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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら畑中の南の地域、黒目川までが馬場になります。荒沢不動堂 新座市馬場2-12県道36号線畑中公民館交差点から畑中公民館通りを100mほど東に進むと道路右手に荒沢不動堂の入口があった。階段を上った先にある建物が不動堂だが、今回紹介する不動明王像はこのお堂の中ではなく、堂の裏手に祀られていた。こちらの不動明王、なぜか屋根掛けを嫌い、人々は何度も堂内に祀ったのだが、そのたびに火災がおこったという。そのためにこのような変わった祀り方をしているらしい。大きな舟形光背を持つ不動明王立像 延宝2(1674)江戸時代初期の不動明王像は後期に見られる成田山不動明王の多くが坐像なのに対して、このような舟形光背型の立像が多い。下の台は二段になっていて、上の台の正面に蓮の花が浮き彫りされている。手前両脇に丸彫りの制吒迦童子と矜羯羅童子が立っているが、紀年銘がなく、大きさも不動明王とくらべるとどうもしっくりしない。もしかしたら二童子は後から補われたものかもしれない。こちらの不動明王像は本来は独尊だったと思われるのだがどうだろう?剣と羂索を手に四角い顔の不動明王。素朴な中にも気品があり、威厳のある佇まいである。光背には炎が半浮き彫りされ、右脇に水火持戒行者長性院久海、左脇には造立年月日が刻まれていた。荒沢不動堂のすぐ南の墓地の前に二基の丸彫りの地蔵像が並んでいる。左 地蔵菩薩立像 元文2(1737)像も塔も白カビが目立つが、欠損はなく、錫杖・宝珠ともに健在。石塔の正面中央上部に梵字「カ」右に「奉供養地蔵大菩薩」左に「天下泰平國家安穏」側面、裏面に銘は見当たらなかった。下の台も正面だけに銘が刻まれている。目の前に線香立てが迫っていて読みにくいが、右から左へ念佛講中、その下にこれも右から左へ下片山村となっていて、その右端に縦に元文元年、左端には縦に月日。中央付近、佛と講の間、片と山の間をぶちぬいて縦に願主並木弥右衛門とあり、その両脇に十数人の名前が刻まれていた。右 地蔵菩薩立像 嘉永4(1851)台の上、正面に「地蔵大菩薩」と刻まれた石塔部の上に蓮台に立つ地蔵像が載っている。江戸時代後期の石仏にしてはしっかりした彫りで、カビなども少なく美しい。塔の右側面に造立年月日。左側面に「天下泰平・國家安穏」下の台は正面と右側面は無銘、左側面に下片山村 願主とあり一名の名前が刻まれていた。
2020.05.31
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら豊田本、もう一か所の石仏を見てみましょう。大東東小学校南路傍 川越市豊田本4-15[地図]大田街道をさらに南に進むと、左手に大東東小学校が見えてくる。その西門のところの信号交差点を左折してしばらく行くと、小学校の正門の向いにブロック塀に囲われて四基の石塔が北向きに並んでいた。左端の小さな石塔は銘がなく詳細不明。右 庚申塔 元禄11(1698)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち?六臂。風化の為に右手の剣の先は欠け、左手の持物は不明瞭。ショケラの髪だけが残っているように見えるが、あるいは羂索か?青面金剛の顔は削られていてのっぺらぼう。下部両脇に造立年月日。右脇の造立年の隣に施主は個人名が刻まれている。足元にずんぐりとした邪鬼。その下、右から言わ猿、聞か猿、続いて、左には見猿の代わりに鶏が彫られていた。一邪鬼・一鶏・二猿というのは今までみたことがないユニークな構成である。中央 馬頭観音立像 寛政9(1797)三段の台の上、角柱型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音像を浮き彫り。頭上の馬頭、観音様の尊顔ともにあいまい。風化の為に全体に今一つはっきりしない。一番上の台の正面 右に豊田本村、中央に大きく講中と刻まれていた。塔の右側面に造立年月日。左側面には武州入間郡三芳野里と刻まれている。その隣 如意輪観音坐像?天保2(1831)正面に「観音經講中」と刻まれた角柱型の石塔の上、敷茄子、蓮台を重ねてその上に観音菩薩坐像が載っていた。頭部を欠く上に、風化の為に像が溶けかかっていて彫りがはっきりしないが、その全体の形から如意輪観音の二臂像と思われる。それにしてもその姿は痛々しい。塔の右側面に造立年月日。左側面には豊田本邑前組。その隣に明治32年の紀年銘が刻まれているが、こちらは再建年月日だろう。当ブログは本日100万アクセスを記録しました。たくさんのご訪問、心より御礼申し上げます。
2021.07.02
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は天沼新田・吉田地区の最終回です。吉田俱利伽羅不動尊 川越市吉田1232西[地図]萬久院から南へ進み、突き当りを右折すると右手に白髭神社の入口がある。その前を通りすぎて少し行くと道路左手、吉田白髭緑地と書かれた標識があって、その脇の階段を降りきった右手に湧き水が出ていた。この水路と階段の間の一角に倶利伽羅不動が立っている。倶利伽羅不動尊 宝暦9(1759)炎の光背に倶利伽羅龍王を浮き彫り。石塔自体は小型だが、剣に巻き付いた龍王は胴体が厚く迫力がある。彫りも細かく丁寧で美しい。光背右下に造立年月日。続いて吉田村。左下に願主 西光寺と刻まれていた。こうやって横から見てみると、厚く浮き彫りされた倶利伽羅龍王は今にも動き出しそうだ。吉田T字路 川越市吉田108[地図]萬久院の東の住宅街の中のT字路の角に石塔が立っていた。馬頭観音塔 文政6(1823)小型の舟形光背に一面二臂の馬頭観音像を浮き彫り。塔全体に風化が進み白カビも厚い。頭上の馬頭はあいまい。馬頭観音の尊顔もはっきりしない。像の右脇に造立年月日。風化のために判読は簡単ではない。足元にも銘が見えるのだが、残念ながらこちらも読み取ることはできなかった。坂上地蔵尊 川越市吉田82前[地図]上の馬頭観音の右の道を東に進むと、突き当りの交差点の角に小堂が立っていて、中には二基の地蔵菩薩塔が並んでいた。右 地蔵菩薩立像 享保4(1719)丸彫りのお地蔵さまは、厚く着物を着せられていて像容は不明。四角い台の上に台形の敷茄子・蓮台を持つ。資料では造立年不明となっていたが、敷茄子に紀年銘が刻まれていた。右隅に享保四 □亥□、続いて施主 當村中、左隅に四月吉日と見える。他に銘は確認できなかったが、造立年も古く貴重なお地蔵様だと思う。その隣 地蔵菩薩立像。こちらは台に銘が見当たらず詳細は不明。像の背面に銘があるのかもしれないが、これだけしっかり着込んでいるとちょっと手が出せない。
2021.11.02
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら元荒川を越えてその南に移ります。西のほうから野島、小曾川、砂原、荻島とみてゆく予定ですが、その前に前回まで見た天嶽寺、久伊豆神社越ケ谷地区にもう一か所紹介したいところがありますのでそちらを先に取り上げます。 観音堂 越谷市越ケ谷5-3県道49号線、北越谷のほうから元荒川を越えて400mほど、歩道橋のある信号交差点を左折して細い道を東へ進むと左手に観音堂がある。入口右側には自然石に「正觀世音菩薩」と刻まれた昭和54年銘がある石塔が立っていた。参道左側 ブロック塀の前、竹垣に囲まれた一角に石塔が並んでいる。左に六地蔵菩薩立像。像、台ともに銘は見当たらない。明治時代の「廃仏毀釈」の為だろうか、いずれも首のあたりに断裂跡が残り、あとから補われた頭部は不ぞろいでそのありようが痛ましい。その隣 庚申塔 享保6(1721)角柱型の石塔の正面を真四角に彫りくぼめた中、日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。剣の部分と顔は摩耗がひどく不鮮明。足の両脇に薄く二鶏。足元の邪鬼は右腕をついてやや前向きの姿勢。その下、四角く区切られた空間に三猿を彫る。塔の最下部には9名の名前が刻まれていた。続いて地蔵菩薩立像 正徳年間造立。舟形の光背に円形の頭光背を負った地蔵菩薩像を浮き彫り。塔の右側面に造立年月日。左側面に「庚申講中」下の台は半ば土に埋もれている。右端に正徳と紀年銘を刻み、中央に同行、その両脇に数人の名前が刻まれていた。その隣、不明塔 文政元年(1818)前面は風化が進み摩耗、剥落のために像容ははっきりしないが、全体の形、衣服の感じなどから見て観音菩薩像か?左脇に個人名が見えるが紀年銘が吉日となっていて、個人の供養塔、墓石ではなさそうだ。続いて馬頭観音塔 明和8(1771)駒型の石塔の正面 梵字「カン」の下「馬頭觀音」両脇に造立年月日。参道を進むと水屋があり、その向こうに二基の石塔が並んでいた。左 馬頭観音塔 文化10(1813)石塔の正面 梵字「キャ」の下「馬頭觀世音」台の正面に「講中」塔の右側面に造立年月日。その下に大さ加ミ道(=大相模道)左側面には のだ せうない 道(=野田 庄内 道)と刻まれている。右 徳本名号塔 文政5(1822)角柱型の石塔の正面に独特な書体で「南無阿弥陀佛」両脇に造立年月日。下部に徳本とあり花押を彫る。その両脇に念佛講中と刻まれていた。本堂の右に二つの境内社がある。左の社の横、ブロック塀の前に石塔が並んでいた。左 弁財天塔 嘉永4(1851)駒型の石塔の正面を同じく駒型に彫りくぼめた中に「辨財天」塔の右側面に造立年月日。不明塔を挟んで 右 庚申塔 嘉永7(1854)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔の右側面に造立年月日。左側面「天下泰平 國土安全」青面金剛の顔のあたりは激しく剥落。足を折り曲げ合掌するショケラがかわいい。足元には犬のような邪鬼。片足を跳ね上げてうずくまる姿はユニーク。二鶏、三猿は見当たらなかった。
2017.12.18
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら 今日は普光明寺のもうひとつの「埋め墓」三本木墓地の石仏を見てみましょう。三本木墓地 新座市大和田3-2川越街道「新座バイパス」の大和田交差点から「三本木通り」を西に向かう。このあたりは最近整備された地域で道路も驚くほど広く大型商業施設、大型倉庫が並んでいる。300mほど先の信号交差点の角に、裏の倉庫の駐車場かと思うほど広々したオープンスペースがあって、その入口両側に二体の大きな丸彫りの石地蔵が向き合うように立っていた。入口左奥、コンクリートで囲まれた円形の塚があり、その真ん中に石塔が立っている。手前には線香立てが設けられていて、どうやらこの一角が「三本木の埋め墓」のようだ。これまでにも岩槻区古ケ場の永福寺、岩槻区上野の宝生院、南区松本の真乗寺など、いくつか「両墓制」をとるお寺の墓地を見てきたが、前回見た「ハケ上の埋め墓」とこちら、このような二か所の埋め墓を持つ例は記憶にない。入口左 地蔵菩薩立像 享保12(1727)台付きの石塔の上に蓮台に立つ地蔵菩薩像が載って、これも2mを超す大きな地蔵菩薩塔。大和田にはこのタイプの立派な丸彫りのお地蔵様が本当に多い。それだけ豊かだったということなのだろう。像は欠損なく風化もほとんど見られなかった。石塔の正面、中央に「奉造立地蔵尊念佛供養 欽白」両脇に造立年月日。塔の右側面 武州新座郡大和田町結衆。左側面には本願とあり、上宿女中念佛講三十人、中宿 念佛講二十人、本村 念佛講八人、二親菩提 志 十四人、上宿 志 七人と刻まれている。総勢79名になり、これは村中が協力して造立されたものといえよう。前回見た「ハケ上」の高地蔵の脇の解説に『享保年間に町の両端に一対の地蔵菩薩が置かれ』とあるが柳瀬川近くに置かれていたというのはこのお地蔵様だったのではないだろうか。地蔵像の様子も、石塔部の銘も両者はとてもよく似ていて、造立年も近い。『その後英橋の工事に伴い観音堂の前に移設』と解説されていたが、現在観音堂の前に立つお地蔵様よりもこちらのお地蔵様のほうが高地蔵の相手としてふさわしいように思うのだがどうだろう。入口右には三基の石塔が西向きに並んでいた。右端 地蔵菩薩立像 正徳3(1713)丸彫り像には多少白カビが見られるが、大きな欠損もなく比較的美しい状態を保っている。蓮台の下に大きな球形に近い厚い敷茄子、その下に反花付きの大きな台。全体では3mにもなるだろうか。雄大なスケールを誇るお地蔵様である。蓮台の正面の花弁に梵字「カ」その下の丸い敷茄子にぐるりと銘が刻まれていた。正面には「奉造立地蔵尊像一基」その両脇に造立年月日。右下 地蔵講 念佛講、左下には惣村中。右のほうに回ると武州新座郡大和田町、さらに裏のほうには石工名、左のほうには供養導師普光明寺住承玄 大和尚 敬白と刻まれている。大きな台の上の面にはいたるところにくぼみ穴が穿たれていた。小さな石のかけらも多く積まれ、人々がお地蔵様に願をかける様子が目に浮かぶようだ。その隣 百ヶ所観音順礼供養塔 安永5(1776)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、上部に合掌する観音菩薩坐像を浮き彫り。その下、中央に「奉順禮 坂東西國秩父 百箇所」両脇に天下泰平 國土安全。右下に武州新座郡大和田町、左下に造立年月日が刻まれている。塔の両側面、下のほうにそれぞれ六名、合わせて12名の名前が刻まれていた。左 普門品供養塔 文化10(1814)角柱型の石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下「普門品供養塔」両脇に天下和順 日月清明。塔の左側面に造立年月日。その脇に武蔵國新座郡大和田町 連経講中と刻まれている。塔の下の台は三段になっていた。真ん中の台の正面には蓮の花を線刻。その右側面、左に世話人四人の名前が刻まれ、続いて11名の名前、左側面にも14名の名前が刻まれている。全部で30人ほどの連経講(=観音講)だったようだ。
2020.04.23
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は大袋駅の東、下間久里の阿弥陀堂の石仏を見てみましょう。阿弥陀堂 越谷市下間久里1386北東武線大袋駅の南の踏切から東に進むと次の交差点で日光街道の旧道に出る。この旧道は越谷の瓦曽根から東武線せんげん台駅付近まで、日光街道の西をほぼ平行して走る。信号を左折して100mほど先、道路左側に阿弥陀堂があった。資料に取り上げられている二基の石塔はいずれも個人の墓地の中にあった。堂の正面あたりの墓地、ここには四基の石塔が並んでいる。右手前の駒型の石塔、正面上部に阿弥陀如来坐像と如意輪観音坐像を浮き彫り。その下に信士と信女、二つの戒名が並ぶ。それぞれの両脇に命日、信士のほうは寛文13(1673)信女のほうは元禄元年(1688)となっている。石塔の造立は1690年頃だろうか。左上 大きな光背を持った阿弥陀如来立像 寛文10(1670)が美しい。この墓地にはこの他にも江戸時代初期の石仏が多く見られる。墓地の奥のほうに進む。お堂の前の個人の墓地の中 笠付き角柱型の墓塔。塔の正面に信士と信女、二つの戒名が並んでいる。塔の左側面に二つの命日、天保9(1838)安政2が刻まれ、右側面には大きな字で「筆子五十五人」寺小屋の生徒55人が師匠夫妻のために建立した墓塔ということだ。お堂の裏の個人の墓地の中にも古い石仏が並んでいた。個人のものなので詳しく見ることはできないが、左から阿弥陀如来立像 万治3(1660)、阿弥陀如来立像 延宝元年(1673)、如意輪観音坐像 寛文8(1668)いずれも立派な光背に浮き彫りされたもので、端正で優美な表情が印象的だ。さらに阿弥陀如来立像 天和4(1684)と続く。ここではあわせて四基もの江戸時代初期の美しい石仏を拝見することができた。ざっと考えて350年ほど前の石仏たち、家の代替わりを30年として、十数代に渡ってご先祖様のご供養を続けてきたということになる。本当にすごいことだと思う。
2017.07.01
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今日は見沼区深作の石仏、前回の続きです。深作氷川神社筋向い 見沼区深作2 [地図]東大宮バイパス深作(南)交差点から東に折れて二つ目の交差点を左折する。すぐ先の道を右折すると左手に深作氷川神社の赤い鳥居が見えて来る。神社の筋向いに三基の石仏が祀られていた。写真は奥から撮ったもの。道路の向こうに神社の境内がひろがっている。手前の小屋の中に地蔵菩薩立像 年代不明 台に深作村念佛講中と刻まれている。中 庚申塔 享保10(1725)青面金剛立像 合掌型六臂 厚みのある彫りである。上の手にショケラを持つのはこのあたりでよく見るが右手に持つのは珍しい。下部に邪鬼と三猿。邪鬼は正面向きM字型。三猿とともに表情が面白い。奥に立つ馬頭観音立像 寛政10(1798)憤怒相二臂 白カビが目立っている。八反田橋東北路傍 見沼区深作5 [地図]東大宮バイパス深作(南)交差点から岩槻方面に向かう広い道が綾瀬川を越える少し前を左に曲がると道は田園風景の中を大きく弧を描くように続きやがて丸ケ崎にでる。先日紹介した丸ケ崎新田の石仏もこの道沿いに立っている。この田園の中を走る道はほぼ深作川と平行して走っていて、深作川方面から何本かの道が交わっている。深作川の八反田橋から東に向かう道がぶつかったあたりに小堂が立っていた。庚申塔 元禄7(1694)合掌型六臂 上左手にショケラを持つ。邪鬼はM字型。右側面に為奉造立供養二世安楽也と彫られていた。関前橋東北路傍 見沼区深作5 [地図]深作川の関前橋から東に向かう道がぶつかったあたりにも小堂があった。地蔵菩薩立像 宝暦5(1755)新しいマフラーが暖かそうだ。その隣に庚申塔 文化13(1816)自然石に大きく庚申塔と彫られていた。
2014.04.07
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら25P目は三橋3丁目 共同墓地前の不動明王坐像 慶応2(1866)江戸時代後期によく見られる「成田山不動明王」である。新大宮イパス円阿弥北交差点からバイパス東側の歩道を北に進み、すぐ先を斜め右に入ってゆくと、道路左側に整備された墓地がある。その入口近くに小堂が並んでいて、手前の小堂の中にスケッチの不動明王塔が祀られていた。不動明王坐像 慶応2(1866)真っ赤に彩色された炎の光背に細長い宝剣と羂索を手にした不動明王を浮き彫り。不動明王が座る磐座は中央に滝、両側に二童子を配し、成田山不動明王塔の典型的な形。その下、石塔部正面に大きく「成田山」。さらに下の台の正面に「邑内安全」と刻まれている。石塔部左側面に造立年月日。続いて武州足立郡牛飼村。台の左側面には「講中」と刻まれていた。塔の右側面、かなりのくずし字だが「天下泰平 國土安穏」だろう。台の右側面には「世話人」と刻まれている。不動明王の小堂の奥に六地蔵の小堂が立っていた。六地蔵菩薩立像 享和2(1802)丸彫りの石地蔵の宿命というべきだろうか、頭部は後から補われたものらしく、それもほとんどがのっぺらぼうという状態である。下の台は三つに分かれていて、それぞれに二体のお地蔵さまが乗っていた。右の台、足立郡牛飼邑 善男女 講中。続いて造立年月日が刻まれている。真ん中の台は一部に剥落が見られ、文字の読み取りは難しい。右のほうの銘はよくわからないが、左のほうは「百万遍念佛善男女□供養」だろうか。左の台には多くの戒名が刻まれている。「子どもの守り神」お地蔵様らしくほとんどの戒名が童子だった。六地蔵の奥に名号塔 嘉永元年(1848)江戸時代後期に活躍した念仏行者徳本上人の独特の書体で「南無阿弥陀佛」と刻まれた「徳本名号塔」である。江戸近郊を中心に多くの念仏講を組織し、その活動範囲は関東から北陸、近畿にまで及んだという。下の台の正面には「念佛講中」と刻まれていた。小堂の左端 回国供養塔 天明5(1785)角柱型の石塔の正面 阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典六十六部日本廻國」上部両脇に「天下和順 日月清明」続いて造立年月日。右側面に戒名が刻まれていて、こちらは個人のものらしい。
2020.03.24
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら北後谷の2回目、北前稲荷神社の石仏を見てみましょう。 北前稲荷神社 越谷市北後谷釣上新田付近から国道463号線とほぼ並行してまっすぐに東へ向かう道。越谷西特別支援学校の脇を通り、左手に石神井神社を見て、末田用水を越えたあたりで細い道を右に入ると、その先は見渡す限り田畑が広がる田園地帯で、そんな中にポツンと稲荷神社の鳥居が見えてくる。まわりに目印になるような建物もなく正しい住所がわからなかった。石鳥居の先に大きな瓦屋根がやけに目立つ稲荷神社の社殿。参道右脇には祠が立っている。小堂の中 不動明王坐像 嘉永4(1851)炎の光背の前にずんぐりした体形の不動明王。その下には矜羯羅童子と制多迦童子。中央に「成田山」と刻まれていた。下の台の正面 小さな字で右端に願主、右上にセハ人とあり、続けて16人の名前。台の左側面に15人の名前。右側面には草加宿石工1名の名前があり、さらに2人の名前が刻まれている。塔の左側面に埼玉郡越谷領後谷村、右側面には天下泰平 村内安全。その下に造立年月日が刻まれていた。祠の向かい、参道の左側には二基の石塔が立っている。手前 庚申塔 寛政4(1792)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛のももの両脇に小さな二鶏。塔の右側面に造立年月日が刻まれていた。青面金剛の足元、頭を左にして平伏する邪鬼。さらにその下に両脇の猿が内側を向く構図の三猿を彫る。このあたりは白カビがこびりついていて文字も読みにくいが、台の正面には15名ほどの名前が刻まれているようだ。奥 出羽三山供養塔 文化9(1812)角柱型の石塔の正面 日月雲「湯殿山 羽黒 月山 供養塔」下の台の正面、右から世話人2名、次に講頭1名、続けて講中 神明下村とあり9名の名前。正面には都合12名の名前が刻まれている。右側面には四丁野村講中、西新井村講中とあり、左側面には12名の名前。台の三面合わせると三講中、24名の講員ということになるだろうか。塔の左側面 埼玉郡越ケ谷領後谷村。その横に大先達 大乗院。右側面に造立年月日。その横に天下泰平 五穀成就と刻まれていた。
2018.01.21
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は相模町から二か所の石仏を見てみましょう。 馬頭橋北路傍 越谷市相模町2-213八条用水の閻魔堂橋の次の橋は馬頭橋になる。橋の交差点の北東の角、住宅のブロック塀の前に大きな石塔が立っていた。写真右に見えるのが馬頭橋、その先の並木道が八条用水右岸の遊歩道、正面の道は八条用水左岸沿いの自動車道である。正面に馬頭観音立像を浮き彫りした角柱型の石塔の上に不動明王坐像が載る。豪華な組み合わせともいえるが、両者の間に積極的な関係性は考えにくい。この石塔は地元では「ばとかんさま」と呼び、目の前の橋が「馬頭橋」である。不動明王像はあとから載せられたものかもしれない。炎の光背の前に座る不動明王。右手に剣、左手には羂索を持つ。光背上部は風化のために欠けていて、途中には斜めに断裂跡が残っていた。馬頭観音塔 明和7(1770)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。頭上に馬頭がくっきり。馬頭観音の顔はつぶれていてはっきりしない。塔の右側面「奉納為二世安樂」右脇に草加迄二里、左脇に越ケ谷迄十二丁。下部には武蔵下総 馬喰講中。馬喰だけの講とは珍しい。続いて當所 願主とあり一名の名前が刻まれていた。左側面には 是より左 不動尊道。その両脇に造立年月日が刻まれている。福寿院墓地 越谷市相模町7-221前馬頭橋から北へ向かい旧吉川県道に出たあたりに相模町郵便局がある。そのすぐ東を北に入り、またすぐ先を左折して西に向かうと、道路北側に墓地があった。入り口付近、六地蔵の小堂の左に石塔が並んでいる。二基の馬頭観音の文字塔と青面金剛像庚申塔。その後ろの自然石の石塔は「青面金剛上師十誓願」青面金剛の十の御利益を記したもので、裏面に天保9(1838)の銘が刻まれていた。左 馬頭観音塔 。紀年銘が確認できず詳細は不明。駒型の石塔の正面 梵字「カン」の下「馬頭觀世音」塔の左側面に藤塚 紺屋長吉。藤塚はこのあたりの字のようだ。右 馬頭観音塔 天保5(1834)駒型の石塔の正面に「馬頭觀世音」その右脇に造立年月日。両側面には銘が見られない。その後ろ 庚申塔 明和9(1772)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。前の二基の馬頭観音塔で下部が隠れ、正面から塔の全体を写すことはできなかった。二基の馬頭観音塔の間から広角レンズを使って下部を撮った一枚。青面金剛の足の両脇に二鶏。雄鶏の尾羽がなかなか見事。邪鬼は頭を左に脱力している。その下に三猿。一部は土の中のようだが、何とか確認はできる。塔の右側面 上部に造立年月日。その下に山谷 講中 藤塚 とあり、さらにその下に三人の名前が刻まれていた。左側面にはおつや、おぎん、おりま などひらがな三文字の名前が四つの段に渡って刻まれている。女性が中心の講中なのだろう。墓地の中に入ってゆくとその中央付近に宝塔と石地蔵が並んでいた。地蔵菩薩立像 天明8(1788)舟形光背、梵字「カ」の下に錫杖と宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「奉造立地蔵菩薩像」左脇に「日本廻國供養」その下に圓戒法師。さらにその脇に小さく造立年月日が刻まれている。台の正面は線香立てのために読めない。左側面には世話人とあり8名の名前が刻まれていた。
2018.04.16
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今日は見沼区東門前・新堤の石仏を紹介します。東門前第一自治会館前 見沼区東門前 [地図]県道105号線、七里駅入口交差点の100mほど南に七里郵便局がある。すぐ南の路地を西に入るとやがて右側に東門前第一自治会館が見えてくる。敷地の南の隅雨よけの下に石塔が並んでいる。一基だけ雨よけを外れて右の外に立っていた。馬頭観音塔 享保15(1730)雨よけの下、右から庚申塔 天明2(1782) 青面金剛立像 合掌型六臂 邪鬼も合掌。右側面に延命院在住法印浄賢講中と刻まれている。三猿は像から独立して下の台座の正面に彫られていた。地蔵菩薩立像 元文3(1738)台座の左側面に足立郡南部領 念佛講門前邑中と刻む。個人の供養塔を挟み次は馬頭観音立像 安永4(1775)慈悲相三面六臂が立つ。光背の右上に念佛供養塔、左下に施主 門前村中と刻まれていた。左の隅に六地蔵 一番左の一基の光背に宝暦十四(1764)施主 門前村中の文字。七里東保育園北路傍 見沼区新堤 [地図]東門前第一自治会館から南に進むとバス通りに出る。目の前に七里東保育園。ここで左折してすぐの路地を右折すると左手、住宅の前に石塔が立っている。不食供養塔 元禄16(1703)上部に日輪、中央に奉造立不食供養と刻まれていた。七里小学校北西三差路 見沼区新堤 [地図]県道105号線東宮下交差点から七里駅方面に進むと左手に七里小学校がある。さらに進むとすぐ三差路の角に石塔が立っていた。後はコンビニの駐車場。寒念仏供養塔 享保12(1727)全体に彫が薄く読みにくい。
2014.04.14
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は南区辻の萬蔵寺へ行ってきました。中山道六辻の交差点の南にある萬蔵寺。入口から左に折れて参道の右に石塔が立っていた。左奥には小堂が見える。右側の石塔四基。いずれもカビのために白くなっていた。右から出羽三山供養塔安永3(1774)正面上部に大きく梵字を刻み、続いて月山、湯殿山、羽黒山と彫られている。左側面には足立郡浦和領辻村、続いて講中とあり、その下に三十数人の名前が刻まれている。さらに右側面にも多くの名前が刻まれていた。隣に庚申塔 宝永6(1709)青面金剛立像 合掌型六臂 光背右下、奉造立庚申供養佛二世諸願菩提と刻まれている。 邪鬼と三猿 素朴な味わいが微笑ましい。下には女講中12名の名が刻まれていた。続いて大きな文字塔 文政9(1826)。正面には 教道法子 と彫られ個人的な供養塔に思えるのだが、その左側面を見ると 敷石供養塔 となっている。下の台の正面には万蔵寺檀中 世話人と彫られ、台の左側面に二名の名前が刻まれていた。一番奥には庚申塔 安政2(1855)正面に庚申塔と彫られその脇に小さく地名が入っているようだが、表面が穴があいたりしていてうまく読めなかった。右側面には年号に続いて辻村と刻まれ左側面は半ば剥落しかかているが、南 はやせと読める。下の台の正面には連経講中と彫られていた。参道左側、ブロック塀の前に小堂。手前の草むらの中にも石仏が見られる。草むらの中 右 小さな馬頭観音立像 宝永7(1710)忿怒相合掌型二臂が立っていた。光背右に奉造立華見塔供養、光背右に辻村拾六人と刻まれている。その左、上部が欠け土に埋まったような石は庚申塔 文化6(1809)資料によると左方向一地名が刻まれているということなので、今回はそれを確認しようと思い再訪したのだが、どうしても読み取れなかった。その奥、小堂の脇に馬頭観音塔が並んでいた。左は忿怒相二臂の馬頭観音立像。表面が剥がれかかっているため銘文は読めない。真ん中は馬頭観音の文字塔。文化の文字が見えるがあとは解読不能。右も馬頭観音塔であるが詳細は不明小堂の中の六地蔵菩薩 右から2番目の台に安永4(1775)、4番目に台に辻村講中四拾人と刻まれている。さらに一番左の台には信心道俗男女と読める。本堂の裏に回ると雑草の生い茂る中、二体の丸彫りのお地蔵様が立っていた。左、薄い台の上に地蔵菩薩立像 詳細不明 錫杖の上部を欠く。彫りは細かい。右、地蔵菩薩立像 享保9(1924)蓮台の下の台の正面に日参供養と刻まれていた。丸いお顔、目尻のところから筋が入って、涙を流しているようにも見える。
2014.07.10
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら「富士見市の石仏」シリーズに入る前に、富士見市へのアクセスルートを一緒に見てみましょう。西浦和から自転車で富士見市に行くには秋ヶ瀬橋を渡るか羽根蔵橋を渡るか、この二つのルートが考えられる。西浦和駅の北を走る志木街道に出て志木方面に向かう。田島交差点で新大宮バイパスを渡ってしばらく走ると徐々に道は上り坂になる。写真は荒川の手前の鴨川にかかる橋の先の信号交差点。ここがまず大きな分岐点になる。直進すると秋ヶ瀬橋。左折すると武蔵野線の線路をくぐって彩湖方面へ。右折して道なりに左下に降りてゆくと秋ヶ瀬公園。右折して土手の上の道を北へ向かうと羽根倉橋の東へ着く。まずは秋ヶ瀬橋を渡ってみよう。秋ヶ瀬橋の歩道は北側のみの設定で、歩行者も自転車も集中するので通行には気を使う。秋ヶ瀬橋の西詰の信号交差点。ここを左折すると朝霞、和光方面。直進すると志木駅方面。右折して土手際の道を下ってゆくと宗岡方面になる。中宗岡、上宗岡を通り過ぎ、宗岡中学校の西にある袋橋で新河岸川を渡る。写真は袋橋から新河岸川上流を望んだところ。写真の右手奥に浦和所沢バイパスが見えている。橋の両端に二種類のレリーフがあった。こちらは二人の武士が並んで馬に乗り、急いでどこかへ向かう場面「いざ鎌倉!」ということだろうか。そういえば羽根倉橋付近からこのあたりを鎌倉古道が通っていたと本で読んだ記憶がある。もう一つは農民?がのんびり馬の手綱を持って歩いてゆくところ。よく見ると馬が曳いているのは荷車ではなく舟。新河岸川の海運に馬の力も利用したということがわかる。袋橋を渡って右に入り、新河岸川右岸の土手上に出る。ここからはきれいに舗装された遊歩道(サイクリングロード)が続いていた。車の心配もなく、坂道もなく、市の中央部、市役所のあたりまで快適に30分ちょっとで着く。浦和所沢バイパスの下をくぐり抜け、また土手に戻るとそのあたりは富士見市水子。少し走ると右手に木染橋が見えてきた。この橋を通る道を右に曲がってゆくと下南畑、左へ曲がると水子貝塚公園に出る。さらに少し走ると新河岸川とその支流の富士見江川の合流点。右が新河岸川、左が富士見江川。ここから遊歩道は江川に沿ってゆっくりと左へカーブしてゆく。やがて歩行者用信号機のついた交差点に出る。ここも重要な分岐点で、左折すると水子本郷を抜けてみずほ台駅方面に、直進して土手上の遊歩道を進むと左手に菖蒲で有名な山崎公園を見ながら鶴馬、関沢方面に向かう。志木市の袋橋から始まったこの土手上の遊歩道はここがいちおうの終点で(実際は山崎公園の先まで遊歩道は整備されている)路上に記された距離表示は2250mとなっていた。徒歩でも30分ほどだろう。交差点を右折し突き当りのT字路を右折、すぐ先の信号交差点を左折して少し走ると富士見市役所の付近に出る。市役所前の交差点は五差路になっていた。左折して写真左の道に入ると緩やかな登り坂でその先は鶴瀬駅東口へ、写真右の道はやはり緩やかな上り坂で羽沢、渡戸、上沢方面に向かう。また、写真には写っていないが、先ほどのアプローチでそのまま北へ直進してゆくと10分ほどで勝瀬付近に着く。東上線沿線の地域にはこのルートが便利だと思う。もう一つのルートは、羽根倉橋を渡るルート。一番上の写真の交差点を右折して、荒川と平行するように流れる鴨川右岸の土手の上の遊歩道を走る。土手の左側にはゴルフ場のコースがひろがっていた。広く整備された遊歩道は快適だ。左手に秋ヶ瀬公園。右手前方に見えているのは桜区役所と総合体育館。やがて浦和所沢バイパスにぶつかる。ここを左折して羽根倉橋の南側歩道を走る。羽根倉橋は秋ヶ瀬橋と違い、その両側に歩道があってそのぶん走りやすい。羽根倉橋から南、秋ヶ瀬橋方面を望む。荒川の河川敷はグラウンドや水田などに利用されている。よく晴れた日にはこの方向に池袋、新宿の高層ビルが見えるのだが今朝はこちらの方向は薄もやのために見ることはできなかった。羽根倉橋を渡り終わるあたりから道は下ってゆく。正面に雄大な富士山の姿が見えた。下りきった先の上宗岡2丁目交差点。ここを左折すると志木市の宿方面。右折して道なりに進むと富士見高校方面に向かうことになるが、この道は自動車の交通量が非常に多く自転車にとっては危険。少し外れて裏の道を進む。ただっ広い田園風景の中を走る。こちらは比較的車も少なく、天気の良い日は、左手に富士山、正面に秩父の山並みを見ながら気持ちよく走ることができる。やがて難波田城公園の南付近で大きな道路にぶつかる。この交差点を右折すると、下南畑から南畑新田。左折すると旧富士見有料道路(今は国道254号線と呼ぶらしい)を横切り水子方面に向かう。直進すると富士見高校付近を通り、富士見市最北端の東大久保 長谷寺までだいたい15分くらいだろうか。写真左、田んぼの中にポツンと小堂が立っているのが見える。中には寛文期の馬頭観音が祀られていた。
2016.03.17
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら前回蕨市を回った時には簡単な資料しか手元になかったのですが、それでも宿場町の歴史があるためか、蕨市自体が歴史史跡や文化財保存に熱心で、教育委員会が設置した石仏の解説板は丁寧でわかりやすく助かりました。駆け足で回ったのでかなり雑なアプローチでしたが、何か所かは今でも忘れることができません。錦町では堂山寺の薬師如来を主尊とする庚申塔がもっとも心に残っています。堂山寺 蕨市錦町6-5-12[地図]埼京線北戸田駅の東500mほど、住宅街の中に堂山寺の墓地がある。すぐ東に「わらびりんご公園」があって、これを目当てにすると探しやすいだろう。入口から覗くと、二基の石塔が並び、その向こうに小堂、さらにその奥には立派な堂宇が立っていた。入口近く 庚申塔 寛保4(1744)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面、日月雲の下を舟形に彫りくぼめた中に 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。笠の正面に卍が彫られている。彫りは細かく本格的。頭頂部が平らな髪型は「川口型」に通ずるものがあるが、他はオーソドックス。頭部にまとわりつくのは蛇だろうか?足元にずんぐりとした邪鬼。その下に両脇が内を向くタイプの三猿。二鶏は見当たらない。塔の右側面「奉造立庚申尊像二世安樂所」左側面中央に造立年月日。右下に武刕上蕨村、左下に講中敬白と刻まれていた。反花付きの台の正面と両側面に合わせて100名以上の名前が刻まれている。そのほとんどがひらがなで、女性中心の講中なのだろう。左側面の奥のほうは一部が土に隠れてしまい読み取れなかった。その隣 敷石供養塔 弘化3(1846)角柱型の石塔の正面に大きく「敷石供養塔」塔の右側面に造立年月日。左側面には世話人 上蕨若者中とあり、さらに願主 本圓と刻まれている。小堂の中には六地蔵が祀られているが、扉が閉まっていて近づけなかった。資料によると大正13年に再建されたものらしい。小堂の右手前 庚申塔 寛文10(1670)大きな舟形光背、天蓋の下に薬師如来立像を浮き彫り。左脇に教育委員会の解説板が立っている。天蓋の中に梵字「ベイ」胸前に薬壺を手にした薬師如来。静かにたたずむ姿は限りなく気高く美しい。光背右脇「奉起立庚申爲逆修菩提」左脇に造立年月日。光背下部両脇に信心 施主と刻まれていた。石塔の下部、線香立ての陰になり全体を見ることはできないが、右上に東光寺とあり、続いて15名の名前が刻まれている。墓地の南西の一角、こちらには忘れ去られたように小型の石塔が立っていた。庚申塔 正徳6(1716)駒型の石塔の正面、上部に梵字「ウン」瑞雲に乗った日天・月天。中央「奉建立庚申」両脇に造立年月日。最下部に三猿だが、こちらは半ば土に埋もれ頭だけがのぞいている。
2021.01.27
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら本郷の西、下安松の石仏です。今回はその真ん中を斜めに走る武蔵野線の南の地区の四ヵ所、すべて路傍の石仏になります。和田延命地蔵尊 所沢市下安松1170[地図]本郷の東福寺の前の道を西に進むと、しばらく先で蛇行する柳瀬川の左岸沿いを走る。やがて大きく左にカーブする川から離れ、まっすぐ西に向かう道はここからかなり狭くゆるやかな登りになる。周りに住宅が増えた中、初めての大きな交差点の北東の角に小堂が立っていた。小堂の正面の赤いのれんに「和田延命地蔵尊」と記されている。小堂の中 地蔵菩薩塔 宝暦3(1753)角柱型の石塔の上、蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。赤い前掛けのために確認できないが、錫杖と宝珠を手にした一般的な地蔵菩薩像らしい。像は全体に摩耗していた。半眼で目じりはやや吊り上がり、おちょぼ口?尊顔はユニークだ。石塔の正面中央に二行「奉造立南無延命菩薩尊像一基」右下に 右 本江道?左下に 左 日比田道。塔の右側面に造立年月日。左側面には施主 武州入間郡安松郷 中村元右衛門 敬白と刻まれている。和田子育地蔵尊 所沢市下安松892[地図]下安松の中央を県道24号線、小金井街道が南北に走っている。柳瀬川あたりから国道463号線の松郷交差点まで続くこの広い道は「新道」で、旧小金井街道は柳瀬川のすぐ北の下安松交差点から斜め左に入り、柳瀬川交差点を通って北西に進み、武蔵野線をくぐって愛宕山交差点で県道6号線に合流する。柳瀬川交差点から北へ進むとすぐ先の道路左側の歩道の奥に小堂が立っていた。堂の正面上部に「和田子育地蔵尊」と書かれた額がかかっていて、小堂の中には大小三基の地蔵菩薩塔が並んでいた。右 地蔵菩薩塔 享保元年(1716)四角い台の上に敷茄子と蓮台に立つ大柄な地蔵菩薩像。錫杖と宝珠は健在だが、尊顔は風化のためか摩耗していてはっきりしない。敷茄子の右に造立年月日。続いて「奉造立地蔵菩薩」小堂の前の策のために下部の確認は難しい。中央 地蔵菩薩塔 造立年不明。台の上の角柱型の石塔に丸彫りの地蔵菩薩立像。右の地蔵塔に比べるとかなり小さい。像の様子はわからないが、尊顔はきりっとしている。角柱型の石塔の正面、銘はかなり薄くなっているが、中央に「奉納大乗妙典・・・」大乗妙典供養塔らしい。左右両脇にも銘が見えるが確認は難しい。塔の右側面に 右□□道と道標銘が刻まれていた。左 地蔵菩薩塔 造立年不明。四角い台の上の角柱型の石塔に蓮台に立つ地蔵菩薩像。こちらもサイズは小さい。静かな表情を浮かべている。像の真ん中にセメントで補修された跡が残っていた。石塔の正面は上部が剥落、右に 施主 □心、左に□田村中と刻まれている。柳瀬川交差点西竹林 所沢市下安松860北[地図]旧小金井街道の柳瀬川交差点から西に向かう「下安松通り」は武蔵野線をくぐり秋津駅の北、上安松に入る。柳瀬川交差点から300mほど西、バス停のあるあたりから北へ細い道を進むと、100mほど先、左奥の竹林の前に石塔が立っていた。庚申塔 宝永2(1705)笠付き角柱型の石塔の正面 青面金剛立像 合掌型六臂。笠の上の宝珠が欠け、塔全体が風化のために摩耗している。本郷の天和3年の庚申塔と同じく日月を欠く。顔もつぶれていて六臂の様子もはっきりしない。両足は曲げているのか極端に短い。足元に邪鬼の姿は見当たらず、三猿だけが彫られていた。これは江戸時代初期の庚申塔で時々見る。三猿は両脇の猿が内を向いて座る構図。二匹とも大きく顔をのけぞらせている。塔の右側面、右上に施主 宗心。その下に二段に十名の名前。その左脇に「奉納御寶前」左側面に造立年月日。その下右に施主 拾五人。続いて五名の名前が刻まれていた。下安松通りT字路交差点北 所沢市下安松399[地図]さらに西へ進み、武蔵野線の250mほど手前、T字路交差点の南からの道路の突き当り、住宅の間の空き地に小堂が立っていた。 小堂の中 庚申塔 元禄10(1697)四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月 青面金剛立像 合掌型六臂。笠の上の宝珠は欠け、造全体に風化がはなはだしい。日月には瑞雲がついていない。像は摩耗していて顔はほぼのっぺらぼう、六臂の持物は矛・法輪・弓・矢がかろうじて確認できた。足の両脇には二鶏を半浮彫り。足元には全身型の邪鬼。手足を曲げてうずくまるが顔はやはりはっきりしない。その下に正面向きの三猿。塔の最下部には十数人の名前が刻まれていた。
2026.05.17
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら前回に続いて延命寺地蔵堂の石仏です。延命寺地蔵堂 板橋区志村2-5地蔵堂の東側の整備された一角、正面に堂々と弘法大師坐像があり、そのまわりにはたくさんの石塔が立っている。左側には不動明王をはじめ十三仏 享和2(1802)が並んでいた。不動明王だけが炎の光背、あとの十二仏は同じ形の光背を持ち、像の高さもほぼそろっている。以下、写真の下に名前だけ記しておく。不動明王釈迦如来文殊菩薩普賢菩薩地蔵菩薩弥勒菩薩薬師如来観世音菩薩勢至菩薩阿弥陀如来阿閃如来大日如来虚空蔵菩薩十三仏の台はひとつながりになっていて、中央付近に銘が刻まれていた。右から「十三佛建立 三界萬霊 有無兩縁 為菩提也 郷内安全 諸願成就」続いて造立年月日。さらに武州豊嶋郡志村。施主二名。正面 大きな基壇の上、弘法大師坐像 享和2(1802)その下の台の中央で丸い紋章をささげ持っているのは天邪鬼だという。台の正面 右に造立年月日。中央 天邪鬼に隠れているが「郷内安全 為三界萬霊有無兩縁 心願成就」左 武州豊嶋郡志村。施主二名。十三仏の施主と同じ名前だった。右側には歴代住職の墓塔などが立っている。その中に大きな閻魔王坐像 文化4(1807)台の右側面に造立年月日。正面には 武州豊嶋郡志村 郷内安全 為三界萬霊有無兩縁 諸願成就と刻まれている。続いて施主二名、これも十三仏、祖師像と同じ名前だった。このように手の込んだ多くの石仏をまとめて建立するにはそれ相応な財力の裏付けが必要だろう。驚くべきことだ。閻魔王坐像の手前に唐破風笠付きの大きな角柱型の石塔が立っていた。十王尊塔文化4(1807)三つの面に、閻魔王をはじめ地獄において亡者の審判を行う10尊の像が彫られている。左側面の一番下は奪衣婆のようだ。裏面は地獄における亡者の様子を彫ったものだろう。生首がなんとも不気味だ。この地蔵堂には都合4回訪れました。はじめは平日の7:00頃で門は閉まっていて断念。次は日曜日の8:00頃でやはり門が閉まっていてこれも失敗。三回目は日曜日の9:00過ぎに大原町の長徳寺の帰りに寄ってみたら今度は門が開いていてやっと写真を撮ることができました。ただ、この日は快晴で、9:00過ぎとなると日差しがとても強く、順光ならともかく、逆光の場合は大変厳しい状況で写真の出来栄えはあまり満足のいくものではありませんでした。最後は曇りの日曜日に再訪してひととおり撮りなおしました。自宅から自転車で50分程度なので、サイクリングを兼ねてというわけですが結構手間がかかりました。次回に予定している岩槻区は電車を利用するか車で回ることになるのでそこまで丁寧にはできないでしょうから、やり直しのきかない一発勝負のつもりで頑張ります!
2016.01.06
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ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら谷津の北、柏座の石仏を見てみましょう。柏座公民館入口 上尾市柏座2-14-2[地図]上尾駅西口から西へ向かう「市民体育館通り」の柏座二丁目交差点の次の信号交差点を左折すると、すぐ右手に春日神社があり、同じ敷地の北の一角に柏座公民館が立っていた。その入り口右脇に三基の石塔が並んでいる。右 太歳神塔?寛延3(1750)四角い台の上の石祠の正面に仮面のようなものが置かれていた。これはなんだろう?正面奥に銘は確認できない。左側面に造立年月日。右側面上部、右から太歳神 大将軍 ▢▢神。よくわからないのだが「神塔」であることだけは間違いないだろう。下部には右から遷宮導師當村 日乗院現住法印▢▢ 別當當寺現住。江戸時代までは神仏習合であり、この神塔も日乗院住職が関係したものらしい。中央 庚申塔 正徳2(1712)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。野仏らしく白カビが多い。青面金剛の顔は削れていた。像の右脇に「奉供養庚申」左脇に造立年月日。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。その下に全身型の邪鬼。ちょっと見にくいが、頭は向かって左側。邪鬼の下に三猿。その下の部分、右端に春日谷津村 施主とあり十に銘の名前。塔の左側面下部にも十数名の名前。右側面には数名の名前が刻まれていて、合わせて40名近くの講のようだ。左 庚申塔 延享元年(1744)駒型の三猿付き文字庚申塔。白カビが多い。塔の正面 日月雲 梵字「ウン」の下に「青面金剛庚申塔」両脇に造立年月日。下部両脇に二鶏を線刻。塔の下部に三猿。両脇の猿が内を向く構図。いずれも片手使いで残った手を中央に向ける。塔の模擬側面下部に春日谷津村 柏座村。講中二拾七人と刻まれていた。春日神社南墓地 上尾市柏座2-14-10[地図]春日神社の信号交差点から南東に進み、100mほど先の十字路交差点を右折すると、道路右側奥に墓地があり、右手前に小堂が立っていた。小堂の中 奪衣婆像 天和2(1712)丸彫りの堂々たる半跏坐像。背面に造立年月日、願主、結衆四十五人などの銘があるというが一部は確認できるものの写真は撮れなかった。上尾市のHPにある「富士見小周辺歴史マップ」に「しょうつかの婆さん」と紹介されている。春日神社東墓地ブロック塀 上尾市柏座2-6-9向[地図]奪衣婆像のある墓地と逆に、十字路交差点を左折してしばらく進むと、左手の墓地の角のブロック塀の中に石塔が立っていた。庚申塔 享保13(1728)宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の文字庚申塔。塔の正面を二重に彫りくぼめて、外に日月雲、中には梵字「ウン」の下に「青面金剛庚申塔」両脇に造立年月日。右下に講中、左下に敬白。塔の下の台の正面には正面向きに並んで座る素朴な三猿が彫られている。塔の右側面に武蔵國足立郡、左側面に大谷領柏座邑。両側面ともに最下部にひらがな二文字で名前が刻まれていて、左右合わせて十一名、この庚申塔は女人講中によって造立されたものらしい。日乗院南信号交差点角 上尾市柏座3-2-12西[地図]春日神社の近くの信号交差点を渡り、その先の三叉路で右の道を進むと変則的な四つ角の信号交差点があった。右手の広場の隅に石塔が立っている。庚申塔 元禄13(1700)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。三眼忿怒相の青面金剛。頭上にとぐろを巻いた蛇が首を垂れる。像の右脇に「奉造立庚申供養」左脇に造立年月日。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元に全身型の邪鬼。下の三猿よりも小さく貧弱な体型で、足を深く折り曲げ腕の間から正面をにらむ。邪鬼の下に正面向きに肩を並べて座る三猿。その下の部分、右に柏座村 施主とあり、眞龍寺、▢宣坊、樹榮女、続けて六名の名前が刻まれていた。日乗院南西路傍 上尾市柏座3-7-6東[地図]庚申塔のある信号交差点から北へ向かう。150mほど先の十字路交差点を左折、しばらく進むと右手の路地に小堂が立っている。小堂の中、石祠の隣に馬頭観音塔 寛政6(1794)駒型の石塔の正面中央「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。塔の右側面に願主として個人名が刻まれていた。
2026.01.25
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