さっちゃんと9人家族
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夜、Vnの練習をしていたらそっとふすまを開けたToさんが夕刊を差し出しました。今日(11/25)の読売新聞の「こころのページ」に友人が載っていたからです。以前にもこの日記で紹介したことがある多発性硬化症で2000年に亡くなった阿南慈子さんのご主人で阿南孝也さんです。難病になった妻の看病と発病時3歳と1歳だったお子さんの育児、そしてご自分のお仕事と穏やかなその笑顔や態度からはちょっと想像できないぐらいがんばった毎日を何年も続けておられました。私も94年春にカナダから京都に帰って、慈子さんのところに二男Sを連れて訪問したときは、そのとっても大変な時期を少し越えられて、家事はお手伝いさんが入って下さったり、ボランティアの方がきて下さったりして、慈子さんの自宅療養がスムーズになってきていた時だったと思います。そのうち彼女の作った詩やエッセイを本(花シリーズ他)にすることになって、ひっきりなしに口述筆記のために私も含めて友人たちが彼女の家にお邪魔するようになっていきました。その時、みんな慈子さんにばかりに気を取られていたように思います。なんといっても難病になっているのは彼女だからです。全く寝たきりの状態で、寝返りなど到底できない、首から下は全く感覚がなく、動かすこともできない彼女。全く視力はなく、かろうじて小さな声と普通の食べ物を味わってごっくんと呑み込めること、そして彼女の言う「地獄耳」が小さな音を聴き逃すことなく周りの状況を彼女に伝えているのでした。今日の記事の中に「不機嫌になる夫に失望し嘆くのである。体のどの機能を失ったことより、夫が持て余しているのではと感じていたこの時期が最も辛かった」と彼女のエッセイの一部が引用してあるのを読んで、「慈子さん、慈子さん」とみんなが言っていたころのご主人の気持ちを思いました。ご主人は本当に彼女のために普通の人では考えられないほど、毎日毎日精一杯のお世話や看病と子育てをなさっていました。どれだけ彼女のことを愛しておられたか、と思います。本当に誰もができることではない。それでも時にはため息が出る。身体の限界を感じたり、全くやる気がでない日もある。そんなときでも、私がやらなければ・・・、と孝也さんは動かれた。何しろ彼女は夜中に「寒い、」と思っても自分で布団をかけ直すことも、エアコンのスイッチを入れることも、のどが渇いて目が覚めても、自分ではお茶を飲むことすらできないのです。何でもそばにいる彼を起こさなければいけない。よく彼女が言っていました。「もう少し、我慢しよ。もう少し孝也さんを寝かしてあげよ・・・」それでも、とうとう限界がやってきて、起こさなくてはならない。「ごめんね、ごめんね、」と声をかける前から思い続けている彼女。寝ぼけた彼がちょっとついたため息を彼女の地獄耳が察知してしまう。そんなとき、どうしても彼のお荷物になっている自分しか、見つけられないのです。それが彼女にとって最も辛かった。一番よくしてくれる彼に一番感謝して、何か自分が彼を喜ばすことはないかと、いつも明るい心で考えようとしているのに、お荷物になっている自分ばかりが見えてくるみたい・・・。そう彼女が彼に言ったら、どれだけ彼の方もがっかりしたでしょう。何のために僕はこの努力をしているのだろう、って。そういう二人のことを私は十分想像できていたのに、自分(さっちゃん)は忙しいからとか、彼の力になってあげられることが具体的にちょっと分からない、などと自分の中で理屈をつけて「えらいですね」「お身体大丈夫ですか?」とか通り一遍なことしかできていなかったなぁと思う。今なら、きっととりあえずじっくりお話しをすることから始めるだろうに・・・。先日も孝也さんにはばったり出会った。変わらぬ穏やかな笑顔でご挨拶して下さるその姿に、私はいつも清々しい気持ちになるのです。
2008.11.25
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