神との対話と故郷への旅

神との対話と故郷への旅

PR

×

Free Space

ホームページでもブログを書いています。

ピュアジョイ ブログ

Archives

2026.10
2026.09
2026.08
2026.07
2026.06

Comments

iamjoy @ 酷似してますね >ジャッキー35さん 内側の宇宙と外…
ジャッキー35 @ Re:ソフトを知る(06/18) 初めまして! そうですね!確かにソフトで…
iamjoy @ その結果… はい、その結果今のようになりました(^^♪
菜恵ちゃん @ iamjoyさんへ 相手がどう思うかではなくて、iamjoyさん…
iamjoy @ 流れていく… コメントありがとうございます。 本当に……

Calendar

Favorite Blog

まだ登録されていません

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

iamjoy

iamjoy

2006.10.20
XML
カテゴリ: ワンネス
私達は人の中に「嫌だな」と感じる部分を見ることができる。よく闇に光を当てれば、それは光であるといわれるが、その嫌な部分はその人にとっては、とても素晴らしい部分かもしれないのだ。それは完全に判断が入った見解ではあるが、それはそれでいい。つまりはそういうことなのだ。素晴らしい=嫌の法則だ。闇に光を当てれば、そこは光で満たされる。そこには、もう闇と光の区別はない。

また、それは自分にも言える。こんな発言を聞くことがある。「私はあの人のこういうところが嫌で、それを見せられているのはわかるんだ。でも、私にも同じところがあるのはわかるけど、それはやっぱり嫌なの」何故嫌なのか…それは、自分の中の概念で判断しているからだ。「~だから、嫌だ」その概念そのものは、最初からなかったものだと思えばいい。宇宙にそんな概念はもともと存在しない。それに気づき、その嫌だと判断する概念を創り上げたのは、しつけや周りの環境があったからだということをただ知ることだ。無理に直そうとしなくても、ただ知ればそれでいい…。そして、知った上でその概念から離れられない自分もまたそれでいい。

私には随分前まで自分の気持を素直に表現できない、というところが強くあった。それは、大きな恐れでもあった。つまり、自分の気持を言っても理解されないかもしれない、または批判されるかもしれないという恐れに基づいていた。

私はそれを大きな気持で受け止められるまで、随分時間をかけてきた。そして、その恐れそのものに愛を注ぐ。それは、その恐れが実は、愛そのものであることに気づくことだ。その愛とは、私自身が実はそれを本当はやりたいことであることに気づくことだったのだ。本当はその恐れていることそのものをやりたかったのだろう。気づけば解放されていく。それは恐れが愛の方向へ向かう時だ。そして、私はそれを今この瞬間も感じている。今これを表現することは、私にとって私への愛そのものである。

「私は私である。」





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2006.10.20 12:11:05
[ワンネス] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: