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天皇は半ば神であり半ば人である。この「半神半人」という虚構の上に天皇の伝統は成り立っている。森鷗外「かのように」、本居宣長「古事記伝」、福澤諭吉「帝室論」、中江兆民「平民のめさまし」、三島由紀夫「英霊の聲」、チェスタトン「伝統とは何か」、ハイエク「隷属への道」、サルトル「存在と無」など古今東西の知見の助けを借りて、天皇とは何か、その存在意義は何かを浮かび上がらせようというのが本書のねらいである。
<目次>
第1章 天皇についての理 ~「かのように」の世界~
第2章 天皇という存在 ~天皇は神だ~
第3章 権威と権力の分離 ~権力を有たぬ権威者~
第4章 人間宣言と象徴天皇 ~象徴とは何か~
第5章 天皇機関説と法の支配 ~主権の在り処~
第6章 天皇を戴くデモクラシー ~民本主義~
第7章 天皇の戦争責任 ~陛下親政の帰結~
第8章 天皇の政治利用 ~天皇の威を借る権力者~
●池内昭夫の公式ホームページ
●はてなブログ:保守論客の独り言
●ブロガーブログ:名著探究《判例や学説は、基本的人権の中でも表現の自由をひときわ重視し、刑事罰で制限することには極めて慎重であり続けてきた》(2025年11月24日付朝日新聞社説)
が、どうして司法や法学者が表現の自由を重視しているのか、刑事罰で制限することに何故慎重なのかについて踏み込まなければ、ただの法曹界の太鼓持ちにしかならない。
基本的人権の中で表現の自由が重視されているというのと、歴史伝統的に表現の自由が国民の権利として認められているというのとでは表現の自由に対する考え方が大きく異なる。今の日本は、敗戦によって歴史が寸断されてしまったために、観念的に表現の自由を考える傾向が強いと言えるだろう。問題は、どこまでその自由を認めるのかということであるが、憲法にあるように「公共の福祉」に反さない限り自由は認められるとせざるを得ない。 つまり、日の丸を傷付けるのは公共の福祉に反するのでその自由は認められないという話になる。
これは当然「公共の福祉」とは何かという問題に帰着する。が、「公共の福祉」とは何かを具体的に定義することはできず、日の丸を傷付けることは、罰則を設けなければならないほど公共の福祉に反するとまで断定することもまた難しいだろう。だから、法学的には国旗損壊罪には慎重にならざるを得ないのだ。
《民主主義を深めるには、自由に考え、それぞれの意見を交わすことが何より欠かせない》(同)
民主主義命の人達はこのようなことを言うけれども、個々人が自由に考えれば考えが深まるわけではないし、それぞれの意見を交わせば問題が平和的解決を見るわけでもない。むしろ、自由に考えれば考えるほど、それぞれの意見を交わせば交わすほど、民主主義に対する疑念や不信が高まるということも十分有り得ることだ。
《政府が国民を統合するシンボルとして国旗を使おうとすれば、その反作用として、特に少数者の側から、政府への異議申し立ての手段として国旗を使おうとする動きが出ても不思議ではない。それを抑圧する方法をとるのでは、強権的とのそしりを免れない》(同)
が、政府は国民を統合するシンボルとして国旗を使おうなどとしていない。また、政府への異議申し立ての手段として国旗を傷付けるわけでもない。日の丸は、政府ではなく日本の歴史文化を象徴するものだからだ。
《民主政治を健全に保つには人々の自由を最大限保障することが重要だ》(同)
「最大限」とはどの程度のことを指すのか、どのようにしてその判断を行うのか、そのことが問われるのであって、<自由を最大限保障することが重要だ>などとただ抽象的なことを言って修まっているようでは何の批判にもなっていない。【続】