今が生死

今が生死

2014.03.29
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カテゴリ: 学習
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私たちはインターン闘争、博士号ボイコット運動の最中に卒業したので、すんなり博士号を取る人はいなかった。それでも卒業後数年してボツボツ博士号を取る人が出てきて、友人が博士号を取った話を聞いて自分はその当時国立病院に勤めていたが「自分もどこかの大学病院に入れてもらってもっと勉強したい。そして運よく博士号が取れたら幸せだ」と思い、当時北大の先輩が北里大学に勤めていたのでその先生の紹介で北里大学に入れてもらうことになった。

今では食事の量が多いとかおかずの数が多いとかで喧嘩の絶えない老妻が、よく甲府から相模原に移転することに同意してくれたと思う。1歳と4歳の子供がいて大変だったと思うが、「もっと勉強したいというのなら」とあまり反対されなかった。北里大学では、職員として給料をもらって働く傍ら、研究員として勉強も教えてもらえる立場になった。その研究員仲間は大学を卒業したばかりの若い人がほとんどで自分はすでにその時35歳を過ぎていたので若い人たちの中で気後れすることがあった。そんな時たまたま山梨から相模原に来てくれていた母親が、「そんなことはすっかまちょし!」と言って励ましてくれた。今でも鮮明に覚えているが、以来、年を食っていても怖じけることなく若い人たちと一緒に勉強させて頂いた。

論文を書くときには夜間お勝手の板の間で家内に手伝ってもらって大きな表を作って受診者の特性を体重、検査値とその推移、タバコや酒の量などを書き入れ、検査値相互の関係性等を家内に計算してもらって記入していった。平均値を出したりする作業はかなり膨大で、彼女の助力がなければ博士論文は書けなかったと思う。

北里大学に行ってから6年目の昭和57年(1982年)、今から32年前で私41歳の時に論文審査にパスして博士論文を頂いたが、その時はお世話になった皆さまへの感謝の気持で一杯になった。あれから32年、この木蓮も32歳になった。早いものである。

博士号を頂いた時、指導教官の先生が、「これで偉くなった訳ではない。これは研究者としてのスタートの儀式だ。これからも研鑽してください」と言われた。私もそのつもりで努力してきたが、今後も同じ気持ちで努力して行こうと思う。





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Last updated  2014.03.29 14:47:58
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