、あるいは実際に取材して得た情報を伝聞情報に加えて買いているので、[バーリントン・ハウス・カルトン]が、フランスにあったとの記述も信頼性は比較的高いものと考えてもよい。同カルトンは多くの手稿と同じように、その後ポンペオ・レオーニが手に入れ、ミラノのアルコナーティなどいくつかの所有者を経て、1779年に英国の王立美術館アカデミーに入った。本カルトンが[バーリントン・ハウス・カルトン]と呼ばれるのは、同アカデミーがロンドンのバーリントン・ハウスにあったためである。なお、本系統に属するレオナルデスキ作品群は、非常に多く、周辺の派生作品を合わせると100点ほどになる。そのためここではそれらのリストアップはできないが、レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Anne,la Vierge etI'Enfant Jouant avec un agneau,dite La Sainte Annc.Vers 1508-1519 『聖アンナと聖母子』ルーヴル美術館所蔵。[ルーヴル彩色画]それらのなかにルーヴルの彩色画と似た構図のものと、[バーリントン・ハウス・カルトン]に似た構図のものとがいずれも多く含まれる点では無視できない。つまり、それら両方とも(そして彩色画についてはその下絵となったカルトンも)レオナルデスキたちの目に触れる場所にあったことを意味する。また、1512年から1530年にかけて書かれたと考えられているアントニオ・ビッリの「覚書」にも、「聖母と聖アンナ(Nostra Donna et Santa Anna)」を描いた「デッサン(disegni)」で、「フランスに行ってしまった」と書かれている。この記述部分は、1525年〜1530年にかけて書かれたと思われる。そして、「デッサン」と記述されてはいるが・・・ひょっとして、ビッリが彩色画を誤って素描と書いた可能性もある。というのも、ヴァサリーにも言えることだが、ビッリは対象作品が、フランスに行ってしまった後で書いているので現物を目にしたのではなく、伝聞によって得た情報をもとに書いている。その点で、本作品に関して最も信頼性があるのはノヴェッラーラ神父の報告書簡ということになる。同様の記述は、『マリアベキアーノ文書』(アノニモ・ガッディアーノ)にもある。書かれたのは1537年〜1547年頃だが、「無数のすばらしいデッサンを いくつか描いており、 そのうち聖母と聖アンナ(を描いたもの)は、 フランスに行った・・・(Fese infinitj disegnj, cose marauigliose, et ingra li altrj una Nose Donna et una Santa Anna, ch'ando in Francia)」と書かれている。【カルトンと彩色画】さて、これまでの情報から・・・描かれた主要モティーフ部分だけを取り出して記述順に並べてみましょう。●《カルトン》聖アンナ、聖母、イエス、子羊: ノヴェッラーラ報告書(実見。1501年4月イタリアのフィレンツェ)●《彩色画》聖アンナ、聖母、イエス、?: デ・ベアテイスの記録(実見。1517年にフランス)●《カルトン》聖アンナ、聖母、?: ビッリの覚書(伝聞。1527年〜1530年、作品はフランスにある)●《カルトン》聖アンナ、聖母、?: マリアベキアーノ文書(伝門。1537年〜1547年、作品はフランスにある)●《カルトン》聖アンナ、聖母、イエス、子羊、洗礼者ヨハネ: ヴァサリー(伝聞。フィレンツェでの公開は1501年。 記述は、1540年代、作品はフランスにある)●《カルトン》聖アンナ、?: ロマッツォ(実見。フランス後の1530年までは イタリアのルイーニ邸に。記述は1570年代)そして現存二作品も同様に表すと以下のようになる。●《彩色画》聖アンナ、聖母、イエス、子羊●《カルトン》聖アンナ、聖母、イエス、洗礼者ヨハネ: 〈バーリントン・ハウス・カルトン〉ここから、以上のことが得られる。●ノヴェッラーラの記述が最も信頼性が高いことを考えると、 彼が見たカルトンは〈バーリントン・ハウス・カルトン〉ではない。●二枚のカルトンは、主題がよく似ているため、 同じ注文に対する準備段階で 順に描かれたものかもしれない。●ノヴェッラーラのカルトンは、 モティーフが一致している ルーヴ彩色画の下絵である可能性が高い。●ノヴェッラーラのカルトンは、 1501年の春に描かれている。●ルーヴル彩色画も〈バーリントン・ハウス・カルトン〉も、「子羊と洗礼者ヨハネのどちらか一方」なので、「その両方」とするヴァザーリの記述は疑ってかかる必要がある。●つまり、ヴァザーリが聞いた、 アヌンツィアータで公開されたカルトンは、 ノヴェッラーラのカルトンと〈バーリントン・ハウス・カルトン〉のどちらの可能性も否定できない。●ルーヴル彩色画は、 おそらくノヴェッラーラのカルトンに基づき、 1517年以前に描かれている。●〈バーリントン・ハウス・カルトン〉は、 フランス経由で1530年以前に ミラノのルイーニが入手している。●ヴァザーリ、ビッリ、アノニモのいずれのカルトンも フランスにあって、彼らは現物を見ていない。 また、レオナルドとともにフランスに行った ルーヴル彩色画ではあるが、 レオナルデスキに模写や派生作品が多いため、 ノヴェッラーラのカルトンも 多くのレオナルドデスキ の目に触れている。以上のことから、ヴァザーリが言及したカルトンを手掛かりに、次のA.B.ふたつのケースが考えられる。A.ヴァザーリが聞いた公開カルトンが ノヴェッラーラのカルトンである場合:●ノヴェッラーラのカルトン: 1501年に制作されて(ノヴェッラーラ)、 公開される(ヴァサリー)→この下絵に基づき ルーヴル彩色画が制作される→フランスへ→その後行方不明。●ルーヴル彩色画: ノヴェッラーラのカルトンに基づき制作→ レオナルドとともにフランスへ(デ・ベアティス)→ ルーヴルへ。●〈バーリントン・ハウス・カルトン〉は、 彩色画に採用されたのがノヴェッラーラのカルトンなので、 その前に制作されて不採用になったか、あるいは 上記二点とは別の注文のために準備された可能性もある: 1501年以前、あるいは後年に制作→ この下絵に基づき、工房でレオナルデスキによって 派生作品が多く制作される→ フランスへ→ルイーニが所蔵(ロマッツォ)→ロンドンへ。B.ヴァサリーが聞いたカルトンが〈バーリントン・ハウス・カルトン〉である場合:〈バーリントン・ハウス・カルトン〉: 1501年以前に制作されて、公開される→ その後、工房で派生作品が制作される→ フランスへ→ルイーニが所蔵→ロンドンへ。●ノヴェッラーラのカルトン:〈バーリントン・ハウス・カルトン〉公開後に制作されて、 これに基づきルーヴル彩色画が制作される→ その後行方不明。●ルーヴル彩色画: ノヴェッラーラのカルトンに基づき制作→ レオナルドとともにフランスへ→ルーヴルへ。現存に作品の制作年代については、非常に多くの説があり、ここでは割愛せざるをえないが・・・ルーヴル彩色画がおおよそ1502年〜1516年頃で一致をみているのに対し、〈バーリントン・ハウス・カルトン〉のそれは錯綜していて、1499年〜1550年頃、1501年〜1505年頃、1508年〜1509年頃の三つのおおよそ分けることができる。筆者はそのうち、フィリピーノ・リッピの〈音楽の寓意〉(1502年完成、フィレンツェ、 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会ストロッツィ礼拝堂)やミケランジェロの素描などが、〈バーリントン・ハウス・カルトン〉を着想源のひとつとするとのヴァッサーマンによる指摘が妥当と考えている。ミケランジェロ素描は、レオナルドの同カルトンにおけるマリアとイエスの顔の位置を忠実に模している。それらの位置関係は、ルーヴル彩色画におけるそれとは異なる。よって、諸説入り乱れる〈バーリントン・ハウス・カルトン〉の制作年代について、いまだ確定はできないものの、現時点では・・・「1502年頃」にはできていたものとしておきたい。ルーヴル彩色画の制作年代は・・・ A.B.いずれの場合も、1502年以降、フランスに持っていく1516年までの時期としてよい。一方、〈バーリントン・ハウス・カルトン〉の方は、A.の場合には、1500年〜1502年頃、B.の場合には、1500年頃となるので、どちらもカヴァーできる1500年〜1502年頃と現時点ではしておきたい。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズ(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)世界遺産にぽち
2022.06.30
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モナ・リザ、若い洗礼者ヨハネ、聖アンナと聖母子の3点は、レオナルドの最晩年まで手もとにあったのですその来歴を詳しく知りましょう・・・。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Anne,la Vierge etI'Enfant Jouant avec un agneau,dite La Sainte Annc.Vers 1508-1519 『聖アンナと聖母子』1502年〜1516年頃ポピラの板 油彩 168.5cmx130.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。聖アンナと聖マリア、そしてイエスという三世代の主題に、レオナルドは生涯で何度か取り組んでいる。同時代の証言のひとつは、まず、ヴァザーリの『美術家列線』のなかにある。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』レオナルドは・・・フィレンツェに戻ると、セルヴィ会の修道士たちが、フィリピーノ(・リッピのこと)にヌンツィアータ(サンティッシマ・アヌンツィアータ教会のこと)の主祭壇の板絵(tavola dell' altar maggiore della Nunziara)を注文していた。それについて、リオナルドは、似たようなものなら喜んでやっただろうと言った。そのためフィリッピーノは、高貴なお人柄にふさわしく自分から引き下がった。こうしてリオナルドが描くことになったので、修道士たちは彼に家を用意し、彼とその家族に必要なものを買い与えた。長い間そのようにしていたが、彼は全く始めようとしなかった(ne mai cominicio nulla)。彼はようやく一枚の聖母と聖アンナ、キリストがいるカルトンを描いた(un cartone dentrovi una Nostra Donna et una S,Anna,con un Cristo)。このカルトンは評判をよび、その部屋には二日ずっと見物客の列が絶えなかったと、ヴァザーリは書いている。彼は作品のディティールも描写している。聖母は膝の間でイエスを支えながら、「子羊を戯れる幼児の洗礼者ヨハネ(S,Giovanni piccol fanciullo, che si andava trastullando con un pecorino)」を優しげに見下ろす。そしてその後、同カルトンは、フランスに運ばれてしまった、と書く。一方、1501年4月3日、フラ・ピエトロ・ダ・ノヴェッラーラが、イザベッラ・デステに送った報告書にも、同主題の作品についての記述がある。すでにイザベッラの項(第1部第三章1節)で採り上げたので、ここでは作品のディテールの記述部分のみ再掲してみょう。(・・・)一歳ぐらいの幼児キリストが、子羊を一匹抱きしめて、母親の腕のなかから出ようとしています。母は聖アンナの膝のうえから立ち上がろうとするころで、受難を意味する子羊(生贄の動物)から我が子を離そうとしています。聖アンナはかすかに腰を浮かせ、娘が子羊から子を離そうとするのをとどめようとしているようです。(・・・)これらの人物たちは、等身大ながらやや小さめのカルトンにおさまっています。なぜなら、彼らはみな座ったり、重なりあったり、あるいは左手のほうへ傾いたりしているからです。この下絵は、まだ完成していません。さて同主題を描いたもので、現在レオナルドの真筆であることがわかっている彩色画とカルトンが、それぞれ1点ずつ残っている。マリアのドレスなどが未完成の箇所を残すルーヴル美術館所蔵の彩色板絵は、1517年、デ・ベアティスが、クルー城にレオナルドを訪ねた際に目にした三作品について、これまでにも議論されてきた来歴の謎を抱えている。それらは、『フィレンツェの婦人の肖像画』(『ラ・ジョコンダ』のことと思われる)と、『若い洗礼者ヨハネ』、そして、『聖アンナの膝に座った聖母子(Madona et del figliolo che stan posti in grembo di S.ta Anna)』である。フランスにあったこれら三作品が、そのままフランスに入ったのか?あるいは、サライ経由でフランス王に購入されたのか?と言った問題については後述するが、ともあれ、現在のルーヴル美術館におけるレオナルド・コレクションの中核をなすこれら三作品が、最晩年のレオナルドの手もとにあったことは確かである。作品はその後フランス王家の所有だったが、1540年以降行方が途絶え、1629年に枢機卿リシュリーが、イタリアのカザーレ・モンフェッラートで買い戻している。彼は作品を王家に寄贈したので、作品はそのままルーヴル美術館におさまっている。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)世界遺産にぽち
2022.06.29
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ジネヴラの肖像画は、後のモナ・リザに見られる四分の三正面で両手を組むポーズの予告編となっております〜あのスフマート法の準備段階ですねレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Ginevra de'Bnci(obrerse)oil on panel,c.1474/1478面面『ジネヴラ・デ・ベンチ』1474年頃ポプラの板に 油彩 大きさ=38.0cmx37.0cm厚さ=1.1cmワシントンDC「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズ上流階級の女性像で・・・当時まだ主流だった側面観ではなく、観る者と目が合う四分の三の三正面観を採用した点も新しい。この構図は・・・北方からもたらされたもので、アントネッロ・ダ・メッシーナなどを介して、油彩画とともに、イタリアで普及し始めていた新様式だった。裏面も同様に切断された下部が描かれていたはずだが、そこにはおそらく、ベンボの標章のように、月桂樹と棕櫚(しゅろ)の枝が交差し、さらにそれらを結んだリボンの端が装飾的な曲線で描かれていたことだろう。これらのことから、剥離による下部切断によって、もとの縦長画面の三分の一ほどが失われたと思われる。裏面には・・・月桂樹の葉の表面に筆跡が明瞭に残っているが、そのなかには、右利きと思しきカーヴがついた筆触が認められる。そのため、少なくとも裏面の一部は・・・レオナルド以外の手、それも制作時期から考えて、フィレンツェでレオナルドが開いた自らの工房にいただろう助手や弟子に部分的にまかされたことが推測される。ジネヴラの肖像画の赤外線写真によって、この板絵は・・・「スポルヴェロ法」によって、原寸大下絵から転写されたことが明らかとなった。最新の調査をおこなったウォムズレー学芸員によれば、目の下瞼の上端輪郭線などは絵具が薄いため、スポルヴェロ転写の際につけられた炭粉の黒い点が、表面からも見えるとの指摘がある。輪郭線の補正により、ジネヴラの顔は下絵よりも少し横に広げられている。こうしたペンティメントの存在は、この肖像画が疑いもなく、オリジナル作品であることを示している。(すでにある作品の模写であれば、ペンティメントはおこなわない)また、スポルヴェロの点により、瞼の内側の切れ込みは、より深く修正され、下瞼の上端の輪郭線は、より下方へ下げられたことがわかる。以上のことから、本作品の制作過程がおおよそ明らかになる画家の工房の一室で、ポーズを長時間とってもらえることができないジネヴラのような相手がモデルの場合、先方に出向いて短時間でスケッチし、工房に持ち帰ってカルトンを仕上げ、スポルヴェロ法によって板に下絵を転写する。レオナルドはその初期段階で、最初は師ヴェロッキオの彫刻に見られるような位置に両腕を配していたが、自らの考えによって、両手を胸の前で組むポーズに変更した。このポーズは、四分の三正面観とともに、『ラ・ジョコンダ』で結実し、そしてそこから、女性上半身の肖像画のスタンダードとなっていく。彩色にあたって、本作品では油彩が主に用いられ、若干のテンペラも併用されているようだ。であればまさにレオナルドの個人様式において、テンペラから完全に油彩画へ移行しつつある際の証明ともなる。さらに興味深いことは、絵の表面に指紋がはっきりと残っている点である。本作品の表面には・・・指紋らしき痕跡がいくつか認められるが、なかでもジネヴラの左頬のすぐ右横にある杜松(ねず)の葉と、後景の境目に残された指紋は、明確に視認できる。自然界に存在しないものは描かないとの実証主義的な信念により、輪郭線を描かずすべてをグラデージョンによって、描き出すためにレオナルドは、スフマート法を生み出し、晩年になればなるほど徹底するようになる。そこでは、なるべく線を用いずぼかし利用するために、レオナルドは指の先や手の平を多用するようになる。ジネヴラ肖像では・・・顎のラインや、瞼の稜線にはっきりと線が引かれているため、まだ完全なスフマート法ではない。しかし、指紋が複数見つかっていることで、本作品がまさにその導入期に属していることがわかる。レオナルドは、スポルヴェロ法によって板に転写された下絵をもとに、線と初歩的なスフマート法を併用している。そしてどこかの段階で、本人を前に絵と見比べ、頬のラインや、目の切れ込み具合などに若干の変更を加えたのだろう。つまりこの作品によって、なかば突然に、レオナルドの後の様式が、いつの間にかはっきりとその姿を見せはじめたのだ。表情のこわばり、血色の悪さ、明瞭な輪郭線といった相違点はあるが、四分の三正面観の構図、そして、おそらくは腕を胸の前で組んでいたポーズ、衣服の留め紐にさえ影をつける徹底した細部描写、光の映り込みや影をこまかく描き分けてつくり出された優れた立体感、丸みを帯びた身体のライン、金髪の一本一本でさえ色を変えて塗り分ける執拗さ、虹彩の模様や肌の下に透けて見える静脈まで描く解剖学的関心、後景に奥行きのある風景を配する点、そして画面を覆う不思議な静寂さ・・・。つまり本作品は、後の『ラ・ジョコンダ』モナ・リザで結実するレオナルド様式の予告編となっている。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.06.28
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レオナルド・ダ・ヴィンチのジネヴラの肖像画の裏面の文字の下に赤外線で見つかった文字が『ジネヴラ・デ・ベンチ』肖像画の裏面『ジネヴラ・デ・ベンチ』の肖像の裏面1474年〜1478年 板 油彩 38.0cmx37.0cm「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Ginevra de'Bnci(obrerse)oil on panel,c.1474/1478面面『ジネヴラ・デ・ベンチ』1474年頃ポプラの板に 油彩 大きさ=38.0cmx37.0cm厚さ=1.1cmワシントンDC「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。絵は誰が注文したのでしょうか?娘が結婚するにあたり・・・その実家が肖像画を注文することはよくあった。また、新妻を迎えた夫側が記念に制作するケースもある。であれば、本作品もジネヴラが結婚した1474年に、両家のどちらかが注文したと考えるのが一般的な解釈となる。その一方で本作品には・・・他の有力な注文主の可能性が挙げられ、多くの支持を集めてきた。それは、ヴェネツィアから大使として、フィレンツェに来ていたベルナルド・ベンボとするウォーカーの説である。ベンボは・・・1475年〜翌年にかけてと、1478年〜1480年までの間、フィレンツェに赴任していた。彼は、文化人としてフィレンツェ社交界に顔を出し、メディチ家関係の人物たちや、レオナルドとも親交を結んだ。メディチ家のサロンにも出入りしていた当時の詩人が歌っているように、ベンボとジネヴラには、それぞれ結婚相手がいたが、彼にとって彼女は、ちょうどダンテにとってのベアトリーチェのような一種のミューズ的存在として、精神的な愛を捧げる相手となったようだ。ここから、ベンボがヴェネツィアに帰還する際にこの肖像を注文し、携えて持って帰ったとするなら、本作品の制作時期は・・・1475年〜1576年、1578年〜1580年までのいずれかになる。このロマンチックな説はしかし、思いもよらむところから補強されるにいたった。1990年代後半になされた修復と調査の際、裏面の銘文の下に別の銘文が書かれていたことが赤外線撮影によって明らかとなった。そこには、やや拙い字で「VIRTV[SET]HONOR(徳と名誉)」と書かれていたことがわかっている。ベンボが、カステリアを旅行した際、彼を客として遇した人文主義者パオロ・マルソは、1477年にその時のことを本に著している。その書の扉絵には、月桂樹と棕櫚によるリースの形状も、銘文もまったく同じベンボの標章(インプレーザ)が掲載されていることがフレッチャーによって報告され、そこから制作時期を、ベンボの二度目の赴任時期である1478年〜1480年とした。もちろんなかには、依頼主をベンボでは無いとする見方もあるのだが、銘文との関係を考えても、筆者も注文主をベンボとするのが合理的と考える。加えて、後述するレオナルドの個人様式の移行段階から考えても、筆者も制作時期を1478年〜1480年とする説に与したい。ジネヴラ肖像の注文機会として、可能性が高いのは、先述したように彼女の婚姻時か、ベンボからの依頼となるのだが、後者であれば、ジネヴラの21〜23歳時にあたり、本作のモデルの年齢としてもより相応しいように思えるのだ。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)ジネヴラにぽち
2022.06.27
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ワシントンにあるレオナルドらしくない『ジネヴラ・デ・ベンチ』が彼の作品であるという意見を検証レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Ginevra de'Bnci(obrerse)oil on panel,c.1474/1478『ジネヴラ・デ・ベンチ』1474年頃ポプラの板に 油彩 大きさ=38.0cmx37.0cm厚さ=1.1cmワシントンDC「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)「(レオナルドは) ジネヴラ・ディ・アメリゴ・ベンチを、 彼女本人にしか見えないほどそっくりに描いた(Ritrasse la ginevra di ametigho benci, tanto bene finite,che ella propria non era altrimenti)」と、フィレンツェ商人アントニオ・ビッリが、「覚書」に残している。彼は、1517年前後に当該部分を記述したと思われ、よってレオナルドが、ジネヴラの肖像画を描いたことを示す最も古い記録となっている。その約20年ほど後には、アノニモ・ガッディアーノが・・・そしてさらに後には、ヴァサーリが、ビッリの文を書き写したかのようによく似た記述を残している。ジネヴラは・・・フィレンツェの大商人アメリゴ・デ・ベンチの娘として1457年9月に生まれた。同家は、メディチ家にも近く、番頭格のような地位にあった。ロレンツォ・デ・メディチをはじめ多くの同時代人が彼女に関する言説を残しており、メティチケ主催の文化サロンに置いておおいにその教養と社交性を発揮したと思われる。彼女は・・・1474年1月に、16歳で、商人ルイジ・ディ・ベルナルド・ディ・ラーポ・ニッコリーのもとに嫁いでいる。この作品が、『ジネヴラ肖像画』に該当するとされる理由は?主として裏面の描かれたエンブレムによるそこには、左に月桂樹が右には、棕櫚(しゅろ)が配され、ゆるやかなカーヴを描きながら、アーモンド形の空間をつくり出す。その中央には、杜松(ねず)の枝があるが、ここから、杜松(イタリア語でジネプロ)がジネヴラの名との語呂合わせとみなられてきた。この手の言葉遊びは当時の知識階級では一般的で、レオナルドもしばしば用いている。エンブレムの下方を横切るリボンには、「美は徳を飾る(VIRTUEM FORMA DECORAT)」とのモットーがラテン語で配されており、明らかに中央の杜松(ねず)を称揚する構図となっている。 正面の女性像の真後ろにもびっしりと杜松が描かれており、この女性をジネヴラとすることに問題はないと思われる。レオナルドが描いたジネヴラ肖像画が、この作品だとして・・・その後の行方はしばらくわからない。次にその所在が確かめられたのは、1733年のリヒテンシュタイン家のコレクションにおいてであり、その際の年紀と紋章が裏面右上に赤い蝋印として残っているその頃には、ルーカス・クラーナハの作品と(似ても似つかないが)誤解されていたが、1866年、ヴァーゲンによって「レオナルドか」と疑問符付きで提案がなされ、加えてボルトラッフィオの関与の可能性も挙げられた。それ以来、行きつ戻りつはあれど、本作品の作者をレオナルドとすることで、研究者間でほぼ一致をみている。本作品は・・・1967年に売りに出され、購入可能な唯一のレオナルド絵画とあって、話題をよんだ!!ワシントン州は・・・シンジケートを組み、市民全体の力を落札に成功した。本作品は・・・ヨーロッパ以外の所有となる初めてのレオナルド絵画となるため、移動にも細心の注意がはらわれ、担当修復家マリオ・モデスティーニが、飛行機の隣席に、本作品を坐らせて運んだと伝えられている。本作品は・・・厚さわずか1.1cmしかないポプラの板に描かれている。上端と左側面(裏面では右側面)に、絵具が塗布されていない余白があり、当時板絵制作にしばしば用いられていたスロット・タイプ(差込み型)の木枠に差し込んで描かれていたとと推測される。反対側の側面には、この余白がなく、また側面に絵具の塗り(筆を端まで塗った際に少し側面にも絵具がつくことでできる)が無いことから、切断されたと思われる。また、画面下部にも切断痕があり、裏面の中央最下部に三角形の顔料層の剥離が起きたためか?あるいは、薄い板の反りが激しくて剥離したのか?いずれにせよ本作品は、過去に明らかに下端を切断されている。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.06.26
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これまでの一般的な見方は【パリ版】が最初に制作され、裁判となって納品されず、【ロンドン版】があらたに制作されて、納品されたものとしているが、2つの岩窟の聖母の【来歴記録】を見てみましょうレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Vierge aux rochers『岩窟の聖母』(第一ヴァージョン)【パリ版】1483年〜1485年レオナルド・ダ・ヴィンチ主導、デ・プレディス兄弟と共作。板に油彩 カンヴァスに移行199.0cmx122.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。パリ版【来歴】フランス王家のコレクションで単に『聖母マリア』とだけ言及されていた作品は、1506年に『輝かしい聖母マリアと幼児イエス、洗礼者ヨハネ』と記録されている。同作品は1625年には、フォンテーヌブロー宮にあったことをカッシアーノ・ダル・ポッツォが記しており、その後18世紀には、作品はヴェルサイユへと移された。そして1800年頃にルーヴルに移った作品に対して、1806年には、板絵からカンヴァスへ絵具層を移行させる処置が施された。【ロンドン版】(第二ヴァージョン)1508年に制作完了か?レオナルド・ダ・ヴィンチ、アンブロージョ・デ・プレディス共作ポプラの板に油彩 189.5cmx120.0cmロンドン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ロンドン版【来歴】最終的に納品されていた作品が、ロンドン版だとすると・・・1506年以降、サン・フランチェスコ・グランデ教会附属礼拝堂に二枚の天使像とともにかけられていた。1781年と1798年の目録で、ついたてつ衝立付きの全体像をかなり把握できる。作品は、1781年に同信会の解釈をうけてオスペダーレ・ディ・サンタ・カテリーナ・デッラ・ルオータに移され、1785年には、イギリス人の画家ギャヴィン・ハミルトンによって、1582リラで購入されている。その年にロンドンで初展示されるも、翌1786年には、ランズダウン侯爵に売却され、その後サフォーク侯爵の手にわたる。そして1880年、作品は9000ポンドで購入されてナショナル・ギャラリーのコレクションに入った。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)模写を許され描かれたのは、ロンドン版なのでしょうか?第三ヴァージョンがあるという説も・・・レオナルドさん教えてください(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)世界遺産にぽち
2022.06.25
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レオナルドは『岩窟の聖母』の注文書と全く違う作品を描いてしまったのですが、絵はいつ完成したのでしょうか?そして長い裁判とは?全てが記録に残っているのでありますレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Vierge aux rochers『岩窟の聖母』(第一ヴァージョン)【パリ版】1483年〜1485年レオナルド・ダ・ヴィンチ主導、デ・プレディス兄弟と共作。カンヴァス(元は板)油彩198.0cmx123cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)よく知られているように【パリ版】『岩窟の聖母』は結果的に納品されませんでした。一つには月々の給金以外に・・・完成時に算出されるボーナスの額に関して、制作者側と同信会とで大きな隔たりがあった。給金の支払いは・・・20ヶ月かけて分割で支払われる予定であった。絵全体では、800リラ(=200ドッカーティ)になり、最初の100リラは、1483年5月1日に支払われている。そして、1483年7月以降に、毎月40リラが支払われることになっていた。1484年12月末までに、画家たちは730リラを受け取っており、当初の取り決めのほぼ全額を受け取った。このことから、つまりは『岩窟の聖母』の第一ヴァージョンは、この時までに完成していたとみてよい。しかし、作品は納品されることなく、20年にわたる裁判に突入する。完成時には・・・フラ・アゴスティーノ・フェッラーリと同信会の他の二人のメンバーが算出したボーナスも受け取ることになっていたが、(800リラの額ではなく)このボーナスの額の隔たりが裁判の原因となった。1491年には、エヴァンジェリスタが死去。そして、1493年のものと考えられている文書がある(1502年頃とみる説もある)。そこには、アンブロージョとレオナルドが、1483年に、25ドゥカーティと算定されたボーナスの増額を求め、圧力をかけてもらえるよう〜ルドヴィゴ・イル・モーロに嘆願している。受け取っていた800リラでは不充分であり、祭壇画制作で派生した費用を賄えるだけの額を要求している。彼らは、同信会に対し、すでに支払われていた25ドゥカーティのかわりに、100ドゥカーティ(400リラ)のボーナスを要求すること、二人の外部の専門家を招いて絵の価格を算定するよう要請したいと訴え、さらに他に100ドゥカーティで購入希望者がいることも示唆している。その後、1503年にも、上記の支払額修正を要求した文章と同じ内容の嘆願書が、アンブロージョ・デ・プレディスから出されている。レオナルドがすでにミラノにいなかったため、アンブロージョが書きてとなっているのだが、同書簡で問題となるのが、要求している金額を払う作品を返却せよと述べている点である。つまり、この時点で作品はすでに納品されていたことになる。当時ミラノの為政者は、すでにフランス王ルイ12世になっていた。王はさっそく同年3月9日付で、ミラノ法務官に通達している。それは、アンブロージョと同信会双方の言い分を調べて、合意事項に従って嘆願者に支払いをさせようというものである。その後も両者間でのやりとりがあって、1506年4月27日になってようやく、同信会との再契約が締結されている。不思議なことに、そこには作品がまだ未完成なため、2年のうちに完成させて納品せよ、とある。そしてレオナルド本人が、完成させなければならないとも規定している一方で、同信会側には、200リラを追加で払うよう命じている。この額は、レオナルドたちの要求と元の額との中間にあたる。これに基づき、レオナルドは、彼が着手し、アンブロージョが完成させた作品に最終的に仕上げの手を入れたのだろう。続いて、1508年8月18日に、アンブロージョは『岩窟の聖母』を祭壇から外す許可を得て、模写を制作することに同意している。これを第二ヴァージョンの制作の念押しとみるのが一般的だが、この記録をもとに第三の『岩窟の聖母』を探す研究者も多い。そして、1508年10月23日に、公証人:アンブロージョ・ガッフーリ作成による文書により、最終的な支払いがなされたことがわかっている。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.06.24
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パリ・ルーヴル美術館とロンドン・ナショナル・ギャラリーにほぼ同じ立派な大きさの作品がありますレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Vierge aux rochers『岩窟の聖母』1483年〜1485年カンヴァス(元は板)油彩198.0cmx123cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ・ヴィンチ村→フランス・アンボワーズ『岩窟の聖母』は・・・サイズから考えても、『最後の晩餐』とともにミラノ時代におけるレオナルド絵画の代表作になりえたはずだが・・・注文主との長年にわたる裁判の対象となってしまった。現在、パリの「ルーヴル美術館」とロンドンの「ナショナル・ギャラリー」に非常に完成度の高くほぼ同サイズの作品が、それぞれ残っていて、さらにレオナルドデスキによる多くの派生作品が存在する。【パリ版】『岩窟の聖母』(第一ヴァージョン)1483年〜1486年頃レオナルド・ダ・ヴィンチ主導、デ・プレディス兄弟と共作。板に油彩 カンヴァスに移行199.0cmx122.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。【ロンドン版】『岩窟の聖母』(第二ヴァージョン)1508年に制作完了か?レオナルド・ダ・ヴィンチ、アンブロブロージョ・デ・プレディス共作、ポプラ板に油彩 189.5cmx120.0cmロンドン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。注文主や依頼内容もわかっており、何が起こったかの事実関係を本来は、追いやすいケースのはず・・・だが、【パリ版】と【ロンドン版】のどちらが先に描かれた(第一ヴァージョン)なのか?という根本的な疑問を含めて、多くの問題が残されている。他の画家による同主題の作例が、そもそも少なく、無原罪懐胎に関する一般的な図像伝統から大きく逸脱しているため、その解釈にも諸説ある。これまでに非常に多くの論考が発表されており、現時点で最も妥当と思われる姿を示したいと思う。[契約と依頼内容]・・・とは?1483年4月25日付けの、公証人アントニオ・デ・カピターニが作成した絵画制作の受注契約が残っている。とても長い契約書で、レオナルドのミラノ滞在を示す最も早い日付ともなっている。注文は、ミラノの無原罪懐胎(インコラータ・コンチェツィオーネ)同信会で、サン・フランチェスコ・グランデ教会付属礼拝堂のための祭壇画を三人の芸術家に対して発注したものである。背景には・・・ミラノのフランチェスコ修道会がその頃マリアの無原罪懐胎説を積極的に支持していたことがある。[無原罪懐胎]とは・・・?(むげんざいかいたい)マリアが処女のままイエスを生んだいわゆる処女懐胎のことではなく、マリアの生誕からして神の意志によるもので、その子宮は、原罪から免れていたとする説である。新約聖書に採用された四つの正典福音書は、マリアの生誕時には触れておらず、外典である「ヤコブの原福音書」に書かれたエピソードに由来する。日本では・・・「原」と訳されているがこれは「プロト」のことであり、福音書の前のストーリー、つまりはマリア伝を扱っている。それでは、ヨアキムとアンナという信心深い老夫婦が、長年子宝に恵まれなかったため、神が願いをききいれてマリアを授けたとされる。マリアの誕生に神の意志が介在したとの点は、マリアに一種の聖性を認める根拠ともなりうる。細かい【契約書】全文・・・とは?『岩窟の聖母の契約書』 1483年4月25日「祭壇画の顔を除く人物像と画面全体に、 百単位三リラ10ソルドの純金からなる金箔を貼ること。 中央に描かれる聖母マリアは、 ラピスラズリの青に金のプロケードをつけること。 裏地(fodra)は、 緑色の油彩で、やはり金のプロケードを。 セラフィルム(織天使)たちには、 掻き取り仕上げ(スグラフィアート)を施し、 父なる神もラピスラズリに金のプロケードを。 天使たちの衣装は、油彩でギリシャ風に(gercha aolio、ビザンチン様式を意味する)。 山々や岩は油彩で さまざまな色を使って描きわけること。 方形画面(quadri)には、 それぞれ四天使を描き、 一方は歌い、もう一方は奏楽とすること。 (周囲の)場面に描かれる聖母は、 いずれも中央の聖母と同じ装飾を施し、 他の聖人たちは、さまざまな色を用いて ギリシャ風あるいは当世風にすること。 家屋(caxamenri)や山々はすべて油彩で描き、 彫刻の欠損部分は修正すること。・・・ 中央の板絵(la tavora de mezo、レオナルドの担当部分にあたる)には、 その表面に聖母と 子と天使たちを油彩で完璧に描き 二人の預言書を先述したとおり 美しい色で描くように。・・・」 この文面を見るかぎり、レオナルドが、この細かな指示に一切従う気がなかったことは明らかである。そこには・・・預言者や、家々もなければ、全面を覆うはずの金箔さえない。岩窟の荒々しい岩肌の中を舞台にし、頭上のニムブスさえ描かない。幼児イエスは・・・聖母から遠いところに座り、聖母は・・・むしろ洗礼者ヨハネへ腕をまわしている。イエスは・・・画面の中で低い位置に置かれ、ヨハネの保護者たる天使ウリエルに支えられている。レオナルドが考えた構図と描写は・・・伝統的な位置関係をことごとく無視している。よく知られているように、この絵画は結果的に納品されなかった(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:筑摩書房/池上英洋、レオナルド・ダ・ヴィンチ生涯と芸術のすべてより)レオナルドにぽち
2022.06.23
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レオナルド・ダ・ヴィンチが『岩窟の聖母』を依頼されたときの彼の構想・・・とはレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Vierge aux rochers『岩窟の聖母』1483年〜1485年カンヴァス(元は板)油彩198.0cmx123cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)ミラノの画家:プレディス兄弟の手びきで、1483年、無原罪懐胎教徒会から「聖母画」を依頼されたとき、レオナルドは・・・フィレンツェの頃から暖めていた彼の構想をそこに結晶させようと心に決めた。注文の方は、一群の天使と、二預言者(できればイザヤとダヴィデ)に囲まれた聖母像という指定であった。レオナルドはそこに『聖ヒエロムニス』像から、岩場の背景を『山王礼拝』東方三博士の礼拝から「二重人物」のイメージを総合しようと思っていたのである。『岩窟の聖母』を見ると・・・岩場の上に水気が感じられ、そこに「ベツレヘムの星」と呼ばれるユリの一種をはじめ植物がはえている。そこでは、青緑色の衣をまとった聖母マリアが、幼児キリストにヨハネを指差し、その役割をやさしく示している。背景は・・・巨大な岩窟。しかし空洞になっており、その穴の後方に尖った岩山が、水か霧の中から浮かび上がっている。右の方にも穴の彼方に尖った岩がつき出している。ミラノに来てから、彼の岩に対する認識が変わった。それは、フィレンツェ時代の作品に描かれる岩と、『岩窟の聖母』以後の岩場の描き方の相違にあきらかである。それは実際にアルプスの山を見たことにその原因があるかもしれない!?ミラノからアルプスまで間近である。彼はのちに、アルプスの渓谷の上空に起こった嵐の情景を赤チョークで描いているが、雄大な山脈との交わりを深めさせたに違いない。『この山(フランスをイタリアから分かつアルプスの高峰モンポーソ・・引用者)は、 非常に高く聳え立っていて、 ほとんどすべての雲を抜いてとおり、 めったに雪も降らない、 ただ雲がいつもより高くのぼる夏期に 雹がふるだけである。 ・・・実際私も、 そこの氷が7月のさなかというのに 非常に厚くなっているのを見たことがある。 ・・・』まず水の存在の大きさに気づいていたのである。『聖ヒエロニムス』の岩場は、南イタリア的な、乾いた岩によって描かれていた。これはいわゆる荒野の象徴として描かれていたからであるが、左上に霧の中の険しい山が描かれているといっても、まだ水分への意識が足りない。マンティーニャが、よく描く岩場の建築的な自然風景や、ベルリーニの『荒野の聖フランチェスコ (フリック・コレクション)の岩の後継とさほど違いがない。しかし、『岩窟の聖母』では、異なっている。《乾いた大地の生命液として 貢献するものは水である。 大地の底に侵入し、 たゆみない執心さで分岐する 水脈を通って流れ、 水分の必要に迫られている あらゆる部分に馳せ参じる。 大海の底から その大地の内臓たるへこんで 広々とした洞窟に流れこみ。 そこから分岐する水脈を通って 水の自然な流れと反対に 高い山々の頂上に遡り、 そしてその水脈の傷口から絶えず 噴出しては低地に戻ってくいく。》植物の繁茂に示される水の存在が、画面全体をみずみずしいものにしている。岩窟の彼方には、水が山をひたしている。彼は山の中の洞窟を見たことがあるのだろう。《私は、 やみがたい欲望にひかれて、 巧妙な自然の創り出した さまざまな奇妙の形を見ようと、 底深い岩の間をしばしめぐったのち、 ある大きな洞窟の入り口にやってきた。 しばらくの間、驚いて 茫然と立ちすくんでいたが、 やがて背を弓なりに折って、 左手を膝の上にしっかり立て、 右手でしわの寄った額にかざす。 そして洞窟の奥に何か見きわめようと あちらこちらにしゃがんで見たが、 真暗で何もわからなかった。 そこでしばらく立っていると、 私の心の中に 二つの相反する感情が湧いてきた。 恐怖と憧憬とが。 邪鬼せまる洞窟に対する恐怖と、 その奥に何か不思議なものがありはしないか、 という見たい気持ちとが。》これは山の中の体験を語ったものであろうが、自然に直接にふれ合うときの心のときめきがよくあらわされている。そこには頭の中の岩への思索でなく、見た不思議な岩窟への驚きがある。人間の存在自体とふかく関連しているという認識が岩窟の表現にまで感じられているのは、このような体験があったからに相違ない。人間に肉は大地であり、骨は山脈を構成している岩場の層なのである。そして血液が水の存在なのだ。したがってここに描かれる岩窟は、荒野の象徴としてではない。神々の生まれた場所としての岩石。ヤコブが石の上で眠ったように天と地が通じ合う所の岩石。あるいは、神の子宮の象徴としての穴のあいた岩石。こうした他の象徴としての岩が、みなここで感じられるのである。それは、他の画家のように伝統的象徴としての岩、乾いた荒野としての岩の存在にとらわれていないことによるのである。岩を荒野と思わぬ感情。自然を人間と対立するものではないと考える精神。それこそが、レオナルドの自然描写をして東洋の山水画に近いと感じせしめる原因でもある。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:講談社/田中英道、レオナルド・ダ・ヴィンチより)レオナルドにぽち
2022.06.22
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レオナルド・ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』の背景には、彼の深い知識が詰まっておりますレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Vierge aux rochers『岩窟の聖母』1483年〜1485年カンヴァス(元は板)油彩198.0cmx123cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。『岩窟の聖母』において柔和な、精神的な役割を宴している人物たちに背景を提供している薄暗い洞窟を抜けると、突然大気と光の世界が開ける。だが、それは歓呼と歓喜の世界ではなく、忘れ難い、幻のような世界であり、そこでは、眼は、荒野をむき出した断崖を溶かすよに見える濃い霞を何とかして(たとえ無理だとしても)見透そうとする。この異様な不毛の風景は、裸の岩を繁茂した自然の植物が装飾している。聖なる人びとの宿る世界と劇的な対照を示している。この対照を創造することによって、レオナルドはキリストの恵みの世界・・・敬虔さに満ちた場所にふさわしい設定・・・と、恵みのない世界、不吉な彼方の世界とを区別しようとしていたのだろうか?レオナルドにとって風景は・・・物語あるいは帰依の表現に脈絡をつけるだけの付属物ではなかった。それはまた、ただ単に視覚体験を精密に記録しうる彼の偉大な能力の自己顕示でもなかった。前景の花の形態がそうであるように、彼が遠景に与えた地質学的、経験的な精確さは、彼の科学的関心を直接反映したのである。それにもかかわらず、彼の手になる自然は・・・絵の情緒的内容と象徴的内容の範囲を同時に拡大しながらも、それ自身の権利をはっきり主張している。ジョルジョーネを筆頭に、ヴェネツィアの画家たちは、この新しい風景の観念を誰にもましてよく理解することになった。レオナルドと同国のフィレンツェ人たちは、まだ当分の間は、むしろ副次的な要素や説明的細部と見なし続けた。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)岩窟にぽち
2022.06.21
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レオナルド・ダ・ヴィンチ『岩窟の聖母』に描かれた小さな2人の子ども・・・とはレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Vierge aux rochers『岩窟の聖母』1483年〜1485年カンヴァス(元は板)油彩198.0cmx123cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。ルーヴルの『岩窟の聖母』のキリストと聖ヨハネには・・・美術史上における最も魅力に溢れた子供たちのうちの2人である。しかしながら、両者はレオナルドが、15世紀の彫刻に見ていた作例に依存している。彼らの丸味のある肉づきのよい形態は・・・ドナテッロ および ヴェロッキオが彫刻したブットーたちを直接受け継いでおり、他方彼らの甘美さ、精緻、迫真性は、アントニオ・ロッセリーノとデジデリオ・ダ・セッティニャーによって確立された、当時流行した芸術上の趣味に従っている。さらに細かく見れば、腫れた頬、口の形、そしてくぼみをつけられた顎は、ワシントンのナショナル・ギャラリーにあるデジデリオ作の『幼児の胸像』デジテリオ・ダ・セッティニャーノ『幼児の胸像』1460年頃 大理石 高さ26cm『幼児の胸像』のような作例に近い。この点に関してレオナルドは、他の作品の中に見たものを彼自身の独特の構想へ移しかえる無比の能力をもっていることを実証している。この子供たちは・・・美しいとはいえ、あれほどの大画家の作だというのに、またあれほど徹底して彼の作品に自然の経験的観察の基礎を与えているというのに、と、首をかしげさせるような解剖学的不均合いをもっている。とりわけ気がかりなのは・・・グロテスクと思われるほどに不均合いに大きい足である。自ら語っているように、レオナルドが、「足は人間の頭部全体と同じ長さである」という人体比例論に全く忠実であったとすれば、この例外はいかに説明されるのか。彼の素描の何点かに図解されたこの公式は、成人の描写には適正であるが、子供の場合には正しくない。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)キリストにぽち
2022.06.20
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ルーヴル美術館『岩窟の聖母』の右側の美しい「天使」について興味を深めてまいりましょうレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Vierge aux rochers『岩窟の聖母』1483年〜1485年カンヴァス(元は板)油彩198.0cmx123cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。ルーヴルの『岩窟の聖母』の聖母に見出せる清新さと魅力の特性は、同じ絵のこの右の天使の頭首にもはっきりと認められる潑刺さが賦与されており、若さの率直な直接さをもって観者の方を見ている。この天使は・・・まず観者の注意を惹こうと努め、次にその注意を自分の人差し指によって中心に・・・とりわけ幼い聖ヨハネの方に・・・導こうと努めているもしこの絵がフィレンツェで計画され、着手されたということが本当だとすれば、フィレンツェ人たちの何人かが、彼らの市の守護聖者としての重要性から聖ヨハネに焦点が当てられていることを口にしたであろう。この絵と、これ以前の『山王礼拝』東方三博士の礼拝で、画面に「注釈者」が導入されているが、これは、1435年の『絵画論』で、レオン・バッティスタ・アルベルティが、明確に言葉にした15世紀の伝統、とりわけトスカーナの伝統に従っている。すなわち「叙事詩的な絵画では、 私は、そこで起こっていることに 我々の注意を促し、 指示する者が見出せるのを好む。」とはいえ、レオナルドはこの注釈者の役割を、フィレンツェ美術の中でごく普通にそれを演じていた大人の『聖ヨハネ』から、『山王礼拝』の飾り物的存在へ移し、そしてこの絵の天使に移したのである。この天使は・・・幼い聖ヨハネをわれわれに指し示すことに加えて、ほかの目的にも役立っている。すなわちそれはまた、幼児キリストの頭上に冠せられ、広げられた聖母の短縮表現の手が生み出す間隔を埋め、垂直なアクセントを明確にしているのである。このことは、キリストが、この構図の中で占める副次的な位置のために危うく失いそうになっている主役としての重要さを確立し直すのに役立っている。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)天使にぽち
2022.06.19
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『岩窟の聖母』この聖母の表情は、初期作品から比べると人間的な優しさが増していますレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Vierge aux rochers『岩窟の聖母』1483年〜1485年カンヴァス(元は板)油彩198.0cmx123cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルドの現存する最初の彩色された作例『ブノワの聖母』で始まる彼の女性の頭首の表象の着実な前進は、『岩窟の聖母』の聖母の頭首において、継続されている。しかし、この2作品の途中で、一つの決定的な変化が起こった。つまり『山王礼拝』においては、『ブノワの聖母』の中で表現された甘美な、乙女のような喜びが内省的な厳粛にとって代わった。『岩窟の聖母』では・・・それが霊妙さにまで発展しており、精神的および信仰的特質がいかにして人間的な優しさの感情と混ぜあわされるかということへのレオナルドの関心の深まりを如実に立証している。その上、聖母の頭首の形とプロポーションに変更が見られる。初期の絵における丸い短いプロポーションは・・・誇張的に様式化された輪郭線によって強調されていた。『岩窟の聖母』においては・・・その輪郭が秩序正しくされ、長くされ、顔により一層自然な、統一的な外観を与えている。だが、膨らみと傾きをもつ眼に見られるように、首尾一貫しないところもまだ残ってはいる。『岩窟の聖母』は、レオナルドの新しい光の処理の出発点である『ブノワの聖母』でわかるように、以前は、光は暗示によってのみ存在し、影がないだけの、それが照らすもろもろの形態から切り離しえない存在であった。これに対して、『岩窟の聖母』のこの図版部分では、光が自然の独立した可動的な一部として存在している。さらにまた、それは大気を一杯含んでいるので、表面を和らげながらレオナルドの前作の鋭い線描性を彩描された諸形態と絵具の混合を被う感光膜のように静めており、その表面は、光と影の精妙な把握と段階的変化を通じて、柔らかい震動が賦与されている。このように把握された・・・静かな、流動的な、微妙な・・・光は、聖母の顔が伝えるヴェールのかかった優しい情緒とそれが呼応して、完全な表現を達成させる特質をもっている。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)ルーヴルにぽち
2022.06.18
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レオナルド・ダ・ヴィンチは、たまたま彼の関心を惹く奇怪な人物に出会うと1日中その跡を追って特徴を記憶して家に帰ってから素描にしていましたレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519San Girolamo nel Deserto『聖ヒエロニムス』1482年頃(荒野のヒエロニムス)板 半成状態 103.0cmx75.0cmローマ・ヴァチカン市国「ヴァチカン美術館』所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』レオナルドが『洗礼』の天使で捉えようとした宗教的恍惚の要素は、『聖ヒエロニムス』において、極度に深まり、烈しくなった。これら二つの頭首の制作を隔てる10年間に、この変化をもたらす多大なことが起こっていた。まず第1に・・・われわれは今や30歳になったレオナルドが、人間として成熟し、大家の地位を得ていたという事実を看過すべきではない。彼はすでに、16世紀後半における芸術的動向の一部をなす肉体的、精神的、情緒的緊張を強調した堂々たる『山王礼拝』を着装していた。さらにレオナルドは・・・人間の解剖学的研究をも始めていた。これには必然的に死体を解剖しなければならなかったが、彼はその技術をおそらくボライウォーロから学んでいた。『聖ヒエロニムス』は明らかに、頭蓋骨や肉の下の軟骨および筋に重点をおいた彼の有名な解剖素描に関連づけルことができる。San Girolamo nel Desertoレオナルドがこの作品を創造したときまでに、彼は疑いなく、ヴァサーリが次のようになかなかうまく記述しているグロテスクな人間の頭部への関心をすでに展開していた。「彼は奇怪な頭首を見ると、 それが髭を生やしていようと 普通の人間の髪をしてようと、 非常に強く惹きつけられるのが常だった。 そしてたまたま 彼の関心を惹く人物に出会うと、 彼は一日中その跡を追うのだった。 そして彼はその人物の特徴を 自分の心の中に しっかりと刻みつけてしまうので、 家に帰ったとき、 彼はあたかも その人物を前にしているかのように それを描き出した。」こうして多くの素描が生まれ、そのうちの何点かは、歯のない点や異常な顔つきの点で、聖ヒエロニムスの頭首とも、またそれとはほぼ同年代の『山王礼拝』のいくつかの頭首とも似ている。(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)ジローラモにぽち
2022.06.16
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ヴァチカン美術館で出会ったレオナルド・ダ・ヴィンチ作『聖ヒエロムニス』・・・とはレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519San Girolamo nel Deserto『聖ヒエロニムス』1482年頃(荒野のヒエロニムス)板 半成状態 103.0cmx75.0cmローマ・ヴァチカン市国「ヴァチカン美術館』所蔵。『聖ヒエロニムス』に関する記録や、古文献言及は何も残っていない。それにもかかわらず・・・この絵はレオナルドの真筆であることを疑われたことはいまだかつてない。この絵の存在の最も早い確証は・・・視覚的なものであり、すなわち、レオナルドの周辺にいた美術家の手になる1500年頃のローマの木版画とスペインの画家:フランシスコ・デ・スルバランの手になる17世紀の絵がそれであり、両者とも、レオナルドの聖者の跪くポーズを模倣している。「ヴァチカン美術館」内、絵画のプレートわれわれはさらに、『聖ヒエロニムス』が、一時ヴァティカン美術館にあったこと、そしてそれが18世紀にスイスの芸術家:アンジェリカ・カウフマンの手に入ったことを知っている。彼女が手放したあと、それは二つに切断され、それぞれにひどい損傷を受けた。それには次のような伝説がある。ナポレオンの叔父であるヨセフ・フェッシュ枢機卿がそれぞれ別の機会に「奇跡的に」両方の部分を、すなわち一方を古物商の店で、他方を靴直しの店で見つけ出し、その後この絵は継ぎ合わされ修復されたという。のちに教皇ピウス9世(1846-1878)は、それを同枢機卿の相続人から購入し、再びそれをヴァティカン美術館に戻した。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』『聖ヒエロニムス』の正確な年代づけは困難である。この絵の歴史がその目的に使われるには、あまりにもむらがありすぎるからというわけだけではなく、この絵そのものがほとんど保存のよくない素描といったものでしかなく、主要な形態(聖者、ライオン、風景)と大づかみに配分された光と影の区分しか定着されていないからでもある。それにもかかわらず、伝統的にそれに対して指定される1480-1483年前後という年代は、この絵の風景とルーヴルの『岩窟の聖母』のそれとの類似性から見て、またこの絵の聖者が表出する強烈な感情と『山王礼拝』の群衆のそれとの共通性から見て、十分に妥当であるように思われる。われわれがこの絵に見るような聖ヒエロニムスの図像学的な処理は、1480年に現われたらしく、アントニオおよびピエロ・ポライウォーロのサークルの中にも見出される。以前の描写は、この聖者が立っているか、もっとよく見かけるのは完全に衣類を纏って座り、書斎で沈思している姿を示している。十字架に架けられたキリストの幻影の前に跪く半裸の苦行像というレオナルドの表現は、その後数世紀にわたって規範的描写となった。・・・つづく・・・(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)聖者にぽち
2022.06.15
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ワシントン・ナショナル・ギャラリーに展示されたこの肖像画は、裏側に回って見ると彼女の秘密がレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Ginevra de'Bnci(obrerse)oil on panel,c.1474/1478『ジネヴラ・デ・ベンチ』1474年頃板 油彩 38.0cmx37.0cmワシントンDC「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』ジョルジュ・ヴァザーリは・・・16世紀初期の伝統について詳述しながら、レオナルドが、友人:アメリゴ・ディ・ジョヴァンニ・ペンチの娘ジネヴラ・デ・ベンチの肖像を描いたと語っている。この肖像は・・・広く、ワシントンにある若い婦人のそれであろうと推測されている。しかしながら、ワシントンの肖像画をレオナルドの作品とすることを疑問視している学者もあり、それも根拠のないことではない。たとえば、まとまりを欠いた顔の解剖学的構造が、レオナルドの手になるものとは考えにくい。それにまた、顔を枠づける髪の左右相称性と眼、鼻、口の整え方の規則正しさは、あまりにもわざとらしく、またそれはこの頭部を画面上に平面的パターンとして固定し、量感が奥行きに向かって、連続的に展開するのを妨げている。これはレオナルドの手法の特質性に全くそぐわないし、金髪の処理にしても同じことが言える。すなわちそれは、生硬で線的であり、あまりにも鋭すぎるように思える光によって照らされている。それにもかかわらず、この絵は・・・かなりの美と、不機嫌で陰気な倦怠として記述される心理的な力をもっている。この際立つ個性表現の強調は、頭部の全体的な形状や、モデルのポーズと相俟って『モナ・リザ』を予告しており、それがこの肖像を、少なくとも部分的には、レオナルドの手になるものと強く主張させる根拠となっている。『ジネヴラ・デ・ベンチ』の肖像の裏面1474年 板 油彩 38.0cmx37.0cm「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。ワシントンの肖像画の確認は、背景をなす杜松(ねず)の樹と、この絵の裏面に描かれた紋章の杜松の枝とに基づいている。それらは、描かれている女性が、ジネヴラ(イタリア語のgineproは「杜松の樹」を意味する)という名であることを示唆している。しかしながら、彼女が、ジネヴラ・デ・ベンチ当人であるとするには、さらに証拠が必要である。それは、杜松の樹の枝を囲み、またラテン語のモットーVirtutem Forma Decorat「美は徳の装飾である」を担った、月桂樹と棕梠(しゅろ)の葉の花飾りで成り立った裏面の紋章をわれわれが解読したときに手に入るだろう。ジネヴラ・デ・ベンチの生涯・・・とは?驚くほどよく記録に残されている。彼女は1474年に17歳で、ルイジ・ベルナルディ・ディ・ラーポ・ニコリーにと結婚。その後の歳月は、彼女にとって幸福なものではなかった。2人が結婚して間もなく、彼女の夫は深刻な財政困難に陥り、1480年には、ジネヴラは、長年健康状態がすぐれないと報告されている。彼女は、フィレンツェ駐在ヴェネツィア大使であり、また人文主義者:カルディナル・ピエトロ・ベンポの父であったベルナルド・ベンボとの不倫な関係に身をおいていたらしい?彼女は後年、子供を残さずに死んだ。もしワシントンの肖像画の女性が、実際にジネヴラ・デ・ベンチであるとすれば、彼女の青白い顔色と、その不安を抱かせる表情は、彼女の生活を傷つけていた病気と心配を反映していると信じてよさそうである。(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)ベンチにぽち
2022.06.14
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ブノワの聖母のなんと〜初々しい愛嬌のある表情なのでしょうね〜このお顔と髪型について特化レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Madonna Benois『ブノワの聖母』1478年頃カンヴァス(元は板) 油彩49.5cmx31cmサンクトペレルブルク「エルミタージュ美術館』所蔵。レオナルドの『ブノワの聖母』における聖母の頭首は・・・彼がヴェロッキオの『洗礼』に描いた天使のそれに関連づけることができる。両方とも豊かな丸みのある形をしており、また強く突き出た顎をもっている。聖母の編んだ髪は・・・ヴェロッキオの直接的な模倣の中で構想されており、レオナルドが師のレバートリーから採用したモティーフである。ヴァザリーは、ヴェロッキオが女性の頭部の素描を描き、それらが「非常に美しく、また非常に魅力的な髪をもっていたので、レオナルドはそれらを丹念に模写した」と報告している。ケネス・クラークは、ヴェロッキオが入念に編まれた髪を模写することに特別の喜びを感じていたと指摘している。しかしながら、この髪型のスタイルは・・・レオナルドが彼の絵の中に共通して使ったものではなかったし、彼がずっと後になってから、現存しない『レダと白鳥』で再び取り上げるまでは、彼の作品の中に再び見ることができない。『ブノワの聖母』以来、レオナルドは自分の若い様式とヴェロッキオの実例か離脱し始めた。何が新しいかといえば・・・聖母の初々しい愛嬌のある表情(これは彼が1世代前の魅力的なフィレンツェの 彫刻家:デジデリオ・ダ・セッティニャーノ への関心を強めていたことを示している)と彼女の顔の竪琴状の輪郭線である。後者は・・・明らかに彼自身の発明であって、顔の自然な構造に順応した上でのリズミカルで装飾的な優美の一典型を確立している。この頭部は・・・今や、より一層堅固になり、『洗礼』の天使のそれと較べるとはるかに複雑化している。それは『聖告』受胎告知のヴェロッキオ風の聖母の頭部とは全く違うし、時折この初期の時代のレオナルドに帰属されている何点かの絵の中に見出せる頭部のいずれとも全く異なっている。したがって、『ブノワの聖母』は、『山王礼拝』の聖母とルーヴルの『岩窟の聖母』の天使を予告する過渡的な作品であって、この新しい顔の表象はやがてこれらの作品において大いに鈍化されることになる。『ブノワの聖母』木枠部分。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)聖母子にぽち
2022.06.13
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『ブノワの聖母』は、フランシュ禁止のエルミタージュ美術館の展示室で撮影しておりますとってもダーク。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Madonna Benois『ブノワの聖母』1478年頃カンヴァス(元は板) 油彩49.5cmx31cmサンクトペレルブルク「エルミタージュ美術館』所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』1478年、レオナルドは2枚の聖母画に着手した。(“inchominciai le 2 Vergine Marie")と記録している。『ブノワの聖母』がそのうちの1枚であった可能性は極めて大きい。1909年、エルスト・デ・リップハルトは、それをレオナルドの作品の中に含めた。ほどなく、これはいくつかの懐疑論に遭遇したが、明らかにこの絵のために企てられたレオナルド自身の素描が残っていて、今日ではこの絵の作者に関する疑いは一掃されている。この絵は数世紀にわたってまずまずのよい待遇を受けてきた。この絵が洗浄を必要とする状態にあること、またそれが板から、カンヴァスに移されたとき損傷を蒙って、着衣、聖母の口や首や手のあたり、背景において、若干の加筆が必要とされたのは事実である。だが、それにもかかわらず『ブノワの聖母』は、依然として原作の新鮮さと魅力を少なからず保持している。聖母・・・若く、微笑し、溌溂としている・・・は、長椅子に腰掛けている。一方が伸ばされ他方が引き戻されている彼女の両足は、裸のずんぐりした幼児キリストが座っているクッションを支えている。この情景は・・・その人間的で陽気な性質にもかかわらず、後光とキリストの真面目な顔つきによって、儀式的な、慎しみ深い宗教的水準にまで高められている。場面は・・・それを通して光が差し込み、右側の背景を照らしている一つの小さな窓が活気を与えているだけの、簡素でかなりくすんだ室内とおぼしきものの中に設定されている。しかし人物は・・・別の光によって照らされており、その光は左側から斜めに入り、それが投げかける影と協力して彼らに立体感を与えている。汚れと絵具の塗り過ぎによって左側の背景の様相は、相当隠されているが、多分それは、ロレンツォ・ディ・クレーディのものとされている同年代の模写の助けを得て、取り戻すことができるだろう。聖母の頭上にかろうじて見えるのは、寄せ集めされたカーテンであり、彼女の背景にある漠然とした垂直な形は、模写では、優美な襞をもつ掛布に覆われた出っ張りの上に立つ1本の円柱になっているから、その名残りということになる。この出っ張りは、聖母が祈禱書を置くための机の役を果たしている。『ブノワの聖母』の原作では、出っ張りと本は見ることができないが、円柱(キリスト受難の象徴の一つであり、また笞打ちの際キリストが縛られた円柱をも暗示している)は、隙間なく全体を占めているように見える。(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)聖母にぽち
2022.06.12
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リッタの聖母は、幼児キリストに母乳を与えています〜キリストはカメラ目線ですね〜『リッタの聖母』1490年頃カンヴァス(元は板) テンペラ42.0cmx33.0cmサンクトペテルブルク「エルミタージュ美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』『リッタの聖母』の制作におけるレオナルドの役割は広く検討されてきた。そして彼の真筆性を完全に認める意見から、全面的に認める意見から、全面的に否定する意見まで、多岐にわたっている。否定的な立場をとる人びとは・・・私もそのうちの1人である・・・人物の滑らかな、そしてあまりにも規則的な肉づけ、雰囲気の表現に逆行する色彩、そして幼児キリストの共感を誘わない顔を指摘する。一方この絵をレオナルドに帰属させる人びとは、頭飾りを除けば、このサンクトペテルブルクの聖母と瓜二つのレオナルドの素描と、幼児キリストにその反映が見出されるウフィツィの幼児の1素描を指摘する。彼らはまた、マルカントニオ・ミキエールによる1543年の日誌を引き合いに出す。彼は、ヴェネツィアのミケーレ・コンタリーニの家で見た絵を次のように記述している。「レオナルドの手で描かれた、 幼児キリストに授乳する半身像の聖母の、 30センチにも満たない 小さな1枚の絵がある。」この矛盾した証言を処理するのに、ケネス・クラークは、これら極端な立場の間に立つ巧妙な折衷案を提出した。彼の見解によれば・・・この絵は、レオナルドによって1480年前後にフィレンツェで着手され、1495年にミラノの画家ボルトラッフィオによって仕上げられたが、その際彼はこの絵を全面的に彩色し直した。クラークは、彼のこの仮説に確証を与える証拠を、レオナルドが1483年にミラノに持参したのかもしれない1480年代初めに作成された一覧表の中に見出した。この一覧表のうち、当面の問題に関係する項目は、イタリア語の原文では次のように書かれている。"…una nostra donna finita: un altra quasi che in profillo."クラークはこれを「・・・完成した聖母。横顔を見せる、 ほとんど(完成した)もう1枚」と訳している。彼はこれら2枚の絵のうちの後者を『リッタの聖母』と受け取っている。その理由は、彼女が横顔であり、また部分的にレオナルドによって制作された絵が別の画家によって仕上げられたという彼の説を、一覧表の文章が立証しているからだという。私はクラークの訳は誤っていると信じており、それゆえレオナルドが一覧表に掲げている絵は、『リッタの聖母』と同じもののはずがないと結論づける。レオナルドの本文中の「ほとんど」(quasi che)という語は、「横顔」を修飾している・・・クラークが推測した「もう1枚」ではない。そこで、私の見解では、この頃は「・・・完成した聖母。ほとんど横顔の もう1枚(の聖母の絵)」と読むべきである。このように解釈されたこの本文は、むしろ、レオナルドの一覧表とほぼ同年代に属する、そして「ほとんどの横顔」の聖母が描かれている『ブノワの聖母』のことを言っていると見なされるだろう。その上、ある批評家たちは『ブノワの聖母』が何年か経た後で仕上げられたと示唆しているし、またレオナルドが1483年にそれを携えてミラノに行ったという形跡がないでもない。というのは、われわれは作者未詳の1490年代のミラノの絵の中にそれが採り入れられているのを見出すからである。いずれにしても、私は『リッタの聖母』がレオナルドの作品から採られたもろもろのモティーフの混成作品であって(それはミラノの彼の追従者仲間では むしろ当たり前の習慣であった)。ボルトラッフィオあるいは、レオナルドに近い他の誰かが制作したものと感じている。ミキエールが記述したコンタリーニ家の絵に関しては、われわれは、彼の趣味がレオナルドによる本当の絵か?どうかを見分けられるほど高尚であったと推定する必要はない。彼が模作を本物と見誤ったとしても不思議とはいえない。(解説:JACK WASSERMAN.訳:三神弘彦)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)(写真撮影:ほしのきらり)聖母子にぽち
2022.06.11
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ルーヴル美術館でレオナルド・ダ・ヴィンチの作品群の近くに「バッカス」という名の作品が並びますが、このイケメンは・・・誰なのAtelier deLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Jean-Baptiste-Bacchus『バッカス』1511年〜1115年頃カンヴァス(元は板) 油彩177.0cmx115.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。『バッカス』は・・・かつては『曠野の洗礼者ヨハネ』という題で呼ばれていた。そして、1625年、カッシアーノ・ダル・ポッツォによって初めてこの題のもとにこの絵のことが語られた。彼は、これをフォンテンブローで見てこう記述した。「曠野の聖ヨハネ。 その姿は等身の3分の1足らずで、 非常に繊細な策であるが、 それほど好ましい印象を与えない。 なぜなら、 それは何ら敬虔さを感じさせず、 また背景が非現実的だからである。 聖者は座っており、 岩山と霞んだ緑の風景が見られる。」この絵は、1642年との間にルーヴルで出された一連のカタログには、ずっと『曠野の洗礼者ヨハネ』と呼ばれていたが、この1695年に『風景の中のバッカス』と変更された。この絵の「敬虔さ」の明白な欠如が、この聖ヨハネから、バッカスへの変転を促したことは明らかであり、そしてその変転は、この人物の腰の豹の毛皮が描き加えられたこと、頭に葡萄の蔦が被せられたこと、そして十字架が酒神の杖に描き変えられたことによって完全なものにされた。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)代表作『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』レオナルド的な要素があるとは言っても、質の劣るこの絵によって、またたとえレオナルドの作品もしくは、彼の構図に基づく作品であることが立証されたところでレオナルドの評判がほとんど良くなることがない。この絵がレオナルドの専門研究書の中で、その著者たちがそれをレオナルドの作品と信じていなくても、ともかく必ず言及されているからであり、この絵は、「レオナルド工房の作品」ではあっても、レオナルド自身が描いた画稿に基づいて制作されたものであるとする意見が表明されたからである。この見解の著者(アンジェラ・オッティーノ・デラ・キェーザ)は、この絵の風景の性格がレオナルドの他の作品と較べて変則的で不似合であることに気を配り、その画稿では「風景はあいまいにしか描かれていなかった」という信念を表明した。私はこの絵のいかなる部分にも、それほど直接的にレオナルドに関係づけうるものがあるとは思っていない。『バッカス』は、「ミラノ生まれのレオナルド」とよばれてきたものであって、この巨匠の絵や素描から幾多の部分(顔、人差し指、組んだ両足)を寄せ集め作った合成品であり、この絵の場合、名の知れぬレオナルドの模倣者たる作者は、それらをただ単に別の背景の中に寄せ集めただけに留まらず別の男性像を形成するところまで利用し尽くしている。(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より 解説:JACK WASSERMAN.訳:三神弘彦)バッカスにぽち
2022.06.10
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レオナルド・ダ・ヴィンチの中性的で美しい『洗礼者ヨハネ』は・・・超イケメンレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Jean-Baptiste『洗礼者ヨハネ』1513年〜1516年頃板 油彩 69.0cmx57.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。この絵はレオナルドの最愛の、あるいは最も賞賛すべき作品ではなく、これを見た大抵の人から冷淡な反応しか引き起こしていない。むしろ人びとは、軟弱でときにあるまじき解剖学的表現が見られることによって、この人物の不穏であいまいな微笑によって、そして彼の異様な男女両性的性格によって不快にさせられる。それにもかかわらず『洗礼者ヨハネ』は、革新的な絵であり、またレオナルドの画歴の偽らざる精神的メッセージなのである。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』そしてもしもレオナルドの画歴の偽らざる精神的エッセーなのである。そして、もしもレオナルドの捉えようとした衝撃がわれわれに十分伝わって来ないとすれば・・・その原因の一半は、彼が晩年に患い、彼の技倆を低下させた片方の腕の中風にあり、またその弟子の手の介入や後世の修復者たちにある。しかし、レオナルドにも責任がないわけではない。『洗礼者ヨハネ』は多くの点で老朽化した出来栄えである。つまり作者は、これまであまりにもしばしば人差し指と微笑を使用してきたが・・・ここで彼は、かつての2枚の聖アンナの作品のときとはちがって、罪と呪いとつぐないを不気味に暗示しながらも、これらの要素をこの人物のより深い宗教的意味に順応させることに失敗している。Saint Jean-Baptisteとはいうものの、この絵は何とも言いようのない。忘れ難いある種の情緒的活力をもっている。レオナルドがもたらした革新は、他のすべてを排除して、ただ1人の人物に焦点を当てることであった。このことは『聖ヒエロニムス』とは対照的である。つまり後者は、風景、伴侶のライオン、そしてこの聖者の狂乱状態の源をなす磔刑が、すべて視覚的形式全体を構成する部分となっている。『聖ヨハネ』は、極度に個人的な声明である。それは、あたかも晩年のレオナルドが、これまでの作品で展開してきた芸術的、表出的、宗教的特質を蒸留して新しい精神性を・・・観者のために、この聖者の内的本質の直接的な、抑制のない啓示と精神的体験の精髄とをもたらそうと浴したかのようである。これは胚子状態の作品であり、1世紀後にカラヴァッジオの絵において(とりわけ神秘的現象としての明暗処理において)、またスルバランによる個々の聖者たちにおいて実を結ぶことになる作品である。『聖ヨハネ』の背景が全面真暗であるのは、のちに塗り潰されたからであり、その下には、レオナルドがこの絵の様相を空間的、絵画的に広がりのあるものにしようと試みた風景が隠されているのだ。と示唆されてきた。もしそれが本当だとすれば、それによってこの絵全体の概念が変わってしまうのであろうし、それが失敗とさえいうべきかなり低俗な冒険だったことになる。しかしながら、この真暗な背景の下にかつては風景が存在したという証拠は何もなく、われわれはレオナルドが、この聖者が現実的世界から孤立しているという感覚を強めるために、そしてそれによって宇宙的存在としての彼の性質・・・この絵のそもそもの美点・・・を強調するために、故意にこの人物を影の中においたのだと推測しなければならない。(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)イケメンにぽち
2022.06.09
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パリ『ルーヴル美術館』で一番人気のあるレオナルド・ダ・ヴィンチの作品には、世界中から人が集まっていますルーヴル美術館のレオナルド作品たちレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Anne,la Vierge etI'Enfant Jouant avec un agneau,dite La Sainte Annc.Vers 1508-1519 『聖アンナと聖母子』1508年〜1510年頃板 油彩 168.5cmx130.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルドはこの絵において、人物像をまとめる問題を、バーリントン・ハウスの大画稿におけるよりも一層適切に、緊密な構図へと解決した。彼の支配的原理は・・・彼らの四肢と胴体を重ねることによって、また彼らの動きと相互の眼差しを連結することによって、人物たちを組み合わせることであった。ロンドンの大画稿は、その美しさと見事さにもかかわらず、過多と錯綜で損なわれている。四肢の反復と捩れた身体はあまりにも執拗に観者の意識に突き当たり、結果的に構図の平明さと純粋さが失われている。レオナルドが、その後の絵を特徴づけている単純化と直接性へ段階的に進んで行ったのは、これらの要因に促されてのことであったろう。ルーヴル美術館の人物は、大画稿におけるよりも一層まとまっており、彼らの間の意識の交流も連続的であり、また相互に密接である。彼らは、聖アンナの頭部を共通の出発点として、そこから幼児キリストと子羊へ下り、再び引き返して、聖アンナとキリストの2人の眼差しの焦点である聖母の顔の上まで昇ってそこで安定する。形式上ならびに心理上の並行したリズム・・・それは聖母の傾斜した身体を差し伸ばされた両腕の流麗な湾曲線によって一層高められている・・・を確立している。さらに、聖アンナの曲がった肘は、構図を強化し安定させてるのを助け、また形態の下方へ流れを規則正しくするのに役立っている。それは、聖母の大波のように押し寄せる赤と青の着衣と均衡を保ち、彼女たちの頭部の間隔を二つの同じ長さに分割している。ジクムント・フロイトは、聖アンナが、その娘よりほんのわずかしか年とっていないように見えるという奇妙な事実に注目した。彼はこのことを、父と継母と一緒に暮らし、またおそらく思い遣りのある父方の祖母に面倒を見られたレオナルドの庶子としての実際の経験を反映したものと見なした。フロイトの推測によれば・・・彼の祖母と、のちに結婚して彼と別れて暮らした生母とが、彼の心の中で混じり合っていたので、彼は無意識のうちに、1人は他の1人よりただ遠くに住んでいるだけという2人の母を持っていると感じた。無意識の転移によって、彼はキリストにも2人の母を、すなわち1人は間近の前景に、他の1人は背景に与えた。フロイトのこの魅惑的な仮説にもかかわらず、私は彼が提出した謎に対する回答は、もっと単純に、しかも歴史的、礼拝式典礼学的に根拠づけられると思う。15世紀の末期には、聖アンナに集中された論争、とりわけ、果たして彼女が聖母の母として無垢受胎であったか否かの問題の論争の高まりがあったことが立証されており、1494年、ヨハンネス・トリテミウスによって、否定的な回答が与えられた。レオナルドの聖アンナの処理は、すでにバーリントン・ハウスの大画稿においてこの論争を反映しており、そこでは聖アンナが、その精神的な誕生と純潔を強調するために、若い女性として表現されている。同時にレオナルドは、母と娘の関係という論理に彼女を従わせるために、タイプにおいても、わずかではあるが年齢においても、彼女と聖母を区別した。レオナルドが、この問題に意識的に関わっていたことは、ルーヴルにあるこの主題の1素描に見出され、そこでは聖アンナが、実際に老女として表現されている。(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)聖母にぽち
2022.06.08
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レオナルドの『聖アンナと聖母子』は、子羊にまたがった幼児キリストと手を伸ばす母マリアにその母アンナが描かれていますレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Anne,la Vierge etI'Enfant Jouant avec un agneau,dite La Sainte Annc.Vers 1503-1519 『聖アンナと聖母子』1508年〜1510年頃板 油彩 168.5cmx130.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』レオナルドは・・・壮年時代を通じて、何度となく聖アンナと聖母子の主題に立ち帰った。バーリントン・ハウスの大画稿は、最初のときの解釈であった。1501年、彼は第2の大画稿を構想し・・・現在消失そして3枚目を構想したらしいが、これも今はない。第3の大画稿は、ヴァザーリによって十分詳細に記述されており、それがほかの2枚とは別のものであったことがわかる。ルーヴルにあるこの未完成の絵は・・・この主題を芸術的な形で具体化しようとする第4の、そして最後の努力であり、彼はこれを1508年に描き始めた。図像学的には・・・これは1501年の第2の大画稿の結論に従っているように思われる。マントヴァのイザベラ・デステ宛の手紙の中にこの大画稿を記述したカルメル修道僧フラ・ピエトロ・ダ・ノヴェーラーによれば・・・聖母は「キリストの受難を象徴している」子羊からキリストを引き離しておこうと努めており、一方聖アンナは、自分の娘がキリストの運命に干渉するのを引き留めている。この大画稿の劇と、バーリントン・ハウスの大画稿を曇らせている聖アンナの通俗劇的役割とは、ルーヴルの絵には見られない。なぜならば・・・聖母はなるほど子羊にまたがった幼児キリストに手が届いているものの、彼のわがままな行動を助けてもいなければ静止もしていないし、一方肉体的には、活気の乏しい聖アンナも「神聖なものとなった彼女の この世の子孫を喜びに満ちて眺めている」からである。これらの言葉は、第3の大画稿における聖アンナを特徴づけるのにヴザーリが使ったものであり、それはこの絵の聖アンナにも当て嵌まる。それゆえ、この絵は、前2作の要素を融合しているように思われる。この絵の様相は、正式かつ印象的なイコンのそれである。風景は・・・奇蹟に近い軽妙な筆致と透明な色彩で描かれている。その精緻な地質学的性格にもかかわらず、この風景は、レオナルドが気質的に自然の不可思議な、暗示に富む諸形態と類縁関係にあったことを示している。彼は、ドロミテ付近で鼓吹された自然の諸形態・・・霞にけぶる嶮しい山頂・・・を時間停止した。人間に煩わされない、そして季節の変化に影響されない宇宙的ヴィジョンへと移し替えている。それは、「この世の罪を取り去る神の子羊を見よ」というキリストの贖いの福音をこれらの人物が寓喩的に予期している背景としてこの世のものならぬ印象を一層深めている。ルーヴルの絵の真筆性は、ときどき疑われてきた。私がアンブロージオ・デ・プレーディスの作風と幾分似ていると感じているキリストの姿と、そしておそらく聖母の頭首が、通常レオナルドの絵に見出せる質の高さと喰い違いがあるのは事実である。それにもかかわらず、この作品は全体として、息をのむばかりに美しい風景と聖アンナの人を動かさずにはおかない頭首と独創的な人物構図とのゆえに、彼のものと見なされねばならない。(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)アンナにぽち
2022.06.07
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モナ・リザの絵を見るとき私は、モナリザの手に釘付けになってしまいますなぜなのかしら・・・レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519 『モナ・リザ』ラ・ジョコンダ(部分)1503年〜1507年 板 油彩パリ「ルーヴル美術館』所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』レオナルドが、いつも決まって描いた手の話15世紀後半の肖像芸術・・・たとえばヴェロッキによる『婦人の胸像』『白貂を抱く婦人』チェチリア・ガッレラーニ(1483年〜86年頃)もしくはフランドルの先例に従って、レオナルドは、いつも決まって画面にモデルの手を含めた。それは、『チェリチア・ガッレラーニ』に現れれており、切断される前には、『ジネラヴァ・デ・ベンチ』に見られ、そして今再び『モナ・リザ』の中で一際目を引いている。より早い時期の肖像画の手は・・・長くすらりとし、骨ばっていて、線的である。それらはいずれも、敏感な動作の一瞬において凍結されたかのように、若々しい優美と緊張した優雅をもっている。モナ・リザのどっしりし、ずんぐりとした手は、それらと際立った対照を示している。それは、体のほかの部分と同様に、丸みのある整った量体として構想されている。緊張は消え去り、残っているのは、容姿全体を支配する静けさの感覚を反映した、熟慮を経たさりげなさと落ち着きである。レオナルドの絵におけるこの展開は、突然に現れたものではなく、彼が1500年にフィレンツェに帰ったあとに抱いた素描の新しい概念に従ったものである。1500年以降(ケネス・クラークが確かめているように)レオナルドは、露骨に人物の量感を描出している。輪郭の保全を事実上無視した平行な線影の使用をやめて、人体の形に副ってその空間における立体感を強調する線影を使うようになった。レオナルドは、われわれに『モナ・リザ』の時期の手の素描を何も残していないので、私が述べたこの進展は実証することができない。(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)名画にぽち
2022.06.06
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レオナルド・ダ・ヴィンチの代表作『モナ・リザ』を部分的に鑑賞してみましょうレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519『モナ・リザ』(部分)1503年〜1507年パリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonard0 da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』レオナルドの美学は・・・1474年頃に制作された、彼に帰属しうる最初の肖像画『ジネヴラ・デ・ベンチ』と『モナ・リザ』とを分けて隔てる年月の間に変化した。確かにこの2人の女は、類似したポーズをとり、2人とも、主として観者を見据える凝視と内的感情に応じて形どられている唇とによって伝えられる個性のきびきびした感覚によって正気づけられた容貌をもっている。しかしながら、不機嫌なジネヴラが、観者の存在に無関心であるかのように見えるのに対して、モナ・リザは、その誘惑的な魅力を、観者との現実的な情緒関係を創り上げるのに役立たせている。様式の点でも、両者には違いがある。『ジネヴラ』においてレオナルドは、服装、細部、表面の質感、そして明確な途切れのない連続性をもって形態を取り囲む線的な輪郭を強調した。その上彼は、飽和度の高い濃密な色彩の大きな領域を並置し、それらを区分しながらも、同時に衣服、肩掛け、ブラウス、解剖的構造、髪、そして被り物をくっきりとした装飾的パターンへ一体化した。全体は、顔と首の上に微妙な影を投げかける拡散した日光によって照らされている。この肖像画はまだ、『チェチリア・ガッレラーニ』(白点を抱く婦人)をも支配している1400年代の伝統の枠内にある。より早い時期のこれらの肖像画とは著しく対照的に『モナ・リザ』における色彩は、ほとんど単一の調子にまで抑えられ、光は一つの集中し共鳴する要素となり、細部と線は邪魔にならぬよう控えめに使用されている。実際、色彩、光、細部、そして線は、ことごとくこの人物の満ち溢れるモニュメンタルな量感の引き立て役となっている。とりわけ頭首は・・・充実した構造と肉づきによって、迫り来るほどの存在感を示し、風景と相俟って、この絵の表現力に満ちた内容を余すところなく伝えている。(写真撮影:ほしのきらり)(LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)世界遺産にぽち
2022.06.05
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世界一有名が絵画といえば『モナ・リザ』です。モナ・リザの歴史は、案外知られていませんねレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)1503年〜1507年板に描かれた油彩77.0cmx53.0cmレオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村→フランス王国アンボワーズレオナルドの功績は、鏡文字・音楽・建築・料理・美学数学・幾何学・生理学・組織学・解剖学・美術解剖学人体解剖学・動物解剖学・植物解剖学・博物学・動物学植物学・鉱物学・天文学・気象学・地質学・地理学・物理学科学・工学・流体力学・水理学・空気力学・飛行力学飛行機の安定・航空力学・航空工学・自動車工学・材料工学土木工学・軍事工学・潜水服などの分野に顕著な業績を残す。【代表作】『モナ・リザ』『最後の晩餐』『ウィトルウィウス的人体図』フランス語では、ラ・ジョコンダで〜す1517年、アントニオ・デ・ベアーティスが、アラゴンの枢機卿と一緒にフランスのレオナルドの画質を訪問したとき、彼はそこで3点の絵。すなわち『洗礼者ヨハネ』『聖アンナと聖母子』そして、『故ジュリアーノ・デ・メディチの懇望によって描かれた、 さるフィレンツェの婦人』の肖像画を見た。ジュリアーノといえば・・・ローマで、1513年から彼が死んだ1516年まで、レオナルドのパトロンであったことが思い出されるだろう。パトロンと年代をめぐる紛れもない喰い違いにもかかわらず、この肖像画は・・・1世代後にヴァザリーが記述した『モナ・リザ』であると信じられている。モデルを・・・フィレンツェ人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻と紹介した最初の者は彼であり、それに加えてヴァサリーは、『モナ・リザ』が、1503年に着手され、1507年に仕上げられたこと、そしてそれがかつてフランソワ1世に所蔵されていたことを示唆した。王が所有していたことは、ほぼ1世紀後、すなわち1625年、フォンテンブローで1点の婦人肖像画を見て彼女を「ジョコンダとかいう人」と認知したカッシアーノ・ダル・ポッツァによって確認された。『モナ・リザ』のその後の歴史は比較的単純である。つまりそれは・・・1805年までフランス王のコレクションにあり、その年にパリのルーヴル美術館に入った。『モナ・リザ』は・・・信じ難い精妙さ、透明さ、輝きを覆い隠している埃(ほこり)とニスの層で覆われている。人は損傷を恐れて敢えてこの肖像画を洗浄しようとはしないので、われわれは赤外線写真によって、レオナルドが賦与した原作の筆致の明るさ、肉づけの豊富さ、光と影の精妙極まりない諧調、そして、顔の囲りに大気のヴェールの幻影を生み出している模倣を許さぬ表面処理の概念をかろうじてわずかに得られるだけである。さらに赤外線写真は、風景の真の性格を明らかにしている。すなわちそこに見られる諸形態は、肉眼で見えるような硬くて重い不自然な噴出物ではない。反対にそれは、実際にかすみとなって蒸発する微妙な沫(あわ)のような自然の要素なのである。風景は・・・画面右端で橋の形をとった唯一の人間存在の証拠すら痕跡化している神秘的な、忘れ難い場所である。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:LEONARDO DA VINCI日本語版/美術出版社より)ジョコンダにぽち
2022.06.04
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モナ・リザにケーキ投げつけ事件からレオナルド・ダ・ヴィンチについて足跡を辿ってみたくなりましたレオナルド・ダ・ヴィンチ作Leonardo da Vinci『聖アンナと聖母子』1502年〜1516年頃板 油彩 168.0cmx130.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチ年譜Leonardo da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネサンス期を代表する画家である。1452年4月15日午後10時半(日没3時間後)、トスカーナ・ヴィンチ村で、レオナルド誕生。父は、裕福なフィレンツェの公証人:セル・ピエロ・フオルジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで母は、おそらく農夫の娘とされるカタリーナの間に生まれるが私生児であった。1457年から、父・祖父母・叔父とヴィンチの都市部で暮らす。1466年(14歳)、父は、レオナルドをフィレンツェに呼び寄せ、絵画と彫刻の修行のために、アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入門させる。工房では、理論面・技術面とともに才能を発揮。設計分野・科学・治金学・金属加工・石膏鋳型鋳造・革細工・機械工学・木工などを習得。1472年(20歳)、徒弟時代を終え、フィレンツェのサン・ルカ画家組合に加入し、親方の資格を得る。1473年8月5日、の日付のある素描ペンとインクで描いた『アルノの渓谷の風景』(フィレンツェ・ウフツィ美術館素描版画室所蔵)を描く。1476年(24歳)、レオナルドと3名の青年が、同性愛の罪で告訴されるも裁判で無罪となる。1478年(26歳)、フィレンツェ政府が、レオナルドにパラッツオ・ヴェッキオ内のサン・ベルナルド礼拝堂のための祭壇画を委託するが、制作されずに終わる。1481年5月(29歳)、サン・ドナート・スコペート修道院と、『東方三博士の礼拝』(フィレンツェ・ウフツィ美術館)を制作する契約を交わすが、未完のまま放置。1482年(30歳)、システィーナ礼拝堂の壁画装飾をする画家の一員として、教皇シクストゥス4世にローマに招かれなかったことに失望し、弟子の音楽家:アタランテ・ミリオロッティとともにミラノに旅立つ。1483年4月25日(31歳)、ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ聖堂のために、ミラノの画家:エヴァンジェリスタおよびアントニオ・デ・プレディス兄弟と共同で、『岩窟の聖母』を製作する契約を交わす。(4月6日、ウルビーノでラファエロ・サンティ誕生)1492年(40歳)、ルドヴィーコ・ルイ・モーロとベアトリーチェ・デスの結婚を祝うスフォルツァ城での荘厳な祝祭を企画し、衣装と舞台装置のデザインをする。ルドヴィーコ・イル・モローの2人の愛妾の肖像画チェチリア・ガッレラーニ『白貂を抱く婦人』とクレツィア・クリヴェッリ『ラ・ベル・フェリーエール』を描く。1494年(42歳)、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の『最後の晩餐』とスフォルツァ城の壁画装飾に着手。1497年(45歳)、ルドヴィーゴ・イル・モーロ、『最後の晩餐』の完成を急ぐようレオナルドに催促。1498年(46歳)、『最後の晩餐』完成後、スフォルツァ城内の「アッセの間」を装飾する。1499年(47歳)、フランス軍がルドヴィーゴ・イル・モーロをミラノ公国の簒奪者とみなしてミラノを占領する。ルドヴィーコは逃亡し、レオナルドもミラノを離れることを余儀なくされる。レオナルドがミラノのコルテ・ヴェッキアで製作中の巨大な粘土像フランチェスコ・スフォルツァの騎馬像は、ガスコーニュの石弓射手たちによって破壊される。レオナルドは、マントヴァ公妃イザベラ・デステの客人としてマントヴァに立つ寄った後、ヴェネツィアに赴く。1500年(48歳)、ヴェネツィアで、オスマン・トルコ軍の侵攻に対する防御計画を練る。同年末、フィレンツェに戻り、サンティッシマ・アヌンツィアータ修道院に寄萬する。1502年(50歳)、ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアに建築家兼技師として仕え、ロマーニャ遠征に随行する。1503年(51歳)、チェザーレの父、教皇アレクサンデル6世の死去に伴い、フィレンツェに戻り、おそらくフランチェスコ・デル・ジョコンドからその若い妻:モナ・リザ・ゲラルディーニの肖像を描くよう依頼された。フィレンツィエ政庁は、バラッツオ・ヴェッキオにミケランジェロの『カッシナの戦い』と競作で、『アンギアーリの戦い』を描くようにレオナルドに依頼。ピサ攻囲作戦のためにレオナルドにアノン川の迂回計画を立てさせる。1504年(52歳)、『アンギアーリの戦い』において、自ら考案した技法を実験したが失敗して制作を放棄。ミケランジェロが『ダヴィデ』像を完成すると、レオナルドは、この彫像の設置場所を決める委員会に参加した。ウルヴィーの出身の若きラファエロが、フィレンツェで貴族の注文主のために祭壇画や肖像画を描いて頭角をあらわす。1506年(54歳)、フランス人のミラノ総督シャルル・ダンボワーズが、レオナルドをミラノに呼び戻す。1504年に死去した父:セル・ピエロの遺産相続をめぐって異母兄弟と訴訟が起こり、1507年にレオナルドは再びフィレンツェに滞在。1508年(56歳)、フィレンツェで、洗礼堂のためのフランチェスコ・ルスティエッチの彫像『洗礼者ヨハネ』の制作に協力。ミラノで、フランス人総督:シャルル・ダンボワーズのために邸館を設計し、フランス駐屯軍司令官のジャン・ジャコモ・トリヴルツィオのために騎馬像を計画したが、いずれも実現せず。ローマでは、ミケランジェロが、システィーナ礼拝堂の天井画に着手。続いてラファエロもユリウス2世の注文で、ヴァティカン宮殿内の装飾事業に着手。ヴェネツィアでは、ジョルジョーネとティツィアーノがドイツ人商館の壁画を制作。1511年(59歳)、ミラノで解剖学・地質学・博物学の研究に没頭。1513年(61歳)、ミラノを永久に離れ、弟子のフランチェスコ・メルツィやジャコモ・カプロッティ、ファンフォイアなどを伴ってローマに移る。ボンティーナ湿原の干拓やチヴィタヴェッキア港に関する研究。数学や科学の研究をしながら、ローマに3年間滞在。1515年(63歳)、レオ10世に随行してボローニヤを訪れる。1517年(65歳)、フランソワ1世に招かれて、フランスに旅立ち、忠実な弟子フランチェスコ・メルツィとともに、アンボワーズ近郊のクルーの館に居を定める。5月、右半身麻痺になる。ルイージ・ダラゴーナ枢機卿の訪問を受ける。ローマでは、ラファエロとその工房により、ヴァティカン宮殿内のロッジやファルネジーナ宮殿の装飾がなされる。1519年4月23日(67歳)、遺言書を作成し、5月2日、クルーの館において死去(享年67歳)。(写真撮影:ほしのきらり)名画にぽち
2022.06.03
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パリ「ルーヴル美術館」で信じられない出来事が起きました〜「モナ・リザ」に老婆がケーキを投げつけた『モナ・リザ』は・・・パリ「ルーヴル美術館」の絵画・イタリア(1250年~1800年)(ドゥノン翼)DENON1階(日本で言う2階)に展示されています。 レオナルド・ダ・ヴィンチ作「モナ・リザ」2022年5月29日(日)フランス・パリ「ルーヴル美術館」でレオナルド・ダ・ヴィンチの世界一有名な名画『モナ・リザ』に向かって、車椅子に乗った老婆が・・・(?)ケーキを投げつけたケーキを投げたのは、カツラと口紅をつけた36歳の男性だった。モナ・リザは・・・1950年代に酸をかけられた事件があり広い木の柵で囲われた先に大きなガラスが一面に張り巡らされているのでジョコンダさんは、無事なのですが・・・ケーキを投げられた時、大勢の人が大声をあげた!老婆の格好をして車椅子に乗った男は、絵に駆け寄りガラスを叩き始めたそしてケーキでモナ・リザの画面にクリームを練りつけた。警備員が男性を連れ去るのに10秒〜15秒くらいかかった。警備員に連行される際に男は、「芸術家は地球のことを考えろ。 だから、私はこれをやった!」などと意味不明なことを叫んだ。その場にいた人たちは、パニック状態のようになった。ガラスに塗られたクリームが拭き取られた後、人々から拍手が起きた。モナ・リザを撮影するとガラスの反射が気になりますがやはり、変な人が多いので必要ですよね。レオナルド・ダ・ヴィンチ・・・とは?レオナルド・ダ・ヴィンチLeonard da Vinci1452年4月15日〜1519年5月2日(67歳没)フィレンツェ共和国ヴィンチ村〜フランス王国アンボワーズレオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネサンス期を代表する画家である。地球のことを色々と考えていた芸術家なのに・・・なぜこんな行動をしたのでしょうね?ちなみにダ・ヴィンチは「ヴィンチ村」の意味。彼の出身地であります。名前は「レオナルド」と呼びましょうレオナルドのことを語ると、長くなりそうです。・・・つづく・・・(写真撮影:ほしのきらり)レオナルドにぽち
2022.06.02
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ヨハネス・フェルメールは最終回。フェルメールを求める旅も最終回〜アメリカ合衆国東海岸・ニューヨクから→ワシントンD.Cを旅するための計画ですBoston旅の空想計画『フェルメールを訪ねる旅』日本オランダ(アムステルダム→デルフト→ハーグ→アムステルダム)ドイツ(ベルリン→ブラウンシュヴァイク→ドレスデン→フランクフルト)オーストリア(ウィーン)フランス(パリ)イギリス(ロンドン)アイルランド(ダブリン)アメリカ(ニューヨーク)→(ボストン)→(ワシントンD.C.)帰国(成田)フェルメールを求めて世界を旅する計画は最終回ニューヨーク→ワシントンD.C.→帰国ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳没) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルランド共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールの現存作品は、32点〜37点?20歳にして宿屋と居酒屋の店主と画商・画家を兼務。アメリカ合衆国 ボストンのフェルメール作品『合奏』は・・・盗難に遭い現在(2022年5月31日)行方不明と言う訳ですが・・・もし、作品が戻って来た時のために、この美術館についても記してみました。(個人的にボストンが好きなので)ボストンBoston地下鉄=ティーのグリーンライン(E)Museum of Fine Arits下車。Isabella Stewart Gardner Museum/U.S.A.Bostonボストン「イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館」ボストンの大富豪の未亡人:イザベラ・S・ガードナーのコレクションを展示する美術館。1階〜3階=ミュージアム・フロアー4階は=邸宅用で以前はガードナー未亡人が住んでいた。絵画・彫刻・縫物・楽器・家具・陶器などの展示。1.『合奏』油彩 カンヴァス 69.2cmx62.0cmこの作品は、行方不明です。【入場料金】15ドル(シニア=12ドル、学生=10ドル)17歳以下無料。イザベラが大のレッドソックスファンだったためレッドソックスのロゴ入りシャツを着用していると入場料金が2割引になると言う訳で・・・今回はボストンは通り過ぎますが、私がアメリカ合衆国で一番好きな街ですボストンは飛ばして ワシントンD.C.へニューヨーク→ワシントンD.C.へ鉄道=アムトラック(Amtrak)370km・・・約2時間30分ワシントン.D.C.到着White HouseWashington,D.C.ワシントンDC・・・とは?Washington,District of Columbia「ワシントン・コロンビア特別行政区」建国の父である初代大統領George Washington(ジョージ・ワシントン)と、アメリカ大陸の発見者と言われるChristopher Columbus(クリストファー・コロンブス)のふたりのアメリカの礎になった人物の名前が含まれる。 Washington,District of Columbia北部のワシントン州と間違えないようにワシントンにDCをつけているが、ただのDCと呼ぶこともある。全米での50州のどこにも属さない、全米で唯一の特別行政区、連邦政府の直轄として独立した町である。経済や文化の中心をニューヨークに任せ、純粋に連邦政府の立法・行政・司法の最高機関だけをもっている。アメリカの政治の中心として町が機能する。Smithsonian Institution & Museum「スミソニアン協会と博物館・美術館」スミソニアン協会・・・とは?19の博物館と美術館、多くの研究部門、動物園を意味する。1.mithsonian American Art Museum「スミソニアン・アメリカ美術館」2.National Galley「ナショナル・ギャラリー」・・・スミソニアン協会に属していない!3.National Postal Museum「国立郵便博物館」4.National Air & Space Museum「国立航空宇宙博物館」Udvar Hazy center別館「ウドバー・ハジー・センター」5.Hirshhorn Museum and Sculpture Garden「ハーシュホーン美術館と彫刻庭園」6.Art and industries Building「芸術産業館」閉鎖中7.Castle(Smithsonian Information Center「キャッスル」(スミソニアン情報センター)8.Freer Gallery of Art「フリーアギャラリー」9.National Museum of American Hist0ry「国立アメリカ歴史博物館」10.National Museum of Natural History「国立自然史博物館」11.National Museum of African Art「国立アフリカ美術館」Arthur M.Sackler Gallery「アーサー・M・サックラー・ギャラリー」12.Natonal Museum of the American Indian「国立アメリカ・インディアン博物館」13.National Museum of American History and cultue「国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館』14.Renwick Gallery「レシウィックギャラリー」15.Smithsonian's National Zoo「国立動物園」Anacostia Community Museum「アナコスティアコミニティ博物館」 National Gallery of Art/U.S.A.Washington,D.C.ワシントン「ナショナル・ギャラリー」グリーン、イエローライン「Archives駅」下車。南へ1分。自然史博物館の東隣。ナショナル・ギャラリー・・・とは?13世紀から現代までの絵画や彫刻を中心とした西洋美術のコレクション。多くの富豪たちが競って世界の優れた美術品を買い求めた。美術品のすべては、一般市民からの寄贈されたものか、寄付金で購入したものである。【コレクション数】12万4000点以上。【入館料金】無料。【手荷物】43cmx66cm以上の荷物はクロークで預けられない。A4サイズ=手で持つバックは、持ち込み可能。肩にかけたり、背負ったりは、不可(手持ちで)Rotunda(ロダンダ)円形広場噴水中央のブロンズ像は・・・Marcury(マーキュリー)神と地球を結ぶメッセンジャーMAIN FLOOR「メイン・フロアー」へ行きましょう現代美術を除くすべてがこのフロアーにあります。この時は、たまたまオランダから「青衣の女」が来ていてこんな出会いもありますが、貸出中もあるのでOn View要確認。17th-Century Dutch and Flemish「17世紀オランダとフランドル」【50展示室】フェルメール1.『天秤を持つ女』40.3cmx35.6cm 油彩 カンヴァス2.『手紙を書く女』45.0cmx39.9cm 油彩 カンヴァス3.『赤い帽子の女』22.8cmx18.0cm 油彩 板4.『フルートを持つ女』20.0cmx17.8cm 油彩 板(ヨハネス・フェルメール周辺の作品)【45展示室】ルーベンス【48展示室】レンブラントの肖像画10点ほど。ギャラリー内のカフェ1.「カスケード・カフェ」 西・東館をつなぐ地下コンコース 月曜日〜土曜日11:00~15:00.日曜日~16:002.「エスプレッソ&ジェラートバー」 西・東館をつなぐ地下コンコース 月曜日〜土曜日10:00~16:30.日曜日11:00~17:303.「ガーデン・カフェ」 西館グラウンド・フロアー 月曜日〜土曜日11:30~15:00.日曜日12:00~16:004.「テラス・カフェ」 東館 月曜日〜土曜日10:00~16:00.日曜日11:00~17:00他の美術館は、欲張らないで・・・ナショナル・ギャラリーだけで我慢。 Metrobus「メトロバス」#5A片道:7.50ドル ダレス近くのホテルで・・・1泊「ワシントン・ダレス・エアポート・マリオット」¥.32,956(トリバゴ=¥.29,048) ワシントンD.C.から成田(直行便)で帰国。ダレス空港からANA:全日空(NH)とUNITED:ユナイテッド航空(UA)が毎日、ノンストップ(直行便)があります。飛行時間・・・約11時間。2022年6月明日から燃油サーチャージが大幅に上がります。それにも増しての円安1ドル=78円時代は「夢の世界」海外旅行は、明日から厳しい・・・ フェルメールを求める「夢の旅」おわり(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.05.31
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安全な海外旅行に行けるようになったら〜ムムム。大好きなニューヨークに飛びたい旅の空想計画『フェルメールを訪ねる旅』日本オランダ(アムステルダム→デルフト→ハーグ→アムステルダム)ドイツ(ベルリン→ブラウンシュヴァイク→ドレスデン→フランクフルト)オーストリア(ウィーン)フランス(パリ)イギリス(ロンドン)アイルランド(ダブリン)アメリカ(ニューヨーク→ワシントンD.C.→)帰国フェルメールを求めて世界を旅するとしたら、こんな計画を作成してみました次の訪問国は、アイルランドからニューヨークへ向かいましょう。アイルランド ダブリン(DUB)→ニューヨーク(NYC) バスでマンハッタン島へNewark Liberty Airport Expressニューアーク・リバティ・エアポート・エクスプレス「グランド・セントラル駅」へ17ドル(往復:29ドル)この駅の地下には、フードコートがあるので軽く食べておくと節約になります。地下鉄=6番 68 St/Hunter College 下車アッパー・イースト・サイドアメリカThe Frick Collection/U.S.A.New Yorkニューヨーク「フリック・コレクション」70丁目の5番街とマディソンアベニューの高級住宅街にたたずむ美術館。もともとは実業家:ヘンリー・クレイ・フリック氏の邸宅だった建物に、夫妻が収集したルネサンス期からロココ調、近代までの絵画、彫刻が展示されている。【入館料】22ドル、シニア(65歳以上)17ドル、学生(要ID)12ドル、10歳未満入場禁止!!フェルメール作品は・・・3点。1.『兵士と笑う女』『士官と笑う女』1655年〜1660年頃油彩 カンヴァス 50.5cmx46cmThe Frick Collection/U.S.A.New Yorkニューヨーク「フリック・コレクション」所蔵。2.『稽古の中断』『稽古の中断』1660年〜1661年頃39.3cmx44.4cm 油彩 カンヴァスThe Frick Collection/U.S.A.New Yorkニューヨーク「フリックコレクション」所蔵。 3.『女と召使い』『女と召使』1667年〜1668年頃油彩 カンヴァス 90.2cmx78.7cmThe Frick Collection/U.S.A.New Yorkニューヨーク「フリック・コレクション」所蔵。家具調度品にも注目。総大理石の邸宅や落ち着いた雰囲気の中庭の噴水も。 セントラル・パーク沿いに北へ MET.到着The Metropolitan Museum Art/U.S.A.New Yorkニューヨーク「メトロポリタン美術館」セントラル・パーク内の東側、5番街に面する。世界三大美術館のひとつ。地下鉄=4、5、6、86th. St.より10分。(遠くてかなり歩きます)なので、行きは、フリック・コレクションから歩いて、帰りは、10分歩いて地下鉄を利用。【入館料】25ドル、シニア(65歳以上)17ドル、学生=12ドル、12歳未満大人同伴の場合=無料。The Metro Politan Museum of Art設立は・・・1870年。愛称は・・・MET。1866年、アメリカ独立記念日を祝うためにパリで開かれた晩餐会で、政界の有力者:ジョン・ジエイカが、国民美術研究所と美術館を創設することを呼びかけたのが始まり。1880年、現在の場所に移り、1902年、完成。JP.モーガンやロックフェラーらによって、支えられたコレクションは、先史時代から、現代まで約300万点を超え、時代やテーマに分けられた16の展示エリアで鑑賞できます。それでは、いよいよ「グレート・ホール」に入ります。手荷物チェックのおじさんの所に並びます。右奥には、ミュージアム・ショップが見えます。(Museum Shopは、館内の数カ所あり)広〜い「グレート・ホール」に人がいっぱいミツです!フェルメール作品は・・・5点。2階=European paintings「ヨーロッパ絵画」(たまに特別展示でフロアーが変わっている場合あり)いつもは、階段上がって中央奥あたり、1.『眠る女』『眠る女』1656年〜1657年頃油彩 カンヴァス 87.6cmx76.5cmThe Metropolitan Museum Art/U.S.A.New Yorkニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。2.『窓辺で水差しを持つ女』『水差しを持つ女』1664年〜1665年油彩 カンヴァス 45.7cmx40.6cmThe Metropolitan Museum Art/U.S.A.New Yorkニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。 3.『リュートを調弦する女』『リュートを調弦する女』1662年〜1663年頃油彩 カンヴァス 51.4cmx45.7cmThe Metropolitan Museum Art/U.S.A.New Yorkニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。 4.『少女』『少女』1665年〜1677年頃油彩 カンヴァス 44.5cmx40.0cmThe Metropolitan Museum Art/U.S.A.New Yorkニューヨー「メトロポリタン美術館」所蔵。 5.『信仰の寓意』『信仰の寓意』1673年〜1675年頃油彩 カンヴァス 114.3cmx88.9cmThe Metropolitan Museum Art/U.S.A.New Yorkニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。館内のカフェ・レストラン地下1階 =The Cafeteria「カフェテリア」手軽な値段のセルフサービス形式のカフェ。(2020年3月現在改装中)1階=The American Wing Cafe「アメリカン・ウィング・カフェ」1階正面から入ると右側奥アメリカン・ウィングにある。簡単に急いで食べたい人用。1階=Petrie CourtCafe「ペリー・コート・カフェ」1階西側、ヨーロッパ彫刻のエリア。セントラル・パークに面していてゆっくりお食事できる高級店。2階=Great Hall Balcony Bar「グレート・ホール・バルコニー・バー」正面入口2階のバルコニーにあるクラッシックの生演奏を聴きながら、お酒や軽食を楽しめるカフェ・バー。4階=The Dining Room「ダイニングルーム」4階にある広々としたダイニングで、NIXで知られるJohn Fraserが腕を振るう。プリフィックスの2コースランチは、26ドル。屋上=Cantor Rooftop Garden Bar「屋上庭園」4月中旬〜10月1階:近代美術のそばのエレベーターから。セントラル・パークを一望できるスポット。(大型のアートが展示されることも)ニューヨーク・・・1泊泊まってみたいデザイン系ホテルグラマシー=Ace Hotel「エース・ホテル」ノマド・エリアにある12階建ての個性的なインテリアの客室。DJイベントやライブを開催している。R・W線、28 St駅から3分。ミッドタウン=Viceroy New York「ヴァイセロイ」モダン&エレガントなローマン&ウィリアムスがデザインしたホテル。クラシカルな客室は、ウッド&レザーで、エレガントな空間を演出。ルーフトップからは、セントラル・パークが眺められる。N,Q,R,W線 57 St/7 Av駅から3分グリニッチ・ビレッジ=The Marlton Hotel「マールトン・ホテル」有名人の歴史的なホテル1900年に建造され、かつてマールトン・ハウスとして知られていた建物を改装したブティックホテル。98席用意された天窓付きのレストランが人気。A,C,E,B,D,F,M線 W 4 St,WashSq駅から10分翌朝、地下鉄→「ペンステーション」ペンシルバニア駅から鉄道で ワシントンD.C.へアムトラック(Amtrak)で行きましょう新幹線のような鉄道旅もいいですね。ちょっと窓が小さくて汚いのです(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.05.30
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まだ行ったことがありません〜アイルランドの旅です。ちょっと楽しみフェルメール作品は、1点。『手紙を書く女と召使』1670-72Schrijvende vrouw met dienstbode,1670-1671『手紙を書く女と召使い』1670年頃油彩 カンヴァス 72.2cmx59.5cmNational Gallery of Ireiand/Ireland,Dublinダブリン「アイルランド・国立美術館」所蔵。旅の空想計画『フェルメールを訪ねる旅』日本オランダ(アムステルダム→デルフト→ハーグ→アムステルダム)ドイツ(ベルリン→ブラウンシュヴァイク→ドレスデン→フランクフルト)オーストリア(ウィーン)フランス(パリ)イギリス(ロンドン)アイルランド(ダブリン)アメリカ帰国イギリス(ロンドン)アイルランド(ダブリン)の交通LCC(一番安いのは5月)2446円ライアンエアー(Ryanair)・・・1時間21分ダブリン空港は、市内中心部から北に約12kmの所。2つのターミナルは徒歩圏内で通じる。バスで市内へ(30分〜45分)「トリニティー・カレッジと博物館地区」へ国立考古学博物館、国立自然史博物館、アイランド国立美術館、政府関係の重厚な建築が並ぶ。アイルランドNational Galleries of Scotland/United Kingdom(Scotland),Edinbugh「アイルランド・ナショナル・ギャラリー」ダブリン(アイルランド 国立美術館)アイルランドの首都ダブリンにある美術館。14世紀から20世紀のヨーロッパ絵画・彫刻の展示。鉄道王であったアイルランド人:ウィリアム・ダーガンが1853年に産業展示会を開催し、その収益とダーガンが所有していたコレクションを元に1864年、アイルランド国立美術館が開館した。収蔵作品=1万点。1.『手紙を書く女と召使い』【入場無料】入るとすぐに案内所で館内地図をGET。オーディオガイドもここにあるが日本語版はない。【無料ガイドツアー】木曜日18:30 土曜日12:30 日曜日11:30 12:30 13:30主要な展示物は、階段を上がって2階。Biet Wing(西側)ベイト・ウイングに行く。ヨーロッパ各国の17世紀を中心とした作品が充実。フェルメールの『手紙を書く女と召使』があるはずたまにお出かけのことも・・・この作品4年前に来日された時にご対面。上野・上野の森美術館「フェルメール展」にて、2018年『アイルランド』とは・・・どんな国? Ireland・・・アイルランド共和国地図で言うとイギリスの左側のアイルランド島のほとんど。イギリスからの独立は、1949年。サッカーやラグビーで有名な国。GDPは、世界でも裕福な国TOP10に入る国。人口=約459.5万人面積=約7万273万キロ平方メートル通過=ユーロ言語=アイルランド語、英語、その他。時差=ー9時間国旗=緑は、ケルトやカトリック、オレンジは、プロテスタント、白は、両者の強調を表す。気候=年間を通じて穏やか(たまににわか雨)。観光=ベストシーズンは、5月〜9月。首都=ダブリン「アイルランド国立美術館」も首都にあります。【世界遺産】ブルー・ナ・ボーニャ、ボイン渓谷の遺跡群(文化遺産)1993年シケリーグ・ヴィヒール(文化遺産)1996年登録。自然も豊かで行ってみたい国のひとつですね・・・アイルランドで・・・1泊「アイルランドの宿泊したいお宿」とは?[B&B] Bed & Breakfastビー・アンド・ビーベッドと朝食を提供すると言う意味の宿泊施設。日本で言う「民宿」に近い。一般家庭の部屋を旅行者に開放し、家主も同じ家に住んでいる場合が多い。料金=ホテルに比べ安め。無線LANが完備していることが多い。Guest House(ゲストハウス)も同様。[Ensuite]アンスイートトイレとシャワー付きの部屋のこと。部屋とつながっていないトイレ、シャワーのみを意味する。[Standard Room] スタンダード・ルームバスとトイレが共用の部屋。B&Bのほか、ホステル、夏期などに旅行者に解放される学生寮など。Shared Facilities(シェアード・ファシリティズ)などとも呼ぶ。[Manor House]マナー・ハウスアイルランドの歴史を感じる建物で〜憧れで!マナーとは・・・「荘園」のこと。中世地方農村の生活単位だった。マナーハウスとは、荘園を統治する領主が住んでいた館。当然その周辺では最も立派な邸宅。内装はアンティークの家具などで美しく飾られ、敷地は広大でゴルフコースを備えている所も。[Castle Hotel] 古城ホテルキャッスル・ホテルと呼ばれ、かつての城を改装した古城ホテルは、世界的な著名人、要人が宿泊することもある。手入れの行き届いた広大な庭園も必見。(例)コング近くの「アシュフォード城」325ユーロ〜クリフトゥン近郊の「アビーグレン・キャッスル」119ユーロ〜(地球の歩き方より)うわわ〜想像だけで素敵すぎます。 アメリカ合衆国ニューヨークへ(写真撮影:ほしのきらり)フェルメールにぽち
2022.05.29
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フェルメールを訪ねる世界旅計画5カ国目は「英国」ロンドンまでやってまいりましたUnited Kingdom LondonBuckingham Palace元々は・・・バッキンガム公の私邸だったことから、名前がつけられた英国王室の宮殿です。衛兵交代を見るために世界中から人が集まります旅の空想計画『フェルメールを訪ねる旅』日本オランダ(アムステルダム→デルフト→ハーグ→アムステルダム)ドイツ(ベルリン→ブラウンシュヴァイク→ドレスデン→フランクフルト)オーストリア(ウィーン)フランス(パリ)イギリス(ロンドン)アイルランドアメリカ帰国フランスからイギリスへの交通手段一番高いのけれど一度は経験するのも良いユーロスター(Eurostar)海底トンネルを通って行く国際高速列車タリス(Thalys)パリ・北駅から出る 時速300kmの高速列車。2時間20分。切符の料金は・・・スタンダード(2等)44ポンド〜191ポンド曜日や予約する時期によって変わるので早めに予約。セール時期には、約5000円の時もある(カード可)市内=北駅から直接行けるので飛行機よりは便利。パリ(CDG)→ロンドン(LHR)飛行時間1時間15分国際バスが・・・一番安いが時間がかかる。ユーロライン(Eurolines)ドヴァー海峡トンネルを渡る国際長距離バス(コーチ)パリ・メトロ3号線終点「ガリエニ国際バスターミナル」発着。所要時間が・・・約8時間。イギリスThe State Rooms,Buckingham Palace/United Kingdom,londonロンドン「バッキンガム宮殿王室コレクション」(クイーンズ・ギャラリー)ロイヤル・コレクション地下鉄「ヴィクトリア駅」Victoria下車バッキンガム宮殿の正門から左に進み宮殿の高い塀をお庭沿いに進むと右側にあります宮殿内の敷地にある王室コレクションです。イギリス王室が所有する膨大なコレクションが詰まっております。【入場料】13.50ポンド(学生=10.80ポンド)カード可。入館してから公開している展示物はごく一部分。フェルメール作品は、1点のみ。1.『音楽の稽古』油彩 カンヴァス 74.6cmx64.1cmThe State Rooms,Buckingham Palace/United Kingdom,londonロンドン「バッキンガム宮殿王室コレクション」所蔵。地下鉄「ヴィクトリア駅」Victoria 地下鉄「チャリング・クロス駅」Charing cross下車The National Gallery/Unted Kingdom,Londonロンドン「ナショナル・ギャラリー」西洋絵画のコレクションでは、世界最大級。政府がイギリス国民のために(外国人も)【入場=無料】で解放している美術館。フェルメール作品は・・・正面入り口を直進ウエスト・ウイング[Room=16]17世紀作品1.『ヴァージナルの前に立つ女』油彩 カンヴァス 51.8cmx45.2cmThe National Gallery/Unted Kingdom,London「ロンドン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。2.『ヴァージナルの前に座る女』油彩 カンヴァス 51.5cmx45.6cmThe National Gallery/Unted Kingdom,Londonロンドン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。 地下鉄「チャリング・クロス駅」Charing cross乗車 地下鉄「ハムステッド・ヒース駅」Hampstead tube station下車Kenwood House/United Kingdom,Londonロンドン「ケンウッド・ハウス」ハムステッド・ヒース公園→公園の北端にある美術館。イギリス第一級指定建築物に指定されている。【入場=無料】1.『ギターを弾く女』油彩 カンヴァス 53.0cmx46.3cmKenwood House/United Kingdom,Londonロンドン「ケンウッド・ハウス」所蔵。帰りに・・・館内カフェに寄りましょう イギリス LCCで飛ぶぽち
2022.05.28
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3年間のコロナ騒ぎが終われば海外旅行がスタートですね〜まずはパリ・ルーヴルでしょうかMusée du Louvre/France,Parisパリ「ルーヴル美術館」旅の空想計画『フェルメールを訪ねる旅』日本オランダ(アムステルダム→デルフト→ハーグ→アムステルダム)ドイツ(ベルリン→ブラウンシュヴァイク→ドレスデン→フランクフルト)オーストリア(ウィーン)フランス(パリ)イギリスアイルランドアメリカ帰国ヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトvan Delft ファン・デルフトは「デルフトの」という意味。当時は、他の人と間違えないように地名を入れている。父は、レイニエル・ヤンスゾーン・フォスフォスは、Vos=キツネを意味するものだが、のちにファン・デル・メールに性を変更し、ファン・デル・メール・ファン・デルフトそれを短縮して「ヨハネス」に短縮した。なぜ短縮したかは・・・不明。フェルメールは・・・オランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。オーストリア(ウィーン)から フランス(パリ)までは・・・空路での最安値は、8554円・・6月。(CDG)シャルル・ド・ゴール空港到着。(LCC)格安航空会社だと「ターミナル=3」到着CDGVAL(シャルル・ド・ゴール・ヴァル)でターミナル=2に移動。空港からパリ市内へ向かう方法鉄道=RERの駅へ Aéroport Charles de Gaulle RER B線→(B線の各駅に停車)北駅までは25分。10.30ユーロロワシーバス=オペラまで約60分。12ユーロタクシー=パリ右岸まで50ユーロ。左岸まで55ユーロ。30分〜50分いずれの交通費も値上がりしているかもです。パリ市内の交通メトロ、RER、バスの切符は、とても便利。距離に関係なく全線均一料金。10枚綴りのカルネ( Carnet)を買うと同行の友人と分け合って使えるのでオススメ。チケット、カルネは、駅の券売機で買えます。(大きな駅なら窓口でも購入可能)地下鉄=1番か、7番に乗ってルーヴル美術館:Palais Royal Musée du Louvre下車。フランスMusée du Louvre/France,Parisパリ「ルーヴル美術館」 世界で最も有名な美術館=ミュゼ・ド・ルーヴルここはパリ1区=パリの中心です。美の殿堂のガラスのピラミッドが入り口です。【入場料金】17ユーロ(18歳未満=無料)9時から開館なので朝一番に行きましょう多くの人がミロのヴィーナスかモナ・リザに走りますが、今回は、フェルメールへ向かいましょう場所は、リシュリュー翼エスカレーターで3階へ「リシュリュー翼」3階 2e étage1.『レースを編む女』『レースを編む女』1670年頃油彩 カンヴァス 23.9cmx20.5cm(とても小さいので見逃さないように)Musée du Louvre/France,Parisパリ「ルーヴル美術館」所蔵。 2.『天文学者』『天文学者』1668年油彩 カンヴァス 50.0cmx45.0cmMusée du Louvre/France,Parisパリ「ルーヴル美術館」所蔵。フェルメール2点は、いつも近くに展示してあります。2E ここには・・・ルーベンスの「マリード・メディシスの生涯」やデューラーの自画像。ラ・トゥールの「ダイヤのエースを持ついかさま師」など。朝ならほぼ・・・独り占めですそして、ルーヴルを満喫。 地下鉄で移動=乗り換えて3号線へパリ市内のガリエニ駅の格安ホテルで・・・1泊地下鉄3号線の終点翌朝のバスでロンドンへ高速道路の下を通って国際バスターミナルへパリからロンドンまで最安値で行けるバスGare Routiere Internationale de Paris-Gallieni国際バスは・・・ユーロライン(Eurolines)ドヴァー海峡トンネルを渡る国際長距離バス(コーチ)パリ・メトロ3号線終点「ガリエニ国際バスターミナル」発着。(写真撮影:ほしのきらり)次の訪問国イギリスに向かいましょう飛びますぽち
2022.05.27
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ヨハネス・フェルメールを訪ねる空想計画を楽しんでおります〜正直言って一番行ってみたい美術館は、ウィーンの「美術史美術館」なのであります旅の空想計画『フェルメールを訪ねる旅』日本オランダ(アムステルダム→デルフト→ハーグ→アムステルダム)ドイツ(ベルリン→ブラウンシュヴァイク→ドレスデン→フランクフルト)オーストリア(ウィーン)フランスイギリスアイルランドアメリカ帰国ドイツ・フランクフルトからオーストリア・ウィーンへ列車で行ってみたい!フランクフルトから(ICE)最高時速320kmの列車ヴェルツブルク→ニュルンベルク→ウィーンまでは、7時間。ウィーンは、もう21年ぶりザッハトルテのカフェをはしごした若い頃が懐かしいオーストリアAustria,Viennaウィーンは・・・ハプスブルク家の繁栄のもとオーストリアの首都として発展した街。モーツアルト、ベートーベンの活躍した荘厳華麗な宮殿、教会、コンサートホール、美術品のコレクションも充実しています。その中でも今回、一番行きたいのが・・・ウィーン美術史美術館『美術史博物館』Kunsthistorisches Museumフェルメール作品は・・・1点『絵画芸術』1666年〜1667年頃油彩 カンヴァス 120.0cmx100.0cmKunsthistorisches Museum Wien/Austria,Viennaオーストリア「ウィーン美術史美術館」所蔵。【交通】路面電車と地下鉄で行くことができます。シュトラーンセンバーンStabenbahn「路面電車」ウーバーンU-Bahn「地下鉄」どちらも共通の乗車券です。駅の窓口、自動券売機、タバコ屋(Tabak-Trafik)路面電車の車内でも1回乗車券が買える(車内は高い)「地下鉄」2=Museumsquartier下車3=Volkstheter下車「路面電車」1、2、D番 Buging下車【入場料金】15ユーロ(学生・シニア11ユーロ)18歳以下無料Kunsthistorisches Museum Wien/Austria,Viennaウィーン「ウィーン美術史美術館」フェルメール『絵画芸術』の展示室は【2階】・・オランダ・フラマン・ドイツ絵画コーナー・・階段を上がって左側奥・・・【18展示室】ブリューゲルのコレクションが豊富『バベルの塔』とか、『雪中の狩人』『農民の婚礼』『子供の遊び』なども。・・イタリア・スペイン・フランス絵画・・・階段を上がって右側には、ティツィアーノ、ラファエロ、アルチンボルト、ベラスケス『青いドレスのマルガリータ王女』も見逃せないここは終日のんびり鑑賞したい。ウィーン・・・1泊ウィーンからフランスへ向かいます。ウィーンパリ 航空券最安値は、6月・・・8554円パリに飛びますぽち
2022.05.26
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