全102件 (102件中 1-50件目)
先日、知人が語った一言が忘れられないのです。「従兄弟が、いまだ見つからない我が子を捜して、毎日毎日、流された家の跡地に行って、棒を持って、田んぼ跡や側溝を掘り起こしているんです。その姿を見るのが辛くて、可哀そうで、可哀そうで、…」たった、これだけの言葉だけれど…子を失った親の悲しみが痛いほど伝わって…その情景が目に浮かび…私まで貰い泣きしてしまいました。そこはね、もう自衛隊や警察や消防団がさんざん捜したんだよ って言ったって…骨ひとつ見つからない我が子の死を、どうやって納得できるだろう。今日現在で、行方不明者数、宮城県で、1359人 全国で、2768人1年8ケ月経っても、まだまだ震災は終わっていないのです。
2012.11.13
コメント(0)
あの日を思い出す時、私にはどうしても忘れられない光景があるのです。多くの人が避難していた公民館から、津波到達僅か前に「中学校に移動せよ」と言う誘導。津波の高さが予想以上なので、より高い場所に、と言うのは分かるのですが、誰もその後すぐに襲ってくるとは思っていなかったのも分かるのですが、誰を責める気持ちではないのですが現実には公民館から半径約400m以内で約250人が犠牲となったのです。こんな狭い範囲での犠牲者、行方不明者を出した地区は他には無いと言われてます。私はまさに「移動するように」との言葉を目の前で聞いて、自転車で走って助かったのです。後ろには、多くの車と多くの人が移動していたのです。あの方々はどうなったのだろう?どれだけの人々が助かったのだろう?心にずっと重く圧し掛かっていたのです。だからこの数字を知って、あらためて現実の悲惨さを思い知らされて…想像出来るでしょうか愛する子供を失った親の悲しみを(ごめんなさい。私自身も経験していないので想像するしか出来ないのですが)ある方のブログにこのように書かれていました。凄く納得出来る言葉なので抜粋します。「人間は、自然の法則によって、両親や配偶者の死に対する心構えは出来ていても、子供の死に対する心構えは出来ていない」「医療が発達した現代では、人の「死」は、どこか遠くにあるもの、ましてや自分より若い子どもにも縁のないもの、心構えなどできているはずなどないのです。だから、子どもになにかあれば、天地がひっくり返ってしまうようなおもいにもなるのです。」「もう一つの理由として考えられるのは、子どもを保護すること、子どもの安全を守ることが親の務めに含まれているということです。子どもの死は悲しみをもたらすばかりでなく、ちゃんと守ってやることができなかったという罪の意識をもたらすことがあります・・・」日本中を震撼させた大震災からもう1年7か月が経過し、世間ではもうあの大惨事は忘れ去られようとしています。紙一重で生き延びた私自身でさえも、日常の生活に心が支配されて、あの日の事を思い出さない日々が増えているのが現実です。人が生きると言うことは、そういう事なのかも知れません。我が子を失うと言う地獄を経験していない者にとっては…ですが、その地獄を経験し、これからも生涯背負って生きていかれる親御さんの思い…忘れてはいけないと思うのです。
2012.10.22
コメント(3)
ちょっと嬉しいことがありました。私のブログトップ画像は、懐かしい昭和の浅草を中学生の私が描いたものです。3年半前に「浅草の新世界」と題して記事にしました。 「浅草の新世界」 (コメント欄見て下さい) その絵がなんと、 福岡県にある人材育成を業務とする会社のホームページ内で紹介されました。会社創始者のアイディア実績として、浅草の新世界が紹介され、私の絵が使われました。私もネットで新世界の外観を探してみたのですが、なかなか見つけられず、そういう意味でも貴重な絵だとなんとなく思っていたのですが、まさか同じ思いで探して下さった企業があったとは… 遠い九州で。 ここ です。とっても嬉しい出来事でした。講座を受講して、ブログを書く楽しさを教えて頂き、こうして思いがけない出会いがあり、皆さんに感謝、感謝です。
2012.06.16
コメント(5)
「遺体」震災、津波の果てに 読みました。以前から読みたいと思いながら躊躇していた本です。けれどいつかは読まなければならないと思っていた本です。タイトルから内容が容易に推測出来るように、津波の恐ろしさがどんなものであったか、人が直視したくない現実がこの一冊に詰まっています。膨大な数の遺体に携わった方々を遺体安置所で丁寧に追った壮絶なルポルタージュ。こんな本は読みたくないと言う人がいるかも知れない、それはそれでいいと思います。ただ私は、あの日あの場にいた者として、本当の現実を心に刻んでおきたいのです。テレビで報道される映像は、自衛隊が瓦礫や遺体を撤去して道を開けたあとの映像ばかり。遺体など写っていない。本当はおびただしい数の遺体が横たわっていたはずなのに。私は震災の翌朝、避難のために津波が引いた街を自衛隊に誘導されながら自分の足で歩いたのです。異臭を放つヘドロの足元、無残な姿の車の中にある人影、瓦礫とヘドロにまみれた遺体らしき物…あの時点では生存者の救助が最優先でした。(それでも度重なる大きな余震のために、救助の車両も何度か引き返えしたりして、私が救助されたのは日が暮れてからでした)だからこの本を読むと、あの日の臭いや、空気の感覚や、地面の感触が、蘇るのです。あの場にいた人間しか知らない現実を心に刻んでおきたい、生涯忘れないように…この本を読んで、あの震災で遺体と真摯に向き合った多くの人々の存在を知りました。海上で遺体を回収する保安員、瓦礫に埋もれた遺体を探し搬送する自衛隊員、安置所へ運ぶ職員、死因を検索する医師、歯形の記録を取る歯科医、葬儀社スタッフ、消防団員・・・津波から間もない間に見つかった遺体は綺麗だけれど時間が経つにつれ発見される遺体の状態は段々と酷くなる。そんな遺体に向き合うことは想像を絶する大変な作業。だけどそんな現実に同じように向き合う事になってしまった普通の人々の存在。それは愛する家族を失い必死に探す人々。ご遺族になった人たちはこんなに残酷な現実を、見つかるまで毎日突きつけられていたのです。私はあの日ただの偶然で生き延びただけだから私も目をそむけず現実をしっかり見なければいけない責任があるそんな決意をさせてくれる本でした。我が町の広報にはいまだに「身元不明者のリスト」が載ってます。その中でこんな記述があります。「胴体腹部前面」 「左足のみ」 「骨数本」そんな姿で発見されているのです。あの震災の日まで同じ街に住んでいた人間が…著者があとがきにこう書いています。「復興とは家屋や道路や防波堤を修復して済む話ではない。人間がそこで起きた悲劇を受け入れ、それを一生涯十字架のように背負って生きていく決意を固めてはじめて進むものなのだ。」 重い読後感が残る本でした。
2012.05.06
コメント(0)
恥ずかしながら、うちの旦那もなにやらブログ始めました。まったくの初心者です。万年初心者の私がアドバイザーなのですからどんだけ初心者ブログかわかるかと(笑)お暇なとき覗いてやって下さいませ。 ここです→ オヤジのブログ
2012.01.10
コメント(4)
東日本大震災、あれから9ヶ月。3月11日で心の中の時計が止まったままの人たちがたくさんいらっしゃる。私が避難して一夜を過ごした中学校。校舎の大時計は、2時46分を指して止まったまま。その校舎に毎日足を運び花を手向ける人たちがいる。中学生14名が亡くなった、ご遺族の方々。今、遺族会が発足したことをある記事で読んだ。その中で語られた母親たちの言葉に涙が止まりませんでした。 「息子は、あの日必死に走って中学校へ向かった。その途中で津波にさらわれて亡くなった。だから息子が目指したかった中学校にになんとしても慰霊碑を建ててあげたい」「私ね、12日の朝、もう6時から水浸しの街に入ってね、息子探したのよ。でも不思議だよね、今になって思うと、道に横たわっていたたくさんの遺体には全く目がいかなくて覚えていないのよ。たくさんの遺体が横たわっていたのにね。 それはね、私がずっと息子が生きていることを信じて探し続けたからだと思うんだ。だから遺体には全く目がいかなかった。ひたすら動いている人、生きている人を目で探しながら街を歩き続けたの。」 「本当に探したね、これでもかってくらいに探したよね~!」「そうだった、本当に、本当に探し続けたよ、うちの子どもを・・・。」 「でも、遺体安置所で見つけたんだ・・・。」 私もあの日を忘れない。あの夜、明かりもなく寒さと不安の中を過ごした教室、夜が明けるのをどんな思いで待ったか、朝明けの中、目に飛び込んだ景色は無残な街の姿、 何もかも想像を絶する出来事で、現実の事だとすぐには心が認識できない。 それでもあの朝の空気の臭い、泥の中を歩く時の足音、心にしみこんでいる。 今あらためて、子を探す親の思いに触れ、涙が止まらない。絶対忘れてはならない。
2011.12.09
コメント(6)

あの日、閖上中学校に危機一髪で逃れて来た私が見た光景が、私の目の前で展開した光景が投稿されていました。津波の速さに驚愕です。あと一歩遅かったら …
2011.08.11
コメント(4)
今回の津波で、愛する家族を失った人々を沢山見てきました。その方々の気持ちに思いを馳せてしまいます。家に戻った家族がいるのに、眼下に津波が押し寄せてくるのを、どんな思いで避難所の屋上から眺めていただろう。戻らぬ我が子を探して、遺体安置所にどんな思いで毎日通っただろう。変り果てた無残な姿の我が子を、どんな思いで確認しただろう。わずかな時間差で生死が分かれた事実に、時間を巻き戻せないかと、無理を承知で何度願ったことだろう。私がどんなに思いを馳せても、ご遺族の悲しみには到底及ばないのです。私は経験していないからです。自分がそのような理不尽な悲しみに遭遇したなら、私なら耐えられそうもない。そうなんです、私はそんなに強くない、弱い、情けない人間なのです。今まで明るく前向きな記事が書けたのは、そんな壮絶な悲しみに遭遇していないからなんです。それなのに、人々は「うちだけじゃないから、みんなが犠牲になったから…」って言う、けな気に生きる姿に心打たれます。どんなに悲しくても明日が明ける、辛くても人は生きなきゃならない、私は自分が見聞きしてきたことをブログに書くだけ、書かずにはいられない、そんな私が、褒められるのはとても嬉しいけれど、少しだけ後ろめたい気がしてます。ところで、一か月前にNHKで「閖上中学校に避難した人々…」と言う特別番組がありました。避難所で、みんな画面を食い入るように見ていました。私を含めほとんどの人がそこに避難したからです。中学校の廊下に、無残にねじ曲がり泥だらけで流れ着いた自転車が写っていましたが、あれは私の自転車(だと私だけ確信している)。中学校に逃げて来た時、後ろから津波が迫っているのも知らずに、しっかり鍵をかけてから階段を上りました。その時点で、津波より盗難を心配していた自分に笑えます。この番組についてはまた書きたいと思います。
2011.06.18
コメント(2)
私は今回、歴史に残る未曽有の災害を経験しました。何と表現したらいいでしょうか、二つの思いがあります。正直、私の中ではあの日、3月11日で止まったままです。あの日までの日常、あの我が家、買い物したあの店、二度と会えない人々、だけど間違いなくあの日から時を刻んでいる新しい日常があります。今までの人生で想像すらしなかった被災体験、新しい出会い。こんなに多くの悲しみを見たのも初めてですが、こんなに多くの感動も初めてです。人間の善意を肌で感じました。こんなにたくさんの義援金や見舞金、考えてもいませんでした。海岸から1キロの場所に家を買ったのは自分。千年に一度の大津波に遭遇したのも誰の責任でもない、全て自己責任。そう思っていたのに、降って湧いたように義援金やら見舞金やら救援物資。このブログを見ている方々の中にも、何も出来ないからせめてと、募金をして下さった方も沢山おられるはず…全国の心温かい方々の善意が間違いなく私にも届いています。この場をもって心からお礼申し上げます。そして親戚や友人たちからの寛大な見舞金や見舞品。さらには縁あって知り合った仲間たちからの細やかな心使いの数々。その繋がりから、お会いしたこともない方々からも沢山の物資の提供。自分だったら、人にこんなに出来るだろうか?なんてみんなこんなに寛大で温かいんだろう?有難いなぁ、人間ていいなぁ、生きているって素晴らしいなぁ今、私はすべての事に感動し、感謝しています。ありがとうございます。 三ヶ月に及ぶ避難所生活からようやく仮設住宅に移ることが出来ました。広い体育館での集団生活、夜はオナラも「あら失礼」とお互い様、班ごとにトイレ掃除と配膳準備、夫婦の力関係も丸見え、合宿だと思って私なりに楽しむことにしました。お蔭で同じ街に住んでても知らなかった人々とたくさん親しくなりました。この繋がりは、私たち夫婦にとっては特別なものです。同じ恐怖、同じ悲しみ、同じ体験をして、地図から消えてしまった街に対する同じ思い、三ヶ月を通して、共同体化してしまった仲間です。さあ、これから「一から出直し」です。私、「一から出直し」って嫌いじゃないです。結婚してから何度もそうだったから(笑)
2011.06.07
コメント(2)

百円均一で買った貯金箱。500円玉を満タンにすると30万円貯まる貯金箱。毎日わずかな生活費を削ってコツコツと、もう何年になるだろう。間違いなく半分以上になってるから10万か15万貯まっているはず。それも家と一緒に流された。諦めきれず再度我が家へ行ってみた。毎回ながら、ここに立つと複雑な思いが…だって見て下さいな。あれから一カ月以上経つのに、いまだ瓦礫のまま、戦場跡のまま。車なんか、海水に浸かったから、この通りいまだに、この現実が信じられないんですよ~だから泣けないのかなぁ
2011.04.28
コメント(6)

日和山の桜が咲いていました。津波はこの丘を難なく越えて来ました。だから、ほら、桜の木が倒れている。でも、その枝には健気に咲いている。近寄って見て下さい。確かに、シッカリと、咲いている。涙 出ます。
2011.04.23
コメント(10)

被災地の小学校体育館で、流されたアルバムや写真、位牌などが集められている。私も先日行ってみた。体育館を所狭しと並べられたアルバムの数々。膨大な量のアルバムを前に、正直、我が家の写真を見つけ出すのは無理だと思った。それでも、すがる思いでひとつひとつの籠を覗いて、捜して歩いた。子供たちが誕生してから、成長していく一コマ一コマを大切に残した思い出の写真。それらすべてが津波に流された。ただの一枚も残っていない。それが私には切なくて…なんとしても捜そう、そう思って肌寒い体育館を捜し歩いた、執念で…泥水にまみれたアルバムはどれも重たく、泥が付着していて、まさに一瞬にして生活のすべてが、津波に呑み込まれた現実を突き付ける。いざ捜してみると、アルバムってどの家のも同じ色、同じ形のものが多いのだ。 本当にこの中から見つかるのだろうか?津波によって街のすべての家屋がなぎ倒され、膨大な量の瓦礫が溢れている、あの中から、我が家の写真が私の手元に戻って来るなんて、あり得るだろうか?まるで宝探し、まさに私にとっては宝探し、可愛い我が子の幼い日の写真求めて、「あったー!」引きちぎれたアルバムの中に、泥に汚れた中に、娘の幼い姿を発見!まるで奇跡!あるんだぁ、よ~し、もっと捜すぞ!この日、3時間かかって、失くした量の一割にも満たないけれど、確かに私の手元に戻って来た。瓦礫撤去という大変な作業の中、拾い集めて下さる自衛隊の方々に感謝です。そして、見つかった一枚一枚を丁寧に泥をよけ乾かして下さるボランティアの方々にも感謝です。(奥の方に、写真が一枚一枚丁寧に乾かす為に吊るされているのが見える) 特に、かけがえのないご家族を亡くされた方々にとって、ここで発見される写真はまさに宝。この日も、あちこちで宝を見つけた歓声があがっていた、涙ウルウル…
2011.04.14
コメント(6)
私は自分のブログの過去記事を見て驚愕した。昨年の2月28日となっている。「大津波警報」 こここの時は、広報車が警告を発し、消防車も家々を回って来た。なのに今回は地震の後、サイレンが鳴るだけで何も回って来なかった。防災無線も壊れていたとの話もある。この時の事が私の頭の中にあった。「確かあの時は消防が回って来たはず、まだ来てない、それから対応しても遅くないはず」この思いは私だけでなかったはず…避難所で話した方々の中にも「あの時、避難したのになんもなかったから」って…この記事のコメントに「でも繰り返しあると、狼が来たぞ~っと言っても誰も信じないことになるかも」って自分で書いている。まさにその通りの事になってしまった。今回は誰にとっても予想を超える出来事で、対応出来なかったのかも知れないが、一年前のあの事がなかったなら、もしかしてもっと多くの人が助かったのでは…と、愚かな私は思ってしまう。 先日も避難所に設置された無料公衆電話を使っていたら隣の方の話が聞こえて来た。「DNA鑑定で親子である確率が高いと言われた、でも服装からお袋に間違いないと分かっていたよ」悲しい報告。 正直、これから見つかる方々はそうやって身元確認されるのだろう。それでも、見つかるだけまし、海に流れてしまったら永遠に見つからない。 ところで私たち夫婦には息子夫婦が県内にいるが、あえて地元の人々との避難所生活を選んだ。それは長期化が予想される事。町の今後を共に考える事。行政の情報をいち早く知る事。知り合いの消息が得られる事。そして何よりお金が掛からないし(笑)食費も光熱費も掛からないし、何より楽しい!合宿所みたい! こんな事が言えるのも、同じ班の人たちがとても良い方々で、共に協力し、助け合って生活しているから。他の班ではもめ事も起きているようで、その点はとても恵まれている。お酒? まさか、不謹慎な! 悲しみの人々の中で、まさかお酒なんて!はい、スイマセン。ご想像のとおり不謹慎者です。我が家、車一台だけ財産として残りました。軽ワゴン。ここなら許されるよね、毎晩ここが夫婦の憩いの場、ところが匂いを嗅ぎつけて、仲間が入れ替わりにやってくる「居酒屋」に。こんな時は飲みたくもなります、お許し下さいませ。
2011.04.06
コメント(4)
今回の大津波で犠牲になった方々は地震の後、散らかった片づけをしてまったく逃げなかった人、避難所まで間に合わなかった人、避難所まで来たのに、物を取りに引き返してしまった人、 これらの他に地震の大きさを知り、家族を心配して職場から戻られた人がいた。戻る道すがら目の前からせまる津波を見て、車を捨て歩道橋に逃げた。歩道橋に昇って助かった方の話では、50人ほどの人が避難した。間に合わず顔だけ出して助けを求めた人を、手を伸ばして全員で助けた事、瓦礫につかまって流れて来た人を奇跡的に助けた事、それでも 「助けて~」 と、叫びながら流れて行った、助けられない多くの人を見て来た事、車や船舶や屋根がぶつかる度に、凄い衝撃を感じ、壊れたら自分もダメだと思った事、ぶつかって来た船から火の手があがり、ビニール袋で水を汲み、みんなで消火しようとした事、信じられない光景を語ってくれた。ずぶ濡れになった人と、幼子抱えた人と、お年寄りが緊急要請のヘリで助けられ、その他の人々は夜11時頃にやっと救助のバスが来て助けられた。あの夜は特に寒い日だった。長い時間、歩道橋で助けを待つ人々。でも、こうして町のシンボルである歩道橋が多くの命を救ったのです。
2011.04.05
コメント(4)
4日経っても安否の分からない義母。お向いさんの安否も。私は、もしかしてあの公民館で私を待っていたのではないかと…よく探さないで中学校に行ってしまったけど、もしかしていつまでも私を待っていたのでは…密かに自分を責めて眠れない日が続いた。でも、そんな思いを抱えている人は私だけではなかった。地震の後、近所の義父母を尋ねたが無事を確認して戻ってしまったと悔やむ方。「あの時津波が来るから逃げるようにと一言、言っていれば」みな紙一重で生死が決まった。生き残った人はみな壮絶なドラマがあった。避難所で聞いた数々のドラマで、特に痛ましかったのは、卒業式のあの日、中学生の息子さんを亡くされた方。息子さんは友達と一緒に、公民館から中学校に向かった、私のように。その途中、津波に呑み込まれた。2人の友達は危機一髪で逃れた。「息子は太っていてドン臭いから逃げ遅れてしまった、先を走っている友達2人が目撃しているので間違いないらしい」なんと言う、言葉もない。母親の悲しみは勿論の事、2人もその光景から生涯解放される事はないだろう。さて、 義母の生存は半ば諦め、それならせめて一日も早く見つけてやりたいと、最終手段と、私は遺体安置所に足を運びました。この遺体確認についても、遺族と行政側ともめました。沢山の遺体が集められているのに、一日も早く確認したいのに、見せられる状態にしてからでなければ対面させないと言う。そして遺体をきれいにして対面出来る状態にしてから安置所に置かれた。私がひとりで安置所に行った時に見た遺体は、最初に発見された方々ばかりで、損傷も少なくきれいな御遺体でした。それでも他人さまの御遺体を覗く事に躊躇があり、出来るならば棺に添えられビニールに入れられた服で確認しようとしたけれど、どの方の服も真黒い泥にまみれ、みな同じにしか見えず難しい。やはりひとつひとつ覗き顔を確認することにした。小さなピンク色した棺があった。生まれてから何年愛されたのかと思うと痛ましくて…100体近く確認したけれど、義母はいなかった。この後、毎日のように沢山の遺体が運ばれて来るが、日を追う毎に損傷が増し、確認が難しくなっていく。先の中学生は近くの瓦礫の下から先日やっと発見された。お母さんは「普通なら顔見ても判別出来ない状態だったけど、親だから分かった」 と。 遺体安置所から避難所に私が戻ると朗報が待っていた。義母はお向さんの高台にある親戚のお宅に共に避難していた。あの日、公民館で降ろすつもりでいたが、車と人でごった返していたので、年寄りを置いていく事に躊躇してそのまま親戚宅に連れて行ってくれた。すぐ戻れると思って。義母は自宅の電話番号しか覚えていない。私たちの携帯番号名などは頭にない。お宅の方が市役所の避難所名簿の中から私の名前を見つけてくれて、やっと連絡ついた。あの時の感激の涙を私たち家族は一生忘れない。そして遺体安置所で横たわっていた方々の無念を私は一生忘れない。
2011.04.02
コメント(8)

左上:宮交バスが分かりますか! 右上:我が家前の電柱もこのとおり 左上:遥か遠くまで瓦礫の山 右上;土台だけ残ったお向いさんの家 左上;田んぼの水が海のよう 右上;我が家の残骸
2011.03.31
コメント(0)
私の逃れた避難所は地元の中学校。ここまでは救助の車両も入れない状態だったが、そこから歩いて行った小学校は、次の日の午前中には救助のバスが出たらしい。この小学校には800人の人が避難した。最初にその人たちを輸送してから、私たち中学校組を1200人を小学校まで歩かせ、更にそこから輸送した。「自力で歩ける人は小学校まで歩いてもらいます。どうしても歩けない人は申し出て下さい」と言われた。歩けない人は自衛隊員に背負われた。通常なら徒歩10分足らずの距離だが、足元は泥水でぬかるんでいて滑りやすかった。あの時の異様な行進は今でも脳裏を離れない。瓦礫をかき分けてやっと人が通れるようにした道路。辺りいちめん瓦礫の山。あちこちに流れついた船や車。時折火災の跡から出る煙。まさに戦場の跡のような静けさと異様な光景。戦争で焼け野原になった町は、きっとこんなだろうと思った。年寄りも子供も、幼子背負った母親も、みんな黙って歩いた。靴から靴下からドロドロになって歩いた。小学校に着いてやっと初めて水を貰った。小さな紙コップ一杯の飲み水だった。一日近く水分を取ってないのに、特別辛いとも感じなかったが、やはり美味しい。ここでまた各教室に分けられ、順番にバスで輸送される事になる。年寄り子供が優先。私は一人だったし、最初に小学校に避難したであろう義母は先に輸送されているはず。ここまで来れば急ぐ事はない。最後の50人の中にいた。その頃にはもう日が暮れていた。バスの運行は終わり(民間のバスで時間が決められていたらしい)、私が輸送されたのは赤い消防車。サイレンの音を鳴り響かせて戦場跡を走った。こんな体験は二度とないだろうと私は脳裏に焼き付けた。こんなにノンビリ最後に輸送された私をよそに、家族は今か今かと長い時間待っていたらしい。中学校に避難した事はメールで知らせてあったので、安心しているだろうと思っていたが、待っていた夫と息子にすれば何台もバスが来て大勢の人が降り立つのに母はいつまで経っても降りてこない。バスの運転手に聞けば、この便で最後ですと言われる。それでも母は帰って来ない。役所の人間に聞くと、ここだけではなく数か所に振り分けているとのこと。手分けして全部の場所を回って見るが何処にもいない。最後の最後にやっと消防車から降り立つ母を見つけて、どんなにホッとしたか。息子に言われた。「母さんはどうせ最後の方にまわるとは思っていたけど、こっちが心配していたのに、のん気に写メとったり、友達作って楽しそうに帰ってくるし、まったく~」本当に家族に心配かけました。この日から、第3の避難所となる役所近くの中学校で生活することになります。ところで義母ですが、私より早く生環したはずの義母が帰っていません。喜び束の間、義母の安否を確認出来ず、私はこの数日後、遺体安置所まで足を運ぶことになります。
2011.03.31
コメント(0)
危機一髪で逃れて来た中学校。ここで人々が見たものは… 窓から見える景色にみんな絶句。まさか、まさか、眼下に、船が家が家財が車が、淀んだ水と共に流れて来るとは…絶望の声、すすり泣く声、…私も言葉もなく、ただこの場所より海寄りの我が家も当然流された事を察した。 普段は児童数150人の校舎に1200人の避難者が集まった。各教室は、机と椅子を寄せてスペースを作っただけの所に50~60人の人々。お年寄りも子供も体を横たえるスペースなどなく、椅子を確保出来た人はいいほうで、私は机を逆さにして座る場所を確保。他の人は段ボールを敷いて場所確保。若い男性は立ちっぱなし。暖をとる物もなく、明かりもなく、不安の中一夜を過ごす。多くの人は防寒着を着て逃れて来たが、私は義母の防寒着に気をとられて自分は着の身着のままで来てしまい毛布は数少なくお年寄り優先。 誰かが教室のカーテンを引き剥がしていたのを真似て、私もカーテンを体に巻いて寒さをしのいだ。カーテンは湿っぽく重たかったけど、寒さをしのぐには充分だった。この時一枚のカーテンを分け合って共に寒さをしのいだ方は今も同じ避難所にいて、カーテンを大切に持っておられます。「これはusaさんと分け合って命守った大切な物、捨てられないっちゃあ」とおっしゃる。この方、靴も律儀に下駄箱に置いて来てスリッパ。一階の下駄箱は水浸し。トイレは流れないので当然てんこ盛り状態。スリッパで滑っては大変な事(笑)になるので、私の靴を貸してあげた。実は私も慌てて逃げて来たので、靴は夫の物、それも左右違う靴。これが彼女に丁度良かった。夜、水が引いてから次のような発表があった。「自衛隊警察が救助活動を行っているが各地に被害があり、ここの避難所には救援物資は届きません。よって水は赤ちゃんのミルクと病人の薬用以外はありません。食料も一人ビスケット2枚だけです。誠に申し訳ないが、明日自衛隊がブルで瓦礫を撤去しここまでの足場を作るまで救援隊は来ません、みんなで協力し合い乗り切りましょう」大変な事態でしたが誰も文句を言う人はいません。何よりもみんな家族の安否を心配していた。隣にいた女性は息子さんの携帯にひっきりなしに電話していた。一緒に避難してきたのに、携帯の充電器を取りに引き返したらしい。それを心配してご主人も迎えに行ったまま。二人が戻らないうちに津波が押し寄せて来て、どんな心地でいただろう、痛ましくて涙が出る。一人そっと震えていらした。(結局、息子さんは助かりご主人が亡くなられた)近所のTさんは、この春卒業就職が決まったお孫さんがたまたま帰省していて、一旦避難したのにパソコンを取りに二人で戻ったらしい。そのまま戻らず、奥さんが泣き崩れていた。津波が校舎に来た時は玄関を閉ざされ、間に合わなかった人は車を捨てて、非常階段から逃れて来た。この時下半身は泥水に浸かり正に危機一髪。近くの家の二階から助けを求める人の姿が … でも誰にも何も出来ない、流されないように祈るだけ。この方たちは、水が引いてから学校まで歩いて来た、下半身ずぶ濡れになりながら。校庭の木に釣り船が引っ掛かった。それに流された車が引っ掛かり、中にいた男性が助かった。水が引いてから自力で歩いてきた。この男性は正に地獄を見て来た。津波に流され、流れのままに乗っていると、家が人が呑み込まれる様子を車から見て来た。走って逃げている人間はアッという間だったと…命からがら生き延びた人々の話はまだまだ続きます。この最初の避難所から一夜明け、やっと瓦礫の撤去に自衛隊がすぐそこまで来るが、救助のための車両が入れず、午後になってやっと人が歩ける道だけ確保し、次の避難所まで泥濘の中、全員歩くことになります。
2011.03.31
コメント(0)

皆様、この度の東日本大震災におきまして、大変ご心配をおかけ致しました。お電話やメール等を頂き、お礼申し上げます。今回の津波では、まさに危機一髪で難を逃れ、しぶとくこうして生きております。あの日のあの瞬間、私の周りで起きた事を忘れないうちに書いておきたかったのですが、家と共にパソコンも何もかも流れてしまったので、更新することも出来ずにいました。今、息子の家にて更新しています。あの日、大地震の時、家にいたのは私と義母だけ。夫は仙台市内で仕事でした。仕事のお陰で車一台だけ、現在まで残す事ができました。名取市の海に面した町。地震の後に津波が来るのを誰しも知らないわけじゃないけれど、過去の宮城沖地震の時さえも被害が無かったため、町の人々誰も緊急感がありませんでした。私は移り住んでまだ2年足らず、ご近所さんの落ち着きようにすっかり安心していました。さて、津波から危機一髪で助かったのですが、避難所を3ケ所移されました。私の家から指定避難所は、海に近い順に、公民館、中学校、歩道橋をまたいで小学校、と3ケ所あります。小学校は海から一番遠いので、そこに避難した人は殆ど助かりました。小学生もその時まだ下校前だったので、みな助かりました。私の家から一番近い公民館に避難した人から多くの犠牲者が出ました。私は年老いた義母をお向かいさんの車に同乗お願いして、見送ってから、自分も公民館目指して自転車で走りました。ところが着いても、先に出た義母の姿がありません。駐車場は沢山の車と人で溢れていました。もしかしたら、お向かいさんは小学生がいるので、迎えがてらそっちに避難したんだと隣人に言われ、納得して、いざ中に入ろうとしたら公民館側から 「予想を超えた波がくるため、2階建のこの建物では対応出来ないので、至急3階建の中学校に避難して下さい」 と言う指示がありました。私は自転車で走った走った、歩いても数分位の距離なのだが、公民館駐車場は車と人で大混雑。どれだけの車が、どれだけの人が間に合っただろうか?後ろを振り返った人が見たものは、立ち込める黒い煙のように襲いかかる波。私が中学校に着くと、階段は上に昇る人々で大混雑、車椅子のお年寄りを数人の若者が担いでいるため、益々進まない状態の時、下から 「早く早く、上に昇って!そこまで波が来ている!」と叫ぶ声が。私が三階に上がる階段の途中で窓から見たものは …スマトラ沖大津波のテレビ映像そのもの …釣り船や瓦礫と共に波が逃げ遅れた人と車を呑み込んで行く …目の前で展開する映像のあまりの凄さに心の反応が追いつけない自分が危機一髪で助かった現実に心の反応が追いつけない人は想像を超えた事柄に会うと無感覚になるものだろうか?私は屋上に上がって、津波に襲われた自宅付近から火の手が上がっているのを冷静に携帯から写メとりました。中途半端に残るより、潔くきれいさっぱり残らないほうが諦めがつくのかも知れません。写メとりながら、私の頭の中は「住宅ローンだけが残ってしまったんだなぁ、これからどうなるのかなぁ」なんて現実的な計算してました。 津波が通った後、屋上から我が家の方角を 屋上からいつも行く生協を見て生協は一階部分が浸水し、2階に逃れた人は助かりました。 この時から避難所生活が始まり、危機一髪で生死を分けた数々のドラマを知ることになります。私が見聞きしてきた海辺の町の惨事と人々の悲しみを少しづつ書いてみたいと思います。
2011.03.29
コメント(6)
友達4人で温泉一泊行ってきました。山形県のかみのやま温泉。私以外の3人は東京から参加。 と言うより、東京からのツァーに私が現地参加したかたち。知ってます?!ツァーってこんなに安いのがあるんですよ!東京から山形新幹線往復と温泉宿一泊で土日にもかかわらず2万円ピッタリ!新幹線往復代だけで温泉一泊出来ると言う事。仙台から現地参加した私は宿代1万円でした。(なんか損露天風呂も、お部屋も、食事も、サービスも良かったですよ。私が一番気に入ったのは、露天風呂に地酒が樽に入れてあって、枡で日本酒飲み放題!雪がチラつく露天風呂で、枡酒飲みながら、旧友と語り合うなんて、最高でしょ!ところがせっかくのタダ酒なのに、私達以外誰も飲まないの。どーしてー???( ̄□ ̄;)!!誰かさん、行きたくなったでしょ! 残念ながら、いや当然ながら、このサービス、女風呂限定でした。(^ε^)あったりまえでしょうが、こんなサービス男風呂でしたら ... ... 想像しただけで恐ろしい。えへへへ(*⌒∇⌒*) 女風呂とは言え、おばはん4人グループ、酒樽けっこう空けました。かみのやま温泉、大好き!
2011.02.17
コメント(5)

先週末、久し振りに浅草の実家へ行ってきました。帰省の度に、実家の5階の窓から見えるスカイツリーの変化を楽しみにしています。帰る度に、その姿が高く高く上に伸びているからです。ずっと撮っておけば良かったと、今になって後悔しています。今現在の姿です。実家の窓から、携帯で多少ズームして撮りました。
2010.12.16
コメント(2)

東京から友達が来たので行ってきました!仙台駅から送迎バスが出てるんですよ。11前に茂庭荘に到着して午後4時まで、ゆったりまったり温泉に入り、個室で食事。下の昼食を見て下さい!これで、温泉、個室付きで、2500円。(浴衣、丹前、バスタオル、タオル付き)部屋には冷蔵庫付きですからビールも持ち込み出来ます。私は焼酎を持ち込みしたんですが、親切にも部屋には氷入りポットが。ヤッター!最近は露天風呂も出来たようです。行ってみようかと思ったんだけど、なにせ久し振りの友達。話が尽きなくて結局お風呂は一回だけで、ずっと宴会。近郊にこんなに安い日帰り温泉があるなんて、友達大感激していました。お勧めです!この日帰り温泉は平日限定です。通常は3時までだけど、バストイレ付ではない休館の個室使用だと4時までです。 詳しくはここ ⇒ 茂庭荘
2010.11.30
コメント(4)
タイトルを見ると何のことかと思いますよね。久し振りの更新なのに、毒吐き記事です、スイマセン。先日、義父の葬儀があって、喪主の妻として初めて当事者として、世間一般的な葬儀を経験しました。感想として思った事は、すべて葬儀屋さんのプログラムにこちらが合わせて進められる事に「なんだかなぁ」と言う感情。でも、義父当人は多分世間一般から外れない普通の葬儀を望んでいたであろうから、故人の望み通りに、という意味ではあれでよかったんだと思う。自分が送られる時の事を考えてしまった。自分の最後はせめて自分らしく自分の思い通りに送って欲しい…って思う私は生意気だろうか?生前、とても個性的で進歩的な考えをもっておられた方でも、亡くなられると葬儀屋さん任せに普通に送られている(ように私には見える)。なんだかなぁ人間、生まれて来る時は自分の意思など及ばないのだから、せめて数十年生きてきて、その人らしい人生を歩んで来たのだから、最後だけは自分の望むように送って欲しい!って、最近痛切に思うこの頃です。この件に関しては、私いつになく自己主張強くなってしまうので、不快に思う方は許してください。従来通りの考えの方を批判するつもりでは決してありませんから。ただね、お坊さんのお布施の高額なのにはビックリしましたよ。お金持ちならいいですよ、そりゃいくら出しても。でも我が夫婦のように貧困家庭にとっては、その金額、どれだけ汗水垂らして稼いだお金か…って、情けない言葉も出てきちゃう(あ、義父はちゃんとその分自分で残していったので文句ありません)んでね、私の時はお坊さんいりません。(バチ当りな言葉に不快感抱く方にはスミマセンが私の本音です)先祖代々のお墓はお寺さんの墓地なので、私のようなバチ当り者はその墓に入れて貰えないでしょう。だって、戒名もお経もお断りなんて、お坊さん儲けがないものね。(義父の戒名なんだけど、あれなら私でも考えられそうな、一分で考えたような、あれで数十万円?ってなものでしたよホント)こんなバチ当り者ですから、今から遺言書いておくことにしました。葬儀は密葬にして、私に関わって下さった愛する人々に集まって頂いて、生前の私を酒の肴に、大宴会を開いて、楽しく送って欲しいのです。自分の人生をわがままに思い通りに生きた私にピッタリです。そして、遺骨は大好きな海に散骨してもらいます。ネットで調べたら、「海洋散骨」希望者が年々増えているようですね。合同散骨なら数万円だそうです。私の愛するお友達、ぜひ大宴会に来て下さいね。この遺言通りにしてもらえるなら、私は最後まで思い通りに生きた幸せ者で、関わって下さったすべての方に心から感謝致します。おっと、こんな事書いたけど、心配ご無用、まだまだ先のことですから(笑)案外、皆さんよりしぶとく生きるかも~
2010.05.31
コメント(6)

知ってますか?今、どこのお店でも品切れの商品。 桃屋の「辛そうで辛くない少し辛いラー油」同じようなのがエスビー食品で出しているのがこれ 「ぶっかけおかずラー油」食べてみましたよ。フライドガーリックが具にたくさん入っていて、食感と味がいいんですよ~炊きたての白いご飯にかけて食べると最高!あと、チャーハン、サラダ、パスタ、冷や奴に合うと書いてありました。もうひとつ、最近の私のお気に入りはこれ 「キューピー具のソース」シリーズのひとつ 「野菜と胡麻の韓国風ピリ辛ソース」 今日は冷や奴にかけてみました。にんにくとコチュジャンがきいていて美味しいんですよ~これが!基本的に私は辛いもの、韓国風が好きなんですね~と言う事でnomuさ~ん、やっぱりnomuさんの「チョコチュジャン」が一番!次回お会いする時、ぜひぜひお願い致しまする。(結局作らなかったんです、どこまでも他力本願)
2010.04.14
コメント(4)
今日、日本中に南米チリ地震の影響で津波警報のニュースが流れました。海辺の町に越してきて1年、いやービックリしました。朝は普通に朝市なんぞに行って買い物楽しんでたのに、テレビニュースでは何やら大変な事になっている。太平洋沿岸に面している我が町、もろに大津波警報!午後1時半頃に津波到来とのこと、10時頃に広報車が回って来た。「大津波警報が出されているので、海岸近くには近寄らないように、船舶は避難するように」 ご近所見渡したら、暢気に洗濯物干したりしている、 なのに11時頃には消防車が「指定避難場所に至急避難して下さい」と来た。半信半疑で外に出て見たら、お年寄りがぞろぞろ避難場所に向かっているあら大変。義父母に支度させて、我家も避難場所に。中学校まで行ったら、三階の教室だって!年寄りには三階までの階段は案外キツイんだよね。4時間位避難していたけど、30センチの津波で済んだようで、帰ってきました。お腹すいてる人用に 非常用クラッカーが配られました。ん、あなどれん、うま~い。帰りながら、義母 「避難所なんて戦時中以来だ」 と、笑ってたん~ さすが、余裕!
2010.02.28
コメント(8)

今日の朝市です。何しているところでしょう! 笹かまを串にさして、その場で炭焼きにして食べるのです。一本100円!(写真右)おじさんおばさんが練りたてのかまぼこを串にさしてくれます。(写真左)買ったかまぼこを各自で焼いてます。 こんがり焼けました~ アツアツをその場であんぐり! うんま~い!
2009.10.25
コメント(10)
楽天イーグルスがクライマックスシリーズに入り、地元宮城で3連戦が行われます。来年はチケットのオークションで一儲けしようと(?笑)たくらんでる私は、まず今回のチケットを買って試してみようと考えました。ところが一般販売の当日、パソコンの前で頑張ったんですが、ナント開始時間が来たら「アクセスが多くて繋がりません、しばらくしてから再度やり直してください」みたいなコメントが…冗談じゃありません、そんな事してたら間に合いませんよ。何度かチャレンジしてやっと繋がったと思ったらすべて「予定枚数終了」だって…仕方なく駐車場チケットをなんとかゲット!(それもすぐ完売になりました)よし、今回は金額は低いがこれで少し儲けを出そうと、オークションに出品しました。欲を出して高値をつけたら、ダメでした。アクセスはあるけどさっぱり入札者が現れません。再度、値段を下げて出したら即、落札されました。結局、買った金額と送料を合わせた金額トントンで、儲けはゼロに限りなく近く、手間損となりました。(期日がせまっているので翌朝10時便を使い郵便局へ走った)他の出品者を見て学んだこと、最初は安値で人目を引いて、競り合わせて値段を上げているのです。わたしは他の落札価格を参考にして、最初から欲張ってしまった。昨日友人から、「2戦目をペアで買ったけど行けなくなったので何とか売って」と連絡があり、よしまたオークションの練習。さすがネット裏の良席、出品してすぐにアクセス数が飛び上がり、10分足らずで落札。即決価格で決まりました。これなら即決価格を設定しないで、もう少し競り合わせればもっと高値で売れたかな、なんて欲が…でも試合開催時間がせまっていたので今回はこれでよしとしました。それでも定価の3倍近い値で落札されました。友人大喜び。私も来年に備えて、大いに勉強になりました。
2009.10.17
コメント(3)

我家では毎日楽天イーグルスの試合をパソコンで観ています。今年からパリーグの全試合を中継しているので、 飲みながら観戦!今年は野村監督のノムニーニョ現象とかで、ナント あの弱小球団が5年目にしてCS出場を決め、更にリーグ2位になる勢い!これは毎日観ないわけにはまいりません。ゴールデンウィークとお盆休みには、遠くに住む息子夫婦も帰省するので、必ず外野のボックスシートを二つとります。ネットで予約するんだけど、10月11日のソフトバンクとの最終戦は凄いことになってます。宮城の球場でやる最後の試合でもあり、ソフトバンクとの2位争いの直接対決になるので、チケットがすぐに完売。10時から予約受付で、パソコン開いて待機していたのに、ちょっとモタモタしていたらアッと言う間に「完売」になっちゃった~ところがね、ヤフオク見たらいい値で出品されてるの~観戦チケットばかりか駐車券までもが、倍の値段で落札されてるの!ビックリ。そこで私、考えました。来年は人気試合のチケットを早めにゲットしておいて、ヤフオクに出品しよう!いい値で売れれば儲かるし、売れなかったら家族で観に行けばいい!あぁ、もっと早く気付けば良かった~ 今年はもうシーズン終わりだよ~来年は絶対これで行こう!(なんてとらぬタヌキのナントカを密かにしております)
2009.10.06
コメント(4)

うーめん料理の試食会に誘われました。白石うーめん協同組合さんが、うーめんフェアを実施し、仙台地区で参加した一店舗「漢方和牛ダイニング満天」というお店での試食会でした。通常メニューにはない「うーめんを使った特別料理」をフェア期間のみ出してくださるそうで、その試食です。5品もあるんですよ! 「冷製トマトのカッペリーニ」 ガーリックオイルがきいていて、トマトソースの旨味との愛称バッチリ、ウニがたっぷりのってるよ! 「すずきのうーめんガレット」 魚に小麦粉をふってうーめんで包んだものを、軽く表面を炒めてからオーブンに入れたそうです。うーめんのパリパリ感がなんとも美味しかったです。バターソースとバルサミコ酢がきいてます。 「うーめんのレンコンはさみ揚げ」 お店のハンバーグの具とうーめんを混ぜて真ん中にはさんであります。カレー味の衣で揚げてありました。 「漢方和牛のつけめん」 和牛だしの暖かいつけ汁でうーめんを食べるもの。牛肉が軟らかくて美味しかった~さすが漢方和牛のお店です。 「うーめん寿司」 おコメのかわりにうーめんで巻き寿司。水分が表面の海苔に行かないように、薄焼き卵で巻いてから海苔で巻いてあります。真ん中の赤いのは梅干なんかではありません。ナント薄切り牛刺しですよ~以上5品を、若いハンサムな店長さんが説明つきで、自ら運んで下さいました。今までうーめんと言ったら、めんつゆで食べるか、おくずかけに入れるか、そんなもんでしたが、こんなに色々なレシピがあるんですね。美味しく作ってもらって美味しく食べられるって、ホント幸せ感じます。ぐうたら主婦はやっぱり誰かが作ってくれた美味しい食事、これが一番!(最近食事作りに飽きてきた~)
2009.09.26
コメント(8)
久し振りにばあちゃんのお話です。ばあちゃんは50歳そこそこで歯がありませんでした。ハイ、ぜ~んぶの歯です。時代が時代ですから、子供の頃から栄養のある物を食べていないので、歯は弱かったようです。一本虫食い、また一本… と、次々にグラついてきた時、治療をせずに抜く事に決めました。自分の事にお金をかけたくなかった人ですから、「治療したっていずれダメになる歯、抜いてしまえば以後お金はかからない」呆れるほどのいさぎよさ!でも不思議とスルメ以外は何でも食べてました。本人曰く 「丁度指に出来るタコのように歯茎が硬くなって、何でも噛み砕ける」大したもんです!勿論、入れ歯なんてお金のかかるもの考えもしなかったから、50歳代でクシャクシャ顔でしたが…その顔が何ともばあちゃんの人柄にピッタリだった…と思うのは孫の欲目でしょうか。でも本人は自分のそんな老け顔がイヤだったようで、写真に撮られる事を極端に嫌っていました。私の小学校低学年の遠足には(当時は父兄同伴だった)ばあちゃんが来てくれたんですが、集合写真を撮る段になると必ず何処かに隠れていました。(笑)50歳代から老けていたから80歳近くになってもそのままの顔で変わらなかったけどね。今、私もこの歳になるとそろそろ歯にもガタがきてます。そのうち一本づつ抜かなければならない時が来るかも…(今は全部健在)さて、そうなったらどう対処しましょうか!普通にブリッジとかするのか… でもあれって傷んでない前後の歯に負担をかけるんでしょう? そしていずれは前後の歯もダメになるんでしょう?ならいさぎよく抜けるままにしておこうか!ばあちゃんのように…なぁんてことを考えるこの頃です。
2009.09.09
コメント(4)

我家の庭にあるしそです。 東京から来た友達はこれを見て「しその森」と言いました。こんなに一杯、虫食いもなくあるんだから、なんとか保存しなくっちゃ!塩漬けはもうしたし、他に保存方法ないかと、ネットで検索したら…「韓国漬け」とやらがありました。ここはブログ仲間のNさんやKさんの真似をして…1 大葉は丁寧に洗い、水気を切って、10枚ずつあわせておく。2 タレ 醤油 大さじ 3 胡麻油 大さじ 1 しょうが・ニンニク 大さじ1 砂糖 小さじ 2 いりゴマ 小さじ 1 粉唐辛子 小さじ 1 以上をあわせ鍋で煮立てる。3 保存容器に大葉を入れ、上から冷ましたタレをかける。 あとは時々容器をゆすりながら、味をなじませ、2~3日したら色が変わり、 美味しそうになるそうです。 ご飯に巻いたり、おむすびにしたり、あぁ私2~3日なんて待てない!今日夕飯にたべちゃおう!
2009.09.01
コメント(7)

ビーチの賑わいも今日まで。 仮設トイレも、お店も、監視塔も明日には撤去され、いつものマイビーチに戻る。 水平線に、波に、砂浜に、 明日からも私だけはそっと楽しんじゃおう!
2009.08.16
コメント(2)
お友達がブログでね、私のこと「賢い人」って褒めてくれたの!キャッ!天然なだけなんだけど、人に褒められるっていくつになっても嬉しい!自分を振り返ると、決して賢くないんだけど、若い時から自分を知っていたのかも知れない…と思う。(だらしない、育ちが悪い、気が利かない、おおざっぱ、自信を持って言える長所は、怒ったことがない)昔、東京で花のOL していた頃、尊敬する先輩がこう言いました。「unnkoちゃんは損してるよ、いつも穏やかで怒らないから、誰も気を使ってくれないよ」20歳の私、こう言いました。「誰も私に気を使ってくれない…それこそが私の望みなんです、私、人に気遣い出来る人じゃないんで、自分も人に気を使ってもらえなくてそれでいいんです」「居ても誰も気にならない、居なくても気にならない存在、私それがいいんです。自分に自信がないんじゃなくて、そんな存在を必要としてくれる人が世の中いるはず」そう言った私に、尊敬する先輩は「そんなことを言う人、初めてだよ」って言いました。そうなんです、自分がいかほどの者か自分が一番知っているので、人に求めない、怒らない、だってそんな資格私にはありません…これまでいろいろな職場で働きましたが、いじめられたことがないのです!こんな天然な私だからイヤミを言われた事もあったはずですが、イヤミをイヤミと気付かないでしまったのですね。 後からあの言葉はもしかしてイヤミかも~ って思う事もあったけど、済んでしまったし考えてもしゃ~ないや、まず寝よう … って 朝にはどうでも良くなって (笑)そんなだから人に嫌われることはほとんどないのだけれどたま~に 「この人もしかして私のこと嫌い?」って態度の人に出会うと「えっ、何故なんだろう?知りたい!知りたい!」ってかえって興味をもったりして結果的には大の仲良しになってます。あら、私 結局 何自慢したかったんだろう?そうだ! 人生○十年、怒ったことがない! … (自慢にならないか)私が選んだダンナ様、 これがすぐ瞬間湯沸かし器になるんだなぁ …そう私のじいちゃんそのもの! 不思議ですねえ壊れた湯沸かし器にとっては、ある意味憧れかも … すぐ熱くなれるって!(あっ そうだ、ダンナ様には私怒ったふりします、子共の事では絶対譲りません)桃さ~ん! 中年女性の皆さ~ん!語り合いましょう! 思い通りに生きましょう 残る時間を!
2009.08.08
コメント(8)

東京から友達が4人遊びに来ました。朝市とマイビーチを楽しみに! 今日は天気に恵まれビーチにも沢山の人!焼ける太陽、熱い砂、心地よい海風、…毎年訪れる若者の夏、…昔 若者にとっても、ここでは気分はすっかり若者、還暦も間近な女性が束になって海水浴… 凄くないですか~!学生時代からずっとこうして集まって、だべって、飲んで、遊んでます。我家に2泊して、飲むわ、飲むわ、朝起きて一杯、海辺でいっぱ~い、帰って一杯、寝床で焼酎いっぱ~い!40年続いている、私の幸せのひとつです。
2009.07.20
コメント(2)

海の思い出をもうひとつ九十九里浜でのことです。あそこの海水浴場はいつも波が高く、泳ぐには適していませんが波に乗って遊ぶには最適です。私はあそこで、波が引く時の自然の力の凄さを知りました。水の高さは腰までしかないのに、凄い力で沖に向かって持って行かれるのです。岸に向かって力いっぱい歩くのですが、波の引く力に足を取られ…水際僅か数メートルの位置なのに沖に流されそうになり…必死の形相の私を見て、男性が近づいて来て手を差し出し、引っ張ってくれました。場所によってそうなるらしいのです。自然の力の前では、「泳げる」なんて自信は返って仇になります。 その日、若い男性が溺れ、岸に運ばれてきました。全身真っ白な身体だったことが記憶に深く残っています。砂浜に横たえて、心臓マッサージを数人で施すのですが、目から鼻から口から耳から、泡が出て、なんとも恐ろしい光景でした。マッサージの時間はとても長かった気がします。… でも息を吹き返すことはありませんでした。人は自然の力の前ではまったく無力な事を身を持って知り、それ以来、無茶な事はしなくなりました。今日のマイビーチも波がありましたが、あの時の波とは比べようもありません。
2009.06.28
コメント(0)

今日は暑い一日になると天気予報。早く夏が来て海辺の賑わいが到来しないかな~と、マイビーチの様子を見に行ってきました。午前10時、ありましたパラソル、そして水際で遊ぶ親子、サーファーも そうだ、午後から持ってひとりのんびりしよう! 海にはド恥ずかしい思い出があります。花も恥らう乙女の頃、当時流行のビキニの水着を着て海に行きました。人で賑わう海岸から数百メートル先に小さな岩場が見えました。泳ぎ達者な人しか行けない岩場に、数人の人影が…泳ぎに自信のある私はビキニの水着でそこまで優雅に泳いで行きました。たどり着いて岩場に上がる時、親切な若い男性が上から手を差し伸べてくれました。その時 …腕を上げて、手を繋いだ時に …私は自分の胸の膨らみサイズをすっかり忘れていました。そうなんです 標準より小さいんですから、ビキニの水着で腕を最上に上げたら…片方の小さな膨らみがお豆と一緒に顔出してしまうこと …予測すべきでした。男性の顔は、見なかった事にしてあげる、でも見ちゃったよ~ん、って言ってた。せっかく着いてノンビリ景色を楽しみたかったのに、恥ずかしくてとてもその場に居る気になれず …すぐに海に飛び込んでまた泳いで帰りました。海岸に戻っても、その男性に二度と会わないようにと何故かコソコソ …あの恥ずかしさは今でも忘れません。だって乙女の頃ですから~今なら笑って勝手になかったことにしちゃうのに~泳ぐ時には水着を考えましょう! イヤもう、今では水着の上には必ずTシャツ着て、胸より出た腹回りを隠さなければなりませんが。コムさんのお話から、私も乙女の頃の恥ずかしい思い出、書いてしまいました。
2009.06.25
コメント(8)
… … って決めてから6年目になりました。経理事務の仕事をしてて、パソコン打つ右手が重たく感じ、そのうち緊張すると右手が小さく振るえるようになり …整形外科に初めて行った時の先生の言葉「申し訳ないがこれは私の診療範囲ではありません。神経内科です。紹介状を書きますので…」と、気の毒そうな顔をされました。私も相変わらずノーテンキで、紹介状を書いて貰ってから3ケ月もほっておいてから神経内科に行きました。待合室の壁に 「こんな症状はありませんか?緊張すると手が震える、箸がうまく使えない、足が重い」ビックリしました、全部当てはまるので。神経難病に指定されている進行性の病気でした。原因も治療方法も確定されていないので、国の特定疾患に指定されています。私って本当に冷静に受け止めました。「あの、毎晩お酒飲んでるんですけど、止めなきゃダメな病気ですか?」なんて聞いてましたっけ 先生が「この病気になる人は几帳面で真面目な人が多いんですよ」って言ってたけど、子供達には「お母さんには全然当てはまらないじゃない」と言われて…幸いにもあれしちゃダメ、これ食べちゃダメ、とかなくて今まで通りにしていい病気で、ホッとしました。脳神経の伝達物質が不足する病気なので、50%の人が鬱病を併発するようですが、たぶん私は大丈夫。ただね、6年目にもなると薬が切れると足が重たくなって引きずるし、姿勢保持障害も出てくるし、ちょっと情けない。 大切な友達にはみんなに病気のこと言いました。「病気とコラボ…」の私を今まで通り付き合って欲しいから。去年、「インターネットを活用した支援講座」を申し込む時は、最初から面接の時に申告しました。初めての授業で自己紹介する時も、自分から言いました。これ本当に良かったと今も思っています。あの時、私はここで知り合う人はきっと後々まで繋がる大切な仲間になると…直感したような気がします。この歳になると外見は衰えるばかり、せめて潔い(いさぎよい)姿勢で生きたいと…思ってます。私にはばあちゃんと言うお手本があるから … ね!
2009.06.09
コメント(6)
じいちゃんの顔、津川雅彦似と以前書いたけど、本人は長谷川和夫だと言ってたようです。 さてじいちゃん、70歳そこそこで死んでしまい、病名はまあそれなりに付けられたんですが、家族は「酒飲みすぎて死んだ」と認識しています。(笑)毎晩よく飲んでいました。 最後は医者に止められました。そうなるとばあちゃんだって酒を隠します。ある日、ばあちゃんが留守の時、自分の娘(私の母)を脅かして酒を持ってこさせ、飲みました。ハイ、それからまもなく死んでしまいました。何ともじいちゃんらしい…いつも私に言ってましたもの「好きなように生きてきたから、もう何の望みもないが、たったひとつ望むことがある、それは一日でも一時間でも早く、ばばぁより先に死にたい」 と。身の回りすべてをしてくれる妻に先に死なれるのが一番イヤだったんでしょうね。すべてばあちゃんにおんぶにだっこでしたもの。その気持ちを分かっているから、ばあちゃん最後までよく尽くしましたよ。じいちゃんて、最後の望みもかなってホント幸せな人生だったんでしょうね。最後に大好きな酒も飲めたし… 当時の私ときたら、ばあちゃんの身体が心配で、このままじいちゃん長生きしたら、ばあちゃんがマイってしまうと思い、どこかでホットした思いがありました。あんなに可愛がった孫なのにね。 今この歳になると分かります。私はじいちゃんから、ばあちゃんとは一味違った愛情を貰った事を…じいちゃんの愛情は教育も躾も頭にはなく、ただただ溺愛でしたけど、それもまた幼い私には必要だったこと…短気ですぐ瞬間湯沸かし器になるじいちゃんが、そこがどうしても嫌いだった筈なのに、今こうして書いてみると何とも愛しく感じます。今晩はじいちゃんを想い、久し振りに晩酌のお酒を日本酒にしてみようかな~
2009.06.01
コメント(4)
ばあちゃんを慕う人はたくさんいたけど、じいちゃんも人に慕われたんだぁ、いいとこあったんだぁ … って思えるいい話がひとつあるんです。浅草では色々な行事があるけど、「節分」の時にこんなのがあります。各町内から選ばれた年男が、江戸時代さながらの裃(かみしも)姿で、浅草寺まで行列をして、舞台で豆まきをします。選ばれた年男は、観光客や町内の人々が大勢みまもる中を行列するわけですから、きっと一生一度の晴れ姿です。同じ町内に老舗の洋菓子屋さんがあり、そこのご主人は私の母と同じように軽い知的障害がありました。その方に年男がまわってきたんですが、大役をこなせるのか心配の声が役員の間で囁かれたそうです。 そこで私のじいちゃん、鶴の一声!「何を言う、仮にも彼は一国一城の主である、私が責任を持って大役を果たさせる、文句あるか!」って言ったそうです。日頃からワンマンでエラソーに牛耳ってる町内会長のじいちゃんに異議をとなえる人などおりません。晴れてそのご主人は年男の大役をはたす事が出来ました。その方のお母さんはその姿を見て、それはそれは喜んだそうな…そしてじいちゃんにとても感謝していたそうな… じいちゃんの葬儀の時、身内でもないのに、いつまでもいつまでも棺の傍を離れず、名残り惜しむお婆さんの姿がありました。亡き人をそれはそれは慕っている様子が皆の心をうちました。洋菓子屋さんのお婆さんでした。 そして、そのじいちゃんのいい話を私はばあちゃんの妹から聞きました。「○○さん(じいちゃん)はそんな男気がある憎めない人だった、でも私は好きじゃなかったけどね、姉さんに苦労ばかりかけたから」じいちゃんの数少ない(笑)ステキな話でした。
2009.05.31
コメント(2)
ネットオークション出品第一号のスーツが売れました!せっかく講座で学んだのに、身の回りのあれこれで出品出来なかったのが(ウソですサボっていただけ)商品写真を3枚撮り、サイズ等詳細を載せて待つこと3日、落札の連絡が来ました。やった~!初体験!毎週のようにオークションで商品を買っているのに出品は初めてなもんで。娘が着なくなった黒のスーツ、入札者は一人だけだったので、最初に設定した値段でしたが、何でも初体験はワクワクしますね。載せた写真もデジカメでなく、簡単に携帯で撮ったものなので、サイズを心配していたら、勝手にあんばいなサイズで載ってました。初出品でひとつ新しいこと学びました。出品者はまず「オークション配送本人確認」なる手続きがいるんですね。 パソコンから手続きをすると、数日後に宅配業者が「受付番号と暗号」を記した書類を配達してくれます。その時、身分証明書をお兄さん(宅配業者)に提示しなければなりません。昨今の宅配業者さんもこんなことまでしなきゃらならいなんて大変ですねぇ。若いお兄さんだってモタモタして機械に登録していたんだから、中高年では大変だろうなぁ。その手続きが済んでから出品できるのです。さてさて次は何を出品しようかなぁ
2009.05.26
コメント(9)
じいちゃんは、板前だったけど、パチンコにお酒に女が(笑)大好きで、私がもの心ついた頃には、もう働いていませんでした。50歳そこそこで、今で言う「脳梗塞」か何かで、軽い半身麻痺が残ったようです。お酒飲みすぎたからなったんだと家族は思ってます。でも記憶の中では杖を使っていたのは晩年になってからで、50歳代の頃は普通に生活していたと思います。軽い麻痺なのに、板前としてはダメなだけで、これ幸いとばあちゃんにおんぶしたんだね。あてにならない亭主をもったばあちゃんは、生活の為に下宿屋と駄菓子屋で家族を養ったんだけど、自分が働かなくても生活出来るとなると、男は勤労意欲がなくなるんでしょうかねぇ。 じいちゃんとばあちゃんを比較するとあまりに面白いんですよ!じいちゃん威勢はいいけど案外臆病で、ばあちゃん、ここぞと言う時にエライ度胸がいい。じいちゃん見栄っ張りだからお金出て行くだけ、ばあちゃん、ケチだけどここぞと言う時にはエライ気前いい。ばあちゃんの妹が言ってました。「姉さんは、毎日食うもの食わず節約して暮らしているのに、夫の親戚が来るとご馳走でもてなす人だった」私達孫にも贅沢はさせなかった。服は貰い物、日々の食事も他人には見せられないような質素な物、友達みんなが持っているような物も買ってくれなかった。そのくせ教育にかかるお金だけはどんなにしても出してくれた。習い事、塾、参考書、これらは友達に負けないくらいしてくれた。我家のものごとすべてはばあちゃんの信念で決まった…威勢のいいじいちゃんでさえ、ばあちゃんの信念の前には口も出ず…「クソばばあ」「こじきばばあ」と悪態ついても、ばあちゃんの人としての偉大さを認めていたんだね、きっと。 あら、じいちゃんの事を書いたつもりが、結局ばあちゃんのお話になってしまいましたよ。
2009.05.22
コメント(2)
「三社祭」の記事から、お友達の桃さんに「じいちゃんの描写が生き生きして面白い」と言ってもらい、気を良くして「じいちゃん」をもう少し…じいちゃん明治生まれなのに、身長180cm近くあり、鼻も高く、津川雅彦似のハンサムでした。ばあちゃんは鼻も低く、けっして美人とは言えないけど、嫌味のない包み込むような優しさが顔に出ている人でした。どっちが惚れたんだか聞いた事ないけど、ハンサムでお人よしで仕切り屋のじいちゃんが頼もしく見えちゃったのかなぁでも女性がほっておかないのか、じいちゃんが女好きなのか、常に女性問題があったようで…ばあちゃんの妹が私に話してくれました。女性宅にいるじいちゃんを迎えに行くのに、一人じゃなんだからと付き合わされたのに、帰り道は二人で仲良く肩並べて自分の前を歩いてた、その姿を後から歩きながら見て「全くばかばかしい」と思ったと…まぁばあちゃんの事だから「済んじまった事は仕方ないわな」ってな感じで許してたんだろうなぁでも私が年頃になったら、ばあちゃんこう言いました。「いいかい、どんな人を好きになってもいいけど、奥さんのいる人だけはダメだよ!人の恨みをかったら幸せにはなれないんだよ」やはり、おおらかなばあちゃんでも女としての思いがあったんでしょうね。しかし、明治の女性ですね、私なら欲しい人がいるならくれてやるのにあんな連れ合い! 女好き(?)のじいちゃん、60歳過ぎても若い女性の裸写真の載った雑誌をこっそり買ってました。顔馴染のクスリ屋さんから毎月、ついでに私のマンガ雑誌「マーガレット」も一緒に…本人こっそりのつもりでも家族みんな知ってましたよ、私はついでに買ってくれるのが嬉しくて知らないふりしてましたけど…自分がそんなだから、男の狼を知ってるから、孫娘の私が可愛くて、虫がつかないように(ほっといてくれ)、門限にはそれはそれは厳しかったです。高校生なのに門限6時だったんですよ、それじゃあまともに友達付き合いも出来ませんわな…私が抗議しても、ばあちゃんが「頼むから守っておくれ、じいちゃんがお前が帰ってくるまで、まだか、まだかとうるさいんだよ」私の事、可愛かったんでしょうねぇ、自分の娘(私の母)は普通の子供じゃないから疎ましく思っていたのに、普通の子供を育てる楽しさ、誇らしさを孫を育てて知ったじいちゃんでした。私が20歳の時、じいちゃん亡くなりました。やっと門限なくなり、それから遊びほうけました…とさ(笑)じいちゃんの話、案外おもしろいですねぇ また書きます。
2009.05.21
コメント(3)
昨日と今日は、浅草の三社祭です。子供の頃はお正月よりも楽しみな行事でした。昔は毎年、新しい浴衣生地で町内中おそろいの浴衣を着たものです。ばあちゃんが毎年新しい生地でじいちゃんと私と弟の三人分の浴衣を縫っていました。生地を新調しないで去年の浴衣を着ている家もありましたが、我家の経済上を考えれば本来そうすべきなのに、なにせじいちゃん町内会長、見栄っ張り、そんな事は許されません。毎年、毎年新しい町内中お揃いの浴衣を着ました。今考えれば、ばあちゃん大変だったろうなぁ... 縫うのがじゃなくて、お金が...でもじいちゃんの男としての顔を立ててやるんだよねぇ、ばあちゃんて人は。(じいちゃんの葬式の件は、本人は死んじまってるんだし、死人の顔立てる必要はないと思ったのかな)宮出しの時はじいちゃん朝早くから浅草寺に出向いてました。仕切るの大好きだったんだねぇじいちゃん!ばあちゃんは表舞台に立つのが嫌いで、陰で支える人だったんだけど、何故か皆じいちゃんじゃなくて、ばあちゃんに惹かれるんだよねこれが。じいちゃんにはいつも身なりをキチンとさせて、自分は毎日同じ服着てたなぁそれなのにじいちゃん気に食わない事あると 「こじきばばぁ」だの「クソばばぁ」だのと言って...子供心にも腹立ちましたよ!当時は神輿を担いだ後、大人にはお神酒、子供にはジュースが配られて、最後に銭湯の入浴券が貰えます。その日の銭湯は肩を赤く腫らした人々で賑わいます。浴衣、じいちゃん、銭湯、私の中で鮮やかに蘇る三社祭です。
2009.05.17
コメント(4)

昨日、Kスタ宮城で楽天対オリックスの試合を観てきました。お天気も良いし、ピッチャー岩隈に当たり、最高の観戦日和となりました。外野席のブルーの色した座席を知ってますか? 「グループシート5」と言って、5人まで座れて1万円前後で買えます。一度この座席にしてから、もう今までの一列並びの座席には座りたくありません。だってビール飲むからトイレに行く回数が半端じゃなく、その度にお隣さんに「失礼します」「すいません」でしたから…この座席はご覧の通り、テーブルがあり、5人座れるようにボックスになっているので、気兼ねなくトイレに直行できるのです。 80歳の爺ちゃん婆ちゃんと息子と行ってきました。めったに勝ち試合に遭遇しないのに、昨日は勝ちました~!野球場で家族で飲むビールも美味しいですよ~!
2009.05.03
コメント(2)

我家から徒歩15分で太平洋に面した海岸に行けます。 今日のビーチです。東京のど真ん中で育ったので、「海」は幼い頃からの憧れでした。地平線の彼方には、まだ見ぬ世界が広がっているような、胸がワクワクする感動を幼い日から抱いていました。人生の最後は海の見えるところでと…ずっと思っていたのでだから昨年この地に越してきて、ひとつだけ夢がかないました。徒歩15分なんて…もう私の「海」のようなものです。(笑)だから勝手に「マイビーチ」これから折にふれマイビーチをアップしますね~夏の海水浴には是非遊びに来て下さいね!子供に戻って楽しみましょうよ!あ、でも夏なんだから飲み物は大人のビールね!
2009.04.29
コメント(10)
先日、息子のお嫁さんに子供が産まれました。今時のお産って私の頃と違うもんですね~父親がまさに産まれる瞬間も立ち会えるんですね、母親がいきむ時は一緒にいきみ、子供が出てきた時は、紫色していた赤子が産声をあげた瞬間から、サーっと一瞬にしてピンク色に変わるときの感動を共有出来るそうです。そして「カンガルーケア」と言って、産まれるとすぐに横たわる母親の胸に赤子を這わせ、お乳を吸わせるんですってね。赤子の体は拭くだけで、産湯も数日経ってから入れるんですって! …命の誕生と言う出来事に久々に感動しましたが、また同時に我が身の老いにも思いが巡ってしまいます。せっかくの喜びの時にこんな思いへんですが、誕生の延長線上にある「老い」と「死」まで思いが巡ってしまうのは私だけでしょうか?新しく生まれる命、去り行く命 … 子供の頃は「死」に対して、計り知れない恐怖を抱いていましたが、「年寄りはどうしてあんなに死に対して心が据わっているんだろう」と不思議でした。自分がこの歳になり、ようやく少し分かるようになりました。毎日確実に死に向かっている時間に対して不思議な覚悟が出来るんですね、歳と共に。幼い日、「人は死ぬとどうなるの?何処に行くの?恐くはないの?」と尋ねたものです。ばあちゃんなら「なあにねぇ、何も分からずおっかさんの腹から生まれてきたんだ、おっかさんの腹に戻ると思えばいいんだよ」って言ってくれそうな気がするんです。
2009.04.23
コメント(6)
お友達のブログを訪問して、久し振りになんとも暖かく懐かしい思いが蘇りました。そこには、小学校入学を控えた小さな男の子が、大好きなお兄さんとのお別れ…という人生初めての重大事に直面した様子が綴られていました。子供の純粋な情感、素直な感性が現れていて、我が子達の幼き日々をつい思い出してしまいました。子供の頃って、そうだったね!あんな可愛く愛しい日々が、我が子と私にもあったのに、つまらない事に思いと時間を奪われて、あっという間に過ぎ去ってしまったような…二度とないあの日々をもっとじっくり向き合えば良かったと…そんな思いが蘇り、久し振りに子供達のアルバムを開いてみました。 そういえば、思わず笑えないけど笑ってしまう出来事を思い出しました。我が家で一番のやんちゃ坊主、次男の事です。学校給食に三角のチーズが出るんですが、ある日、私とこんな会話になりました。「友達みんなこれ嫌いで残すんだよ、もったいね~ だから貰ってきたよ」「あらもったいないわね~ 我家ではお父さんお母さんの酒の肴になるのにね、残すくらいなら貰って来てよ、我家貧乏なんだから」「うん、わかった~」それから毎日のように給食にチーズが出る日は、沢山持って帰るようになりました。私は「美味しい、美味しい」とご満悦!ところが学校で先生との面談があった時、その話になり…先生曰く 「確かにチーズが嫌いで○○君にあげる子もいますが、食べようと思っているのに{オマエ、食べないだろう、貰うぞ} と言われて取られてしまう子もいるんです、○○君はクラスでもボス的存在で、イヤと言えない子もいるんですよ」私、マッサオ~!そんな事とは知らずに、晩酌に沢山のチーズを美味しそうに食べていたノーテンキな夫婦 ナントおばかな母親でした。でもあの時の子供の目は輝いていました。母親の喜ぶ顔が嬉しかったんですね、また見たかったから持ってきたんですね。そして、そのうち強引に 子供は親が大好きで、喜ばせようと頑張って、ある時は理不尽と思っても従ったり、ある時は自分なりに考えておかしな事してみたり…考えてみれば、親が子供から沢山の愛情を貰ってきたんだなぁ…としみじみ思うこの頃です。今が子育て真っ最中のお父さんお母さん、可愛い子供達との日々をじっくり味わって下さいね、アッという間に大きくなってしまいますよ。我家の次男ですが、その後も学校でいろんな事件をおこしてくれて、男の子を持つ親の大変さをじっくり体験させてくれました。ですが、大人になったら誰よりも子供に慕われるお兄さんになりました。
2009.04.08
コメント(6)

昨日も朝市行ってきました。今回は、もうひとつの水餃子のお店へこちらの店の水餃子はニラがいっぱい!これでもかと言うくらい入っています。きょうはショウロンポウとの組み合わせ。こちらも一人前300円なので大人気! 勿論、キムチは乗せ放題。またもや、これでもか!とばかりに山盛りに乗せてるおじさんが… その先には、私の大好物のジャコを売ってるお店へ。ここで、ジャコの天ぷらの試食が出来ます。 揚げたてなので美味しいよ~。 私の得意料理「ジャコ天」はここの試食のパクリです。その他にも、味噌汁やすり身汁、海苔の澄し汁の試食もあります。友達を連れて行くと、あれもこれもといっぱい買って行きます。「おいおい、そんなに食べられるの?」「だって安いんだもの!」
2009.04.06
コメント(3)
私と弟は、「一卵性姉弟」 と言われます。性格も考え方もそっくりだと。だって二人とも、あの浅草のがばいばあちゃんに育てられたんですから… 私達二人は、ばあちゃんが死んでから、母親の事は自分達が面倒みなきゃならないと、互いに口に出さずとも覚悟がありました。母の事は共に暮らした者にしか理解できないから…ところが自分は遠くに嫁いでしまい、弟だけに母親をおしつけてしまったようで、申し訳ない思いがありました。特に弟がお嫁さんを貰った時の事を考えて複雑な思いでした。姑として、母がうまくやれるわけないですから…母の障害はどうしても他人には理解し難いものなんです。一緒に暮らしてきた者にしか無理なんです。私は、嫁になる人に「母は社会生活をうまくやれない人なんです、だからこの先アナタが母と何かあっても、決して私はアナタを悪く思うことはないから」と言っておきました。私に出来る精一杯の協力でした。 だけど理解されないとしても、母がどういう人かを嫁になる人に一応説明してあるのかと思っていたんですが、ヤツめ、ぜ~んぜん言ってなかったんです。「口で説明したって解らないでしょう、実際に接したってきっと本質は解らないでしょう」確かに!実際、私も伴侶にどう説明したかと言うと…「母はちょっと普通じゃないから、普通の人のものさしで見ないで」とか、その程度しか説明出来なかったような…そう考えると、ばあちゃんが婿さんに娘の障害をきちんと説明出来なくて、うやむやなまま結婚させたのも解るような気がします。結局、私も弟も、ばあちゃんと同じでした。伴侶は騙されたようなもんです(笑)今ではこんなこともお酒を飲みながらの笑話です。
2009.03.31
コメント(6)

今日もまた閖上朝市に夫婦で行ってきました。ここのところ日曜のたびに出かけます。お目当ては水餃子。最近、大人気なんですよ!なぜなら一人前300円でキムチ乗せ放題! いつも行列だけど、すぐ出来てくるのでアツアツを頂けます。美味しそうでしょう!中国人手作りの本場の水餃子、最近ここの朝市の名物になってます。二軒あるけど、今日は入口近くのお店で食べました。その他、海藻類や魚介類、お刺身等いっぱいお店あるんだけど、今日もオサイフが軽かったので、いつものように見るだけで帰ることに… ん! 帰りぎわに美味しそうなイチゴが 「はい、最後だからまけとくよ、4パック500円でどう?」 「500円!買う、、買う」 いいね、朝市!
2009.03.22
コメント(12)
全102件 (102件中 1-50件目)