PR
カレンダー
カテゴリ
コメント新着
キーワードサーチ
NHK 大河ドラマ『青天を衝け』も回を重ね、「渋沢栄一」の若き頃の姿がいきいきと描かれ毎回大きな楽しみになっています。いよいよその後の渋沢栄一にとって、資本主義黎明期を創出する活動のベースとなる知識・経験がこのパリ万博という「洋行」で身に着けていくことになります。また、大阪での経済、経済界に活躍した「薩摩の五代友厚」などとの接点もみられるので興味が尽きません。

( 出典: wikipedia 、パリ万博幕府派遣団集合写真 )
ところで、大河ドラマのなかで、徳川将軍家以外に、御三家の水戸徳川家や御三卿と言われる『一橋家、田安家』などが登場します。慶喜も御三卿の一橋家から 15 代将軍になりましたね。そこで、ちょっと詳しく調べてみました。
<幕末での徳川家>
以下の様に、 3 つに分類されます。
① 徳川将軍家 ( 徳川宗家)
② 徳川御三家
: 家康が幕府を守り、将軍を補佐する藩として家格を与えた。水戸家は参勤交代が免除され、常府として江戸に常住した。実際は、御三家はすべて家康の子どもたちです。それにしても、家康も子どもに恵まれましたね。
〇尾張徳川家 ( 家康 9 子義直)
〇紀州徳川家 ( 家康 10 子頼宣)※ 8 代将軍吉宗 〜 家茂まで
〇水戸徳川家 ( 家康 11 子頼房)
③ 徳川御三卿 →徳川将軍家から分立
徳川将軍家に後嗣がない際に後継者を提供する役割を担った。実は、この御三卿というのはちょっとよくわかりませんでした。調べると、 8 代将軍吉宗、 9 代将軍家重の時代に創設されたようです。
〇田安徳川家 ( 始祖は徳川宗武 : 吉宗の次男)
〇一橋徳川家 ( 始祖は徳川宗尹 : 吉宗の 4 男)
〇清水徳川家 ( 始祖は徳川重好 :9 代将軍家重の次男)
※田安、一橋、清水の通称はそれぞれの屋敷地が所在する江戸城内の最も近い城門の名称に由来する。

( 出典: wikipedia 1866 年(慶応 2 年)頃 撮影 )
御三卿の「家」の性格は、江戸時代の他の大名家とは明らかな相違がみられ、幕府からは各家の当主に 10 万石が支給されていたが、領地は日本各地に分散して存在しており、これらの領地の支配は独自の代官所によって行われた。
<徳川昭武>
パリ万博の団長の「徳川昭武」について調べてみました。
徳川 昭武(とくがわ あきたけ)は、清水徳川家第 6
代当主、のち水戸藩第 11
代(最後)の藩主。 第 9
代水戸藩主・徳川斉昭の十八男(庶子)で、第 10
代藩主・徳川慶篤、第 15
代将軍・ 徳川慶喜の異母弟にあたる。
優秀な人材であったようで、慶喜からは期待の留学を命じ
られています。
( 出典: wikipedia 、徳川昭武 )
パリ万博の集合写真をみると明らかに小柄な「昭武」がみられますが、このときはまだ 13 才だったのですから
( 略歴 )
嘉永 6
年( 1853
年) -
誕生。
文久
3
年(
1863
年)
-
上京して佐幕活動に従事。従五位下侍従・民部大輔に任官。
元治元年(
1864
年)
-
天狗党討伐に出陣。
慶応 2
年( 1866
年) -
昭武と改名。清水徳川家を相続。従四位下左近衛権少将。パリ万国博覧会に参加。これ以後、欧州各国を歴訪するなどフランスにて留学。
明治
2
年(
1869
年)
-
フランスより帰国、水戸藩主に就任(水戸徳川家を相続)。版籍奉還により水戸藩知事。
明治
3
年(
1870
年)
-
永世禄(
3500
石)。北海道開拓を巡見。
明治
4
年(
1871
年)
-
廃藩置県。東京に移住。
明治
7
年(
1874
年)
-
陸軍少尉任官。
明治
8
年(
1875
年)
-
陸軍戸山学校教官(生徒隊付)。
明治
9
年(
1876
年)
-
アメリカ万国博覧会御用掛としてアメリカへ派遣。陸軍少尉免官。フランスにて留学。
明治
14
年(
1881
年)
-
帰国。従三位、麝香間祗候。
明治
15
年(
1882
年)
-
大能牧場
[
注釈
3]
を復興。小梅邸行幸。
明治
16
年(
1883
年)
-
家督を甥・篤敬に譲り隠居。
明治
17
年(
1884
年)
-
戸定邸に居住。
明治
25
年(
1892
年)
-
実子武定、子爵授爵(松戸徳川家の創設)。
明治
30
年(
1897
年)
-
従二位に叙位
[10]
。
明治
31
年(
1898
年)
-
水戸徳川家を後見。
明治
35
年(
1902
年)
-
正二位に叙位。
明治
36
年(
1903
年)
-
勲二等瑞宝章を授けられる。
明治 43
年( 1910
年) -
死去。
従一位、勲一等瑞宝章を受ける [11]
。墓所は茨城県常陸太田市の瑞龍山
( 出典: wikipedia)
~あとがき~
草彅剛さんの「徳川慶喜」は実にはまっていて、実際もこのようなイメージの方であったような気がしてきます。「渋沢栄一」は農家、尊王攘夷志士、一橋家仕官、慶喜家臣、パリ万博、帰国後の 500 に届く会社設立など日本の資本主義や社会福祉などの基盤をつくられた方ですが、個人の能力、道徳観 ( 論語と算盤 ) 、人間的な魅力に加えて、「平岡円四郎」、「徳川慶喜」などの出会いがその後の活躍につながっていると思うと「人との出会い」は本当に大切なことと思いますね。以上
戦国めぐりⅡ~桶狭間の戦いから小牧・長久… 2023.08.01
[戦国めぐりⅡ」(愛知県の城と古戦場を訪… 2023.07.24
「どうする家康」の自分流の楽しみ方です☆… 2023.05.19