2004年06月25日
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【第995夜】 2004年6月25日

『過程と実在』

1979 松籟社・1981~1983 みすず書房
Alfred North Whitehead : Process and Reality 1929
山本誠作訳(松籟社版)平林康之訳(みすず書房版)


  ネクサス(nexus)というのは結合体や系列体のことをいう。ヘンリー・ミラーが英語で同名の小説を書いた。パッセージ(passage)とは推移や通過のことである。ウォルター・ベンヤミンはフランス語で同名(=パッサージュ)の記録を書いた。ぼくもそのことを第649夜と第908夜に書いておいた。
 現代哲学の思潮に不案内な向きには、また、お堅い現代哲学を講義している連中には、さぞかし意外なことだろうが、ホワイトヘッドの有機体哲学には、このネクサスとパッセージが交差しながら脈動している。
 ネクサスとパッセージは見えたり見えなかったりしながら多様にくみあわさって、ホワイトヘッドの宇宙論と世界観の縫い目になったのだ。

 よくあることだし、べつだん責められることでもないけれど、ホワイトヘッドはやたらに難解に読まれるか、まったく知られないままか、そのどちらかばかりの不当な扱いをうけてきた。これは両方ともおかしいし、もったいない。
 道元の宇宙とかカントの宇宙とかホーキングの宇宙という言い方があるように、ホワイトヘッドの宇宙があると見たほうが、いい。その宇宙はコスモロジカル・コスモスで、すぐれて連結的(connected)で、多元的である。
 コスモロジーだから、そこには宇宙や世界の要素になる要素の候補が出てくる。ホワイトヘッドのばあいは、これを「アクチュアル・エンティティ」(actual entities=現実的実質・現実的存在)と名付けている。
 どういうものかはのちにも説明するが、たとえば、一羽の鳥、神経細胞、子供がいだく母親という観念、東京神田小宮山書店、エネルギー量子、自我、ギリシアの歴史、地球の表面、衝突する銀河系、夕方の虹、タルコフスキーの映像、森進一の演歌、松岡正剛の恋人などがふくまれる。
 これらは、このコスモロジーが通過するカメラの目には、一種の「経験のパルス」として映る。またコスモスからすれば、それは「侵入」(ingression)として映る。
 いまあげたアクチュアル・エンティティを、お好みならば数値や記号に絞ることもできるし、メンデレーフが果敢にそうしたように、元素周期律表にすることもできる。第311夜にあげた『理科年表』もアクチュアル・エンティティの可愛らしい表示例なのである。
 哲学というものは、一言でいえば計画である。アリストテレス哲学(291夜)もレーニン哲学(104夜)も、計画を練り、計画を実行に移そうとした。
 そのうちの数理科学を背景にした哲学の計画には、ラッセルやカルナップのような論理的な計画もあれば、ライヘンバッハやトマス・クーンのような、思索の歴史を再構成するような計画もある。多くの哲学書とは、その計画を手帳のスケジュールに書きこむかわりに、使い古された哲学用語で繰り返しの多い言明を、少しずつずらしながら連ねていくことをいう。
 しかし、なかには目が飛び出すほど斬新で、目が眩むほど大胆な計画もある。
 ライプニッツには普遍計画があって、それにもとづいた普遍記号学の構想がその後の数理哲学の体系や特色を次々に産んでいった。ライプニッツは自分で計画を実行に移すより、歴史がその計画を実行することがわかっていたようだ。
 ホワイトヘッドの計画は、最初は記号論理の用語とインクで書かれた計画だったが(それがラッセルとの共著の『プリンキピア・マテマティカ』にあたる)、その後はホワイトヘッドが想定したすぐれて有機的(organic)なコスモスに包まれた計画にした。
 人間がそのコスモスに包まれてプロセス経験するだろうことを、ホワイトヘッド独自の用語とオーガニックなインクをつかって書いた計画書である。
 その計画書はいくつもあったけれど、それらをマスタープランに仕立てたのが『過程と実在』なのである。

 ホワイトヘッドは「ある」(being)と「なる」(becoming)のあいだを歩きつづけた哲人だった。「ある」(有)と「ない」(無)ではなくて、「ある」と「なる」。つねに「ある」から「なる」のほうに歩みつづけた。
 そして、ときどき、その「なる」がいつのまにかに「ある」になってしまったヨーロッパ近代社会の理論的な不幸を鋭く問うた。ときに科学哲学の眼で、ときに歴史哲学の眼で、ときに生命哲学の眼で。ホワイトヘッドはヨーロッパの近代社会と近代科学が「なる」の思想を喪失していったことを嘆くのである。



 そのようなホワイトヘッドの哲学は、もっぱら「有機体の哲学」とか、「プロセスの哲学」とよばれてきた。
 有機体(organism)という言い方は、哲学の歴史のなかでほとんど言挙げされことがなかった言葉だが、『過程と実在』以降、ホワイトヘッドが想定したコスモスの特色を一言でいいあらわすときにつかう最重要概念に、格上げされた。
 有機体哲学は、宇宙や世界の出来事(event)がオーガニック・プロセスの糸で織られているということ、あるいはそのようにオーガニック・プロセスによって世界を見たほうがいいだろうということを、告げている。オーガニック・プロセスそのものが宇宙や世界の構造のふるまいにあたっているということである。
 このことは、『過程と実在』の原題である “Process and Reality” にもよく表象されている。

 ホワイトヘッドのオーガニック・プロセスは、構造であって、かつ方法でもあった。「世界が方法を必要としているのではなく、方法が世界を必要としたのだ」。
 おこがましくもぼくの言い方でいうのなら、「世界が編集されているのではなくて、編集することが世界と呼ばれるようになった」というふうになる。ここには、やはり、「ある」から「なる」への歩みが特色されている。
 しかし、このようなオーガニックな方法をもった哲学や思想が、近代以降の欧米社会に登場したことはない。
 なぜなら、それまでの思想では、世界の形や現象の姿をオーガニックに見るというばあいは、ほとんど生命や生物のメタファーで眺めていたのだし、世界の形や現象の姿をプロセスで見るというばあいは、原因と結果のプロセスに実証の目を介入させることばかりが意図されてきたからだ。
 しかも最近は、オーガニックといえば有機栽培やオーガニック食品をさすようになって、それが宇宙のアクチュアル・エンティティとかかわっていることも、ホワイトヘッド社製であることも、すっかり忘れられている。

 ホワイトヘッドはオーガニック・プロセスの素材と特徴によって世界と現象があらかた記述できると考えた。
 その素材は、さっきも言ったように、アクチュアル・エンティティである。アクチュアル・エンティティは「ある」と「なる」のすべてのプロセスを通過している「経験のパルス」の一つずつをさしている。これをホワイトヘッドは好んで “point-frash” ともよんだ。「点-尖光」というふうに訳される。
 一方、世界と現象をあらわしている特徴は、ホワイトヘッドの考え方によれば、「個体性」と「相互依存性」と「成長」、およびその組み合わせによって記述ができるとみなされていた。個体的な特徴を見ること、それらがどのように相互依存しているかを見ること、そして、結局は何が成長しつつあるのかを見ること、これで大事な特徴がすべてわかるということだ。

 このような計画をもち、その計画を構造として記述できた哲人はいなかった。ライプニッツから飛んで、途中にガウスやヴィーコ(874夜)や、ときにはエミール・ゾラ(707夜)を挟んでもいいのだが、やはりその大きさからいうと、次がホワイトヘッドだった。
 そうなったにはむろん才能も、作業における緻密の発揮も、環境もあるのだが、ホワイトヘッドを稀有の哲人にしている理由がもうひとつあることを、ぼくは以前からおもいついていた。それはホワイトヘッドに “zest” (熱意)があったということだ。
 ホワイトヘッドの宇宙は “zest” でできていて、ホワイトヘッドの教育は “zest” のカリキュラムだったのである。

 さて、今夜はめずらしく英語(英単語)を多用しながら綴っている。そうしたいのではなく、ホワイトヘッドの文章には独特の概念がちりばめられていて、これをある程度のスピードで渉(わた)っていくには、ぼくには翻訳語だけではカバーしきれないからだ。
 たとえば、『過程と実在』を貫く概念のひとつに “concrescence” という言葉があるのだが、これには「合生」という翻訳があてられている。いい翻訳だとはおもうけれど、ホワイトヘッドが合生を語るにあたっては、しばしば「具体化」(concretion)をともなわせて、つかう。合生と具体化は日本語の綴りでは似ていないが、英語では “concrescence” と “concretion” は共鳴しあっている。
 こういうことがピンとくるには、少しは英語の綴りが見えていたほうがいいだろう。

 残念ながら日本では、ホワイトヘッドの有機体哲学はそんなに知られていない。ぼくはたまたま二つのコースで同時にホワイトヘッドをめざしたことがあったため、20代の後半をホワイトヘッド・ブギウギで送れた。
 ひとつは、アインシュタイン宇宙論と量子力学の解読者としてホワイトヘッドを読むことになったもので、ここでは “Concept of Nature” という原題をもつ『科学的認識の基礎』(理論社)から入った。とくに『科学と近代世界』と『観念の冒険』と『象徴作用』には没入した。
 そのころのぼくは、初期のホワイトヘッドがさかんに強調していた「延長的抽象化」(extensive abstruction)という方法に首ったけで、誰彼なしにそのカッコよさを吹聴していたものだ。それに感応したのが、いまは編集工学研究所の代表をしている澁谷恭子だった。彼女はある年のぼくの誕生日にホワイトヘッド・メッセージを贈ってくれた。

 もうひとつは、コンラッド・ウォディントンの発生学から入ってホワイトヘッドに抜けていったコースだった。そのときはウォディントンがホワイトヘッドの弟子筋だとは知らなくて、気がついたらホワイトヘッド・ループに入っていた。ぼくが思うには、このウォディトンこそがホワイトヘッド有機体哲学の最もラディカルな継承者なのである。 ……







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最終更新日  2004年06月26日 00時36分46秒
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