仏界に遊ぶ

仏界に遊ぶ

PR

カレンダー

プロフィール

Koko Hirosi

Koko Hirosi

カテゴリ

日記

(38)

宗教

(114)

読書

(1)

コメント新着

夢咲案内人 2008 @ Re:狭き道(09/16) ♪ご無沙汰致しております。 ♪師走も半ば…
夢咲案内人 2008 @ Re:狭き道(09/16) ♪ご無沙汰致しております。 ♪平日はなか…
夢咲案内人 2008 @ Re:金剛般若経の言葉「悟りの自覚」(06/30) ♪ご無沙汰致しております。 ♪平日はなか…
夢咲案内人 2008 @ Re:金剛般若経の言葉「悟りの自覚」(06/30) ♪ご無沙汰致しております。 ♪平日はなか…
夢咲案内人 2008 @ Re:金剛般若経の言葉「悟りの自覚」(06/30) ♪お久しぶりです。 毎日冬らしい日が続き…
夢咲案内人 2008 @ Re:金剛般若経の言葉「悟りの自覚」(06/30) ご無沙汰致しております。 平日はなかな…
夢咲案内人 2008 @ Re:金剛般若経の言葉「悟りの自覚」(06/30) ご無沙汰致しております。 平日はなかな…

バックナンバー

2025年11月
2025年10月
2025年09月
2025年08月
2025年07月
2025年06月
2025年05月
2025年04月
2025年03月
2025年02月

フリーページ

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2008年06月29日
XML
テーマ: 精神の世界(125)
カテゴリ: 宗教
前回の「法と非法」に引き続き、世尊がスブーティに向かって偉大な菩薩の心得を説いているところを読む。

『スブーティよ、如来が、この上なく正しい悟り(無上正等覚)であるとして悟ったような法が、何か有るであろうか。如来が教え示したような法が、何か有るであろうか。』

人は未だ悟りの何たるかを知らない頃、即ち今謂うところの真象界というような言葉を聞いても、その意味するところが瞬時に覚れないなど、妄執界から脱する術を殆ど知らない頃には、おそらく仏典や経論を読んでいても、的確に語られた悟りの言葉というものを探し、或いは読み取ろうと努めるものであろう。即ち悟りの境地を直接表した言葉や論理が有ると思うが如き、一種の表象信仰があるということである。それ故、初心の頃に仏典を読むのは苦痛を伴うものにもなる。

しかし書かれている法は、捨て去られる為のものであると気付き始めると、仏典を読み進めれば進めるほど、捨て去られる法と共に、己の心の垢も一緒に洗い落とされることを知り、心楽しく読めるようになるものである。

世尊から、このように問い掛けられたスブーティは、次のように答えている。
『如来がこの上なく正しい悟りであるとして悟られたような如何なる法もありません。如来が教え示されたような如何なる法もありません。何故なら、如来によって悟られたり、教え示されたという法は、捉えられないもの、表現すべきではないものだからです。それは、法でもなく、法でないものでもありません。何となれば、聖者たちは、作られたものでないことによって特徴付けられているからです。』

前回の「法と非法」を正しく理解出来たならば、この言葉に対する説明は無用であろう。即ち表象と真象の如き区別を、意味の違いとして理解するのではなく、界の違いとして理解出来たならば、聖者たちは真象の界に心を留める者という観点を認識することが出来る為、斯かるスブーティの言葉が、ごく自然に、而も当然の如くに理解できるわけである。

『誰かあって、この三千大千世界を七宝で満たし、正覚の如来に布施したとする。さて、その布施者は、それによって、大きな功徳を積み集めたことになるであろうか。』

この世尊の問いに、スブーティは答える。



斯かる言葉の上の矛盾は、二つの界の異質に基づいて生じたものである。即ち表象界を滅して真象界に至ることを、仏に功徳を積むと云い得るが、真象界には本より表象の一切相が無いので、真象界自体には、本より如何なる功徳の痕跡も現れない為、「それは集積ではないと、如来によって説かれている」と語られる。而るに表象界を見れば、大いなる功徳の集積が現れているが故に、これを指して「功徳の集積である」と説かれていることが明白になる。即ち真象界を言語上に表すことを偽と為す理に従うが故に、それを秘し、理解困難な矛盾が表層に現れているのである。

この故に、本来直接的には表象界に持ち来たり得ない仏法の性相を語って、次のように述べられている。

『或る者が、この三千大千世界を七宝で満たし、如来に布施したとする。他方、この法門の中のたとえ四句からなる詩頌一つだけでも、正しく身につけ、他の人々にも詳しく示し、説明したとしよう。この場合、後者こそが、より大きな功徳の集積、はかりしれない無数の功徳の集積を生み出すことになるのである。』

即ち功徳は、真象界に於いては現れずして、表象界に於いてのみ現れるが故に、斯く語られているのだと知られるであろう。

『それは何故かなら、如来の無上の正しい悟りは、実はこの教えから生じるからである。実にこの教えから、諸仏世尊が生まれるからである。故に、仏陀の教法即ち仏法は、実に仏陀の教法ではない、と如来は説くからである。だから仏法と呼ばれる。』

即ち真象界には説くべき法が無い。この故に説かれる法の一切は表象界の内に留まる。されど法に基づいて表象界自体を滅して行者を彼岸に運ぶ。この二界の橋なるが故に、実には仏界の法即ち仏法には非ざれども、その用を取っての故に仏法なりと云われる。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008年06月29日 07時43分07秒
コメントを書く
[宗教] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: