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此の世は無常で苦しみに満ちた世界。縁あって此の世に生まれた人々の行く先には生老病死苦が待ち受けている。それでも日々健気に幸せを求めて頑張っている人々。幸せは手に入っただろうか。このたびアマゾンからKindle版『(死にたくなければ)不死への扉』(山本玄幸)が発売されました。死を超越した心和みにでもなれば善いのですが。
2023年07月25日
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禅宗系の書物を開くと、毎度のように「無」の字が出てきて、而も意味の使われ方に違和感を覚える。例えば『禅の本』の表紙には「無と空の境地に遊ぶ悟りの世界」という文字も添えられている。「空の境地」は解るが、「無の境地」には違和感が残る。「境地が無い」と云いたかったとは思わないが。書を開くと「禅の心」という大きな文字と、その脇に小さな文字で添えられた「あるがままに生き、あるがままに存在する」という解説らしき言葉。まさか「禅者は縁起の激流に流されるままに生きる」と云いたかったのでもあるまいに。更に似たようなページを数枚めくっていると、やはり大きな文字で「生死」とあり、小さな文字の解説らしき散文が添えられている。散文の後半には「生きるときは精一杯に生き、死ぬときは死ねばよい。あるがままに……禅はそう教える」とある。上記の「禅の心」に於ける添え書きと同義である。以上の三点からでは、一点目の「無と空の境地」を、充分には納得することができない。原始仏法の表記法と矛盾するからである。そこで、もっと適切な解説は無いものかと書をめくっていると、『絶対的な「無」こそが、禅の境地』という表現が見付かった。有無の無ではないということだ。それならそれでよいが、冒頭の「無と空の境地」という表現は、三点目の「生きるときは生き、死ぬときは死ねばよい。あるがままに……禅はそう教える」と同様に、有無の表現と関連しつつ一種の混乱を招くので、読み手としても注意深く読んだ方が良いと思うが、どうであろうか。
2023年07月02日
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ハイデガーに「存在と時間」と題する著書が有る。私はまだ殆ど読んでいないが、その書に「世界内存在」という言葉も出てくる。この言葉と書名から思うのは、時間の有る存在なら無常苦空無我の領域であり、世界内存在というのも無常苦空無我の未解脱状態だということだ。聞くところによると「存在と時間」は未完の作だと。未完の作なら読むには及ぶまいが、完成作は是非読んでみたかったものである。(私の「大日への階梯」が超えられているか否かという興味から)
2022年06月23日
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コロナ感染者の増加に伴って「コロナに負けるな!」の文字入りポスターやチラシなどが増えてきた。確かにコロナの猛威には凄まじいものがあり、都道府県単位の感染者数を見ると、連日のように「過去最多」の地域が確認できる。 こんな状況下でも、我等各自によってできる「コロナに負けない」対策はあるのです。釈尊の十大弟子の一人で、智慧第一と称された舎利弗に、次の様な言葉があります。 『我は死を喜ばず、生を喜ばず。二つの極端のどちらによっても、これは死のみである。この生涯の先にも後にも不死は無い。道を実践せよ、死するなかれ。辺境にある城壁に囲まれた都市が、内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過ごすな。時を空しく過ごした人々は、地獄に堕ちて苦しみ悩む。』 さすが、釈尊から直に学んで励んでいた人物の修行精神には、厳しいものがある。しかも自己を生死の滅界から守らんと見つめる先には、大乗仏教が説く不生不死のニルヴァーナをも想起させるものがあって、実に頼もしい限りではなかろうか。 コロナには感染しないのが一番良い。しかし、もし感染してしまっても、この不死の境地に安住してさえいれば、死すべき者から免れるのだから、これこそ「コロナに負けない」最善の心の準備と言えるのではあるまいか。
2021年08月21日
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しばらくぶりの日記になりましたが、この度、語録『要諦語』なる書物を電子出版しましたので、先ずはお知らせ致します。「要諦語って何?」となら、本書の「まえがき」からの引用で説明に換えましょうか。曰く『そもそも人が口を開いて言葉を発するときには、それ相応の意味が有るものです。数ある仏教経典もまた同じで、各々の経文にも、それ相応の説くべき眼目が盛り込まれています。本書は、仏教経典の眼目を要諦語として短文にまとめ、簡単な解説を加えたものです。従って書名の「要諦語」には、「種々悟りの境地と、その道法などの確認や考察のヒントになる言葉」という意味を持たせたような内容が目指されています。』電子出版としては、まだ三冊目だけど、内容には自信があります。是非、是非、是非とも、お読み頂きたいと思います。販売はアマゾンのみです。
2021年06月18日
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【『般若心経で彼岸に渡ろう』改訂版のお知らせ】 このほど、去る十一月二十日の日記で紹介した電子書籍『般若心経で彼岸に渡ろう』の改訂版(amazon発売)が発行されましたので、お知らせします。 改訂版にすることによって、言葉のバラツキが無くなり、読み取り易く為っていますから、この書を通して悟りの境地に近付くことも、より容易く為っているものと自負しています。 初版本をご購読頂いた方にも、是非この改訂版に乗り換えて、より読み取り易くなった文面をお楽しみ頂きたいと思います。
2020年12月23日
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【二つの解脱法】 前記事に『般若心経で彼岸に渡ろう』(Kindle版)のことを書きましたが、般若心経が説いているのは「解脱法」ですね。以前の著書『悟りの杖』にも「解脱法」は説きました。しかしこの二つの解脱法は、少し異なっています。『悟りの杖』が釈迦仏法(原始仏教)の解脱法に拠ったのに対し、『般若心経で彼岸に渡ろう』は大乗仏教に属する空の理念に拠ったものでした。 解脱法が二つあるということは、「解脱の境地が二つあるということ?」と思うかもしれませんが、至る境地は同じなのです。釈迦仏法と般若の到彼岸法は、表面的には異なって見えますが、その内実は同一だからです。共に五薀を解脱する法だからです。同じものを解脱しているのなら、究極の解脱先に異なりのあろうはずがない。 で、「解脱先は?」となら金剛界の仏心。この仏心は、拙著『如来意識』に説かれている三意識中の「如来意識」に重なるもの。という次第で、仏法修行の要は、やはり「解脱」ということになるでしょう。
2020年11月28日
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般若心経と言えば、即座に「色即是空、空即是色」などの言葉を思い浮かべる人も多いのではなかろうか。しかしこの言葉の意味は人それぞれに異なっている場合も少なくないだろう。 どこが異なっているのかと言えば、空の読み取り方だ。しかも般若心経を読み解く鍵は、そこにある。空を如何に読むか。 しかし般若心経はよく読まれている経文だから、勝れた解説書も多くて、空の読み方も知れ渡っていても不思議じゃない。とまあ、読書量の少ない人間としては、思いたくもなる。 もし、そうであれば、いまさら般若心経の解読法を書く必要は無いけれど、やはり自分持っている解読法も公開すべく、『般若心経で彼岸に渡ろう』と題する電子書籍をアマゾンから発行することになった。 悟りを開く本なんていうものは、読むのも最高難度に近いものなので、読者も限られていると思うが、価格はタダに近いものなので、好奇心で「読んでやってもいいよ」という御仁は、是非読んでみてくださいな。
2020年11月20日
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【なぜ《解脱!》なのか】法句経に曰く「わが愚を悲しむ人あり。この人すでに愚者にあらず。自らを知らずして、賢しと称するは愚中の愚なり」と。この言葉の真意、「分かる分かる」と思っても、いざ解説しようとすると、ちょっと手こずりそうです。子どもの頃、学校で受けたテストの点の低さに、思わす「なんてボクは頭が悪いんだ」と嘆いたとき、「われ、わが愚を悲しめり、よってわれ、すでに愚者にあらず」なんて。違う違う、そんな意味じゃないですね。それは分かっている、としても、では「これが最上の意味だ」というような解説までは求める気にもならないだろうか。この法句の前半と後半を結びつけると、「自らを知って、わが愚を悲しむ人あれば、この人すでに愚者にあらず」という法句になる。そうすると、この人は「わが愚を悲しむ」のであるから、自ずと己を解脱する道に入ることになるだろう。そうするとこの人、次の法句を実践することになる。即ち「戦場において、数千の敵に勝つよりも、自己に勝つものこそ、最上の戦士なり」と。斯くして《解脱者》こそ、最上の戦士なのである。解脱に特化した書『悟りの杖』を見て、最上の戦士に成り、更に解脱後の悟りを円満化する書『如来意識』を実践して、如来と共に歩む生き方を身に付け、この世を満足の内に生きようではありませんか。
2020年10月07日
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【如来意識は至福の意識】コロナ禍によって先行きに陰りがある現状の世相の中で、電子書籍『如来意識』の意義とは、読者諸氏にとって、どんなものになっているのだろうか。人生は無常。命は短く儚い。束の間の夢の如きこの世を生きるわたしたち人間にとって、苦しみや幸せは人生の道しるべにもなろう。釈迦もまた言う、「わたしだって幸せになりたいのだ」と。わたしだって同じだ。人は誰でもそうではなかろうか。だから心の中で叫んでいるのではないだろうか。「わたしだって幸せになりたいのだ」と。しかしまた思い知らされる。「人生は無常。命は短く儚い。束の間の夢の如き人生なら、苦しみと言うも幸せと言うも、共に空しいものではないか」とも。それ故にこそ、如来意識は求めるべくして、その至福の境地は命の祝福ともなるのだ。この至福の境地は無常なものではない。なぜならこの境地は、この世の苦楽の次元を超え出た領域で開かれるものだからである。斯くしてこの世の空しき無常感や、短く儚い生命感は消え失せて、恰も天地創造以前の大神の命と同化したかのような至福感に包まれた気分は、この境地もまた去り行くものとはとても思えない、満足感に満ちたものなのだ。それ故、思わずして即座に書のタイトルを『如来意識』としてしまったのである。縁有れば、電子著書『如来意識』で、著者の至福感と同じものを体験してもらえると、同様の至福体験者が増え続け、喜ばしい限りである。
2020年10月06日
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『悟りの杖』と『如来意識』の接点『悟りの杖』は解脱に特化したような作品だけど、これは仏教を長年学んでいても解脱が全く出来ていない人が極めて多いことを知った、ということが縁になって企画されたからでもあります。これに対して『如来意識』は、『悟りの杖』で説いた解脱行が完了した後、悟りの円満化を図るための書という位置づけになります。『悟りの杖』は解脱完了までを論説しています。解脱者の心位は密教に於ける金剛界に達した位置であって、故にそれ以前の法門としての華厳宗や天台宗の教理などはよく分かる境地ということになります。天台宗と言えば「法華経」ですが、解脱完了者は「一心三観」空仮中の三諦と三身と三如是などにもよく通じる心位なので、ちょっとしたヒント(気付き)さえあれば、法華経修了にも苦労することはないでしょう。『如来意識』は解脱完了の心位を出発点に置いたような論説から始まると思えばよいでしょう。釈迦が解脱を説いた経文は「我が迷妄の生涯は既に終わり、梵行既に成って、再び迷いの生涯に戻ることはない」という言葉で閉じているが、この梵行というのはヴェーダが伝える聖行に通じるものなので、ウパニシャッドが説く梵即ちブラフマン及びアートマンの確認から出発して、大日如来に至る聖なる心位意識を立脚地として、ブッダとしての悟りの境地を実践的に身に付ける法を説いた、史上初かも知れない希少価値も望める電子書籍(Amazon発売)です。
2020年10月01日
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【『如来意識』を電子出版しました】 ここしばらくブログ記事の書き込みも滞っていましたが、その間に新作『如来意識』を書きあげ、なんとか電子書籍として出版することはできました。出版と言っても電子書籍のみで、紙本はありません。それでもよろしければ、どうぞ読んでやってください。価格は440円で、アマゾンからご購入いただけます。「如来意識」で検索すれば、山本玄幸の作者名で出てくると思います。 内容には自信があっても、ものが仏教本ですから、既に悟りが十全している方にもお役に立つかということになると、何とも答えようがないのですが、「ほう、こういう説き方もあるのか」という辺りを楽しんで頂ければ嬉しく思います。もし「面白い」と思われましたら、レビューをよろしくお願い申し上げます。
2020年09月28日
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東京都のコロナ感染者数が五日連続の100人超えというニュース。第二波が懸念される中、医療従事者の三割近くがうつ状態という現状も伝えられている。この現状を伝える一例として、アメリカの医療従事者の悲痛な声が、TVで放映された。コロナ重症患者の治療に当たりながらも、自分への感染を恐れ、精神的パニック状態に陥って、「もう、以前の自分に戻ることはできない」と述べ、更に「もし第二波が来たら、もう自分を支えきることすら出来ないだろう」とも語る。伝えるところによると、これは戦場の兵士にもよく起こる状態であると。それは分かりすぎるほど能く分かる理だが、これは、人間が「己に打ち克つ」ことの難しさを如実に伝える話なのだ。特に様々な病症の患者に接しなくてはならない医療従事者が、感染したら自分の生命にも危険が及ぶという今回の場合を考えれば、戦場の兵士の場合と、その条件が似ている。この二者に共通して要求されるのは、精神問題として最大級の困難さを伴うところの、「己に打ち克つ」という解脱修行なのだ。仏教を学んだ人は多いと思うが、とことん解脱ができた人というものには、なかなか出会い難いのではなかろうか。再び拙著『悟りの杖』(山本玄幸)の内容紹介で恐縮だが、この書は唯ひたすら「解脱」を説いていて、その解脱は「完全解脱」だから、これを成就できれば、釈迦如来じゃないけれど、「わたしには怖いものなど何一つとして無いのだ」と、釈迦如来と同じような言葉が、自ずと口から出そうになること請け合いです。とは云うものの「完全解脱」と聞くと、何やら難しそうと思うでしょうか。勿論「易しい」とは云いませんが、仏が「一切衆生悉有仏性」(すべての衆生には悟りの性質がある)と説いているのです。「悟れない人はいない」と信じて励みましょう。と、ちょっと付加記事も要したけれど、うつ状態に陥りそうな医療従事者の方や、戦場の兵士の方々にも、「己に打ち克つ」完全解脱の成就を願って止まないのです。勿論完全解脱の功徳は、自身の死に打ち克つだけのことには留まらず、あらゆる煩悩の誘惑だって、思いのままに打ち消して、日々是好日の幸せ生活を約束してくれたりもするのです。
2020年07月07日
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【無我の壁を破る】無我というのは仏教用語の一つですが、これはどういう意味かと云うと、此の世というものは常に移り変わり、人々もまた生まれたからには、やがて去って逝かねばなりません。それでも人は、此の世を懸命に生きて働き、老いや病などで世を去って逝くのです。その一生は身体と共に有ります。若くて伸び盛りの頃には、色々と将来の夢を膨らませます。しかし、その夢は身体的能力によって制限され、どんな夢でも叶うというものではありません。また大きな仮我をすることも有るかも知れません。回復困難な病を発症するかも知れません。そのような突発的事故によって、人生行路の変更を余儀なくされる場合もあります。それは悲しく、また苦しいことです。このように人の心は常々、身体的条件に左右されますが、身体的条件はまた気象状況や交通事情などの外的条件にも影響を受けて、定まるところがありません。つまり物事の主導権は、心よりも身体的条件に移っていて、心は身体的条件に踊らされている影のような格好です。このような因果の流れを、仏教では「色は無常、無常なら苦、苦なら無我」と説いています。このような因果の流れから知られる「無我」、これが私たちの心の現状であれば、私たち、即ち心は、身体に縛られて自由の効かない状態だということが分かります。この状態の心は、身体が病むと共に病み、老いると共に老い、死ぬと共に死ぬということです。そこで仏教では、この生死に翻弄される心を、不死の境地へと救い上げる法を説いたのです。その法に曰く、「無我を殺せば真我ば得られる」と。「真我」とは「如来」のことです。この「無我を殺して真我を得る」というのは、解脱の法です。解脱が出来れば、あなたも如来です。この「解脱」に特化して法を説いているのが、【『悟りの杖』(山本玄幸)】です。是非読んでみてください、時間を掛けて「ゆっくり」と。正しく云うと、この書は「読む」本ではなく「実践」する本です。一度や二度では、なかなか解脱はできません。でも解脱できれば、あなたも釈迦如来と同格です。こういう説き方をした書は、他には無いと思いますから、「解脱できれば儲けもの」と思って、懸けてみませんか。解脱が成ったときには、「我は金剛心に成れり」と実感して、世に怖いものが無くなります。何たって「不死の境地」ですから。
2020年07月06日
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【天国の楽園】思えば悟りの旅路というものは、私には長かった。それは私が怠け者で、生活に埋没している時間ばかりが長かったということだ。それでも私には幸運があった。或る日、ふと「天国と地獄」というものが有るとすれば、それは何処に、どういうものとして有るのだろうか、などと、あれこれ考えていると、身体全体を揺り動かす衝撃的な霊感に包まれ、その霊体に導かれるままに身を任せていたら、天国へと生まれ変わった。暇潰しに哲学書を少し囓る程度だった私が、宗教に関心を持ったのは、それからである。その後、聖書を読み、また仏教の経典を読み始めてから、ボチボチと悟りの道を歩き始めた次第であるが、それを話していると、きりが無いので、それはやめて、本日は「天国の楽園」で怠けに怠けていた日々のことを話すとしましょう。天国と云えば永遠の命の国とも云われているように、第一に死の怖れから解放されているという楽があります。例えば「もし道路を歩いていて、車に撥ねられて身体が死んでも、俺は死なないんだ」という具合ですね。そして普段の心境も、自分の立地点は現実界を超越していて、現実世界を足下の位置に見下ろすような感覚だから、世間の人々が、此の世の制約に閉じ込められた不自由な人々に見えて、ついつい心の中で「皆さん、世間の柵に縛られた縄を解いて、思いのままに、自分が望んでいる夢に向かって、自由に生きていってもよいのですよ」と呼びかけていた記憶も鮮明に残っています。勿論自分自身の心も、天国に在って以来、そのように変わっていました。「以前は世間の柵のようなものに縛られて、思いのままには生きられなかったけれど、神霊の導きを得ている間に、世間知の中に真理は無いと悟って、此の世を捨てた縁で天国という真理の国に生まれることが出来、本気で願う夢があるならば、実践すれば何でも叶う、という信念を持って、此の世は生き抜くべきだ」という心境で、心が満たされていたのを思い出します。私にとって、天国の楽園に在住していた期間は、毎日が、そのように充実していたのですが、私の場合、その充実は、芸術創作の道だったので、悟りの修行に関しては、余り進展はありませんでした。ということで、人生の夢を持ちながらも、世間体を思って躊躇している方が居られれば、この「天国の楽園」という精神世界のことも、参考にして頂けたらとも思っています。
2020年06月29日
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「心が落ち着きません」と云った慧可に「落ち着かないその心を出してみなさい」と云った達磨。「その心が見付かりません」と答えた慧可に「心を落ち着かせてやった」と達磨。この遣り取りから、達磨の境地は見えてくる。ではこの時、慧可は達磨の境地に達しただろうか。悟らなかったとは思えないが。(とはいえ、この逸話は事実ではないようだが)一休禅師は、死に近い頃の自画像に「借用申す昨月昨日、返済申す今月今日、借り置きし五つのものを四つ返し、本来空に今ぞもとづく」と賛した。この賛もまた、達磨の境地を彷彿とさせる。更に一休が詠んだ次の短歌によっても明らかである。「花を見よ色香も共に散り果てゝ心無きだに春は来にけり」この無とこの空、只の無と空ではないぞと、読み取るが故に。
2020年06月18日
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ちょっとした弾みで思い出したキルケゴールの「あれか、これか」。十代の終わり頃からニーチェやヤスパースなどと同時に読んでいたキルケゴール、今となっては「懐かしい」の一語に尽きる。その「あれか、これか」の最初のところには、「結婚したまえ、君はそれを悔いるだろう。結婚しないでいたまえ、やっぱり君は悔いるだろう。結婚しても、しないでも、何れにしても君は悔いるのだ」というような例を幾つか並べている。ここでキルケゴールが云わんとしている事柄を、別の形に買い換えてみると、「昨日私は〇〇へ出掛けて、〇〇して遊んだ」と人が語るとき、その「出掛けて遊んだ私」は「本当の私」ではないという話にもなる。ならばその人が「〇〇へ出掛けるのを止めて、出掛けなかった」とすればどうだろうか。勿論「出掛けなかった私」も「本当の私ではない」という話だ。これをキルケゴール風に云えば「その人は〇〇へ出掛けても、出掛けなくても、それを悔いるだろう」という表現になる。勿論「悔いるか悔いないか」という話になれば、悔いると決まったものではないけれど、隠された意味は、やはり「本当の自分か、そうではないか」という話なのである。それ故にキルケゴールは続けて曰く、「私がスピノザのように、すべてを永遠の相と観るのは、或る特殊の瞬間だけではない。むしろ私こそは常に永遠の相である。多くの者は一を他に結び付けんとするとき、即ち此の矛盾を調和せんとしたとき、自分もやっぱり、それであると思う。しかしこれは誤解である。何故ならば、真の永遠の相は「あれか、これか」の後ろに従うものではなく、その前に行くものであるから。彼らの永遠の相は、だからまた苦痛な時間の連続である。というのは、それは二重の悔いに焼き尽くされるからである、云々」と。これで示さんとする意味内容も尽くされていると思う。キルケゴールは時々、ヘーゲル批判をするのだが、この文章の中にも、その形跡が見て取れます。弁証法批判です。ここでは、弁証法で解決しようとすれば、二重の悔いに焼き尽くされると云っているのです。ならばキルケゴールの解決策はどういうものか、というのが、この文章で明かされているように、宗教で開顕される神性覚(真我とか如来蔵などとも云われています)です。これが「本当の自分」だからです。キリスト教だろうと、仏教だろうと、或いは古代ギリシャ時代から延々と続く哲学者たちにとってだろうと、人間に普遍的で只一つの「本当の自分」と云えば、ここに示唆されている「本当の自分」以外では有り得ないのだと、そう確信してみると、ヘーゲルの論書を回想しつつ、ヘーゲルが弁証法を駆使して到達を目論んだ「絶対精神」って、「ありゃ一体何だ」と云わんばかりの有頂天気分を生じ、痛快な思いに浸ったことまでが、今またこうして思い出されるのです。
2020年06月15日
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人間として此の世に生まれてきたからには、死から逃れることができない。これは此の世の定めである。ならば人間という存在は、ハイデガーも云うように「人間は死に向かって生きている存在」という見解を以て決まりだろうか。もし「決まり」であるならば、人間の生き方はどのようになるのだろうか。やはり実存思想に倣って「死によって限定された時間枠の中で、一度きりの掛け替えのない人生を、精一杯生きよう」という考えに落ち着くのだろうか。いや、選択肢はまだある。仏道を学べば、一切の衆生の苦しみは、身体有るが故である、という認識が得られよう。これは「身体が無ければ、心に苦しみは生じない」ということだ。そこで心が身体を放下する。つまり解脱をするのである。そんなことが可能なのか、と思うかもしれないが、やってみると意外と出来るものだ。勿論解脱できたという証しも自認できる。成就の時には、忽然と解脱の金剛身が現れたことも、心眼で確認できるからである。解脱のコツは、人それぞれの悟りの進展具合によって幾つかあるけれど、自分に似合った方法を見付けるとよいでしょう。こうして成就した解脱身は、身体の生死の影響を受けない金剛身なので、そのまま「死魔に打ち勝った法身」とも云えるのです。また、この開かれた法身を基体として、森羅万象を尽く成仏に引き入れることも可能になります。もしそういうことになると、成仏者の心象の中では、森羅万象も尽く成仏するので、死魔も戦う相手がどこにも居なくなり、やむなく空中消滅という結果にもなりそうです。
2020年06月13日
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禅の本質を表す言葉の一つとされている「不立文字」。仮にこの四文字の意味を推考していると、「文字を立てず」は即ち「文字に依らず」であり、文字に依らないということは、取りも直さず「音声にも依らない」ことを意味するのだから、そのまま「何の意味にも依らず」であり、自ずから「無語の故に無音声」にして「能動も無く受動も無し」という「無の境地」に至り着くのではなかろうか。では、ここで到達されたかに見える「無の境地」は、正当な覚りの境地だろうか、と検討してみると、確かに表面的には「法身は説法せず」と説かれている「如来の定の辺」に等しいかのようにも見える。しかしこの「無の境地」は、最初に提示された「不立文字」という四文字、即ち「文字に依存して考えられた境地」であって「文字から縁起した空想の境地」であるから、当然ながら行者の心には解脱も無いのであって、正当な悟りの境地とは無縁だということも分かる。従って、この理が分かれば、単に無念無想の状態を自身で工夫したとしても、それで覚りの境地を体得したことにはならないということも分かってくるだろうから、それと同時に、禅が説く「不立文字」の本来の意味というか、秘められた仏心開悟の瞬間というものにも、少しは近付くことができるのではないだろうか。
2020年06月08日
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今、世界規模でのコロナ禍の蔓延に、人々は苦しめられています。緊急事態宣言で人民の外出自粛を要請すると、蔓延も少し治まるが、経済活動も悪化する。そこで緊急事態宣言を解除して経済活動を取り戻そうとすると、コロナ禍もまた復活する。これではまるで世界中がコロナウイルス相手に「だるまさんが転んだ」遊びを始めたようなもので、こんなことを繰り返していても埒が明かない。このようにコロナ禍を観察していると、一枚の人生の縮図を見る思いがする。人は此の世に生まれてきた時点で既に、将来の死は避けられない宿命を背負わされている。此の世に生を受けて、死なない人は誰もいないということですね。従って「生者は常に死魔を伴って生きている」と。今回のコロナ禍もまた、自由な生活活動を脅かして蔓延する。これは世界規模での死活問題に繋がりますから、生を蝕み、病苦を齎し、死苦で脅かして、まるで人々の生存を終始脅迫している死魔との縁とも同じように、コロナ禍もまた、彼の世に潜んでいた死魔が、突如現実世界に飛び出して来たかのように、人々の自由な生存活動の現場を脅かしている死魔の姿としても、見えてくるのです。そういうことであれば、死魔を解脱する要領で、予めコロナからの解脱も決めてから、心置きなくコロナ対策に取り組むと致しましょう。
2020年05月31日
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拙著「悟りの杖」を読んだ近在の知人からの、幾つかの質問に答えた経験に因み、このテーマで記事を書いています。それ故、この記事に関する質問などを頂けると、今後の参考にもなりますので、有り難く思います。今回は「悟りの杖」を読んだ方から、「まったく歯が立たない」という批判を頂いた件について、少しばかり述べてみたいと思います。先ずこの書が目指した内容について語りますと、「解脱の実践技を易しく説く」ということにありました。したがって「まったく歯が立たない」と評されれば、心も痛みますが、それはその方の理解力の問題ではなく、単に仏教経典の類いに接した経験が殆ど無かったから、ということでしょう。誰だって始めて目にする仏教用語を、辞書も引かずに妥当な意味で読み取ることは難しいからです。しかもこの書は、「悟りを得る実践技を易しく説く」ものであって、「仏語の意味を説いて知識を与える」という一般的な学術書には属しないので、そういう書物だと思って読むなら、まったく当て外れになって、「えっ? この書、いったい何を学べるの?」ということにも成りかねないからです。そこで、この書が「悟りを得る実践技を易しく説く」ために用いた仏語とは、どういうものかということを、簡単にお伝えしましょう。この書で説く「悟り」は「解脱」に特化されています。解脱こそ悟りの要であり、解脱が無ければ悟りも無に等しいようなものだからです。解脱は普通「心解脱」と「慧解脱」に分けて説かれています。この書で説くのは「心解脱」です。慧解脱よりも先に体得すべきものだと考えるからであり、解脱後に「よしっ! 解脱したぞ! これで煩悩の繋縛を解き放って無畏自在に成ったのだ! 常楽我浄に達したのだ!」という強い達成感が得られるのも、この解脱法であり、慧解脱の前に習得すべき解脱法だと考えるからです。勿論「心解脱」を成就すれば、解脱身が見えるようになるので、少し瞑想のコツを覚えれば、程なく「慧解脱」も身に付けることができます。そうすれば真言密教で説く金剛界解脱輪をも成就して、最高の悟りに生きることも夢ではないのです。という次第で、「悟りを得て仏に成りたい」という読者諸氏の夢を叶えられるような仏教書の作成を夢見つつ、拙著「悟りの杖」は執筆されたのです。常楽我浄への指針 悟りの杖 / 山本玄幸 【本】悟りの杖 常楽我浄への指針【電子書籍】[ 山本玄幸 ]
2020年05月30日
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拙著「悟りの杖」を読んだ近在の知人からの、幾つかの質問に答えた経験に因み、このテーマで記事を書いています。それ故、この記事をお読みの方からの質問なども頂けると、有り難く思います。今回は「なぜ、南無阿弥陀仏と唱えると、阿弥陀仏の来迎があるのですか」という問いについての答え方を考えてみましょう。問うている人は、当然その答えを知らないのですが、回答者には正解を知っている者もいるかも知れません。もし正解を知らないのに答えた場合は、間違った答えを言ったことになります。そこで、質問者はなぜこのような問いを発したのかと、考察の対象を転換してみます。経典には「是より西方十万億の仏土を過ぎて世界あり。名付けて極楽と云う。其の土に阿弥陀仏居まして、現に説法したまえり」とあり、更に「阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を持すること若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心乱れずば、その人いのち終わる時に臨みて、阿弥陀仏もろもろの聖衆と倶に、現に其の前に在らします」とある。ということは、質問者は是を疑っていることになる。勿論それも無理は無い。なぜと云って、「阿弥陀仏は質問者から十万億の仏土を過ぎた所の極楽世界に居るのだから、数メートル先までしか届きそうもない念仏を、遠く離れた阿弥陀仏が聞き取ってくれるとも思えない」と。また更には「念仏者は世界に私一人だけではない。大勢の念仏者の所へ、一時に行くことなど、どうしてできるだろうか」とも。もしここで或る回答者が、「阿弥陀仏は一人だけではなく、念仏している衆生の数だけ居るのだ」と答えたとしたらどうだろう。すると質問者は、「それなら阿弥陀仏は、私たち一人ひとりの身体の中にも居るということだよね」などと考え、念仏に懸ける願力を失うかもしれない。何故なら「自分が阿弥陀を宿しているのなら、それを失う心配もないのだから、念仏の要もないのではなかろうか」などという思いも生じるだろうからである。なので、こういう回答は、或いは幾分かの正しさは含まれている可能性は捨てがたくても、決して信者の為になるものではないとも思えるので、こういう回答は極力避けるべきだと思われる。それなら、一体どのように答えたらよいのだろうかということになるが、やはり「経典に説かれているままに、素直に信じていれば善いのではないですか」と、こう答えるのが最善かも知れません。経典の言葉というものは、それが事実と異なる説法であったとしても、信者の為には、最も有意義な構造に組み立てられた方便である場合が、実に度々見出されて、仏の慈悲の深さに感嘆させられるものだからである。
2020年05月29日
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拙著「悟りの杖」を読んだ近在の知人からの、幾つかの質問に答えた経験に因み、より分かり易く書く技術を身に付けたいとの思いもあって、このテーマで記事を書くことを思い立ちました。それ故、この種の記事をお読みの方からの質問なども頂けると、有り難く思います。上記「悟りの杖」の読者からの質問の一つに、「極楽浄土は死後の世界と云う。死んだ者には、そこが極楽浄土であっても、そうでは無くても、何も分からないのだから、極楽往生を願うことからして意味がないのでは?」というものがありました。ご尤もな質問だとは思うけれど、これを分かり易く説明するのは難しい。極楽往生体験者にだって、往生体験の直前までは、想像もつかなかった不思議な問題だからです。それはどういうことかというと、新約聖書の福音書で、イエスが「わたしの名のために命を捨てる者は、死んでも死なず、却って永遠の命を得る」と語っているのと同様のことが起こるからです。この故に、極楽往生する者は、死んではおらず、死後瞬時の早さで極楽浄土へ生まれ出ているのだと説明しておきましょうか。
2020年05月27日
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前日記の冒頭の言葉「仏教を学ぶ者は多いが、彼岸へと解脱して仏陀に至る者は極めて少なく、多くは生死の此岸の岸辺に沿って、只々空しく走り回るだけである。」は、釈尊の経説をほぼ復唱したようなものですが、「彼岸へ至るのは、そんなに難しいのか」と問われたならば、何と答えたらよいだろうか。思うに多くの仏教学者は、膨大な読書量があり、知識の量もまた極めて広範囲に渉っているのではないかと思われている。勿論それは間違いではないだろう。しかし、彼岸へと解脱した心が堅持していなくてはならない知識はと問われたら、「何もない」と答えたくなるだろう。これもまた間違いではないからだ。では、この「何もない」という言葉には、どういう経緯が含まれているのかと問われたなら、「無限に縁起する一切法との繋縛を断ち切っている」と答えるのが適切だろう。細かいことを云えば、この他にも要点はあるけれど、ここまで語れば、悟りの心の大凡は伝わることと思われる。そうすると悟りの心の中身は「何もない」と云えるほどに超単純でありながら、悟りに至る道は、「一切法を解脱する」という膨大な中身を含んでいることが認識されるのですね。この故に、釈尊の言葉「仏教を学ぶ者は多いが、彼岸へと解脱して仏陀に至る者は極めて少なく、多くは生死の此岸の岸辺に沿って、只々空しく走り回るだけである。」が、仏陀に至る道の険しさを、有りの儘に伝えるものだということも、納得できるのではないでしょうか。
2020年05月26日
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仏教を学ぶ者は多いが、彼岸へと解脱して仏陀に至る者は極めて少なく、多くは生死の此岸の岸辺に沿って、只々空しく走り回るだけである。そこに私の研究成果の出番もあろうか。原始仏典から密教経典までを消化した仏教のエキスを、忙しい現代人向けに、易しく簡素化したものが出来上がったからである。しかし、この新しい仏道の修法を、何時、どこで、どのような方法で、欲する人の手元に届けたらよいのだろうか。公開が有効に役立つ適切な場を見付けることが難しい。心の中に魔の声らしきものあり、「止めておけ、通じる相手なんか居やしない」と。この声が、余りにもリアルに心に響く。
2020年05月25日
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人は何の為に仏教を学んでいるのでしょうか。理想を云えば、悟って仏陀と等しく成るためではないでしょうか、できることならと。もし、そうなら、悟りへの道を確りと着実に歩む必要があるのではないでしょうか。またそれは、遠くて険しい道でもありますが、何はともあれ、先ずは仏道の入り口から確認してみましょうか。釈尊が語り残してくれた説法の原形に最も近いと云われている原始仏典の漢訳に、大蔵経第二巻に収められている『雑阿含経』がありますが、その全五巻千三百六十二経の冒頭を飾る第一経には、次のように説かれています。『当に色は無常であると観なさい。このように観るのが正観です。正観すれば厭い離れる心が生じます。厭い離れれば貪る喜びが尽きます。貪る喜びが尽きることを心解脱が成ったと云います。』これは五薀の中の色についての解脱を説いた箇所ですが、とても明快に説かれていて、解脱も簡単にできそうですね。もしそう思ったら、即座に解脱を試みるのもよいでしょう。上手く解脱できなければ、どこかに認識不足のところがあると思って、学び直せばよいのですから。ところで五薀つまり色と受想行識というのは、私たち人間の身心を構成しているパーツを仮に五つに分類したものと理解しておけばよいのですが、この場合の色というのは身と心に分けた身、つまり人間の物体部を指しています。この物体部である色もまた、原始仏教時代には地水火風という四大にパーツ分けされていましたが、この経文では触れられていません。そこでこの経文では未解説の受想行識からの解脱を、続けて次のように説いています。『色についてと同じように、受想行識についても無常であると観なさい。このように観るのが正観です。正観すれば厭い離れる心が生じます。厭い離れれば貪る喜びが尽きます。貪る喜びが尽きることを心解脱が成ったと云います。』ここで受想行識というのは、色が肉体的要素であったのに対し、心的要素を指す名称です。概説すれば、受というのは感官的要素。想というのは表象作用。行というのは得られた表象に基づいて行う是非分別などの能動作用。識というのは意識であり、理性的営みなどが働く段階をも含む名称ということになるでしょう。この部分も、やはり前段同様にシンプルな説き方ですが、勿論説かれている通りに実践できれば、文句なく心解脱は成るわけですね。そして心解脱が成った者は、経文の最後を締め括る次の経文を、自心に確証するとよいでしょう。『心解脱の成った者が、もし自証を欲するなら、能く自証することができる。即ち、我が生已に尽き、梵行已に立って、所作已に成し終え、自ら再び此の世に生を受けずと知る、と。』「我が生已に尽き」というのは、此の世に繋縛された人生は既に終えたという意味ですから、以下は「煩悩に煩わされた迷いの人生を解脱したので、彼の世の仏界、即ち永楽の涅槃の境地に住して、再び迷いの此の世に戻って輪廻することもないのです」という意味になりますね。このように経文では単純明快に説かれているからといって、よほど機根に恵まれていなければ、仏道初心者がいきなりこの経文を見ただけで、解脱が成就するというものでもないので、幾つもの経文を、何度も何度も繰り返し学び直し、読み直しつつ、実践を繰り返す必要があるのではないかと思います。
2020年05月24日
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今般のコロナ禍に因んで、宗教が治病に関わる事柄についても、経典の言葉などを参照しつつ考察してみたいと思います。というのも、ふと聖書にある、イエスによって為された奇跡的治病の話を思い出したからです。記憶を頼りに仏典を開いていると、法句譬喩経の中から、重病で床に就いた一般庶民の一人を、お釈迦様が見舞ったときの話が目に留まりました。その時お釈迦様は、「身体の悪寒や熱気は医薬を用いて治し、心の治癒は仏の教えや戒めを保って善処しなければならない」と諭しています。これは私たち現代人にとっても、ほぼ違和感のない言い分に聞こえるのではないでしょうか。しかし「悪寒や熱気は医薬を用い」と云っても、お釈迦様の時代には、この度のコロナ禍のような疾病に効力のある医薬の調達はできなかっただろうし、大勢の感染者や死者が出たりして、大変な騒ぎになったかもしれません。このように適切な医薬が無かった疾病と云えば、例えば眼病で失明した人に視力を取り戻させる治病だとか、難聴の人に聴力を取り戻させる治病等々と、イエスによって為された奇跡的治病に類似した問題に対しても同様ですが、こういう難病に対しても、我が国では宗教的対応策の足跡も見付かります。一つには密教でお馴染みの加持祈祷に類するもの。或いは神社でも発行されている「無病息災」や「当病平癒」などの御札による心の癒し。或いは寺院の境内などで見掛ける「なで地蔵」のような尊像にまつわる霊験の類。このようなものもまた、やはり生薬類での治癒が望み難い難病や不具合の治癒を願った対処法であったと云えるでしょう。ここでよく問題になるのは、このような対処法が、願いを叶える効力のない、単なる迷信事に過ぎないのではないかという指摘ですが、これは身体と心の相互作用のことを考えると、一概に迷信事として片付けられない問題のようにも思われます。ことわざにも「病は気から」と云いますが、「自分の病気は重い」と思っていると、ますます気力も萎えて食欲も落ち、体力も衰える一方ですが、何らかの信頼できる助言を得るなどして、「自分の病気は軽くて、すぐ治る」と思ったときには、途端に気分が良くなったというような経験は、一度と云わず二度三度と、誰にでもあるのではないでしょうか。このような快復現象は、単なる思い込みだけではなく、現実に身体の快復力が増進しているのだという話も聴いたことがあります。何れにしても、暗い気分に落ち込んだままでいるよりは、遙かに良さそうです。この「病は気から」に類する心理作用を有効に生かす目的で、加持祈祷、或いは無病息災を祈願した御札、或いは「なで地蔵」などを発案し、信者の心の不安を取り除いて安心や希望を与え、延いては身体の快復力を高めることにも貢献していたのだと考えると、宗教と治病の結びつきの中には、「信仰の力」というものが深く関わっていることも、明らかになってくるのではないかとさえ思われるのです。
2020年05月23日
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これは特に外国人から見た日本人の特性ということになるようだが、日本人に「あなたの宗教は何?」と問うと、「特に信じている宗教は無い」と答える人が多いことに驚く、と。この「驚く」の意味は何だろう? 「日本人は、自分が何らかの宗教を信じていると見られることを、まだ非科学的な思考から抜け切れていない人間と見られているようで、恥ずかしいことだとでも思っているのだろうか」などと思って「驚く」のだろうか? いや、どうやらそんなことではなさそうだ。或る外国人が語るのを耳にしたことがある。「日本人の宗教観は変わっていて、人間は死んだら、みんな極楽往生すると思っている。これ、変でしょう?」と。この外国人が「変だ」と云うのも、尤もなことだ。キリスト教では、人間の死後は天国行きか地獄行きに分かれる。だからこそ信者は、現世で善い行いをしようと励む意欲も湧いてくるのだ。だから、日本人が「人間は死んだら、みんな極楽往生する」と思っていると知ったなら、「日本人は善人でも悪人でも極楽往生するのなら、地獄堕ちする人はいないことになる。ということは、極楽のみ有って、地獄というものは無いと云っているのと同じことなのだから、宗教なんか有っても無いのと同じではなかろうか。何故なら修行してもしなくても、或いは善いことをしても悪いことをしても、みんな極楽往生するのだから」と、日本人の宗教観を見通して、「日本人の宗教観は変だ」と「驚く」のではなかろうか。【追記】この話に出てくる「日本人の宗教観」というのは、その言い分からも分かるように、浄土宗系の一派に属する信徒の中の一部の見解を指すものと思われますが、本文中にはそれと示す説明が抜けていましたから、無用な誤解を避けるために、ここに追記しておきます。
2020年05月20日
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今回の新型コロナ禍への、国を挙げての対応の主眼は、主権者の国民が全体的に病死苦からの脱出を目指すことにあったと云えます。この病苦と死苦は、仏教で説く生老病死という四つの苦しみのうちの二つを占めています。生というのは此の世に生まれることで、生まれなければ老いることもなく、病むこともなく、死ぬこともないので、生は苦しみの根本だと認識することができます。しかし生あれば老病死苦は避けられないとはいえ、生き方の注意次第で、今回のコロナ禍に巻き込まれる確率などは減らすことができます。この病死苦を減らすことができれば、より天寿を全うできる確率は増えます。これが緊急事態宣言が発令された意義でしょうか。また、こうして新たな感染者数を制御しているうちに、より効果的で副作用も少ない治療薬の開発が進み、コロナ禍による病苦と死苦の発生を軽減することもできるでしょう。そうこうしている間に、最初の予想を上回る成果が出て、39県の緊急事態宣言が解除され、残る8都道府県でも近日中に解除できそうな状況になりました。これも法に従順で善良な日本人の協調性の賜物かもしれません。然るに、そうは云っても、当分の間はコロナ禍による病苦と死苦をゼロにすることは難しいでしょう。油断は禁物です。また仮にコロナ禍が終息しても、新たなウイルスが発生するなどして、此の世から病苦が無くなることはありません。しかし、しかしですよ。「此の世から生老病死苦は無くならない」と云うだけでは、余りにも情けない。それ故、仏教のような教えが伝えられているのでしょう。もし仏教を修めて金剛の身を得れば、生活の苦しみも、老いる苦しみも、病む苦しみも、死ぬ苦しみも、これら一切を「どこ吹く風か」と、平然と見送ることができるようになるのです。この金剛の身を得るための修行法を、「法身如来に基づく生老病死苦からの解脱法」と名付けることができます。また、この修行法について云えば、特にこの順序でなければ、というようなものも思いつきませんが、最初はやはり仏教の原点とも云える原始仏典に基づいて、此の世の無常で苦で無我なることを認識することが重要と思われます。その認識が十分であれば、その認識が行くべき道を照らす光と成って、自身の身心、つまり五薀を可能な限りの広範囲に渉る解脱を修めます。そうして無明の根を断つことができれば、後は大乗経典や密教経典からでも、自ずから学ぶべき事柄も見えてきて、金剛の身を自覚できる時も間近になることでしょう。今回は簡単に短縮化した記述でしたが、機会を見て、悟りの道中に於ける細かな法話も語ってみたいと思っています。
2020年05月18日
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緊急事態宣言が五月末までに延長されました。しかしコロナ禍が終息する時期は見通せないので、今できることは国民一丸となって精一杯やらなくてはならず、緊急事態からの脱出時期は、その成果次第ということになるでしょうか。古の聖者曰く「まことの観賞者は死を見ず、病を見ず、また苦を見ず、しかも一切を徹見し、一切処において一切を得る」と。勿論これは解脱者にのみ得られる安楽の境界だから、一般衆生には無縁だとも思われるかも知れない。そこでこの解脱者観法を一般衆生の次元に置き替えてみると、「コロナウイルスに関わらなければ、感染せず、病死の苦も見なくてすむ」ということになって、何某かのヒントにはならないだろうか。例えば「外出するときは、コロナウイルスの侵入を完璧に断つ防禦服を着用する」というようなことを類推してみる。しかし、そんな服は今のところ手に入らないので、現在流布している感染予防の知識は、国民が一致団結して守ることで、その代用とする。また解脱者の「一切を徹見し、一切処において一切を得る」という面も満たすために、「コロナウイルス感知器」のようなものも欲しいところだけど、これも今のところ手に入らないので、感染していても症状が無くて分からない人物を見分けることが出来ない以上、自分も含めた一切者に対して、感染予防の知識を実践し、感染拡大を防ぐべく努めること。これが今私たち一般衆生にもできる「コロナウイルス解脱対応」ということになるでしょうか。勿論こんなことは、改めて語るまでもなく、誰でも知っていることではないか、とガッカリされるかも知れません。しかしこういうことは、国民一丸となって実践しなくては、成果が遠くなるものですから、「誰でも知っていること」ほど良いのだとも思えますね。
2020年05月07日
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今回の緊急事態宣言を受けて、我が国の新型コロナの猛威はどこまで防げるのでしょうか。事態の沈静化を祈るばかりです。こんな時、宗教には何ができるでしょうか。『法華経』の観世音菩薩普門品の冒頭には、「もし百千万億の衆生が、様々な苦悩を受けていても、観世音菩薩の名を聞いて一心に称名すれば、観世音菩薩は直ちにその音声を観じて、彼らすべてを苦悩から解脱させるのだ」というようなことが説かれています。「様々な苦悩から解脱させる」のですから、新型コロナ禍からの苦悩からも解脱させてくれるはずです。では、どのように苦悩現場から救済してくれるのでしょうか。経文では、救済の具体例を挙げて「大火に包まれていても、焼かれなくてすむ」とか、「大水に流されていても、浅瀬が得られる」とか、「刀で斬られようとしていても、刀が砕けて救われる」等々、その他様々な苦難の状況を具体的に挙げて、その苦悩から解放されると説いています。その例示から推理すると、「新型コロナウイルスに感染しても、感染者の身体を冒すことができずに消滅する」というような救われ方でしょうか。勿論、このような説法は、心が救済される実状を比喩的に語ったものですが、このように無事救済されるという心の実態は、嘘や作り事ではないのですね。この「観世音菩薩普門品」に先立つ「如来寿量品」に、如来は久遠の昔から成仏していることが説かれています。「この如来の寿命は無限だし、常に存在していて入滅することがない」のですが、観世音菩薩の名を念ずれば救い出してくれるの先が、この如来の体内ということなのです。この「如来の体」というものは、肉眼や人知では見ることができませんが、どんな人も必ず体内に宿しているものなので、絶体絶命のピンチなどに、観世音菩薩の名を一心に念ずれば、きっと苦悩から解脱できて、安らかな心境を取り戻すことができると思います。また、もし絶対絶命のピンチに具えて、予め仏道を修めることによって、久遠成仏の仏に開眼したいと思われるなら、釈尊が説かれた仏法を修めて、解脱を完了しておくのが最も確実な道になるでしょう。
2020年04月27日
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前回は「盤珪の不生禅」に関して得た情報を語ったけれど、斯く云う「不生」と、禅宗の開祖菩提達磨が提唱した「無心」とは、どこが異なるのかということを検証してみたので、その概略を述べてみたいと思います。菩提達磨の「無心論」に曰く、「夫れ理は無言なり、言を仮りて理を顕すを要す。大道は無相なり、麁を接する為に形をあらわす」とある。この言葉、つまり無心の解説だけで、既に察するべきであるが、云う所の「無心」は、「心在らず」という意味ではない。もし「心在らず」であれば、「大道は無相なり」とは説けないし、「麁を接する為に形をあらわす」とも説けない。従ってこの無心論は、そのまま「心不生論」と云うべき内容を呈するだろうという予測もつきます。故に曰く「心は内に在るか、外に在るか、また中間に在るか。斯くの如く三所に求むるに、ついに不可得なり。当に知るべし、即ちこれ無心なることを」と。斯くして証されし道理により、達磨の「無心論」は、その義によって「心不生論」に同ずと知られます。この結論を以て、「盤珪の不生禅」を再評価すれば、禅の境地として達磨の無心論を超えたのではなく、「無心」という称呼を、より合法的な言葉である「不生」に置き替えたものだと分かるだろう。従って、結論としては、盤珪の不生禅も菩提達磨の無心論から察することのできる禅境とは、共に「如来禅」に組み込まれるものであることも、当然ということになるでしょう。
2020年04月24日
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直指人心という言葉が示すように、禅僧たちの修行は概して方便少なく、或いは言葉を介さずに、直に仏性(本当の自分)を悟るという遣り方をとっているので、悟った後の言動にも、無心とか無の境地と云われるように、簡明で言葉の少ない姿を印象付けるものがあります。この故にか、以前「禅宗は仏教だろうか?」という問い掛けもありましたが、仏教と云えば釈迦の教え。釈迦の教えと云えば四聖諦や十二縁起など、理知的な説法を用いた修行法。その一方、禅の本質は不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏と云われていますから、これを仏教と云うなら、「釈迦の教えには含まれていない仏教」ということになるのでしょうかね。ところで今回は盤珪永琢という禅僧が唱えた「不生禅」のことだけど、この「不生」という言葉は、よく大乗経典で見掛ける「本不生」という語に代表された、「不生不滅・不断不常・不一不異・不去不来」の八不の意味を含んでいるものと認識されます。だから「不生禅」ということは、「仏性(本当の自己)というものは不生不滅である」ということになり、大乗経典が説く「法身」に通じる言葉遣いになっていることも分かってくる。その盤珪がこれを大悟したときの言葉が、「一切事は不生でととのうものを、今まで知らずに、さてさて無駄骨を折ったことかな」というものだったと。また別にも簡明な言葉があって、それは「仏になろうとするよりも、仏でおるが造作なくして近道でござる」というもので、これもまた達磨が伝えた禅の精神「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」を具えていて、見事です。
2020年04月23日
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新型コロナの猛威、人間社会の構造をマヒさせるほどの勢い、凄まじいですね。我が国でも緊急事態宣言の対象を七都府県から全都道府県に拡大しました。暫くは外出自粛、当然の対処法ですが、日々に憂鬱を覚えるかもしれません。そこでストレス解消にも役立つ、簡単な瞑想法をご紹介します。先ずは、この世に現れた森羅万象の在り方を観照することから始めます。すると生じたもので滅しないものは無いということが再確認できます。または森羅万象とまでは云わずとも、私たち人間の生涯だけを観照してもよいでしょう。この世に生まれ、成長し、やがては老いたり、病を得たり、或いは不慮の事故によっても生涯を閉じます。このように観照すると、人間の生涯は夢幻のように儚く見えます。こうした認識に基づいて、森羅万象の本性は空無だと認識することができます。以上のように観照した認識を禅観とし、禅観で得た空無の本性に心を相応させる行を禅定とします。こうして瞑想していると、心はこの世に生滅する森羅万象への執着から解放された自由空間、つまり不生不死の空中へと解脱できて、平和な安らぎに満たされる一時が得られます。いや、得られます、とは云いましたが、得られる得られないは、瞑想者の心次第ですから、こればかりは何とも言いようがないとでも言うべきでしょうか。
2020年04月17日
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最近、或るコミュで見た対話の中での話しだが、「この世の一切は因縁生起しているというのが釈迦の説だから、もし因縁生起していないものが見付かったら、仏教はお終いになる」という、対話中の両人が共に認める前提の上に、現代科学はそれを発見したとか、しつつあるとか、白熱した遣り取りが行われていた。私は解脱者なので、これとは別な意味で「仏教をお終いにした者」だから、余程のことが無い限り、この手の議論に加わることはないけれど、自分の若かりし頃を重ね見て、「みんな同じような道を辿って成長するものだなあ」と、一時の感慨に耽ったものである。
2020年04月11日
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『法華経』の観世音菩薩普門品には、「念仏解脱」とでも言いますか、浄土経典で説かれている「念仏往生」とは実質的には異なるものですが、念仏という共通項によって類似の感もある衆生救済法が説かれています。 説法の冒頭のところには「もし百千万億の衆生が、様々な苦悩を受けていても、観世音菩薩の名を聞いて一心に称名すれば、観世音菩薩は直ちにその音声を観じて、彼らすべてを苦悩から解脱させるのだ」というようなことを説いています。 またそれに続けて、救済の具体例を挙げて「大火に包まれていても、焼かれなくてすむ」とか、「大水に流されていても、浅瀬が得られる」とか、「刀で斬られようとしていても、刀が砕けて救われる」等々、その他様々な苦悩から解放されるという、救済力万能のスーパーマンのような菩薩像(菩薩法)が描かれています。勿論この救済法は、嘘や作り話ではなくて、実際に起こるものです。 これを私は、浄土経典で説かれている念仏に因する極楽往生の「念仏往生」と区別して、取り敢えず「念仏解脱」とでも名付けておこうかな、とも思っています。 ……と、ひとまずは観世音菩薩普門品に説かれている理法を紹介する文を、余所にも書きました。或るコミュニティでのことだけどね。しかし反応は寂しいものだった。相当に厳しい修法体験をしていないと、この理法を納得できないってことでしょうかね。 これまた何年も前のことだけど、或る僧侶のブログで、この観世音菩薩普門品の経説を取り上げ、「方便だとしても、嘘もほどほどにと云いたいね」というような批評をしていた記憶もあるけれど、現代はそういう書き方をした方が、世にうける時代になっているのかなと、底知れぬ寂しさを覚えたわけです。 でも、そういう時代だからこそ、仏教が伝えている、迷いの苦界から解放された清浄な心に導く解脱法を、独りの細やかな声ではあっても、コツコツと伝えて行かなくてはならないのではなかろうかとも思うのです。
2020年04月07日
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鈴木正三の「五戒を守って天に生まれるの理、分明である」と「わしは三十年前に死んでおいたわい」との言葉によって、彼が生天体験をしたことを明かしているし、禅僧としても「生死の身体を何とも思わず打ち捨てることより他の仏法を知らず」という立場を固持していたことから、彼の法実践は生天法即解脱法だったことも分かる。しかし、ここで注意しなくてはならないのが「五戒を守って天に生まれるの理、分明である」の発言だが、この言葉は正しくない。五戒を守るということが天に生まれる因とは云えないからである。この言葉は、彼が生天体験を持ったという事実を伝えるためだけに述べた不正確な言葉に過ぎない。彼が伝えたかった意味は、むしろ「人間として真実な生き方を求める者は天に生まれるであろう」というような言葉にすべきであり、更に「真実な生き方を得るためには、身命をも捨てる覚悟を持たなくてはならない」という言葉も付け加えるなら、もっと真実な言葉になるのだ。では、なぜそのようには言わなかったのかとなら、それでも生天の法を伝えるには不足したものが多すぎるからだ。ということで、「えい、面倒臭い、これでいいや!」とばかりに「五戒を守って天に生まれるの理、分明である」と。ところで生天と解脱とでは到達地が異なるのに、どうして同じ法が生天法と解脱法になるのか、という疑問が生じるかも知れない。しかし、これも説明しようとすると非情にややこしくなるので、簡潔に言えば「用いる状況が違う」ということでよかろうか。つまり生天と解脱では、実践する法は近似しているが、その差は用いる状況の次元差によって様相が微妙に変わってくるということなのだ。いや「微妙に変わる」のみならず「百八十度変わる」ところもあるとさえ付け加えたい問題でもある。
2020年03月21日
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江戸時代初期に出家した禅僧の鈴木正三。この人の語録を読んだのは、もう一昔前のことになろうか。時にボンヤリと思い出すのが「五戒を守って天に生まれるの理、分明である」とか何とか。その鈴木正三に死期が迫ったころ、ある僧が「お脈が悪いとのことですが、ご気分はいかがですか」と見舞うと、正三は「わしは三十年前に死んでおいたわい」と答えた。この二つの発言を仮に重ねると、「三十年前に天に生まれた」というものになる。そうすると、七十七歳で亡くなった鈴木正三が、天上界に生まれたのは四十七歳頃という仮の答えが出る。「死んでおいた」という言葉は、「生天した」という意味にも、「解脱した」という意味にも取れる。「解脱した」という言葉の中に含まれない五薀の残存物は無いからである。鈴木正三は仁王禅で知られているが、仁王と云えば阿吽の二像だから、この意味を取れば仁王禅は非情に奥深いものになるはずだ。そこで正三が残した言葉からもう一つ。「この糞袋を何とも思わず打ち捨てることなり。これを仕習うより他の仏法を知らず」と。言うところの「糞袋を打ち捨てる」は、「生死の体を死す」と言い換えることができるので、生天にも解脱にも通じる言葉だと分かる。解脱身はそのまま報身にも法身にも通じているし、解脱行こそ成仏への最も基本的で確実な修法だという確信を持っていたからこそ、正三もまた「生死の身体を何とも思わず打ち捨てることより他の仏法を知らず」との言葉を残したのではあるまいか。
2020年03月20日
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【死を超えて】前回の「自殺を乗り越えるために」と題した日記では、古代ギリシャの思想家による「人間は生まれてこないのが一番良い。しかし運悪く生まれてきたなら、できるだけ早く死ぬのが良い」という言葉を引用したが、この言葉の有益な捉え方は「死を超えて生きよ」という意味に限定されるのではあるまいか。そうすると釈迦仏法の起点たる苦諦の「色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは我にあらず、また我がものにもあらず。色の如く受想行識についても同様である」にも重なるからである。ここで言葉に於ける一つの問題が見えてくるのだが、古代ギリシャの思想家も釈迦の苦諦も、共に此の世に生まれた人間の現実相を明かした言葉であれば、苦諦を見て「此の世に生まれた人間は無常で苦で無我なるものであるから、生まれてこないのが一番良い。しかし運悪く生まれてきたなら、できるだけ早く死ぬのが良い」と読み取ったとしても自然の流れであって、無理からぬことでもありましょう。然るに、だからといって直ちに自殺の如きを推奨している言葉として認識する人も、先ずいないのではないでしょうか。何故って、人には皆幸せになりたいという本性があると思いませんか。生命というものは、痛みや苦しみに対して常に敏感であって、本能的にそれらを避けたり克服しようとしているものだとは思いませんか。それ故に、ここに引用した古代ギリシャの思想家の言葉や、釈迦仏法に於ける苦諦の一節もまた、直感的に「生死の苦を乗り越えて生きよ」というメッセージとして受け取ることができるのだと思うのです。また、その辺りの事情が見えてくると、仏典に説かれている「死を乗り越えた所に開かれる幸せの境地」に関する理法もまた、よく見えてきます。例えば雪山童子が「諸行無常、是生滅法」という偈文の前半を聞き、残りの後半を説いてもらうことと引き換えに、飢えた羅刹に身体を与える約束をして、その偈文「生滅滅已、寂滅為楽」を悟ることができたという経緯ですが、これが「無常で苦なる死すべき肉体を解脱して不死の境地に達することができた」という法話の一つです。なのでこのように思想家の言葉も釈迦の苦諦も、共に「死を超えて安楽の境地に至れ」という示唆だと読み取らなくては、折角の読書も役立たないものになってしまいます。従ってこのような視点に立つと、仏道を修行してきた先達の言葉にも、こうして悟りの境地を掴んできた経緯が偲ばれるような語録に接する楽しみも増えてくることでしょう。例えば「生きながら死人となりてなりはてて、思いのままにするわざぞよき」なんてのも、味わい深くて良いですね。
2020年02月22日
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【自殺を乗り越えるために】令和元年の年間自殺者数は、十年ほど前までに比べると一万人ほど減った二万人余りと聞いたが、それでも一日に換算すると五十五人余りという数にのぼる。自殺に追い込まれた原因は様々だとしても、その生苦を解決する手段も尽き果てた数の一部分だと思えば、何とも痛ましい限りです。人間の他にも自殺する生き物がいるかどうかは分からないが、「人間のみが自分を死すべき者と自覚して生きている」と語った思想家もいる。そう考える場合、生きている時間は「与えられた有限時間」ということになり、従って「自殺は与えられた人生を自ら短縮させる行為になる」とも考えて、たとえ万策尽きてもなお倒れ臥すまでは自分の人生なのだから、「これが我が人生である」と、あるがままを受け入れて、心穏やかに人生を全うする道を選ぶこともできるのではなかろうか。何故ならそれが無為自然の生き方であり、自殺行為は人為的所行の一つの場合になるだろうからでもあります。しかし、そうは云っても「人間は考える葦である」とも云われているように、どうしても考えて行動するものでもあるから、ここでも何か適切な考えを取り込んでみようということで、とっさに思い付いたのが、古代ギリシャの思想家が述べた「人間は生まれてこないのが一番良い。しかし運悪く生まれてきたなら、できるだけ早く死ぬのが良い」という言葉だったので、この言葉を加味しつつ、更なる考察の延長を図ってみたいと思うのです。この古代ギリシャの思想家が語る「死ぬ」という言葉の意味は、尋常ではないとも思われます。古代ギリシャの時代には、神々の世界が説かれていたので、「できるだけ早く死ぬのが良い」には、「神々の世界に生まれ変わって生きよ」という意味を重ねることもできるからです。そうしてみると「人間のみが自分を死すべき者と自覚して生きている」という最初の前提に重ねれば、その「生きている」という一点が変容することになります。つまり「生きている」という意識が変容して「既に死者として生きている」というような矛盾を孕んだ意味になるということです。而るにこの変容意識をそのまま受け入れることができるようになると、解決策を見出せずに自殺に走ろうとする苦悩者の多くが救出されるのではないでしょうか。つまり「私は既に死んだ者」という意識であれば、何事が起ころうと怖れることもなかろうし、シェークスピアがジュリアスシーザーに語らせた「一度死んだ者は二度とは死なない」という言葉からも察せられるように、「死を怖れぬ心」さえ得られるのだから、「自殺」という想念の浮かぶ気配さえ消失するだろうからですね。このように自殺を乗り越えるために役立ちそうな思想は、探せば幾つも見付かり、各自に相応しいものも得られることでしょう。自殺者数がゼロになる社会の到来こそ、皆の夢ですからね。
2020年02月20日
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【五薀皆空と照見して】「五薀皆空」という言葉は、般若心経にも出てきて、「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五薀皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり」と説いています。さすがは観自在菩薩ですね、五薀皆空と照見しただけで苦厄の境界から脱出できたと云うのですから。原始仏典でも、この五薀皆空に相応する説法は見られます。それによると「色は無常であり、空であり、苦であり、無我である。色の如く受想行識もまた然り」というような認識が得られます。これは所謂「四諦」中の「苦諦」に属する説法ですね。なので釈尊はこの苦諦を説き、その因位の「苦集諦」を説き、苦厄から免れた「苦滅諦」を説き、その因位の「苦滅道諦」を説いているのですが、最初の「苦諦」を聞いただけで「苦滅諦」を成就したと云っているのが、般若心経の観自在菩薩です。このように語ってみると、「さすがは観自在菩薩」と感嘆の声を発しそうにもなりますが、私たちが現実生活の中でこの問題(苦諦)に直面したときにも、一種の絶望と共に人生を達観して、心解脱を成就したのと同じような心境に達することもあるでしょう。私もまたそのような体験を繰り返しているうちに、全き解脱に至った一人なのです。謂う所の「全き解脱」とは、自分自身が分身して自分自身の外側に不死身の金剛身(仏身)と成って現れるという形での「成仏体験」のことです。四国遍路の衣装などに「同行二人」と書かれていますよね。意味は「南無大師遍照金剛」つまり「即身成仏した空海と同行する」という意味に取れますが、丁度それと同じことが自分自身の身体の分身が現れるという形で実現された状態と云えばよいでしょうか。そうすると般若心経の観世音菩薩もまた、これと同じ体験を説いているのだろうかという興味関心が生じます。このような観点から読むと、経中に説かれた「空」に関する諸説は、「五薀皆空と照見した」ときの「照見」の過程を明かしたものとして読むことができます。つまり「空」についても、自分で「ああだ、こうだ」と考えなくても、経文の言葉通りに認識すればよいということになり、気分的には楽になるでしょう。しかし言葉の意味は真実そのものではないので、理解に苦しむところが生じるかもしれません。そんなときは厳密に「空の意味はどうあらねばならないのか」なんて悩まず、「一切説法は方便」と達観するとか、釈尊の説に戻って「無常なものは苦であって、苦なら我でも我がものでもない」に合わせるなどして、「空とは無常で苦で無我なるもののこと」と判断し、そのまま解脱すれば一件落着ということになります。つまり「空」という語意についても、この語単体での意味が問題なのではなく、この語と関わっている語との関連によって、どういう意味に成るかという問題なので、般若心経の場合のように、「五薀」に関わっていて、その五薀もまた私たちが「解脱したい五薀」という条件付けられた五薀に関わった「空観」であればこそ、スムーズに解脱できるということですね。従っていくら厳密に「空」の意味を考察したとしても、解脱に繋がらなくては一切が無益な観念遊びに終わってしまうということになります。経説の空には本より真諦に繋がる意味もありますが、解脱すれば真諦に入るので、これで問題はないということですね。
2020年02月10日
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【此の世を超えて】人々の生活を静観していると、一切が物悲しくて愛おしくさえ思われてくるものだ。此の世に生まれた者は必ず死ぬように、何もかもが現れては消えてゆく。一切が恰も手品師の幻術によって、現れたり消えたりするかのようにも見える。何が物悲しかったり愛おしかったりするのかと云えば、人々がこの幻のように無常な現象の中に溶け込んで、一喜一憂している姿が見えるからである。この無常な現実世界に同化した心が、絶望的な状況に直面したときのことを思うと、自ずからやりきれない物悲しさを覚えるものだ。こういうときに、言葉を掛けることができれば、そして相手に話を受け入れる余裕があるならば、解脱の道を説き示すこともできるので、それを受持して実践し、自身の現実から解脱して、執われのない自由で朗らかな人生を送ってもらいたいものだ、という心が生じたりもする。だが現実には、こういう教導もほぼ不可能なので、只々愛おしさが反復され、増幅されるだけなのが、何とも心残りでもある。
2020年02月08日
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【知られざるイエス】これまで私たちがイエスの思想を知る手段としては、新約聖書に記録されているイエスの言葉に拠るしかなかった。しかし近年、それを覆すような資料が発見され、公開もされている。そこには知られざるイエスの姿を垣間見ることもできるので、秘められた深い悟りの境地に関心があれば読んでみるとよいでしょう。それは正統派と称する立場から異端と判断され、世から葬り去られていた書物の中でも、最大の異端グノーシス派に属するものだが、この資料から読み取れるイエスの思想は、私が新約聖書から読み取っていたイエスの姿と比べれば、天と地ほどに違ったものだった。つまり比較にならないほど充実した円熟の境地が読み取れたということだ。このように勝れた書物が、異端として処分された経緯も理解できなくはないが、その一部が残存していて、近年発見されたということは、不幸中の幸いだったと云うべきだろう。私自身はやっと二冊目に目を通し始めたばかりで、グノーシス派の聖典が何冊公開されているかも知らない段階だけど、時間的に余裕があれば、好みの書を探して読んでみるのもよいでしょう。そこで発見される思想は、新約聖書の思想を土台にして、更に深く充実させたものなので、仏教に喩えれば小乗仏教の悟りを基体にして大乗から密教の悟りに至る流れと同質のものだと思えばよいでしょう。
2020年01月31日
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【天上界や仏界の幸せとは】此の世の有り様を有るが儘に正見すれば、人は此の世に泣きながら生まれ、まだ死にたくないよと泣きながら死ぬ。このように生きとし生けるものの生涯は、苦に包まれたものに見えてくる。この故に釈尊は「此の世は無常であり、無常ならば苦であり、苦ならば我に非ず、我がものに非ず」と説いて、人々を苦の濁流から救い上げるための法を示してくれる。従ってこの説法を正しく理解すれば、「此の世に本当の幸せはない」と正見して、此の世に対する執着を断ち、無常を捨て、苦を捨て、無我を捨てて、本当の幸せに達する正道を歩むことになるでしょう。正道を歩めば天上界や仏界に至ることが明らかだと信じられるからですね。而るに正道は見えても、正道の歩み方に迷うのが人の常です。そこで先達の同行が助けになりますが、その助けを行える能力(智慧)を指して菩薩と云うこともできるのですね。従って菩薩のことを「生きとし生けるものに幸せを配る者」と呼ぶこともできます。同行者が得られた人も、また得られず遠回りした人も、やがて時が来れば「天上界」への縁が生じて、天上界へ入場する人も現れることになります。大乗仏教で説かれている阿弥陀仏の報土「極楽浄土」もまた、天界中に建立された浄土ですが、この浄土の幸せを「楽のみ有って苦の無い所」と説いていることからも分かるように、天界に生まれたときの喜びは、まさに万感の感涙ものなのです。その後、天上界でも更に仏法の修行が有って、やがて成仏行に励むことになり、大地への報恩行にもなる中道の境地に入り、自身に同行二人を成就して、悟りの修行の集大成を行うことになるでしょう。なので、ここで手に入れる喜びに勝る喜びもないだろうとさえ思われるのです。
2020年01月30日
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【キリスト教と仏教】ニーチェの「神は死んだ」に関わる話題になると、自ずからキリスト教が引き合いに出されることになりますが、それは仏教だと少し事情が違うからですね。マタイによる福音書に曰く「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と。ところが仏教は中道の教えだから、神と富の両方を左右の手に分けて掴み取るような宗教なのですね。尤も宗派によって、左右の手に掴み取る分量に差異がありますが、両手を満杯にするような宗派となると、やはり真言密教の右に出るものはないでしょう。
2020年01月28日
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【神は我が櫓】ニーチェが云う「神は死んだ」に関わる神が、クリスチャンたちにとっては、どのような存在だったのかを、讃美歌の詞から読み取ることもできます。『讃美歌267』はマルチンルターの作詞で、神への信仰が力強く歌い上げられているので、神の存在が生きる力を強力に支えていた様子がうかがえます。歌詞は「神は我がやぐら、わが強き盾。苦しめるときの近き助けぞ」で始まり、信仰によって、耐え難い苦しみさえも克服できる境地に達していることだ伝わってきます。更に2番の歌詞は「いかに強くとも、いかでか頼まん、やがては朽つべき人の力を」で始まって、その境地が此の世を超えた聖なるものとの一体性から来ることを暗示させます。このように見てくると、ニーチェが「神は死んだ」と云ってみても、それはニーチェにとっての神が「死んでいる」のであって、ルターにとっての神は「永遠に死ぬことがない」ことになっているのだと分かりますね。そういうことであれば、人の苦しみを取り除いてくれる神の存在を、あながち否定することもないでしょう。神は自然界の真実の問題ではなく、生きた人間の心の存在に於ける真実の問題なのだから。
2020年01月27日
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【苦しみがあるから】ニーチェの書からヒントを得た言葉「苦しみがあるからまだ良いではないか、何もないよりは」の意義を考えてみた。勿論ニーチェの「神は死んだ」という宣言に沿った考察です。例えば空き地に咲く一本の草花があり、その草花に心があったとしよう。草花の一生には、芽生えた場所から移動する自由はない。どんな天候でも受け入れなくてはならないし、地上を走り回る小動物に踏み倒される危険も抱えている。この草花が、このような自身の生存状況を知ったとき、何と思うだろうかと。そこで気象条件が悪化して、開花したばかりの花弁が強風で吹き飛ばされた場合なども考慮してみると、草花の率直な反応が「いったい私の一生って何なの?」という問いになって現れるのではなかろうか。またこのとき、草花に信仰心が有ったなら、「天に在します我らが神よ、この惨めな草花を憐れみ給え、アーメン」とでも祈っただろうか。そして草花の心は神に帰依して、自身の命運を天に委ねた安らぎを得ることでしょう。而るにこの草花が「神は死んだ」という認識を持っていたとすれば、どうなるでしょうか。当然神のことは念頭に無くなって、ひたすら「大地の意義」を問うことになるでしょう。「悪天候も大地の必然として生じているのだから、その為に私が死ぬのも、大地の必然を受け入れることなのだ」と観念して、苦しみに耐えつつ口から出るのが、「苦しみがあるからまだ良いではないか、何もないよりは」という言葉ではないだろうかと。
2020年01月26日
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【ニーチェの言葉】ニーチェの言葉は多様多彩で、どれが本音なのか分からないところもある。例えばニーチェ自身も「ツァラトゥストラ」について「肖像画を描こうとしても描けないだろう」とまで云うように、ニーチェ自身の姿も多様に見えたりする。ニーチェの言葉の一つに「苦しみがあるから、まだ良いではないか」というのがあったと思うが、今それを思い出している。この記憶には曖昧なところもあって、ニーチェが或る女性が述べた言葉に共感して、自作品に取り入れた言葉だったかもしれない。この言葉を補うと「苦しみがあるから、まだ良いではないか、何もないよりは」というものだと思うが、この言葉が妙にツァラトゥストラの世界に重なってくるのは、私の偏見だろうか。ニーチェはツァラトゥストラに「神は死んだ」と語らせている。神が死んだということが、神の国でもあり天国とも呼ばれる楽園も消えたということに繋がるとすれば、いや「すれば」というような曖昧なものではなく、ツァラトゥストラの口を通して「大地の意義」となる生き方を示唆させているのだから、天国のことは想定外だったのだろう。従って神無き世に残された人間の生きる拠り所は此の世だけであり、大地の意義を求める他は無いということになれば、此の世の苦しみから逃れる道をどこに求めることができるだろうか、という問題もある。そこで天国という心の楽園が消えた世のことを思えば、「無常な此の世で得られる幸せは次々と儚く消えて、残るは苦しみばかり」という状態も想定されるので、その状況と重なるように「苦しみがあるから、まだ良いではないか、何もないよりは」という言葉が、記憶の片隅から出てきたのだと思われる。然しこのような随想が自然に湧き出たということは、ニーチェの「神は死んだ」という理念に対して生じている、一つの疑念の表れかもしれないのだ。何故なら実存思想を説くのに、神の存在を否定する必要もなかっただろうし、その一例として「神と共に在る実存思想」をキルケゴールが説いているように、むしろ神と人間を調和させた方が、より豊かな思想構造にすることができたのではなかろうかとも思われるからだ。
2020年01月25日
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【ニーチェの偉大さ】前回は「永遠の命」の観点から、ニーチェの「神は死んだ」という発言が世にもたらす影響を考慮した批判を語ったが、ニーチェ自身の心の世界を考慮する場合には、また当然異なった判断をしなくてはならない。そうすれば、ニーチェの「大地の意義」は、イエスが此の世で実践した救済活動、即ち「神の愛」と同じ意義を持つものと認識して良いと思われる。そうするとニーチェの「神は死んだ」の意味は、「神は大地を愛するが故に、大地の意義の為に己を死んだ」というものになり、著書『ツァラトゥストラはこう言った』に説かれている精神は、その実質的な面から捉えると、イエスが実践した「神の愛」と同質のものになる。このようにニーチェの思想を、その実質的な面から捉えると、ニーチェ自身が自己評価して「私は二千年に一度世に現れる天才である」(少しオーバーだとは思うが)と語った言葉も、あながち否定することも出来ないとも云える。そうであれば、ニーチェは単に言葉遣いを誤っただけだろうかという疑問も生じるが、この問題については前回にも述べたように、「上に求めても無、下に求めても無」という真理の捉え方の問題なのだ。何故ならここでもう一歩前進して一転の開示が出来れば、イエスと同格になり、仏教が説く如来身に達することが出来たからである。従って、このような言語表現上の矛盾となって現れている箇所を補いつつ読み取れば、ニーチェの著書を「神の愛としての世界」として読み取ることもできる良書としても読めるし、或いはまた読者各自が現世を生きる道の参考にも成り得る副読本としての価値も生まれるものと思われるのです。
2020年01月24日
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【永遠の命】永遠の命と云えばキリスト教を思いうかべる人も多いのではなかろうか。古来クリスチャン達もまた永遠の命を求めて精進したことだろう。しかしそれを見出すことは容易ではない。十九世紀後半に活動したニーチェは、その著書『ツァラトゥストラはこう言った』の中で「神は死んでいる」という表現を使い、世間の敬虔な信者たちに動揺を与えたと思われるが、ニーチェの発言もまた批判の対象にはなった。ニーチェの発言の意味は、分からないでもない。ニーチェの哲学者は心の真実を深く追求して、「上に求めても無、下に求めても無」という虚無の確認の上に立って、なお現世に生きる意義を求めた人間哲学が、著書『ツァラトゥストラはこう言った』だと思うので、惹かれる人も多いのではあるまいか。しかし宗教を巻き込むような発言は、自身の著作を自ら汚した形になってしまったからだ。確かに「上に求めても無、下に求めても無」という探求結果は正当な見解とも思われる。しかしもう一歩の熟考が足りなかったのだ。イエスは言う、「神の国は此の世には無い」と。つまり此の世から眺めても、神の国は見えないようになっているのである。だから神の国は哲学しても見付かる所には無いということに、早く気付くべきだったのだ。またニーチェは云う、「私はインドでは仏陀だった」と。しかしこの発言は頂けない。ニーチェはまた「仏教もまた虚無思想だ」と。これは大間違いだからである。ニーチェは自らを「私は二千年に一度現れる大天才だ」とも。この自惚れが、自らの人生の墓穴を掘ったとも云えよう。聖なる「永遠の命」は、誰がどのように邪推して否定しようとも、清らかな心の持ち主には、常に幸ある人生を護ってくれる命の光として存在しているのである。勿論「永遠の命」の福楽は、仏道に依っても成就される。
2020年01月23日
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