2004年05月31日
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【第984夜】 2004年5月31日

『バルテュス』

1997
河出書房新社
Claude Roy : BALTHUS 1996
與謝野文子 訳


  今夜は、バルテュスがアウグスティヌスの使徒であり、リルケとジャコメッティとマルローに救われていたこと、そこにはポーランドとイタリアと日本がたえず銀色に光っていたこと、そしてフェリーニのようにバルテュスを見ることがきっと気持ちのいいだろうことなどを、伝えておきたい。
 ついでにバルテュスを借りて、自称アーティストたちや他称知識人たちには、絵を見る力が極端に落魄しつつあることを告げてもおきたい。

 その前に、最初にお断りしておかなければならないことがある。第968夜に、この「千夜千冊」で兄弟姉妹を扱ったのは大佛次郎・野尻抱影の兄弟一組だけだと書いたのだが、今夜で2組目になった。バルテュスの兄がピエール・クロソウスキー(第395夜)であるからだ。
 そのことについて、さっそく本題のひとつに入ることにするが、クロソウスキーとバルテュスが兄弟であることは、多くの知識人たちのバルテュスを見る目を狂わせた。バルテュスが“危険な少女”を描きつづけたことをクロソウスキーとの関係で“解読”しすぎたのだ。加うるに、クロソウスキーがドミニコ会修道士であったこと、かの『ロベルトは今夜』があまりにエロティックであったこと、にもかかわらずその後、イスラムに改宗したことなどを、計算に入れすぎた。
 たしかにバルテュスは、内なるクロソウスキー一族に向いた言い尽くせぬ血の縁を感じていたようだ。けれども、そこに炎上する青い火はクロソウスキーが表現した文学とバルテュスの絵の比較をしたところで、何も見えてはこない。そのことも最初に断っておく。



 そもそもバルテュスは幾多の誤解に包まれて、有名になりすぎた画家だった。
 最初に誤解をしたのはアンドレ・ブルトンを筆頭とするシュルレアリストたちであったけれど(バルテュスはシュルレアリスムをまったく認めていなかった)、その後も数々の批評家や美術家やファンたちが、バルテュスを祭り上げるときでさえ、バルテュスを誤解した。
 だいたいバルテュスは西洋近代芸術のいっさいを拒否しているはずなのに(おそらくバルテュスの本質は中世教会の中でおこっていた出来事にある)、多くの者たちがバルテュスを近代芸術の革命や病理や心理と結びつけすぎた。
 たとえば、その絵の裏側にはニーチェやバタイユがいるとか、ピカソとちょうど反対側にいる天才だとか、ルイス・キャロルのアリスをモディリアニとシャガールに並ぶ現代芸術にした貢献者だとか、そんな訳知りが連打されてきた。
 けれども、実際にはそんなものではなかったのだ。バルテュスはニーチェに一度も関心をもたなかったし、破壊を肯定するバタイユとは論争してその考え方を退けた。ピカソの作品も1920年代の古典主義期しか認めず(とくに薔薇の時代は嫌いだった)、モディリアニは退屈すぎて見るに堪えないと思っていた。おまけに、バルテュスが描く少女は茶目っ気や悪戯の好きなアリスなどではなく、真剣そのものの天使であって、あまりに真剣なのでその姿のすべてをバルテュスに晒したのである。

 バルテュスに「病んだ精神身体」を想定しすぎたことも、おせっかいなことだった。
 なるほど、バルテュスの劇的な瞬間を凍結したような絵からは、やすやすと「不健全」や「不安定」や「不吉」をいくらでも引っ張り出すことができそうであるが、しかし、それはバルテュスが宗教画家の本質をもっているからで、その絵には、信仰へ旅立とうとしている者たちの初期の不穏な心情が描かれているからなのだ。
 それにバルテュスは自分の生身の身体についても、病理を好むようなところはまったくなかった。少年バルテュスはサッカー少年であって(それもチーム一の人気者で)、自分の体の切れを細部にわたって誇った青年であり、その姿態によって女たちの気を惹く努力を惜しまなかった人物なのだ。
 ということは、バルテュスについての誤解はことごとく、バルテュスを見る者の異端権威主義と男性俗物主義にもとづいていたということなのである。これは男たちが心せねばならないことである。

 最近おもうことは、バルテュスの本質を見抜いているのは、むしろ女性たちだということだ。
 ぼくの周辺にはのっけからバルテュスのコートをさっと羽織ってしまったという女性が何人もいる。それがまた、よく似合っている。松岡事務所の仁科玲子はPCのスクリーンセーバーにしばらく『夢見るテレーズ』を入れっぱなしだったし、京都「伊万里」の山田峰子はバルテュスなしでは大人少女でいられない。二人ともバルテュスについての理屈など一言もいわないが(他の芸術家との比較もしようとしない)、それなのにいつもバルテュスの絵の中からひょいと出てくる。
 なにしろバルテュスは魚座で、上昇宮が山羊座なのである(これはバルテュスが大事にしていた暗合だ)。こういうことは女性たちのほうがピンとくるようだ。
 けれどもその一方で、こういう女性たちの半分以上が、たとえばエゴン・シーレ(第702夜)も好きだということも告げておかなくてはならない。このへんはいささか怪しい。こういう拙速は女性にありがちなことなのだが、これはよくない。何かを勘違いしている。シーレとバルテュスはまったく異なっている。
 そんなことはシーレが好きだったたくさんの自画像とバルテュスの少なめの自画像を見れば、すぐわかる(ぼくは702夜ではシーレのために「ウィーン的即身成仏」とか「皮膚自我」という言葉を使っておいた)。これに対して、バルテュスは外装的な自分と絵にあらわれる内装的な自己とをきっぱり分けている。内なる自己だけがバルテュスの絵なのである。
このことは、女性たちがいささか心したほうがいいことではあるまいか。



 本書は、数あるバルテュスについての本のなかで、最もバルテュス的である。猫的だという意味でそう言ったのだが、なぜそのようになりえたかというと、クロード・ロワが猫的であって、猫はバルテュス的であるからだ。
 そのようにバルテュスを記述することは、それまで誰もできなかった。ざっと上に述べておいたように、さまざまな芸術的異端と対比しようとしたことが、バルテュスに対する目を曇らせたのである。本書のほかには、コスタンツォ・コンスタンティーニ(第142夜に案内したフェリーニ本の編者)の『バルテュスとの対話』(白水社)が、バルテュスの弁明を証かしていて読ませるが(この本はよく準備されたインタヴュー集になっている)、これは二人がともにポーランドを祖先の原郷としていたからだった。
 ついでに言っておくと、ポーランド性はバルテュスの「彼方にひそむ幻想」を長らくつくっていた。パリに生まれ、西ヨーロッパ人としての人生を送ったにもかかわらず、バルテュスはつねに出自のポーランドを想い、その奥にひそむゲルマンやケルトの遺伝的記憶を偲んでいた。そういった自分の出自についての調査さえ依頼した。
 バルテュスがクロソウスキー・ド・ローラ伯爵の血をもっていることを誇ったわけではない。ヴィリエ・ド・リラダン(第953夜)はその伯爵の血にこそ執着を示したけれど、バルテュスはそのずっと奥にあるものだけを覗こうとした。あの最後まで覗き見をしたかった独特の目で--。
 もっとも、アメリカを除く外国に行くことをあれほど躊らわなかったバルテュスが(杉浦康平同様に、バルテュスは最後までアメリカを認めようとしなかった。ついでに言うと、鈴木清順もアメリカを決して行こうとしない)、ポーランドにはついに一度も行かなかったことについては、ぼくはその「彼方にひそむ幻想」が深い負の色合いを帯びていたからだろうことを感ずる。
 ともかくも、猫的であることとポーランド的であること、このことが自分を打ち明けるのが億劫だったはずのバルテュスに、やっと光をあてたのだ。



 バルテュスが学んだ絵画作品は数多いが(バルテュスは中世以降の絵画の模写をずっとしつづけていた)、なかでもピエロ・デッラ・フランチェスカとニコラ・プッサンとギュスターヴ・クールベから受けた影響は絶対的とでもいうほどのものだった。
 バルテュスはしばしば自分が宗教画家であることを訴えているのだが(それにもかかわらず、知識人や批評家はその発言がアイロニーだと思いこんだのだが)、この3人に対する敬意をみれば、バルテュスが神学的絵画性あるいは絵画的神学性とずっと一緒にいたことはあきらかである。
 このことから推察できるのは、バルテュスの少女はジョットであってフランチェスカであり、その姿態はクールベの『眠り』であったということだ。
 しかし、バルテュスはつねに目前のものを愛していたから(少女アンナや数々の友人やシャッスィーの風景)、わざわざ宗教画に題材を求めるなどということはしなかった。中世の教会はバルテュスのアトリエでもよかったのである。それゆえバルテュスの絵に性器や下着がまるみえの少女がそこに描かれていたからといって、また、その少女が窓の向こうを見ている後ろ向きであるからといって、それが裸身の天使でないとはいえないのである。 ……







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最終更新日  2004年06月01日 00時16分11秒
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