痔キル博士の部屋

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2011.10.02
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カテゴリ: 物思う日


周りには同じ形をした灰色の4階建の建物が何棟も並んで建っていた。違いは壁の横に付けられた番号だ。 そばには形と色も違うアルファベットの付いた建物も並んでいた。

新しいが冷たい灰色のコンクリートが剥き出しの官舎に着いた時、玄関そばに三輪車が置いてあったので早速使っていると、生意気そうな小僧のSがやってきて使うなと言った。 お互いの視線に火花が散った。 
眼鏡をかけた細身の神経質そうなSの母親はSを咎め使わせるように言った。

九州時代なら、親分の権威を使い、有無を言わせず強引に使っていただろうが、その時は慣れない新しい環境に怯みと九州では見かけない風袋のSの母親の姿もあったのだろう、素直に三輪車を返し引越しの初日は終わった。

ひとつ下のSとはそれから仲良く遊ぶ仲になり、東京での新しい生活にも溶け込んで行った。

そして数ヶ月かの時が流れ、新しくその区に出来たH小学校へ入学した。
朝鮮戦争の後に急速に増えた(?)国防関係の公務員に対応しできた宿舎のあるコミュニティに建てられた新しい学校だった。 当時の防衛庁や外務省関係の宿舎があり、その二種類の建物の見た目も質も違うのが不思議だと思っていた。 
差別の概念などない時だったが、外務省は優遇されていると幼い心に感じた。

小学生一年の担任は歌舞伎役者のような華奢な端正な顔立ちの男性教師、T教頭だった。
団体生活に慣れないワシは行きたくないと泣いた。 登校拒否を考えていた。 

実は九州、福岡時代はキリスト教会系の幼稚園に行くのを拒否し、自分の世界を作っていた。粘土造りでひたすら自分の世界に浸り生きていた。 優しいが厳しい祖母は何故かそんなワシの行動を咎めることもなく、上手くできたと稚拙な作品を褒めてくれた。 
従姉、従兄らが同じ幼稚園に通う中、一人ぼっちで毎日自分だけの幸福な時間を過ごしていた、そんな田舎での空虚な時期があった。

ワシの二度目の登校拒否に、母は仕方なく、学校に一緒に来てくれ何故かその時にクラスに置いてあった大きなグランドピアノを弾いてくれた。
わざと泣きじゃくるワシを後ろの席に居た天使のような女の子が慰めてくれたが、その娘の事は名前も今は思い出せない。

『エリーゼのために』だったか、『トルコ行進曲』だったか、いつも聞かされていたピアノ曲に、兎も角、幼い心は安らぎ、何とか小学校での生活が始まった。 
そしてこの数十分の出来事が自分の心の傷、恥として半世紀の間、時折、顔を出す。

そんな揺らぐ心の真相の理解出来ないような事件があってさらに数ヶ月が過ぎ、いつの間にか家族が呼ぶ東京でのワシのあだ名は『親分』から『ぶん』に変わった。
(次号へ続く)





なよなよした、まるで女の子のようだった男子生徒から葉書を担任だった教師が受け取った。
葉書には、
「結婚して『性』が変わりました。」
とあり、その教師は性転換したのかと驚いた。

実は、婿養子になったのだが、『姓』を『性』と書き間違えていたのだった。






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Last updated  2011.10.16 13:12:13
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