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大峯顕という哲学専門の真宗僧侶の講義を聴いた。
以下私の感想である。
誤解も曲解もあるかもしれない。
強調されるところは、人間の真実ならざる、そのものの悲歎ということの実感、慙愧ということ。
それも、知識でなく、まさしく、実感としての、恥ずかしい、どうしょうもない自己の限界、悲しさ、偽善、見栄、体裁、打算、虚栄、おごり、高ぶり、闇、ドロドロしさという命の慙愧の実感そのものということ。
理屈でない実感そのものということを受け止めた。
そういうところにこそ、同時に、阿弥陀仏の、こんな私を救うという大きな慈悲を、これも知識ではなく、実感として、命が感動しているそこのところこそ、信心といわれるものということを学んだ。
しかし、一般に、説く僧侶も、聞くものも、上っ面の知識あるいは理解というところで、実感も感動もなく、恥ずかしいとか、ありがたいという言葉で、わかったつもりになっているというところを、これは信心ではないということを、ことに強調されたと思う。
阿弥陀仏や浄土をどこか外に眺め、信仰するとか、信じるとかいうが、そういうものに頼るとかおまかせするということではなく、自分の偽善、不実が問題になるところにうなずけてくるところこそ信心というものであることを強調される。
信心とは、『知性』においては、阿弥陀仏や浄土に「あー真実とはこういうものなんだなーと目覚めるところ。
同時に、自分や、人間社会は、自我の執着にどうしょうもなく絡められていて、全く、偽善・不実だなーとめざめ感じるところ。
『感情』のところでは、こんな不実のものを、どんなことがあっても必ず、まことに仕上げる「成仏させる」というところに、アーありがたいなーと感じるところ。
『意思』においては、とても仏のようなまねさえもできないが、少しでも、慈悲心というものの真似事でも出来ればなーと感じ、ささやかでも思いやりの心、やさしい心、温かい心を忘れないように、歩もうとするところと思う。
まさしく、信心とは、単なる信仰ではなく、この『知性』『感情』意志』において、阿弥陀仏や浄土を通して、真実と虚仮不実とを実感してあゆめているそこのところといえる。
質問で、自分は、阿弥陀仏の所在根拠を、西田幾多郎や大谷派の内在的考え方に同調するとの事を問うた。
講師は、西田幾多郎が、超越的内在ではなく、内在的超越であるといわれたところ、つまり、阿弥陀仏は本来、外なるものではなく、内なるところに根拠を持つとの事に同調された。
二元的・恩寵的・対象的・実体的おまかせ、あてたよりとするような信仰ではなく、自覚的、一元的、実践的信心こそ本来的、信心のありようであろう。
でも、講師は、まだ二元的であった感あり。