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これまでの僕の日記は、いかにも個人の書く日記という雰囲気かと思います。つまり「~だ。」「~である。」で終わります。僕は読み手をあまり想定していないので、どうしても粗暴な感じです。 僕はいつもいろんな人の日記を読んでいます。その多くが、語りかけるような文章です。どことなく丁寧な雰囲気があります。 そこで今日から文章は丁寧語にし、読み手を意識したものにしようと思います。過去の日記も丁寧語に且つ読みやすく編集しようと思っています。 柔らかな答えは憤りを静める。 しかし激しいことばは怒りを引き起こす。 >>箴言 - 15:1 心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。 >>箴言 - 22:11
2005年04月16日
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今日は学校で身体測定とスポーツテストがありました。視力検査、聴力検査もありました。1年生は心電図検査もあったようです。 2年前、僕は心電図で引っかかったことがあります。洞性徐脈の疑いがありました。放課後に近くの市立病院へ行ったことを覚えています。エコー検査を受けました。結果は異常なしとのことでホッとしました。 ところで昨日は授業が一切合財なかったわけです。視力検査の順番が回ってくるあいだは読書をしたりして過ごしました。また他の測定の順番待ちのあいだは友達と喋ったりしました。昼食後は体育館でバレーボールをして遊んでいました。それから学生食堂の前にある休憩所でお茶をしながらのんびり過ごしました。放課後、帰宅してからも紅茶を淹れてゆったりと過ごしました。昨日は別段時間のことも気にしない1日を過ごしました。満喫した、とそういっても過言ではないだろうと思います。いつも忙しく過ごしていますが、たまにこういう日もあっていいなと感じました。特に何もなかったわけですが、いつもと違う充実感を味わうことができました。 現代人は忙しいことが充実していることだと勘違いしているように思います。仕事でも勉強でも、量より質、時間よりも効率が求められます。人の一生も長ければ良いというわけではないと思います。悲しみに沈み心しおれ涙する1年間。笑顔に溢れ喜び叫ぶ心豊かな1週間。あなたはどちらでも選ぶことができるとして、いったいどちらを選ぶでしょうか。 たとえ僕が明日死ぬことがあっても、「彼は優れた17年を生きた。」そう言われるように日々を過ごしたいものです。 いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。 その中で一番すぐれているのは愛です。 >>コリント人への手紙 第1 - 13:13 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。 見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 >>コリント人への手紙 第2 - 4:18
2005年04月15日
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思索膨張。昨日あたりから、考えることが多すぎる。そのため傍から見ればボンヤリな状態だろう。声をかけられても気がつかなかったり、となりに人がいても気がつかなかったり。我ながら、おかしな奴だ。でもどうしてそこまで考えるのか?考えに考えると、脳が草臥れたという。考えること、心配することについて、聖書には次のような面白い話がある。 だから、わたしはあなたがたに言います。 自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、 また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。 いのちは食べ物よりたいせつなもの、 からだは着物よりたいせつなものではありませんか。 空の鳥を見なさい。 種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に収めることもしません。 けれども、あなたがたの天の父がこれを養ってくださるのです。 あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、 自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 なぜ着物のことで心配するのですか。 野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。 働きもせず、紡ぎもしません。 しかし、わたしはあなたがたに言います。 栄華を窮めたソロモンでさえ、 このような花の1つほどにも着飾ってはいませんでした。 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれるの野の草さえ、 神はこれほどにも装ってくださるのだから、 ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。 信仰の薄い人たち。 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、 などと言って心配するのはやめなさい。 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。 しかし、あなたがたの天の父は、 それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 だから、神の国とその義をまず第1に求めなさい。 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 だから、あすのための心配は無用です。 あすのことはあすが心配します。 労苦はその日その日に、十分あります。 マタイによる福音書 二十五節から七章三十四節現代人がこの話を聞いても「そんな馬鹿な」と感じると思う。生きるための食べ物、生きるための飲み物、生きるための着物、だからだ。でもここから先を考えることが大切だ。生きることはわかったが、何のために生きているのか?人はこれを考えずにここまで来てはいないだろうか。だから考えすぎはこれくらいにしておこう。しかし思弁の内容は秘密である。
2005年04月14日
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知る。僕は高校生なのでもちろん学校で教育を受ける。様々な教養を身につけるためだ。でも単なる知識では人は高ぶるだけの者になる。ソクラテスの無知の知というのは有名だ。中学校でも習った。「ソフィーの世界」という小説でも読んだ。今日も世界史の時間にその話があった。人には未知のものが多い。とても多い。人は昔から知識を求めてきた。科学がこんなに発達してきた今も、人はひたすら知ることを欲している。聖書には知識についてどうあるか。 主を恐れることは知識の初めである。 箴言 一章七節 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。 わざわいの日が来ないうちに、 また「何の喜びもない。」という年月が近づく前に。 伝道者の書 十二章一節神は、わたしを知りなさい、といわれるのだ。人は、神の愛によって生命が与えられている。そして神の愛によって自由が与えられている。自由や権利というものには大抵、責任が伴なう。人は、生きる自由が与えられ、神を求める責任を負っている。そして人生のどの地点で見つけるかというのもそれぞれ違う。聖書はこういっている。 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 ヨハネの手紙 第一 四章八節
2005年04月13日
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入学式。今日は僕の学校の入学式だった。といっても上級生は自宅にいるだけ。自分のことでなければ実感もなく感動もない。今日は遅くまで寝ていました。昨日の体調不良が続いている。頭痛がしたので熱を測ったら結構あった。普段、低体温なので普通の人の微熱でもつらい。春だというのに、風邪をひくとは。新学期だというのに、我ながら情けない。とりあえず直すことが先決。もう一度ベッドにもぐりこんだ。それにしても何故だろう。気の緩みか。それとも変なものでも食べたのだろうか。しかし拾い食いした覚えなどない。原因はどうやら花粉症のようだ。鼻炎なので薬を飲んだ。するとあら不思議。小一時間すると鼻炎の症状が消えるとともに頭痛と熱とが緩和された。そういえば花粉症でも風邪の諸症状がでる、そう聞いたことがあった。人は、つらいことがあると愚痴を零す。そういう時、人は感謝すべきことを忘れている。聖書にはこんな言葉もある。 ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。 あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。 あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。 イザヤ書 三十八章十七節神は、誠実な方で、意味のない苦悩を負わせるようなことはされない。試練のあるとき、逆境の日には、まず感謝を忘れてはならない。それを忘れると人は下を向いてしまう。
2005年04月12日
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風を待つ。新学期、新しいクラスでの生活が始まったのだけど、環境の変化のためだろうか。新しい出会い、出来事に好奇心があるのに、身体が重かった。疲労感とか倦怠感というものだろうか。すごくフラフラな感じだった。焦らずとも、そのうちなれるだろう。僕は休み時間によく読書をする。案の定、今日も読んでいた。しかし今日は視界に文字が入ってきても、頭に入ってこない。思考も十分に回っていなかった。仕方ないから本を閉じて眠っていた。時間は流れ、休み時間が終わり、授業が始まった。しかし授業が始まりしばらくするのに起きなかったので、周りに起こされた。かなり熟睡していたようだった。不覚・・・。今日の放課後でさえ、教室でひと眠りしてから帰ろうか迷ったくらいだ。これが「春眠暁を覚えず」というものだろうか。新しいクラスメイトの目には、僕がネボスケに映ったんじゃないだろうか。初対面の印象としてはいいものではなさそうだ。まぁ事実、僕はネボスケなんだけど。教室の雰囲気は、男子が少ないから、仲間を作ろうと一生懸命な感じに取れた。どうでもよいということはないけど、僕は友達を作ろうと躍起になることがない。これまでを振り返っても、そういえばそうだったなぁと思う。おそらく僕は、去る者追わず、来る者拒まず、という性格なのだろう。受動的な性格かもしれない。やはりこれは直した方がいいだろうか。とはいえ、基本的に自分の必要は全て満たされる。実際、僕は全ての必要を満たされ、それ以上のものまでいただいている。泳ぐ意志は大切だが、自分の力で泳ごうとするなら敢え無く溺れて沈んでしまう。ひとりで、もがき、あがき、焦っても前には進まないのだ。神は、必要と求めに耳を傾けてくださり、適当な時に、波に乗せてくださる。力強い風を送ってくださり、扇がずとも帆がいっぱいに張るのだ。その船は、碇を引きちぎらんばかりの勢いで航行する。神に愛されていることを知っているというのは本当に気楽なことだなぁと思う。 あなたは知らないのか。聞いていないのか。 主は永遠の神、地の果てまで創造された方。 疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。 走ってもたゆまず、歩いても疲れない。 イザヤ書 四十章二十八節から三十一節
2005年04月11日
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再会。今日の礼拝はちょっと特別だった。元宣教師で長らく日本で働かれていた方が久しぶりに日本へ来た。それなりにお歳を召されている方だ。ホームステイでお世話になった宣教師とは違う人だが、古くから知っている。といっても僕が小さい頃の話で、いつもいつも顔をあわせていたわけではない。彼女はミネソタ州に住んでいるそうだ。アルバムを見せてもらった。すごい積雪の光景が写っていた。手作りといった感じのログハウスに暮らしているようだ。そして今日はYWAM(Youth With A Mission)の海外伝道師のお友達も連れてきた。なんと彼女は十八歳なのだということで驚いた。ナイジェリアで奉仕されたそうだ。僕と同世代なのにすごい。日本でクリスチャンはマイノリティーだが、一歩踏み出せば違うのだと実感した。また、彼女は礼拝の中で弾き語りで賛美した。 I Could Sing Of Your Love Forever Over the mountains and the sea Your river runs with love for me And I will open up my heart and let the healer set me free I'm happy to be in the truth And I will daily lift my hands For I will always sing of when Your love came down I could sing of Your love forever, I could sing of Your love forever, I could sing of Your love forever, I could sing of Your love forever Oh I feel like dancing It's foolishness I know But when the world has seen the light They will dance with joy like were dancing nowすごく素敵な賛美だった。すごいといえば、昼食時にゲストの2人は巧みに箸を使っていた。日本人は2本の棒で食事する、というのはごく普通だ。しかしよく考えてみたら、とても面白いことだと感じた。異文化に驚かされることはある。でも自分たちの持つ文化に驚いたのは久しぶりかもしれない。自分自身を見つめなおすことは重要だと感じた。そこには良い発見もあり、また悪い発見もある。自分の目の中の梁を忘れてはいけない、というのが今日のメッセージだった。 さばいてはいけません。さばかれないためです。 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、 あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。 ヨハネによる福音書 七章一節から二節今日はもうひとりゲストが来ていた。普段は他の教会へ行かれているが、元宣教師の方に会いに来ていたのだ。その人もとても楽しくおもしろい人だった。
2005年04月10日
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散髪。今日、髪の毛を切った。僕はいつも自分で切っている。2年前くらいから自分でするようになった。だから、どうしてもガタガタになる。ポケットマネーから捻出できればいいのだけど、それがなかなか。とはいえ、髪を切るためのハサミが与えられていることは感謝なことだ。髪の毛といえばこんな聖句を思い出す。 あなたの頭をさして誓ってもいけません。 あなたは、1本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。 マタイによる福音書 五章三十六節この句は、人は全て被造物だということも教えてくれる。 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。 それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。 エペソ人への手紙 二章八節 私たちは神の作品であって、 良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。 エペソ人への手紙 二章十節これらの聖句は全ての人は被造物だということを明確に告げている。そのことを忘れてはいけない。
2005年04月09日
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新しいクラス。今日から僕は3年生になるらしい。担任が昨年と同じためか新鮮味なく、イマイチ実感が湧かない。新しいクラスの顔ぶれは大きく変わった。知らない人ばかりだ。新鮮なのかもしれない。僅かにいた既知の友人もみんな良くしてくれる人でよかった。春休みのあいだ、新しいクラスでよい友人が与えられるようによく祈っていた。それが実現されているのだと感じる。こういう時、人は神への感謝を忘れやすく、気をつける必要がある。つまり全ての良い出来事は「幸運」ではなく「主の恵み」だということだ。主に祈り、信頼することは大切なことであり、それは主に喜ばれることだ。聖書を読むとそれを知ることができる。 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。 ローマ人への手紙 十二章十二節 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、 感謝をもってささげる祈りと願いによって、 あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 ピリピ人への手紙 四章六節 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。 神があなたがたのことを心配してくださるからです。 ペテロの手紙 第一 五章七節 あなたの道を主にゆだねよ。 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。 詩篇 三十七章五節 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 箴言 三章六節 にわかに起こる恐怖におびえるな。 悪者どもが襲いかかってもおびえるな。 主があなたのわきにおられ、あなたの足がわなにかからないように、 守ってくださるからだ。 箴言 三章二十五節から二十六節 人を恐れるとわなにかかる。 しかし主に信頼する者は守られる。 箴言 二十九章二十五節 あなたがたは心を騒がしてはなりません。 神を信じ、またわたしを信じなさい。 ヨハネによる福音書 十四章一節 立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、 落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。 イザヤ書 三十章十五節これらの聖句から何を学べるだろうか。主なる神は祈りに答えてくださる方だということがわかる。人は困難や不安があると、まず神以外の人に頼ろうとしてしまう。家族や恋人、友人、同僚、以前助けてくれた者。人は浅はかなことに、これら自分と同じ人に頼ろうとしてしまうのだ。まず最初に主である神を頼りにして、助けを求めなくてはいけない。そして、もし主が助け手を備えてくださるなら、最適の者を遣わしてくださる。その順序を誤ると不適切な人の助けを受けることになってしまう。そういう時、人はさらに転び深みにはまってしまう。人の助けは賭け事のようで確かではないからだ。また、人は愛する家族から助けを求められたら、すぐに応えようとしてしまう。しかし、真に神を愛し真に家族を愛するなら、まずこう言いたい。「最初に誰を頼りましたか?私ではなく、まず第一に主なる神に頼るべきです。」厳しいかもしれないが、これほど正しく安全な助言はない。「主に頼れ。」やはりこれ以上の助言はない。そしてこう言おう。「神があなたに最良の助け、或いは助け手を与えられるでしょう。」そして、もし自分がそのために遣わされたと思ったらどうするか。そのときは、祈り、愛と感謝と謙遜の心を持って仕えよう。それはキリストを証しすることであり、主は良い報いを与えてくださる。いつも最初に誰を頼みとするか。こんな小さなことであっても信仰を鍛えることに繋がると思う。
2005年04月08日
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明日から新学期。春休みに限らず、休みというのは振り返ってみるといつも短い。時間の流れが如何に早いものかを感じる。高校を卒業する時、短かったな、というのだろうか。明日は新しいクラスが発表される。僕はこの年でもワクワクする。そして自分はまだまだ子どもだな、と感じる。子どもといえばこんな聖句が浮かぶ。 子どものように神の国を受け入れる者でなければ、 決してそこに、入ることはできません。 マルコによる福音書 十章十五節この聖句は幼い子どものように無教養でありなさいというものではない。先日、京都の聖神中央教会の牧師が逮捕された。数年間に渡り信者の女児に乱暴したことが明るみに見なったのだ。聞くところによると「信仰を試す」と名分だったという。なんとも気分の悪い話だ。他人の信仰を試す前に自分の人間的な理性を備えてもらいたい。問題の聖神中央教会は、癒しの奇跡を持って信徒を洗脳していたようだ。奇跡なら悪魔でも為せることだ。エジプトの魔術師もモーセとアロンの前で杖を蛇に変じた。奇跡そのものがキリストの証しにはならない。ネットで調べてみると、やはり聖神中央教会はとんでもない異端のようだ。正確な情報ではないが、このような派閥を「救い派」と呼ぶらしい。「救い派」は数年前から韓国の新興異端勢力として有名になっていた。大韓イエス長老教会などのプロテスタント諸派が異端宣告をしていたようだ。教会の雰囲気は統一教会のようだとも聞く。つまり聖職者が神格化されているのだ。有名な異端には、エホバの証人、モルモン教、統一教会がある。これに当てはまらないからといって異端ではないとはいえない。ニュースを見てもわかるが、この教会の信仰はキリストへの信仰ではない。例の牧師の教会は、組織信仰、教会信仰、牧師信仰になっている。全ての教会は他人事だと思い、自分の身には起こるものかと言ってはならない。人の計ること、為すことに絶対はないからだ。常に自分たちの教会が神の目に美しいかどうかを吟味しなくてはいけない。 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、 自分自身をためし、また吟味しなさい。 それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、 自分で認めないのですか。 ――あなたがたがそれに不適格であれば別です。―― コリント人への手紙 第二 十三章五節今後、被害に遭った信徒、残された教会の信徒の支援を要求されるかもしれない。教会はキリストの花嫁とはよくいわれることだ。だから聖く健康で、その頭はキリストでなくてはならない。 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。 それによって成長し、救いを得るためです。 ペテロの手紙 第一 二章二節生まれて間もない幼子が人を罵ったり呪ったりするだろうか。いや、しない。そのように純真な姿勢で聖いものを求めなくてはいけない。 しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。 同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。 彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、 自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、 自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。 そして、多くの者が彼らの好色にならい、 そのために真理の道がそしりを受けるのです。 また彼らは、貪欲なので、 作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。 彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、 彼らが滅ぼされないままでいることはありません。 ペテロの手紙 第二 二章一節から三節 いいですか。 わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。 ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。 マタイによる福音書 十章十六節 あなたがたの従順はすべての人に知られているので、 私はあなたがたのことを喜んでいます。 しかし、私は、 あなたがたが善にはさとく、 悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。 ローマ人への手紙 十六章十九節素直さと同時に聡くあらなくてはいけない。ではどう見分けようか。 こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、 キリストの使徒に変装しているのです。 しかし、驚くには及びません。 サタンさえ、光の御使いに変装するのです。 ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、 格別なことはありません。 彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。 コリント人への手紙 第二 十一章十三節から十五節 にせ預言者たちに気をつけなさい。 彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。 ぶどうは、いばらからは取れないし、 いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。 良い木が悪い実をならせることはできないし、 また、悪い木が良い実をならせることもできません。 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。 こういうわけで、 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。 わたしに向かって、 『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、 天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。 『主よ、主よ。 私たちはあなたの名によって預言をし、 あなたの名によって悪霊を追い出し、 あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。 『わたしはあなたがたを全然知らない。 不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』 マタイによる福音書 七章十五節から二十三節教会や牧師に依存しないキリストとの個人的な関係が必要だということがわかる。まさに信仰は個人のものといえる。
2005年04月07日
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金銭。最近、株式会社の買収が問題になっている。専門家などのあいだでさまざまな議論がなされているようだ。どこでもドアのような会社の若い旦那が活躍しているらしい。放送会社はその若者と戦っているみたいだ。それぞれの下に社員とその家族がいるんだから、必死になるのは当然か。愛があるとかないとかということも耳にする。しかしお金のことで愛を語っても様にならない。そのことに気づかないのだろうか。ちょっと不思議だ。彼は世間にあふれる建前の愛を砕きたいのかもしれない。でも彼自身に愛があるかどうかはしらないから何とも言えない。あくまで僕の想像の一端だ。彼は単なる野心家であるかもしれない。確かにお金というのは社会で生きていく上では重要かもしれない。でも執着したら醜さしか残らない。経済や株式の話でどうこう言うつもりはない。しかし、もし本当に愛を説くなら一度お金から目を離してみてはどうか。僕にはピストルを持って平和を訴えているように矛盾があるように見える。 金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。 これもまた、むなしい。 伝道者の書 五章十節 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。 そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 自分の宝は、天にたくわえなさい。 そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 マタイによる福音書 六章十八節から二十一節 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。 見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 コリント人への手紙 第二 四章十八節 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。 主ご自身がこう言われるのです。 「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」 へブル人への手紙 十三章五節
2005年04月06日
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ゆとり教育。世間では教科書のことが話題になっているようだ。日本の学歴至上主義を緩和させるのが目的なのだろうか。つまりこどもの精神面を養うことを意図しているようだ。しかし、最近のニュースを見ていて思う。権威ある者が了見のない振舞いをして自らの手でその身を潰している。会長や社長などの上級管理職に就く者の汚職も目立つ。国会議員、市役所職員、警察関係者、教育機関関係者の所業も醜い。こどもに教育を施す側の精神面が育っていないのだ。これでどうしてまともな教育ができよう。聖書に有名な言葉がある。 イエスはまた一つのたとえを話された。 「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。 ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。」 ルカによる福音書 六章三十九節 あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、 どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。 自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、 「兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。」と言えますか。 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。 そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。 ルカによる福音書 六章四十一節から四十二節今、さまざまな問題があるが、まず初めに必要なこととは何か。自分も対象に含めた人質管理ではないだろうか。他人を見るためには、まず初めに自分を鏡に映してからだ。そうして、もし改革を謳う者がいれば、その改革者の質を見極めなくてはいけない。
2005年04月05日
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ローマ法王。ヨハネ・パウロ2世が亡くなった。僕はプロテスタント教会に通っているので、昨日の礼拝はいつもどおりだった。ローマ法王は世界に対して大きな影響力を持っていた。いや、いまはあえて持っているとしておこう。世界中から大勢の人々がバチカンに訪れているようだ。多くの人にとって特別な出来事だったのだということがわかる。ただ、誰にでも死はあるし、すべての存在は重要なものだ。彼だけが重要だというわけではない。神はすべての人を愛している。確かに法王は社会的な階級でみれば重要な人であることは間違いない。しかしすべての人と変わらず、同じ人だ。神の目に法王は大切で、他の人は大切ではない、ということはない。おそらくヨハネ・パウロ2世が法王でなかったらどうだっただろう。老人が亡くなった、と村で情報が流れた程度だろう。この世では社会的身分に上下の差がある。しかし、すべての人がいのちにおいて等しいことを改めて覚えなくてはいけない。 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。 ヨハネによる福音書 三章十六節神はこの世全体を愛しておられる。だから、罪の支配から抜け出すことができるようにキリストを遣わされたのだ。
2005年04月04日
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敵を愛し、敵を赦す。現代人、特に若者はキレやすい、とよく言われる。「切れる」という言葉はそもそも頭の回転がいいことを指す。主にカタカナ表記の「キレる」は怒ること。おそらく「堪忍袋の緒が切れる」という言葉を略したのだろう。最近は単純に「怒る」という意味で使われている気がする。どうであれ略されるということは頻繁に使われているということだ。つまり人の持つ寛容さが失われてきたということだろうか。それは現代社会に蔓延するストレスのせいだろうか。その理由はどうあれ不寛容は何も生まない。人間関係を破壊する一方だ。僕がアメリカへ行った時、お世話になった宣教師がいる。もちろん日本の教会にいた時も信仰上でも英会話指導でも大いに世話になった。彼女は在日中、教会でこういうことを言った。 人が怒る時、その人は感情に支配されることを選択している。 しかし、その人には同時に怒らないという選択肢も与えられている。怒りの感情は敵意があるからこそ沸き起こって来る。その時、その人にとって怒りの対象とは敵であるわけだ。彼女はまたこんなことも話してくれた。 宣教師の友人が街で見知らぬ若者に殴られたことがあった。 その理由は非常に不条理なものだった。 そして大衆の前で彼は屈辱を受けたのだ。 しかし彼はやり返すことはなく、その後も怒ることさえしなかった。 彼は心のうちで彼らを赦した。ちなみに僕は彼女が怒っている姿を見たことがない。僕が幼い時から彼女のことを知っているが、いつも笑顔だ。聖書を開いてみる。 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。 「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、 何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 イエスは言われた。 「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」 マタイによる福音書 十八章二十一節から二十二節 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。 あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。 あなたをのろう者を祝福しなさい。 あなたを侮辱する者のために祈りなさい。 ルカによる福音書 六章二十七節から二十八節 お互いに親切にし、心の優しい人となり、 神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。 エペソ人への手紙 四章三十二節 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。 あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。 ペテロの手紙 第一 三章九節怒りの気持ちを抑え、相手を赦すことは本当に難しい。神は人が弱いことも御存知であり、このような配慮もしてくださっている。 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。 それは、こう書いてあるからです。 「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 ローマ人への手紙 十二章十九節人が人を裁いてはいけない。人を赦すこと、敵を愛することは本当に難しい。口で言うのは簡単だが、行いを持って相手を赦せる人になりたいものだ。これは僕の生涯における課題だ。
2005年04月03日
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産みの苦しみ。人は患難を目の前にするとまず逃げ道を探す。それは僕も同じだ。まず逃げることから考えてしまう。お腹の大きい女性を考えてみる。妊娠しており、こどもが産まれようとしている。彼女は産みの苦しみに悶える。しかしその苦しみを乗り越えるとどうか。彼女はこどもの顔を見て、苦しみ以上の喜びに出会う。彼女はこどもという希望を腕に抱くことができる。人は患難を目の前にするとまず逃げ道を探す。しかし、聖書にはこうある。 そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。 それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、 練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 ローマ人への手紙 五章三節から四節そしてこう続く。 この希望は失望に終わることがありません。 ローマ人への手紙 五章五節行く手を困難が立ちふさがる時も、逃げ出さず、立ち向かって行く者でありたい。にわかに恐れがやって来る時、この聖句を思い出そう。
2005年04月02日
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動物から学ぶ。人間は脳の発達から見ても生態系ピラミッドの頂点にいる。同時に優れた科学を有するためか、何よりも優れていると考えがちだ。そう、傲慢になってしまうのだ。僕の家ではネコを飼っている。そしてネコによく声をかける。反応を観察していると、どうやら理解できているようだ。「こっちにおいで。」と言えば、そばに近寄ってくる。「あっちへおいき。」と言えば、そばから離れていく。人は言葉が通じないと意思の疎通が困難だ。しかしネコは人語を話すことはできないが、こちらの言いたいことは解すらしい。慣れというのもあるだろうが、人間は容易にこういうことはできないと思う。そう考えながらネコを相手に遊んでいると動物にまつわるこんな話を思い出した。 昔あるところに動物王国があり、学校を作ることになりました。 そこではカリキュラムが検討されました。 走ること、泳ぐこと、登ること、飛ぶことが必修科目となりました。 まずアヒルがやって来ました。 泳ぎは抜群にうまいので授業免除。飛ぶのはやっとなのでギリギリ及第点。 走るのはヨタヨタと遅いので、補習授業で猛訓練。 その結果、水かきのある足を痛めて泳ぐことまでできなくなりました。 次に来たのがリス。走りも登りも一番ですが、飛ぶのが全然ダメです。 地上から飛ぶ練習をさせ過ぎてノイローゼになりました。 結局、自信を失って走ることも登ることもできなくなりました。 次にウサギが来て走りました。一発で合格しました。 でも泳げないので特訓したところ、全身の筋肉が炎症を起こしました。 最後に来たのはワシ。飛ぶことは一番。 しかし登れと言うと勝手な方法で登り、泳げと言っても泳ごうとしません。 特訓させようとすると逃げるので処置なしの問題児となりました。この話は何年か前に母を通じて知ったものだ。おそらくディボーションブックに載せられていたものだと思う。人にはそれぞれ生まれつきの個性があり、できること、できないことがある。無理強いするなら出来ないことに不満を感じ、ストレスがたまる。最後には失望し、自信を失うことになる。そうならない方法は、ひとりひとりの長所を見いだして尊重すること。この物語はそうあるべきだと語っている。神は人をそれぞれに特徴ある者として造られた。個性という賜物があり、ひとりひとりにその豊かさが与えられている。その賜物を見つけ、磨くことが大切なのだ。聖書は次のように語っている。 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、 その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。 ペテロの手紙 第一 四章十節優れた才能があるなら、それを隣人のためにも用いるようにしなくてはいけない。この聖句は、個々の人間関係と、社会全体のあり方をも考えさせる深さがある。
2005年04月01日
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今年の万博は日本の企業が出展するものの多くに文明を感じます。世界中の色がひとところに集まっているようです。加えて万博が世界を集合させている。何ともすごいことです。そのことにも文明を感じずにはいられません。しかし同時に文明の影も見た気がします。 ある事件がTVで取り上げられていました。開催前、名古屋市が景観のためと謳い、ホームレスのテントを強制撤去しました。無論、彼らはキャンプをするためにテントを張っていたわけではありません。彼らには暖かい寝床がないからです。公園に住まいを設けることは違法かもしれません。しかし普段は見て見ぬ振りをしていたのではなかったのでしょうか。万博に力を尽くす前に、彼らのために力を尽くしたのでしょうか。 海外からお客さんが来るからといって慌てて掃除する。これは泥棒を見て縄を綯うようなものなのではないでしょうか。海外から来る人々に、日本の普段の姿を見てもらえばいいのではないでしょうか。狐には穴があり、空の鳥には巣があるのに、彼らには枕する所もないことを。良し悪し含め日本はこういうところだと世界に知ってもらうべきだと思います。そして各国から怠慢の謗りを受ければいいのです。戒めを受けずにより良いものを築くことはできないからです。 おおわれているものであらわされないものはなく、 隠されているもので知られずに済むものはありません。 >>マタイによる福音書 - 10:26 この事件は行政側の起こした暴動だと感じます。愛・地球博。その愛が欠けては何にもならないのではないでしょうか。聖書、特に新約聖書は読む者すべてに、愛について多くを語りかけてきます。 いっさいのことを愛をもって行いなさい。 コリント人への手紙 第1 - 16:14 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。 >>ローマ人への手紙 - 12:9 いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。 その中で一番すぐれているものは愛です。 >>コリント人への手紙 第1 - 13:13 万博に行く予定はありませんが、いろいろ考えさせられるイベントです。これを機に欺瞞のない真実の愛についてじっくと考えてみようと思います。
2005年03月31日
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それはどのようなものでしょうか。衣食住、金品、その他の財産、目に見える豊かさだけなのでしょうか。そうは思いません。必要なのは愛だと考えます。しかし愛とはいったい何でしょうか? 人はよく愛の表現を間違ってしまいます。与えることばかりが愛することだと考えてしまいます。しかし与えても与えても感謝されないときがあります。そういう経験はないでしょうか。 「あなたが必要なんです。」そう言われると、嬉しくはないでしょうか。すべての人間関係においてこうありたいです。聖書を読むと、神がすべての人を必要としていることがわかります。 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 >>テモテへの手紙 第1 - 2:4 生きるのに必要なもの。それは必要とされることだと思います。また、聖書にはこうもあります。 人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる。 >>申命記 - 8:3
2005年03月30日
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人生で一番若い日、それはきっと今日だと思います。熱力学第二法則を認めるならおそらくそういうことになります。そう、明日は今日より1日老いています。明日の僕にとって、明日という日が人生で一番若い日です。しかし必ずしも明日という日があると思っていてはいけません。人の肉体は遅かれ早かれいつかは死にます。ただ、その日がわからないだけです。もし今日がその日なら、朝から日没まで家でゴロゴロしているでしょうか。そんなはずないでしょう。家族や友人に感謝の手紙を書き、お礼の電話を掛けよう。もし決裂したままの友人がいれば和解のための贈り物をしよう。自分の宝物を必要とする人に喜んで譲り渡そう。愛する女性には花束を贈るかもしれません。耳の聞こえる者には語るべきことを語るでしょう。目の見える者には見せるべきことを見せるでしょう。その日その日を人生最後の日だと思って生きようと思います。いつ眠りについてもいいように準備をするべきだと考えます。 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。 古きは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました。 >>コリント人への手紙 第2 - 5:17
2005年03月29日
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僕は公開日記を書くことに少なからず不安があります。 ひとつは、継続性。毎日書くことができるか不安です。十中八九、無理でしょう。3日間続けばいい方だと思います。受験のこともあるので、この我侭は許してやってください。 もうひとつは、感情。日記は出版物とは違い、そのときの一時的な感情が表れやすいものです。心の整理をしていないものを公開することに自信がありません。日記を書くとき、いつも冷静とは限らないからです。冷静になれず、思いもよらないことを書いてしまうかもしれません。それは避けたいです。攻撃性のある内容なら尚更です。冷静になったとき、これほど心の痛むことはないでしょう。 そして、責任。人は自分の書くひとつひとつの言葉に対して責任も負わなくてはいけません。非があれば、受けるべき辱めも受けなくてはいけないでしょう。 十分に気をつけて書くことにします。では、これにて公開初日の日記の完成です。
2005年03月28日
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