つきあたりの陳列室

つきあたりの陳列室

2006.02.09
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カテゴリ: Book



たとえ捨てられなくても,その遺体の履歴が記録されなければ,他の人にとって利用可能とは言えない.最高学府の研究室ですらそのような事態が頻発し,むしろ促されているような状況にある.彼はそのことにも憤っている.

ある研究の目的にとっては不要となった物体でも,それが他の全ての人にとっても「不要である」,ということは,基本的にはありえない.自然物とは,もともとそのような性質を有した実在なのだから.著者の怒りの根拠は,そこに起因しているのだと,私は思った.

ところが彼は,詭弁に近く,誤解を受けるのを承知で主張する.遺体科学は「無目的,無制限,非プロジェクト的」に行われなくてはならない,と.

大学をはじめとした公立機関が独立行政法人化されたりして,社会への還元をこれまで以上に強いられる昨今,このようなことを公言するのは蛮勇というか,立場を悪くするんじゃないかと思ってしまう.

しかし良く考えれば,研究対象から,無制限に,知見を汲み出すのだ,という著者の宣言は,有限のものから無限に知恵を汲み取ろうという宣言であるからして,むしろ言葉どおりに受け取れば,それは社会への無限の奉仕を宣言と解釈できる.最後の章に書いてあることからして,たぶんそうに違いない.

一つの対象から,一つの目的だけを設定するというのは,考えてみれば不経済な話だ.世知辛い時勢のおかげで,研究者が半強制的に追いこまれている昨今のプロジェクト型研究には,そうした陥穽が常にあることに気付かされた.

そしてプロジェクトが終わったときに,不要な研究材料がどのように扱われるかのガイドラインもまた曖昧だ.たとえ当初期待されたような成果が得られなかったプロジェクトでも,その研究材料がきちんと保管され,ひとつひとつのサンプルの履歴が,参照可能な形で残されていれば,のちの研究者が再検討してくれたり,まったく別な成果がそこから汲みとられる可能性がある.

カカトアルキ(Mantophasma)が発見されたのも,博物館の収蔵庫にあった,かなり昔に採集された琥珀標本の中で,その後,その記録を元に,生きた実物が探し当てられた.「死蔵」という状態は,たいていの場合,収蔵方法に問題があるのではなく,それを放置している人間の方に問題がある.



でも理念さえ持っていれば,あとは解決すべき「問題」でしかない.問題なら,解決されるはずのものだ.悩ましくはあるが,恐れるものじゃない.恐れるべきは,信念がないことの方だろう.あるいはそれに気付かないこと.






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Last updated  2006.02.10 02:04:22 コメントを書く


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inalennon @ Re[1]:「記憶の中の源氏物語」 三田村雅子(09/19) フィンちさん >この世は なんてままなら…
フィンち@ Re:「記憶の中の源氏物語」 三田村雅子 「人生のままならなさ」への強烈な疑問と,…
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ハオ@ 4年はあっという間 バーチュー&モイヤー組見ました。 優雅…

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