2004年06月30日
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【第997夜】 2004年6月30日

『水戸イデオロギー』

1998 ぺりかん社
J.Victor Koschmann : The Mito Ideology
田尻祐一郎・梅森直之 訳


 佐藤一斎は水府学と言った。明六社の西村茂樹(592夜)が水戸学と名付けたという説もある。これは深作安文の説だった。天保学ともいわれた。
 しかし、水戸学といっても、広くて、長い。決して細くはないし、短くもない。水戸の徳川光圀が『大日本史』編修を発起した明暦3年(1657)から数えても、それが完結したのはやっと明治39年(1906)なのだから、それだけで250年をこえる。これはケルン大寺院の建築期間に匹敵する長大な長さだ。
 長いだけでなく、ここには日本の近世史と近代史の最も重大な変革期がすっぽり入ってしまう。そのあいだ、水戸学が日本イデオロギーの中心を動かしていたとは、言いにくい。そんなことはない。その期間のどこかにだけ水戸イデオロギーが関与したと角砂糖を数えるように限定することも、難しい。そんなこともない。
 水戸イデオロギーを儒学や国学に収めるのも難しい。そういうふうにはパズルは嵌まらない。それらをはみ出ているとも、それらを含んでいるともいえる。しかし、水戸学はまた「一国学」ともいわれていて、どこかに追いやられているようにも見える。どこか「べつ」のところに――。



 光圀は18歳のときに『史記』伯夷伝を読んで、その高義を慕って修史の志を立てた。大井松隣による代筆ではあるが、「史筆によらずんば、何をもって後の人をして観感するところあらしめん。ここにおいて慨焉として初めて史を修むるの志あり」という有名な序文がある。実際にもそのくらいの気概をもった青年だったろう。
 その志はゆるがず、30歳で史局を江戸神田の別邸に設けて、広く“史人”を集め、以来、「彰考館」を編纂研究所として日本史の解明解読に努めた。こうしてゆっくりと姿をあらわしてきたのが、250年をかけた『大日本史』である。厳密にいうのなら、この修史の開始日が水戸学のおこりにあたる。編集会議が水戸イデオロギーをつくった。
 江戸中期、その『大日本史』編纂におよそ半世紀にわたる中断と停滞があった。そこで水戸学を、この中断を挟んで前期と後期に分けるのが研究者たちの見方になっている。この後期水戸学の集中的勃興が天保だった。だから天保学ともいった。
 ところが、この前期水戸学と後期水戸学ではその思想も様相も活動も、馬と牛のごとくに大きく異なっている。前期は日本の歴史を幕府の史書とは別に独自に解明しようというものだったのだが、後期は尊王攘夷というイデオロギーと密接に結びついた。そればかりか『大日本史』の編修方針もかなり変化して、たとえば後期においては神代の神話的出来事も史実に記述しようとした。
 本書はその後期水戸学に焦点をあてて、シカゴ学派特有の方法論的な分析を加えようとした一冊である。

 今夜は、前夜の陽明学につづいて、ぼくとしては長らくほったらかしにしていた水戸学をめぐる。
 会沢正志斎といい藤田東湖といい、久々に目を通すものばかりなので、書くのに時間がかかりそうだが、それよりも、こういう主題をなんとか今日のインターネットの画面に走らせて、なお何かの息吹を感じさせようとすることが、そもそも陽明学や水戸学がかつてはあれほど時代のエンジンの役割をもっていたのに、いまは遺棄された戦車のように夏草に覆われているので、まるで大友克洋(800夜)の廃墟と植物を描いた劇画のようで、妙な感じがする。
 陽明学が古代中世アジアに根をおろした知と行の思想の柵(しがらみ)だとしたら、水戸学は日本の古代中世に根をおろそうとして「夜明け前」に噴き出てきた知と行の早瀬のようなものだったのかと見えるのだ。
 二つとも、世の中からはすっかり忘れ去られて、歴史の一角に埋没したか、埋没させておきたい動向なのだろう。それが宿命だったとも、またその宿命を知る思想だったともいえる。まあ、それでもいいのだが、最近はひょんなことから研究者がふえている。アメリカの研究者たちが日本儒学や水戸学に関心をもちはじめているのだ。そのこともちょっと書いておきたい。

 第327夜にジョン・ダワーをとりあげた。そのときはまだ出版されていなかったのだが、その直後にダワーは大部の『敗北を抱きしめて』(岩波書店)で戦後の日本と日本人を論じ、ピュリッツァー賞を受けた。
 そこでダワーが、日本を議論するには“plurals”(複数者)という見方をしたほうがいい、“Japan”ではなくて“Japans”なんだと書いた。これは、ぼくの日本についての見方と一致するものだった。ぼくはそこを「一途で多様なおもかげの国、多様で一途なうつろいの国」というふうに、『日本流』(朝日新聞社)そのほかに書いた。
 そのダワーがかつて、アメリカの対日政策と「近代化・民主化の理論」は共犯関係にあると告発して、アメリカ政府による敗戦後日本に対する政治目標が次の5点にあったという“証拠”をあげたことがある。本書の訳者である早稲田の梅森直之さんが本書「あとがき」にも書いていることである。
 その5点というのは、なかなかすさまじく、1)日本の左翼の信用を失わせること、2)平和主義と再軍備の機運を殺ぐこと、3)アジア諸国に日本の社会的優越性を感じさせ、それをもって日本人を資本主義陣営に誘導すること、4)そのため、アメリカのジャパノロジストを徴用して「心理学的なプログラム」を付した教育を浸透させること、5)日本を中国のカウンターモデルとして、不安定なアジアの発展途上国に提示すること、というものだ。
 この対日政策こそ、アメリカがいまなお各国に押し売りしようとしている「近代化・民主化の理論」の原型だというのである。きっとそうだろう。さもありなん、という5点だ。

 こうしたアメリカ批判の学問成果は、ダワーやブルース・カミングスという研究者によって実証的な実を結んでいった。ジャパノロジストがアメリカの対日政策の分析を通してアメリカを批判するという例である。
 しかし、このような“アメリカ肩越し”の見方だけで、現在の日本を歴史的に位置づけるだけでいいのかというアメリカのジャパノロジストの批判もあった。そういう批判をして脚光を浴びてきたのがシカゴ派である。ヘルマン・オームスの『徳川イデオロギー』(ぺりかん社)、テツオ・ナジタの『懐徳堂』(岩波書店)などがその成果で、本書のヴィクター・コシュマンもその線上にいる。
 かれらは一気に日本の歴史の一角に入りこんで、そこに最新の学問的方法をぐりぐりさしこみ、それでもその走査に耐える日本社会や日本思想の特質をタフな文体で書きあげる。コシュマンも、本当かどうかは知らないが、ポール・リクールの解釈理論やミシェル・フーコーの言説理論やルイ・アルチュセールのイデオロギー理論を駆使して、水戸学に入ってみたという。
 そうすると、「国体」や「名分」といった概念が歴史のなかで実際に動きまわった航跡のようなものとしてよく見えてくるらしい。これはもはや「柵」や「背戸」としての陽明学や水戸学ではないだろう。 日本の学界における水戸学の研究のほうはどうかというと、歴史学の遠山茂樹や政治学の丸山真男(564夜)らによる尊王攘夷のイデオロギーの社会性や運動性を総合的につきとめる研究から、浮上してきた。
 当たり前のことだが、動機はアメリカのジャパノロジストとは、まったく異なる。敗戦前後、いったい日本はなぜあんなような戦争をおこしたのか、なぜ「天皇」や「国体」をあんなにもふりかざしたのか。その反省を歴史学者も政治学者もするところへ追いこまれて、その問題を解明しようとしてその奥を覗きこんだ必至の目が、水戸学の特徴を検出する作業にいたったのである。
 当時、すでに「国体」という用語が水戸の会沢正志斎の『新論』から出てきたことは知られていた。しかし、その「国体」にどんな危険思想があったのか。それが病原菌なのか。
 いろいろ調べてみると、遠山や丸山は、そういった国体を孕む思想は、必ずしも幕府を転覆させようとして出てきたのではなく、朱子学イデオロギーを背景とした幕藩体制立て直しの思想として登場してきたもので、そこにはかえって「名分」を重視した封建的な階統制があって、それが水戸学の特色なのだろうと考えた。
 初期の国体イデオロギーそのものには危険なものはない。その「国体」が歪んだのだとしたら、水戸藩の中ではなく、幕末か明治か、昭和史の中だろうという見方である。

 この見方には反論が出た。水戸学は必ずしも幕藩体制の護持や立て直しのためのものではなく、もっと「前向き」のもので、だからこそ尊王攘夷のイデオロギーに結びついたのだという、尾藤正英などの見方である。
 尾藤は、水戸学は幕末の一時期に影響力を発揮したのではなく、日本の近代国家の形成過程という長い射程で位置づけられるべきだとも主張した。そうだとすると、水戸学は昭和史そのものの裏地としてずっと生きていたということになる。尾藤はまた、朱子学と水戸学はかなり異なっていたこと(水戸学派はほぼ全員が儒者だった)、『大日本史』が寛政期を分岐として、前期の儒教的合理的な歴史観から、後期の神話的な歴史観に転回していることなどをあげて、前期水戸学にはたしかに「理」を重んじた朱子学の合理があったものの、後期水戸学はむしろ徂徠学や国学と接近して、かなり広範な社会思想の根っこをつくっていったのではないかと論じた。

 しかし、この見方にも反対意見が出た。
 水戸学がそこまで役割をもったとはおもえないという、橋川文三や野口武彦による見解である。これが、ちょうどぼくが水戸学に関心をもったころだった。1970年代半ばくらいだろうか。
 橋川は「国体」の用語は水戸から出たが、その言葉がもつ意味やイメージが広まったのは、徳川社会そのものがしだいに国家的自覚を迫られていたからで、その土壌としての要因をはずしては、水戸イデオロギーの傘を想定はできないと見た。野口はさらに広く水戸学以外の江戸の歴史家たちを比較して、水戸学の位置を上空から鳥の目で俯瞰できるようにした。とくに野口の『江戸の歴史家』(現・ちくま学芸文庫)は刺激に満ちた一冊で、『江戸の兵法』(ちくま学芸文庫)とともに、ぼくもずいぶん愛読した。 ……







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最終更新日  2004年07月01日 04時19分45秒
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