いろんな外国語が自由に話せて、相手と直接コミュニケーションがとれたら通訳なんて要らないものね。
誰だって、わざわざお金を払って、言いたいことをちゃんと正しく伝えてくれているかもわからない第三者を入れて意思疎通を図るのって、
本心は煩わしいはず。
でも、言葉がわからなくて必要だから、存在しない者(歌舞伎の黒子のようなもの)として、雇われて現場に存在する立場なのね。
だから、通訳は相手が「私は・・・」と発言したら、通訳も「私は・・・」と対象言語で一人称を使って訳出するのが原則。
つまり、通訳は存在させない。もし、存在したら「彼(彼女)は・・・」って三人称になるはずよね。
このように、「存在しないものとして存在する」のだけど、実はその存在の「度合い」によって場の雰囲気が変わるのです。
なんだか禅問答みたい?
たとえば・・・話者が冗談を言うなら通訳も楽しい雰囲気で冗談を訳す。もし話者が怒っていたら、通訳も怒って訳す・・・。
だって通訳の意志や感情はそこに介在しないから。
でも、怒っている感情をそのまま通訳すると、特に相手を罵倒するようなワーディングがあるときに直球で訳すると、
どんどん場の雰囲気が悪くなっていくのよ。
昔、私、それをやって灰皿が飛んできたことがあった。
「なんで? 私、あのオジサマの言ってることをそのまま通訳しただけなのに、なんで私に灰皿投げるのよ!」
痛い思いをしてあることに気が付いた。「存在しないといけない場面もあるのだ!」
すなわち、相手が「バカヤロー!」と言ったらそのまま「バカヤロー!」と訳さずに
「彼はバカヤローと言っています」とわざと三人称で通訳すると、なぜか聞く側が冷静になってくれる。
また、反対に話者が場を盛り上げようとしているとき、通訳が能面みたいに冷たい顔で訳すより、にこやかに通訳するほうが雰囲気がよくなる。
つまり、通訳は存在しないけど、時には存在したほうが良いという、ややこしい存在なのです。