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《そこで登場するほかないのがケインジアン、つまり「政府の財政出動」を慫慂(しょうよう)したり称揚(しょうよう)したりする者たちである。ただし、これから必要な財政出動は、景気浮揚のための(短期的な視野のなかでの)財政支出ではないし、震災減災対策のための(市場競争の外部における)公共事業支出にとどまるものではない。市場の「長期的な安定性」を確保するのに必須の、あるいは社会制度としての市場の「成立条件」を準備するのに不可欠な一切の公共活動、それを政府が保証しなければならないのである》(西部邁「安倍経綸のトリレンマ」:『表現者』2013年7月号、p. 196) ケインズは、「不況の時は穴を掘って埋めるだけの無駄な公共事業でも効果がある」と主張したとして悪名高いけれども、実際には「穴を掘って」云々とは言っていない。実際はどのように言っていたのかここで確認しておこう。When involuntary unemployment exists, the marginal disutility of labour is necessarily less than the utility of the marginal product. Indeed it may be much less. For a man who has been long unemployed some measure of labour, instead of involving disutility, may have a positive utility. If this is accepted, the above reasoning shows how 'wasteful' loan expenditure may nevertheless enrich the community on balance. Pyramid-building, earthquakes, even wars may serve to increase wealth, if the education of our statesmen on the principles of the classical economics stands in the way of anything better. -- John Maynard Keynes, The General Theory of Employment, Interest, and Money: Chapter 10: VI(非自発的失業が存在する場合、労働の限界不効用は、必然的に限界産出物の効用よりも小さい。それどころかずっと小さくなるかもしれない。長きに亙って失業状態にある人にとっては、ある程度の労働は、不効用どころか、正の効用を齎(もたら)すかもしれない。このことを認めるとすれば、上記の推論から、如何に「無駄な」公債支出であっても、結局のところ社会を豊かにし得るであろうことが分かる。古典派経済学の原則に関する政治家の知識のせいで、より良いものが阻まれるのであれば、ピラミッドの建設、地震、さらには戦争でさえ、富を増大させるのに資するかもしれない)――ジョン・メイナード・ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』第10章6 働きたくても働く場がないのであれば、それを作ればよい。古典派経済学、すなわち、自由放任主義(laissez-faire)に毒された政治家が政府が市場に介入するのを拒むのであれば、散財にしか思われないピラミッドを建設するのも有りだし、地震でも起これば勿怪(もっけ)の幸いだし、戦争が起これば自由放任などという話は吹っ飛んでしまう。勿論、ケインズは、ピラミッドを建設せよと言っているわけではないし、地震が起こることを願っているわけでもないし、戦争になればよいと考えているわけでもない。ただ社会に失業者が溢(あふ)れているのに政治が何もしないのは間違っていると言いたいだけである。【続】
2026.09.26
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《ほとんどの日本人は、意識的に、そのような資本主義のヴィジョンを持っていたわけではなかった。もし、日本人が、日本の資本主義に関する明確なヴィジョンや思想を持っていたなら、バブル経済が崩壊しただけのことで、かくも全面的・根本的に、自国の資本主義を否定するような軽率な振る舞いはなかっただろう。日本の「資本主義」はシュンペーターを超えたが、日本の資本「主義」はまったくそうではなかったのだ》(中野剛志『資本主義の預言者たち』(角川新書)、p. 280) 日本は世界の先頭を走っていた。その象徴が1ドル80円という円高であった。円高とは日本が強いということだ。にもかかわらず、安倍政権は円安政策をとった。なるほど、円高は輸出業界にとって強い逆風である。つまり、円安政策とは輸出業界を助けるためのものだった。また、円安になったお陰で株価は上昇した。が、これは虚の経済における「成果」であり、このことは、日本が実体経済から虚の経済へと価値意識の軸足を移したことを意味する。つまり、実体経済の勝者であった日本は、虚の経済を後追いすることとなってしまったのだ。《1980年代以降、このような共同体主義的な経営の理念は、部分的には受け入れられたものの、世界全体としては、新自由主義の運動によって、金融資本主義、あるいはミンスキーの言う「マネー・マネジャー資本主義」の方向へ向かい始めた。その傾向は、21世紀に入ると、決定的となった。 特に、日本においては、90年代以降、企業経営の共同体的な性格は、資本主義の発展の趨勢を妨げる旧弊であるとして、それを排除するための「構造改革」が行われた。 構造改革論者は、シュンペーターであれば技術革新や経済発展の原動力であり、資本主義そして自由主義を守る城壁と見なしたであろう共同体的な経営形態を、自ら進んで破壊し、その代わりに、ミンスキーが嫌悪したマネー・マネジャー資本主義を成立させようとした》(同、pp. 280-281) 日本は、得意とする実体経済における優位を棄て、苦手とする(日本人の国民性に合わない)虚の経済の世界へと踏み込んだ。アベノミクスによって、虚の経済は膨らんだ。が、その反動で慢性的なデフレ経済に陥ることになってしまった。株や為替でお金を動かしている人達はウハウハ状態となった。バブル崩壊後7千円だった株価は、いまや6万5千円を超えている。が、一方で、一般庶民は、賃金が上がらず、低迷し続けている。【続】
2026.09.25
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《当時の日本では、経営者や従業員たちが、勤務する企業に対して愛着や忠誠心を抱き、企業の長期的な利益のために短期的な利益を犠牲にすることを厭(いと)わなかった。これを可能にしたのは、共同体的な性格を帯びた経営システム、いわゆる「日本的経営」である。 これにより、日本企業は、高い生産性と旺盛な技術革新を実現することができた。日本経済は、シュンペーターが見落とし、欧米の資本主義が苦しんだ問題を、企業を共同体的に運営する「日本的経営」によって克服していたと言えるのである》(中野剛志『資本主義の預言者たち』(角川新書)、pp. 278-279) 中野氏の言う「日本的経営」とは、要するに、農耕民族のDNAに基く、集団主義的経営ということになるのではなかろうか。日本は、シュンペーターの予言通りにはならなかった。それはおそらく、日本の資本主義が集団的資本主義だったからだ。シュンペーターがこの資本主義を見落としたのか、それともシュンペーターが欧米にしか眼中になかったのかは分からない。が、いずれにせよ、日本はシュンペーターが言うような官僚化そして社会主義化が進まなかったのは事実だ。《「指導された資本主義」あるいは「社会主義」が経済発展を可能にするためには、独立した企業家に代わって技術革新や投資を担う大企業や国家が、単なる合理主義的・非人間的な官僚機構ではなく、ある種の共同体的な性格を帯びている必要がある。企業経営であれば共同体主義によって、そして、国家経営であればナショナリズムによって支えられている必要があるのである。それによって、人々は、その視野を遠い将来にまで拡大し、長期的な目的に向けて行動することができるようになり、持続的な経済発展が可能になる》(同、p. 279) 個人主義は、中でも英国的な経験論的個人主義ではなく、大陸的な観念論的個人主義は、合理主義の影響を受けやすい。一方、慣例や慣習を重んじる集団主義は合理化とは反りが合わない。だから日本的資本主義は、欧米のような合理化の災厄を免れ得たのだ。《シュンペーターの預言の射程は、約1世代ほど先、つまり1970年代頃までであった。彼は、確かに、大きな政府と官僚制的な大企業から成る父権的資本主義の成立を、ある程度的確に預言したのである。 しかし、他方で、シュンペーターは、近代的な企業組織の共同体化によって、合理主義化・官僚制化の傾向を緩和できることを見落としていた。企業家の持つ非合理主義的な要素を大規模な企業組織の中にも持ち込むことの可能性にまで、考察が及ばなかったのである。その可能性を切り開き、シュンペーターを超えたのは、日本の資本主義であった》(同、p. 280)【続】
2026.09.24
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《もし、大企業や行政機構が、中産階級の企業家の代わりに経済発展を進める機能を果たそうとするなら、これらは単なる合理主義的な官僚機構ではなく、ある種の共同体的な性格を帯びたものでなければならないであろう。すなわち、大企業や行政機構に勤務する人々が、勤務先や勤務先が奉仕する社会に愛着や誇り、あるいはある種のアイデンティティを持ち、組織や社会の将来の利益や目的のために行動するようになっていなければ、長期的な観点に立った経済活動を行うことは難しいはずなのである》(中野剛志『資本主義の預言者たち』(角川新書)、p. 277) 合理化を推し進めていったとしても、決して合理化してはならないものがある。それは「主体」である。合理化は「客体」に対してなされるべきものであって、主体まで合理化してしまっては物事を意味付けすることが出来なくなって、虚無に覆われてしまうだろう。《シュンペーターが社会主義への過渡的な形態として位置付けた「指導された資本主義」または「酸素吸入装置付きの資本主義」、あるいはミンスキーの言う「父権的資本主義」は、戦後の一時期、欧米において成立したと言える。すなわち、大きな政府と大企業組織による生産活動や投資活動が支配的な経済システムである。しかし、このタイプの資本主義は、1970年代から80年代にかけて、生産性の伸び悩み、非効率、技術革新の停滞そしてインフレといった病に苦しむこととなった。大規模組織において、合理的な規則や計画に従って行動するだけの労働者たちには、生産性向上や技術開発に向けた自発的な動機が欠けていたからである。 他方、当時の日本は、こうした「酸素吸入装置付きの資本主義」の副作用に苦しむことなく、高い経済パフォーマンスを維持した。企業は、短期的な利益よりも長期的な利益を優先して技術開発投資を積極的に行い、労働者の生産性は高く、インフレは抑制されていた》(同、p. 278) 一体欧米と日本の何が違うというのだろうか。要するに、背負っているものが違うということなのではなかろうか。つまり、「歴史」の重さが違うということだ。日本には一貫した長い歴史がある。だからこそ重い歴史を背負った日本人は、判断が大きくブレないのだ。一方、歴史に一貫性のない欧米は、背負うものがないために、判断が極端に振れがちなのだ。欧米には「革命」が起こっても、日本には起らなかったのも背負うものの違いが大きいように思われるということだ。【続】
2026.09.23
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《しかし、資本主義が発展していくと、その非合理主義的な基盤にまで合理主義化が及ぶようになる。合理主義的に運営される大規模な官僚制的組織が、非合理主義的な直観や衝動によって動く企業家にとって代わるのである。その結果、資本主義は崩壊し、代わって社会主義という、合理主義が徹底された経済システムが成立する。資本主義とは、非合理主義に支えられた合理化の運動であり、他方、社会主義とは、合理主義そのものである。これがシュンペーターのヴィジョンであった》(中野剛志『資本主義の預言者たち』(角川新書)、p. 276) 非合理的に過ぎる「魔術」を排除することは、資本主義の発展にとって不可欠なものだっただろう。が、これが合理的でないものはすべて排除しなければならないなどという話になると別だ。プロテスタンティズムという支えがあればこその資本主義だったのであり、非合理的なものはすべて排除しようなどとすれれば、資本主義の底が抜けてしまいかねないのだ。《およそ人間の活動には、動機というものがなければならず、持続的な経済活動の原動力となるのは、共同体という目的に向けた動機である。共同体に対する感情が、自分の寿命より先の将来に向けた関心を呼び起こし、人をして、長期的な観点に立った経済行動へと向かわせるからである》(同、p. 277) 大きく分けて2つの動機があるように思う。1つは、共同体の歴史を背負い、その延長線上に未来を見るというものであり、もう1つは、例えば進歩史観に定められた未来図のレールの上に自らの乗せようとするものである。前者は経験に基づくものであり、後者は観念に基づくものだ。豊かな歴史を有する日本は前者に基くべきであると思われるけれども、敗戦後の日本が薄っぺらな欧米流の観念に平伏(ひれふ)し続けているのは残念な限りだ。《共同体的な性格を持たない合理主義的な官僚機構としての大企業や行政機構が、崩壊した中産階級に代わって長期的な生産や投資、あるいは技術開発を行うことは困難であろう。なぜなら、大企業や行政機構の官僚たちに、長期的な利益のために働く動機がないからだ》(同) 合理化とは非合理なものを排除することに他ならないが、非合理なことを不要なもの、役に立たないものと斬り捨てることは果たして正しいことなのか。むしろ、非合理と思われることにこそ、差別化やイノベーションの源泉があるのではないか。だとすれば、合理化とは、資本主義が原動力とすべき大切なものを削ぎ落としていく過程に他ならないと考えることもあながち間違ってはいないだろう。【続】
2026.09.22
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《シュンペーターのヴィジョンには、非合理主義的で人間的な企業家と、合理主義的で非人間的な大規模組織というマックス・ヴェーバー的な二分法がある。企業家は、自立し、活力に満ち、カリスマ的なりリーダーシップと直観によって不確実な未来を開拓し、革新的な活動を展開する。他方、大規模組織は、官僚制的で、計画や規則に従って、計算どおりに動く自動機械である》(中野剛志『資本主義の預言者たち』(角川新書)、p. 276) ウェーバーと言えば、私が気になるのは、「魔術からの解放」の話だ。《現世を魔術から解放するという宗教史上のあの偉大な過程、すなわち古代ユダヤの預言者とともにはじまり、ギリシャの科学的思惟と結合しつつ、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥したあの魔術からの解放の過程は、ここに完結をみたのである。真のピュウリタンは埋葬にさいしても一切の宗教的儀式を排し、歌も音楽もなしに近親者を葬ったが、これは心にいかなるsuperstition(迷信)をも、つまり呪術的聖礼典的なものが何らが救いをもたらしうるというような信頼の心を生ぜしめないためであった。神が拒否せんと定めたまうた者に神の恩恵を与えうるような呪術的な方法など存在しないばかりか、およそどんな方法も存在しない。一切の被造物は神から完全に隔絶し無価値であるというそっけない教説に結びついて、こうした人問の内面的孤立化の感想は、一面、文化と信仰における感覚的・感情的な要素へのピュウリタニズムの絶対否定的な立場――けだしそれらの要素は救いに無益であるとともに感覚的迷妄と被造物神化の迷信を刺戟するからである――の、さらに彼らのあらゆる感覚的文化への原理的な嫌悪の根拠を包蔵している》(マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)梶山力・大塚久雄訳、pp. 26-27) 資本主義の発展は、禁欲的ピューリタニズムが、世界から魔術的・呪術的な要素を徹底的に排除し、合理化を推し進めた過程と共にあったということだ。《シュンペーターにとっての資本主義は、純粋に近代的な合理主義に支配された自動メカニズムではなかった。むしろ、資本主義を動かすものは、組織の合理的な計画や計算よりも、企業家の直観、リーダーシップそして家族動機である。言い換えれば、資本主義は近代的で合理的でありながら、その基盤は、近代合理主義とは異なる精神や価値観によって支えられているのである》(同) 資本主義は、カトリックにあった秘跡や聖遺物、聖職者による呪術的な救済手段を迷信や邪悪なものとして排斥すればこそ発展できた。が、プロテスタンティズムに支えられて発展したのであるから、非合理的なものをすべて排除したわけではない。【続】
2026.09.21
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《創造的破壊が市場機構にとって破壊的創造となりかねないことについて、シュムペータリアンは過小評価している。仮に創造的破壊の意欲と能力と機会に日本国内の企業家たちが恵まれていたとしても、イノヴェーションは、「新奇」な技術・製品・資源・販路・組織の創造であるからには当然のこととして、「未来の不確実性」を増大させ、それは市場の価格体系を不断の動揺にさらさずにはいない。つまり、フリードマニアンとシュムペータリアンが協調するのは至難の業(わざ)なのである》(西部邁「安倍経綸のトリレンマ」:『表現者』2013年7月号、pp. 195-196) どうしてシュンペーターは、<創造的破壊>(creative destruction)などという仰々しい用語を用いたのか。《資本主義の本質は創造的破壊なので、資本主義の前提にある共同体的なもの、つまり、資本主義の基盤であるはすの共同体をみずから壊す…だからオーナー的なものとか、家族的なもの、ブルジョワ階級の家族的なものを資本主義は破壊するので、結局、資本主義は自分の成長の源泉をみずから締め殺して官僚制化して社会主義になる》(中野剛志・柴山桂太『グローバリズム その先の悲劇に具えよ』(集英社新書)、p. 190)とシュンペーターは考えたと中野氏は言う。資本主義は、創造的破壊行為によって、成長すると同時に自ら成長するための源泉を破壊してしまうため、資本主義は終わりを告げ、やがて社会主義が招来される。つまり、皮肉にも、資本主義は、社会主義を創造するために自らを破壊してしまうという話なのだ。《資本主義は、古い産業や制度を破壊し、新しいものを生み出す「創造的破壊」によって発展する。企業家は、企業を所有するとともに経営を行う中産階級の精神と、家族のために資産を残すという動機に動かされて、創造的破壊に邁進(まいしん)する。しかし、創造的破壊のプロセスは、中産階級とその家族という制度をも破壊し、企業家は革新的な経済活動のための精神的原動力を失う。企業家に代わって生産や投資を担うのは、合理的で自動的に動く官僚制的な大規模組織であり、そして政府である。これが、シュンペーターの描いた社会主義の到来までの道である》(中野剛志『資本主義の預言者たち』(角川新書)、p. 275) 西部氏は、フリードマンとシュンペーターの反(そ)りが合わないことを問題にしていたが、この2人は論点が異なっているのだから当然のことだ。フリードマンは、ケインズ政策のように、政府が市場に介入することを批判し、予め決められた比率(k%ルール)で通貨量を増加させて景気を安定的なものにしようと考えた。一方、シュンペーターは、<創造的破壊>という概念を用いて、資本主義から社会主義への経済の進化を予見した。見ているところが異なるのだから、同じ土俵にのせることなど出来ないのだ。【続】
2026.09.19
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《「イノヴェーションのための規制緩和」を促進することにより、国内の経済成長率を高めるのだ、とアベノミクスからの反論があるであろう。シュムペーターのいわゆる「創造的破壊」の経済思想が、これまでの規制緩和運動が過剰投機のはてに(設計偽造や会計偽装といった)「詐欺」を旨とするマモニズム(拝金教)の資本主義をもたらしたにもかかわらず、相も変わらずもてはやされているわけだ。いや、そんな資本「主義」の暴走は、ディレギュレーション(規制撤廃)をリレギュレーション(再規制、規制の組み替え)によって封じ込めればよい、とシュムベータリアンたちは言い逃れるに相違ない》(西部邁「安倍経綸のトリレンマ」:『表現者』2013年7月号、p. 195) 規制を緩和すれば、自由度が高まり経済が成長する、などという話はただの「与太話」だ。規制の際たるものは、国の文化的な慣習である。日本的なやり方をやめ、世界標準に合わせれば、経済成長するなどという話は、言うまでもなくグローバリストの策略に過ぎない。 失われた30年はどうして生まれたのか。それは規制を緩和し、競争してこなかったからではない。日本人が日本的な慣習を棄てたからだ。最大の問題は、働くことに対する価値観が変わってしまったことだ。象徴的なのが「働き方改革」という安倍政権の悪しき社会主義政策である。働き過ぎてはならないとお上が規制を掛ける。 ここには働くことは「悪」であるという西欧的労働観がある。聖書には、労働は人間が犯した罪に対する神からの罰として描かれている。一方、日本人にとって働くことは「善」であった。古事記に描かれた神々も自らよく働いた。それが日本の文化であった。だからこそ、敗戦後の驚異的な復興も可能であったのだ。 が、お上は、過労死になってはならないと働くことにブレーキを掛け、ワークライフバランスが大切だなどと宣(のたま)う。人々は、働くことの自由を奪われたのだ。俗に、働くとは「傍を楽にさせること」などと言うけれども、これは働くということに美徳を見る日本人ならではの価値観だ。 働き過ぎはよくないとはいかにも人道主義的である。が、かつてのように働かなくなったことが失われた30年なのだとしたら、この30年は失われたわけではなく、仕事と生活のバランスが「正常化」したと言うべきではないか。額に汗して働くという美徳を放棄したのであれば、日本経済が衰退するはむしろ必然の結果であり、これを選択したのであれば、今更つべこべ言うべきではない。 1980年代において独り勝ちだった日本は、まるで誰かの指図があったかのように突如として方向を変えた。働く自由を奪われた人たちは、デフレ社会をそれなりに楽しんでいる。変な話である。【続】
2026.09.17
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《物価上昇(インフレ)率を一定に保つように日本銀行が貨幣供給の量的緩和を推し進めれば、我が国の市場経済が調和的に発展するであろう、とインタゲ論者は主張している。たしかに、インタゲが実現されると「期待」されるだけでも、それに応じて外国為替が円安になって輸出が増大するだけでなく、証券需要の増大が見込まれるので株価が上昇し、それによって物価と金融資産価格とが上昇するにつれて国内消費も増大する。現に、この半年間、経済市況はその方向で動いている》(西部邁「安倍経綸のトリレンマ」:『表現者』2013年7月号、pp. 194-195) 仮にお札を沢山刷って市場の貨幣流通量が倍になったとしよう。そのことで国の資産自体は変わらないとすれば、円の価値は半減することになる。つまり、「円安」である。が、そのことで株の価値自体が変わらないとすれば、株価は額面上倍になる。つまり、「株高」である。金融緩和とは、このような構造下にあり、市場に流通する貨幣量を増やせば、円安・株高が招来されることとなるわけだ。《しかし、そこで軽視されている1つの重大な因果がある。短期金利が下落するかわりに長期金利の上昇(国債価格の下落)が進むせいもあって国内の民間投資需要にして不活発になるならば、インタゲ政策によって増えた投資資金は、外国の証券市場に向かったり、後発国の低賃金を求めて外国への直接投資に使われるということだ》(同、p. 195) が、市場にじゃぶじゃぶになったお金は、時間も労力も必要な実体経済には向かわず、安易に稼げる株や為替に向かう。要は、マネーゲームの資金になるのが「落ち」ということだ。《経済のグローバライゼーションにたいして、「国際資本移動への取引税」というような形での規制を施さないかぎり、この資本流出は不可避であろう。いや、その前に、国内でまだ稀少とみなされている(特定地域の不動産といったような)資源への投機資金として使われる可能性も高い。要するに、インタゲ政策による(局所的な)不動産バブル(を中心とするいわゆるレント・スィーキングつまり「地代探索的行為」)の発生ということである》(同) 本来実体経済あっての虚の経済でなければならないのだが、現代は虚の経済があまりにも肥大化しすぎてしまった。企業業績が必ずしも良くなくても、金融ゲームよろしく株価が勝手に高騰するなどということが起こっているのだ。株価が上がるのは、企業業績が良いからではなく、多くの投資家がその企業の株を欲しがるかどうかにかかっている。つまり、今の株価は「株式バブル」によるものであって、いずれそれは弾ける運命にあるということだ。【続】
2026.09.16
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The rule that has most frequently been suggested by people of a generally liberal persuasion is a price level rule; namely, a legislative directive to the monetary authorities that they maintain a stable price level. I think this is the wrong kind of a rule. It is the wrong kind of a rule because it is in terms of objectives that the monetary authorities do not have the clear and direct power to achieve by their own actions. It consequently raises the problem of dispersing responsibilities and leaving the authorities too much leeway. There is unquestionably a close connection between monetary actions and the price level. But the connection is not so close, so invariable, or so direct that the objective of achieving a stable price level is an appropriate guide to the day-to-day activities of the authorities. – Milton Friedman, Capitalism and Freedom, III The Control of Money(概してリベラルな立場の人達が最も頻繁に提案してきたのは、物価水準ルール、すなわち、金融当局に対し、物価水準を安定維持するよう求める法的指針である。これは誤った種類のルールだと思う。なぜなら、このルールは、金融当局が自らの行動によって達成するための明確で直接的な権限がない目標に関するものだからだ。その結果、責任が分散し、当局に裁量の余地を残しすぎるといった問題が生じてしまう。金融政策と物価水準に密接な関連性があるのは疑いようもないことだ。しかし、その関連性は、物価水準の安定化という目標が当局の日々の活動における適切な指針となり得るほど、密接なものではないし、不変なものでも、直接的なものでもない)― ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』第3章 金融統制 物価水準をターゲットとする「物価水準目標」とインフレ率をターゲットとする「インフレ目標」はターゲットに違いがあるものの、政府がターゲットに従って金融政策を行うという点は同じであり、フリードマンは政府が恣意(しい)的に金融政策を行うことに反対しているのだ。In the present state of our knowledge, it seems to me desirable to state the rule in terms of the behavior of the stock of money. My choice at the moment would be a legislated rule instructing the monetary authority to achieve a specified rate of growth in the stock of money. – Ibid.(現在知り得るところでは、貨幣ストックの動向に基づいてルールを定めるのが望ましいように思われる。現時点では、通貨当局に対し、特定の貨幣ストックの成長率を達成するように指示するルールを法律で定めるのがよいだろう)― 同For this purpose, I would define the stock of money as including currency outside commercial banks plus all deposits of commercial banks. I would specify that the Reserve System shall see to it that the total stock of money so defined rises month by month, and indeed, so far as possible, day by day, at an annual rate of X per cent, where X is some number between 3 and 5. The precise definition of money adopted, or the precise rate of growth chosen, makes far less difference than the definite choice of a particular definition and a particular rate of growth. – Ibid.(このためには、貨幣ストックを、市中銀行のすべての預金に加え、市中銀行外の通貨を含むものとし、このように定義された貨幣ストックの総量が、月ごとに、可能な限り日ごとに、年率Xパーセント(Xは3から5の間の数値)で増加するよう準備制度が取り計らうことを明記する。特定の定義と特定の成長率を明確に選択することに比べれば、採用される貨幣の定義が正確かどうか、選定される成長率が正確かどうかは取るに足りないことだ)― 同As matters now stand, while this rule would drastically curtail the discretionary power of the monetary authorities, it would still leave an undesirable amount of discretion in the hands of Federal Reserve and Treasury authorities with respect to how to achieve the specified rate of growth in the money stock, debt management, banking supervision, and the like. – Ibid.(目下のところ、このルールは金融当局の裁量権を大幅に制限することになる一方、定められた貨幣ストック成長率の達成方法、債務管理、銀行監督などに関し、依然として好ましくない量の裁量権が連邦準備制度理事会および財務当局の手に残されてしまうだろう)― 同Further banking and fiscal reforms … are both feasible and desirable. They would have the effect of eliminating present governmental intervention into lending and investing activity and of converting governmental financing operations from a perpetual source of instability and uncertainty into a reasonably regular and predictable activity. But, though important, these further reforms are far less basic than the adoption of a rule to limit the discretion of the monetary authorities with respect to the stock of money. – Ibid.(さらなる銀行・財政改革は、実行可能でもあるし、望ましくもある。それらは、現在のような融資や投資活動に対する政府の介入を排除し、恒久的に不安定で不確実だった政府の資金調達業務を合理的に規則性のある、予測可能な活動へと転換する効果をもたらすだろう。しかし、これらのさらなる改革は、重要ではあっても、貨幣ストックに関する金融当局の裁量権を制限するルールを採用することに比べれば、はるかに根本的なものではない)― 同 【続】
2026.09.15
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《内政と外交の両画で危機に逢着(ほうちゃく)しているのが日本の「国民と政府」(国家)の現状なのであってみれば、安倍政権の誕生と継続それ自体は歓迎に値する。しかしそうであればなおさら、いわゆるアベノミクスにおける「脱デフレのためのインフレターゲット」論と「経済成長のためのイノヴェーション」論と「列島強靭(きょうじん)化のための財政出動」論の経済政策トリアーデ(三幅対(さんぷくつい))がこれからもしっかりと日本列島を踏みしめられるほどに堅固(けんご)なものかどうか、吟味しておく必要がある。それが倒壊すれば、日本国家は、衰運の兆しが顕著なアメリカの跡を追って、いよいよもって列島脆弱(ぜいじゃく)化の轍(てつ)にはまるに違いない》(西部邁「安倍経綸のトリレンマ」:『表現者』2013年7月号、p. 194) アベノミクス3本の矢「金融緩和」「財政政策」「成長戦略」を西部氏は、より具体的に「インフレターゲット」「イノヴェーション」「財政出動」と捉えているわけである。これを私は、「円安・株高誘導」「公共投資」「規制緩和」が味噌だと捉えている。《インフレターゲット(インタゲ)論は、貨幣数量主義で名高いミルトン・フリードマンの(中央銀行の貨幣供給にかんする)「K%ルール」に出自する。つまり、一定のK%で貨幣供給を増やしていくというルールを中央銀行が守るならば、いずれ市場全体がステッディ・ステート(恒常状態)を享受できるであろう、とこの市場競争のドクトリネアリスト(教条主義者)は宣(のたも)うたのである》(同) 誤解の無いように付け加えれば、アベノミクスのインフレターゲットは、クルーグマンが主張するものであって、フリードマンのものではない。《フリードマンによると、大恐慌の原因はただ1つ。アメリカの連邦準備会(FRB)の金融政策の失敗にあるという。不況下で貨幣の供給を増やすべきところを逆に、引き締めた結果である、と力説した。ケインズ派の不況対策か公共事業を中心にして需要の拡大にあるのに対し、マネタリズムは貨幣の供給を一定のルールでふやすことを主張する。いわゆる「X%ルール」である。政策当局に信頼を置くケインズ主義と、不信を持つマネタリズムの決定的な違いである》(香西泰「M・フリードマンーーマネタリズムの総帥」:『現代経済学の巨人たち』(日本経済新聞社)、p. 61) 政府の介入に不信を抱くフリードマンは、政府がインフレターゲットに合わせて貨幣供給量を調整するのではなく、一定のルールに基づいて貨幣供給を増やすことを主張したのだ。【続】
2026.09.14
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《アベノミクスは、3つの矛盾した矢をはなっている。しかし、好意的にいえば、この矛盾は、政策判断の問題というよりも、今日の日本の置かれた立場からくるものである。ひとたび、グローバル化とアメリカとの友好という方向で経済発展を始めた以上、この路線から根本的に逸脱することはほとんど不可能であろう。グローバル化、市場競争化、構造改革、TPPに根本から決別することは、残念ながら、よほどの蛮勇胆力をもった政治家でなければ不可能であろう》(佐伯啓思「アベノミクス」が隠す日本の「ディレンマ」:『表現者』2013年7月号、p. 59) グローバル化にとっての障壁は国家である。だから、国家固有の伝統や慣習による規制は取り除かねばならない。よって、グローバル化に与(くみ)するとは、日本らしさを失うということに他ならない。昨今の日本の状況を鑑(かんが)みるに、日本らしさがどんどん失われて行っている。アベノミクスもその流れの中で打ち出された政策であることを忘れてはならない。《グローバル化も、構造改革も、市場中心主義も、TPPも、部分的には(というより本質的には)日米関係である。少なくともその発端はそうであった。そして、確かに日本の安全も経済的な発展も安定した日米同盟関係がなければ難しかったであろう。それは戦後一貫してそうだ。かくて、戦後日本の繁栄は自立性を半ば放棄することで可能となったのである》(同) 大戦に敗れた日本は、米国に隷従せざるを得なかった。一方で、米国に隷従することによって、つまり、隷従をうまく利用することで日本は復興を遂げた。復興まではそれでよかった。が、1980年代には、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」となり、米国を追い抜きかねないところまで来てしまった。 1997年6月、橋本龍太郎首相(当時)は、訪米先のコロンビア大学で行った講演で「米国債を大幅に売りたい誘惑に駆られたことがある」と発言した。大量に米国債が売られれば、米国債の価格が下落し金利が上昇する。そうなれば、米国経済は大パニックに陥る。橋本首相は本気で米国債を売ろうとしたとは思えないし、実際に得ることが出来たとも思えない。にもかかわらずこのような発言を行ったのは、おそらく日米の力関係を少しなりとも日本に有利にしようとしたからだろう。が、これは、分(ぶん)を弁(わきま)えぬ発言だった。もはや日本に好き勝手させるわけにはいかないと米国が思ったとしても何ら不思議ではない。《グローバリズム、構造改革、日米同盟などを無条件で、しかも積極的に受け入れたとき「独立の気風」が失われる。実は、アベノミクスが本当に功を奏するかどうかはかなりあやしい。超金融緩和はバブルを引き起こし、これは金融市場を不安定化するであろう。公共投資はまたいずれ市場からの反撃にあうだろう。TPPや市場競争戦略は、社会の基盤を弱体化するであろう。 となれば、アベノミクスの先行きが万全とは考えにくい。しかしそれ以上に、かりに一定期間であれ、アベノミクスが成功し経済が好調とみえることの方が本当は危機というべきなのである。それが真に重要な問題からわれわれの目をそむけてしまうからである》(同)【続】
2026.09.13
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《安倍首相は好んで福澤論吉の「一身独立、一国独立」なる言葉を引いているが、その福澤でさえ、「一身独立、一国独立」のもつ矛盾をどこまでするどく自覚していたか、かならずしも判然としない。もちろん福澤がただの欧化主義者ではなかったことはよく知られている》(佐伯啓思「アベノミクス」が隠す日本の「ディレンマ」:『表現者』2013年7月号、p. 58)《思想浅き人は輓近(ばんきん)世の有様の旧に異なるを見て之を文明と名け、我文明は外国交際の賜(たまもの)なれば、其交際愈(いよいよ)盛なれば世の文明も共に進歩す可しとて、之を喜ぶ者なきに非(あら)ざれども、其文明と名るものは唯外形の体裁のみ》(「文明論の概略 巻之六」第十章 自国の独立を論ず:『福澤諭吉全集 第4巻』(岩波書店)、p. 185)※旧字体は新字体にした。 明治政府の欧化政策によって日本に流れ込んだものをこれこそが「文明」だと有り難がるのは物事を深く考えていない人だ。この文明と称するものは上っ面のものにすぎない、と福澤氏は言うのだ。《仮令(たと)ひ或は其文明をして頗(すこぶ)る高尚のものならしむるも、全国人民の間に一片の独立心あらざれば文明も我国の用を為(な)さず、之を日本の文明と名ぐ可らざるなり》(同) たとえこの文明が非常に高尚なものであったにしても、これを運用する国民に「独立心」が無ければ、国家の用をなさなないから、これをもって日本の文明と言うことは出来ない、と言うのである。《福澤の述べるところを今日に舞台をかえて翻訳すれば次のようになるであろう。「日本の発展は、日本の古きものを捨て、諸外国との友好関係、とくにアメリカとの友好関係に基づいている、だからTPPであれ、グローバリズムであれ、日米同盟であれ、ますます推進するのが日本の発展にほかならない、などと浅薄なことをいう者がいる。しかし、それは表面的な発展にすぎない。本当の発展は、我が国の人民の独立心がなければ、日本は決して一等国ではない。」》(佐伯、同) 戦後日本は、米国に隷属することによる「平和」を選び続けている。だから、米国から言われたことは、たとえ無理難題であろうとも、それに従ってきた。このような状態で、日本は独り立ちしていると言えるのか、はなはだ疑問だということだ。国民に独立の気概がなければ、たとえアベノミクスが非常に高尚なものであったにしても、国にとって有用なものとはならないということだ。《ここには大きなディレンマがある。仮にグローバル化のなかにおける市場競争戦略によって日本経済が「復興」し、日米関係の「史上かつてない良好な関係」が維持されたとしよう。しかし、それでも、日本人のなかに「独立の気風」がなければ本当の意昧での強い国にはならない。そして、グローバル化や日米同盟の強化、という要請そのものが、実は「人民独立の気風」を弱体化してしまうのではないだろうか。グローバルな競争市場への過度な依存と期待は、明らかに人々を市場競争へと縛り付ける。「一身独立」どころではない。日米同盟の強化は、日本の防衛をますますアメリカへ依存させることとなり、「一国独立」どころではない》(同、pp. 58-59)【続】
2026.09.12
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《安倍首相はもともと自主憲法制定論者であった。著書『新しい国へ』(文春新書)においても、自民党の結党の精神である自主憲法の制定こそが自分の政治的信条である、と述べている。前回の首相に就任したおりの「戦後レジームからの脱却」も、占領政策の延長上にある「戦後」を改めて検討しなおそうとするものであった》(佐伯啓思「アベノミクス」が隠す日本の「ディレンマ」:『表現者』2013年7月号、p. 57) つまり、これまで安倍氏が言って来たことからすれば、どうしてアベノミクスのような経済政策になるのか分からないということだ。《TPPにせよ、「日米同盟」にせよ、決して積極的に肯定できるものではない。サンフランシスコ条約によって日本は「主権」を回復したものの、同時にアメリカへの従属という占領政策が固定されたといっても過言ではない。戦後の日本の主権回復と国際社会への復帰は、自主防衛というもっとも枢要な主権の喪失という代償とともにある。 TPPにしても、賛成論者は、グローバル競争のなかで少なくとも地域的なグローバリズム(自由な経済連携)に参加しなければ、日本の経済競争力は低落するという。つまり、経済力を確保するためには経済的自立(経済的主権)をある程度放棄しなければならない、という。しかもTPPが事実上のアメリカとのFTAの性格を強くもっているとすれば、TPP参加は、日本の経済力の強化は経済的主権の喪失をともなっている、ということでもあるのだ》(同) 安倍政権がTPP参加を目指しているのは、経済的意味合いよりも政治的意味合いの方が強いのではなかろうか。TPP(環太平洋経済連携協定)は、グローバリズム的な流れの中にある。もはや日本もグローバリズムに抗(あらが)えないから、TPP参加せざるを得ないと思っているわけではなかろう。おそらくは、対中国包囲網として政治的にTPPが必要だということなのではないだろうか(勿論、米国からの強い要請があったであろうことは想像に難くない)。《もともと市場中心主義やグローバル化は80年代以降のアメリカが積極的に展開したものであった。構造改革はいうまでもなくアメリカからの要請にもとづいたものであった。そして、いまや構造改革やグローバル化への適応は「市場」が判断することになってしまった。それは政策主体からすれば自立性の放棄である。しかし今日、いかなる政策ももはや、「市場」を無視することはできす、つまりは自立性を自ら放棄する形においてしか経済政策はありえなくなってしまった。 こうした政策上の矛盾をことさらいいつのっても仕方がないのかもしれない。アベノミクスの不透明さも、TPPをめぐる混乱もせんじつめると今日のこの根本的なディレンマに発しているというべきであろう》(同、pp. 57-58)【続】
2026.09.11
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《アベノミクスの基本的な立場は、財政・金融政策の徹底した断行である。ありていにいえばカネをじゃぶじゃぶと供給することで、円安、株高をうみだす。つまり金融市場を沸騰させる。そこで生み出された利益が消費を活性化し生産を刺激することで実体経済を動かす、というものである。そのためには、同時に、長期的な成長戦略が必要で、それは重点産業への支援という産業戦略、さらに規制緩和などの市場競争の強化、そしてTPPや日中韓のFTAなどの対外経済連携である。金融市場はすでにバブル的になりつつある。しかしそれでよい。後から実体経済がついてくれば収支決算はうまくゆくというのだ。 確かに「何でもあり」というほかなく、その無節操といいたくなるほどの「何でもあり」が「次元の違う」政策である由縁になっている。 思想的にいえば、3本の矢はまったく違った方向を向いている。財政出動や公共投資はケインズ主義的であり、第2の矢である超金融緩和とインフレターゲットは、変則的ながら、貨幣量によって物価水準を管理するというマネタリズムに即している。第3の成長戦略は、戦略的産業政策と規制緩和というかなり異なったものが組み合わされている。ただ両者に共通するのは、グローバル化のなかでの市場競争力の強化である》(佐伯啓思「アベノミクス」が隠す日本の「ディレンマ」:『表現者』2013年7月号、pp. 55-56) フリードマン流のマネタリズムでデフレ傾向を脱し、規制を緩和して、市場主義に徹するが、長年のデフレで経済が痛んでいるので、ケインズ流の財政政策も必要だという。が、政府が市場に介入することは良くないとするフリードマンと不況時は政府が需要を創出すべきだというケインズとはまさに水と油である。つまり、アベノミクスは、学説的に相矛盾すらする政策の寄せ集めになってしまっており、「安倍のミックス」になってしまっているのだ。《公共投資重視のケインズ主義と市場中心主義の構造改革論が並存し、国土の強靭化や内需拡大の「内向き」とグローバリズムへの適応という「外向き」が並存している。政府による産業戦略政策と市場競争主義が並存しているのである。内需拡大は国内の雇用促進であるが、TPPやグローバルな競争政策は必ずしもそうではない。超金融緩和は物価上昇の方向に作用するであろうが、しかしグローバル競争の強化はどちらかといえばデフレ圧力となる。その意味で、矢はちぐはぐの方向を向いている》(同、p. 56) デフレが解消されればそれでよいのだから、学説的にケインズとフリードマンが矛盾していようと構わないというスタンスなのであろう。が、そんな鵺(ぬえ)のような政策では、《仮に経済が上昇軌道に乗っても何がうまく作用したのか不明であり、逆に失敗しても何が最大の問題だったのか、これもよくわからない》(同)のだ。【続】
2026.09.10
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佐伯啓思・京都大学名誉教授は、《アベノミクスには、デフレを脱却し、グローバル経済のなかで競争力を確保すれば日本経済は成長する、という前提がある。だがこの前提は妥当なのだろうか》(「アベノミクスの前提 成長主義の妥当性こそ争点」:『異論のススメ 正論のススメ』(A&F)、p. 74)とアベノミクスの前提に疑問を呈する。《停滞の20年をもたらした根本的な要因は、ひとつは、人口減少・高齢化社会への移行であり、ふたつめは、金融、ITによる急激なグローバル化である。人口減少・高齢化が現実的な事態になれば、当然ながら市場は拡大できない、高齢者への資産の偏在は消費を増加させない、また、グローバル化は企業を新興国との競争にさらすことで、物価とともに労働コストの圧縮をもたらす。つまりデフレ圧力となる。そして、そういう状況下にあって、国際競争力の確保という名目のもと、構造改革という市場競争主義路線を採用したのであった》(同) アベノミクス第3の矢・成長戦略の味噌は、規制緩和にある。それはグローバリズムの要請によるものであり、国境を越え世界規模で展開される企業間競争に任せるという市場競争原理主義である。《もしも「失われた20年」からの脱却と成長経済を目指すならば、少なくとも、人口減少・高齢化対策を打ち、金融クローバリズムから距離をとり、市場競争中心の構造改革をやめるべきである》(同) デフレを脱却するためには、国家の保護をなくし、弱肉強食の世界に参入しなければならないという考えには合理性はない。ここにあるのは、グローバリズムに抗(あらが)うことを放棄した負け犬の姿である。《人口減少・高齢化を食い止めることは難しい。クローバリズムもある程度は認めるほかない。おまけに、日本だけではなく、今日、世界中が先行き不安定で不透明な状態に宙づりにされている。英国のEU離脱をみても、米国の次期大統領候補をみても、中国の先行きを見てもそれは明らかで、この重苦しい不確実性が、個人消費も企業投資も伸び悩む理由のひとつとなっている》(同) グローバリズムに賛同して規制を緩和するというのならいざ知らず、グローバリズムに逆らえないから規制を緩和するというのでは情けなさ過ぎる。これでは、グローバリズムが暴走したとしても、誰も止められなくなってしまう。《日本はすでに物的な財や資産という点ではかつてなく豊かな社会になってしまった。「失われた20年」なのではない。低成長へ移行するのは当然のことであろう。そして低成長経済は、過度な競争社会であっではならないし、グローバル経済に国家の命綱を預けるべき経済ではない。それは、従来の成長主義、効率主義、競争主義という価値観からの転換を要するだろう。その価値観こそが本当は争点とすベきことではないのだろうか》(同、p. 75) <無理に、成長、成長といわずに、むしろ低成長を前提にする方が現実的>ではないかと佐伯氏は言うのだ。【続】
2026.09.09
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《〔アベノミクス〕第1の矢である「異次元的金融緩和」は、脱デフレに向けた強力なカンフル剤であった。そして、一定の成果をあげたことも間違いない。 しかし、それがさらに過剰な貨幣供給をもたらし、投機資本に餌をばら撒くという危険と隣り合わせであったことも事実だ。実際、日本の株式市場は強気な投機筋にあおられて値を上げ続けてきた。それが景気を刺激したとしても、本当にわれわれの生活をよくしたのか、となれば、たとえば地方都市をみれば、簡単にうなずくわけにはいかない》(佐伯啓思「金融市場の乱高下 アベノミクスに欠けるもの」:『異論のススメ 正論のススメ』(A&F)、p. 34) アベノミクスは、これまで日本が大事にしてきた実体経済を立て直すための政策ではない。実体経済を立て直すには多大な時間も労力も掛かる。痛みを伴う改革も必要だろう。そんなことよりも、米国の後追いよろしく簡便に利益を出せる虚の経済に訴えかけたのだ。が、これが麻薬的なものであるのは論を俟(ま)たない。《アベノミクスは、脱デフレ、景気回復からさらに日本経済を力強い成長軌道に押し上げようとする。しかし、そもそも景気が十分に浮上しない最大の原因は、日本経済はすでに資本も生産能力も過剰になっている点にある。日本社会は、少子高齢化、人口減少へと向かっている。こうした社会においては、市場はさして拡張しない。つまり、モノをいくら生産しても、それを吸収するだけの十分な需要が発生しないのである。 とすれば、いくら異次元の金融緩和によって資本を供給しても、貨幣はもっぱら金融市場へ流れるであろう。結果として、日本経済全体が、ますますグローバルな金融市場の不安定性に巻き込まれ、投機的資本の思惑に翻弄されることになる》(同) 円安になり既存の産業が命拾いしたところでそこから先の展望が開けるわけではない。それよりも為替や株で利鞘(りざや)を得る安楽な方法に舵を切ったのだ。《重要なことは、ただやみくもに貨幣を供給することではない。その貨幣をグローバルな金融市場の投機筋の餌にすることではなく、逆に、その貨幣をグローバルな金融市場の投機筋から守ることなのである》(同) この指摘は「正論」ではある。が、わざわざ世界の潮流(最大の障壁は米国)に逆らうほどの気概が日本にあるとは思えない。《「異次元的に」供給される資金を、国内の長期的な産業基盤や生活基盤として国内で循環させることこそが重要である。しかも、これらの長期的な産業基盤や、少子高齢化に向かう生活の基盤づくりは、決して即効の利益を生み出すものではない。とすれば、それを市場競争に委ねるのは無理なのである。政府が、一定の将来ビジョンのもとで、その資本の行き先をある程度、指示することが必要となるであろう。短期的な市場の成果主義ではなく、長期的な公共政策こそが求められているのだ。そこで初めて、異次元的な金融緩和も意味を持ってくるであろう。われわれは、一刻も早く、貪欲で即物的な金融中心のグローバル資本主義から決別しなければならない》(同、p. 35) 余程の覚悟をもち、時間を掛けてこの難題に取り組める、安定的な政権でなければこのようなことは不可能だ。今のような不安定な民主主義体制において成るような話だとは思われない。【続】
2026.09.08
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《資本とは、それを元手にして利益を生み出す資金である。したがって、資本主義とは、元手となる資本をたえず増殖させる運動である。この資本増殖が、われわれの生活に役立つモノの生産やサービスの提供をもたらせば問題はないのだが、ただ金融市場を資本が回るだけで元手が増えるとすれば、困ったことである。有益なモノの生産へ向けた投資ではなく、株や為替の投機によって大きな利潤が得られる。これぞまさに、もっとも手軽な「資本」主義である。しかし、この手軽で即物的でむき出しの資本主義こそが、健全な経済活動を破壊しかねない》(佐伯啓思「金融市場の乱高下 アベノミクスに欠けるもの」:『異論のススメ 正論のススメ』(A&F)、p. 32) 経済には、実体経済と虚の経済がある。実体経済が主で、虚の経済は実体経済を補完するもの(のはず)だ。それが、いつの間にか逆転してしまったのだ。《今日の資本主義は、過剰な資本の供給によって、この種の危険にさらされている。しかも、過剰な資本は、金融自由化によって世界中の金融市場を駆け巡り、地球の裏側で生じたささいな出来事さえもが、自国の経済を攪乱(かくらん)しかねない。数年前のリーマン・ショックがその典型であった》(同) 虚と実が逆転した経済の先頭を行くのが米国だ。軍需産業を除いて、米国は、実体経済がぼろぼろである。だから、株や為替といった虚の経済を膨らませて稼いできたのだ。このような経済が不健全であることは言うまでもない。《各国中央銀行はこぞって自国通貨を金融市場へ供給し、景気を支えようとしてきた。ところが、供給された貨幣は、長期的な研究開発や設備投資にまわって生産を活性化するというより、まずは金融商品へ向かって投機的利潤を生み出すのである。 こうなると、金融市場はきわめて活発化する割には、さして実体経済はよくならない、という何ともバランスの悪い状態に陥る。それが極端になれば、「根拠なき熱狂」というバブルになる。そしてバブルはいすれはじけ、金融市場の混乱が実体経済を攪乱する》(同、p. 33) 虚の経済を通して稼ぐ方が安易で実入りもよい。が、このようなやり方を続けていては、実体経済はお座なりになって空洞化してしまう。《今日の先進国では、どれほど新たな技術開発を行い、新製品を次々と市場へ送り出しても、さして大きな利益は得られない…そこで中国などの新興国の市場を当てにすることになる。しかし新興国経済は十分に安定していない。となると、先進国もたえず景気後退への不安を抱えることになり、また傾向的な成長率の低下にさいなまれる。つまり、グローバル市場は激しい競争をもたらすわりには、さして成果を生み出していないのだ》(同) 残された道は、社会不安を煽ることによって金を稼ぐしかない。その1つが戦争であり、もう1つがパンデミックである。【続】
2026.09.07
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大手町氏は、不景気の真犯人は「経済のフラット化」だと言う。《20世紀であれば自動車や家電製品など高技術な製品は先進国の工場と労働者でなければ作れなかった。しかしグローバル化やIT化によって、高技術な製品は後進国でもつくれるようになってしまった。さらに同じ製品をつくるならば、人件費や地代などの生産コストが圧倒的に安い後進国でつくった方が、企業の利潤は大きい。こうして雇用や工場の海外移転が進み「産業の空洞化」が起きた。 つまり先進国と後進国の労働者は、同じ条件で競争しなければならなくなったのだ。その結果、経済のフラット化か起こり、先進国の賃金は下がり、後進国の賃金は上がり続けている。 したがって国際的な経済競争に勝ち、儲けを出すには、最先端の商品開発と販売戦略に特化するしかない》(大手町太郎「『3本の矢』は失敗に終わるか?」:『月刊日本』2013年2月号、pp. 23-24) 経済がグローバル化することで国境という障壁が取り除かれた。また、ITの導入によって、モノ作り産業が先進国が独占するようなものではなくなってしまった。つまり、既得権益に胡坐(あぐら)をかいているような時代は終わったのだ。この状態を突破するには新機軸を打ち出すしかない。なのに、金融緩和よって新機軸の芽は摘まれてしまった。円安となれば既存産業は延命できる。また、株高によって帳簿は潤い、危機感が薄れてしまった。《市場では円安が輸出業を励ますことで、景気が回復するという期待も根強い。 円安は好都合で円高は不都合だ、という考えが定着しているが、これは本来、経団連をはじめとする輸出業の台詞(せりふ)だ。そして彼らは少数派である。輸出業はGDPの13%であり、円安で儲かるのは1割強の連申にすぎない。日本は今や輸出よりも輸入の方が多い国だ。近年は原発停止などにより、特にエネルギーコストが増大している。したがって大多数の人々にとって、円高はむしろ歓迎すべきものだ》(同、p. 25) 円高が続けば、これまで日本経済を牽引(けんいん)してきたモノ作り産業が持たない。倒産やリストラによって大量の失業者が出てしまう。だから円安は大歓迎だと言うのだとすれば、刷新し発展する力がないということを自白しているようなものだ。円高に悲鳴をあげる産業を円安によって救ったところで、競争力を失った斜陽産業は、早晩立ち行かなくなってしまうだろう。つまり、金融緩和による円安・株高に活路を求めたアベノミクス第1の矢は、短期的弥縫(びほう)策としてなら許されたとしても、中長期的には、つまり、本質的には間違いだったのではないかと思うのだ。【続】
2026.09.06
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《安倍総裁が金融緩和を実行すれば、アメリカは大きな利益を得るだろう。だが既に、その実行を待たずして、その発言だけで儲けた連中がいる。外資系だ。 金融緩和は貨幣を増やすことで金利を下げる政策なので円安になり、またそれによって景気回復の期待が高まるので株高になる。したがって円は安くなる前に売り、株は高くなる前に買うと、差額で儲けられるわけだ。しかしこの儲け方は、金融緩和のタイミングを知らなければできないため、理屈ほど簡単な方法ではない。裏返せば、そのタイミングを知っている連中は大儲けできるということだ》(大手町太郎「安倍政権の金融緩和はアメリカの尻ぬぐいだ」:『月刊日本』2013年1月号、pp. 42-43) 真偽のほどは分からないが、理屈としてはその通りだろう。《安倍緩和が取り沙汰される前の10月末から、ゴールドマンサックスやシティクループなど一部の外資系は、為替ポジションを円売りに変更した。それまでシカゴのIMM通貨先物市場では円高の見通しだったにも関わらずだ。ところが安倍総裁が金融緩和を発言する直前から、円買い越し(約2万枚)が円売り越し(約3万7000枚)に急遽反転した。その後、安倍総裁による金融緩和の示唆と衆議院の解散があり、安倍緩和に対する期待から為替と株価は円安・株高に転じた。 これによって逸(いち)早く円売り・株買いしていた一部の外資系は大儲けしたのだ。彼らはアメリカが安倍総裁を支援していて、安倍緩和が発表されることを知っていたということだ。これは安倍総裁のアメリカに対する謝礼金とも解釈できる。 安倍緩和は既に経団連や財界、自民党内部の一部からも過激すぎると疑問視されている。反対に外資系からは「もっとやれ」と一様に鼓吹(こすい)されている。これでは、安倍緩和はアメリカ様のための政策ではないかと糾弾(きゅうだん)されても仕方あるまい》(同) 事前に金融緩和のタイミングを知っていたがゆえに為替と株で大儲けした者がいたとしても何らおかしくはない。勿論、インサイダー取引によって儲けるのは犯罪だ。だとしても、そのことで外国人や企業を裁くことは政治的力関係からして難しいに違いない。 そんなことよりももっと本質的な問題は、アベノミクスの金融緩和によって日本も本格的に「虚の経済」に足を踏み入れてしまったということの方ではなかろうか。実体経済よりも虚の経済の方が経済の主役になってしまったということだ。政治が市場に介入することで為替レートや株価を書き換えて利益を得る。まさに国家ぐるみの「カジノ経済」であり、モラルハザード(倫理観の欠如)である。【続】
2026.09.05
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《安倍総裁は〔2012年〕11月に「物価目標2%を達成するまで無制限な金融緩和をすべきだ」と述べ、さもなければ「平成の大不況」に陥ると付言した。その目的は、通貨の供給量を増やしインフレを起こすことで、デフレ脱却を目指すというものだ。それと同時に為替レートを円安に誘導し、歴史的な円高を落ちつかせたいという思惑もある。貨幣を増やせば貨幣の価値が下がるので、デフレ脱却と円安に繋がり景気が回復するというわけだ》(大手町太郎「安倍政権の金融緩和はアメリカの尻ぬぐいだ」:『月刊日本』2013年1月号、p. 41)ここまではよくある解説だ。が、《しかしこれらも名目に過ぎす、本意はアメリカの要望に応えることにある。 アメリカの要望とは、QE3〔筆者注:米連邦準備制度理事会が2012年9月から始めた量的緩和第3弾〕によって不良債権の処理が十分に達成できなかった場合、FRBの代わりに日銀にロックフェラーの不艮債権を買い取らせたい、というものだ。アメリカの尻ぬぐいを日本にやらせるというわけだ。連帯保証人よろしく日本がアメリカの借金を肩代わりする、これが安倍緩和の正体に他ならない》(同)という話は、眉に唾して掛からねばならぬものだろう。私には、この話の真偽を判断するだけの情報もなければ知見もない。だからそういう話もあったと言うしかない。つまり、この話はただの陰謀論に過ぎないのかもしれない。が、簡単に怪しいからと言って切り捨ててよいとも思わない。何故なら、少なくとも物事を多角的に判断するために必要な1つの視点を提供してくれているのではないかと思うからだ。 アベノミクスの金融緩和がデフレ脱却策として放たれた矢だということを疑うものはおそらく誰もいないだろう。が、その裏にはサブプライムローン問題、リーマン・ショックによって不良化してしまった米債権を肩代わりするものであるというのはなくはない話だ。《ここで注意すべきは「外債の購入」だ。安倍総裁は11月30日の党首討論で「外債購入やFRBのように株式市場に直接影響を与えるべきだ」と述べた。「外債」というと欧米の国債を指すと思われがちだが、安倍総裁の言う外債とは、ロックフェラーの不艮債権のことではないか。現に安倍総裁のアドバイザーとされる本田悦朗氏は安倍政権が誕生したら「無制限の金融緩和」を進言するとした上で「国債やETF、REITを無制限に買い続け、物価目標2%を達成してほしい」と発言している。そして自民党は日銀の外債購入とは別に、官民共同ファンドを設立して外債購入を進めようともしている》(同)【続】
2026.09.04
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中央大学大学院客員教授の稲村公望氏は言う。《新自由主義の思想は、企業の自由が保障されるときに人間の能力が最大限発揮され、生産要素が最も効率化するという、根拠のない、非科学的な信仰なのだ。あらゆる公共分野を私有化して、全てのものを市場を通じて取り引きするという制度を作ることが理想とされた》(「安倍政権は新自由主義と決別せよ」:『月刊日本』2013年1月号、pp. 30-31) 小泉政権以降、民で出来ることは民でという新自由主義的な考え方が横行している。《新自由主義では、社会的な共通資本の存在が全面的に否定される。宇沢弘文教授の定義によると、社会的共通資本には、自然環境(大気、森林、河川、水、土壌など)、社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道、電力、ガスなど)、制度資本(教育、医療、司法、金融制度など)の3つがあるが、これらの領域全てに市場原理が導入されてしまうことになる。 安全性が優先される社会的インフラにおいても、効率が優先されるようになってしまう》(同、p. 31) 象徴的なのが大阪の政治であろう。維新は、実に功利主義的である。安心・安全に備えるのは無駄だとばかりにこれを切り捨てる。例えば今、大阪市など4市のごみ処理施設で、ごみの処理が追いつかず、貯留場所がほぼ満杯となる異例の事態が続いている。複数の工場で故障や定期整備が重なり処理能力が低下する一方、インバウンドの増加などでごみの量も増えているためだということなのだが、要するに「余力」がないから不測の事態に対応できないのだ。橋下徹市政以降、行政改革と効率化を掲げる大阪市は、焼却工場を9工場体制から6工場体制へ縮小してきた。その付けが出てしまったということだ。《新自由主義は、個人のアトム化を推し進める。本来、国家と個人の間には、自治会、同窓会、郷友会、青年団、婦人会、労働組合といった中間団体が存在する。新自由主義の浸透とともに、これらの中間団体が次々と弱体化し、資本の原理に抵抗するものがなくなっていった。個人情報保護のような法律も、この流れに拍車をかけた。同窓会や郷友会の名簿作りが批判の対象となり、人間の絆が分断された。つまり、中間団体の消滅、弱体化によって、支配する者と支配されるものとの直接的関係が強まっていくのだ》(同、p. 31) 稲村氏は、新自由主義を共産主義ないしはグローバリズムの脈略で捉えているのだろう。が、このあたりはもう少し説明が必要であろう。グローバリズムは、国境を越えた経済活動を目指すものだ。だから、歴史や文化といった国に固有の事情を経済活動を阻害するものと見做し、これを取り除こうとする。つまり、規制緩和である。新自由主義が市場競争を阻害する規制を緩和せよと言うのはグローバリズムと同工異曲なのだ。【続】
2026.09.03
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《日本という国は古来から、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かちあいながら、秋になれば天皇家を中心に五穀豊穣を祈ってきた、「瑞穂の国」であります。自立自助を基本とし、不幸にして誰かが病で倒れれば、村の人たちみんなでこれを助ける。これが日本古来の社会保障であり、日本人のDNAに組み込まれているものです。 私は瑞穂の国には、瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています。自由な競争と開かれた経済を重視しつつ、しかし、ウォール街から世間を席巻した、強欲を原動力とするような資本主義ではなく、道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい市場主義の形があります…市場主義の中で、伝統、文化、地域が重んじられる、瑞穂の国にふさわしい経済のあり方を考えていきたいと思います》(安倍晋三「新しい国へ」:『文藝春秋』2013年1月号、pp. 129-130) 日本人の琴線に訴えかける名文である、と言いたいところであるが、1つの言葉がこの文章を台無しにしてしまっている。それは「市場主義」という言葉である。市場主義とは、経済活動を市場競争に委ねるということだ。が、これは<伝統、文化、地域が重んじられる、瑞穂の国にふさわしい経済>とは矛盾する。伝統や文化や地域性は、市場競争を阻害するものである。このような障害は、取り除かなければならないと考えるのが市場主義というものだからだ。 ジャーナリスト東谷暁氏は、《資本主義と市場主義とはまったく異なる。また、市場がすべてのことを解決してくれると考えるミルトン・フリードマン的な市場主義と、市場は人間の不完全性を補う文明的装置だから育てていかねばならないと考えるフリードリヒ・ハイェクなどの市場秩序の尊重とは、180度もの違いがあるということが分かっていない》(「アベノミクスに潜む新自由主義」:『月刊日本』2013年2月号、p. 13)と安倍氏を批判する。《市場がすべてを解決すると信じる市場主義によって、伝統、文化、地域が重んじられるわけがない。逆に、伝統、文化、地域を狂信的な市場主義から守るために、保守思想による政治が必要なのだ。「新しい国へ」の経済思想は倒錯しており、伝統、文化、地域をむしろ破壊するものといわねばならない》(同、pp. 13-14)【続】
2026.09.02
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(古典的)自由主義と新自由主義は、生まれた背景がそれぞれ異なる。(古典的)自由主義は、封建的な身分制度や絶対王政への反発から、国家や権力による過度な統制や束縛に反対し、個人の自由や権利を尊重する思想だ。一方、新自由主義は、ケインズ経済学に基づく「大きな政府」が財政赤字やスタグフレーションを招いたとの認識から、政府による人為的な市場介入や財政出動に反対し、市場の自己調整機能や自由な競争を重視する思想であり、「市場主義」と称すべきものだ。 第2次安倍政権発足前、安倍晋三氏は月刊誌『文藝春秋』に「政権構想」を発表した。《日本にとって、喫緊の課題が経済対策であることは誰の目にも明らかです。 現下の経済状況における最大の問題は、1997年以来の長引くデフレに他なりません。デフレは労働者の雇用を奪い、社会保障を危機に陥れ、国民生活を疲弊させます》(「新しい国へ」:『文藝春秋』2013年1月号、p. 125) 現状認識はその通りであろう。デフレをどう克服するか、それが課題であることは間違いない。が、その処方箋が《政府と日本銀行が政策協定を結び、明確なインフレターゲットを設定します》(同)というのは如何(いかが)なものか。なるほど、金融を緩和し、インフレターゲット2%に設定することで、株価は上昇し、円安になって輸出企業は潤った。おそらく多くの論者がこれを評価しているのだろう。が、私はこれを評価しないのだ。勿論、私のような門外漢が何を言おうと糠に釘でしかないのだが、いきなり円安になったことで、円高を前提とした「創造的破壊」の芽を摘んでしまったのが最大の問題なのだ。円高を前提とした構造転換を図らねばならなかった日本が、旧態依然としたモノ作り産業に逆戻りしてしまったのが問題なのだ。《デフレから脱却するためには、金融政策と同時に財政政策も必要と考えています。国民の命や子どもたちの安全を守るための投資、地域が生産性を高め、競争力を得るための未来への投資は行うべきだと考えます》(同、p. 126) が、デフレは、物が売れない実体経済の問題であるにもかかわらず、金融緩和によって株価を釣り上げても実体経済は改善されない。《私は今後の成長戦略のカギとなるのは、イノベーションだと思います。日本が誇る人材力と技術力と文化力を結集し、国家と人類が抱える「新しい課題」にブレイクスルーをもたらすような新しい技術やアイデア、創造的な取り組みが必要になってくる》(同、p. 128) が、金融緩和によって円安・株高となり、経済活動の前提条件が突然変わってしまった。安定的な前提条件があってこそのイノベーションである。前提条件が変わってしまっては、成る話も成らなくなってしまうだろう。【続】
2026.09.01
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水野和夫・法政大学教授は言う。《アベノミクスは、成長重視の新自由主義だった。これは、小泉純一郎政権から続くもので、民主党政権時代を除けば、20年近く成長戦略を推し進めてきたことになる。私に言わせれば、成長、あるいはインフレがすべてを癒やすといった近代の幻想を夢見た経済政策運営だ。まったくの時代錯誤だと思う》(「アベノミクスは時代錯誤の新自由主義だった」:エコノミストonline:2022年7月14日) が、アベノミクス第1の矢・金融緩和は、市場のお金をじゃぶじゃぶにして、円安・株高を図るものであるが、これは市場の自由を歪めるものだ。第2の矢・財政政策も、公共投資という名目で、恣意(しい)的に需要を創り出すものであるから、これも市場の自由を阻害する。第3の矢・成長戦略における規制緩和は、一見自由を促進するものであるかのように思われるかもしれない。実際、この第3の矢・成長戦略こそが、アベノミクスの本質であり、アベノミクスが新自由主義である証左であると言われてもいる。が、規制緩和は、グローバリズムが要請するものと考えられるので、むしろ個人の自由を阻害するものとも考えられる。 第1の矢・金融緩和がフリードマンを想起するため、政策の中身をよく分かっていない人達の目には、アベノミクスが新自由主義っぽく映るのだろう。が、フリードマンは反ケインズの立場である。一方、アベノミクスの第2の矢・財政政策はケインズ主義的である。つまり、アベノミクスは、半ばマネタリズム、半ばケインズ主義という相矛盾した政策を謳(うた)っているのであって、これを一括りにして新自由主義と呼ぶことは出来ない相談だ。Neo-liberalism would accept the nineteenth century liberal emphasis on the fundamental importance of the individual, but it would substitute for the nineteenth century goal of laissez-faire as a means to this end, the goal of the competitive order. It would seek to use competition among producers to protect consumers from exploitation, competition among employers to protect workers and owners of property, and competition among consumers to protect the enterprises themselves. The state would police the system, establish conditions favorable to competition and prevent monopoly, provide a stable monetary framework, and relieve acute misery and distress. The citizens would be protected against the state by the existence of a free private market; and against one another by the preservation of competition. – Milton Friedman, Neo-Liberalism and its Prospects(新自由主義は、19世紀のリベラリズムが、根本的に個人が重要だと力説した点は容認するが、その目的への手段として、19世紀の自由放任という目標に代え、競争秩序という目標を掲げる。新自由主義は、生産者間の競争によって消費者を搾取から守り、雇用者間の競争によって労働者と財産所有者を守り、消費者間の競争によって企業自体を守ろうとする。国家は、この制度を監督し、競争に有利な条件を整え、独占を防止し、安定した通貨制度を提供し、深刻な貧困や苦境を緩和する役割を担う。国民は、自由な個人の取引が存在することによって国家から保護され、競争が維持されることによってお互いに保護されるのだ)――ミルトン・フリードマン「新自由主義とその展望」【続】
2026.08.30
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浜田氏は言う。《成長戦略に関しては、昔の産業政策のように、特定産業を国が選んで支援するという方法は有効ではないでしょう。民間主導で行うべきです。 そのために必要なのは、なんといっても規制緩和です。その中心の1つとなるのは、2015年秋に大筋合意に達したTPPでしょう。 TPPを徹底的に批判する人たちもいますが、活用することもできる。つまり、積極的に日本の構造改革を可能にする政策、第3の矢をバックアップするものにしてほしいのです》(ポール・クルーグマン、浜田宏一『2020年 世界経済の勝者と敗者』(講談社)、pp. 130-131) 政府が特定の産業に肩入れする社会主義的なやり方は論外だとしても、どうしてTPPなのか甚(はなは)だ疑問である。TPPは出来上がったものではない。今後TPPがどのような道を歩むのかが不透明であるにもかかわらず、TPPを推すのはあまりにも政治的に過ぎる。どこまで日本政府はTPPを成功に導く覚悟があるのか。今の状態では、TPPにのめり込んだ企業が梯子(はしご)を外されるなどということもないとは言えない。どうしてそんな危険な賭けをしなければならないのか。《これまで、中小企業の輸出にとって大きな問題だったのは、通関費用や書類の翻訳にかかっていた費用、あるいはそのための人材です。この部分が改善されれば、中小企業の海外進出にも追い風が吹くはずです。 曰本製品の優秀さは世界に知られていますから、大きなチャンスが生まれるかもしれません。まして、アジアには経済的に成長している国も多い。ということは、購買力が上がっているということです。 TPPによって海外から技術やノウハウが人ってくることで、経営技術や生産工程の効率アップといった変化も、曰本企業にもたらされると考えます》(同、pp. 131-132) いくらこんな夢物語を語られてもTPPに賭けてみる気になるはずがない。TPPは、政治的次元の段階にあるのであって、これを日本を成長させるための起爆剤にするなどという話は、政治というものが分かっていないから言えることだ。実際、TPPを日本に押し付けようとしてきた米国が踵(きびす)を返して撤退してしまったことで、TPPは暗礁に乗り上げてしまったではないか。当初TPPに乗り気だった米国からの圧力で言わされた感の強いTPP推しが成長戦略などと言うのは片腹痛いと言わざるを得ない。 では、日本が成長するためにはどうすべきなのか。社会主義的なやり方が限界に来ているのであれば、その反省を踏まえ、逆もまた真なりで、政府が市場に介入しないこと、それこそが「真の成長戦略」だと言えるのではないだろうか。【続】
2026.08.29
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クルーグマン氏は言う。《日本はGDPの2倍もの借金を抱えており、いつ政綻してもおかしくない――そう主張する人も確かにいます。2000年頃からでしょうか、日本人はすっとそのことについて考えているようです。 しかし実際には、日本の債務危機に賭けて大損した人も多いのです。まず、日本は純負債がそこまで多いわけではありません。借金を抱えていると同時に、政府には莫大な資産、特に金融資産がありますから》(ポール・クルーグマン、浜田宏一『2020年 世界経済の勝者と敗者』(講談社)、p. 112) 財政は借方・貸方の複式簿記で見なければならない。資産を無視し、借金だけを見て<いつ政綻してもおかしくない>などと言う人は、財政のことが分かっていない「ど素人」か、本当は分かっているのに他の意図があって破綻論を唱える人かのどちらかである。したがって、<いつ政綻してもおかしくない>などと言う人は信用に足らぬ人、または、信用ならぬ人と言うべきなのだ。《日本がデフォルトしないのは、自国の通貨が不足することがないからです。借金は円なのですから、円を刷ればいいだけの話なのです》(同) 今はかつてのような金本位制ではない。日本は、自国通貨を発行できる国であるのだから、円建ての借金は円を刷って返せばよいだけなのだ。《「完全な主権に基づく不換通貨」と「不完全な主権(非主権)に基づく兌換(だかん)通貨」の違いを認識することは重要である。非主権通貨で運営される――外国通貨、または固定交換レートで外国通貨や貴金属に兌換される自国通貨を使用する――政府は、支払不能リスクを背負うことになる。しかし、自国の変動相場制の不換通貨を使って支出する政府がデフォルトを強いられることはあり得ない。これは、(少なくともある程度は)市場や信用格付機関によってさえ認識されていることである。また、これこそ日本のような国が、極端に低い国債金利を享受しながら、「高債務」のユーロ諸国(「PIIGS」すなわちポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシヤ、スペイン)の2倍を超える政府債務対GDP比率を維持できる理由である》(『MMT現代貨幣理論入門』(東洋経済新報社)、p. 259) お金を刷れば、自国の通貨価値が相対的に下がるので、そのことによって株価が上昇する。が、このようなやり方は「虚の経済」を膨らませているだけで、「実体経済」が良くなるわけではない。「虚の経済」が良くなったということで安心し、それが高じて慢心が生じれば、実体経済が空洞化しかねない。実際、米国は軍事分野以外目ぼしいものは見られない。要するに、実体経済の底が抜けてしまっているということだ。だから、虚の経済を膨らませて帳尻を合わせているのである。 このままでは米ドルの価値は落ちるところまで落ちるしかない。それは米国の終焉(しゅうえん)でもある。が、米国には「戦争」という取って置きの商売がある。世界に戦争がある限り、喰いっぱぐれることはないのだ。【続】
2026.08.28
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《アベノミクスに対して懐疑心を持たざるをえない時期があったのは確かです。その原因は、2014年4月に消費税を5%から8%に引き上げたこと。さらにその翌年に10%に増税することも示唆されていました。 消費税を上げることは、日本経済にとって自己破壊的な政策といわざるをえません。増税以降、日本経済は勢いを失い始めたように見えます》(ポール・クルーグマン、浜田宏一『2020年 世界経済の勝者と敗者』(講談社)2016年刊、p. 96) 増税は、景気にブレーキを掛けるということであるから、デフレ脱却しようとするのであれば、有り得ない政策だったということだ。表向きは、プライマリーバランスを改善しようということなのだが、本当にそういう話であれば、無駄な予算をカットするのが先のはずである。が、イデオロギー色が強い、サヨク的な政策が膨らんでいることからすると、政府を大きくして、利権を貪(むさぼ)ろうとしている、つまり、景気回復など眼中になく、自分達の利権を優先しているからこその増税ではないかと疑われるのだ。《これは、日本の経済政策に関する歴史的な傾向ともいえるものです。すなわち、経済が少しうまく行くようになると、すぐに逆戻りするような愚策に転向してしまう。 たとえば1990年代後半――日本経済はバブル崩壊から立ち直りかけていましたが、そこで消費税増税に舵を切りました。「財政再建」という旗印の下でのことでしたが、結果として経済は失速。日本はデフレ経済に突入することになってしまいました。安倍政権の消費税増税は、それと同じことなのです。 ましてや、消費税を10%に上げるようなことは、絶対にやるべきではありません。 もし、本当に安倍政権がゴーサインを出し、消費税が10%になっていたら、日本経済はデフレ不況に逆戻りしていたことでしょう。そして、そこから浮上するのはほとんど不可能だった危険性が高い》(同、p. 97) クルーグマン氏の言う通り、消費税率10%となった日本経済は、いまだ不況の真っ只中にいる。否、昨今は、デフレであるのに物価が上昇する「スタグフレーション」に陥ってしまっている。《日本に必要なのは、消費税増税ではありません。国民の多くが、「これからは給料も上がるし、物価も上がる。だからいまのうちにもっとおカネを使おう」と思えること。つまり、そうなるような気持ちにする政策を打てばいいのです。国民の期待によって、経済はすっと良くなります。 では、そのために最も効果的で、なおかつ手早い政策は何か。それは、増税した消費税を一時的に減税することです》(同、pp. 97-98) が、減税には財源が必要だと言う人達があまりにも多く存在し、そんなに簡単な話ではない。デフレマインドから脱却するためには減税が有効であるはずなのに、せっかく大きくした政府を小さくすること、利権が減少することに多くの「政治屋」が反対するのだ。【続】
2026.08.27
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クルーグマン氏は言う。《日本経済について語るときには、ますデモグラフィ(人口動態)のことを念頭に置かなくてはいけません。 日本は、欧米と比べると女性の労働人口が少ない。出生率の向上には、いまから赤ちゃんを作り始めても20年はかかりますが、女性をもっと労働力として使うことで、労働人口不足の問題は緩和されます。それが時間を稼ぐ1つの方法です》(ポール・クルーグマン、浜田宏一『2020年 世界経済の勝者と敗者』(講談社)、p. 88) 労働人口が減少している日本において如何に労働力を確保するのかが喫緊の課題であるということなのだが、私は、このような課題設定(agenda setting)がそもそもの誤りなのではないかと思っている。なるほど、これまでのやり方でやろうとすれば、労働力を如何に確保するのかが問題となるのであるが、労働人口が減少するのであれば、AIやロボットを導入することでこれを補うというやり方もあるはずだ。であれば、労働人口の減少は、新機軸を打ち出す絶好の機会であると捉えるべきなのだ。AIやロボットの開発は日本の得意分野のはずだ。にもかかわらず、女性を労働力として使うことで労働力不足を緩和しようなどと考えるのは、みすみす技術革新の機会を逃すようなものだ。 ノーベル経済学賞受賞者にしてこの認識とは恐れ入る。否、ノーベル経済学賞などその程度のものでしかないということだ。生産労働への参加を女性に促すのは共産主義的発想だ。《また移民を受け入れることも重要ですが、日本は文化的に移民を受け入れることに大きな抵抗感を持っているように見えます。日本人は、「日本人」の定義について排他的にならないための余裕があるかどうか、真剣に考えなければいけないでしょう》(同、p. 89) 移民を受け入れさせようとしているのも引っ掛かる。このようなことを言うクルーグマン氏は、私には、世界共産主義者のように思えてくる。労働力不足を補うために移民を受け入れるということは、古い産業形態を墨守(ぼくしゅ)することにしかならない。日本が更なる発展を遂げるためには、新機軸を打ち出すことが必要なのであり、このような弥縫(びほう)策は、むしろ産業の新陳代謝を阻害するものと言うべきではなかろうか。《さらにいうと、日本の老人は平均余命が長いだけでなく、比較的健康です…能力があれば年齢に関係なく労働人口に残すことは、労働人口減少を少しでも軽減することに役立つでしょう》(同) 日本の老人には、日本文化における役割があるのであって、これを放棄してまで働き続けることがよいことだとは思われない。女性も子供も老人も皆働けというのはマルクス思想においては正しい事ではあっても、日本の文化には馴染まない。クルーグマン氏の提言は、日本の文化を知らずして、ただ共産主義思想を押し付けているだけだと思われる。【続】
2026.08.26
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デフレによって物が売れず、物価が下がれば、企業収益は悪化する。企業が儲からなければ、従業員の給与は上がらない。家計に余裕がなければ、個人消費は増えず、結果として物は売れない、という悪循環(vicious circle)に陥ってしまうというのが前回のお話である。これを別の角度から見てみよう。 デフレによって物が売れず、物価が下がれば、企業収益は悪化する。企業が儲からなければ、設備投資に回せるお金がなくなる。設備投資が出来なければ、新機軸が生まれない。イノベーションが行えなければ、時代に取り残され、国際競争に負ける。 が、これは「実体経済」の話だ。「実体経済」を成長発展させるためには、多大な時間と努力が必要だ。が、「虚の経済」を膨(ふく)らませることによって、容易に企業収益を改善することが出来る。私は、それが「アベノミクス」の本質だと考える。《アベノミクスが目指す2%のインフレーーそれは「物価を毎年、常に2%すつ上げていく」ということです…物価が上がるということは、企業が儲かるということです。すると、設備投資や雇用も進みます。もちろん、給料も上がります。インフレとは、このような経済全体の上昇を指しているわけです》(ポール・クルーグマン、浜田宏一『2020年 世界経済の勝者と敗者』(講談社)、pp. 82-83)と浜田氏は言う。 が、物価が上がれば企業が儲かるというのは「実体経済」の話である。インフレ・ターゲットは、実体経済における目標である。一方、株価が上がれば企業会計が潤うというのは「虚の経済」の話である。円安誘導すなわち「円安ターゲット」は、金融を緩和し、市場のお金をジャブジャブにして円の価値を下げ、そのことによって株価を釣り上げようとするものだ。 しばしば金融緩和は、財政を悪化させるものとして批判に晒(さら)される。けれども、真の問題は、円の価値が下がることによって、国富が相対的に目減りしてしまうことにある。株価が上がればそれでよいと言うのは国内しか見ていないかれそのように言えるのであって、円安は対外的には国富を縮小させるのであるから、決して褒められたものではないのだ。 クルーグマン氏は、《日本の技術的創造性という大きな力は、円高などによって妨害されてきたという面もあるのではないでしょうか。円安は、日本の製造業が復活するチャンスになりうる》(同、p. 86)と言うが、日本の製造業は円高に対応できるように構造転換しなければならなかったのではなかったか。円安でなければ生きて行けない製造業が国際競争に勝てるわけがないのである。【続】
2026.08.25
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ここでデフレとは何かを簡単に見ておこう。 物価が下がるのがデフレと呼ばれる状態である。物価が下がれば、企業の収益も減る。企業の収益が減れば、従業員の給料は上がらない。つまり、個人が消費に回せるお金は増えない。結果、個人消費は低迷する。個人消費が低迷すれば、物価は下がる、というように悪循環をきたす(図1)。が、事はそれでは終わらない。こういった悪循環を続けていると、どんどん国の経済は蝕(むしば)まれ、国力は衰退していくのだ。デフレスパイラルという現象である(図2)。 このデフレスパイラルから抜け出すために設定されたのが、アベノミクスであり、インフレ・ターゲットであった。 浜田氏は言う。《インフレ目標が必要なのは、人におカネにしがみつくのをやめさせて、失業を解消したり所得を増加させたりして、日本社会をより良いものにするためです》(ポール・クルーグマン、浜田宏一『2020年 世界経済の勝者と敗者』(講談社)、p. 80) 景気には、人々の「気」(mind)が大いに反映されている。だから、後ろ向きのデフレマインドから前向きのインフレマインドに人々のマインドを切り替えるためにも、政府が2%のインフレ・ターゲットという目標を設定したことは重要なことだったと思われる。クルーグマン氏は言う。《大事なのは、インフレ率が上がるということを国民に信用させること。インフレ率が上がれば、実質金利は下がりますから、景気拡大につながります。そしてそれが、さらなるインフレ率の向上につながってくる》(同、p. 136) ここでクルーグマン氏は、1つ注文を付ける。《実際に2%というインフレ率を達成しようとするなら日標は4%に設定するべきだ》(同、p. 135)何故なら「臆病の罠(わな)」があるからだと言うのだ。《「臆病の罠」というのは、原則的には政策が妥当なのに、実行する際に中途半端に終わり、挙げ句の果て、政治的にも経済的にも裏目に出るということです。 日本では、過去の政策と決別して、私たちのような欧米の経済学者が長く促してきた政策が、やっと導入されました。しかし、それが実行されるとなると、インフレ率が実際に必要な数値よりも低く設定されてしまう》(同、pp. 135-136) インフレ・ターゲット2%というのはマイルドなターゲットである。これであれば、インフレ・ターゲット反対派も反発することはない。が、それは言い換えれば、強いインパクトがないということだ。が、果たしてそのレベルのターゲットで、人々に染み付いたデフレマインドから抜け出すことが出来るのかと疑問符が付いてしまうのだ。人々のマインドを転換するためには、それなりの荒療治が必要だ。だからマイルドな2%ではなく、インパクトのある4%にすべきだということなのだ。【続】
2026.08.24
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浜田氏は言う。《アベノミクスによる金融緩和は、ただちに市場に活気を取り戻しました。これは当然のことで、世界的な経済学の常識、不変の法則ともいえます》(ポール・クルーグマン、浜田宏一『2020年 世界経済の勝者と敗者』(講談社)、p. 79) 金融を緩和すれば市場が活気付くというのは世界の経済学における常識であるというのは分からないではない。が、その常識が「正しい」ものかどうかの判断は難しい。少なくとも私のような自由主義者からすれば、公的機関が市場に土足で足を踏み入れるのを歓迎しない。そのようなことをすれば、自由競争が阻害されるからだ。例えば、為替レートに影響を及ぼすような市場介入を政府が行えば、競争の前提が崩れ、競争条件が歪められてしまいかねないということだ。《日本がデフレに悩まされてきた理由の1つは、市場に出回る円の量が少なかったことです。円が供給されないために消費活動が低下して物価が下がる。そうなると企業は儲かりませんから給料も下がり、失業も増えてしまいます。まさに悪循環としかいいようがありません》(同、p. 79) 90年代以降、日本がデフレに陥ったのは、バブルが弾けたことによるものだ。銀行の不良債権問題が起こり、企業のバランスシートは傷付いた。市場に出回る円の量が少なかったのは事実であろうが、それはバブル経済が崩壊したことの後始末に追われたからである。 が、後始末に一定の目途が立ってからも、後ろ向きになってしまったマインドを立て直せなかったこともまた事実であろう。バブルが弾けたことと直接関係ないことに問題の目が向けられてしまった。プライマリーバランスの問題もその1つだ。「入(い)るを量りて出ずるを為(な)す」(礼記)、つまり、支出は、収入の額に見合ったものでなければならないという考えに凝(こ)り固まってしまったのだ。が、支出を増やさなければ経済は成長しない。経済が成長すれば収入も増え支出を賄える。要は、経済を成長させるためには、先行投資が必要だということだ。《こうした状況に対して、日銀が金融機関から国債や手形を買い取り、市場への資金の供給量を増やすなどの政策を取れば、企業がおカネを借りやすくなります。同時に設備投資も活発になりやすい。そうなれば景気が刺激され、使えるおカネが増えることで、消費活動も活発になるわけです。 高度経済成長時代の日本では、デフレだったことはありませんでした。常に3~4%のインフレだったのです。このマイルドなインフレの状態が、経済を活性化させる。アベノミクスが目指すのも、このマイルドなインフレの状態です》(同、pp. 79-80) が、このようなやり方では、政府の赤字を増やすことになるので、またぞろプライマリーバランスの問題が頭を擡(もた)げてくる。だから、私は、政府が「通貨発行権」を行使して、単純に歳入を増やせばよいと思っているのであるが…【続】
2026.08.23
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《デフレにともなう極端な円高は、日本経済に深刻なダメージを与えてきました。リーマン・ショック以降、円はドルに対して最大30%も値上がりした。ということは、輸出業者が30%高い値段でモノを売らなければならないということです。 これに対して韓国の通貨であるウォンは30%値下がりしたわけですから、ドルに対するハンディキャップは60%……これでは韓国企業に太刀打ちできるはずがありません》(ポール・クルーグマン、浜田宏一『2020年 世界経済の勝者と敗者』(講談社)、pp. 78-79)このように浜田氏は言うのであるが、そうだろうか。問題は、円高ではなく、それが<極端>だったということではなかったか。ここを間違えると、極端な円安すら歓迎されかねない。実際今、1ドル160円などということになってしまっているではないか。 なるほど、円高は、日本の高度成長を担ってきた自動車産業や白物家電メーカーといった輸出業者にとって不利である。が、だからといって輸出業者を依怙贔屓(えこひいき)して円安誘導するのが正しいことだとは思えない。円高とは国力の強さを表すバロメーターである。にもかかわらず、輸出業者だけを慮(おもんぱか)って国力を下げようとすることが正しいわけがない。 円安になると同時に株価が上昇した。このことによって企業会計も潤い、問題とされていた自己資本率も改善した。が、それは「虚の経済」を膨らませただけで、円高に対応できない斜陽産業を延命させたに過ぎない。 円高では韓国企業に太刀打ちできない、だから円安にするという発想が間違っているのだ。円高を活用し、韓国企業には作れないものを創り出せばよいのだ。それは創造的破壊であり、円高を規定のものとした産業の構造転換である。日本にしか作れないものを創造すれば、円高だろうが何の問題もない。高度成長時代を牽引(けんいん)してきたモノ作り産業から脱皮して、高付加価値産業へと産業構造を転換することが必要だったはずだ。 にもかかわらず、人為的に円安誘導すれば、斜陽産業にとっては有難いのかもしれないが、日本全体にとっては、新陳代謝を阻害し、新興国との価格競争に巻き込まれることで、むしろデフレを招く。価格競争からは新機軸は生まれないし、従業員の賃金も上がらない。まさに日本はデフレスパイラルに陥ってしまい、結果として時代に取り残されてしまったのだ。 創造的破壊とは、新しいものが旧いものに取って代わるプロセスであるが、人為的に為替レートを円高から円安へと振ってしまっては、円高を前提とした新機軸を阻害することとなる。つまり、市場のお金をジャブジャブにすることは、円高における創造的破壊を破壊することになってしまうということだ。【続】
2026.08.22
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2012年12月に発足した第2次安倍政権は、デフレ脱却と経済成長を目指すべく「アベノミクス」なる骨太の経済政策を打ち出した。 安倍政権の経済ブレーンである浜田宏一氏は言う。《安倍晋三首相の経済政策であるアベノミクスで、日本は大きく変化した、あるいはまったく新しい方向に舵を切ったといえるでしょう。 それ以前の日本経済は、苦境にあっても金融引き締め政策を頑(かたく)なに守ってきました。 しかし他国ではリーマン・ショック以降、大幅な金融緩和によってデフレから脱却し、一定の景気回復に成功しました。ところが日本だけが、そうしなかった。インフレは絶対的な悪だという「日銀流理論」に凝(こ)り固まっていたのです》(ポール・クルーグマン、浜田宏一『2020年 世界経済の勝者と敗者』(講談社)、p. 77) デフレは、経済活力を奪うから回避すべきものであるが、インフレは違う。それどころか緩やかなインフレは、景気を上向かせるものであり、むしろ歓迎すべきものだ。日銀が<インフレは絶対的な悪だ>などと言うのだとすれば、経済が分かっていないということだから、メンバーを入れ替えねばならない。《必要なのは、何も突飛な政策ではありませんに経済学の常識を、当たり前に機能させればいいだけの話なのです。 それがどういうものかは、アベノミクスを見てもらえば分かります。まずは金融緩和を実行し、その結果として円安になる、そのことで景気はよくなります。そしてこれは、世界の金融当局が行っていることでもあります》(同、p. 78) 当たり前のことを当たり前にやる。それがアベノミクスだと浜田氏は言うのだ。が、追々検討していこうと思うけれども、アベノミクスのすべてが必ずしも<経済学の常識>というわけではない。なるほど、デフレを解消するために金融緩和策を講じるのは半ば<常識>と言ってよいのかもしれないが、<常識>と呼べるのはそこまでだ。アベノミクスの言う「財政政策」や「成長戦略」は、必ずしも世界標準と呼べるものではない。逆に言えば、アベノミクスが、単に金融緩和だけでなく、財政政策や成長戦略を絡(から)め、1パックの政策として打ち出したからこそ、そこに斬新さがあると言えるのだ。 が、それが間違いだったのだ。フリードマンの金融政策と、ケインズの財政政策と、シュンペーターの成長政策は、それぞれ別々に評価されるものではあっても、これらを1つに束ねて実行すればどうなるのかは未知数でしかない。そもそもフリードマンはケインズに反発する形で通貨供給論を述べているのであるから、ある意味「矛盾」でしかないのだ。【続】
2026.08.21
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シュンペーターは言う。since we are dealing with a process whose every element takes considerable time in revealing its true features and ultimate effects, there is no point in appraising the performance of that process ex visu of a given point pf time; we must judge its performance over time, as it unfolds through decades or centuries. (私達が扱っているのは、構成要素の1つひとつが、本当の姿や最終的な影響を明らかにするのにかなりの時間を要する過程であるため、所与の時点における過程の成果をその時点だけで評価しても意味がない。数十年間あるいは数世紀にわたって展開していく中で、時間軸に沿ってその成果を判断しなければならないのである) 長い時間を必要とする問題を短期的視点で判断しても意味がなく、中長期的視点から判断しなければならないということだ。A system—any system, economic or other—that at every given point of time fully utilizes its possibilities to the best advantage may yet in the long run be inferior to a system that does so at no given point of time, because the latter’s failure to do so may be a condition for the level or speed of long-run performance.(経済であれ他の分野であれ、あらゆる所与の時点で自らの可能性を最大限に活用しているシステムが、長い目で見れば、所与の時点において自らの可能性を最大限に活用しないことが長期的業績の水準や速度の条件となっているかもしれないから、どの所与の時点でも自らの可能性を最大限に活用していないシステムに劣るかもしれないのである) マラソンにおいて、最終的に一番にゴールテープを切るために、途中では自重して、あえて先頭には立たず、体力を温存しようとする戦法がしばしば見られるのに似ている話だ。since we are dealing with an organic process, analysis of what happens in any particular part of it—say, in an individual concern or industry—-may indeed clarify details of mechanism but is inconclusive beyond that, Every piece of business strategy acquires its true significance only against the background of that process and within the situation created by it. It must be seen in its role in the perennial gale of creative destruction; it cannot be understood irrespective of it or, in fact, on the hypothesis that there is a perennial lull.(有機的過程を論じているのだから、特定の部分、例えば、個々の企業や産業で何が起きているかを分析しても、仕組みの詳細が明らかになるだけで、結論は出ない。あらゆる経営戦略は、その過程を背景とし、それによって生み出された状況の中にあって初めて本当の意味を持つ。創造的破壊という絶え間ない嵐の中の役割という観点から見なければならないということだ。この過程と切り離すどころか、絶え間ない凪(なぎ)が存在するという仮説に基づいて、それを理解することなど出来ないのだ) 実体経済が芳(かんば)しくないからといって、市場に流通する通貨量をじゃぶじゃぶの状態にすることによって、為替レートや株価の変更を迫るというのは、経済活動の前提を掻き乱す「禁じ手」なのだ。創造的破壊を通して時間を掛け変えていく、それがあるべき姿なのだ。 アベノミクス第1の矢「金融緩和」は、第3の矢「成長戦略」の前提条件を変更するという意味で、「創造的破壊」を阻害するものだと言うべきだろう。やはり政府は、市場の安定化に徹すべきなのであって、市場に介入し、恣意(しい)的に通貨供給量を変更して景気変更を図(はか)ろうとするやり方は、市場の自由を阻害し、これを歪(ゆが)めることになる。 貨幣流通量による景気操作は、自由市場に対する「反逆」と言うべきだ。【了】
2026.08.20
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《通貨供給量増加率を変更しても、それが物価上昇率の変更となって成果をあらわすまでには、時間的な遅れが必然的に発生するため、通貨と物価との間における関係が人びとの目にはなかなか見てとれないわけであります。こうして、通貨供給量増加率が低下させられてからしばらく時間がたったうえで、はじめて、それが物価の鎮静につながるという事実が、人びとの目に見えてくるのであります。すなわち、インフレが克服されたというシグナルが人びとに伝達され、インフレ率が低下するという実際の事実となって現われるまでには、相当な時間が必要なのであります。 このような時間のズレの長さは、日本や米国や英国においては、平均して約2年問であります。すなわち、通貨供給量増加率が変動してからインフレ率がはっきりと低下するまでの間には、そのくらいの時間のズレが存在しているわけであります。このような時間的ズレが存在しているために、インフレに対して通貨が果たす基本的な役割を、人びとはなかなか理解することができないのであります》(ミルトン・フリードマン「危機に立つ自由経済」:『フリードマンの日本診断』(講談社)、p. 22) 通貨供給量を絞れば、インフレは収まる。が、それには約2年のタイムラグがある。人々はそれが待てないだけだ、とフリードマンは言うのだ。 なるほど、通貨供給量を絞れば景気は下火になり、したがって、インフレも収まるのだろう。が、このような人為的な手法で景気をコントロールしようとすることが許されるものなのかどうか。高熱が出たから解熱剤で熱を下げたのでは、高熱が出た原因にアプローチしたわけではないから、根本的解決になってはいない。勿論、高熱がひどい場合、とりあえず熱を下げることが必要となることもあろう。が、高熱の原因を突き止めることなくして、健康の回復は望めない。《通貨供給量増加率を減少させさえすればインフレは克服できるという、インフレ治療策がはっきりとしているというのに、では、これを実行するのがどうしてそれほど困難かといえば、通貨供給量増加率の低下という治療策を開始すると、まず最初に現われるその効果といえば雇用の減少であり、失業の増大であるからであります。こうして、政府と国民とによほどの勇気と辛抱強さとがない限り、この期間を耐え抜くことができなくなるわけであります。すなわち、しばしば各国において薬が効きはじめるまで、人びとは待てないわけであります》(同、p. 23) たとえインフレが抑制されるのだとしても、雇用が減少し、失業者が増えるようなやり方を誰も好まないだろう。これは辛抱強いかどうかの問題ではない。【続】
2026.08.19
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《通貨を印刷する機械はきわめて能率的に運転することができ、また、預金通貨を創出する銀行の帳簿係のペンも、きわめて能率的に働らかせることができます。したがって通貨の供給量を増大させることは、きわめて容易なことであります。年率10パーセントとか20パーセントとか30パーセントとかといった増加率でも、通貨供給量は、現金通貨平預金通貨を増大させさえすればいいわけであります。これに対してモノの生産はなかなか成長しないものであります》(ミルトン・フリードマン「危機に立つ自由経済」:『フリードマンの日本診断』(講談社)、pp. 20-21) 実体経済を改善するためには労力も時間も掛かる。これに対し、市場のお金をジャブジャブにするのは簡単だ。だから安倍政権は異次元の金融緩和なるものを行ったわけであるが、これは言わば「麻薬」的なものであった。お金をジャブジャブにすれば、貨幣価値が下がり、そのことによって株価が上昇する。株価が上がれば、企業は労なくして会計を改善できる。 こんな楽な話はない。が、そんな甘い話はないのであって、このようなやり方で企業を立て直したとしても実体が伴っていなければ、企業の体力は失われてゆく。新機軸を生み出す力がなくなった企業は斜陽化するだけだ。《ここで日本の経済成長率が戦後でいちばん高かった時期についてみてみますと、その場合でさえも実質経済成長率は年率9パーセントから10パーセントぐらいでしかなく、しかもこれは他の諸国と比較すればきわめて高い成長率でした。それにもかかわらず、もしも日本の実質経済成長率を15パーセントまで引き上げようと思ったら、日本の経済や社会や政治の構造を大幅に変化させなくてはならなかったことでしょう。また、かりに実質経済成長率のそのような引き上げに成功したとしても、インフレ率はその結果、せいぜい5パーセントくらいしか下がらなかったにちがいありません。 ところが、そのようなやり方をする代わりに、通貨供給量を変動させることはもっとはるかに容易なことだということがわれわれにわかっているとすれば、事態はどうなるでしょうか。日本はこの点に関して、みごとな実例をわれわれに示してくれます。1973年当時には、日本の通貨供給量が年率25パーセントから30パーセントぐらいもの高率において増加していました。ところがその増加率は、80年には10パーセント以下にさえ落ち込んできています。すなわち、日本は通貨供給量増加率を減少させるという方法によって、あの高率のインフレを他の先進諸国よりももっと早く、しかももっと簡単に克服してきたわけであります。このように、実質国民総生産を増大させ、生産性を上昇させれば、たしかにインフレ率を低下させるのに役だちますが、それだけではインフレに対する根本的な治療策とはなることができません。インフレを抜本的に克服やるためには、なんといっても通貨供給量増加率を抑え込むことであります》(同、p. 21) このフリードマンの指南は実に悪魔的だ。通貨供給量を変動させることによって、実体を差し置いて経済をコントロールできる、などという話を我々はどこまで信じてよいものなのだろうか。【続】
2026.08.18
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ヨーゼフ・シュンペーターは言う。The opening up of new markets, foreign or domestic, and the organizational development from the craft shop and factory to such concerns as U. S. Steel illustrate the same process of industrial mutation—if I may use that biological term—that incessantly revolutionizes the economic structure from within, incessantly destroying the old one, incessantly creating a new one. This process of Creative Destruction is the essential fact about capitalism. It is what capitalism consists in and what every capitalist concern has got to live in. -- JOSEPH A. SCHUMPETER、Capitalism, Socialism and Democracy(国内であれ国外であれ新たな市場の開拓、そして工房や工場からU.S.スチールのような大企業まで組織の発展は、――生物学的用語を借りて言えば――産業の変容という同一過程を示しており、経済構造を内側から絶えず革命的に変革し、古いものを絶えず破壊し、新しいものを絶えず生み出し続けている。この「創造的破壊」の過程こそが、資本主義の本質的な事実である。これこそが資本主義の本質であり、あらゆる資本主義企業が生き抜かなければならない現実である)――シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』 有機体には「新陳代謝」が欠かせない。シュンペーターは、資本主義における新陳代謝を「創造的破壊」と呼称した。旧いものが新しいものに置き換わり、入れ替わる。それが生きとし生けるものの性(さが)である。 日本は、創造的破壊のお手本のような国だった。資源の乏しい日本は、1970年代の石油危機においても省エネ改革によってさらなる発展を遂げた。 ケチの付き初めは、1985年のプラザ合意という政治圧力だった。それまで1ドル240円台であった為替レートが1年後には150円台へと大きく変動した。つまり、経済競争の前提条件が大きく変わったということだ。 これが切っ掛けとなってバブルが起こり、日本は此の世の春を謳歌した。が、これは虚の経済が膨張しただけであって、実体経済が成長したわけではない。その後、バブルが弾けると、不良債権問題に苦しむことになる。日本は「失われた20年」と呼ばれるデフレ不況に陥った。 これを「救った」のがアベノミクスだった。(注)アベノミクスの「3本の矢」(1.金融緩和、2.財政政策、3.成長戦略)は相矛盾するところがあり、実質的に機能したのは金融緩和だけであった。だからアベノミクスなどと大層なことを言うべきではないというのが私の意見である。 安倍政権が異次元と称する大胆な金融緩和を行ったことで、株価が上昇し、企業のバランスシートも改善した。また、円安に振れたことで、日本お得意の輸出産業も息を吹き返した。が、これは虚の改善であって、実体を疎(おろそ)かにした産業が国際競争から置いて行かれることの始まりだったのではないかと私は睨(にら)んでいる。 自由主義である限り政府が市場に介入するのは避けなければならない。お札を刷って市場に蒔く「ヘリコプターマネー」のような手法は社会主義的なものであって、市場を混乱させるものだ。 企業は、今ある体制を土台にしてイノベーションを図(はか)る。が、政府が市場に介入することで為替レートや株価が変動するようでは、計画が水の泡となりかねない。つまり、政府が市場に介入することは企業のイノベーションを阻害するということだ。【続】
2026.08.17
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不景気であるのに物価高、すなわち、スタグフレーション状態にあるのが今の日本である。が、経済学の教科書には、景気を好(よ)くして物価を下げる手法は載っていない。景気を好くして物価を下げることは矛盾だからだ。景気が好くなれば物価は上昇する。それが経済学の常識なのだ。 が、不景気なのに物価高というのがそもそもの矛盾なのだから、景気を好くして物価を下げるという矛盾を止揚することもまた出来ない相談ではないと構えてみることもあながち間違ってはいないのではないかと考えるのはただの妄想だと一笑に付されて終わりなのだろうか。 勿論、一度に不景気と物価高の両方に対応するというのは無理な相談なのだとしても、順を追ってこの状況に応対することまでもが否定されるものではないのではなかろうか。つまり、まずは不景気に対応するために減税を行い、その後、物価高に対応するために金融を引き締める、ないしは、その逆もない話ではない。 前例のない話であるので容易なことではないことは百も承知だとしても、何もしないでこのままずるずると凋落(ちょうらく)してゆくのもまた情けないので、無い知恵を絞って情況に抗ってみたいと思う。 フリードマンは言う。《事実の問題として、実質経済成長率が高くなれば高くなるほど、インフレ率を鎮静化させるという傾向は、たしかに存在しています。したがって、ここでもっとも重要なことは、通貨供給量増加率と実質国民総生産成長率とを比較することであります。これらの両者が同じ率で伸びていれば、インフレ発生の心配はありません。しかし、このような事実から、インフレを克服するためには生産性さえ引き上げればよいのだと思いこんでしまっている人びとが多くいますが、残念ながらこのような考え方は誤りでしかありません。どうして誤りかといえば、問題は規模にかかわることであり、また、調整速度にかかわる問題だからだ、ともいうことができます。すなわち、通貨供給量増加率を上下に変動させることは、きわめて容易に、そしてすばやくおこなえるからであります。これに対して、実質経済成長率のそのように敏速な調整は至難なことであり、場合によってはまったく不可能だといっていいほどであります(ミルトン・フリードマン「危機に立つ自由経済」:『フリードマンの日本診断』(講談社)、p. 20) これを読み解けば、不景気であるにもかかわらず物価高であるのは、経済成長が滞(とどこお)ることに原因があるということだ。であれば、生産性を高めればよいということになるが、事はそう簡単ではない。日本のような大規模の経済において、生産性を高めるのは一朝一夕には行かないということだ。だから、フリードマンは、手っ取り早い方法として通貨供給量を増やすことを提唱するのだ。 実際、アベノミクスの第1の矢「異次元の金融緩和」によって、株価は劇的に改善した。が、誤解してはならないのは、実体経済が改善したわけではないということだ。金融緩和は円安をもたらした。このことによって、輸出産業は潤った。一方で、時代を切り開いて行く「推進力」が失われてしまった。【続】
2026.08.16
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《インフレに対する解決策は、要するところ、政府がその支出を削減し、それが創出する通貨の供給量増加率を減少させることであります。それ以外にインフレを克服する方法はまったくありません。インフレを克服するためには通貨供給量増加率を抑え込まなくてはなりません。インフレに関するいろいろな命題のなかでも、この命題ほど広範囲に、また、歴史的に、現実的であることを、繰り返し証明されてきた命題は他にありません。インフレとは、あくまで通貨的現象であります。インフレが発生するのは、いつの時代においても、どの国においても、通貨供給量増加率が国民総生産の増加率を上回ったからだということは、歴史的にも充分証拠だてられてきたことであります》(ミルトン・フリードマン「危機に立つ自由経済」:『フリードマンの日本診断』(講談社)、pp. 20-21) インフレーションは好景気による物価上昇を意味する。が、これはバブルが弾ける前の話なので、今の状況とは異なる。今の日本が置かれた状況は、不景気による物価上昇であり、スタグフレーションと呼ぶべき状態にある。 ノーベル経済学賞受賞者ポール・クルーグマンは、ニューヨークタイムズ紙で次のように述べている。Everyone knows that in the early 1990s Japan tried to boost its economy with a surge in public investment; it’s less well-known that public investment fell rapidly after 1996 even as the government raised taxes, undermining progress toward recovery. This was a big mistake -- Apologizing to Japan, The New York Times, Oct. 30, 2014(1990年代初頭、日本が公共投資の急増によって経済を活性化させようとしたことは誰もが知っている。1996年以降、政府が増税を行ったにもかかわらず、公共投資が急速に落ち込み、景気回復への進展を損なったことはあまり知られてはいない。これは大失敗だった) が、そもそもの失敗は、大蔵省銀行局長の総量規制通達によって、バブルを弾けさせたことだ。そしてバブルの後遺症から十分に立ち直ったとは言えないにもかかわらず、橋本龍太郎内閣が1997年4月、消費税率を3%から5%に引き上げた。増税は景気にブレーキを掛ける。だから、国の借金を減らそうとして増税に舵を切ったのは明らかな判断ミスだった。さらにその直後、アジア通貨危機や国内の金融不安が重なり、景気が大きく落ち込む原因となってしまった。まさに泣きっ面にハチだった。 当時私が主張していたのは、直間比率の見直しであった。消費税率を上げると同時に所得税率を下げる。当時クロヨン(9・6・4)と言われた課税所得の捕捉率に関する業種間格差に対する不公平感をなくすために直間比率の見直すべきだという考え方であった。が、いつの間にやら直間比率問題は消え、社会保障費を賄うために消費増税が必要ということに話が切り替わってしまったのだ。【続】
2026.08.15
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1980年9月19日に開催されたサントリー文化財団主催講演会「危機に立つ自由経済」において、ノーベル経済学賞受賞者のミルトン・フリードマンは、次のように述べた。《どうして政府の巨大化がその国の経済を低成長におとしいれるかといえば、その結果、政府の民間経済に対する介入が増加していくからであります。そのもっとも極端な例が、今日の英国であります。疑いもなく、同国の政府の巨大化こそがもっとも大きな原因となって、英国経済の今日の低成長を発生させたのであります》(ミルトン・フリードマン「危機に立つ自由経済」:『フリードマンの日本診断』(講談社)、p. 14) 第2次世界大戦後、英国経済は深刻な長期停滞状態に陥り、それは「英国病」と呼ばれた。これと似たような状況が今の日本にもある。すなわち、日本は「日本病」に罹(かか)っているということだ。それが「失われた30年」の正体だ。《政府の巨大化のもとにおいて政府支出が増大すればするほど、国民に対する税金は、あからさまなかたちにおける税金の面においても、隠れたかたちにおける税金の面においても、不可避的に増税がおこなわれていくことになります》(同、pp. 14-15) 社会保障費といった必要な支出が増えるから増税せざるを得ないというのなら分からないでもないが、男女共同参画というようなイデオロギー色の強い予算が最早(もはや)当たり前のように組み込まれているのが問題なのだ。再生エネルギーや移民といった政策も大した反対もなく推進されているのも問題だろう。また、首相が勝手に外国へ支援金をバラマキくことに対してどうして国会もマスコミも黙っているのかも謎だ。何か誰も抗(あらが)えない力が存在しているということなのだろうか。《こうして増税がおこなわれればおこなわれるほど、その国の国民は勤労意欲や貯蓄意欲や投資意欲を不可避的に失っていき、その結果、国民経済の革新への意欲が喪失されていくのは必然であります。このようにして、どの国においてであれ、政府が巨大化すればするほど、その国は不可避的にいっそう低成長へと陥っていくものでありますが、そのもっとも基本的な要因は、その国の民間部門における意欲の喪失であります》(同、p. 15) 国民負担が増大することで、庶民の生活は疲弊してしまっている。それなりに暮らせていることに満足しているのか、本来ならもっと豊かに暮らせているはずなのに、政府の政策に反発することもない。反旗を翻す活力すら失われてしまっているということなのだろうか。【続】
2026.08.14
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自民党の某ベテラン議員は言う。「自民党は今年2月の衆院選で、食料品の消費税ゼロ化に向けて検討を加速すると公約に明記。その後の超党派の社会保障国民会議で議論を進めてきましたが、野党との意見集約は叶いませんでした。しかも、参院は未だに少数与党なわけです。このままいけば、野党が参院で消費税の引き下げに関する法案に、軒並み反対する可能性がある。 高市総理は、衆議院で可決された法律案を参議院が60日以内に議決しない場合、衆院で再可決できるという『60日ルール』を使えばいいと思っている節があるが、そんな簡単な話じゃない。そんなことをすれば野党との亀裂は深刻になり、今後の国会運営の大きな障害となる。さらに、調整に汗をかいている参院自民党の顔も潰すことになり、自民党のまとまりも損ないかねない」(集英社オンライン8/4(火) 7:12配信) 税金が下がるのは良い事だ、減税に反対する奴(やつ)は国民の敵だ、などといった単純な話ではないのだ。 国会が円滑にゆくように背後で様々なやり取りがなされているというのは想像に難くない。その苦労を知らぬ者が勝手なことを言うのは程々にすべきである。が、あくまでも大事なのは表舞台の論戦であるべきだ。国会が問題であるのは、公の議論の質があまりにも低すぎるということにある。 2年間に限り食料品の消費税率を8%から1%に下げることは是か非かというのではあまりにも近視眼的に過ぎる。今のような高い国民負担率は必要なのか、国民負担が家計を圧迫し、個人消費が冷え込んでしまっていることが「失われた30年」の原因の1つではないか。だとすれば、どの程度の負担が適当なのか。負担を減らせば税収が減る。税収が減れば、今のような予算は組めない。ではどこかの予算を削らねばならない。予算の中に不要なものはないのか。 この問題は、大きな政府か小さな政府かの選択の話でもある。勿論、二者択一の話ではない。政府はどの程度の大きさが適当なのか。その尺度は何か。今のように大きな政府になってしまったことと、景気の停滞とは関係があるのかないのか、といったことが、国会の場でしっかり検討されるのが先なのではないか。それがないから、薄っぺらな政治的綱引きになってしまうのだ。 本質的議論をすっ飛ばした「2年間に限り食料品の消費税率を8%から1%に下げる」などという話は、単なる国民のご機嫌取りに過ぎない。【了】
2026.08.13
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ハイエク流に言えば、今の国会には「競争」がない。これは、「言論の自由」がないということと同じ意味だ。が、それは必ずしも全体主義のような国家的な自由への抑圧があるということではない。言論の自由を行使し活用しようとする意思に欠けるということだ。自分の思うことを自由に語る状況にあっても、語る意思がないからそれが出てこない。自由を行使する意思がなければ、自由が抑圧されたのと結果は同じである。要するに、どちらにも自由がないということだ。 厳密には、自由を行使している人もいないではない。が、マスコミは自分達とそりが合わない人を避ける。マスコミに取り上げられない人の発言は国民には伝わらない。 自民党の保守派・西田昌司参院議員もその一人だろう。西田氏は2年に限っての食料品消費税減税に反対している。が、反対の理由は、小渕優子衆院議員たちのような財源がないだの、財政が悪化するなどといった財務省べったりの減税反対派とは異なっている。が、マスコミがちゃんと取り上げないからそのことが伝わらない。「そもそも消費税というのは“欠陥税制”なんです。私は廃止もしくは恒久的な減税こそが本来あるべき方向性だと、一貫して主張し続けています。だから消費税減税には賛成なんです。 ところが今回の案は、食料品の消費税を2027年4月から“2年間限定”で1%に引き下げる。つまり、2029年の4月からまた8%に引き上げるという話。 消費税を下げたり上げたりすると国民や事業者に混乱をもたらすだけで、本質的な解決にはならない。まずは消費税廃止に向けた税制全体の抜本的な議論をすることが必要で、2年後にまた税率を元に戻すなんて、明らかに方向性が間違っている。だから今回の方針には反対しているんです」(「女性自身」8/6(木) 12:40配信) 減税と聞いて好意的に受け止めている人は、2年後増税となればこれを批判するに違いない。つまり、2年という短期日で、税率を下げ上げするような一喜一憂するようなやり方では混乱を招くだけだから良くないと西田氏は言っているのだ。「2年間限定の消費税減税をこのまま突き進めれば、次の参院選は大敗する可能性がある。現状でも参議院は少数与党なのに、もし議席がさらに減るようなことになれば高市首相の求心力にも影響を及ぼしかねない。もっといえば、参院選前にある来年の統一地方選挙、その後秋に行われる自民党総裁選挙の時点で“大政局”になっているかもしれません」(同) 2年後戻さねばならない減税策は、本当は税収が減ってしまうのでやりたくないが、先の衆院選で口走ってしまったので仕方がないと言っているようなものだ。2年間限定、食料品に限りなどといろいろ条件を付けなければならないような減税などやらない方がましなのだ。【続】
2026.08.12
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if the market order does not serve a particular rank ordering of objectives, and indeed if, like any spontaneously created order, it cannot legitimately be said to have definite objectives, neither is it then possible to represent the value of its outcome as a sum of individual outputs. What do we mean, then, when we claim that the market order in some sense produces a maximum or an optimum? – Hayek, Competition as a Discovery Procedure(もし市場秩序が特定の目的の優先順位に沿うものではなく、実際、自発的に創られた秩序のように、明確な目的があると論理的に言われないのであれば、その結果の価値を個人が生み出したものの総和として表すことも出来ない。それでも、市場秩序が、ある意味、最大値や最適値を生み出すと主張するのはどういうことなのだろうか)―ハイエク「発見手続きとしての競争」The point of departure for an answer must be the insight that, although the spontaneous order was not created for any particular individual objective, and in this sense cannot be said to serve a particular concrete objective, it can nonetheless contribute to the realization of a number of individual objectives which no one knows in their totality. Rational, successful action by an individual is possible only in a world that is to some extent orderly; and it obviously makes sense to try to create conditions under which any randomly selected individual has prospects of pursuing his goals as effectively as possible, even if we cannot predict which particular individuals will benefit thereby and which will not. – Ibid.(その答えの出発点は、自発的秩序は特定の個人の目的のために生み出されたものではないという意味では、特定の具体的な目的を果たしているとは言われないけれども、それでもなお、誰にもその全体像が分からない数多くの個人の目的の実現に寄与し得ると洞察することだろう。個人による行動が合理的でうまく行くのは、ある程度秩序立った世界だからこそ可能なのであり、どの特定の個人がその恩恵に与(あずか)れるか、与れないのかを予測することは出来なくても、無作為に選ばれた如何なる個人であれ、自身の目標を出来るだけ効果的に追求できる見込みのある条件を創り出そうとすることは、明らかに意味のあることだ)― 同the results of a discovery procedure are necessarily unpredictable, and all we can expect by employing an appropriate discovery procedure is that it will increase the prospects of unspecified persons, but not the prospects of any particular outcome for any particular persons. The only common objective we can pursue in choosing this technique for the ordering of social reality is the abstract structure or order that will be created as a consequence. – Ibid.(発見手続きの結果は、必然的に予測不能なのであって、適切な発見手続きを採ることで期待し得るのは、特定の個人に対する特定の結果ではなく、特定されない人々の可能性を高めることだけである。社会的現実を秩序立てるためにこの手法を採って追求できる共通の目的は、結果として生み出される抽象的な構造や秩序だけなのである)― 同 国民負担を出来るだけ大きくし、集めたお金を政府が恣意(しい)的に用いる今のようなやり方を変えなければ日本の未来はない。であれば、減税することは必然なのだ。 が、今回のように食料品に限り消費税を8%から1%に下げる、そして2年後に元に戻すという話は、減税によって国民の側にお金を戻し、消費を活性化させようということではなく、むしろ物価高による政権批判を躱(かわ)そうとしているに過ぎないものだ。自分たちのやりたい放題の今の体制を維持するために、国民が一番有り難がるであろう食料品減税によってごまかそうとしているのだ。【続】
2026.08.11
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An economy in the strong sense of the word is an organization or an arrangement in which someone consciously uses means in the service of a uniform hierarchy of ends. The spontaneous order brought about by the market is something entirely different. But the fact that this market order does not in many ways behave like an economy in the proper sense of the word—in particular, the fact that it does not in general ensure that what most people regard as more important ends are always satisfied before less important ones—is one of the major reasons people rebel against it. It can be said, indeed, that all socialism has no other aim than to transform catallaxy (as I am pleased to call market order, to avoid using the expression “economy”) into a true economy in which a uniform scale of values determines which needs are satisfied and which are not. – Hayek, Competition as a Discovery Procedure(厳密な意味のエコノミーとは、誰かが、目的の統一的な階層型組織(ヒエラルキー)に仕えて、意識的に手段を講じる組織や仕組みのことである。市場によってもたらされる自発的秩序は全くの別物だ。しかし、この市場秩序が多くの点で、本来の意味のエコノミーのように振る舞わないという事実、とりわけ、概してほとんどの人々がより重要と見なす目的が、重要度の低い目的よりも常に優先して満たされることを保証していないという事実こそが、人々がこれに反発する主たる理由の1つなのである。実際、全社会主義は、(エコノミーという表現を用いるのを避けるために、市場秩序のことを私が好んで呼称するところの)カタラクシーを、統一された価値尺度によってどのニーズが満たされ、どのニーズが満たされないかが決定される真のエコノミーへと転換する目的しか有(も)たない、と言われるだろう)――ハイエク「発見手続きとしての競争」 ハイエクは、「経済」を「エコノミー」と「カタラクシー」に分けて論じている。Oxford English Dictionaryでeconomyの定義を見ると、2. a. In a wider sense: The administration of the concerns and resources of any community or establishment with a view to orderly conduct and productiveness; the art or science of such administration(より広義では:秩序ある運営と生産性を目的として、あらゆる共同体や組織の諸問題や資源を管理すること。また、そのような管理の技法または学問)とある。つまり、エコノミーとは、反自由主義的、設計主義的なものであり、「競争」を通した秩序形成とは正反対のものなのだ。だから、ハイエクは、「カタラクシー」という造語を用いて、論じているのだ。This widely shared wish raises two problems, though. First, as far as the management decisions of a genuine economy or of any other organization are concerned, it is only the knowledge of the organizers or managers alone that can have any impact. Second, all members of such a genuine economy—conceived of as a consciously managed organization—must serve the uniform hierarchy of objectives in all their actions. Contrast this with the two advantages of a spontaneous market order or catallaxy: it can use the knowledge of all participants, and the objectives it serves are the particular objectives of all its participants in all their diversity and polarity. – Ibid.(けれども、この広く共有されている願いは2つの問題を引き起こす。第1に、本物のエコノミーやその他の組織における経営上の意思決定に関して、影響を及ぼし得るのは独り組織者や経営者の知識だけだ。第2に、意識的に管理される組織として捉えられたそのような本物のエコノミーの全構成員は、すべての行動において、統一された目的の階層に従わなければならない。これに対し、自発的な市場秩序、すなわちカタラクシーには、2つの利点がある。それは、全参加者の知識を活用できること、そして、カタクラシーが果たす目的が、多様性と対立の中にある全参加者の個別の目的だということだ)― 同
2026.08.10
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By contrast, it is useful to recall that wherever we make use of competition, this can only be justified by our not knowing the essential circumstances that determine the behavior of the competitors. In sporting events, examinations, the awarding of government contracts, or the bestowal of prizes for poems, not to mention science, it would be patently absurd to sponsor a contest if we knew in advance who the winner would be. – Hayek, Competition as a Discovery Procedure(競争を活用するあらゆる場面において、これが独り正当化されるのは、競争者達の行動を決める本質的な状況が私達に分からないからだ…科学は言うまでもなく、スポーツ競技、試験、政府契約の落札、詩の賞の授与でさえ、勝者が誰になるかをあらかじめ知った上で競技会を主催するのは、明らかに馬鹿げていよう)――ハイエク「発見手続きとしての競争」 例えば、物価高対策であっても、様々な対策が考えられ、もっと言えば、物価高対策が今必要なのかについても意見が分かれるであろうから、つまりは、食料品に限って8%から1%に減税するのが今考えられる最善の方策などということにはじめから決まっているわけではないのだから、国会で「議論」という競争を行う必要があるということなのだ。competition is important only because and insofar as its outcomes are unpredictable and on the whole different from those that anyone would have been able to consciously strive for; and that its salutary effects must manifest themselves by frustrating certain intentions and disappointing certain expectations. – Ibid.(競争が重要なのは、その結果が予測不能であり、誰かが意識的に目指し得たであろうものとは概して異なるからだ…その効果は、特定の意図を阻み、特定の期待を裏切ることで有益なものとなるに違いない)―― 同 予断を許さないからこそ、競争が有益なものとなるということだ。When, however, we do not know in advance the facts we wish to discover with the help of competition, we are also unable to determine how effectively competition leads to the discovery of all the relevant circumstances that could have been discovered. All that can be empirically verified is that societies making use of competition for this purpose realize this outcome to a greater extent than do others – Ibid.(しかしながら、競争の力を借りて解明したい事実をあらかじめ把握していない場合、競争が、解明可能だったあらゆる関連事情の解明にどれほど効果的に寄与するかを判断することもできない。経験的に検証できるのは、この目的のために競争を活用する社会の方が、そうでない社会よりもより大きな成果をあげているということだけだ)―― 同 事前に競争の結果が分からない以上、競争することが有効か否かはやってみなければ分からない。が、競争する社会の方が競争しない社会よりもより大きな成果をあげていることは歴史が示すところだ。The difference between economic competition and the successful procedure of science is that the former exhibits a method of discovering particular temporary circumstances, while science seeks to discover something often known as “general facts,” i.e., regularities in events, and is concerned with unique, particular facts only to the extent that they tend to refute or con-firm its theories. Since this is a matter of general and permanent features of our world, scientific discoveries have ample time to demonstrate their value, whereas the usefulness of particular circumstances disclosed by economic competition is to a considerable extent transitory. – Ibid.(経済的な競争と科学的な成功手続きとの違いは、前者が特定の暫定的な状況を発見する方法を示すのに対し、科学は「一般的事実」としてしばしば知られているもの、すなわち諸事象における規則性を発見しようとし、それらが理論を反証または裏付するのに役立つ限りにのみ、唯ひとつしかない特定の事実に関心を向けるという点にある。これは私達の世界の一般的かつ恒久的な特徴の問題であるので、科学的発見にはその価値を実証する時間が十分あるのに対し、経済的な競争によって明らかになる特定の状況が有効なのは、相当程度一時的である)―― 同 政治は、今ここで私達が採るべき道は何かを暫定的に決定するものであるから競争が有効な手段となるのだ。つまり、公に議論を尽くすことで最善を見つけ出す、それがデモクラシーでなければならないということだ。にもかかわらず、日本の政治は、ただ選挙結果における多数派が支配する構造となってしまっている。そこに問題がある。【続】(注)4つ目の英文中のcon-firmはハイフンを抜くと入力できないので、ハイフンを入れています。
2026.08.09
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Competition is essentially a process of the formation of opinion: by spreading information, it creates that unity and coherence of the economic system which we presuppose when we think of it as one market. It creates the views people have about what is best and cheapest, and it is because of it that people know at least as much about possibilities and opportunities as they in fact do. It is thus a process which involves a continuous change in the data and whose significance must therefore be completely missed by any theory which treats these data as constant. – Hayek, The Meaning of the Competition(競争とは、本質的に意見形成を行うための過程である。情報を広めることによって、競争は、私達が経済制度を「1つの市場」として考える際に前提とするその統一性と整合性を生み出す。競争は、何が最善で最も安価かについて人々が抱く見解を生み出し、それがあるからこそ、人々は実際に知っているのと同じくらい、あるいはそれ以上に、可能性や機会について知ることができるのだ。したがって、これは情報に絶え間ない変化を伴う過程であり、こうした情報を不変のものとして扱う如何なる理論も、その重要性を完全に見逃さざるを得ない)――ハイエク『競争の意味』The standard can evidently not be perfect knowledge of everything affecting the market on the part of every person taking part in it…It will be obvious also that nothing is solved when we assume everybody to know everything and that the real problem is rather how it can be brought about that as much of the available knowledge as possible is used. This raises for a competitive society the question, not how we can ‘find’ the people who know best, but rather what institutional arrangements are necessary in order that the unknown persons who have knowledge specially suited to a particular task are most likely to be attracted to that task. – Ibid.(市場に関わるすべての人が市場に影響を与えるあらゆる事柄について完全な知識を持っているという基準は明らかに有り得ない…誰もがすべてを知っていると仮定しても何も解決されないこと、そして真の問題はむしろ、利用可能な知識を可能な限り多く活用できるようにするにはどうすればよいかということであることも明らかだろう。これにより、競争社会においては、「最も知識のある人々をどのように『見つけ出す』か」という問いではなく、特定の課題に特に適した知識を持つ未知の人々が、その課題に最も惹きつけられるようにするためには、どのような制度的仕組みが必要かという問いが提起されるのである)― 同 ハイエクは経済市場についてこのように述べているが、これは国会という政治の議場にも応用できるように思う。国会にもハイエクの言うような「競争」が必要だということだ。国会に競争があればこそ、今何が必要なのかが見出され、最善の選択もまた可能となるということだ。 が、残念ながら国会に「競争」があるとはとても思われない。侃々諤々(かんかんがくがく)の議論があってしかりなのに、誹謗中傷のような後ろ向きの議論ばかりだ。知識、経験、置かれた立場は人によって千差万別だ。つまり、見える景色が異なるのであるから、それを公の場で開陳し、議論を戦わせることで、最善の選択は何かを浮かび上がらせる、最善手は何かを発見しようということだ。 が、今の国会は政府が出してきたものにケチを付けるだけで、結局のところ部分的に修正を加えてこれを追認しているに過ぎない。これでは最善の選択をすることなど叶わない。【続】
2026.08.08
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ノーベル経済学賞受賞者ハイエクは言う。 There is nothing in the basic principles of liberalism to make it a stationary creed; there are no hard-and-fast rules fixed once and for all. The fundamental principle that in the ordering of our affairs we should make as much use as possible of the spontaneous forces of society, and resort as little as possible to coercion, is capable of an infinite variety of applications. –- Hayek, The Road to Serfdom: One. The Abandoned Road(自由主義の基本原則には、それを不変の信条とするような要素は一切なく、一度定められれば決して変えられないような厳格な規則も存在しない。社会の問題を処理するにあたっては、可能な限り社会の自発力を活用し、可能な限り強制に頼るべきでないという基本原則は、無限に多様な形で適用され得るものである)――ハイエク『隷属への道』1. 廃道 私もハイエク同様「自由主義」の立場に立つので、<社会の問題を処理するにあたっては、可能な限り社会の自発力を活用し、可能な限り強制に頼るべきでない>と考える。だから今の日本の政治のような社会主義的なやり方には反対だ。 The liberal argument is in favor of making the best possible use of the forces of competition as a means of coordinating human efforts, not an argument for leaving things just as they are. It is based on the conviction that, where effective competition can be created, it is a better way of guiding individual efforts than any other. It does not deny, but even emphasizes, that, in order that competition should work beneficially, a carefully thought-out legal framework is required and that neither the existing nor the past legal rules are free from grave defects. Nor does it deny that, where it is impossible to create the conditions necessary to make competition effective, we must resort to other methods of guiding economic activity. Economic liberalism is opposed, however, to competition’s being supplanted by inferior methods of coordinating individual efforts. And it regards competition as superior not only because it is in most circumstances the most efficient method known but even more because it is the only method by which our activities can be adjusted to each other without coercive or arbitrary intervention of authority. Indeed, one of the main arguments in favor of competition is that it dispenses with the need for “conscious social control” and that it gives the individuals a chance to decide whether the prospects of a particular occupation are sufficient to compensate for the disadvantages and risks connected with it.(自由主義の主張は、人間の努力を調整する手段として競争力を最大限活用すべきだというものであって、現状のまま放置しろという主張ではない。それは、効果的に競争できる場においては、それが他のいかなる方法よりも個人の努力を導く上で優れた手段であると確信しているからである。競争が有益に機能するためには、綿密に考え抜かれた法的枠組みが必要であり、現行の法的規則にも過去の法的規則にも重大な欠陥がないわけではないということを、リベラリズムは否定するどころか強調している。また、競争を効果的に機能させるために必要な条件を整えることが不可能な場合、経済活動を導くのに他の方法を用いざるを得ないということも否定してはいない。しかしながら、経済自由主義は、競争が、個人の努力を調整する劣った方法に取って代わられることに反対する。そして、競争を優れたものと見做すのは、それがほとんどの状況において既知の最も効率的な方法であるからだけではなく、むしろ、権力の強制的または恣意的な介入なしに、私達の活動を互いに調整できる唯一の方法であるからに他ならない。実際、競争を支持する主な論拠の1つは、競争によって「意識的な社会統制」の必要がなくなり、特定の職業の見通しが、それに伴う不利益やリスクを補うのに十分かどうかを判断する機会が個人に与えられるという点にある) つまり、個人の自由を尊重すべきだということだ。減税の話に戻せば、お金の使い道は個人の自由に任せるべきだからこそ減税すべきだということなのだ。そこで重要となるのが「競争」の概念である。【続】
2026.08.07
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1990年代初頭にバブルが弾(はじ)けて以降、日本経済は、成長力を失い、慢性的なデフレ状態に陥った。いわゆる「失われた30年」である。名目GDPは伸び悩み、賃金も停滞する中、国際的な経済的地位は低下した。にもかかわらず、税金・社会保険料などの社会保障負担(国民負担率)は上昇し、可処分所得は目減りし続けている。つまりは、個人が自由に使えるお金が少なくなっているということだ。 この問題は、個人の自由と政府の統制の問題として考えることも出来るだろう。つまり、個人が得たお金の使い道を個人の自由に任せるのか、それとも、政府が税金として一括徴収し、その使い道を政府の判断に委ねるのかということだ。減税とは、個人から徴税するお金を減らし、そのお金の使い道を個人裁量に任せるということに他ならない。 問題は、政府があまりにも恣意(しい)的なお金の使い方をしているというところにある。今や女性首相を戴くにもかかわらず9.6兆円もの男女共同参画予算がどうして必要なのか、どうしてこんなイデオロギーまみれの予算がぬくぬくと存在し続けるのか、日本は共産主義国なのか。「もったいない精神」の根付く日本において、世界が見向きもしないSDG’sに6.3兆円も予算を付けるのはなぜか、国連信仰が過ぎやしないか。少子化が止まらない中、どうすれば少子化が止められるのかわからぬまま、少子化対策を担うという名目で作られたこども家庭庁などただの水膨れ組織に過ぎないことは誰の目にも明らかであり、ここに4兆円ものお金が流れるのを黙って見過ごすわけにはゆかない。 もちろん、個人の自由に任せていては見過ごされてしまう公共的な事業もあるだろう。また、個人がばらばらに自由にやるよりも、政府が一括して行う方が効率的で費用も抑えられるというものもあるだろう。したがって、政府の予算組をすべて否定的に見る必要はない。けれども、今の政府が組む予算は、とても要不要が精査されたものとは言い難いところがあるのも事実だ。これは単に政府の問題だけではなく、国会がしっかり機能していないということでもある。 減税の財源はあるのかといったことがしばしば問題にされるが、焼け太りした無駄な予算を削ればいいだけだ。かつて民主党政権時に劇場型の「事業仕分け」があったが、今こそ「ゼロベース」で予算の見直しを行い、肥大化した政府のスリム化を図(はか)るべきではないか。本当に必要な予算なのかどうかを1つひとつ国会でしっかり審議する必要があるだろう。 政府がスリム化すれば、国民の負担も減り、国民が自由に使えるお金が増す。国民の消費が活性化すれば、景気も上向くだろう。税収も増える。財源問題のような後ろ向きの議論は有害無益である。【続】
2026.08.06
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そもそもなぜ食料品に限って減税なのか。また、8%をゼロにするのでなく1%にするというのも中途半端である。否、一番中途半端は、実施後の成果を見ることなく、2年で元に戻すことを確約するというのも国民を馬鹿にした話だ。要は、有権者の支持を取り付けるために「悲願」だと言って(食料品の)消費税減税を口にしてしまったために、やらざるを得なくなってしまったということなのだろう。 富の再分配政策を行っている今の日本は、紛(まが)う方無き「社会主義国家」だ。だから、物価高対策などという話にすぐなってしまう。なるほど、昨今物価が上昇傾向にある。が、だからと言って物価高対策という名目で、食料品減税だの給付金だのということになるのは疑問だ。 政府が取り組むべきは、物価高自体に対する対策ではないのか。今の物価高は、好景気による物価高ではなく、円安による輸入品高騰による「コストプッシュ」型の物価高である。であるなら、円安対策こそが必要となるはずだ。 円安効果によって、株価は上昇し、企業のバランスシートも改善した。が、円安は、日本全体の資産価値を低める。つまり、国内だけを見れば順調なように見えるが、国際的には日本は円安によって酷く痛んでしまっているのだ。 1980年代、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とも称され、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国であった。それが今やGDP(国民総生産)でシナやドイツに抜かれ、インドにも抜かれようとしている。 問題の発端は、あっさり言えば、安倍政権の円安誘導にあったというのが私の見立てである。異次元の金融緩和によって、円安となり、株価が上昇した。このことをもって大方の人がアベノミクスの成果と考えているようだが、私の意見は異なる。円安とは日本の資産が目減りすることを意味し、国内の株価が上昇したぐらいでは割が合わないということだ。円安になれば、当然輸入価格は上昇し、物価高になる。また、海外から日本買いを招く。日本の資産価値が下がり、外国人に日本の水源が買われるなどの治安上の問題も発生している。 産業の構造改革によって円高に対処すべきであったはずが、イノベーションを忘れ、古い産業構造を残したまま円安誘導で問題に対処しようとしたのがそもそもの間違いだったと私は見ているのだ。 であれば、1ドル120円程度の円高にすれば今のような問題が解決するのかと言えば、そう簡単ではないだろう。かつてのような勢いのある時代ならともかく、円安というぬるま湯で糊塗(こと)してきたことによって、日本はイノベーションの力を失ってしまっている。だが、「虚の経済」に依存することをやめ、そう簡単ではないにせよ、モノ作り社会を復活させる覚悟と気概が今こそ必要であろうことは論を俟たない。【続】
2026.08.05
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